(増補版)679E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年10月~1897年11月)

題:(増補版)679E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年10月~1897年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
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1897年10月22日、海軍軍医学校が開校した。
  海軍軍医学校は、大日本帝国海軍において、軍人の医
 療・衛生を担当する軍医、および、看護士・薬剤師を養
 成するために設立された教育機関・・
  医学・薬学・歯学の3コースが設定され・・
  また、、海軍病院を総括指導する軍医を養成する普通
 科・高等科・特修科、医療現場で活動する看護士・技師
 を養成する選修科が設置された。
  ルーツは、1872年、海軍病院に「海軍病院学舎」が増
 設され、11名の医師へ、イギリスから招聘したアンダー
 ソン医学博士によって医術の手ほどきをさせた事が始ま
 りだった。
  9年にわたり医術教育は継続されたが・・
  1881年、第1回卒業生が送り出された機に、アンダーソ
 ン博士が帰国した、そのため、教育は続行不能となった。
  高木兼寛医務局副長を中心とする日本人医療スタッフ
 らは自ら教鞭をとった。
  1882年の翌年、海軍医務局学舎が立ち上げられた。
  そして、10名の医師の指導が始められた。
  また、軍医官依託学生制度を新設し、東京帝国大学
 学部生7名を候補に挙げた。
  1886年、「海軍医学校」と改称され、ほぼ同時に、芝
 山へ移転した。
  海軍病院と離れたことから、臨床実験や実習は隣接す
 る東京慈恵医院の協力を得た。
  因みに、高木兼寛は、海軍生徒として英国セント・ト
 ーマス病院医学校(現:ロンドン大学群キングス・カレ
 ッジ・ロンドン医学部)で学んだ。
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1897年10月25日 新橋駅の出発信号機、および、場内・遠方
 信号機と上下本線の転轍器とが、連動方式に切り換えら
 れた(インターロッキング方式)
  インターロッキングは、ある操作を行う時、誤操作や
 確認不足により、適正な手順以外による操作が行われる
 のを防止したり・・
  正常な製造・運転の行われる条件を逸脱した時、自動
 的に当該設備に対する原材料等の供給を遮断するなど・・
  製造や機器の運転を制御するもの・・
  具体的には、インターロック機構として保安上、重要
 な部分の運転を制御する計装回路に組み込まれている。
  例えば・・エレベータで、各階全ての扉が全て閉じて
 いなければかごは移動しないとか・・
  ボイラーで、燃料や水位が低い時には燃焼を始めない
 とか・・
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1897年10月31日、進歩党代議士総会で、松方内閣との協力
 関係の断絶が決議された。
  1897年3月、第10回帝国議会に於いて、行政処分を全廃
 する新聞紙条例改正案が成立した。
  これは、進歩党が、行政処分を全廃する新聞紙条例緩
 和を求めていたからであった。
  しかし、長州閥の山県系の清浦奎吾司法大臣らが反対
 し、野党であった国民協会も全廃には比例的だった。
  この様な状況下で、伊藤の宮中支配を攻撃した「二十
 六世紀」が発行禁止になった・・
  また、これを転載した「日本」も発行停止となった。
  進歩党はこれに反発した。
  また、進歩党と協調を目指した薩摩閥の有力者が同調
 して、新聞紙条例の改正案の成立に至った。
  しかし・・
  1897年10月に至って、松方内閣は、進歩党の要求して
 いた四ヶ条の要求を拒否した・・これに対して進歩党は
 提携断絶を決議した。
  進歩党の要求した四カ条は・・内閣改造、政費節減、
 台湾統治の方針変更、立憲政体の運用の完備(対議会策
 を改め議員の腐敗を予防、選挙法罰則追加、政務官と事
 務官の区別の明確化)
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1897年10月31日、中越鉄道の福光駅~城端駅間が開通した。
  中越鉄道は、富山県で現在の西日本旅客鉄道(JR西日
 本)城端線、及び、氷見線日本貨物鉄道JR貨物)新
 湊線を建設・運営していた私設鉄道のこと。
  城端線(じょうはなせん)は、富山県高岡市高岡駅
 から富山県南砺市城端駅に至る西日本旅客鉄道(JR西
 日本)の鉄道路線地方交通線)のこと。
  氷見線(ひみせん)は、富山県高岡市高岡駅から富
 山県氷見市氷見駅に至る西日本旅客鉄道JR西日本
 の鉄道路線地方交通線)のこと。
  新湊線(しんみなとせん)は、富山県高岡市能町駅
 と高岡貨物駅とを結ぶ日本貨物鉄道JR貨物)の鉄道路
 線のこと。
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1897年10月31日、政府が、休止中の釧路鉄道(標茶駅~跡佐
 登駅間)を買収した。
  釧路鉄道会社と政府の間で19万9000円で買収契約が締
 結され、釧路鉄道は解散した。
  釧路鉄道は、北海道東部の硫黄山で産出される硫黄の
 輸送を目的として鉄道路線を運営した。
  硫黄鉱山の専用鉄道として建設された路線を継承し、
 北海道内では2番目(北海道の私鉄では最初)の鉄道事業
 者となった。
  鉱山を経営していた安田財閥によって建設・運営され
 たが、鉱山を保有した山田銀行(本店・函館)への貸し
 付け分が問題を生じて回収され、安田財閥としての硫黄
 の採掘が中止された。
  そのため、開通から10年足らずで事実上の廃止となっ
 た。
  短期間であったが、安田財閥の強固な財務基盤は、こ
 の釧路の硫黄鉱山によって形成なされた。
  また、硫黄鉱山の開発によって釧路の石炭産業(現:
 太平洋炭鉱)、釧路港根室銀行(後:安田銀行、現:
 みずほ銀行)開設と釧路地域開発がなされた。
  これまでの経緯は・・
  1872年、佐野孫右衛門によりアトサヌプリ山麓の硫黄
   山で硫黄採掘が始まり・・
   佐野孫右衛門の亡き後は・・
   函館の山田銀行に譲渡され・・
  1887年、融資を受けていた安田善次郎に譲渡された。
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1897年10月、李氏朝鮮が、日清戦争での日本の勝利により、
 鎖国体制の幕を閉じ・・清の属国から500余年ぶりに独立
 し、「大韓帝国」を誕生させ、初めて独立国家「光武」
 という年号を使うようになった。
  1907年、純宗(じゅんそう、李朝の第27代の王)は、
   軍隊の解散を命じたが・・
  1909年9月、韓国軍の中から36名を選抜し、日本の中央
   幼年学校に入学させた。
   その中に、後の陸軍中将・洪思翊(こうしよく)も
   いた・・この翌年の・・
  1910年、日韓併合によって日本と併合したが、この時、
   彼らは、対応を協議し、学業を継続し訓練を続行し
   た。
   洪思翊は、陸軍大学を卒業し、中将まで昇進した。
  太平洋戦争中、洪思翊中将は、フィリピンで捕虜収容
 所の所長の任務に当たっていたことから、東京裁判の裁
 判にかけられ、処刑された・・
  日本の軍人として中将まで昇進し、立派に戦い、戦後、
 処刑された韓国の軍人も居たことを・・韓国の加耶大学
 の崔基鎬(チェ・キホ)教授は、自著に記述する・・
  それにしても、捕虜として収容した日本の軍人として
 戦った人を殺すという行為は、捕虜虐待である。
  捕虜を虐待したと言う事で、捕虜にした人間を殺すと
 いう行為が正義として行われた戦勝国側の自分勝手があ
 ちこちでこの蛮行が行われていた。
  勝った国が、捕虜になった敗者側の人間を『勝手に殺
 す正義』などある訳がない。
  また、この洪思翊中将もそうだが、朝鮮出身の日本軍
 人として初めて「金鵄(きんし)勲章・功三級」を授与
 される武勲をたてた金錫源(きんしゃくげん)将軍は、
 ともに創氏改名はしていない。
  これは当時の「創氏改名」が強制でなかったことを証
 明している。
  また、崔基鎬教授も創氏改名をしなかったが、官・公
 吏または会社・銀行などの要職ではなんら差別を感じる
 ことはなかったと記している。
  「強制された」というのは、嘘のプロパガンダである。
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1897年11月2日、松方内閣が、進歩党代議士総会に出席した
 進歩党出身の尾崎行雄志賀重昂らを免官した。
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1897年11月2日、北海道庁官制が改正された(勅令第392号)
  北海道庁に鉄道部を設置し、建設・保存・運輸・会計・
 私設鉄道に関する所管事項を定めた。
  (臨時北海道鉄道敷設部は廃止された)
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1897年11月4日、鉄道作業局福井出張所を金沢に移し、金沢
 鉄道作業局出張所と改称した。
  また、1897年11月17日、同計理部福井派出所を福井出
 納事務所とし、金沢に計理部派出所を設置した。
  1889年、北陸本線が開業した。
  1893年、福井、金沢、富山方面への延伸工事が着工さ
   れた。
  1896年、敦賀駅福井駅間が開業し、北陸線命名
   れた。
  1897年11月4日 鉄道作業局福井出張所を金沢に移した。
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1897年11月5日、入場切符(入場券)が発売される。
  発売駅は、新橋・品川・横浜・名古屋・京都・大阪・
 三ノ宮・神戸・金沢・横須賀、
  料金は2銭、通用は発売当日限り。
  因みに、日本で初めて入場券販売を行ったのは、1897
 年の山陽鉄道(後の山陽本線を敷設した私鉄)であった
 とされている。
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1897年11月6日、大隈重信が、外相兼農商務相を辞任した。
  1897年3月29日、足尾銅山鉱毒事件で批判を受けていた
   榎本武揚農商務大臣が辞職し、大隈が農商務相を兼
   ねることとなっていた。
    大隈は、次官に大石正巳を就任させるなど進歩党
   員を農商務省に送り込み、
    また、古河鉱業に対して鉱害対策の徹底を求める
   一方で、操業は継続させていた。
  1897年10月、松方首相が、地租の増徴を図る方針をと
   ると、大隈と進歩党はこれに反対した。
  1897年10月31日、大隈は辞表を提出した。
  松方内閣は12月25日に倒れ、後継首相は伊藤博文とな
 った。
  伊藤は大隈に農商務大臣、板垣に法務大臣の地位を提
 示して入閣を求めたが、進歩党は大隈を内務大臣とし、
 更に重要大臣のポストを三つ要求するなど強気の対応を
 行った。
  板垣の入閣も行われず、第3次伊藤内閣は政党の支援を
 得られない形となった。
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  (今日の言葉)
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  題:歴史を知って、過去を考え抜いておくことは、現在の事象が「いつか来た道」に当てはまるかどうかで
    未来の危険度をはかろうとする硬直的な態度よりは、はるかに現実的だと言える。
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712年、古事記・・編纂され、天皇陛下へ献上された。
  この日本最古の歴史書太安万侶(おおのやすまろ)
 により編纂され、元明天皇に献上された。
  上・中・下の3巻からなり・・
  天地開闢(てんちかいびゃく)から推古天皇の記事ま
 で記述されている。
  撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
  訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(と
 うかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)
 へむと欲(おも)ふ。
  歴史とは・・歴史は一回性を特徴とする。
  (参考)一回性:いっかいせい、ある事柄が一回しか
     起こらず、再現できないこと。
  故に、1例として・・
  いくら事例を積み重ねても、次に起こりうる戦争の形
 態がこうだと予測することはできない。
  ただ、歴史を知って、過去を考え抜いておくことは、
 現在の事象が「いつか来た道」に当てはまるかどうかで
 未来の危険度をはかろうとする硬直的な態度よりは、は
 るかに現実的だと言える。
     ・
     ・
1807年、択捉襲撃事件・・日本領の択捉島をロシアが襲っ
 た。
  ロシアは、昔から質(たち)の悪い国だった。
  日本の対外外交も、ロシアの質の悪さから見開きだし
 た。
  江戸文化の華やかさの一方、1807年、日本の国交開始
 の拒否の返事に、ロシアは質の悪い暴力をふるった。
  それが、1807年の日本領への択捉襲撃事件だった。
  これを知った平田篤胤は、「千島の白波」で早くもロ
 シア問題を提起した。
  (参考)千島の白波:平田篤胤の択捉事件に関する公
     私の文書を集めた書。
      事件に巻き込まれた当事者の報告や証言、箱
     館詰めの幕府役人が書き送った書状など・・、
  1861年4月には、重ねてのロシアの悪行・・ロシアの戦
 艦・ポサドニック号が対馬の芋崎浦で日本領を占拠する
 という行為を起こした。
  徳川幕府は、外国奉行小栗忠順(ただまさ)を派遣し
 ロシアと交渉したが、ロシアは不敵にも退去せず、居座
 った。
  イギリス艦隊が対馬に、急遽、駆け付け、強硬に抗議
 し、イギリスの武威に屈したロシアは6ヶ月の占拠の後、
 9月に退去した・・勝海舟がイギリスに頼んだのだった。
  実際、この様な事態が、明治の時代になっても起きて
 いた。
  ロシアが、日本領の樺太から南下すること、また、朝
 鮮半島へ侵入する恐れなどの危惧があった。
  明治時代は、この質の悪いロシア問題が最も大きい危
 惧で危機だった。
  1870年5月、「大(おおい)に海軍を創立すべきの議」も
 この質の悪いロシアが最も警戒すべき国と想定していた。
  建白書の中でも・・
  「ロシアは、ヨーロッパとアジア、二つの大陸ににら
 みを利かせようとしている。
  ロシアは、太平天国の乱と、アロー号事件の対応に清
 朝の地を割取してしまった。
  この様な歴史的事実から、ロシアは「実に皇国に於て
 戒心第一の国である」・・と・・
  (参考)戒心:かいしん、油断しないこと。用心。
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19世紀、キリスト教マインド・コントロールされるヨー
 ロッパ人・・
  まだまだ、キリスト教に洗脳されて、世界に怪物が住
 むと思って航海するヨーロッパ人たちだった。
  キリスト教によってヨーロッパ社会は「アジアやアフ
 リカには怪物が住む」と洗脳されていた。
  大航海時代、ヨーロッパ人たちは「怪物に出会わない
 ことを不思議がった」。
  19世紀に至っても「アジア・アフリカに対する蔑視感
 は抜けなかった」。
  日本は、この19世紀の中頃に、欧米列強に国を開き、
 そして、明治となった。
  この様なアジア蔑視感に洗脳された者たちと関わった。
  東洋人・有色人種などへの人権を尊重するというよう
 な輩たちの時代ではなかった・・
  明治となって、国は強くならなければ駄目だと富国に
 励み、また、、国は強くならなければ駄目だと強兵にな
 ることに励んだ。
  欧米列強のアジアやアフリカに対する観点には「発展」
 を見る眼は無く、育てる気配も無かった。
  19世紀はイギリスを先頭とする西欧が世界の頂点に
 立ち、地球全体を強固に一つのシステムに統合しようと
 していた。
  自分たちの「価値観や制度や文明」を押し付ける行為
 ばかりであった。
  基本にアジア人やアフリカ人に対する「蔑視観」があ
 った。
  対象として尊重し、対等な社会や文化だという「同等
 な価値を有する」「独自な意味が存在する」と見る眼は
 まったく無かった・・
  研究したり考えたりしようという意識はまったく無か
 った。
  人類の一員などという見方はまったく無かった。
  人類的資質にまったく欠けるヨーロッパ・アメリカ人
 たちだった。
  特に、ヨーロッパのみに「発展」を認めるという見方
 は、キリスト教に洗脳され、マインド・コントロール
 れていたとは言え「犯罪的であった」。
  ここから様々な悪行為が発生して行った。
  また、ギリシャ文明に起源を求めて、キリスト教の暗
 黒社会から人間性を復活させたというのは自分たちに都
 合の良い言い方だった・・
  ギリシャ文明に先に目覚めていたのはイスラム社会だ
 った。
  ヨーロッパ社会は、その先生たるイスラム社会から知
 識を簒奪(さんだつ)しただけ・・奪っただけ・・
  イスラム世界はアジアだ、また、アフリカだ。
  アジア・アフリカは、ヨーロッパ文明の先生なのだ。
  また、ビザンチンからも奪っている。
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1865年、トルストイの「戦争と平和」が発表され始めた(
 ~1869年)
  帝政ロシア末期の小説家のレフ・トルストイの小説「
 戦争と平和」は、トルストイが36歳の時に書き始め、
 1865年から1869年にかけて雑誌「ロシア報知」に発表さ
 れた。
  そして、トルストイが、自著「戦争と平和」に書いた・・
  「ルイ十四世は、非常に高慢で自信の強い人であった。
  彼にはあれこれの妾がいた。
  またあれこれの大臣がいた。
  彼らはフランスに悪い政治をしいた。
  ルイ十四世の後継ぎもか弱い人々で、彼らもフランス
 に悪い政治をしいた。
  彼らにもあれこれのお気に入りがあり、あれこれの妾
 がいた。
  そのほかに、いく人かの人々が、この頃、本を書いて
 いた。
  しかし、18世紀の終わりには、パリに、すべての人間
 は自由で平等であると言いはじめた二、三十人の人が集
 まっていたにちがいない。
  そのため全フランスで、人々は互いに殺し合うように
 なった。
  また、互いに川に投げ込むようになった」(エピローグ
 第二篇)
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1870年5月、明晰なる明治の日本の官僚は・・
  万国公法に、「自衛権」がある、故に、日本も自衛の
 ための努力をしなければならないとした。
  この時、兵部省は、「至急大(おおい)に海軍を創立し、
 善く陸軍を整備して護国の大勢を立べきの論」・・が建
 白された。
  その要約は・・
  「最近、各国交際の道が開けて、国々は外面では『公
 議』を唱えているが、内面では『私心』を逞しくして、
 他国を併呑したり貿易港を力によって開かせたりしてい
 る。
  よって各国においては、陸海軍を増強してこれに備え
 ている。
  このような動きは、つまるところ万国公法の「自護の
 権」を大きくしようとしている行為なのである・・云々」。
  自衛権という言葉は、この頃には無く、「自護の権」
 として表現されている。
  万国公法で認められている自衛権のため陸海軍を拡張
 することは「独立国家の権利」であり、やるべき必須の
 こととしている。
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1871年12月24日、明治のこの日の日付の建議書にも、ロシ
 アの質(たち)の悪さは書かれていた。
  第二次世界大戦後、日本は、日ソ中立条約を一方的に
 ソ連(現:ロシア)に破られて、満州の日本人開拓農民の
 方々が、ソ連戦車に踏みにじられて、虐殺され、また、
 日本人女性の方々が、ソ連兵に卑劣に強姦をされ続ける
 という痛ましい卑劣な行為がなされ、起きた。
  この様な質(たち)の悪いソ連(現:ロシア)は・・
 明治の時の日本の指導者たちも、この様な質(たち)の悪
 いロシアであると見抜いていた。
  1871年12月24日付、兵部大輔・山県有朋、少輔・河村
 純義、少輔・西郷従道の三名の建議に記された書にも、
 ロシアは「驕傲猖獗(きょうごうしょうけつ)」とか「北
 門の強敵」と書かれていた。
  また、ロシアはよく他国を裏切る国である。
  クリミア戦争(1853年〜1856年)で、イギリス・フラン
 ス・トルコなどの連合軍に敗け、ロシアは、黒海武装
 化する権限を失った。
  1856年のパリ講和条約には、黒海の中立化条項があっ
 た・・しかし・・
  しかし、こんなことはどこ吹く風と、ロシアは、普仏
 戦争でヨーロッパが混乱している隙に・・
  1870年10月、黒海中立化条約をお得意の破棄を一方的
 に宣言した。
  ロシアは、年がら年中、こんなことをしている。
  また、清国の混乱している渦中には、愛琿条約(あいぐ
 んじょうやく)によって黒龍江以北の満州を奪っている。
  (参考)愛琿条約:1858年、アムール河岸の愛琿 (現
     在の愛輝) で、ロシアと中国・清朝との間に結
     ばれた条約。
      太平天国の乱やアロー戦争で清朝が苦しんで
     いるのに乗じ、東シベリア総督 N.N.ムラビヨフ
     が、黒竜江将軍奕山 (えきさん) に迫って結ん
     だ。
      アムール川左岸をロシア領、ウスリー江以東
     の沿海の地をロシアと清の共同管理と決めた。
      次いで、1860年の北京条約で沿海の地もロシ
     ア領となり、アムール川流域からロシア人を締
     出したネルチンスク条約の効果はまったく失わ
     れた。
     ・
     ・
1941年1月、アメリカ政府が、ドイツがソ連侵攻をするとい
 う極秘情報を掴んだ。
  その極秘情報を伝えたウッズは、既に、この前年の1940
 年8月に、ドイツ人友人からその情報を得ていた。
  だから、ドイツのヒトラーソ連を攻撃するだろうと
 いうことは、その半年も前にアメリカは掴んでいた。
  アメリカは、その有力な証拠を持っていた。
  だから、アメリカ政府は、1941年6月22日に、ドイツの
 ソ連進攻が行われた時、アメリカ政府は驚きもしなかっ
 た。
  1941年1月、ドイツのベルリン駐在商務官のサム・ウッ
 ズからアメリカ政府へ極秘の報告があった。
  ウッズの一人のドイツ人の友人は、ナチスの反対者だ
 った。
  この友人は、ドイツ政府の各省、中央銀行、党の高級
 幹部などに深く食い込んでいた。
  この友人が、ヒトラーの指令部で、対ソ戦の準備につ
 いての会議が開かれているということを、ウッズへ1940
 年8月に知らせたのだった。
  それから数週間の後、この情報はさらに具体的になっ
 た。
  ヒトラーは、「ウラジオストックからジブラルタル
 でドイツ軍で埋(うず)めるつもりだ」と言ったという。
  ウッズは、この友人との情報のやり取りは、この友人
 がある機関を通じて二枚の映画館の指定席劵を買い、ウ
 ッズに二枚の切符を送って来る。
  そして、彼の隣りに座り、薄暗がりの中でウッズのポ
 ケットに情報をすべり込ませた。
  ヒトラーが、イギリス空襲をしたり、イギリス侵攻を
 計画をしているという別の有力な情報は、ヒトラーが練
 り上げたソ連進攻を不意に実施するためのカモフラージ
 ュ情報だという情報も得ていた。
  ドイツは、ロシアの地方政治を担当する組織の計画ま
 でしていた。
  これらの経済顧問まで任命されていた。
  情報操作のルーブル紙も大量に印刷されていた。
.
1945年9月6日、トルーマンアメリカ大統領が「日本降伏
 後における米国の初期の対日方針」を承認し、マッカー
 サーへ指令した。
  また、1948年(昭和23年)2月6日付、「ウォー・ギル
 ト・インフォーメーション・プログラム」との表題の文
 書がCI&E(民間情報教育局)からG-2(CIS・
 参謀第2部民間諜報局)宛てに発せられた。
  戦後のアメリカの日本占領の目的は、「日本という国
 の徹底的なる弱体化」にあった。
  それは、アメリカの国務省、陸軍、海軍の三省が合同
 で作成した「日本降伏後における米国の初期の対日方針」
 に明らかである。
  そして、その重点課題が「日本人の精神的弱体化」だ
 った。
  そのためにやることが「歴史の歪曲」と「アイデンテ
 ィティーの喪失」だった。
  アメリカに、その様な事をしなければならないと思わ
 せた出来事が、第二次世界大戦の末期、日本の見せた戦
 い方だった。
  「神風特攻隊」「沖縄決戦」「硫黄島決戦」などだっ
 た。
  アメリカに、これらのことごとが大きなショックを与
 えた。
  日本の戦闘員の人々が見せた驚異の自己犠牲の精神、
 アメリカに、これが「一番恐れさせた」。
  アメリカは、戦後、この精神を崩すことを最大の目標
 とした。
  ここに主眼が置かれた。
  学校教育の歴史教育がターゲットとされた。
  そのために、1945年12月15日、アメリカ占領軍(GHQ)
 から「神道指令」(国家神道神社神道に対する政府の保
 証・支援・保全・監督ならびに弘布の廃止に関する件・・
 指令)が出された。
  これによって、政治家はキリスト教会などへ行っても
 良いが、神社へ行っては駄目だとされた。
  こと細やかにアメリカは指示した。
  アメリカ自身、政治に宗教的なことがあちこちでやっ
 ているのに、日本はこと細やかに禁止された。
  後に、「神経質な政教分離」で、日本が異常となる素
 地がここにあった。
  アメリカ人や西欧人には、国力の根元には必ず宗教が
 関わっているという見方をしていて・・故に、自国では、
 宗教を神経質に排除するなどという行為は行なっていな
 い・・しかし、日本ではやった・・
  GHQ指令に端を発する政教分離の名における神経質
 な宗教排除をする日本となっている。
  そして、これが、皇室の伝統にまでおよび、その影響
 が蔓延(はびこ)り、広がっている。
  「日本の伝統の破壊」、「国力の弱体化」の目的は達
 しつつある。
  日本は、政教分離条項の特例条項(実施可能条項)を設
 定すべきである。
.
1948年8月、日本人を馬鹿にしたアメリカの指示による識字
 率調査が行われた・・結果は、識字率:97.9%
  アメリカの日本に対する蔑視観から「漢字を廃止せよ」、
 英語化への目論見(もくろみ、くわだて)がなされた。
  「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字
 率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という
 のがアメリカの屁理屈・・アメリカの偏見があった。
  アメリカのGHQのジョン・ペルゼルが、日本語の漢
 字を止めて、ローマ字にせよとの計画を出した。
  また、わざわざアメリカは、「アメリカ教育使節団」
 を日本に送り込んだ。
  その報告書に、漢字全廃があった・・
  また、日本の仮名よりもローマ字のほうに利が多いと
 「浅はかな断定」がなされた。
  さらに、ローマ字は民主主義的市民精神と国際的理解
 の成長に大いに役立つと、自画自賛した。
  そこで、日本人の識字率を調べる事となった。
  正確な識字率の調査のため、民間情報教育局は国字ロ
 ーマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指
 示した・・(統計処理は林知己夫が担当)。
  1948年8月、文部省教育研修所(現:国立教育政策研究
 所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の日本人の
 老若男女を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み
 書き能力調査」が実施された。
  その結果は、驚くべき識字率の高さであった。
  日本は、遠い昔の平安時代の女性に、文学の華が開い
 た様に教育に熱心な国柄・・
  江戸時代にも藩校の多さが素晴らしかったが・・当時、
 世界一の教育国の日本・・
  この調査においても・・その結果は、漢字の読み書き
 ができない者はわずかに2.1%だった・・
  97.9%の識字率・・
  当然の様に、日本人の識字率が非常に高いことが証明
 され、アメリカに知らしめた。
  柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率
 低い結果でないと困る」と遠回しに言われた。
  しかし、柴田は「結果は曲げられない」と突っぱねた。
  日本語の仮名廃止の、ローマ字化は撤回された。
  (参考)柴田武:しばたたけし、1918年7月14日~2007
     年7月12日、日本の言語学者国語学者
      東京大学名誉教授、埼玉大学名誉教授。文学
      博士。愛知県名古屋市生まれ。
  こんな事をしたアメリカよ、自国のテストをせよ・・
  アメリカ(米語)をテストする・・
  日本の芭蕉の俳句・・
  「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡(あと)」。
  この俳句は10文字から出来ている。
  音は17音である。
  この深い意味をアメリカ語(米語)で表現してみなさい。
  句の奥深い背景も感じさせる様に書いてみなさい・・
  米語で10文字でどこまで表現できるか試してみなさい。
  10文字では全く表現できないでしょう・・
  如何(いか)に米語が劣っているかが分かるでしょう・・
 悟れるでしょう・・
  戦後、アメリカが黄色人種の蔑視で日本語を劣ったも
 のとして、米語にしろと命令したが、そうではないと分
 かったでしょう。
  逆に、「米語を日本語に変えるべきだと悟ったでしょ
 う」・・
  その他でも・・日本の国体を破壊しようという工作は
 しないこと!!
.
1994年、QRコードが発明された。
  QRコードを発明したのは・・日本人・・
  この便利なものを発明した日本人は、この特許権を世
 界に公開した。
  世界の方々が便利に豊かに幸せになればそれで良いと、
 特許権の独占的行使の権利を放棄した。
  世界の方々はそれによってどれ程の豊かさを得たとい
 うのか?
  この日本人に本当に感謝せねばならない。
  この様なことに思いも及ばずに過ごさないこと。
  この様な世界の人々を豊かにする発明をする日本人は
 数多い。
  例えば、青色発光ダイオード、これによってどれ程の
 電気が節電できているというのか?
  多くの電気をこれによって生み出されていると言える。
  この様な日本を「省エネルギーをしていない」などと
 批判してはいけない。
  QRコードは、そのたった一つで「びっくりする位の
 情報量が送れる」。
  たった一つの四角の中に膨大な情報が入っている。
  パターン認識が為(な)されている。
  ある種の表意文字と言える。
  日本語の優れているところは「表意文字表音文字
 持っているところ」。
  情報量の多い表意文字へ導く表音文字で、そのシステ
 ムで、日本語は、豊かな、そして、意味深い情報を送っ
 ている。
  表音文字だけの「米語、英語」の遅れた言語とは違う。
  また、表意文字だけの「中国語」の遅れた言語とは違
 う。
  QRコードへ近づくことのできる無限の可能性を持っ
 た表意文字を持つ日本語。
  この無限の優秀さを秘めた日本語を、アメリカは、戦
 後、日本人に日本語を使用することを止めさせ様とした。
  戦勝国の横暴さで「日本人に日本語を使うことを止め
 よ!!」と言った。
  「日本人は米語を使いなさい!!」の姿勢だった。
  この卑劣な横暴さに泣いた国がフィリピンだった。
  フィリピンは公用語を「米語にさせられた」。
  暴力である・・アメリカの強烈な暴力で強引に米語に
 させられた。
  可哀想に、フィリピンの方々は意思の伝達が出来なく
 なった。
  アメリカは、この様な卑劣な状態を無視し、看過した。
  アメリカは非情だった。
  アメリカは、フィリピンの方々が米語になれば自分た
 ちはそのままで意思伝達が出来るので便利だとそんな卑
 劣な考えにいた。
  後に、フィリピン方々はあまりの卑劣な状態を改善し
 ようと「フィリピンの元のフィリピン言語も公用語とし
 た」。
  アメリカは、逆に、アメリカが使用している米語を日
 本語やフィリピン原語にしてみなさい。
  今まで生活に使用していた言葉を「使用するな」と強
 引に抑えつけられる痛みを実感してみなさい!!
  その卑劣さが分かるだろう。
  また、日本語の優れていることをより深く理解するこ
 とに努めなさい。
  そして、日本語の良さを取り入れなさい。
  日本語は今まで柔軟に他言語の良さを取り入れて来た
 長い歴史がある。
  その経緯の中で、非常に優れた日本語に磨きをかけて
 来た。
  それを見習いなさい!!
  アメリカよ!! 遅れた自分たちが変わりなさい!!

2020年、1時間もあれば、すべてを覚え切ってしまう26文字
 しか知らない民よ! 日本語の表意文字を取り入れよ!!
  それによってより深い表現力が君たちに付くだろう。
  また、より深い思索の領域に入っていくことが出来る
 だろう。
  日本語の表意文字は、その一字一字自体が「QRコー
 ド」のように情報が含まれ深さを表わしている。
  その一字だけで深い意味が秘められている。
  戦後、日本語は文字が多くて劣っていると、アメリ
 が日本語を廃止しようとしたことがあったが、まったく
 愚かな行為で浅はかな見方だった。
  完全に黄色人種への蔑視観があった・・キリスト教
 洗脳された見方があった。
  (参考)QRコード:1994年、日本の自動車部品メー
     カーであるデンソー(愛知県)の開発部門(現:
     デンソーウェーブ)が発明したマトリックス
     二次元コード
      高速読み取りを目的の1つとしている。
      トヨタ生産方式「カンバン」(ジャストイン
     タイム生産システム)において、自動車部品工
     場や配送センター等での利用を念頭に開発され
     た。
      誤り検出訂正の能力が高く、また、オープン
     ソースとされたことから、トヨタのサプライチ
     ェーンの範囲から飛び出して独り歩きを始め、
     現在では日本に限らず世界に広く普及している。
      例えば、発明時には、民間においてインター
     ネットやスマートフォンが普及していなかった
     が、それらを用いる「QR決済」が現在、国に
     よっては主要な電子決済の地位を占めるように
     なっている。
      日本国内のテレビ局が、放送画面上にQRコ
     ードを提示して、自らのメディアであるテレビ
     放送とは異なるメディアのインターネットに誘
     う手法、あるいは、雑誌などの紙媒体にQRコ
     ードを提示してインターネットに誘う手法もし
     ばしば見られ、旧来のメディアと新しいメディ
     アのインターネットとの融合に用いられる例も
     多い。
      デンソー開発部門の原昌宏により1992年から
     新たなコードの開発がスタートし・・ 原が昼休
     憩の時間中に社内で打っていた囲碁をヒントに、
     開発目標としてコードの情報量を増やすだけで
     なく「正確に速く読み取れること」、また、油
     などの汚れがつく自動車関連工場で使われるこ
     とを想定し、汚れや破損への強さにもこだわり、
     2年の開発期間を経て1994年に完成した。
      QRコードが普及するよう敢(あ)えて特許
     をオープンにすることとし、規格化された技術
     に対して特許権を行使しないと宣言した。
      QRコードの開発チームは、2014年に、欧州
     特許庁が付与する欧州発明家賞を日本で初めて
     受賞した。
.
2020年2月5日、逗子の市道脇の崖が崩落し、18歳の女子高
 校生が亡くなった。
  読売新聞によると・・5日午前8時頃、神奈川県逗子市
 池子の市道脇の斜面が崩落し、歩道を歩いていた女子高
 校生(18)が土砂の下敷きになった。
  生徒は約20分後に救出されたが、搬送先の病院で死亡
 した。
  現場周辺はがけ崩れなどの恐れが有る『土砂災害警戒
 区域」に指定されているが、道路を管理する同市には崩
 落の前兆現象などの情報は寄せられておらず、市や県警
 逗子署などが原因を調べている。
  市などによると、斜面は高さ約15メートルで、斜面の
 上にはマンションが立っている。
  市道から約7メートルの高さまで石垣が補強されている
 が、その上にある樹木に覆われた約2~3メートルの民有
 地の一部が幅約13メートルにわたって崩れ落ちた。(中略)
  「凝灰岩」風化、原因か・・神奈川県逗子市の土砂崩
 れは、大雨や地震がない中で突然起きた。
  専門家は、火山灰などが固まってできた「凝灰岩」が
 風化してもろくなり、崩落した可能性を指摘する。
  横須賀市自然・人文博物館の柴田健一郎学芸員による
 と、現場周辺は、火山灰などが約400万~約250万年前に
 堆積(たいせき)してできた凝灰岩が広く分布している。
  東京電機大の安田進名誉教授(地盤工学)は、「凝灰
 岩は地表面で風雨にさらされたり、寒暖によって膨張と
 収縮を繰り返したりすると、風化を起こして崩れやすく
 なる」と話す。
  斜面は通常、大雨で地盤が緩んだり、地震で強い衝撃
 が加わったりすると崩れやすい。
  ただ、風化が激しい所では、風による樹木の揺れや、
 大型車両が付近を通る振動などが引き金になることもあ
 るという。
  安田さんは「今後、同様のことが周辺で起きる可能性
 はある。
  早急に地盤の点検を行い、補強工事など適切な対策を
 取るべきだ」と指摘した。
  この時、小生がテレビの報道を見て、まず、感じた事・・
  題:崖崩れの二次災害を恐れる・・
  逗子で崖崩れがあった。
  可哀想にその崖の下の公道を通行していた18才の若
 者が亡くなった。
  救助の方々が、その土砂の排除に大勢の方々の素晴ら
 しい姿が見られた。
  しかし、映し出されたその崩落したその崩の不安定さ
 が感じられる状況に心配となった。
  二次災害が起きなければ良いがと感じられ、思わず祈
 った。
  この様な状況判断をする体制はどの様になっているの
 か・・と思った。
  万一の「再度の崩落」に備える措置を講じてから救助
 するという方策は準備されているのか・・と思った。
  画面には、自分たちの二次災害の危険を顧みず救助行
 動を一生懸命にされている方々の美しい姿があった・・
  二次災害への配慮の体制や装備は・・どうなっている
 のか・・
  あの崖は地山(じやま)ではないのではないか・・?
  その様に見えるのです・・
  (参考)地山(じやま):人為的な盛土などが行われ
     ていない、自然のままの地盤のこと。
  近接するマンションの建設に伴う「埋め戻し土」であ
 って・・しっかりした地山ではないのではないか・・?
  土と石が混じる崩れ易い埋め戻し土の様に見え、そし
 て、思える。
  事故が再発しなければよいがと祈った。
  だから、マンションのところが崩れた・・と思えた。
  地山のところと同じ形状で崖を構築したのではないか・・?。
  見た目を同じにし、埋め戻し土だという配慮がなされ
 ていないように見えた・・
  (追伸)崖側に歩道があったことが不幸であった。
      マンション建設時に、建物から何メートルま
     で掘削し、崖のどの範囲までが掘削しての埋め
     戻し部なのか?・・
      だから、崖の上部にその埋め戻し土部があっ
     たのではないか?・・
      その部分が崩落を起こす切っ掛けの原因にな
     ったという様な事はなかったのか?
      マンション建設時の掘削振動が崖の地山を弱
     めなかったか?
      今後の対策として、ある程度の「安定のり面」
     にする必要があるのではないか?・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)678E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年9月~1897年10月)

題:(増補版)678E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年9月~1897年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年9月、鹿児島線八代駅~鹿児島駅間の測量に着手し
 た。
.
1897年9月、山陽鉄道会社が、一部の客車に電灯を設備する
 こととした。
  その電力の供給は電池だった・・
  1898年(明治31年)蓄電車を連結し・・
  1899年(明治32年)発電車を整備し、旅客列車に連結
   して電力を供給した。
.
1897年10月1日、金本位制が実施される。
  1897年3月26日、貨幣法が公布され、金本位制が確立さ
   れ・・
  1897年10月1日、貨幣法が施行され、金銀本位制が始ま
   った。
  貨幣法公布時の閣議書・・
  貨幣法、貨幣整理資金特別会計法ヲ定メ、明治十七年
 第十八号布告兌換銀行券条例、明治十八年第十四号布告・
 (紙幣漸次銀貨ニ交換ノ件)・中ヲ改正シ、明治十二年
 第三十五号布告・(貿易一円銀、洋銀並価通用ノ件)・
 ヲ廃止ス
  (参考)貨幣法の重点は、価格の度量標準の法定、お
     よび、貨幣の鋳造・発行の国家独占(造幣高権)
     の規定・・(貨幣の種類・価格の単位・品位・
     量目などを定めた)
      「純金ノ量目七百五十ミリグラムヲ以(もっ)
     テ価格ノ単位ト為(な)シ之(これ)ヲ円ト称」し、
     円の100分の1を銭、銭の10分の1を厘と定めた。
      貨幣法に基づいて鋳造されることになった金
     貨、銀貨、ニッケル貨、青銅貨の貨幣9種のうち、
     金貨3種は無制限法貨、他は補助貨とされ、また、
     銀兌換(だかん)をもって発足した兌換銀行券条
     例は金兌換と改正された。
      1897年の日本の貨幣法は、金本位制確立に伴
     い公布された・・が・・
      1938年になって、別に臨時通貨法が公布され、
     その後発行の補助貨や政府紙幣はこれに準拠し
     た。
      1987年、管理通貨制度に即して廃止された。
.
1897年10月1日、筑豊鉄道会社が、九州鉄道会社と合併し、
 筑豊鉄道会社は解散した。
  筑豊鉄道会社(筑豊興業鉄道)は、筑豊炭田の発展を
 後押しした麻生グループの鉄道網だった。
  筑豊興業鉄道は、筑豊の炭鉱主たちが発起した鉄道だ
 った。
  筑豊炭田は、炭鉱の数は多くても、そのそれぞれの経
 営規模は小さかった。
  故に、実際に出資できる炭鉱主は、ほんの数人しか居
 なかった。
  1889年7月21日、免許が交付された・・が・・この時、
 資本の50%以上が、堀田正養子爵を筆頭にした東京や大
 阪の有力者の出資だった。
  この様な時、麻生太吉は、会社の設立当初、全体の6番
 目、福岡県人としては2番目の株主となっている。
  太吉は、この後も、取締役として経営に参画した。
  筑豊炭田発展という目標があった。
  筑豊興業鉄道は、この頃としては異例の早さで事業展
 開をして行った。
  1891年8月30日、若松駅直方駅が開業・・
  1893年7月3日、若松駅飯塚駅間の全線が開通。
  その後、各区間が次々と開業・・
  明治末期に至り、筑豊全体にわたる鉄道網をほぼ完成
 させた。
  麻生太吉は、筑豊興業鉄道にとどまらず、筑豊の鉄道網
 のさらなる拡充を図った。
  1895年、筑豊興業鉄道が、筑豊鉄道と改称する。
  1897年、九州鉄道と合併。
  1907年、国有化。
  1917年、セメント事業の源となる九州産業を買収・・
   また、弓削田石灰工場の経営開始・・
  1919年、九州産業鉄道を設立し・・筑豊横断鉄道の建
   設に乗り出した。
    中元寺川鉄橋の架設や入水トンネルの開削などの
   難工事を完成させ・・
  1926年7月、芳雄駅(現:新飯塚駅)までの全線を開通。
   1933年の山陰本線の全線開通より早かった。
.
1897年10月12日、大韓帝国へ国号を改めた。
  李氏朝鮮の国王の高宗が、自主独立の国として国を整
 え示すため、国号を大韓帝国と改称し、自ら皇帝に即位
 し、皇帝専制政治が行なわれた。
  この国号の変更の動機は、日清和平条約によって清朝
 との宗属関係が消滅したと判断したからだった。
  そして、中国・清の冊封体制からの離脱したことを示
 すためだった。
  朝鮮王朝の堕落した状態から脱したいとしたが・・
  政治・経済機構は、まったく変更されなかった・・そ
 のまま朝鮮王朝の状況が続いていた。
  この帝国は、高宗、純宗と2代の14年間にわたった・・
  日露戦争の頃から、親日派政権となった。
  1904年、日韓議定書が調印され、日韓の協力関係が強
 くなった。
.
1897年10月12日、日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ)が
 創業した。
  創業者の山葉寅楠が、静岡県浜松市で1台の壊れたオル
 ガンを修理したのをきっかけににして操業を開始した。
  1887年、浜松尋常小学校の壊れたオルガンの修理に成
   功したところからオルガン製作を決意した。
  1889年、浜松に合資会社・山葉風琴製造所を設立した。
  1897年10月12日、資本金10万円で日本楽器製造株式会
   社を設立し、初代社長に就任した。
  1900年、ピアノの製造を開始・・
  1949年、東京証券取引所に株式を上場した・・
  1954年、オルガンの教室を開講(ヤマハ音楽教室の前身)
  1955年、オートバイ部門をヤマハ発動機株式会社とし
   て分離・・
  1958年、メキシコの最初の海外法人ヤマハ・デ・メヒ
   コを設立した。
  1959年、電子オルガン(エレクトーン)の製造を開始・・
  1960年、アメリカに販売子会社を設立・・
  1962年、レクリエーション事業を開始した。
  1964年、リビング用品の製造を開始(FRP製バスタ
   ブ)
  1965年、管楽器の製造を開始・・
  1966年、財団法人ヤマハ音楽振興会を発足する・・
      西ドイツに販売子会社を設立・・
  2008年、オーストリアのピアノメーカー ベーゼンドル
   ファー社を買収
    フランスの業務用スピーカー製造・販売会社 ネキ
   ソ社を買収
.
1897年10月13日、文部省が、箝口訓令を発布した。
  教育団体や教師に対し政論を禁止する訓令(文部省訓
 令第十一号訓令)を発す(1893年10月説あり・・第九号
 公布か?)
  その内容・・
  「教育は政論の外に立つべき者たるに因り、学校教員
 たる者は明治二十二年十月九日文部省訓令・明治二十五
 年十二月十五日内訓の旨を注意することに怠らざるべし。
  教育会の名称に於ける団体にして、純粋なる教育事項
 の範囲の外に出て教育上又は其他の行政に渉り持論を論
 議し、政事上の新聞雑誌を発行するは一種の政論を為す
 者と認めざるを得ず。
  因ては其の団体は、法律上の手続を履み、相当なる政
 論の自由あると否とに拘らず、学校教員たる者の職務上
 の義務は此等団体の会員たるを許さざる者とす」
.
1897年10月14日、犬の運賃改訂(逓信省告示第302号)
  10月15日施行
  1頭につき、
     25マイルまで20銭、
   50マイルまで35銭、
  100マイルまで55銭、
  100マイル以上は、50マイルもしくは50マイル未満ごと
   に20銭)
.
1897年10月16日、大韓帝国に国号を改めた国王の高宗が、
 中国・清から独立し、中国との宗属関係断絶を決めた。
  下関条約により李氏朝鮮は清から独立した。
.
1897年10月20日、高宗の第7男子・李垠(りぎん、イ・ウン)
 が誕生した。
  母は露館播遷で同行した女官・厳氏(厳妃)
  異母兄の李坧が即位する(純宗)と皇太子となった。
  1907年、満10歳(数え年11歳)の時、伊藤博文を中心
 とした日本政府の招きにより、留学目的で訪日した。
  1908年、学習院へ入学した。
.
1897年10月20日、豊州鉄道の後藤寺駅~豊国駅間、および、
 後藤寺駅~起行駅間が開通した。
  豊州鉄道(ほうしゅうてつどう)は、田川地域の石炭
 搬出を主目的として設立された福岡県と大分県で路線を
 建設して運営した鉄道事業者・・
  1890年11月19日、行橋駅四日市駅豊前善光寺駅)、
   行橋駅伊田駅・香春駅の免許を受ける。
  1895年4月、小倉駅~行橋(ゆくはし)駅間が開業し、
  1897年9月、行橋駅柳ヶ浦駅間が開業した。
  1901年9月3日、九州鉄道会社に吸収合併された。
  1907年、鉄道国有法により国に移管され、小倉駅~柳
   ヶ浦駅間は豊州線となる。
.
1897年10月21日、台湾総督府官制が公布された。
  1895年、下関条約が結ばれ、日本の台湾の領有ととも
   に、台北に行政機関として台湾総督府がおかれた。
  1896年、台湾総督府条例に基づいて、総督は陸・海軍
   の大・中将とされ、民政、軍政、軍令の全権を統轄
   した。
  1897年10月21日、台湾総督府官制が公布された。
  1919年、官制改革に伴って文官の総督が任命されるよ
   うになり純民政機関となった。
   各種の農産加工業が育成され、交通・通信・教育な
   どの近代化が推進された。
.
1897年10月21日、釧路線の池田駅~帯広駅間が開通した。
.
1897年10月21日、アメリカのアジア艦隊の司令官の交代が
 おこなわれた・・
  1897年に、海軍次官に起用されたセオドア・ルーズベ
 ルトは、ウィリアム・マッキンリー大統領に進言した・・
  「わがアジア艦隊は、マニラ湾を封鎖し、できれば占
 領すべきです」・・と・・
  そして、同じ考えである「太平洋でのアメリカの商業
 的優位を保つため、ハワイ諸島を支配し(占領し)、サ
 モアも影響力を持たねばならない」と主張した仲間であ
 るヘンリー・カボット・ロッジ上院議員を作った。
  そして、1897年10月21日のこの日、アジア艦隊司令
 の首のすげ替えが行なわれた。
  ジョン・D・ロング司令官を解任し、ジョージ・デュー
 イ准将を新司令官になった。
  だいとうりょうは、新しい司令官に指示を出した・・
  「戦争が勃発したら、直ちに、スペイン艦隊を攻撃し
 ろ」・・と・・
  そして、「フィリピンのマニラ湾の制海権を手に入れ
 ろ」・・と・・
  この後、フィリピンの持ち主であるスペインと、戦争
 を行なう事になるアメリカは、この様な早い時期に、戦
 争をすることを、既に、決めていた。
  当然、戦争になれば、強力なアメリカの前では、スペ
 インは、打ちのめされるだけだった・・
  スペインとアメリカの戦争は、1898年のこの翌年に起
 きる。
  この時、日本は、アジアの弱小国の一つぐらいにしか
 見られていなかった。
  また、この時、このスペインが持つキューバにも、ア
 メリカの領土欲が及んでいた・・
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国が日本のマスメディアを操作している・・
    この様な「金を使った中国の操作・工作」が多岐にわたって行われている・・
    そして、それほどまでに、日本の技術が、アメリカの心胆を寒からしめた・・
.
4世紀~9世紀、沖ノ島で、この時代頃の生活用土器、金属
 器、祭祀品などが発見された。
  沖ノ島は、福岡県北部、宗像市に属する玄界灘の島。
  古くから島全体が「神宿る島」とされ、人々の信仰の
 太守になっている・・
  宗像大社沖津宮の境内で、一木一草一石たりとも持ち
 出し禁止、島で見聞きしたことを口外したりしてはいけ
 ない、女人禁制などの禁忌を守り、神職一人が交代で常
 駐している。
  全島玄武岩で構成され、海岸には海食崖が発達・・
  近海がタイなどの漁場であるため最盛期には漁民が仮
 小屋に泊まる。
  1954年からの三次にわたる学術調査によって4~9世紀
 の生活用土器、金属器、祭祀品などが発見され、古来、
 大陸との交通で果たした役割などが明らかにされた。
  出土した装飾品などは、総べてが国宝に指定された。
  2017年、沖ノ島全島、および、周辺の小屋島、御門柱
 (みかどばしら)、天狗岩の三つの岩礁が、「『神宿
 島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」として、国連教育科学
 文化機関UNESCOの世界遺産文化遺産に登録され
 た。
  全島を覆う原始林は、亜熱帯性植物の北限として国の
 天然記念物に指定されている。
  面積 0.69km2。周囲約 4km。
  日本を取りまく海・・この海は隔(へだ)てる海域では
 なく、あらゆる方法から、東アジアから多種多様な文化
 やモノを運ぶことのできる道だった。
  沖ノ島は、「海の正倉院」と言われる。
  その国際性豊かな豪華な遺物が豊富に発見される。
  この沖ノ島に、海上を渡ってあらゆる方向から品々が
 やって来ていた。
  朝鮮や中国のものの他に、「ペルシャのもの」も確認
 されている。
  沖ノ島は古来より神聖な場所として、信仰の対象とし
 て、様々な時代の祭祀の跡もある。
     ・
     ・
9世紀、「ひらがな」という日本独自の文字が作られた。
  平安時代の女性がこの便利な文字を使った。
  女子による平安文学が花開いた。
  そして、この時期に「カタカナ」も生まれた。
  仏門の僧がよく字を書いていたが、素早く文字を書く
 ために生んだ文字・カタカナだった。
  (参考)吉備真備(695年~775年)が片仮名を作った
     という説があるが、これは俗説に過ぎない。
  漢字の一部を使い、その文字の代わりとして用いるこ
 とは7世紀中頃から見られるが、片仮名の起源は9世紀初
 めの奈良の古宗派の学僧たちの間で漢文を和読するため
 に、訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し
 付記したものに始まると考えられている。
  この借字は、当初、経典の行間の余白などにヲコト点
 とともに使われていた。
  それが小さく素早く記す必要から、字形の省略・簡化
 が進んだ結果、現在見る片仮名の原型となり、ヲコト点
 に成り代わって盛んに訓読に利用されるようになった。
  片仮名は、その発生の由来から、僧侶や博士家などに
 よって漢字の音や和訓を注記するために使われることが
 多く、ごく初期から漢字仮名交り文に用いた例も見られ
 る。
  後には、歌集や物語をはじめ、一般社会の日常の筆記
 にも使用範囲が広がったが、平仮名で書かれたものが美
 的な価値をもって鑑賞されるに至ったのと比べると、記
 号的・符号的性格が強い。
  当初は、字体に個人差・集団差が大きく、10世紀中頃
 までは異体字が多く見られ、時代を経るに従って字体の
 整理が進み、12世紀には現在のそれと近いものになった。
  故に、下記のNHKのニュース報道は間違い。
  間違い事例・・
  NHKがカタカナの起源が朝鮮半島の可能性と報じて
 いる。
  https://www.youtube.com/watch?v=yJuD4jpvpBA
  大方廣佛華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)で
 見つけたという・・紙のくぼみがそれだという。
  西暦740年ころ、新羅で書かれ奈良時代に伝わった。
  広島大学小林芳規名誉教授と韓国の研究グループ
  その中の一つの巻物に墨で書かれた感じの横に「角筆
 (かくひつ)」で文字が書かれていることを確認した。
  360ヶ所に書き添えられている。
  漢字を省略した部分も多くあった。
  漢文を読み下すために使われたか?
  漢字の横に添えられた読み仮名と見られる文字は新羅
 の言語。
  日本のカタカナの源が新羅にあった可能性がこの資料
 から考えられる(教授談)
  専門家の間では「カタカナは、平安時代に日本で作り
 出され、日本だけで使われて来た」と。
  また、これは、この書が伝えられた日本が解読しよう
 と一生懸命日本で読もうとした人が書いたのであって、
 新羅で書かれたのではない。
  日本に来たこの経を日本の僧侶たちが一生懸命解読し
 ようとして、書いたのだった。
  NHKのニュース報道の間違い報道だった。
  NHKは、日本が貶(おとし)められることは喜んで
 放送する放送局となっている。
     ・
     ・
13世紀末、樺太アムール川沿岸に居たアイヌは、この地
 域に居た色々な人たちと争いを起こしていた。
  その中のある人たちが元(げん)に助けを求めた。
  これによって「北の元寇」と言われる元寇が起きた。
  これによってアイヌは日本に逃れて来た。
  同じルートで紀元前3万年前に日本に渡って来た人々
 も居た・・この人たちはアイヌではなく、アイヌより先
 に日本に渡った「日本の先住民」・・
  故に、アイヌが最初に日本に来た人々ではない。
  当然、アイヌは先住民ではない。
  アイヌを先住民とした法律は間違った記述をしている。
  この法律の記述を、正しい記述に改正しなくてはなら
 ない。
  この事は、元寇を起こした国・モンゴルの史料に記述
 されている確かな事・・
     ・
     ・
1925年5月30日、五・三〇事件(ご・さんじゅうじけん)が
 起きた。
  この事件の2日前、1925年5月28日、中国国民党上海執
 行部が、反イギリス・反帝国主義運動の代表者らに対し、
 5月30日に大規模なデモを決行するよう呼びかけた。
  だが、その当日の5月30日朝、抗議活動の中心となって
 いた学生15人が、南京路にて、租界の警察機関である上
 海公共租界巡捕房に連行された。
  これに反発した民衆が、学生らの釈放を求め、数千人
 規模のデモを組織した。
  上海租界当局、および、イギリスなど租界の諸外国は、
 強硬に対処し多数の逮捕者が出た。
  また、イギリス人警察の警部の命令で、中国人やイン
 ド人の警官がデモ隊に発砲し、参加していた学生・労働
 者ら13人が射殺され、40人余りが負傷した。
  これをきっかけに、全市規模のゼネストに発展した。
  さらに、6月に始まった省港大罷工など全国に同様の運
 動が広がった。
  省港大罷工は、広東省と香港で行われ、香港を封鎖し
 た。
  上海を含めた他地域の運動が沈静化する中、1926年10
 月まで続けられた。
  第1次世界大戦後、帝国主義列強は、不平等条約の援護
 のもとに、上海、天津など沿海諸都市に工場を経営して、
 中国人労働者へ圧制を加えていた。
  この帝国主義列強の中国への経済的侵略の強まり、中
 国人労働者への劣悪な労働条件への反発が生まれた。
  1925年6月1日には、上海の労働者二十数万人がストラ
 イキに入った。
  また、上海総工会、次いで、工商学連合会が組織され
 た。
  そして、労働者は罷工、商人は罷市、学生は罷課によ
 る三罷闘争が全上海に展開された。
  工商学連合会は、17項目の交渉条件を提出し、責任者
 の処罰、損害賠償、労働者の権利保障、領事裁判権の取
 消し、外国軍隊の撤退などを要求した。
  大資本を代表する総商会が、妥協的態度に傾き、6月末
 に上海のゼネストは終った。
  一方、全国各地に広がった抗議デモに対して、外国軍
 隊による発砲事件が相次いで発生した・・
  特に、6月23日の広州沙基事件では憤激した民衆が、
 1926年10月まで16ヵ月にわたり対イギリス経済絶交運動
 を実施した。
  五・三〇事件は、不平等条約廃棄、反帝国主義を明確
 に目指し、労働者階級が運動の主導権を握った点に特徴
 がある。
  (参考)総商会:上海総商会会長・虞洽卿(ぐこうき
     ょう)は、中華民国の実業家・政治家。
      浙江財閥の巨頭として知られる人物で、主に
     航運業界で名を馳せた。
      中国同盟会や中国国民党に大規模な資金援助
     を行ったことでも知られている。
      五・三〇事件(五卅惨案)が発生すると、虞
     洽卿は段祺瑞の命令によってデモ隊との交渉に
     赴くため、1925年6月3日に上海へ戻った。
      虞は、総商会会長として「五卅事件委員会」
     を設置、自ら委員長となってデモ側の工商学
     合会と交渉を行った。
      諸外国の介入に対しては、虞は反発を示し、
     イギリスなどの外国製品不買などを支持した。
      また、デモ側からの権利保障の要望を認め、
     学業・職場復帰を促した。
.
1932年5月1日、国際連盟リットン調査団を派遣し、調査
 を行っていた。
  この様な時、橋本虎之助関東軍参謀長が、小磯国昭
 軍次官に宛てて・・
  国際連盟を敵視する様な日本国内のNHKや新聞のメ
 ディアの論調に不快感を示して、注意を促した。
  その様な史料・・電報がある。
.
1939年6月24日、ドイツのベルリン駐在のアメリカの代理
 大使のアレクサンダー・カークから・・
  ドイツで異常な軍隊の移動と、軍事的な活動のうわさ
 があるところから、非常事態に対する準備が進められて
 いるという印象をあたえている、との報告がアメリカ政
 府に届いた。
.
1940年5月1日、イタリアのムッソリーニは、ローマ駐在の
 ウィリアム・フィリップス米国大使を引見して・・
  大使がルーズベルト米国大統領のメッセージを読むの
 を聞いたが、ムッソリーニは次の様に言った・・
  「ドイツは絶対に負けない。
  また、ヒトラーの征服によって生じた新しい地図を認
 めずに欧州の平和を考えることは出来ない。
  イタリアとしては、地中海の囚人の様な地位は耐え難
 いと考えており、
  イギリスが、スエズ運河ジブラルタルを所有してい
 るのはけしからんと思っている」・・と・・
  (参考)ジブラルタルイベリア半島の南東端に位置
     するジブラルタル
      ここは、スペイン領の様に見えるがイギリス
     領。
      ジブラルタル海峡幅はわずか14キロメートル。
      アフリカ大陸が目の前に望める・・
      1713年、ユトレヒト条約によってイギリスが
     手に入れた・・現在もイギリス軍が駐留してい
     る。
      箱根の関所のように地中海のにらみが効かせ
     られる絶好の地点。
      6.5キロ平方メートル、3万人が住む。
      住民:イギリス系27%、スペイン系24%、イ
     タリア系19%、ポルトガル系11%、その他19%、
      通貨は、ジブラルタル・ポンドで、レートは
     イギリス・ポンドと同じ。
      300年以上、イギリスが統治している・・スペ
     インが返還を求めている・・帰属の未解決地域・・
      イギリス本国と空路が開けている(イギリス
     から、直接、入ることが出来る)
      クルーズ船の寄港で観光の人気地である。
      ウィンストン・チャーチル通りなどとイギリ
     ス化している・・免税店がにぎわっている。
      ザ・ロックと呼ばれる岩山(標高426メートル)
     には、アフリカから持ち込まれたヨーロッパ唯
     一のサルが生息している・・観光客に人気。
      この岩山の為、ジブラルタル空港は、ヨーロ
     ッパ一の危険な空港と言われている。
.
1941年12月8日、例え、日本のハワイの真珠湾攻撃が、アメ
 リカの言う様に「奇襲だとすれば」、何と日本は、あま
 りにもアメリカの「お誂(あつら)え向きな行為」をした
 のか?
  その前まで、アメリカは、アメリカ議会は、戦争に繋(
 つな)がりそうな案件は、すべて、「神経質に否決してい
 た」。
  アメリカ議会は、「満場一致で戦争には反対していた」。
  ドイツが世界を騙し、ヨーロッパで大空軍を越境させ
 て、機械化部隊の戦車を国境を超えさせ、フランス首相
 が「フランスは数日内に降伏してしまう」と絶叫してい
 る時でさえ・・アメリカ大統領が、議会に対して、対ド
 イツへの宣戦布告について、その様な行動を、議会に通
 告すること自体が、「害こそあれ益はまったくない」と
 される様なアメリカだった。
  この様な非戦のアメリカだった。
  (参考)非戦:ひせん、戦争を否定すること。どんな
     戦争もいけない事だ(=非)と主張する態度。
  この様なアメリカに、まったくお誂(あつら)え向きな、
 これしかないという「日本の真珠湾攻撃だった」・・
  それも「日本が卑怯な奇襲攻撃をした」という筋書き
 が出来上がっていた。
  アメリカの西部劇でも分かる様に、「正義に燃えやす
 いアメリカだった」、その様な筋書き(日本の奇襲の真
 珠湾攻撃)が作られていた。
  そして、更に、アメリカの国民の方々が心配になる様
 な「こてんぱんな負けが演出されていた」・・
  だから、日本が大成功と湧いた・・作られた日本の大
 成功だった・・
  日本の優れた技術が航空機での戦艦攻撃に功を奏した
 面もあった・・
  それを知っているアメリカ・・これから航空機戦が主
 流になると知る中で、この虎の子の「航空機」と「航空
 母艦」のすべての4隻を・・アメリカは隠していた。
  日本が攻めて来ることを知っていたアメリカ、そして、
 アメリカ大統領・・そして、わずかな要人・・
  この情報は共有されていた。
  そして、ルーズベルト大統領は、家族へ・・「明日、
 日本が攻めて来るよ」と漏らしていた・・
  また、(日本が攻めて来ることはハワイの新聞にも、
 すでに掲載されていた・・日本が攻めて行くことは、ア
 メリカにとって予定された行動だった・・それを、奇襲
 に仕立て上げられた・・)
  そして、また、真珠湾へ先行した日本の潜水艦・・
  潜水艦は足が遅いので、日本の連合艦隊より先行し、
 真珠湾攻撃前にはハワイに到達していて、そのすべてが、
 アメリカ軍艦によって撃沈されていた。
  アメリカは、当然、このことを極秘とした。
  また、問われると「クジラだ」ととぼけた。
  今までには無かった様なクジラとの見間違いが「5回
 も連続で起きる訳がない」。
  また、2人乗務の日本の特殊潜航艇の乗務兵の合計10
 名の内の1人が、アメリカ側に救助されていた。
  あたかもクジラから出て来た日本の海軍兵士だった。
  こんな馬鹿馬鹿しいことを演出しながら「アメリカは、
 日本の奇襲をデッチ上げた」。
  何故? 日本は、こんな低劣なアメリカの演出劇に乗
 っかってしまったのか?
  日本側にも、アメリカの演出に乗る方向へ進めさせる
 者=工作員(スパイ)が居たとされる。
  アメリカの、この頃の「戦争は嫌だ」の風潮は、これ
 ほどまでに凄まじかった。
  ここまで日本にさせないとひっくり返らないと・・
  「戦争はしない」と公約して大統領となったルーズベ
 ルト・・
  この大統領は、「能ある鷹は爪を隠す」と言われるが、
 その爪を出したのだった。
  戦後、史料が公開される中で、それが見えた・・
  そして、今だにアメリカは日本を恐れて、国連には「
 敵国条項」を残したままにしているし・・
  真に日米が一体となった軍事体制を取ろうとしない。
  この日米軍事同盟に対抗する勢力が、取って代わろう
 という規模に膨れ上がっているというのに・・日本を必
 要以上に抑え込んでいる・・
  それほどまでに、日本の技術が、アメリカの心胆を寒
 からしめた・・
  (参考)心胆を寒からしめる:しんたんをさむからし
     める、心の底から恐れさせる。 ぞっとさせる。
     きもを冷やさせる。
     ・
     ・
2019年1月17日、中国が日本のマスメディアを操作している・・
  この様な「金を使った中国の操作・工作」が多岐にわ
 たって行われている・・
  毎日新聞へ中国政府から多額の金が・・
  イギリスの大学の調査によると、毎日新聞へ中国政府
 から多額の資金が入っているという。
  そして・・
  政治知新、2019年1月17日、毎日新聞取締役が中国の
 プロパガンダに加担と「自白」。
  毎日新聞が、ダントツに中国のプロパガンダに世界一
 貢献と認定された。
  毎日新聞には、「チャイナウオッチ」という毎日新聞
 の「別冊」を装った宣伝紙がある・・これが問題・・
  毎日新聞の取締役の小川一氏が言い訳をする・・
  「新聞社がお金をもらって、プロパガンダ記事を書く
 などということは、神に誓ってない」と言っている。
  しかし、小川氏は、フェイスブックに以下の様に書い
 た。
  「ツイッターからの続きで、英紙ガーディアンの報道
 についてコメントします。(中略)
  毎日新聞が『チャイナ・ウオッチ』の印刷、配布に協
 力しているのは『事実』です。
  毎日新聞は国の壁を超えた新たなジャーナリズムの構
 築を目指して、アメリカ、韓国、インドネシア、ベトナ
 ム、そして、中国の新聞と提携していますが、『チャイ
 ナ・ウオッチ』への協力はそうした事業の一環です。
  参考に特集記事を添付しました・・読んでみてくださ
 い。
  ただ、協力関係を作るにあたり、間違ってもプロパガ
 ンダと思われないように、記事の選択、削除、発行取り
 やめの権利は毎日新聞社が持ち、中国の一方的な宣伝に
 なるような政治の記事は除き、文化、芸術、スポーツ、
 観光などに絞った紙面にしたと聞いています。
  紙面を見るとそれは一目瞭然、プロパガンダとは無縁
 のものと分かります」・・と・・
  毎日新聞に中国からの金は入っているという協力関係
 はあると認めている。
  中国からの情報を印刷・配布していると認めている。
  中国からの情報がプロパガンダ臭のにおいが強いから
 こそ、毎日新聞プロパガンダの批判を恐れた。
  過去にプロパガンダをうまく利用した組織のナチなど
 も文化や芸術やスポーツや観光を利用してやっていた。
  チャイナウオッチ紙は、中国共産党の機関紙「人民日
 報」の広告紙だと今はされている。
  高速道路がこんなに整備されているとかと、良い面は
 報道するが、中国の有名なスモッグの話には少しも触れ
 ないとか・・と・・排気ガス規制を無視した車が多いこ
 とにも触れない・・
  他国の知的財産を奪う行為にもまったく触れない・・
 日本の無印良品が商標権侵害だとされ敗訴したりした。
  また、他国では絶対にしないこと・・例えば、企業秘
 密を無理に開示させる行為が中国にはある・・
  スパイ会社になる中国の会社と合弁会社を必ず設立せ
 よとかの強制もある・・おいしい技術が盗まれて行く・・
  また、卑劣なのは、「中国で、海外企業が自動車や船
 舶、送電網の建設と言った重要な企業活動を行なう場合、
 必ず、中国側の資本が多い(過半になる状態)で合弁会
 社を作らなけらばならない」と、そして、イニシアチブ
 を中国が握り、重要なノウハウを次々と奪って行く。
  中国で仕事を始めた企業が、1年も経たないうちに同様
 技術を持った中国企業が出現して来る事例が多発してい
 る・・企業外へおいしい技術が流れて行っている。
  海外企業が、長い間、苦労し、その苦心惨憺(くしん
 さんたん)して蓄積した技術が一瞬で奪われるという。
  しかし、プロパガンダ紙には、この様な事はおくびに
 も出て来ない。
  ファーウェイの問題も国家の基盤を揺るがす大問題と
 なった。
.
2019年11月、中国とロシア、深まる軍事交流。
  多くの米軍関係者たちは、過去の中華人民共和国とソ
 ビエト連邦の関係から類推して、中国とロシア間の軍事
 同盟は成立不可能とは言わないまでも、成立は極めて困
 難であろう、と考えてきた。
  つまり、いくらアメリカが中国とロシアを仮想敵視し
 ているとはいえ、両国が軍事同盟を結ぶ、あるいは軍事
 的な同盟関係に近い密接な協力関係を構築する、といっ
 た事態は到来しないだろうというのである。
  ところが・・
  実際には、中国とロシアの軍事的交流は加速度的に強
 化されているのだ。
  中国が構築している最新鋭ミサイル防衛システム(中
 国や北朝鮮アメリカの攻撃から防御するとともに、日
 本や韓国それに台湾にとっては大きな軍事的脅威を加え
 ることになる)に対し、高性能早期警戒システムの援助
 を始めることをプーチン大統領が許可した。
  アメリカは「軍事大国との対決に打ち勝つ」ことを軍
 事戦略の主たる目標に掲げたものの、組織の再編や必要
 装備の調達などに手間取っているからだ。
.
2019年11月17日、スリランカ大統領に、中国べったりの大
 統領が選ばれた。
  中国は、世界最多の人口を擁している。
  その最多の人口を・・世界工作に使っている。
  金は・・中国式MMTで・・無尽蔵に刷っている。
  この様な「人口と金」を世界にばらまき、ちりばめて
 いる。
  現在の世界のシステムを使って、「中国を浸透させて」
 行く。
  スリランカも、中国が重点的に影響力拡大を図ってい
 る国である。
  既に、港は、中国のものになっている。
  そして、中国工作員と言ったって「昔の様な諜報員」
 などと同じなどと言えるものではない。
  例えば、NHKは、中国へ、NHKの局内の一室を与
 えているが、NHKのその一室を借りて、そこに常駐し、
 昼や夜に声をかけて、一緒に食事をする、色々なよもや
 ま話しをする・・それだけだが・・
  その内、NHKは、日本の「中枢中の中枢」の国会の
 審議の映像を、「何らかのもっともらしい理由を付けて」
 中国へその映像を渡す・・マル秘情報を渡す。
  こんなことが、日本のあちこちでやられている。
  このスリランカにも中国べったりの大統領が生まれた。
  そして、その後の反動の大統領が生まれ、そして、今、
 その一騎討ちの大統領選挙が行なわれている。
  そしてまた、2019年11月17日、中国べったりの大統領
 が、スリランカの大統領にえらばれた。
.
2019年12月3日、NATO、「中国の脅威」協議 トラン
 プ氏「強大化に対処」 (日本経済新聞
  北大西洋条約機構NATO)は3、4日の首脳会議で
 「中国の脅威」について協議する。
  欧州域内の港湾や通信などのインフラに中国の関与が
 強まり、米欧の軍事協力に支障を及ぼすとの危機感があ
 る。
  トランプ米大統領は3日、「強大化した中国に対処する」
 と述べた。
  米欧を射程に入れるとみられるミサイル開発を進めて
 いることも懸念材料となっている。
  首脳会議では中国への対応が主要議題の一つになる。
  NATOは、1949年に、旧ソ連への対抗を目的に創設
 されたがトランプ氏は「70年間で世界は大きく変わった」
 と指摘。
  「中国が非常に強大化した」と説明し、NATOも対
 処が必要だとの考えを表明した。
  NATOは、ロシアへの対抗やテロ対策に続く重要課
 題に中国政策を位置づける構えだ。
  ストルテンベルグ氏は、中国が米欧を射程に入れる大
 陸間弾道ミサイルICBM)や新型の極超音速ミサイ
 ルの開発を進めていると指摘。
  「中国の台頭がもたらす影響に対処する必要がある」
 と訴え、米欧で連携を深める考えを強調した。
  NATOには、欧州域内で中国の存在感が増し、安保
 に悪影響を及ぼすことへの懸念がある。
  中国の経済圏構想「一帯一路」に欧州の10カ国以上が
 協力覚書を結んだ。
  11月には中国が運営権を握るギリシャピレウス港の
 拡張で両国が合意し、イタリアの港湾事業にも中国が関
 与する見通しだ。
  デンマークグリーンランドでは中国が空港改修など
 に意欲を示したとされる。
  インフラは有事の際に軍事的な戦略拠点になる可能性
 がある。
  フランスのマクロン大統領は10月下旬の英誌のインタ
 ビューで南欧諸国がインフラを中国に売却することにつ
 いて「ばかげている」と断じた。
  関係者によると、NATOはEUなどと協力して中国
 投資への警戒を訴える方針だ。
  通信インフラにも警戒が広がる。
  米政府高官によると、トランプ大統領は首脳会議で次
 世代通信規格「5G」の整備をめぐり、中国の通信技術
 のリスクを考慮すべきだと呼びかける。
  米政権は、中国が有事の際に『通信を遮断』したり、
 『軍事情報を盗んだりするリスク』があると主張する。
  ただ中国の脅威について加盟国が共通認識を持つのは
 容易ではない。
  欧州委員会は3月の報告書で中国を「構造的なライバ
 ル」と位置づける半面で「中国と対話を深める」とも明
 記した。
  中国を「修正主義勢力」とみなして経済・安保で徹底
 的に対峙する米国とは隔たりがある。
  東欧や南欧諸国は中国の経済支援をテコに経済浮揚を
 目指す思惑があり、中国との対立を望まない。
.
2020年、今、北海道の「開拓博物館は閉鎖され、名前を変
 えた博物館になった」。
  その博物館は、アイヌの展示一色となった。
  そして、その展示に流れる主旨は「アイヌが虐げられ
 て来た」という嘘のでっち上げの展示となっている。
  今、北海道にへ、ある力によって強い工作が行われて
 いる。
  アイヌが先住民でもないのに「先住民だとされた」。
  北海道を含む、日本の沖縄から北海道まで、「縄文人
 がアイヌよりさかのぼること5万年前に住んでいたが、
 この縄文人が無視されている」。
  この様に、北海道の歴史がねじ曲げられている。
  アイヌは、紀元後の13世紀末に、元(蒙古)に追われて
 日本に来た「後から来た人たちであるが、この事が隠さ
 れている」。
  嘘のデッチ上げがプロパガンダ(嘘宣伝)されている。
.
2020年、今、韓国で作られだ映像が、日本のテレビを席巻
 している。
  安価ということで、日本のテレビ局はどこも、NHK
 をはじめ民放各局が、これでもかというほど放送されて
 いる。
  しかし、これはある目的を持ってこの様な状態となっ
 ている。
  この逆の「日本で作られた映像が、韓国で放送される
 ことは無い」。
  韓国で、「日本の映像を放送することは禁止されてい
 る」。
  何故? 韓国の映像が日本で放送され、日本の映像が
 韓国で放送禁止にされているのか?
  プロパガンダ(嘘宣伝)の工作である。
  日本国民へ工作がなされている。
  韓流映画に喜ぶ日本国民・・
  そして、反日教育で嘘の教育をされている韓国の青少
 年たちの若者。
  この様な工作の裏に中国が居る。
  北海道のアイヌプロパガンダの裏にも中国が居る。
  今、ウイグルで、ウイグルの方々が、中国によって拘
 束されているが、そのほとんどが男性である。
  そして、ウイグル人の男性が少なくなったウイグル
 地に漢民族の男性が送り込まれている。
  「洗国」である。
  チベットでも、一番多い民族は漢民族となってしまっ
 た。
  「洗国」・・中国が昔からやって来た洗国・・これは、
 ウイグル人女性と漢民族男性の混血を強制的に行わせ、
 ウイグルの国を乗っ取るという方法である。
  その内、日本でも・・強く中国の工作がなされている
 北海道と沖縄の日本人男性は、強制的に北海道と沖縄か
 ら追い出される事がなされるかもしれない。
  核武装した中国に、世界は手を出せないとして、中国
 は、こんなことを目論んでいる。
  今、ウイグルでその行動が着々と進んでいる。
  中国の南京で、南京事件をでっち上げて、南京博物館
 で展示しているが・・それより、日本で展示をしよう・・
 「日本の博物館を変えてしまえ」ということがなされて
 いる・・その1例:北海道の開拓博物館が無くなされて、
 今はアイヌについての展示ばかりの民族博物館になった
 いる。
  中国は人口がべらぼうに多い、この中国人の漢民族
 人口を使った世界戦略である。
  今、北海道に、さらに、40万人の中国の漢民族が入っ
 て来る予定だという・・
  日本に対する洗国が、すでに、始まっている。
.
2020年1月31日、NHK・・日本を貶めるNHKの教育番組・・
 NHKには教育番組を放送する資格はない。
  NHKの高校講座「世界史」は、感受性の鋭い若者の
 高校生に日本を悪く印象づけ様とする番組だった。
  朝鮮・韓国を併合して「日本と同等の国になって貰お
 う」と、日本は資金を持ち出して、「朝鮮・韓国の国づ
 くり」を一生懸命にしたが・・
  この事にはまったく触れずに、「日本が植民地にした」
 「日本が植民地にした」と、ヨーロッパやアメリカが、
 アジア各国にした卑劣な植民地支配と同等の卑劣さを印
 象づけ様とする番組だった。
  また、日本は、横暴に日本文化を押し付けかの様な言
 い方の説明だった。
  「創氏改名」だって朝鮮・韓国の人たちの自由選択に
 任(まか)せた・・従来の名前のままでいたい人はその様
 にすることができた。
  この様なことも説明せずに、日本文化を押し付けたと
 説明した。
  日本を貶(おとし)め様とする意識が強い番組だった。
  NHKの高校講座の「歴史の番組」は、特に、日本を
 貶(おとし)め様とする性格が強い番組で、この種の洗脳
 的なNHKのやり方は以前からズーッとNHKは行なっ
 て来た。
  まったく卑劣と言う他はない。
  朝鮮・韓国の人たちは、日本の様な一流国家になりた
 いとも表現した。
  この事もこの番組は説明していない。
  NHKEテレビ、2020年1月31日、午後14時30分〜午後
 14時45分、NHK高校講座「世界史」、
  この様に日本を貶めることばかりするNHKの教育番
 組、NHKには教育番組を放送する資格はない。
.
2020年、ユーロ(欧州単一通貨)は、1999年に誕生したが、
 2020年は、それから約20年が経過した。
  ユーロを導入することは、経済がEU諸国と一体化す
 ることを意味し、ユーロは、欧州各国の統合を進める上
 で、最も強力な手段となっている。
  イギリスは、自国の通貨のポンドを維持している。
  EUでユーロを使うのは、加盟28ヶ国(英国を含む)の
 中で19ヶ国に止まっている。
  2015年に、リトアニアがユーロを導入して以降、新た
 にユーロを採用する国はない。
  因みに、非ユーロ圏諸国のユーロ導入支持率・・、
  スウェーデン36%(EU加盟国)
  ポーランド・46%(EU加盟国)
  ルーマニア・61%(EU加盟国)
  ブルガリア・47%(EU加盟国)
  チェコ・・・39%(EU加盟国)
  ハンガリー・66%(EU加盟国内)
  クロアチア・49%(EU加盟国)
  イギリス・・(データなし、EU加盟国)
  デンマーク・(データなし、EU加盟国)
  モンテネグロ(ユーロ独自採用、EU域外)
  コソボ・・・(ユーロ独自採用、EU域外)
.
2020年、日本のフッ化水素の韓国への輸出が46%と半減した
 とのこと。
  他の品もすべてが半減だとのこと。
  ビールは39%という・・3分の1という。
  韓国は、必死に抵抗しているのだろう。
  まったくこの様な対応しかできない韓国。
  自分(韓国)が輸入した日本の貴重な輸入物質を、韓
 国は輸出禁止国へ横流しをしていた。
  その様な法違反を韓国はしておきながら、それも指摘
 されながら「何度も無視して、法違反をした」。
  とうとう日本が韓国への優遇待遇を取り止めた・・
  韓国のレベルを、普通のレベルに戻した・・何も優遇
 するようなことをしていないと・・当然である・・
  そうしたら、韓国は、それ以外の物品でも、この様な
 やり方で不買運動をしたり、「おとな気なく卑劣な行為
 をする」。
  もう、筋の通らない韓国には、何を言っても無駄だ・・
 毅然と正論を言い続けるしかない。
  「だだを捏(こ)ねたら得をする」という過去の様な温
 情ある対応を日本は、韓国に対して「絶対にしないこと」。
  韓国に、「だだを捏ねたら損だ」ということを分かっ
 て貰えうこと!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)677E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年8月~1897年9月)

題:(増補版)677E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年8月~1897年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年8月26日、徳富蘇峰が、内務省勅任参事官に就任し、
 「変節した」との非難を受けた。
  徳富蘇峰は、三国干渉(1895年4月23日)がなされたの
 が「涙さえも出ない程、口惜しかった」・・と・・
  この当時、蘇峰は、記者として遼東半島の旅順に居た。
  そして、ロシア、フランス、ドイツの三国が、日本に
 恐喝的に返還をさせた屈辱行為を肌で感じていた。
  そして、日本も列強諸国並みの力を持たなくては、対
 等の外交などできやしないと考える様になっていた。
  そして、三国干渉の時の第二次伊藤博文内閣の次の第
 二次松方正義内閣に期待し、勅任参事官となった。
  蘇峰自伝には・・
  ・・ただ予が最も遺憾に堪えないのは、「新日本の青
 年」「将来之の日本」「国民之友」その他の予の著書を
 愛読し、真に予の味方である人々が、 恰も自ら裏切られ
 たるが如く感じて、予に対する信用と尊敬の念を失墜し
 たることだ。・・(中略)・・
  予は 固より当初から既に瓦解しかけつゝある松方内閣
 に、一身を投没するのは、予の前途について甚だ危険で
 あることを自覚した。
  しかしその際は 所謂る、「かくすればかくなるものと
 しりながら、止むにやまれぬ大和魂」といふ気持でやつ
 たのであるが、予の知己とも、親友とも云ふべき人々に
 さへも、諒解せられなかつたことは、甚だ遺憾千萬であ
 つた。
  ただ有り難くも予の両親だけは、よく予を諒解してく
 れた。
  世間の毀誉褒貶に拘らず、予の踏んだ道は利害得喪
 打算からすれば、誤つてゐた道かも知れぬが、所謂る人
 間道、紳士道、男子道としては、斯くあるべき筈である
 と認めて呉れたのは、良に予にとつては涙の出るほど有
 難く感じた。
.
1897年8月26日 九州鉄道筑豊線の臼井駅~下山田駅間の敷
 設免許され・・
  1898年2月8日に九州鉄道の臼井~下山田間が開通した。
.
1897年8月29日、島崎藤村が、詩集『若菜集』を出版した。
  島崎藤村の処女作・第一詩集で、主として仙台時代に
 「文学界」に発表した作品(詩と序詞)が春陽堂から発
 行された。
  近代日本の明治ロマンチシズムのさきがけとして、詩
 情豊かな文語定型詩51編を収め、最初の芸術的開化とし
 て影響力は大きかった。
  典雅な七五定型詩の調べにのせて、青春のみずみずし
 い情感をうたい、恋愛の哀歓、自然への憧憬、流離の旅
 情、芸術への賛歌など、その主題はきわめて多彩。
  日本の近代詩の成立を告げた最初の記念碑として、高
 く評価された。
  官能や恋愛賛美などを謳い、多くの歌人や詩人に影響
 を与えた。
  (参考)序詞:じょことば、じょし、和歌やある種の
     韻文で、ある語句を導き出すためにその前に置
     かれる修辞的語句。
      枕詞と同様の修飾機能をもつが、枕詞が原則
     として五音で被修飾語との関係が固定している
     のに対し、序詞は長さも制限されず自由に創造
     されるという違いがある。
.
1897年8月29日、日本鉄道の磐城線平駅~久ノ浜駅間が開通
 した。
.
1897年8月31日、トーマス・エジソンが、キネトスコープの
 特許権を取得した。
  スクリーンに映写されるのではなく、箱の中をのぞき
 込む形になる。
  キネトスコープは、世界的に大ヒットし、その後2年
 でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パーラー
 が設置されるほどになった。
  そして、驚くべきことに、エジソンは、1887年に、ニ
 ュージャージー州のウェストオレンジ研究室に移って、
 ここで、動画撮影機・キネトグラフを発明したと言われ
 ているが・・?
  実は、部下のウィリアム・ディックソンが発明したも
 のだった。
  発明者欄に、実際の発明者ではないエジソンの名前が
 書かれたのだろうが?・・これは、「特許無効の要件で
 ある」。
  実際の特許権は成立していない。
  特許権を含む知的財産権を盗む中国のことを言えない。
.
1897年8月、日本鉄道が、湯本駅平間駅間を複線で開通さ
 せた。
.
1897年9月2日、拓殖務省廃止に伴い、北海道における鉄道
 の監督を内務省に移管した。
  1896年4月2日、台湾総督府を監督する目的で拓殖務省
 (たくしょくむしょう)が設置された。
  高島鞆之助が拓殖務大臣に任じられた。
  1897年9月2日、行政整理により廃止された。
  以後、内務省が台湾事務を担当した。
.
1897年9月6日、朝鮮政府が、ロシア軍人を顧問として、ロ
 シア式軍隊を編成した。
  1897年3月17日、駐ロシアの本野一郎代理公使は、前年
 の1896年の軍事教官の派遣について、ロシアのムラヴィ
 ヨフ外相に対して抗議した。
  この根拠は「山県・ロバノフ協定」だった。
  第四条には・・
  「韓国近衛兵及其他軍隊ヲ編成教育ノコトハ日露両国
 ニテ担保スルニ当リテ其分担方並ニ其人員ノ比例等ハ将
 来双方ノ代表者間ノ協議ニ付シテ定ムルコト相約シタ」
 となっていた。
  1897年の朝鮮政府のロシア士官招聘契約も、日本の知
 るところとなり、日本は抗議をした。
  これに対して、ムラヴィヨフ外相の返答は・・
  「( 5月4日)ローゼン氏東京ニ着シ日本政府トノ談判
 相整ウニ至ル迄ハ何事モ決定セサル様、ウェバー氏ヘ既
 ニ訓令ヲ発シ」ている・・と・・
  しかし、この訓令にもかかわらず・・
  1897年7月下旬、ロシア軍士官一行13名が仁川に到着し
 た。
  大隈重信外相は抗議をした。
  1897年8月13日、ムラヴィヨフ外相が回答する・・
  「過般韓国ニ到着シタル士官三名、下士官十名ハ、各
 旧約ニ依リテ同国ニ赴キタルモノニシテ、其延着シタル
 ハ全然旅中ノ都合ニ原因シタルモノナリ」・・と・・
  この発言は、歴史研究者の研究によって、ムラヴィヨ
 フ外相の言い訳であって、また、虚偽であることが明ら
 かとなった。
  問題は、ムラヴィヨフの訓令が、出先のウェーバー
 届かず、さらに、ウェーバー陸相と結んで、軍事教官
 派遣に関して、ムラヴィヨフ外相を無視し、差し置いて、
 皇帝の同意を得ていた。
  ロシアの外交が乱れていたのが原因だった。
.
1897年9月20日北陸線福井駅小松駅間が開通した。
.
1897年9月25日、山陽鉄道の広島駅~徳山駅間が開通した。
.
1897年9月25日、豊州鉄道の行橋駅~長洲駅(現:柳ヶ浦駅)
 間が開通した。
.
1897年9月、京都帝国大学内に文科大学として理工科大学が
 設置された。
  日本で2番目に創設された。
  京都大学の起源は、1861年9月20日に、長崎に設立され
 た長崎養生所(その後、長崎精得館へ改称)まで遡る。
  1889年8月1日、第三高等中学校が、京都市吉田町に取
 得した新校地へ移転・・
  1894年、公布された高等学校令に基づいて第三高等中
 学校は旧制の第三高等学校となる。
  帝国大学令が制定後、近畿地方にも帝国大学の設置を
 求める声が上がっていたが、財政難のため見送られ続け
 ていた。
  最終的に、第三高等学校東一条通の南側(現:吉田
 南キャンパス)に移転し、高等学校の土地・建物を大学
 が利用するという案が採用された。
  1896年、予算処置が可決される。
  1897年6月18日、京都帝国大学設置に関する勅令が制定
 され、京都帝国大学が発足した。
  創設時の計画では、1898年、まず法科大学から設置す
 る予定であったが、工科志望者の急増により1年前倒しと
 いう形で、創設と同年の1897年に、京都帝国大学理工科
 大学が設置された。
  敷地と建物には、上京区吉田町(現左京区吉田本町)に
 あった第三高等学校のものが転用され、まず、理工科大
 学(学部)が開設された。
.
1897年9月、佐世保要塞が建設を開始した。
  高後崎砲台・面高堡塁砲台が起工
  1891年より佐世保軍港の防禦計画の検討が開始された。
  1893年2月、防禦計画が決定された。
   しかし、日清戦争開戦のため、工事が開始が遅れ・・
  1897年、工事開始・・
  1897年9月、砲台建設開始・・高後崎砲台と面高堡塁か
   ら開始された。
  1901年11月まで、当初計画したすべての砲台が竣工・・
  1934年、江の島砲台が着工・・
  1936年8月、長崎要塞に合併され、佐世保要塞司令部は
   廃庁となる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1928年1月、アメリカで「対日全面戦争の作戦進捗予想」が策定された。
.
16世紀初頭、ロシアのミハイル・ロマノフの即位にストロ
 ガノフ家が貢献する。
  ロシアのストロガノフ家が、ポーランド人からの解放
 戦争では、D.M.ポジャルスキーとミーニン=スホルーク
 の解放軍に莫大な資金援助を提供し、ミハイル・ロマノ
 フの即位に貢献した。
  その後も、財政難に苦しむロマノフ朝諸帝にたびたび
 援助を与えた。
  そのため、ピョートル1世 (大帝) は一家の者を男爵に
 したり、また、パーベル1世は伯爵に叙した。
  ストロガノフ家は、18世紀~19世紀を通じて多くの政
 治家、高官を生んだ。
  (参考)ミハイル・ロマノフ:1596年~1645年、ロシ
     アのツァーリ (皇帝、在位:1613年~1645年) 。
      ロマノフ朝初代のツァーリ
      モスクワ総主教フィラレートの子。
      1613年、動乱時代ののち、ゼムスキー・ソボ
     ール (全国議会) によってツァーリに選出され
     た。
      君主としては凡庸で、1633年まで「大君」と
     呼ばれた父親が実権を握っていた。
      彼の時代にロシアの秩序は次第に回復すると
     ともに、農奴制が強化され、ロマノフ朝支配の
     基盤が確立された。
      当初ゼムスキー・ソボールが重要な役割を果
     したが、帝権が強化されるとともにあまり招集
     されなくなった。
.
1558年、ロシアのストロガノフ家がシベリアなどの広大な
 領地をもらう、そして、シベリアへ乗り出して行く。
  ロシアのストロガノフ家が、イワン4世 (雷帝、在位:
 1533年~1574年、1576年~1584年)からカマ、チュソバヤ
 両河畔に広大な所領を得たのをはじめ、その後も、しば
 しばシベリア地方にかけて所領を獲得した。
  それらの土地を開発するかたわら、製塩業、製鉄、木
 材、毛皮売買など広範な事業を営んだ。
  ストロガノフ一家は、町や砦を建設し、私兵を用いて
 ウラル、シベリア地方に進出し、先住民の抵抗を排して
 領地を拡大した。
  その代表的なものが、1581年のコサック首領エルマク・
 チモフェービッチのシベリア遠征・・
.
1578年10月、ロシアのシベリアへの東進が開始される。
  ロシアは、ウラル山脈の西に展開するヨーロッパの国
 である。
  そして、そのウラル山脈分水嶺以東の北アジア地域
 は、「シベリア」という。
  ここシベリアも、南極の様に、南極は条約によって領
 有権の主張は凍結されているが、シベリアの領有権主張
 も凍結されるべき地であった。
  最初に、ロシアからシベリアへ侵入したのは、正規ロ
 シア軍ではなく、ウラルの西側のカマ川やチュソヴァヤ
 川流域を領地としていたストロガノフという商人の私兵
 たちだった。
  当時、すでに枯渇していたウラル以西の毛皮資源に替
 わる、豊富な毛皮資源を求めた。
  そのため、シベリアへ進出し毛皮を求めるためだった。
  (参考)ストロガノフ家:ロシアの富裕な商人、産業
     家の家系。
      白海沿岸の農家から発し、16世紀初めアニカ
     がソリビチェゴツクで製塩業を営んで以来栄え
     た。
      1558年イワン4世 (雷帝)からカマ、チュソバ
     ヤ両河畔に広大な所領を得たのをはじめ、その
     後もしばしばシベリア地方にかけて所領を獲得、
     それらの土地を開発するかたわら、製塩業、製
     鉄、木材、毛皮売買など広範な事業を営んだ。
      一家は町や砦を建設し、私兵を用いてウラル、
     シベリア地方に進出し、先住民の抵抗を排して
     領地を拡大した。
  そして、シビル・ハン国が、1572年に、毛皮の朝貢
 拒否したことでロシア・ツァーリ国のシベリア侵攻は決
 定的となった。
  この時のロシア人私兵は、コサックと呼ばれた。
  これらを率いたコサックの首長イェルマークによりシ
 ベリア征服が進められた。
  イェルマークは、1578年10月に、東進を開始し・・
  シビル・ハン国を攻撃、イェルマーク自身は途中戦死
 するものの、ついに、1598年シビル・ハン国は滅亡した。
  その後、ロシア人は、東進を続け・・
  1636年には、コサックのイヴァン・モスクヴィチンが
 オホーツク海へ至り、ロシア人はシベリア横断を達成し
 た。
  シベリアはロシア人の植民地となった。
  (参考)シビル・ハン国:シャイバーニー朝の一族ク
     チュム・ハン (在位:1556年~1598年) の建て
     た国家 (1556年~1598年) 。
      首都は西シベリアのイルティシュ、トボル両
     川の合流点トボリスク南東のシビル。
      ロシアのエルマク・チモフェービッチの攻撃
     を受け、クチュムはシビルから逃れたが、エル
     マクの死後、再びシビルに拠った。
      しかし、ロシアの攻撃に抗しきれず、クチュ
     ムは、1598年8月、オビ川流域で敗れ、シビル・
     ハン国は滅亡した。
      シベリアという名称はこのシビルに由来・・
  ウラル山脈の西=ヨーロッパの地に居たロシアは、東
 への領土拡張行動(侵略行動)を始めた。
  延々と続けたその侵略行為は、太平洋にぶつかると南
 下政策を始めた。
  そして、延々と続けた侵略地の連絡・物質移動のため
 にシベリア鉄道を敷設した。
  これと同じ頃、イギリスは、南の海を東へと領土を拡
 張していた。
  ロシアが、極東の地に来た頃、イギリスも、やはりそ
 の頃、極東の領域に達していて、南下するロシアと対決
 することになる・・
  このことをイギリスは予想していた。
  故に、ロシアのシベリア鉄道の敷設によるロシアの侵
 略領域の確実化行動は、日本だけでなくイギリスも気に
 していた・・
  シベリア鉄道によって、ロシアの武力の移動が容易に
 なった。
  ロシアの武力が容易に運ばれて来るから・・
  この武力を伴ったロシアの南下は軋轢を生んだ・・
  既存の権益者の欧米列強諸国と日本との間で軋轢を生
 んだ。
.
1581年、コサック首領エルマク・チモフェービッチのシベ
 リア遠征。
.
1598年8月、シビル・ハン国がロシアに滅ぼされ滅亡
  シビル・ハン国:シャイバーニー朝の一族クチュム・
 ハン (在位:1556年~1598年) の建てた国家 (1556年~
 1598年)
  首都は、西シベリアのイルティシュ、トボル両川の合
 流点トボリスク南東のシビル。
  ロシアのエルマク・チモフェービッチの攻撃を受け、
 クチュムはシビルから逃れたが、エルマクの死後、再び
 シビルに拠った。
  しかし、ロシアの攻撃に抗しきれず、クチュムは、1598
 年8月、オビ川流域で敗れ、シビル・ハン国は滅亡した。
  シベリアという名称はこのシビルに由来する。
.
1841年4月、三元里事件(さんげんりじけん)
  中国のアヘン戦争の最中に発生した反イギリス運動。
  平英団事件ともいう。
  1841年4月、広東協約が締結され、広州を攻撃するイギ
 リス軍と中国・清軍は休戦状態に入った。
  そこで四方砲台を占拠していたイギリス軍 1000人余が
 撤退のため、広東省城北方の三元里を通過しようとした
 とき、長槍、剣などで武装し、平英団の旗を掲げた村民
 に包囲攻撃され、多数のイギリス兵士が殺傷された。
  まもなく広州知府の説得で平英団は解散したが、この
 事件は、広東省民のその後十数年に及ぶ反英運動の発端
 となった。
.
1902年4月、ロシアと中国・清との間で条約が結ばれた・・
  その条約「満州還付に関する露清条約」・・
  ①条約調印後6ヶ月以内に、盛京省西南部地方の軍隊を
   撤退させる(第一期)
  ②次の6ヶ月以内に、盛京省残部および吉林省の軍隊を
   撤退させる(第二期)
  ③またその次の6ヶ月以内に、黒龍江省の軍隊を撤退さ
   せる(第三期)
  以上が、ロシアと清国との間で確認された・・しかし・・
  長城に一番近い地域からの撤兵、第一期の撤兵はつつ
 がなくなされたものの・・?
  第二期以降の撤兵に、ロシアは応じなかった。
  1903年4月18日、ロシアは、逆に、撤兵の見返りを清に
 七項目の要求を要求した・・
.
1903年4月18日、ロシアは、逆に、「撤兵の見返り」を清に
 要求した(七項目の要求)・・
  新聞報道では(1903年1月13日の記事)・・
  「露国自ら満州より撤兵す」と言ひ、既に其の第一回
 撤兵を終われりと曰ふも、是れ全然事実に非ずして彼は
 依然満州の占領を継続しつつあり、現に其の撤退したり
 と称する軍隊は僅かに服装を更たるのみ」
  ロシアの軍人は、軍服を脱いでいるだけだと報じてい
 る・・実態は、撤兵はなされていないと・・
  第二期の撤兵が近づく1903年2月16日の記事には・・
  近づきつつある第二次撤兵期限に際して、ロシアは表
 面上の撤兵をするだろう・・と書いている。
  ほとんどのロシア兵は、東清鉄道敷地圏内に入って、
 兵装を解いて人夫に偽装して、実態は撤兵しないだろう
 ・・と書いている。
  この時、日本は、清との条約に於いて、最恵国待遇条
 項があり、ロシアがこの様な状況であるなら、同様な状
 況を日本に与えてもらいたいとしている。
  日本は、この様な形で、しっかりロシアの撤兵を要求
 していた。
  強力な武力を背景にロシアが強硬な態度を取っていた。
  今・現在の中国が、やはり強力な武力を背景に、何ら
 根拠のない南シナ海を戦略基地としてしまった状況と同
 じ・・
.
1914年7月28日、第一次世界大戦(~1918年11月11日)
  日本には、この大戦に参加する意思と理由は無かった。
  1914年8月4日、日本は中立を宣言した。
  しかし、イギリス政府の日本の参戦についての対応が
 二転三転した。
  1914年8月7日、イギリスは「日本のドイツに対する正
 式な宣戦布告を伴わぬままで、極東におけるドイツの仮
 装巡洋艦を攻撃するよう」日本政府に要請した。
  この後、イギリスの態度は転々と変わるが・・
  日本国内の議論においても「参戦反対意見」が原敬
 高橋是清尾崎行雄井上馨、山形有朋など重鎮から出
 るほどだった。
  この戦争に参戦したのは、イギリスからの要請で参加
 した様なものだった。
  そして、大隈重信首相は「今回の参戦には領土的な野
 心はない」と述べていた。
  1914年8月15日、日本はドイツに対して最後通牒を行な
 った。
  1914年8月23日、日本は1週間の回答期限を設けるとい
 う異例の対応を行なったが、ドイツは、結局、これに回
 答せず、日本は、この日に宣戦布告をした。
  イギリス海軍は、カナダ西岸での通商保護を日本に依
 頼した・・
  また、イギリス領シンガポールへの日本艦隊の派遣を
 要求するなど、日本海軍への期待を大きくしていた。
  チャーチル海軍大臣(後のイギリス首相)でさえ、日
 本への戦域制限をするのは日本に対しての敵対的で(失
 礼)であり、参戦を日本に求めたのであれば、その様な
 (要求はしないで)日本の制限のない要求を認めるべき
 だ」とグレイ外相に伝えていた。
  この第一次世界大戦から日本が学んだことは、「経済
 封鎖の恐ろしさ」と、さらなる「総力戦となる戦い方」
 となる「これからの戦いの総力戦の重要性」についてで
 あった。
  世界の風潮・・第一次大戦後は、世界はもう戦争はこ
 りごりの意識の中にあった。
  この様な風潮の中で、「国際協調と軍縮」が、世界大
 衆の求める方向だった。
  日本も、この戦後の社会的思潮は無視する訳には行か
 なかった。
  この様な流れの中で、イニシアティブをとったのがア
 メリカで・・各国及び日本は、このアメリカに操作され
 て行く。
  この当時のアメリカは、日本を仮想敵国と早くからし
 ていた。
  (1919年、アメリカで、日本を仮想敵国とするオレン
 ジプランが立案される・・)
  アメリカは、日本と共に第一次世界大戦を戦ったにも
 かかわらず、日本への大幅な軍縮を要求するロンドン海
 軍軍縮会議(1930年1月21日~1930年4月22日)のイニシ
 アティブをとり、操作した。
  この様な姿勢を早くから取り続けたアメリカの姿勢が
 この次に起きる第二次世界大戦を起こす最大の理由とな
 っていた。
  日本は、ロンドン海軍軍縮会議の要求を受け入れたが、
 そのため日本は「軍の近代化」により取り組まなくては
 ならないと意識した。
  また、短期によって決着する戦い方を構想せねばなら
 ならないとした。
  日本をこの様に思わせるアメリカの早期から日本を仮
 想敵国とした罪の大きさが存在した。
  この様な戦い方が構想される中で、この様な近代戦で、
 の遂行において、世界で唯一、アメリカだけが、長期に
 わたる戦争維持の自給自足が可能な理想的状況の中にあ
 った・・
  この様なことは、どこの国も分かりきっていた。
  それに対し、日本は、何もかも資源を他国に頼らなけ
 ればならない状況にあることも分かり切るほど分かって
 いた。
  鉄鋼や石油の基幹の物質でさえ、日本は、自国で何と
 かしたくてもまったくできない依存体質の資源小国であ
 ると十分過ぎるほど自覚していた。
  しかし、アメリカの日本を仮想敵国とする状況から、
 その様な状況に対する対応を構想せねばならない状況に
 置かれされた日本だった。
  それ故に、資源大国のアメリカが、新しい軍艦を建造
 するのに必要な期間(二年以内)に勝敗を決せねばなら
 ないという「短期決戦」を取らざるを得ない方針となっ
 た。
  しかし、1930年4月22日、ロンドン海軍軍縮条約の調印
 はなされた。
  この条約は、アメリカ・イギリス・フランス・イタリ
 ア・日本との間で結ばれたが、完全に日本がターゲット
 とされていた。
  この条約は、主力艦のタガ(制限)をすでに日本に嵌
 (は)めていたので・・この条約では、日本の補助艦(巡
 洋艦、駆逐艦、潜水艦)にもタガ(保有量制限)を嵌め様と
 するものだった。
  日本を完全に仮想敵国としてその仮想敵国の保有量制
 限の枠をがんじがらめにしようというものだった。
  「戦う意思十分なアメリカの様相で、やり方だった」。
  アメリカ5とイギリス5の10に対して、日本を3に押さえ
 込んだ」。
  日本の3(米英の6割)に対して、日本はささやかにも
 (7割)を要求した。
  それに対し、会議に於いて、アメリカのキャッスル駐
 日大使が、「なぜ日本は、軍事的かつ専門的見地からみ
 て対米七割を必要とするのか?」と「ぬけぬけ」と言い
 たいぐらいの発言を日本に対して行った。
  これに対し、日本は・・
  「日本は島嶼(とうしょ、島々)が多く、また、水道
 が多く、かつ海岸線が南北に長く伸びていて、この様な
 状況の中で、極東方面の海洋の安寧を維持する必要があ
 る」などという表向きの説明などせず、日本は逃げずに
 下記のように答えた。
  (参考)水道:すいどう、海において、陸地が両側に
     迫って狭くなった通路状の箇所のこと。水の流
     れる道、あるいは船の通り道という意味。
  日本の回答・・
  「七割要求の専門的な理由を討議するときには、どう
 しても日米戦争を仮想とした上での論議となってしまい、
 この会議場をあたかも小戦場化する危険がある。
  しかし、キャッスル大使との間であるから素直に申し
 上げるが、日本には、日本が七割以下の場合に、アメリ
 カが、日本を攻撃すれば日本は絶対に勝算がない。
  七割であっても、日本がアメリカを攻撃することはも
 とより不可能だけれども、アメリカから攻撃された場合、
 日本には多少のチャンスがあると考えている。
  したがって、日本としては、絶対に勝算がなくてもい
 いという案を提唱することはできない」・・と・・
  しかし、会議のイニシアティブを取り、そして繰るア
 メリカによって、日本は3とされてしまう。
  この時に、日本が言った様な「日本が勝つ見込みが絶
 対ない」という状況が作られてしまった。
  そして、何時、アメリカは、日本を攻撃しても良いと
 いう状況が作られてしまった。
  これから、アメリカは、日本の包囲網を構築し、経済
 的に枠をはめ、資源枯渇に追い込む戦略を進めて行く。
  第二次世界大戦が、アメリカによって作られて行く。
  1930年2月12日、会議をリードするまったく妥協しない
 アメリカに対し・・
  日本の若槻礼次郎全権が、双方の妥協が困難となった
 時点で言ったことは・・
  「此種の談合にては、虚心坦懐の必要を信ずるを以て、
 我方よりも最も率直に申上げんか、日本国民は日本は七
 割の兵力にては米国を攻撃し得ざる事明白なるに反し、
 真の仮定なるが、米国は理論上日本を攻撃し得べく、従
 て米が七割を拒み六割を主張するは、其の場合攻撃に便
 ならしめんとするが為に外ならずとの結論に到達するの
 外なく、此の感想を覆すことは絶対に不可能にして、従
 て我々は七割以下の比率に依る条約には到底調印し能は
 ざる、困難なる立場に在ることを充分諒得せられたし。
 (日本外交文書)
  (評)堂々と正論を発言している。
.
1916年、中国の軍閥・段祺瑞(だんきずい)は、北洋軍閥
 の一人で安徽派の領袖であるが、北京政府の実権を握っ
 た。
  中国の清時代の末、袁世凱の部下となり、中華民国
 立後は陸軍総長に就任した。
  1915年、袁の帝制運動に反対して下野し・・
  1916年、袁の死後内閣を組織して、北京政府の実権を
   握った。
   国内の武力統一政策を推進した。
  1917年、日本の寺内正毅内閣の援段政策を機に日本と
   の結びつきを強め、巨額の借款を獲得した(西原借款)
   日本の軍事的財政的援助により、参戦軍3個師団を養
   成した。
  1918年5月、日中共同防敵軍事協定を締結した。
   政権保持のため、日本に大きく依存した。
   第1次世界大戦後、直隷派の勢力が台頭するなかで
   学生や民衆の反段反日の風潮が強まる・・
  1920年、安直戦争で直隷派に敗れ、天津に一時引退し
   た。
.
1917年、張勲の復辟 (帝政復活) 失敗後、段祺瑞内閣の復
 活、馮国璋大総統の就任とともに段、馮の対立が起り、
 両者の出身地によって安徽派、直隷派と呼ばれた。
  両派の対立は、まず・・
  1917年、中国の第1次世界大戦参加問題をめぐって表面
   化し、安徽派の勝利に終った結果・・
  1920年まで、安徽派が北京政府を支配し、南方派に対
   する武力討伐による国内統一策を推進したのに対抗
   して、直隷派はひそかに南方派のなかの広西派軍閥
    (陸栄廷ら) と結び、安徽派の武力統一策を牽制し
   た。
  1919年、馮の死により曹こんが筆頭となり・・
  1920年7月、安徽派との間の安直戦争に勝ち、以後2年
   間は、奉天派との提携による奉直連合政権時期が続
   き・・英米と結び、江蘇に斉燮元、両湖に呉佩孚を
   配置し、呉は、広東軍閥陳炯明とも、ひそかに連携
   して広東政府の孫文らを脅かした。
.
1920年、安直戦争
  呉佩孚(ごはいふ)は、北京中国、民国初期の軍閥
 あり、山東省蓬莱県の人(1874年~1939年)であるが・・
  中国の清時代の末に、北洋第3鎮 (民国以後は第3師)
 の軍人となり、直隷総督・袁世凱(えんせいがい)傘下の
 曹こん(そうこん)の信を得て、部下として活躍した。
  1919年、曹の後を継ぎ第3師長に昇進し・・
  1920年の安直戦争で、段祺瑞の軍を破り・・
  1922年、第1次奉直戦争で奉天派の張作霖に勝ち、直隷
   派軍閥の巨頭となり、北京を支配した。
  1923年、二・七虐殺(京漢鉄道のストライキ)を武力
   弾圧した。
  1924年、第2次奉直戦争で、国民党の北伐に敗れ・・
   政界を退いたが・・
  1939年、汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府に便乗し、
   日本に協力した。
   日中戦争中に北京臨時政府の綏請委員会委員長とな
   り、まもなく病死した。
.
1920年7月、中国の軍閥の呉佩孚は、安徽派との間の安直
 戦争に勝ち、以後2年間は奉天派との提携による奉直連
 合政権時期が続いた。
  そして、イギリス・アメリカと結び、江蘇に斉燮元、
 両湖に呉佩孚を配置し、呉は、広東軍閥陳炯明ともひそ
 かに連携して広東政府の孫文らを脅かした。
.
1922年末頃~1923年春頃、第一次世界大戦の後、アメリ
 を初め、ヨーロッパの列強諸国が、東アジアに更なる干
 渉を強め、その焦点を中国に置いた・・そして、日本を
 ターゲットへ
  アジアの日本に対して、そのアメリカとヨーロッパ諸
 列強国は、日本への「経済封鎖と総力戦」の様相を見せ
 ていた。
  その様な情勢から、日本にとって、中国の資源の重要
 性は格段に上昇した。
  この様に欧米列強の狙う中国の「この頃の実態」は、
 1922年の末頃から1923年の春にかけての状況は、呉佩孚
 (ごはいふ)を中心とする直隷派が北京政界を支配してい
 た。
  しかし、中国国内は、各派か覇権を争っていた。
  ①段祺瑞(だんきずい)
  ②張作霖を中心とする奉天派、
  ③ソビエト=ロシアに接近しつつあった孫文
  この三者が盟約を結び、直隷派と対抗しようとしてい
 た。
  (参考)呉佩孚:ごはいふ、北京中国、民国初期の軍
     閥。山東省蓬莱県の人。1874年~1939年。
      清末に、北洋第3鎮 (民国以後は第3師) の軍
     人となり、直隷総督・袁世凱(えんせいがい)傘
     下の曹こん(そうこん)の信を得て部下として
     活躍し、1919年曹の後を継ぎ第3師長に昇進。
      1920年安直戦争で段祺瑞の軍を破り、1922年
     第1次奉直戦争で奉天派の張作霖に勝ち、直隷派
     軍閥の巨頭となり、北京を支配した。
      1923年二・七虐殺(京漢鉄道のストライキ)を
     武力弾圧した。
      1924年第2次奉直戦争で国民党の北伐に敗れ、
     政界を退いたが、1939年、汪兆銘(おうちょうめ
     い)の南京政府に便乗し、日本に協力した。
      日中戦争中に北京臨時政府の綏請委員会委員
     長となり、まもなく病死した。
  (参考)直隷派:ちょくれいは、中国の北洋軍閥の一
     派。
      馮国璋、曹こん、呉佩孚、斉燮元、孫伝芳ら
     が中心であった。
      1917年頃にこの名称が生れ、1922年~1924年
     が全盛期で、北京政府を支配下においたが、1928
     年北伐成功に伴う北洋軍閥の全滅によって消滅
     した。
      1917年の張勲の復辟 (帝政復活) 失敗後、段
     祺瑞内閣の復活、馮国璋大総統の就任とともに
     段、馮の対立が起り、両者の出身地によって安
     徽派、直隷派と呼ばれた。
      両派の対立は、まず 1917年の中国の第1次世
     界大戦参加問題をめぐって表面化し、安徽派の
     勝利に終った結果、1920年まで安徽派が北京政
     府を支配し、南方派に対する武力討伐による国
     内統一策を推進したのに対抗して、直隷派はひ
     そかに南方派のなかの広西派軍閥 (陸栄廷ら)
     と結び、安徽派の武力統一策を牽制した。
      1919年馮の死により曹こんが筆頭となり、1920
     年7月安徽派との間の安直戦争に勝ち、以後2年
     間は奉天派との提携による奉直連合政権時期が
     続き、英米と結び江蘇に斉燮元、両湖に呉佩孚
     を配置し、呉は広東軍閥陳炯明ともひそかに連
     携して広東政府の孫文らを脅かした。
      ワシントン会議の際は対日強硬論を唱え、奉
     天派に支持された梁士詒内閣を親日売国として
     非難し、1922年4月~5月の第1次奉直戦争で奉天
     派張作霖に勝ち、以後2年間北京政府を掌握し全
     盛期にあった。
      1923年曹こんは賄賂により総統となり、賄選
     総統の悪名を残した。
      1924年9月~10月の第2次奉直戦争で、直隷派
     は馮玉祥の寝返りにより惨敗し、北京政府は安
     徽派、奉天派、国民軍の支配下におかれた。
      1926年国民軍に対抗して奉直連合軍が「反赤」
     をスローガンにして結成され、国民軍を破って
     北京に奉直連合内閣をつくり、広東の国民政府
     による国民革命に反対したが、1928年国民革命
     軍の北伐成功に伴い、北洋軍閥の各派とともに
     全滅した。
      一部の残党は東北や華北で再挙をはかり、抗
     日戦争中は日本による傀儡 (かいらい) 政権に
     も参加した。
  (参考)段祺瑞:だんきずい、中国の軍閥。北洋軍閥
     の一人で安徽派の領袖。
      清末、袁世凱の部下となり、中華民国成立後
     は陸軍総長に就任。
      1915年袁の帝制運動に反対して下野し、1916
     年袁の死後内閣を組織して北京政府の実権を握
     り、国内の武力統一政策を推進。
      1917年日本の寺内正毅内閣の援段政策を機に
     日本との結びつきを強め、巨額の借款を獲得し
      (西原借款) 、日本の軍事的財政的援助により
     参戦軍3個師団を養成。
      1918年5月日中共同防敵軍事協定を締結するな
     ど、自己の政権保持のため日本の政府、軍部に
     大きく依存するにいたった。
      第1次世界大戦後、直隷派の勢力が台頭するな
     かで学生や民衆の反段反日の風潮が強まり、1920
     年の安直戦争で直隷派に敗れ、天津に一時引退
     した。
      1924年第2次奉直戦争後、奉天派 (張作霖) と
     国民軍 (馮玉祥) に推されて臨時執政に就任。
      1926年3月学生、民衆の請願団に発砲して多数
     の死傷者を出し (三・一八事件) 、同年奉国戦
     争により下野し、大連から天津、南京へと移り、
     上海で死去。
  そして、この様に乱れた中国の財政は切迫し、窮状に
 あり、いつアメリカやイギリスなどの国際管理下に入る
 か分からないという状況だった。
  中国は、政治的に、また、経済的に疲弊した状況の極
 みにいた。
  当時の中国の歳入は4億5000万元、これに対し、歳出は
 6億5000万元で・・大幅な歳出超過の状態だった。
  中国の大きな歳入は「関税」や「塩税」であったが、
 これらの虎の子の歳入は、すでに、アメリカやイギリス
 などの監督下に置かれていた。
  その収入は、米欧の借款の担保としての元利払いに充
 当されていた。
  また更に、その使途についても厳密にアメリカやヨー
 ロッパ諸国の指示を受けるという状態だった。
  この様に手玉に取られる中国の実態を、日本はしっか
 り見ていた、掴んでいた。
  当時、日本は、中国内にしっかりした現地の駐在官を
 広範に持っていて、広範な情報収集組織を持っていた。
  この様な危機的な中国の財政情報を掴んでいた。
  そして、アメリカやヨーロッパの列強諸国が、中国に
 投下した資金が回収が出来ないと見たら、アメリカやヨ
 ーロッパの列強諸国は、中国の大事な歳入の関税や塩税
 に関する管理を「アメリカやヨーロッパの列強諸国の管
 理下に置く動きをする」と予測した。
  それは、1923年5月6日に起きた臨城事件で予測された。
  津浦鉄道の第二特急が、浦口から天津に向かう途中、
 臨城の付近で私兵集団の襲撃を受けた。
  アメリカ・イギリスに虐げられ、暴発した集団だった・・
  アメリカやヨーロッパの列強諸国に恨みを持った集団
 か?・・イギリス人1人が射殺され、外国人の16人が捕虜
 になった。
  アメリカ・イギリスは激怒した。
  イギリスは、北京政府に賠償を求めた(中国は賠償に
 応じた)
  また、責任者の処罰を要求し・・
  さらに・・津浦線に、イギリス人の運転と会計の主任
 を携(たずさ)わらせよ・・と要求した(この要求は、中
 国は拒否した)
  その他の要求から、列強諸国による共同の鉄道管理、
 漢口・上海への共同出兵、海軍による圧迫行動を、北京
 にいる列強諸国外交団の動きをした。
  そして、実態として、税関、塩税、郵政などの部分管
 理をすでに行なっていて・・中国支配に成功していると
 いう列強諸国の状態だった。
  中国の政争が続く中で、徐々に、アメリカやヨーロッ
 パの列強諸国のその力を、鉄道やその他部分の管理へも
 及ぼしつつあった。
  中国の財政破綻が確実化されつつある中で、その列強
 諸国に乗っ取られる状態へ進みつつあった。
  そして、その中心に・・イギリスが居た。
  それに対し、アメリカが、その覇権を横取りして、得
 ようといていた・・イギリスの既得権益を侵害しようと
 していた。
  そして、アメリカは、すでに、無線やバス路線で、多
 大な資本を使って乗っ取っりが完了していた。
  その様な方法を使って、アメリカはその他のところも
 権威者の地位を占め様としていた。
.
1923年、中国の軍閥の曹こんは、賄賂により総統となり、
 賄選総統の悪名を残した。
.
1923年5月6日、臨城事件
  津浦鉄道の第二特急が、浦口から天津に向かう途中、
 臨城の付近で私兵集団の襲撃を受けた。
  アメリカやヨーロッパの列強に恨みを持った集団か?・・
 イギリス人1人が射殺され、外国人の16人が捕虜になった。
  アメリカ・イギリスは激怒した。
  イギリスは、北京政府に賠償を求めた(中国は賠償に
 応じた)
  また、責任者の処罰を要求し・・
  さらに・・津浦線に、イギリス人の運転と会計の主任
 を携(たずさ)わらせよ・・と要求した(この要求は、中
 国は拒否した)
  その他の要求から、列強諸国による共同の鉄道管理、
 漢口・上海への共同出兵、海軍による圧迫行動を、北京
 にいる列強諸国外交団の動きをした。
  そして、実態として、税関、塩税、郵政などの部分管
 理をすでに行なっていて・・中国支配に成功していると
 いう列強諸国の状態だった。
  中国の政争が続く中で、徐々に、米欧列強諸国のその
 力を、鉄道やその他部分の管理へも及ぼしつつあった。
  その様な状況は、日本もよく情報を得ていた。
  中国の財政破綻が確実化されつつある中で、その列強
 諸国に乗っ取られる状態へ進みつつあった。
  そして、その中心に・・イギリスが居た。
  それに対し、アメリカが、その覇権を横取りして、得
 ようといていた・・イギリスの既得権益を侵害しようと
 していた。
  そして、アメリカは、すでに、無線やバス路線で、多
 大な資本を使って乗っ取っりが完了していた。
  その様な方法を使って、アメリカはその他のところも
 権威者の地位を占めようとしていた。
.
1924年9月~10月、第2次奉直戦争
  第2次奉直戦争で、直隷派は、馮玉祥の寝返りにより惨
 敗し、北京政府は安徽派、奉天派、国民軍の支配下にお
 かれた。
  段祺瑞(だんきずい)は、第2次奉直戦争後、奉天
 (張作霖) と国民軍 (馮玉祥) に推されて臨時執政に就任
 した。
.
1924年アメリカで日本を仮想敵国とするオレンジ・プラ
 ンが作られた。
  中国国内に軍閥が林立し、中国国内が四分五列し、乱
 れる中で、イギリスやアメリカの絶大な影響力に組みす
 る者もあれば、日本に助力を求める派もあった・・
  しかし、現実の中国の歴史は、アメリカやイギリス主
 導の国際管理という路線も、また、日本主導の「公平な」
 統一勧告という路線もとることはなかった。
  中国国民党が、ソビエト=ロシアと提携して、その指
 導のもとに、組織や体制をボルシェビッキ的なものに改
 変させていく過程へと進んだ。
  そして、この様な時、1924年アメリカに日本を仮想
 敵国とするオレンジ・プランが作られた。
  そして、この対日作戦計画は、正式な作戦計画として
 大統領の承認を受け、採択された。
  アメリカは、このプラン以外の作戦計画も作られた。
  そして、このプランは・・
  ①第一段階は、日本による攻勢的攻撃の過程・・
  ②第二段階は、アメリカが様々な方法で日本近海に迫
   って行く過程・・
  ③第三段階は、大陸によって資源を補充しようとする
   日本の方策を、空と海からのアメリカの力によって
   封鎖し、包囲し、降伏させる過程・・
 として捉(とら)えていた。
  そして、今後、実際、この様に進んで行く。
  日本が真珠湾を攻撃しなくてはならない方向へ資源封
 鎖などを仕掛けられて行く。
  このアメリカの方策によって、窮地に陥った日本の真
 珠湾攻撃がアメリカの仕掛け通りになされた時、アメリ
 カのルーズベルト大統領は歓喜し、イギリスのチャーチ
 ル首相へ「予定通り行った」と歓喜して電話をし、喜び
 合った。
  (参考)ボルシェビッキ:ソ連共産党の前身。十月革
     命を指導。
      ロシア語で「多数派」の意味。
      1898年、ロシアのマルクス主義者は、ミンス
     クでロシア社会民主労働党を結成したが・・
      1903年、第2回党大会 (ブリュッセル、ロンド
     ン) において、党員の資格をきびしくするよう
     に要求するレーニン派と、それに反対するマル
     トフ派の間に対立が起った。
      レーニンの主張は、28対22(保留1) で敗れた
     が、その後党内における自組織の自治を否定さ
     れたブント派ら7人の代議員が退場したため逆に
     多数派となり、党人事などで優位を占めるよう
     になった。
      このとき以後、レーニン派は自派を多数派と
     称し、マルトフらを少数派 (メンシェビキ ) と
     呼ぶようになった。
      メンシェビキが、当面する革命をブルジョア
     革命と規定してプロレタリアートの従属的役割
     を主張するのに対し、ボルシェビキはプロレタ
     リアートが農民と提携してブルジョア革命を徹
     底することこそ重要であることを説くなど、両
     派の間には党の性格、革命戦術などの点で大き
     な差があった。
      第4回党大会 (1906年ストックホルム) 、第
     5回党大会 (1907年、ロンドン) を合同で開催し
     たにもかかわらず、両派の対立はやまず、1912
     年、プラハで開かれた第6回全ロシア党協議会で、
     レーニンはメンシェビキと袂を分ち、独自の党
     を結成した。
      第1次世界大戦に際しては、敗北主義の立場を
     とり、自国の敗北を革命に転化させることを主
     張した。
      1917年の二月革命後,特に、4月レーニンが帰
     国して、戦争中止、ソビエトによる全権力の奪
     取 (→四月テーゼ ) を呼びかけて以後,ボルシ
     ェビキの勢力は強まり、労働者、農民、兵士の
     間に次第に影響力を増大していった。
      同年10月23日 (旧暦 10日) ボルシェビキ
     中央委員会はレーニンの提唱する即時武装蜂起
     を 10対2で決議、11月7日 (旧暦 10月 25日) 臨
     時政府を倒して政権を掌握した。
      翌年3月党名をロシア共産党と改め、1952年、
     第 19回党大会においてさらにソ連共産党と改称
     した。
.
1926年3月、三・一八事件
  中国の段祺瑞(だんきずい)が、学生、民衆の請願団
 に発砲し、多数の死傷者を出した。
  この年、奉国戦争により下野し、大連から天津、南京
 へと移り、上海で死去した。
.
1926年4月、中国北部で、段祺瑞(だんきずい)が下野した
 後、奉天派の張作霖(ちょうさくりん)が呉佩孚(ごは
 いふ)とともに北京政府を支配した。
  (参考)張作霖:中国の軍人、軍閥政治家。遼寧省生。
      馬賊の出身。張学良の父。
      日露戦争時、機を見て日露双方のスパイとな
     る・・巧みな処世術を持っていた。
      1916年、奉天省の、次いで1919年まで東北三
     省の実権を握る。その後、直隷派と結び、一時、
     日本軍と結び東北の全権を掌握、奉天軍閥を形
     成、奉天派の総帥・首領となる。
      1922年、第1次奉直戦争では直隷派に敗れたが、
      1924年、第二次奉直戦争で直隷派を破り、
      1926年、東三省保安総司令に就任、その勢力
       は東北のみならず華北,華東を経て上海に
       及んだ。
      1927年、大元帥を称し、北京政府を掌握。
      1928年、国民党の北伐軍に大敗。逃亡の途中、
       列車が爆破され死去。
  1926年7月、中国南部では、国民革命軍総司令に就任し
 た蒋介石(しょうかいせき)が北伐を始めるという緊迫
 した状態になっていた。
  1927年末、中国の南京の国民政府がソビエト=ロシア
 との国交断絶に踏み切った。
  しかし、中国におけるソビエト=ロシアの軍事的強大
 化となる。
  何故? アメリカはこの様な情勢の中で、中国の資源
 を巡って日本をターゲットととしてうごめくのか?
  日本を資源的に封鎖したいアメリカがそこにあるが、
 戦争に至ってまでしても良いから日本の資源的封鎖をし
 たいアメリカの方針があった。
  アメリカは、中国の権益が欲しいと「中国の門戸開放」
 を宣言したが、資源に恵まれたアメリカが何故? そこ
 までこだわったのか?
  この様なアメリカに、日本も、アメリカとの戦争を意
 識し始める。
  石原莞爾(いしはらかんじ)は、ロシアの革命で乱れ
 ている今、国力を充実させて、アメリカと対峙するとい
 う意思表示をしている。
  荒唐無稽とも言えるがこの様な流れが生じて来ている。
  この様な風潮の中で、日本の工業が重化学工業化し、
 転換して行った。
  また、この様な風潮が、第一次世界大戦当時の日本の
 陸軍はまだまだ小陸軍であったが、この当時からドイツ
 や赤軍規模の大陸軍に発展して行った。
  技術上でも近代兵器を擁する、技術上に高度な陸軍へ
 と変貌して行った。
  アメリカの執拗な日本封じ込めがこの様な変貌をさせ
 る結果となった。
.
1926年、国民軍に対抗して奉直連合軍が「反赤」をスロー
 ガンにして結成され、国民軍を破って北京に奉直連合内
 閣を作った。
  広東の国民政府による国民革命に反対したが・・
  1928年、国民革命軍の北伐成功に伴い、北洋軍閥の各
   派とともに全滅した。
   一部の残党は東北や華北で再挙をはかり、抗日戦争
   中は、日本による傀儡 (かいらい) 政権にも参加し
   た。
.
1928年1月、アメリカで「対日全面戦争の作戦進捗予想」が
 策定された。
  アメリカは、この中で、「戦争はせいぜい二年」と短
 期と予想していた。
  また・・
  「我々は長期戦を覚悟しなければならない。
  しかし、できるだけ短期間に勝利を獲得できるよう作
 戦行動をとるべきである」・・としていた。
  第一次世界大戦が、1918年11月11日に終わって、もう
 アメリカは不埒(ふらち、道理にはずれ不届きなこと)
 にもこの様なことを暗躍させていた。
  日本に真珠湾攻撃をさせようとする動きが始まってい
 た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)676E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年8月~1897年8月)

題:(増補版)676E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年8月~1897年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年8月6日、奈良鉄道が、初瀬鉄道の全線を自社の延長
 線とする免許を得た。
  1897年10月1日、引継ぎを受けて工事を続行した。
  奈良鉄道は、京都と奈良を結ぶ鉄道として計画された。
  建設は京都から進められて、1896年に、七条駅~奈良
 駅間が全通した。
  そして、この年・1897年、奈良駅~桜井駅間の区間
 建設していた初瀬鉄道を合併し・・
  1898年に、全通した。
.
1897年8月10日、両国川開きの花火大会で、多数の見物客の
 重みで木橋の両国橋の欄干が落ち、川に転落するなどで
 死傷者が多数でた。
  この事故を契機に、旧橋の上流に鉄橋が架けられた。
  因みに、両国川開きが初めて行われたことについて・・
 若月紫蘭『東京年中行事 下巻』(春陽堂、1911年)に
 以下の記述がある。
  「享保十八年(1733年)、八代将軍吉宗の時である。
  前年大飢饉の余勢をうけて米価しきりに騰貴し、山陽・
 西海・四国尤も甚しく、民の餓死するもの九十六万余人
 に及んだと言うにもかかわらず、漸く太平に慣れ、奢侈
 の風これより盛んならんとしたる江戸に於ては、この年
 五月二十八日を以て、今猶江戸名物の名残の一として数
 えられつつある、隅田川は両国の川開が初めて催された
 のである」
.
1897年8月18日、逓信省官制が改正(勅令第267号)されて、
 鉄道局を「鉄道の監督」および「私設鉄道の免許に関す
 る行政庁」とした。
  庶務課と監理課の2課を設置した。
.
1897年8月18日、鉄道作業局官制を公布(勅令第268号)した。
  それによって、作業局に建設・工務・汽車・運輸・計
 理の5部を設置・・
  建設部には、庶務・経理・監督の3掛を・・
  工務部には、計算・設計・庶務の3掛と国府津・静岡・
 名古屋・敦賀・神戸・長野の6保線事務所、および、新永
 間建築事務所を・・
  汽車部には、庶務・運転の2掛と新橋・長野の2機関事
 務所、および、新橋・神戸・長野の3工場を・・
  運輸部には、庶務・調査・運転・旅客・貨物の5掛と新
 橋・名古屋・神戸・敦賀・長野の5運輸事務所を・・
  計理部には、主計・出納・倉庫・検査・購買・庶務の
 6掛と静岡・名古屋・神戸・長野の4出納事務所、および、
 青森・福井・福島・八王子・篠ノ井の5派出所をそれぞれ
 設置した。
.
1897年8月18日、中越鉄道の福野駅~福光駅間が開通した。
  中越鉄道は富山県で最初に開業した鉄道。
  日本海側において、最初に開業した私設鉄道
.
1897年8月24日、陸奥宗光が死去した。
  陸奥宗光:(1844年~1897年)紀州藩士、外交官、政
 治家。
  明治初期に行われた版籍奉還廃藩置県、徴兵令、地
 租改正に大きな影響を与える。
  カミソリ大臣と言われる・・伯爵
  1844年8月20日天保15年7月7日)紀伊藩士・伊達宗広
   (千広)と政子の子(6男)として生まれる。
   父は国学者・歴史家としても知られ、影響を受け、
   尊王攘夷思想を持つ・・
   父は紀州藩に仕え、財政再建を成した重臣(勘定奉
 行)・・しかし・・
  1852年(8歳)父が、藩内の政争に敗れ失脚・・一家は
   困苦と窮乏の生活となる・・
  1859年(15歳)江戸に出る・・
   安井息軒の塾などで学ぶが・・吉原通いが露見し破
   門となる・・その後、水本成美の塾で学ぶ・・
   これより陸奥陽之介と名乗る。
   父・宗広、宗興(伊達家養嗣子)が尊皇派であったた
   め長州、土佐の志士らとの交流ができ、坂本竜馬
   知られ、神戸海軍操練所、亀山社中海援隊と行動
   を共にする(1867年)・・
   長州藩桂小五郎木戸孝允)、伊藤俊輔伊藤博
   文)などの志士と交友を持つ・・
   脱藩し、国事に奔走、尊王攘夷運動に・・
  1863年(19歳)勝海舟の神戸海軍操練所に入る・・
   才覚を発揮する陸奥に対する坂本竜馬の言葉・・
   「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺
   と陸奥だけだ」
   陸奥も竜馬のことを・・
   「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあら
   ざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と絶
   賛した。
  1867年(23歳)12月10日、龍馬が暗殺され・・
   後、紀州藩士・三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込む。
   海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃
   する事件(天満屋事件)を起こした。
  1867年(23歳)維新政府が成立するや、
  1868年(24歳)岩倉具視の推挙により、外国事務局御
   用掛、次いで会計官権判事に任ぜられ、外国使臣と
   の応接、
   戊辰戦争に際し、中立を表明するアメリカと交渉し、
   甲鉄艦ストーンウォール号の引き渡しに成功、外国
   軍艦の購入に活躍・・金は大阪商人達に交渉して、
   一晩で借り受けることに成功・・
  1869年(25歳)大阪府知事後藤象二郎の下で働いた
   のち、摂津県(のち大阪府編入)知事、兵庫県知事・・
  1870年(26歳)薩長土肥を中心とする政府人事に不満
   を抱き、紀州藩強化策に専念、兵器購入、教師雇い
   入れのため欧州に出張すえう。
   廃藩置県ののち、神奈川県知事、外務大丞、大蔵省
   租税権頭から租税頭、大蔵少輔心得と進み、大隈重
   信、井上馨渋沢栄一らと共に大蔵省改革派として
   活動した。
  1871年(27歳)神奈川県令
  1872年(28歳)租税頭、地租改正局長として地租改正
   を推進・・しかし・・
   薩長藩閥政府の状況に憤激して、官を辞し・・和歌
   山に帰る・・蓮子夫人が亡くなる・・翌年、亮子と
   結婚・・
  1873年(29歳)政変で、薩派が大蔵省を握ったため陸
   奥ははじき出された。
  1875年(31歳)大阪会議で政府と民権派が妥協し、そ
   の一環で設置された元老院成立で議官。幹事役を務
   めた。
  1877年(33歳)西南戦争に挙兵を企てた立志社・大江
   卓らに加担したと発覚(土佐立志社事件・政府転覆
   計画)として5年の刑を受け下獄(1878年)。
  1878年(34歳)下獄・・妻亮子にせっせと手紙を書く・・
   獄中で功利主義哲学者ジェレミ・ベンサムの著作を
   翻訳した。
  1883年(39歳)1月、特赦によって出獄
  1884年(40歳)イギリス、オーストリアに留学、シュ
   タイン(国家学)など猛勉強状態で学んだ(伊藤博
   文の勧めでのヨーロッパ留学)・・西洋近代社会の
   仕組み、内閣制度の仕組み、議会はどの様に運営さ
   れているか、民主政治の先進国のイギリスの知識と
   知恵の数々を盛んに吸収した。
  1886年(42歳)帰国後、外務省に入る。
   井上外相に引き上げられ弁理公使から特命全権公使
  1888年(44歳)駐米公使となり、日米条約、日墨条約
   の改正交渉に従事・・
  1890年(46歳)帰国、農商務大臣に就任、民党対策を
   主として担当した。
  1892年(48歳)第二次伊藤博文内閣の成立で外務大臣
   に就任し、念願の条約改正事業に着手・・
  1894年(50歳)日英条約の改正(治外法権を撤廃)を
   成功させ、以後、次々に各国との条約改正をなしと
   げた。
   また、朝鮮問題ではついに清国との開戦にいたる外
   交を展開し、開戦から三国干渉に至る難局に対処・・
   講和会議では全権をつとめ、下関条約締結に手腕を
   発揮した。
   アジアをめぐる国際関係に大きな変動をもたらすに
   至った。
   この経緯を『蹇蹇録』として外務省高官、および、
   ごく限られた政治中枢に配布した。
  1896年(52歳)5月、病気のため辞職後も、雑誌『世界
   之日本』(主筆は竹越三叉)を刊行するなど、政治的
   再起を目指していたが・・
  1897年8月24日、死去、54歳
   著書:『蹇蹇録(けんけんろく)』
   参考文献:『陸奥宗光』(現代日本思想大系10巻)
.
  (今日の言葉)
.
  題:果たして中国が・・「自分の意思を通せるのか?」
    中国の暗号資産(仮想通貨)は成功するか?
.
紀元前2世紀~紀元前1世紀、荒神谷(こうじんだに)遺跡
 が発見された・・これは大発見だった・・
  最初の発見は、農道建設で遺跡分布調査に入った調査
 員が、田んぼのあぜ道で一片の土器を拾ったことがきっ
 かけだった。
  弥生時代中期後葉~後期初頭
  島根県北東部、出雲市斐川町神庭(ひかわちょうかん
 ば)に所在する青銅器埋納遺跡。
  「出雲風土記」にある神名火(かんなび)山と言われ
 る標高366メートルの仏経山の北東、小さな谷間の標高22
 メートルの南向きの急斜面。
  1984年~1985年の島根県教育委員会の調査で、丘陵斜
 面の3地点から、整然と一括埋納した状態で銅剣358本、
 銅鐸(どうたく)6口、銅鉾16本がまとまって出土した。
  刃こぼれなどが見られず、形式が単一であることなど
 から、鋳造後比較的短期間のうちに一括埋納されたもの
 と考えられている。
  それまでの弥生時代の日本全土で出土した銅剣の総数
 を上回る数が一度に出土したのだった・・
  この地方の強大な勢力の存在を示すものだった。
  この銅剣は、武器としてより祭器としての性格が強い
 と考えられている。
  弥生時代を代表する3種の青銅器が一括埋納された遺跡
 の最初の発掘例となった。
  銅剣は中細銅剣で、損傷が見られず、単一型式を示す
 ことから、製作後比較的早い時期に埋納されたと考えら
 た。
  銅鐸はいずれも小型で、菱環鈕式横帯文銅鐸 1、外縁
 鈕式四区袈裟襷文銅鐸 5。
  銅鉾は中細形 2、中広形 14で、北部九州からの搬入品
 と考えられている。
  銅鐸・銅鉾も共伴遺物がなく埋納時期は不明、最も新
 相を示す中広銅鉾の年代より弥生中期末~後期前葉以降
 と考えられている。
  この遺跡は、弥生時代の青銅武器、特に、銅剣が過去
 の出土総数を大量に上回り、従来の分布論を破壊した。
  また、不時発見の多い埋納青銅器としては例外的に正
 式な発掘調査で出土し、埋納状況が明らかになった点も
 重要。
  1998年の出土品は一括して国宝に指定された。
  これによって、出雲が神話だけの存在ではないと考え
 られる契機となった・・
  王国あるいは文化圏の存在・・
  (参考)不時発見:工事中などに、予想されていなか
     った埋蔵文化財が確認されることを言う。
.
紀元前2世紀~紀元前1世紀、加茂岩倉遺跡が発見された・・
  これは、不時発見・・
  弥生時代中期から後期
  島根県東部、雲南市加茂に所在する弥生時代の集落跡
 の銅鐸埋納遺跡。
  赤川の支流を遡(さかのぼ)った狭い谷の最奥部、標
 高138メートルの丘陵南斜面の中腹。
  荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4キロメートルし
 か離れていない。
  1996年10月、農道工事に伴い丘陵地を掘削中に谷底よ
 り18mの斜面から、史上最多の39の銅鐸が発見された。
  重機による掘削中に、突然異様な音がしたため、直ち
 に重機を止めた運転者が「誰がポリバケツをこんなとこ
 ろに埋めたのか」と考えつつ近づいたところポリバケツ
 ではなく銅鐸を発見した。
  銅鐸の高さは30~50cmで、ほとんどが大きい銅鐸の中
 に小さな銅鐸が入っているという「入れ子」の状態で出
 土した。
  このうち7個は絵画銅鐸で、ウミガメの絵が描かれてい
 るものや、吊り手に小さな人の顔が描かれているものも
 あり、これらは、これまで出土したどの銅鐸にもみられ
 ない独特のもの。
  また 12個の銅鐸の吊り手には×印がついており、わず
 か3kmほど離れた神庭 (かんば) の荒神谷遺跡で出土した
 358本の銅剣の328本の把手にみられた×印との関係も注
 目を集めた。
  39個の銅鐸は国宝に指定された。
     ・
     ・
372年、倭王に、朝鮮半島百済王が朝貢した時に、鉄刀
 「七支刀(しちしとう)」が献上された。
  ヤマト王権が担った外交の一端を示す史料である。
  刀の表裏に計61文字の銘文が金で表わされている。
  朝鮮半島で、高句麗が南下した事への危機感が贈呈の
 背景にあるとみられている。
  東アジア情勢を語る史料となっている。
  この鉄刀は、奈良の石上神宮に伝わり、国宝となって
 いる。
  長さ74・9センチ、
  日本書紀などの史書に、百済が倭に対して複数回朝貢
 していて、人質も差し出していることが記述されている。
  そして、七支刀の献上について、日本書紀神功皇后
 政52年条に、百済倭国の同盟を記念して神功皇后へ「
 七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたと
 の記述がある。
  紀年論によると、この年が372年にあたり、年代的に
 日本書紀と七支刀の対応、および、合致が認められてい
 る。
  銘文の判読された内容・・
  表:「泰始四年(268年)夏の中月なる5月、最も夏な
    る日の16日、火徳の盛んな丙午の日の正午の刻に、
    百度鍛えた鋼の七支刀を造る。
     これを以て百兵の兵器の害を免れるであろう。
     恭謹の徳ある侯王(倭王)に栄えあれ、寿命を
    長くし、大吉の福祥あらんことを」
  裏:「先世以来、未だこのような刀は、百済には無か
    った。
     百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝と倭に寄せ
    ることにした。
     それ故に、倭王百済王に賜われた「旨」を元
    にこの刀を「造」った。
     後世にも永くこの刀と共に倭と百済が伝え示さ
    れんことを」
     ・
     ・
8世紀後期、日本は、唐文化を卒業し、唐文化を無条件に受
 容しなくなった。
     ・
     ・
10世紀末、この頃、現在、使用されている西洋歴(キリス
 ト紀元)が定着した。
  「イエスの生誕年が何時なのか?」の問題が起きた。
  古代のキリスト教年代学を受け継いだフライジング
 ギリシャ語訳聖書をもとに計算して5500年と算出した。
  ユリウス・アフリカヌスでは5500年、
  エウセビオスとヒエロニムスでは5199年、
  アウグスティヌスでは5349年、
  人類史をキリスト教は6000年としている。
  このことから、キリスト教は、この頃、『終末が近い』
 とし、その終末の到来を恐れた。
  人々は、終末が切迫しているとの認識が強かった。
     ・
     ・
1882年5月、アメリカと朝鮮が米朝修好条約を締結した。
  この時、中国・清は、その条約の中に「朝鮮は、清の
 属国だ」という条文を入れさせようとした。
  朝鮮・韓国が、中国・清の冊封体制したにあったが、
 「そう甘いものではなかった」。
  ただ、中国・清に挨拶に行けば良いという様な甘いも
 のではなかった。
  1881年、清国は、対朝鮮関係を監督を強化した。
  わざわざ再編して強化した。
  今まで監督していたのは中国・清国の礼部が行ってい
 たが、海軍を率いて大活躍したことで有名な李鴻章の下
 に移した。
  この時、李鴻章は北洋大臣をしていた。
  朝鮮に対する清国の干渉は強まった。
  伝統的な宗属関係なんてものではなかった。
  その様な強烈な対応を清国はとった。
  また、その様な状況の中で、1882年5月、アメリカと朝
 鮮が、米朝修好条約を締結するが・・中国・清は斡旋・
 仲介をして、朝鮮は中国・清の「属国だ」と、条文に記
 す様に動いた。
  条約上で明文化しようとした。
  アメリカは、その異常さに反対をした。
  結果、中国の思惑は失敗した。
  中国・清は、この様に単なる冊封ということでなく、
 他国の条約締結にも口出しをして、アメリカだけでなく、
 欧米列強各国、および、世界へ印象づけ、朝鮮は、中国
 が宗主だということを承認させ様とした。
.
1918年12月22日、原内閣は、パリ講和会議に向けた人種差
 別撤廃に関する訓令案を決定した。
  欧米の人種差別行為を止めさせたかった。
  この当時、欧米列強諸国に、キリスト教にマインド・
 コントロールされた「有色人種差別」が根強くあった。
  (とは言っても、2020年の今・現在でも、人種差別が、
 まだ、なされている状況・・)
  この頃、黒人の方々が、卑劣な奴隷の身分から解放さ
 れていたとはいえ、まだまだ、アメリカ社会のキリスト
 教国やヨーロッパ社会には、黒人の方々を初め、黄色人
 種に対する人種差別がどぎつく、卑劣にも行われていた。
  ハワイの方々は、王国を潰され、アメリカに乗っ取ら
 れていた。
  日本は、それに強烈に抗議をしたが、その日本人が、
 黄色人種蔑視の差別を受けていた。
  中国人と共に、人種差別の嵐の中に居た。
  第二次世界大戦でも、黒人の方々は、最前線に立たさ
 れ、白人兵より黒人兵士の方が戦死率が高かった。
  70年前の出来事であるが、キリスト教に流れる有色人
 種差別観にマインド・コントロールされた状況は、そう
 簡単に抜けきるものではなかった。
  キリスト教国の国家がイニシアチブを取って出来た国
 際連盟も、キリスト教の価値観で判断されるという社会
 だった。
  イスラム社会がノーベル賞から除外されている今・現
 在の状況とまったく同じだった。
  強いキリスト教信仰のキリスト教国オーストラリアも、
 この前まで「白豪主義」と言って、「白人だけによる豪
 州(オーストラリア)」という軽蔑すべき人種差別政策を
 とっていた。
  また、先住民の黄色人種アボリジニの方々を、動物
 のごとく撃ち取ってよいという法律を作ってまでして、
 アボリジニの方々を動物狩りの様に虐殺していた。
  また、この強いキリスト教信仰国家は、キリスト教
 迷信「鯨は知恵のある動物で、高いステージにある」と
 いう迷信を掲げて、日本の捕鯨に大打撃を与えた。
  日本の食文化の一画にある鯨食は消し去られた。
  その一方、オーストラリアは、カンガルーを撲殺・虐
 殺するという行為をしている国。
  食文化というものは、それぞれの国々が育んだ尊重さ
 れるべきものだ。
  オーストラリアの歴史より古い太地(たいじ)町の鯨
 漁が大きな被害を受けた。
  オーストラリアは、この太地の方々へ謝罪と補償をし
 なければならない!!
.
1941年4月13日、日ソ中立条約が合意され、署名された。
  この条約の中に、満州国の領土保全と相互不可侵を約
 束した条項があった・・
  しかし、この後、ソ連は、この条項を無視し、満州
 どへ武力侵攻の行使をした。
  ソ連は、1945年4月5日に、「翌年(1946年)に満期に
 なるが自動延長はしない」と日本政府に通達して来た。
  つまり、それまでは破棄しないという姿勢を見せ、「
 破棄する」という意思をソ連は日本側にまったく見せて
 いなかった・・つまり、現状は継続するという姿勢を見
 せていたが、ソ連は裏切った。
  そして、武力侵攻をし、日本人の一般市民を虐殺した。
  また、ソ連は捕虜と言ったが、日本兵ばかりではなく
 日本人の一般市民までシベリアへ連れ去った・・拉致・
 誘拐である・・
  この行為は「シベリア抑留」と言われているが・・拉
 致行為であり、誘拐行為である。
  そして、捕虜だと言っていたが、日本兵だけではなく
 大勢の日本人の一般市民を連れ去った。
  このことを書いた本「女たちのシベリア抑留(小柳ち
 ひろ著)」がある。
  ソ連は、多くの日本女性を強姦して卑劣な行為をした
 が、シベリアへも連れ去った。
  その日本女性たちは、その時から70年以上が経たなけ
 れば口を開くことが出来なかった・・それほど精神的シ
 ョックは大きかった・・あまりにもつらい出来事だった。
  開拓団の方々の妻たち、女子学生、日赤看護婦の方た
 ちなど・・
  本来、ソ連は連れ去ってはいけない方々まで、非人道
 的にも、ソ連(現:ロシア)は、シベリアという極寒の
 地へ連れ去っていた。
  そして、北極圏から中央アジアという広大なソ連の領
 内へ連れて行き、抑留し拘束した。
  そして、何ら罪のないこの様な方々へ重労働を科した。
  多くの方々が命を落とした。
  悲しいことに、この方たちの中に「日本に帰ろうと思
 っておりません」という留まらざるを得なくなった大き
 な精神的打撃を受けた方々も居る。
  まったく人生をソ連によって踏みにじられた方々・・
  ここに、ソ連の抑留システムのその極めて非人道的な
 面がある。
  これから、日本は、この補償についてもソ連(現:ロ
 シア)に求めて行かなければならない。
  韓国が言うような1000万円/1人という補償を求めて
 行かなければならない!
.
1946年11月3日、日本国憲法が公布された。
  日本国憲法は、アメリカが最初から最後まで、すべて
 を作った・・これがプロパガンダ(嘘宣伝)されている・・
  日本は、ただ、その憲法の『翻訳に徹しただけ』。
  しかし、この事実がまったくプロパガンダ(嘘宣伝)さ
 れ、戦後、70年以上経った2020年でさえ間違って認識し
 ている・・
  日本が自主的に作った「自主憲法だ」と・・
  その様に思い・・思わされている。
  日本は「翻訳だけ」という役割分担さえあった。
  しかし、この様な真実は「報道しては駄目だ」とアメ
 リカからの偽(いつわ)りの卑劣な強制があった。
  アメリカの何が「自由だと言うのだ?」・・
  アメリカの何が「民主主義だというのだ?」・・
  日本国民の民衆にまったく情報を与えないで、日本国
 民の意思などを問わないで、アメリカが『独裁』で与え
 た日本の現行憲法なのた。
  アメリカは、言論統制(プレス・コード)を強いた。
  アメリカは、ラジオ・コードも強いて、徹底的に検閲
 を実施し、秘密にさせた。
  事実は、まったく報道できない状態におかせた。
  長い間、アメリカは、この様な非民主主的な行為を日
 本に対して行っていた。
  NHKやマスコミは、「日本国憲法アメリカが作っ
 た」とは決して報道しなかった。
  『最大のタブー』とされた。
  しかも、NHKやマスコミは、嘘を報道し始める。
  アメリカが作った日本憲法を、言い換えて「日本の政
 府草案だ」と「嘘の報道し始めた」。
  NHKやマスコミは、「日本がある程度、自主的に作
 ったのだ」と「嘘の言い方をし始めた」。
  アメリカが、強権をもって、箝口令(かんこうれい)の
 口封じをして、日本に与えた日本の現行憲法を「強烈に
 定着させた」。
  世界記憶遺産ものの「茶番劇憲法制定劇場だった」。
  アメリカの戦後の日本改造政策の大成功事例の一つだ
 った。
  それとも??? そのすべてをお見通しの日本国民は、
 そのアメリカの筋書きに、その演技指導に乗ったふりを
 して、やって来たのか?
  しかし、今、日本を取り巻く環境に、現行のこの日本
 国憲法は、耐えられなくなっている。
  そろそろ日本も、核兵器を搭載・装備した原子力潜水
 艦を持たねばならなくなっている。
  女房・子供の笑顔を維持するために、その行動に移る
 時になって来ている。
  愚かな人間・・ある程度の力を持たないと「外交の正
 常さ」は保てないのだ。
  その様な状態にしてから・・それから・・平和外交が
 スタートする。
  丸腰の人間に「真に耳を傾ける」は・・絵空事
.
1959年、この年に始まった在日朝鮮人の帰国事業
  この帰国事業の始まる前の・・終戦後のこと・・
  日本へ、朝鮮半島から渡って来ている朝鮮の人たち・・
  そのお父さんたちは、朝鮮で貧しさの中で苦労し、日
 本に渡ればよくなるかと日本へ渡って来ていて・・日本
 に来たと言っても苦労はした。
  自分の子供たちには・・自分が食べさせねばならない
 と・・また、この子たちは餓えさせまいと・・自分は食
 べなくても、子供たちには食べさせた。
  そして、そのお父さんは、自分の知り合いの日本人宅
 を訪れた。
  お父さんは、子供たちとは違って、色々な人間関係を
 持っていて、人間的付き合いを持っていた。
  そして、朝鮮からの方々が訪れて来た、そして、長い
 話の中で食事をして戴いた。
  その様な中で、ある時の話だが・・お新香(カラシ菜)
 が美味しいと、その方はよく食べられた・・
  よく食べて戴いたので、母は、次から丼(どんぶり)で
 お代わりを出して差し上げた・・
  それも食べるという余程可哀想ですがお腹(なか)が空
 いていた様でした。
  食事がすでに終わっていたので、話の御茶受けにお新
 香を出したのですが、この様な展開をしていた。
  しかし、急に空きっ腹にお新香(おしんこう)を入れた
 ものだから、急に腹が痛くなり、急にトイレはどこです
 か?と聞いた。
  トイレを教えてあげたけれど、少しトイレまで遠かっ
 たので、トイレまでの途中の廊下でその方は粗相(そそう)
 をしてしまった。
  厳しい戦後の中の話の一コマで、日本人とて大変で、
 その中で朝鮮からの方々も必死に生きていた。
  日本人の人々も、できることをして差し上げていた。
  近所で、日本人のお父さんが栄養失調で亡くなったと
 いう話が耳にも入って来ていた頃・・その様な厳しい時
 代だった・・
  今・現在、韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領が、
 半分、引っ掛けの様な言い掛かりを日本に言って来てい
 るが・・
  日本に来ていた韓国の当時の方々は、この文在寅の様
 な卑劣な非礼な言い方はしなかった。
  日本にまったく非が無い話に・・「日本から解決案を
 示せ」と言う韓国の文在寅である。
  例えば、あなたがまったく悪くない話で、相手から「
 誠実に解決案を示せ」と言われたらどの様に思いますか?
     ・
     ・
2020年1月12日、インド太平洋に、アメリカ陸軍が新部隊を
 配備する・・
  今後、2年で、中国やロシアに対抗 (読売新聞)
  アメリカのマッカーシー陸軍長官は10日、ワシントン
 市内で講演し、今後2年間で、複数領域で作戦を行う新た
 な2部隊をインド太平洋地域に配備する方針を明らかにし
 た。
  中国やロシアに対抗する狙いがあり、サイバー戦・電
 子戦の実行や、極超音速兵器の運用などを想定している
 という。
  「2021会計年度に最初の部隊を配備する」と述べたが、
 具体的な配備先には言及しなかった。
  「中国が米国の戦略上の脅威として台頭するだろう」
 とも指摘し、装備の近代化を進める重要性を強調した。
.
2020年、文在寅ムン・ジェイン)・韓国大統領さん!!
  「他人(ひと)の顔を殴っておいて、未来志向で行こう」
 という言い方は成立しませんよ・・
  文在寅・韓国大統領よ、貴方は、よくこの様な引っ掛
 けの言い方をしますが・・貴方は、まず、謝罪をしなさ
 い。
  人を引っ掛ける言い方は止めなさい。
  誠実になりなさい!!
  元徴用工の件は、「条約で解決した」と合意しました
 ね!
  それを、「元徴用工の問題の解決案を日本政府が出し
 なさい」は、頓珍漢(とんちんかん)な言い方をする文在
 寅・韓国大統領となっています。
  「韓国政府が、すべて解決するから韓国政府へ金を渡
 してくれ」と言ったのは韓国政府です。
  その様に条約で確定し、約束したのを無視しないこと。
  問題があるのは「韓国政府に問題がある」のです。
  それを、さも、何も知らない世界の人を騙す様に、「
 日本政府に解決案を出しなさい」は成立しない言葉です。
  日本政府が、逆に、「韓国政府が解決するからと言っ
 たことが履行されてないではないか」・・と問いただし
 たい。
  だから、「韓国政府よ!! 解決案を出しなさい!!」と
 言いたい。
  こんな、人を騙す様な言い方ばかりする韓国政府よ、
 誠実になりなさい!!
.
2020年、文在寅・韓国大統領は「未来志向の改善をしたい」
 と言うなら、まず、自分の失言を謝罪しなさい!!
  自分の失言を謝罪しないで「未来志向で行こう!!」は
 成立しません。
  韓国大統領は「この様な引っ掛け発言をするから注意
 を要する」。
  謝罪がないなら安易にこの大統領とは手が握れない。
  例えば、他人(ひと)の顔を殴って、「未来志向のため
 に手を握ろう」と言われて、手が握れるか?という事。
  日本から「未来志向のために、韓国大統領の失礼発言
 について誠実に話し合おう、そして、悪いと韓国は分か
 ったら、誠実に謝罪しよう」と言いたい。
  韓国は、未来志向のために「誠実に謝罪しなさい!!」。
.
2020年、中国は、根拠を明確に示さないで「日本人を捕ま
 えている」。
  根拠を示さないので「拉致状態となっている」。
  それも一人・二人ではない。
  十人、またはそれ以上という大変異常な状態となって
 いる。
  これは犯罪行為だ。
  この様に中国は国際法的にも通用しない行為をする国
 家である。
  この様な状況の改善が何らなされない状態で「習金平
 を国賓として迎えようとしている」。
  この問題がはっきり解決されないならば、国賓として
 の訪日は拒否するべきだ。
.
2020年、社会資本の整備に於いて・・アンバランスな状況
 にある・・
  一方は勿体ない工事を行ない、一方はまったく手が付
 けられない・・
  予算のある組織が「まだまだ使えるものをバカバカ壊
 し、新しいものを造る」。
  予算の無い組織は、「直さなければならない」と思い
 ながらも、そのままにするから落下する様な橋などが出
 るというアンバランスな日本の社会資本の維持の状態と
 なっている。
  例えば、NEXCO中日本のやり方はまったく勿体な
 い。
  贅沢(ぜいたく)なやり方をしている。
  「30年、経ちましたから壊して作り替えてます」と言
 って壊している。
  30年で寿命が来るわけない。
  30年で作り替えるほど壊われる訳はない。
  また、これまで十分にメンテナンスをして「供用年限
 を伸ばす努力をして来たのか?」・・と言いたい。
  あたかも人間の寿命の様に「寿命が来ましたから」と
 何ら『根拠のない年限』で取り壊しの破壊行為となって
 いる。
  人間の細胞の寿命とはまったく違うのだ。
  その事が分かっていない。
  予算が余っているのだ。
  テレビでも新聞でも、不必要な宣伝・通知を繰り返し
 ている。
  まったく潤沢(じゅんたく、豊かにあるさま)な行動
 をしている。
  その取り壊し行為、そして、作り替えにしっかりした
 裏付けがあるのか?
  「どんぶり勘定的な30年が来たから」では駄目なのだ。
  点検を丁寧に行なって、メンテナンスを丁寧に行なっ
 ていれば「半永久的に供用できるものなのだ」。
  工事をする技術者集団の無駄遣いとなっている。
  本当に修復が必要な日本の他の社会資本へその技術者
 集団を振り向けるべきだ。
  何しろ丁寧に点検して、丁寧にメンテナンスをせよ!!
  社会資本は大事に大切に使いなさい!!
  このNEXCO中日本の潤沢な金は他へ回わすべきだ!!
.
2020年、日本人は、子供に、よく「ありがとうと言いなさ
 い」と言う。
  子供に、何か良いことをしてくれた方に、子供が感謝
 の言葉を忘れている時には、親は、その感謝の言葉を子
 供に言い、感謝の気持ちを現(あらわ)すことを促(うなが)
 す・・それが大切な行為だから、その様にしつける・・
  「感謝の気持ちを表わすことが、人間関係を築く上で
 一番大切だ」ということを「教え」そして「しつける」。
  日本は、韓国に大分(だいぶ)良いことをして来ている
 が、韓国から「感謝の言葉を貰(もら)ったことがない」。
  韓国は、プライドが高いので感謝の言葉を言わない。
  しかし、優しい日本は、その様な韓国の態度でも、何
 かと韓国を助けて来た。
  そして、韓国は、相変わらず感謝の言葉のない行為を
 し続けて来た。
  逆に、卑劣な行為を日本にして、日本はその様な卑劣
 な行為を受けて来た。
  日本人はしないという最悪レベルの「卑劣な行為」を
 受けて来た・・
  日本大使館前の慰安婦像の設置が最悪な行為で、その
 反省さえ韓国にはない・・
  この様な濡れ衣をでっち上げられたうえに、さらに、
 この様な行為をされている・・
  これからは、この様な事を看過せず、必ず、韓国に正
 邪を正そう。
  そして、必ず、韓国に感謝の意を表明させ、感謝状を
 必ず貰(もら)おう。
  今まで、日本にあることないこと、悪口の言いたい放
 題でも、日本は、金を出したりして支援をしたが、この
 様な態度の時は、絶対に金は出さない様にしよう。
  国際裁判所での判決が、そのほとんどが日本の勝利に
 なっている様に、常に、日本は正論を言って来た。
  つまり、日本の正論が分からない韓国には、日本の正
 論をあくまでも説き、その正論が理解されないなら絶対
 に金は出さない様にしよう。
  理解されて金を出したのならば、常に、感謝状を貰お
 う。
  約束をしたって、後で、なんだかんだと好き勝手を言
 って条約でも何でも、取り決めたことまでひっくり返す
 韓国には、ここまでしっかり徹底的にやろう。
  そして、条約をひっくり返す場合は、違約金を支払う
 取り決めにしよう。
  これから、韓国には、温情抜きで毅然としよう。
  同じことは繰り返さない様にしよう。
  いくら応援しても、後の金、次の金を引き出すために
 何かを探して、悪口を言い出す韓国には、とことん正邪
 を正してから、金を出す様にしよう。
  「ひねくれたやり方が通る様な状況」に絶対ならない
 様にしよう。
  韓国系の日本の国会議員も、韓国の屁理屈に手を貸す
 様なことはしない様に・・
.
2020年、26の文字しか知らない民よ!!
  十万字を超えると言われる漢字の事が想像できるか?
  ナポレオンの辞書には、「不可能」という言葉が無い
 そうだが??
  我々の辞書には、約五万字が記載されている。
  そして、常に、三千字以上の文字を使用する民の思索
 の深さが想像できるか?
  そして、26文字しか知らない民よ・・君たちは表意文
 字を持たないが・・表音文字だけの世界に住んでいるが・・??
  日本語は、表音文字以外にも表意文字を持ち、そして、
 表音文字も一種類ではない・・この様な豊富な文字で意
 思を伝達をしているのだ・・
  君たちは、この豊かな日本語に代わりなさい!!
  日本語を、世界共通語にしなさい!!
.
2020年、日本の財務省は、国際金融カルテルの動きに敏感
 に影響されている。
  日本の財務省は、日本の生存の根幹を左右し、日本の
 生命の根幹も左右している・・
  例えば、今回の消費税の増税も、財務省の強い意思の
 下に行われた。
  消費税を増税しない方が良いことは誰でも分かってい
 た・・
  今まで消費税を上げると、毎回、景気は後退局面を迎
 えていた・・
  それで、消費税を増税しないで景気上昇をさせた方が
 良いという事は誰もが思っていたが・・その様にはなら
 なかった。
  その様な強い意思で増税を行わせた財務省が悪いとい
 う話も出るが・・財務省への裏の力があった。
  国際金融カルテルは・・アメリカに関係している。
  そして、そこで力を持っているのが銀行幹部たち・・
  この選挙で選ばれた訳でもない者たちが、金融カルテ
 ルを牛耳って、各国の中央銀行を通じて、各国の経済を
 無言のうちにコントロールし、支配している。
  余り知られていないが・・国家を超越した巨大な存在
 となっている。
  アメリカがきれいごとを言って、「グローバリズム
 なんて言って・・
  アメリカの仕掛けは・・アメリカの中央銀行の様に思
 わせているFRB(連邦準備銀行)が・・中央銀行の役割
 しているのが・・これは「おかしい組織」・・
  何で?? 国の中央銀行の様なことをするのだ??
  FRBの正体は「完全なる民間の銀行」・・
  何で?? 民間機関が国の役割を行っているのだ?
  この様なシステムを成立させている・・アメリカの金
 融システム・・
  そして、これが、ウォール街シティグループを持っ
 ている。
  そして、これらに大きく影響されている日本の中央銀
 行の日本銀行(日銀)・・
  そして、財務省
  為替を操作され・・自由にされている。
  日本人が一生懸命に働いても、為替で操作されれば、
 国の状態は変わってしまう。
  簡単には、良くなんてならない。
  完全に操作されている。
  こんな面を持つ「自由主義社会の金融システム」・・
 こんな資本主義制度下で働いている。
  ディープステイトと言われる者たちに集まる利益メカ
 ニズムが存在し・・
  反対行為をすれば「操作されてしまう」・・
  財務省が悪いのではない・・
  これに挑戦している形になっているのが中国・・
  果たして中国が・・「自分の意思を通せるのか?」
  中国の暗号資産(仮想通貨)は成功するか?
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)675E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年8月)

題:(増補版)675E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年6月29日、中越鉄道の高岡駅伏木駅間の建設の仮免
 許状が下付された。
.
1897年6月、滝川仮工場(旭川工場の前身)が作業を開始した。
.
1897年6月、十勝線の旭川駅~美瑛駅間が着工した。
.
1897年6月、天塩線の旭川駅~蘭留駅間が着工された。
.
1897年6月 関西鉄道の加茂駅~木津駅間の建設の仮免許状
 が下付された。
.
1897年7月1日、第十八国立銀行が、国立銀行制度改革で株
 式会社十八銀行と改称転換した。
  営業は継続・・
  因みに、1907年(明治40年十八銀行は、ウラジオス
 トクに松田銀行部(十八銀行支店)を開業した。
  ロシアは、外国人法人による銀行支店の開設を認めな
 いため、頭取の松田庄三郎の個人名義として開業し、こ
 れは実質的な支店である。
.
1897年7月1日 北海道炭砿鉄道の室蘭駅輪西駅間が開業し
 た。
  因みに、従来の室蘭駅輪西駅と改称し、新たに室蘭
 駅を設置)した。
  北海道炭礦鉄道(ほっかいどうたんこうてつどう)は、
 官営幌内鉄道が開業した手宮駅(小樽市)~幌内駅(三
 笠市)間の鉄道路線を、1889年(明治22年)に譲渡され、
 現在の北海道旅客鉄道JR北海道函館本線の一部など
 を建設した私鉄。
  沿線の炭鉱から産出される石炭を、積出港に運搬する
 役目を担った。
.
1897年7月1日、逓信大臣が、閣議に鉄道局から作業機関を
 分離し鉄道作業局の設置を提案した。
.
1897年7月4日、労働組合期成会の発起人会が開会し・・
  翌日の1897年7月5日、労働組合期成会が創立した。
  労働組合期成会は、労働組合結成を目的とした団体で、
 1897年7月5日に高野房太郎らによって、労働組合運動の
 促進をめざす「労働組合期成会」が結成された。
  期成会の母体となったのは、1891年(明治24年)に、
 サンフランシスコで日本人労働者により組織された職工
 義友会だった。
  高野房太郎は、城常太郎、沢田半之助の職工義友会の
 仲間とともに仮幹事に選ばれた・・片山潜も加わった。
  労働者が中心のものの、一部財界人、知識人が資金を
 援助し演説会に出演するなど・・
  秀英舎(大日本印刷)の社長・佐久間貞一、東京工業
 学校(東京工業大学)講師の鈴木純一郎、高野の弟岩三
 郎ら・・
  後に、期成会に積極的に応じ、会員に加わったのは鉄
 工関係だった。
  鉄工は、旋盤工や仕上工、缶詰工など金属関係の職工
 の総称で、多くは東京砲兵工廠や石川島造船所、日本鉄
 道大宮工場など比較的大規模な工場で働く労働者だった。
  1897年12月1日、労働組合期成会の働きかけで日本最初
 の近代的労働組合「鉄工組合」が創立された。
.
1897年7月10日、九州鉄道の武雄駅~早岐駅間が開通した。
.
1897年7月12日、貨車取扱及貨物積載方心得を制定した(鉄
 運乙第763号、7月20日施行)
.
1897年7月15日、豊川鉄道の豊橋駅豊川駅間が開通した。
.
1897年7月19日、汽車検疫規則が制定された(内務省令第19
 号)
.
1897年7月22日、九州鉄道の長与駅長崎駅(現:浦上駅)間
 が開通した。
.
1897年7月22日、豊川鉄道の豊川駅一宮駅間が開通した。
.
1897年7月30日、成田鉄道延長線の成田駅川越駅間(我孫
 子・野田・岩槻・大宮経由)仮免許状下付を出願した。
  (関東鉄道会社計画線、および、総州鉄道会社計画線を
 協議のうえ成田鉄道会社延長線とすることを協定したも
 の、31年9月19日免許状下付)
.
1897年7月、長野県松本で木下尚江や中村太八郎らが、普通
 選挙同盟会を結成した。
.
1897年8月1日、北越鉄道の鉢崎駅~柏崎駅間が開通した。
  北越鉄道新潟県内で鉄道を建設し、営業した鉄道事
 業者。
  現在の信越本線・・この線が、日本海岸の直江津から
 内陸の長野に向けて、1886年、路線を伸ばしはじめたも
 のの、直江津以北の官設による建設は見通しが立たない
 と判明した。
  そのため、地元新潟県有志は、渋沢栄一に東京の資本
 家を呼び込むことを依頼した。
  渋沢を発起人代表として、1895年、北越鉄道株式会社
 (本社:新潟市)を設立した。
.
1897年8月2日、日本勧業銀行が開業した。
  日本勧業銀行(後のみずほ銀行)が創立された。
  日本勧業銀行は・・殖産興業政策の推進の観点から、
 1877年頃より構想されて来た特殊銀行として設立された。
  1896年、日清戦争後の企業勃興期であったこの時に制
   された日本勧業銀行法により・・翌年1897年2月、資
   本金定1000万円で開業した。
   不動産担保による長期資金供給の専門金融機関とし
   ての性格を持ち、長期低利による農業開発資金、地
   方公共団体の耕地・農道・水路などの整備・改良資
   金などの貸し付けが期待されていた。
   その運用資金は、主として債券発行で調達されるも
   のとされた。
   開業当初には紡績業への救済もあったが、耕地整理
   資金の供給など農業面へ貢献するところが大きかっ
   た。
  1897年6月、日本勧業銀行法(勧銀法)に基づいて、
   ①農工水産業の改良、
   ②発達を促すため長期資金を供給する特殊銀行・・
    として設立された。
   創業時の資本金は1000万円。
   当時は、預金業務は許されていなかった。
   債券発行は認められていた。
  1902年、工業向けの長期資金供給機関として日本興業
   銀行が設立されたため・・
   日本勧業銀行は、農業向け長期資金供給機関として
   の性格を強めた。
  1910年、勧銀法改正によって預金、手形割引、短期貸
   付業務を開始した。
  第2次世界大戦後、救済銀行の役割を果たし、1921年
 日本勧業銀行及農工銀行ノ合併ニ関スル法律(勧農合併
 法)以来、農工銀行の吸収、合併によって全国の支店網
 を形成した。
  1950年、勧銀法廃止で普通銀行となった。
  1952年、長期信用銀行法の制定により、日本興業銀行
   が長期信用銀行に転換したが、日本勧業銀行は普通
   銀行として残存した。
  1971年10月1日、第一銀行と合併し、第一勧業銀行と改
   称した。
  2000年、日本興業銀行、富士銀行と共に持株会社みず
   ほホールディングスを設立した。
  2002年、3行が統合・再編されて、みずほ銀行、および、
   みずほコーポレート銀行となった。
.
1897年8月4日、後藤象二郎が死去した。
  後藤象二郎(ごとうしょうじろう)1838年天保9年3
 月19日)~1897年(明治30年)8月4日、60歳
  土佐高地藩士の出身。幕末から明治の武士、政治家。
  義伯父・吉田東洋に訓育された。
  乾(板垣)退助とは竹馬の友。
  1858年(20歳)参政(仕置役)吉田東洋に抜擢され郡
   奉行、普請奉行に任じた。
  1862年(24歳)武市瑞山一派による東洋暗殺事件後は
   藩の航海見習生として江戸に出て航海術、蘭学、英
   学などを学ぶなどして雌伏期間。
  1863年(25歳)前藩主・山内容堂(豊信)が7年ぶりに
   帰藩、藩論を元に復して勤王党粛清を実行すると、
   象二郎は大監察に就任した。
  1865年(27歳)武市瑞山ら勤王党の罪状裁断の衝に当
   たった。
   吉田東洋の富国強兵路線を継承し、推進機関たる開
   成館を開設、開港場・長崎に出張所を置き土佐の特
   産品の樟脳の輸出を企て、自ら長崎に出張。
   この時、亀山社中を経営する脱藩浪士・坂本竜馬
   開合、坂本の論策である広議政体論・大政奉還論に
   賛同、山内容堂の強い支持を得て、公議政体派とし
   て討幕派とのつばぜり合いを演じたが、王政復古政
   変から鳥羽・伏見の戦いに至り、討幕派に機先を制
   せられた。
  1867年(29歳)1月、坂本龍馬と長崎の清風亭で会談し
   た・・土佐藩大政奉還武家手動き出す契機とな
   った。
   龍馬は、姉の乙女らへの手紙で、後藤について「実
   ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニハ
   あるまいと存候(ぞんじそうろう)」と評している。
  公武合体大政奉還運動に活躍(公議政体論を唱え、
 前藩主・山内豊信(とよしげ)を説得し、大政奉還の建
 白書を幕府に提出させた。徳川慶喜の動きに影響を与え
 た)
  明治維新後は新政府に仕えた(参与、参議を歴任)が・・
  1873年明治6年)(35歳)征韓論に敗れて辞任し、西
   郷隆盛、板垣退助と共に下野した。
  副島種臣江藤新平板垣退助らとともに愛国公党
 組織して、民撰議院設立建白書の提出に参画した。
  1881年(43歳)板垣退助らと自由党を結成。
  1887年(49歳)自由民権運動末期の大同団結運動を提
   唱し起こし、大きな役割を果たしたが政府に買収さ
   れ・・
  1889年(51歳)以降、逓信相・農商務相を歴任した。
  伯爵。
  1897年8月4日死去。60歳。
.
  (今日の言葉)
.
  題:海底でも日米の連携を強化する。
    その目的は、中国が、この分野で情報を奪う恐れがあるから・・
    また、国賓としての習近平の来日の条件・・
    習金平の国賓としての訪日の条件として、訪日したら日本のしきたりに従うということ。
    つまり、日本の安倍首相と習金平がそろって「靖国神社の参拝を行なう」ということ。
.
1392年~1897年、李氏朝鮮
  韓国・朝鮮の李朝は、その500年間の歴史のすべてが政
 争に明け暮れた。
  豊臣秀吉軍が朝鮮へ行くが、韓国・朝鮮と戦う意思は
 無かった。
  (参考)文禄・慶長の役
      文禄の役(1592年~1593年)
      慶長の役(1597年~1598年)
  「仮道入明(かどうにゅうみん」で、朝鮮半島を通っ
 て中国の明に入るのが目的だった。
  この様なことが起きそうな、この様な国家緊急のこの
 時でさえ、韓国・朝鮮の李朝は、王や臣下が、国家や国
 民の事など、まったく眼中になく、政争を続けていた。
  李朝は、中国・明の冊封を受け、従属されている半独
 立国家の状態であった・・
  外交、国防は、明へ委託状態だった。
  眼が中国にしか向いていないという状態だった。
  そして、「虎の威を借る狐」状態で・・
  日本をまったく馬鹿にし、無視し・・情報も無いに等
 しかった。
  当然、正しい日本についての情報が無ければ、また、
 正しい判断もできないという状態だった。
  秀吉が侵攻ではなく「仮道入明」で、その意思を伝え
 るため、李朝の国王の日本への招待の意味の入朝の国書
 を送っても、半分無視で、その対応を李氏朝鮮は誤るの
 だった・・『無能力』状態だった。
     ・
     ・
1544年10月、史実をまったく無視する嘘のテレビの韓国番組
  史実として・・『朝鮮王朝実録』の『中宗実録(チュ
 ンジョンシルロク)』に大長今と呼ばれて重用され、王
 の主治医となった医女がいたことが書かれている。
  大長今に関する記述は中宗実録に10箇所あるが・・
  王の主治医を務めたとされる記述は、中宗39年(1544
 年)10月の『予證女醫知之』(予の証は女医これを知る)
 という一行のみである。
  放送大学教授対談で、吉田光放送大学教授・東京大
 学名誉教授(朝鮮史)は、高橋和夫放送大学教授の『チ
 ャングムの誓い』が歴史に忠実であるか? の問いに・・
  ほぼ100%フィクション(作りごと)で、史実に基づい
 ていない・・と答えている。
  古田博司筑波大学教授は、チャングムの「物語をその
 まま史実だと思いこんでいる」ファンも多いが・・
  「朝鮮の李朝では、女子が宮中に出仕すると王様と疑
 似婚姻関係に入るので、一生外に出られない」ので「チ
 ャングム女史のように出たり入ったりはできない」・・
  また、「ドラマでは、李朝時代は色彩にあふれている
 が、ほんとうは顔料がないので、民間には色はない」と
 本作を非難している。
  朝鮮王朝時代の陶磁器(李朝白磁など)の顔料は青(
 青花)黒(鉄絵)赤(辰砂)の3種類だけ・・、
  そのうち1色、または、2色を用いた淡彩画的なものし
 かなく、日本の伊万里焼の色絵磁器のような華やかなも
 のはない。
  当然ながら、朝鮮と日本とでは美意識は異なる。
  著名なものとしては、大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の
 青花辰砂蓮花文壺などがある。
     ・
     ・
1898年5月、ロシアが、中国・清へ卑劣な最終的な利益獲得
 要求をする・・それは・・
  ①旅順と大連の25年間の租借、
  ②満州を横断する東清鉄道から旅順と大連までの南支
   線の敷設権。
  ロシアは、これによって満州を通過してその南の旅順
 まで南下できる様になった。
  このことによって、ロシアは、渤海湾とその周辺の制
 海権を得た。
  また、渤海湾に面する天津から北京に至る重要な戦略
 的領域を押さえた。
  そして、この頃、ロシアは、韓国の高宗が親露政策を
 とっていたこともあり、ロシアは、韓国へ軍人を派遣し
 た。
  また、軍事教官の派遣と国王警備の編成について韓国
 側と進めている。
  また、ロシアのアレクセーエフが韓国の財政顧問とな
 った。
  また、彼は、関税長にも任命された。
  また、露韓銀行も開設された。
  完全にロシアの南下政策の領土獲得政策が日本の『水
 際まで迫って来ていた』。
.
1898年、イギリスのアジアにおける政策が大転換した。
  その原因は、ロシアだった。
  この年、ロシアは、中国・清をまったく馬鹿にした威
 圧的な条約を結んだが・・
  イギリスにとって一番気になったのは渤海湾、および、
 その周辺のロシアの制海権が確立したことだった。
  このことによって中国の首都・北京への海上要路をロ
 シアは制圧できる様になった。
  それでなくても、ロシアは、武力的にまた威圧的に領
 土を奪い、十二分に陸上の要衝を抑え、戦略的優位を持
 つに至っていた。
  ロシアの行動は、単に、経済的利益を得るという行動
 だけではなかった。
  このアジアのバランスを崩す侵略国家・ロシアの出鼻
 をくじいたのが日本だった。
  日本は、日露戦争で、この侵略国家ロシアの出鼻をく
 じいたのだった。
  また、日清戦争で中国・清は、日本との戦いに敗け、
 韓国を属国としていた冊封 体制を止めさせられた。
  これは、単に、韓国を独立させたというだけの話だけ
 でなく、東アジア諸国にも影響を与えた。
  中国の冊封から逃れさせた。
  その様な中国へ、また、東アジア諸国へ、利権を求め
 てヨーロッパ列強諸国が寄り付いて来た。
  ただ、ロシアの領土的侵略的野心を持った行為はだけ
 は、単なる経済的利権を求める今までの形を変えて、侵
 略国家丸出しで『覇権を構築して来ていた』。
  今、中国が、南シナ海の戦略基地化の侵略的事例の様
 に・・今、中国は、この時のロシアの様な行為をしてい
 る。
  この時、卑劣な条約によるロシアの進出に、イギリス
 は、方針を大転換した。
  ロシアの圧倒的な戦略的優位の確立という事態を黙過
 できないとした。
  1898年5月、イギリスは、ロシアへの対抗措置として、
 渤海湾の反対側に、威海衛を軍港として中国・清から租
 借した。
  また、1898年6月、すでに手にしていた香港島の対岸(
 中国本土の側)の九竜半島を99年の租借をした。
.
1900年、傲慢なロシアが、中国の義和団事件に乗じて『南
 満州を占領した』・・日露戦争前のロシアの傲慢な蛮行・・
  (参考)義和団事件:欧米ロシアなどの列強による
     山東半島租借危機感を抱いた中国民衆が、「扶
     清滅洋」のスローガンを掲げて武装集団化し、
     1899年に蜂起した。
      翌・1900年には、天津を占領し、北京も掌握
     したが・・
      同年・1900年8月14日、英・米・ロシア・日本
     などの列強8ヶ国連合軍によって制圧された。
  (参考)扶清滅洋:ふしんめつよう、清朝を助けて西
     洋を討ち滅ぼす意。
      中国清末、欧米勢力の進出に反対して民族主
     義者が用いた標語。
      義和団のスローガンとなった。
  (参考)多額の賠償金のほか、北京・山海関沿線の外国
     の駐兵権を認め、人民の反帝運動の鎮圧を清朝
     が義務づけられるなど、中国の半植民地化をい
     っそう深めるものであった。 
      1899年から1900年にかけ、義和団が「扶清滅
     洋」の旗をかかげたことから、清朝義和団
     関係については異なる評価があるが、清朝は基
     本的に反人民的立場をとりつつも、宮廷内抗争
     もからんで懐柔・利用と弾圧の両面の対応の間を
     揺れ動き、対外的には排外主義と投降主義の間
     を揺れ動いた。
      結局、義和団帝国主義列強の両者から追い
     つめられ、帝国主義の側に投降した。
  このロシアのこじつけ理由による南満州の侵略・占領
 行為・・
  世界、および、日本の注目は、当然、ロシアは撤退す
 るもので、いつ撤退するかという点だった。
  1902年4月に、ロシアと中国・清との間で条約が結ばれ
 た・・
  その条約「満州還付に関する露清条約」では・・
  ①条約調印後6ヶ月以内に、盛京省西南部地方の軍隊を
   撤退させる(第一期)
  ②次の6ヶ月以内に、盛京省残部および吉林省の軍隊を
   撤退させる(第二期)
  ③またその次の6ヶ月以内に、黒龍江省の軍隊を撤退さ
   せる(第三期)
  以上が、ロシアと清国との間で確認された・・
  しかし・・
  長城に一番近い地域からの撤兵・・この第一期の撤兵
 はつつがなくなされたものの・・?
  第二期以降の撤兵に、ロシアは応じなかった。
  1903年4月18日、ロシアは、逆に、撤兵の見返りを清に
 要求した・・七項目の要求・・
  新聞報道・・1903年1月13日の記事・・
  「露国自ら満州より撤兵すといひ、既に其の第一回撤
 兵を終われりと曰ふも、是れ全然事実に非ずして彼は依
 然満州の占領を継続しつつあり、現に其の撤退したりと
 称する軍隊は僅かに服装を更たるのみ」
  ロシアの軍人は、軍服を脱いでいるだけだと報じてい
 る。
  実態は、撤兵はなされていないと・・
  第二期の撤兵が近づく1903年2月16日の記事には・・
  近づきつつある第二次撤兵期限に際して、ロシアは表
 面上の撤兵をするだろう・・と書いている。
  ほとんどのロシア兵は、東清鉄道敷地圏内に入って、
 兵装を解いて人夫に偽装して、実態は撤兵しないだろう
 と書いている。
  この時、日本は、清との条約に於いて、最恵国待遇条
 項があり、ロシアがこの様な状況であるなら、同様な状
 況を日本に与えてもらいたいとしている。
  逆に、日本は、この様な形で、しっかりロシアの撤兵
 を要求していた。
  強力な武力を背景に、ロシアが強硬な態度を中国に取
 っていた。
  今・現在の中国が、やはり強力な武力を背景に、何ら
 根拠のない南シナ海を戦略基地としてしまった状況と同
 じである・・
.
1904年2月8日、日露戦争(~1905年9月5日)
  日本政府が、国民を積極的に開戦へ導いたという痕跡
 はまったくなかった。
  また、日清戦争(1894年7月25日~1895年4月17日)の
 後、約10年、日本政府の側が日露開戦へキャンペーンを
 したなどということもまったくなかった。
  日露が戦えば日本は敗けるというのが、世界も日本も
 その様な見方だった。
  しかし、ロシアの「南下政策の侵略性」は最悪だった。
  中国は、良いようにロシアに領土を蝕(むしば)まれて
 いた。
  この様な東アジアにおけるロシアの態度によって「英
 米の政策が明確に大転換した」。
  満州地域において、日本とロシアの関係が最悪になっ
 ていた。
  ロシアの満州占領は強引だった。
  この様なロシアに、国際的な環境も戦争への道を自然
 に導くものであった。
  ロシアとの戦争を支持できる論理が広く社会に行き渡
 っていた。
  門戸を閉じる非文明のロシアという見方もあった。
  また、「自国民に専制をしくロシア」という見方もロ
 シアを悪者にしていた。
  まったく今の中国と同様・・武力と経済だけが異常に
 発達し、政治は一部の者による独裁という異常さだった・・
 民意はまったく聞かれないという状況だった。
  しかし、日本が、この悪者のロシアに対抗するとして
 も、ロシアとの戦争を可能とする軍備拡張が可能か?、
 また、その計画と完整時期は?
  また、戦費の確保が可能か? それも安定的に確保で
 きるのか?
  この様な戦略的問題点が種々あった。
  逆に、日本政府は、民間の対露強硬論を抑制するよう
 に動いていた。
  非力な日本の戦力・・
  日清戦争開戦時と日露戦争の開戦時を比較しても、そ
 の差は歴然だった。
  日本は、やみくもに戦争への道を進んだのではなかっ
 た。
  日清戦争開戦時、軍艦28隻、5万7600トン。水雷艇24隻、
 1475トン。
  主力の軍艦は、一隻たりとて世界的な水準ではなかっ
 た。
  10年後の日露戦争開戦時にはどの様になったのか?・・
  軍艦152隻、26万4600トン。
  この増強を可能にしたのは、1896年度からの世界水準
 の戦艦の建造努力で6隻(富士、八島、敷島、初瀬、朝日、
 三笠)。
  装甲巡洋艦6隻(浅間、常磐、八雲、吾妻、出雲、磐手)
 を基幹とする103隻、15万3000トン。
  この建艦計画を海軍が建て、着手し、達成させた。
  それを支えた日本の造船技術が凄かった。
  これが、日露戦争を勝利へ導いた第一関門だった。
  また、海軍だけでなく陸軍も努力した。
  日清戦争の時、8個師団(近衛、第一師団〜第七師団)だ
 ったが・・
  1898年には、第八師団〜第十二師団(弘前、金沢、姫路、
 丸亀、小倉)の五師団を一挙に新設した。
  また、日露戦争の開戦の頃は、第十三師団〜第十八師
 団(高田、宇都宮、豊橋、京都、岡山、久留米)を増設し
 た。
  そして、十九師団態勢となった。
  今、中国が、毎年、20%近くという馬鹿げた軍拡を続け
 て来ていて、民意も聞かないという独裁体制で、これを
 いいことにやって来ていて、この時のロシアの如く侵略
 的に南シナ海を奪ったりしている・・世界と協調しよう
 ともしない。
  世界は、これに迎合するな!!
  こんなことをして中国が作ろうとしている社会は、中
 華思想で、冊封体制社会・・
  中国へなびけば良しとして、敵対すれば悪しとする、
 何ら世界の声を聞かない、現在の中国の国家体制の世界
 版ができる。
  次元の低い統治システム、時代が遡(さかのぼ)る統治
 システム・・
  経済優先で、低劣な理念の中で生きることになる。
  個人の自由は低く見られる社会となる。
  そのいびつな社会を維持するために監視社会となる。
  情報は開示されず、隣の人が急に不明のうちに居なく
 なるという社会となる。
  体制への「ごますりマスコミ」しか存在しない。
     ・
     ・
1944年2月、日本の本土への帰還・・アメリカは、日本の民
 間人の乗った帰還の船も狙った・・
  島民及び日本人入植者
  日本人居留民の本土疎開
  マリアナ諸島防衛が真剣に検討されるようになると食
 糧事情も鑑み、昭和19年2月に兵員増強の輸送船の帰りの
 船を利用して、婦女子・老人の日本への帰国が計画され
 た。
  一方、16歳〜60歳の男性は防衛強化要員として帰国が
 禁止された。
  上記の疎開計画に従い、日本への帰国対象者はマリア
 ナ諸島各島からサイパンへと集結していた。
  しかし、3月の帰国船「亜米利加丸」がアメリカの潜水
 艦に撃沈され、500名の民間人ほぼ全員が死亡するなどの
 事件があった・・
  そのため疎開は進捗しなかった。
  そのほかにも、卑劣にも、6月4日沈没の「白山丸」な
 どでも多数の民間人の犠牲者が出ている。
  アメリカ海軍は、太平洋戦争開戦当初から民間船への
 無差別・無警告攻撃を行う無制限潜水艦作戦を卑劣にも
 実施していた。
  日本の真珠湾攻撃では、1人のアメリカ民間人の殺戮を
 していない。
  戦闘開始段階での在留邦人は約20,000人と推計される。
.
1945年~1989年、米ソ冷戦期は44年間続いた。
  アメリカ・ロシアは、冷戦期、3万発~4万発もの核弾
 頭を製造し持っていた。
  本気で相手を殺そうとして持っていた。
  こんな軍事政策を、アメリカとロシアは実行していた。
  こんな事は、一瞬に「ニューヨーク・ホロコースト
 「モスクワ・ホロコースト」(核大虐殺)が現出して、
 国家指導者のコントロール不能状態となる。
  何百基、何千基、何万基、撃ち合って、世界中が阿鼻
 叫喚の核地獄となる。
  始めたアメリカとロシアはもとより、お互いの国民の
 半分は、30分~40分以内に死に至る。
  アメリカとロシアの当事国だけではなく、1時間以内に、
 全世界の半数が死ぬ。
  今・現代、この様な核保有国に、中国もなった。
  そして、何百万年も、えいえいと築いてきた人類のす
 べてが消滅する。
  「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても良
 い」は・・成立しない。
  アメリカも、ロシアも、キリスト教国である・・??
.
1945年、戦後、マッカーサーが、日本人を馬鹿にして、日
 本語の字数の多いことにびっくりして・・「こんなに字
 を覚えている訳がないだろう」・・と・・
  「日本語は低劣だから英語に変えろ」と言った。
  そうだろう、わずか26文字のアルファベットしか知ら
 ない御仁に、日本語は驚嘆な字数だろう・・言葉だろう。
  「テストをしてみろ」という事になり・・まったく日
 本人を馬鹿にした話だが・・テストが行われた・・
  テストを日本人に実施してみて「そのほとんどが100点
 に近い点を取ったという日本人」に、また、「マッカー
 サーは、びっくりした」。
  低劣な文字数の人間には想像できない「ハイレベルの
 日本人」の話だった。
  逆に、アメリカが日本語化せよ!!
.
1950年6月25日~1953年7月27日、朝鮮戦争が戦われた。
  1950年11月24日、この朝鮮戦争中のこの日、アメリ
   のF51戦闘機が偵察中に、北朝鮮最北部の小さな家
   の周囲で、何やら不明な行為が行われているのを発
   見した。
  1950年11月25日のその翌日、その家をアメリカ軍は、
   大挙して攻撃した。
   ナパーム弾による繰り返し爆撃をした。
   この家は、司令部だった。
   ここに、毛沢東の長男・毛岸英が居て、このナパー
   ム弾攻撃で、焼き死んだ。
  (参考)毛岸英:もうがんえい、1922年10月24日~1950
     年11月25日、28歳、毛沢東の長男、
      1950年夏、北京機器総厰の党総支部の副書記
     に任じられた。
      しかし、朝鮮戦争彭徳懐のロシア語通訳と
     して従軍中、平安北道昌城郡東倉面大楡里(現
     在の東倉郡大楡労働者区)において、アメリ
     空軍のナパーム弾による爆撃で戦死した。
      墓には、北朝鮮の最高指導者でもある金正日
     やその後継者の金正恩など両国の要人が訪れた。
  毛沢東も将来を楽しみにする才能に恵まれた人だった。
  元帥のロシア語通訳も勤める優秀さだった。
  中国首脳は、アメリカと、中国軍に朝鮮戦争で空中援
 護をしなかったソ連スターリンに、その死の責任を帰
 した。
  毛沢東は、この子息の死について、常に、スターリン
 を責めた。
  この朝鮮戦争で、ソウルは4回も統治する持ち主が入れ
 替わった・・そのくらい激戦だった。
  そのため、ソウルの栄光を示す歴史遺産などは、その
 ほとんどが失われた。
  南北朝鮮で、合わせて数百万人の人々がこの戦争で死
 んだ。
  そして、500万人が難民になり、数十万人の子が、孤児
 となった。
.
1980年代、慰安婦問題が議論されるようになり問題となる。
  NHKや朝日新聞が、韓国の慰安婦問題などの火付け
 役だった・・(参考:ニュース女子
  慰安婦問題は、日本の活動家が頼み込んで問題にして
 くれと言った。
  中国なんか問題にしてなかったのにこの様な行動をし
 た。
  頼み込んだのはNHKの元ディレクターの女性や、朝
 日新聞の女性記者などの大手マスコミの活動家だった。
  由々しきなのは徴用工判決に向けて日韓併合が違法で
 あったというアイデアを持ち込んだのも東京大学の教授
 や京大、一橋などの一流大学の教授陣が日韓の学者たち
 とやった。
  (参考)大沼 保昭(おおぬま やすあき、1946年〈昭
     和21年〉3月8日~2018年〈平成30年〉10月16日
     は、日本の法学者。東京大学名誉教授。
      元明治大学法学部特任教授。専門は国際法学。
      東大法学部在学中に、全共闘運動やベトナム
     反戦運動に影響を受け、在日韓国・朝鮮人の指
     紋押捺撤廃やサハリン残留朝鮮人の帰還運動な
     どに参加。
      また戦争責任問題の追及でも知られるなどリ
     ベラル色が濃いが、日本国憲法第9条に関しては
     改正容認の立場を取るなど、従来の左派勢力と
     は立場を異にしている。
      日本軍の関与と強制性を認めた1993年の河野
     談話を否定する動きには「『看護婦になる』な
     どと業者にだまされた人が多い。
      日本軍は慰安所を黙認していた。
      法的、道義的に許されない行為に国家として
     関与していたことの責任がある」「戦争を反省
     して、平和で安全で豊かな社会をつくってきた
     戦後の歩みこそが誇り」と語り、保守派が過去
     を反省する姿勢を「自虐」と断じることへの危
     惧を表明した。
      「首相が被害者のところに行って深々と頭を
     下げてほしい」と語った。
  西岡力氏が強調した。
  慰安婦が強制連行されたわけでも性奴隷でもなかった
 ように・・
  また、徴用工は強制連行されたわけでも奴隷労働を強
 いられたわけでもなく・・
  日韓間では解決済みの問題である。
  西岡氏は当時の状況を具体的に振りかえるべきだと、
 強調する。
  私が補償するから、私に金をくれと言った韓国政府・・
  それ故、日本に個人補償させずに、まとめて資金を受
 けとった朴正熙元大統領・・
  もし日本が個人補償をしたら、朝鮮戦争の戦死者の補
 償よりも、日本の徴用で死んだ人への補償の方が高くな
 る。
  韓国の国が持たない。
  だから日本の資金をまとめて受けとり、それで独立運
 動家や亡くなった人の遺族に奨学金を出した。
  一人一人に配ると食べて終わりですから、ダム、製鉄
 所、道路を作り経済成長につなげ、元慰安婦も元徴用工
 も元独立運動家も皆を豊かにする『漢江の奇跡』に結び
 つけた。
  1966年から1975年まで、日本の資金の韓国経済成長へ
 の寄与率は20%。
  日韓双方に良い結果をもたらした。
  1965年の日韓請求権協定における「完全かつ最終的な
 解決」という合意がある・・韓国はこれを無視する。
.
1997年、NHKの北九州局の経理職員が印鑑の不正使用を
 して、銀行の口座から100万円を着服した。
.
1999年、NHK京都放送局の営業職員が、2001年にかけて
 208万円を着服していた。
.
2004年7月以降、NHKの不祥事
  ①出向のNHK職員が経費を私的に流用(約370万円)
  ②NHK職員が着服(取引銀行通帳改竄して約300万)
.
2019年5月19日、キリスト教に偏するNHKは、仏教を蔑視
 し、貶(おとし)める。
  この様なNHKが、「何かに失敗する」と仏壇の鐘(
 鈴・りん)をチーンと鳴らすという「仏教を貶(おとし)
 め、馬鹿にする放送をした」。
  NHKは、この様な放送を度々するという放送局で・・
  2019年5月19日、午後13時12分確認、NHKワールドで
 もしていた・・
  何度もビデオを見せて貶めるという放送内容だった。
.
2019年12月31日、田原総一朗のテレビの生放送における天
 皇陛下への侮蔑的発言・・
  生放送なので犯罪的行為がすぐに放送されるという問
 題があった・・
  田原総一朗が、急にその根拠を示さずにテレビで「天
 皇陛下に対する侮蔑的発言をした」。
  まったく根拠を示さず、一方的な侮辱だった。
  犯罪的な行為であり、この行為は看過してはならない。
  テレビ朝日にも、日本国民の電波を預かる意識がまっ
 たくない。
  放送法の違反行為でもある。
  この責任を田原総一朗に取らせよ・・テレビ朝日にに
 取らせよ。
  この様な生番組におけるゲリラ的な発言、生放送は直
 ぐに電波として日本全国へ流れてしまう。
  田原の「事前に計画された犯行」の様相がはっきり存
 在する。
  この行為によって日本国民が持っていた天皇陛下に対
 する尊敬の念が大きく傷付けられた。
  この失ったものに対する補償を田原総一朗と放送局(
 テレビ朝日朝まで生テレビ)はするべきである。
  (参考)放送時間:朝まで生テレビ、2019年12月31日
      0時30分~5時50分
  国に供託金を積む行為をまずせよ!!
  この番組は、間違った発言ばかりをしている。
  次の様な「訂正とお詫び」がある。
  「先月29日の放送で田原総一朗が『ベネッセが自民党
 の下村博文衆議院議員に二千数百万円の献金をしている』
 という趣旨の発言をしました。
  しかし、ベネッセから下村議員へのそのような献金
 ありませんでした。お詫びと訂正を致します」となった・・
  (その2)
  以下もあり、この様な事が多発している。
  「2019年12月7日、テレビ朝日系で11月30日未明に放送
 された討論番組『朝まで生テレビ!』で、司会のジャー
 ナリスト田原総一朗が事実と異なる発言をしたとして、
 同番組は7日までに公式サイトとツイッターで謝罪した」
  謝罪すれば済むという問題ではない。
  上記のように、確信犯的な行為を何回も続けてやって
 いる。
.
2020年、韓国は、苦しければ日本に助けてもらい、助けて
 もらっても帰る時は礼も言わずに帰るという国。
  礼儀に失した国。
  助けてもらう時もプライドが高いから『助けてくれ』
 と言わずに、その意思がありありなのに言わない。
  日本人は優しいからその点に気を配って、悟って助け
 てあげる。
  しかし、韓国は礼も言わない。
  簡単な挨拶だけ・・
  日本人なら「いつも、ありがとうございます」と常日
 頃から助けられていることも含めて礼をする。
  しかし、韓国は、プライドが高いのでその様なことは
 言わない。
  日本に「あることないこと、言いたい放題で、礼を失
 することまでする韓国」。
  助けてもらいたいなら「礼を尽くして、助けて下さい」
 と言うべきだが、韓国は言わない。
  駄々をこねたら「おしまい」ということを韓国に学ば
 せなければならない・・
  日本は、優しくて、人が良いから「そこで、韓国に与
 えてしまうから駄目なのだ」。
  駄々をこねたら、その論理が正しいのかが見極めがつ
 くまで、分別が付くまで「韓国を助ける行動を起こして
 は駄目なのだ」
  日本は毅然と正邪を正して、示さなければならない・・
  韓国の悪いところは、昔から素直に「金を支援して貰
 いたい」と言わないところ。
  韓国はプライドが高過ぎる。
  決して素直に金の支援を要求しない。
  逆モーションに来る。
  日本をこてんこてんに悪く言う。
  小遣いが欲しい子供が、素直に「小遣い、ちょうだい
 よ」と言う子と、何だか分からないが「ぐずぐずといつ
 までも駄々をこね、ぐずっている子」との違いである。
  日本は、優しいから思いやって小遣いをやったが、こ
 れが悪かった。
  これから、筋が通らないことには「一円もやらないこ
 と」。
  そして、必ず「ありがとう」と言わせること。
  毎回、御礼状を韓国から貰うこと。
  韓国には優しさが通じない。
  喉元を過ぎれば次の手が出て来るという国。
  韓国には一切妥協はしないこと・・
.
2020年1月8日、海底でも日米の連携を強化する。
  その目的は、中国が、この分野で情報を奪う恐れがあ
 るからで・・中国への情報流出懸念を無くすため・・
  読売新聞によると・・
  日本政府が海底ケーブルの輸出支援に乗り出す・・
  その目的は、この分野での中国勢の台頭を放置すれば、
 重要な機密データーが途中で抜き取られるといった安全
 保障上の不安を抱えてしまうから・・
  次世代通信規格「5G]の普及を見据えて、日米は携
 帯電話の基地局などのファーウェイ製の通信機器への警
 戒を強めているが、海底ケーブルでも連携を進める。
  世界のデータ通信量は、5Gの普及などで、2022年に、
 2018年の2.5倍に膨らむと予想されている。
  これに連動して、海底ケーブルの需要も拡大する見通
 しだ。
  アメリカは、同盟国に中国製の通信機器を使用しない
 よう呼びかけている・・そして、海底ケーブルについて
 も神経をとがらせている。
  アメリカ紙ウォール・ストリート・ジャーナルは昨年
 8月、中国通信大手が参加する香港~ロサンゼルス間の海
 底ケーブル事業に対し、米政府が許可しないことを検討
 していると報じた。
  また、米国と緊密に連携しているオーストラリア政府
 は2018年、ソロモン諸島などと結ぶ海底ケーブル建設で
 ファーウェイの小会社を排除した。
  米国などの懸念が最も大きいとみられるのが、海底ケ
 ーブルの両端に設けられる施設「陸揚げ局」などでのデ
 ータの抜き取りだ。
  この施設に中国製品が入り込むことを米国は強く警戒
 している。
  今後、ファーウェイの小会社など中国勢による海底ケ
 ーブルの敷設が拡大すれば、そこを起点として、ほかの
 ファーウェイ製品の使用が広がる可能性がある。
  海底ケーブルの敷設を受注した企業と同系列の機器を
 陸揚げ局など地上でも使用するケースが多いためだ。
  海底ケーブルの受注が突破口になり、米国によるファ
 ーウェイ製品排除の呼びかけの効果が抑え込まれる形だ。
  NECなど日本勢が受注競争で中国勢に敗れる影響は
 米国にも及ぶ。
  一方、中国政府側には、自国企業が海底ケーブル分野
 へ積極的に進出することで、新興国への影響力を強めよ
 うとする国家戦略がのぞく。
  習近平国家主席が推進する巨大経済圏構想「一帯一路」
 の海底版だと見ることもできる。
  海底ケーブルをめぐっても米中が攻防を繰り広げる中、
 日本の輸出支援は成果を上げることが出来るのか。
  例えば、日本は高速鉄道で一時、圧倒的に優位な立場
 に居ながら、その後、中国の急速な追い上げを受け、受
 注に競り負けるケースもあった。
  こうした轍(てつ)を踏んではならないが、そこに中
 国の低価格戦略が立ちふさがる。
  携帯電話の基地局の価格では、ファーウェイ製は日本
 勢の3分の1の安さだとされる。
  海底ケーブルでも同様に日本勢は価格面では、ファー
 ウェイに太刀打ちできないと見られる。
  このため、日本政府は今後、データの機密保持など日
 本勢が長年培ってきた信頼性と、品質の高さを前面に押
 し出し、日本勢が技術力で中国勢を上回っている間に、
 他国に売り込みをかける方針だ。
.
2020年1月8日、国賓としての習近平の来日の条件・・
  習金平の国賓としての訪日の条件として、訪日したら
 日本のしきたりに従うということ。
  つまり、日本の安倍首相と習金平がそろって「靖国
 社の参拝を行なう」ということ。
  そして、安倍首相と習金平は神殿にぬかづき、玉ぐし
 を捧げるということ。
  これができないのなら「国賓としての来日の資格はな
 い」。
  日本は、この日本の一番大切なことを中国に要求せよ!!
  また、今回の中国の習金平の国賓来日の答礼で「天皇
 陛下の訪中を依頼されても、天皇陛下が訪中してはなら
 ない」。
  答礼の訪中は、安倍首相がするべき・・
  万一の中国での天皇陛下の「暗殺のリスク」は避けね
 ばならない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  キリスト教よ! 性悪説で原罪があると言いたてるが・・
  純真な人々に「原罪がある」と言いたてる者こそ
 「原罪がある」。
  キリスト教聖職者たちよ! 君たちのためにどれだけ
 の若者が命を絶ったか?
  純真な人々には、「悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」
 を説き、諭しなさい・・
  「分け隔てなく、皆様に、佛となれる仏性が備わって
 いるのです」と諭す、そして、希望ある未来の仏性を備
 えた生活を享受する喜びを与える仏教。
  その様な仏性を持って生まれて来た大切なあなたの体
 なのですよ・・と教え、諭す仏教。
  破滅の心に洗脳され、性悪説に希望を無くし、天国の
 ことしか考えない・・その様に洗脳するキリスト教から・・
 目を覚ましなさい。
  純真な人々に「原罪がある」と言いたてる者こそ「原罪
 がある」。

(増補版)674E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年6月)

題:(増補版)674E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年6月12日、日本機械学会が設立された。
  これは、機械工学とその関連分野の学会・・
  設立の目的:「機械に関する学術、技芸の進歩、発達
 をはかり、かつ工業の発展のためにつくす」・・
  民法第34条により、文部大臣の認可を受けた社団法人・・
  会員数は、1996年3月現在、正員36,616名、准員2,466
 名、学生員5,598名、特別員1,053社の合計45,733名・・
  組織:東京の本部・事務局と・・
  全国各ブロックに置かれた8支部(北海道、東北、関
 東、東海、北陸信越、関西、中国四国、九州)・・
  および、20部門(計算力学、バイオエンジニアリング、
 材料力学、機械材料・材料加工、流体工学、熱工学、エン
 ジンシステム、動力エネルギーシステム、環境工学、機
 械力学・計測制御、機素潤滑設計、設計工学・システム、
 生産加工・工作機械、FA、ロボティクス・メカトロニク
 ス、情報・知能・精密機器、産業・化学機械、交通・物流、
 宇宙工学、技術と社会)・・からなる。
  (参考)FA:Factory Automation(ファクトリーオ
     ートメーション) ・・ 工場の自動化
  日本人のために、日本人が設計・製造し、日本人がそ
 れを使い生活するところから機械の国産化の歴史が始ま
 る。
  日本の産業革命は、この学会が設立された時期とほぼ
 同時期に確立したと言われている。
.
1897年6月16日、あめりかが詭弁のハワイ併合をする。
  米・ハワイ併合条約が調印され、ハワイ併合がなされ
 た。
  日本政府は、この不誠実なアメリカの行為に対して抗
 議を行った。
  (参考)詭弁:きべん、道理に合わない、言いくるめ
     の議論。ごまかしの議論。
 「詭弁を弄(ろう)する」。論理学で、相手の思考の混乱
 や感情につけ入って相手をだます、見掛け上は正しそう
 な、虚偽の推論。
.
1897年6月17日、神奈川県の船大工の360名が同盟罷工を行
 なった。
.
1897年6月18日、京都帝国大学(後の京都大学)が創立した。
  (6月22日説あり)
  創立以来「自由の学風」を建学の精神としている。
  日本で2番目に創設された、帝国大学の流れを汲んでい
 る国立大学・・
  大学の起源は、1861年9月20日文久元年8月16日)に
 長崎に設立された長崎養生所(後、長崎精得館へ改称)
 まで遡る。
  1949年、理学部教授・湯川秀樹が日本人初のノーベル
 賞に輝いた。
.
1897年6月20日高山樗牛(たかやまちょぎゅう)が、日本
 主義を提唱した。
  文学者、文芸評論家、ジャーナリスト、美学者、倫理
 学者、
  1871年1月10日、山形県に生まれる・・山形県鶴岡の酒
   井藩士の子(旧庄内藩士斎藤親信・ちかのぶ、芳の
   次男として生まれる)
  1873年(2歳)高山家の養子へ(父方の伯父・高山久
  の家)、養父の転勤で山形、福島と移る・・
  少年期から投書雑誌「穎才新誌」や地元新聞に投稿す
 るなど、文才を発揮する。
  1886年(15歳)上京し、東京英語学校に入学・・
  1887年(16歳)第二高等学校に入学(1888年説あり)
  1891年(20歳)学校の有志らと語らって「文学会雑誌」
   を創刊し数編の論文を載せた・・そこに、人生への
   懐疑、文学への志向などすでに浪漫主義のモチーフ
   があった・・
  1893年(22歳)東京帝国大学文科大学哲学科に入学。
  1894年(23歳)大学在学中、「平家物語」に材を取っ
   た悲恋物語歴史小説「滝口入道」を日就社の懸賞
   募集に応募し、当選し「読売新聞」に掲載された。
   一躍有名になったが、以後は小説の筆を執らなかっ
   た。
   学問の活性化を目指してエッセイストの道を選択し
   た・・
  帝大文科大学の帝国文学会機関誌「帝国文学」や博文
 館の雑誌「太陽」などに、それまでの戯作を批判し理想
 主義的文学を高く評価する評論を次々と発表し、注目を
 集める。
  1895年(24歳)「帝国文学」発刊に参加・・上田敏
   姉崎嘲風(あねさきちょうふう)らと編集委員となる・・
   近松文学に託して自らの思いを吐露する・・「愛」
   こそ「人生に対しては幸福の最大なる源」であり、
   「情死」こそ「幸福なる愛の最後」と書く・・
  1896年(25歳)大学卒業と同時に第二高等学校教授に
   就任し、一時、中央論壇から離れる・・が・・評論
   への志望が強く、翌年4月、二高教授を辞職し博文館
   へ入社・・
  1897年(26歳)「太陽」を主宰し復帰(主幹を務める)・・
   鋭い批評文を精力的に書く・・それとともに、東京
   帝国大学や東京専門学校(早大)に出講する。
   国家を史上の人格的存在ととらえ(国家至上主義)、
   それを自我の独立と直結する日本主義を井上哲二郎
   らと唱えた・・論壇を領導(りょうどう、統率して
   指導すること)する・・日本主義を太陽に掲載・・
   木村鷹太郎らと大日本協会を起こし、機関誌「日本
   主義」を創刊した・・
  1900年(29歳)欧州留学を目の前にして、突如、血を
   吐いて倒れる・・
   次いで、ニーチェの死に際し、大いに感化を受ける・・
  「美的生活を論ず」等でニーチェの思想を賛美し、ニ
  ーチェ主義を主張する・・個人主義へ転換・・本能満
  足主知を主張し、浪漫主義宣言として反響を呼ぶ・・
  ニーチェへ傾倒は、ニーチェを天才主義の文明評論家
 として解釈し礼讃する・・ニーチェの強烈な「超人」的
 な個性に魅かれて行く・・「美的生活を論ず」など大き
 な反響を引き起こした・・
  この天才主義、主我主義は、理想の人格を日蓮に見い
 出し、崇拝し傾倒した・・日蓮を絶対的な予言者と見た・・
  1902年(31歳)文学博士となる・・
  明治35年12月24日(1902年)歿、32歳
  死の直後、桑木厳翼(くわきげんよく)が、樗牛の「煩
 悶(はんもん、浪漫主義~日本主義~個人主義の三変)は、
 一貫して一つの問題に触れて居(い)」た、それは「人生
 問題と云(い)ふものゝ解決であつた」と述べている・・
  このように、変転する彼の思想遍歴のうちに新しい時
 代の刻印をはっきりと見ることができる。
  著「美的生活を論ず(1901年)」「わが袖の記(1897
 年)」「文明批評家としての文学者(1901年)」「平家
 雑感(1901年)」「平相国(1902年)」「日蓮上人と日
 本国(1902年)」「日蓮と基督(1902年)」「日蓮上人
 とは如何なる人ぞ(1902年)」など。
  言葉:己れの立てるところを深く掘れ、そこには必ず
    泉あらん
.
1897年6月26日、河口慧海(えかい)が、チベット調査に出
 発した。
  河口慧海(かわぐちえかい)、黄檗宗の僧侶、仏教学
 者、チベット探検家、大正大学教授。
  「チベット旅行記」など著書多数。
  中国や日本に伝承されている仏典に疑問が指す・・従
 来の漢訳仏典の正確さに疑問を抱いた。
  仏陀本来の教えの意味を知りたいと・・それが分かる
 物を求める・・梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を
 決意・・チベット語原典の研究を志して、インドからチ
 ベットへ密入国・・
  日本人で初めて首都・ラサに至り、チベット一切経
 どの多数の貴重な資料を将来(しょうらい、持って帰る
 こと)した。
  「西蔵旅行記」「在家仏教」をはじめとして数多くの
 著作を残している・・慧文社から著作選集も出版されて
 いる。
  1866年(慶応2年)摂津国堺山伏町(現:大阪府堺市
 区北旅籠町西3丁)生まれた。
  1899年(明治32年)(33歳)1月、仏陀成道の地ブッダ
   ガヤに参り、摩訶菩提会の創設者であるダンマパー
   ラ居士より釈迦牟尼如来の舎利をおさめた銀製の塔
   とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿
   り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと
   託された。
  1900年(34歳)7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ド
   ルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)
   を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成
   功した。
  1902年(明治35年)(36歳)5月上旬、日本人だという
   素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計
   画した。
    親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬
   屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典
   などを馬で送る手配を済ませた後、
  1902年(36歳)5月29日、英領インドに向けてラサを脱
   出する。
   捕まった者たちが投獄の上、責め苦に会っていると
   いう情報を聞きながら・・ネパールへ
  1903年(37歳)3月、慧海が自ら書いたチベット法王ダ
   ライ・ラマ宛ての上書をネパール国王を通じて法王
   へ送ってもらう事に成功・・また、国王より多くの
   梵語仏典を賜る。
  因みに、1887年(明治20年)前後から、日本仏教界に
 は「入蔵熱」(チベット入国フィーバー)が起こってい
 た。
  何人もの有為の仏教徒が、ヒマラヤ山脈からチベット
 高原にかけ、果てしなく広がる「未テラ・インコグニタ
 知の土地」の探検に名乗りを上げていた。
  当時、チベットは国が閉ざされていた。
  チベットの内情はほとんど知られない国だった。
.
  (教の言葉)
.
  題:
.
紀元前7200万年、この頃の恐竜の骨が、北海道で見つかっ
 た。
  全身骨格の可能性がある。
  希少な例。
  2013年9月から本格発掘を開始する。
  ハドロサウルス科の恐竜。7.2トン。
  全長8メートル。白亜紀後期。
  顎(あご)と歯。
  800~1000本の歯を持っている。
  植物を食べていた。
  裸子植物も食べる歯だった。
  2014年9月、頭部発見を目指す。
  歯の化石発見。頭もあるはず ⇒⇒ あった。
     ・
     ・
     ・
9世紀~10世紀、神聖ローマ帝国が成立した(1806年まで
 続いた)
  神聖ローマ帝国は、ローマ皇帝が頂点に居る国家だっ
 た。
  しかし、それはプロセイン、オーストリア、バイエル
 ンなどの「領邦国家」や、ハンブルク、ケルンなどの「
 自由都市(帝国都市)」が350くらい集まって構成されてい
 た。
  この領邦国家の下には、農村や領邦都市があった。
  それらは、領邦君主の政治支配は受けるが、都市はお
 おむねギルドなどの市民の団体によって運営されていた。
  農村は、東部などでは領主が直接経営する場合もある
 が、西部ドイツでは、村の運営も村人自身にゆだねられ
 ているのが多かった。
  領邦国家自由都市が集まって一つの有機体の「神聖
 ローマ帝国」を構成していた。
  1806年、この神聖ローマ帝国が、ナポレオンによって
 命脈を絶たれた。
  そして、この頂点に居た君主は、絶対君主として「キ
 リスト教の神」から授けられたと、長い間、ヨーロッパ
 で、何らかの政治的主張の根拠とされたのが、いつも「
 キリスト教の神」だった。
  この考え方も、命脈が絶たれる時代となっていた。
  啓蒙主義者たちは、「人間の持つ理性を気付かせた」。
  君主の権力の源にキリスト教の神へ求め王権の絶対性
 を主張し唱える「王権神授説」があったが、これを批判
 した。
  啓蒙主義者たちは「歴史の主体を人間に於いてその根
 拠を説いた」。
  「キリスト教の神の姿」が消える時代となった。
  当然の人間主体の正当な論理だった。
     ・
     ・
17世紀〜18世紀半ば、ヨーロッパに列強諸国が成立した時
 代。
  各々の個性が異なるフランス、イギリス、ロシア、オ
 ーストリア、プロイセンが成立した。
  そして、これから、世界で悪さを始める。
.
17世紀、綿に関わる産業が、17世紀のイギリス産業革命
 主要産業となった・・ここにインドの犠牲があった・・
  綿花を原料とする木綿・綿織物は、インドが原産であ
 る。
  12世紀になって中国へ伝わり、重要な産業となった。
  また、西方にも伝わり、イスラム世界を経由してヨー
 ロッパにも伝えらられた。
  17世紀のイギリスの産業革命の主要産業となって、イ
 ギリス産綿布は、インドや中国に運ばれ、大きな経済的
 変動の要因になった。
  インドには、豊かになる素地があった。
  広い国土に、そして、その沃野に綿は良く育った。
  また、綿工業もよく育っていた。
  しかし、イギリスは、このインドを単なる綿の原料供
 給国に貶(おとし)めてしまった。
  インドの綿産業を奪い、綿製品の消費国にして利益を
 収奪した。
  イギリスは、綿工業の製品を大量生産し、インドの産
 業を潰した。
  それは、イギリスの目的通りのけいかだった・・
  そして、イギリスは、産業革命がさらに進んだ。
  逆に、インド綿産業は破壊されて、そして、無くなっ
 た。
  そして、インドは、イギリスの市場となって落ちぶれ
 た。
  これを、イギリスは、インド社会を「文明化した」と
 称した。
  キリスト教の神の「倫理的信託だ」と称した。
  イギリスに、「インドを文明化する使命があった」と
 論じた。
  発展途上のインドに、「半未開状態に居る事を押し付
 けた」。
  「停滞状態に居る事を押し付けた」。
  そして、イギリスは、インドを支配した。
  自身は、これを「天命だ」「義務だ」と称して、侵略
 状態を正当化した。
  この様な「ヨーロッパ諸国の『偽善論』で世界の支配
 が行われた」。
  フランス・ドイツの列強諸国も、競い合いながら、同
 様にして「世界で収奪した」。
.
1642年、イギリス議会とイギリス王室が内戦を起こした。
  10年間にわたる大戦争で、何十万人という犠牲者を出
 した。
  クロムウェルが率いる議会軍が王朝軍を破り・・
  1649年、国王のチャールズ一世を処刑し・・
  共和制を宣言した(ピューリタン革命、1642年~1649年)
  イギリス王室は途絶えた・・
  そして、このイギリスの共和制も、クロムウェルの死
 去によって終わった・・
  1660年から、王政に再び復帰した。
     ・
     ・
18世紀末、この頃に至ると、キリスト教国のヨーロッパ諸
 国は、やっと『劣等感から』立ち直ることができた。
  18世紀の初めに知った、特に、「中国の事実」は衝撃
 的だった。
  まず、中国の歴史の事実が、キリスト教の構築して来
 た「歴史を完全に破壊した」。
  そのキリスト教の歴史の空理空論が実証された。
  しかも、その中国の「史実は、確かなもの」で崩すこ
 とが出来なかった。
  キリスト教の架空の作り話が痛烈に指摘された状態に
 なった。
  そして、この打ちのめされたヨーロッパは、この状況
 から立ち直るためにとった方策は、「徹底的な中国やア
 ジアの卑下だった」。
  2000年以上前に、ヨーロッパが影も形も無かった頃に、
 中国は立派な社会・文化・文明を築いていたが・・「そ
 の状態で進歩は停止し、今は、その古いままにある」と・・
 屁理屈を言った・・
  この徹底的な蔑(さげす)みによってヨーロッパは、
 やっと立ち直った。
  中国が、世界最古で、かつ現在でも最高の民族である
 ことを認めますが、その水準に停止している・・と、「
 200年前のヨーロッパ」のままだ・・と・・
  ヨーロッパは、何ら根拠のない「こんな薄ら根拠」で
 立ち直った。
  卑劣な「中国やアジアの差別化によって」自らを慰め、
 そして、救われた。
  モンテスキューは、自著「法の精神(1748年)」で、
 政体がヨーロッパでは「専制政体や君主政体」で自由を
 基礎として、文化の進歩や発展が生じるが・・
  中国やアジアは、古来から常に専制政体が存続してい
 て、その政体は、「人間の隷属を基礎としている」ので、
 文化も変化せず進歩もしないし、停滞していると決め付
 けた。
  その様なヨーロッパは、中国やアジアは、暖(あった)
 かいからそうなるのだなどと、もっともらしい風土論で、
 その自信回復を支持した。
  アジアを無気力とし、ヨーロッパは、強い国と強い国
 が接し、互いに接して、その国々は、ほぼ同様な勇気を
 持っていると自身を讃美した。
  肥沃で広大な沃野を持つアジアを評価してない、また、
 ヨーロッパのハレムの女性の存在などに目が行ってない、
 また、市民的奴隷制の存在にも目が行ってない。
  ローマなど奴隷制社会である。
  「アジアの政治的な隷属」などヨーロッパが指摘でき
 る立場にはない。
.
1806年〜1807年、ロシアは、江戸幕府に、日本との通商を
 断わられた腹いせに、『日本の領土の樺太(現:サハリン)』
 や『日本領の択捉島(えとろふとう)』にある日本の施設
 を襲撃した。
  この様なことを卑劣にも繰り返していた。
  特に、択捉事件の時は、南部藩津軽藩の藩兵と激し
 い交戦をした。
  日本は、退却を余儀なくされた。
  このことを江戸幕府は、隠すことなく全国の諸大名に
 報じた。
  ロシア船蝦夷地襲撃の情報は瞬(またた)く間に全国へ
 広まった。
  「蝦夷地での騒動の噂を禁じた町触(まちぶれ)も出さ
 れたりした」。
  また、「日本国の大恥」「異国之物笑(いこくのものわ
 らい)」などと幕府の軍事面の失点を非難する言葉もあっ
 た。
  攘夷の意識は国民の中にもあった。
  日本近海への外国列強の接近に対する危機感は、幕府
 や大名だけでなく、「一般国民にも高かった」。
  民衆も、地域共同体の運営を通じた政治的才覚が民の
 中にも育っていた。
.
1820年以降、アメリカやイギリスの宣教師が次々とハワイ
 へ押し寄せた・・そして・・
  1898年に、アメリカに併合されてしまった。
  その後、英語化が進められ、現在はハワイ語は消滅の
 危機にある。
.
1862年4月4日、ユゴーの「レ・ミゼラブル」が発売された。
  翌日の午後、パリで第一部上下巻6000部が完売した。
  第二部、第三部の発売の日には、朝6時に早くも出版社
 の前の通りは人であふれ、行列の整理のために警察官が
 出勤する騒ぎになった。
  そして、「レ・ミゼラブル」は世界各地でベストセラ
 ーとなった。
.
1870年、ダーウィンが「種の起源」を発表したのが1859年
 だった。
  当然、従来のキリスト教聖書の教えるところの人間の
 位置づけと真っ向から対立するため・・
  キリスト教の宗教界は大騒ぎとなった・・
  大きな批判の声が挙げられた・・反対の声が挙げられ
 た。
  そして、論争がなされた・・
  しかし、キリスト教が敗けるのも早かった。
  1870年を過ぎる頃は、キリスト教の命運は尽きていた。
  各国の学界も、進化論に軍配を挙げた・・
  進化論の位置づけもゆるぎないものとなっていた。
.
1896年6月、ロシアは、ニコライ二世の戴冠式に出席した中
 国・清の李鴻章に莫大な賄賂を送り、条約を締結した。
  その条約は、対日秘密条約で「露清防敵相互援助条約」
 (李・ロバノフ密約)だった。
  内容は、条約の標記の内容の他・・
  鉄道敷設権をロシアへ与えるものだった。
  ロシアは、黒龍江省吉林省を通ってウラジオストッ
 クに通じる中東鉄道(東清鉄道)の敷設権を得たのだった。
  さらに、1896年10月、東清鉄道に関する条約が改定さ
 れて、黒龍江省吉林省と盛京省の東三省鉄道とシベリ
 ア鉄道の接続が認められた。
  そして、ロシアは、傲慢にも、1897年12月、中国・清
 を脅した。
  ロシアは、旅順に軍艦を入港させて清を脅し、強引に
 次のことごとを要求した。
  ①黄海沿岸の一港の租借、
  ②工業の独占権、
  ③満州内モンゴルの鉄道敷設権(満蒙鉄道敷設権)、
  ロシアは、シベリア鉄道の有効性を向上したかった。
  この鉄道ですみやかに兵力を東アジアへ運びたかった。
  ロシアの南下政策で、益々、日本海沿岸から朝鮮が、
 ロシアの行動しやすい権益利益領域となって来た。
.
1898年5月、ロシアが、中国・清へ最終的な利益獲得要求を
 した・・それは・・
  ①旅順と大連の25年間の租借、
  ②満州を横断する東清鉄道から旅順と大連までの南支
   線の敷設権。
  ロシアは、これによって満州を通過してその南の旅順
 まで南下できる様になった。
  このことによって、ロシアは、渤海湾とその周辺の制
 海権を得た。
  また、渤海湾に面する天津から北京に至る重要な戦略
 的領域を押さえた。
  そして、この頃、ロシアは、韓国の高宗が親露政策を
 とっていたこともあり、ロシアは、韓国へ軍人を派遣し
 た。
  また、軍事教官の派遣と国王警備の編成について韓国
 側と進めた。
  また、ロシアのアレクセーエフが、韓国の財政顧問と
 なった。
  また、彼は、関税長にも任命された。
  また、露韓銀行も開設された。
  完全にロシアの南下政策の領土獲得政策が日本の水際
 まで迫って来ていた。
.
1898年、イギリスのアジアにおける政策が大転換した。
  その原因は、大胆な行動をするロシアだった。
  この年、ロシアは、中国・清をまったく馬鹿にした威
 圧的な条約を結んだ。
  イギリスにとって一番気になったのは渤海湾、および、
 その周辺のロシアの『制海権が確立』したことだった。
  このことによって、ロシアは、中国の首都・北京への
 海上要路が制圧できる様になった。
  それでなくても、ロシアは、武力的にまた威圧的に領
 土を奪い、十二分に陸上の要衝を抑え、戦略的優位を持
 つに至っていた・・陸上でも制圧していた・・
  ロシアの行動は、単に、経済的利益を得るという行動
 だけではなかった。
  この様なアジアのバランスを崩す侵略国家・ロシアの
 出鼻をくじいたのが日本だった。
  日本は、日露戦争で、この侵略国家・ロシアの出鼻を
 くじいたのだった。
  また、日清戦争で中国・清は、日本との戦いに敗け、
 韓国を属国としていた冊封体制を止めさせられた。
  これは、単に、韓国を独立させたというだけの話だけ
 でなく、東アジア諸国にも影響を与えた。
  中国の冊封から逃れさせた。
  その様な中国へ、また、東アジア諸国への利権を求め
 てヨーロッパ列強諸国が寄り付いて来た。
  ただ、ロシアの領土的侵略的野心を持った行為は、単
 なる経済的利権を求める「今までの形」を変えて、侵略
 国家丸出しで・・ロシアは覇権を構築して来た。
  今、中国が、南シナ海の戦略基地化の侵略的事例の様
 に・・今、中国は、この時のロシアの様な行為をしてい
 る。
  この時の、卑劣な条約によるロシアの進出に、イギリ
 スは、方針を大転換した。
  ロシアの圧倒的な戦略的優位の確立という事態を黙過
 できないとした。
  1898年5月、イギリスは、ロシアへの対抗措置として、
 渤海湾の反対側に、威海衛を軍港として中国・清から租
 借した。
  また、1898年6月、すでに手にしていた香港島の対岸(
 中国本土の側)の九竜半島を99年の租借をした。
.
1920年代〜1930年代、日本は、この頃、盛んにコミンテル
 ンの策動にあった・・が、しかし、それに対して日本は
 あまりにも無防備だった。
  そして、今、日本は、中国の膨大な金と人(工作員)の
 策動を受けているが、それに対する防備が「無策」と言
 われている。
  日本は、今、諜報機関が必要とされている。
.
1996年~1997年、NHKの岡山局の放送部長が、架空の飲
 食費名目で着服、90万円の詐取(さしゅ、金などをだま
 し取ること)をしていた。
.
1998年~2000年、NHKの編成局のチーフプロデューサー
 とEPが、1998年から2000年にかけて、カラ出張をして、
 架空経費請求を繰り返した。
  これによって300万円を着服した。
.
2000年、怪(あや)しい日本のメディア
  スパイ容疑で北朝鮮で逮捕され、拘留された日本経済
 新聞の元記者の杉島隆という人が居るが・・
  結局、この年に、1年半の拘留の後に、杉島氏は釈放さ
 れた。
  しかし、この時、TBSが怪しいニュースを報じた。
  TBSは、特ダネの様に「現在、北朝鮮に拘留中の杉
 島氏に死刑判決が出ました」と間違いニュースを報じた。
  実際は、釈放されたのにである。
  何で、こうなったのか?
  これは、北朝鮮からTBSに偽の間違った情報がリー
 クされ、流されたのを、TBSは、喜び勇んで特ダネ的
 に放送したのだった。
  そして、この事によって、TBSという放送局は、北
 朝鮮と、この様なニュースが流れる特別な関係を持って
 いることを露呈してしまった・・ばれてしまった。
  また、不思議な事に・・
  この時、北朝鮮の取調官(北朝鮮という国の官吏)が、
 この釈放された日本経済新聞元記者の杉島氏に、「日本
 のメディアは、おまえの事をちゃんと報道するかな」と
 言っていたという・・?
  TBSと北朝鮮の怪しいつながりが感じられる言葉だ・・?
  そしてまた、日本の国民は、この様な報道機関の、こ
 の様なレベルのニュースを聞かされているということ。
  杉島氏は、日本に帰国後、この事情を聞くために、T
 BSの偉い人を訪問した・・しかし、無視されたという。
  重責を担う報道機関であるなら、当然、この事情を国
 民に明らかにする行動を起こすはずだ・・また、責任あ
 る回答をすべきだった。
  ちなみに、日本の大切な報道機関の一つであるこのT
 BSが、一時、赤字で困窮したとき・・外国資本が入り、
 それ以後、この外国資本を意識する放送をしているよう
 に感じられた。
  ある意味、日本の国民のための大切な報道機関の一つ
 のTBSが、資本を出した外国を意識し、ある意味コン
 トロールされた放送姿勢になっていると言えた。
  TBSは、「ある特定宗教」に有利な放送をよくする。
  日本のメディアに、アメリカ系資本が入って来ていて、
 コントロールされている傾向が強くなっている。
.
2004年8月、NHKのソウル支局長が不適切な経理処理をし
 ていることが発覚した。
  このNHKの支局長は、1993年~1997年の間、外部プ
 ロダクションへの支払いを、月60万円~210万円も上乗せ
 して請求していた。
.
2015年9月5日、NHKの自虐放送。
  NHKの全編が『日本が悪い』の自虐放送だった。
  かくらきよし。経済ジャーナリスト。
  NHKが、氏素性のはっきりしない者に「土曜コラム」
 を話させ放送していた。
  2015・9・5、午前5時50分、NHKラジオ第一、
  天皇陛下が、戦争を宣言したから戦争が始まったと言
 わんばかりの話し方だった。
  また、「現政権が進めている政策が、戦争を誘発する」
 と印象されるような言い方だった。
  全放送を通して自虐的で、日本が悪いのだの言い方で・・
  そして、単純論理の言い方をつなげた放送で、「日本
 の70万の軍隊で、中国各地を占領したから、日本が悪い」
 という言い方だった。
  また、「アメリカやイギリスに挑戦していったから悪
 いのだ」の言い方だった・・こんな放送をするNHK・・
  「アメリカは、我慢していて、そして、満を持してや
 った」と・・、
  「アメリカとイギリスが正しくて、日本が悪い」とい
 う言い方で、公正さはまったく無かった。
.
2020年1月7日、元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)訴訟で原
 告代理人を務める弁護士らが、元徴用工問題の解決策を
 検討するため、日韓両国の法曹・政財界関係者らによる
 「共同協議体」の創設を提案した。
  協議が進む間は、訴訟で敗訴した日本企業の資産売却
 手続きを中断する可能性も示唆した。
  以上、2020年1月7日の読売新聞から・・
  これは詭弁だ。
  日韓の条約で、これは「韓国政府が対応する」ことに
 なっている・・この筋から逃げている・・
  正論をどうするかから逃げている。
  問題は、韓国政府にある・・その韓国政府の責任を追
 及していない。
  「日本は、まったく、この問題の関係者ではない」と
 条約で調印されたが・・この件から逃げている。
  韓国がよくやる引っ掛けの「こんな手」にひっかかる
 な!!
  韓国政府よ!! 誠実に対応しなさい・・責任を取りな
 さい!!
  資産売却手続きを凍結するというのなら、韓国が違反
 して、禁輸国へ輸出した物品の日本からの輸出も凍結せ
 よ!!
.
2020年1月7日、中国が日本の国会議員に金を掴(つか)ま
 せた。
  不正を働いた・・中国の日本工作の一端が表に出た・・
  中国が、金を使って日本の国会議員の抱き込みを謀(は
 か)った。
  中国がやっている金を使った日本工作の一端が暴露さ
 れた。
  読売新聞2020年1月7日の報道によると・・
  カジノを中核とした日本の統合型リゾート(IR)事
 業を巡る汚職事件で、中国企業側が現金100万円を提供し
 たとしている5人の衆議院議員側の内、日本維新の会の下
 地幹郎衆議院議員(58歳)(比例九州)が6日、那覇市
 記者会見し、受領を認めた。
  下地氏は「深く反省している」と謝罪し、返金の意向
 を示す一方、進退については「後援会と相談したい」と
 述べた。
  5人のうち、公に受領を認めたのは初めて。
  (評)中国からの工作は、金によるものが多いが、様々
    な形で、また、色々な方面から日本を解体をした
    いと、中国工作が行われている。
.
2040年、アメリカの白人が、50%以下になり、マイノリティ
 になる・・
  ニューヨーク・タイムズが報じている。
  また、「超大国の自殺」の本で、パトリック・J・ブキ
 ャナンは、アメリカの人口における人種の比率の変化が
 著しい・・と指摘している。
  半世紀前には、白人が90%で、黒人が10%弱だったが・・
 現在、白人は70%以下となり、黒人が15%、ヒスパニック
 系とアジア系で15%と、白人比率の急減少を指摘している。
  国の形も大変化する。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  NHKは、CCTVへ映像を何十年も前から映像資料
 を渡している。
  例えば、一例として、国会の委員会の審議状況の映像
 のすべてを渡している
  CCTVは中国中央電視台で、中国(中華人民共和国
 の国営放送のテレビ局。
  国営通信の新華社とともに「メディア」と言うより、
 中国共産党のための宣伝機関とされている。
  これはスパイ行為である。

(増補版)673E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年6月)

題:(増補版)673E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年5月、東海道線大垣駅長岡駅間の勾配改良工事に
 着手した。
.
1897年5月、甲武鉄道が、旅客運賃の賃率市街線3等運賃の
 1銭3厘を1銭2厘の標準に改正し、実施した。
  同時に、従来の定期乗車券を廃し、回数乗車券を設定
 した。
.
1897年5月、京都鉄道が、京都駅の使用について、鉄道局と
 協定をした。
  その結果、京都駅発着列車本数が制限された。
  そのため、同社は、同社発着用の京都起点駅として大
 宮駅を仮設とした。
.
1897年6月1日、官営八幡製鉄所が開庁した。
  八幡村に官営製鉄所が開庁した。
  背後に筑豊炭田が控え、また、海陸の輸送も便利だっ
 た。
.
1897年6月1日、沖ノ山炭鉱(後の宇部興産)が創立した。
  本社:山口県宇部市
  創業目的は、宇部炭田開発のため、渡辺祐策によって
 匿名組合沖ノ山炭鉱が創設された。
  (1928年株式会社に改組)
  (参考)匿名組合:とくめいくみあい、商法上の契約
     によって組織される営業のための組合。
      当事者の一方(匿名組合員)が相手方(営業
     者)の営業のために出資し、相手方がその営業
     から生じる利益を分配することを約するもの。
  その後、炭鉱用機器の製作修理を目的とする匿名組合
 宇部新川鉄工所(1914年設立、1917年(株)宇部鉄工所に改
 組)、
  同鉱の石炭・粘土と付近に産出する石灰石を利用する宇
 部セメント製造(株)(1923年)
  さらに、宇部炭の完全ガス化による硫安製造のために
 宇部窒素工業(株)(1933年)が相次いで設立された。
  同一資本であるこれら4社が合併して、1942年3月、宇
 部興産(株)が発足した。
.
1897年6月1日 総武鉄道成東駅銚子駅間が開通し、本所
 駅~銚子駅間が全通した。
.
1897年6月4日、台湾の基隆(きいるん)から入港の大阪商
 船「福岡丸」船内で死亡した婦人を検疫した結果、ペス
 トと判明した。
  日本はすでにその兆候をつかんで検疫をする様にとの
 告示が出ていた。
  1897年(明治30年)5月5日、内務省告示第37号 台湾
 ニ於ケル「ペスト」伝播モ兆アル同地ヲ発シ又ハ同地ヲ
 経及ヒ同地ヲ発シ他港ヲ軽テ来ル船舶ヲ諸港ニ於テ検疫
 ヲ実施ス
  1897年(明治30年)6月7日、内務省告示第44号、台湾
 及清国上海上以南ノ地方ヲ発他港ヲ軽テ来ル船舶ニ検疫
 ヲ実施ス 
.
1897年6月5日、鉄道学校が創立され開校した。
  岩倉高校の前身の私立鉄道学校
  神田錦町に開校した。
  1901年(明治34年)8月5日、現在の上野に移転。
  現在の岩倉高校は、鉄道界の恩人の岩倉具視の遺徳に
 因(ちな)んで、岩倉の二文字を校名に冠した(1903年
 12月21日)
.
1897年6月7日、日本勧業銀行の設立が許可された。
  1896年(明治29年)、農工業の改良のための長期融資
   を目的に「日本勧業銀行法」(勧銀法)が制定され
   た。
  1897年、日本勧業銀行が政府を中心に設立され、東京
   に本店を置き、支店は大阪のみに限った。
  それ以外の地は、北海道を除き、各府県に事実上の子
 会社である農工銀行(勧業銀行法と同時に制定された「
 農工銀行法」に基づく)が設置された。
  勧銀への取り次ぎ、または、勧銀と同等の業務を行っ
 た。
  なお、基幹産業(特に重化学工業)向けには別途:日
 本興業銀行(興銀)が設置され、勧銀との棲み分けが行
 われた。
  また、北海道には、勧銀や興銀の代わりに北海道拓殖
 銀行(拓銀)が設置された。
.
1897年6月10日、古社寺保存法が公布された。
  この法律は、古社寺の建造物や宝物の保存に関する事
 項をさだめ、国宝指定が始まった。
  明治政府は、1871年明治4年)「古器旧物保存方」を
 布告し、廃仏毀釈によって破壊された文化遺産の調査を
 始めた。
  古社寺保存法では、古社寺の建造物及び宝物類で、「
 特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範」であるものを「特別保
 護建造物」または「国宝」に指定し、保護した。
  当初、本法の所管官庁は内務省であったが、1913年に
 は文部省となった。
  日本における明治時代以降の文化財保護法制は、1871
 年(明治4年)の太政官布告「古器旧物保存方」に始まった
 が・・
  文化財の保存と公開、そのための補助という文化財
 護行政の基本的内容を一応もりこんだのは、この1897年
 の「古社寺保存法」が最初だった。
  なお、その後、1919年に公布された「史蹟名勝天然紀
 念物保存法」が制定された。
.
1897年6月10日、雑誌「実業之日本」が創刊された。
  読売新聞の記者であった増田儀一と光岡威一郎が設立
 した大日本実業学会から創刊された月刊誌。
  これは経済雑誌で、大日本実業学会(後の実業之日本
 社)が発行した。
  四六倍判(B6判)、本文50ページ、定価10銭。
  実業界の成功事例を載せて好評を得た・・
  また、実業人の修養雑誌としても人気を得た。
  1899年から月2回となるが、1945年に月刊に復した。
  実業という言葉を普及させた。
  実業界の青年に、俸給生活に安易につくことを戒め、
 自ら独自の進路を発見し、進んで艱難(かんなん)を冒す
 ことを説いた。
.
1897年6月12日、長崎入港の福岡丸でペストで男子船客が死
 亡した。
  1897年6月4日に入港した福岡丸船の乗船の男子船客発
 病して、船内で死亡した。
  これは、初めて長崎港にペストが侵入した事例。
.
  (今日の言葉)
.
  題:第二次世界大戦のとき、ドイツは東からソ連を攻めてくれと日本に言った・・
    日本は、「日ソ中立条約」があるからその様な事は出来ないと、「きっぱりと断った」・・
    しかし、そのソ連は、日ソ中立条約を一方的に破って、日本の領土の占守島に攻めて来た・・
    日本は、ここでの戦いで勝利した・・しかし、終戦となっていたので武器を置いた・・
    日本とソ連は、「合意の上」でその武器を置く「終戦の式をした」・・
    しかし、ソ連は、その後、日本の領土の千島列島と北方四島に対し武力行使をして「日本の領土を不法に奪った」・・
.
18世紀の末、イギリスのインドの植民地支配が進む・・イ
 ンドの方々は深刻な貧困に陥(おちい)って行った。
  インドの方々は、イギリスに反抗して「糸車で綿布を
 作った」。
  イギリスは、植民地・インドの美味しいものをしゃぶ
 り尽くした。
  インドには、綿栽培から綿布を作って衣服を得るとい
 う一連の産業と文化があった。
  宗主国・イギリスは、そのシステムを破壊した。
  イギリス自身のため、自分の利益のために、インドを
 破壊した。
  インドで綿花だけを作らせた。
  インドでは、その後のことは行わせず、、その後の工
 程のすべてをイギリス国内で行った。
  産業革命をしたイギリスは、それでインドを破壊した。
  それで出来た綿布を、インドで高く売った。
  インドの方々を「ただの消費者とした」。
  決してインドの方々に『綿布を作らせなかった』。
  インドの方々は「糸車で綿布を作った」、それが、イ
 ギリスへの『反逆の証(あかし)』だった。
  また、イギリスは、インドの安い労働力を使ってアヘ
 ン(麻薬)を作らせて、それを中国へ売った。
  中国には、イギリスが買いたいものが山ほどあった。
  その一つの中国茶は高級品だったが、イギリスの一般
 家庭でも飲めるほどになった。
  しかし、輸入超過のイギリスが使った手が「中国への
 麻薬販売だった」。
  中国が止めてくれと何度も言ったが、イギリスは止め
 なかった。
.
1840年アヘン戦争
  イギリスはアヘンの密貿易をして、そして、中国を侵
 略していた・・そのイギリスと中国との戦い・・
  中国・清政府は、アヘンを投棄した・・傲慢なイギリ
 スは、この行為に抗議して開戦した・・当然のようにイ
 ギリスが勝利した。
  1942年、南京条約を締結して、香港などを割譲させ、
 中国権益を奪った。
  これを契機に、ヨーロッパ列強諸国は餌食(えじき)
 に群がる様に中国をむしばんで行った。
  満州満州と言うけれど、そして、この満州で日本が
 酷(ひど)いことをしたと言われるが、そして、その被害
 を中国が受けたと言われるが、それは、日本を貶(おとし)
 める「誇大に語られる洗脳工作」・・
  まず、満州では、そのロシアがほとんどを占めた・・
 日本もいたの程度・・
  しかし、陰に隠れて、何も語られないイギリスは、隠
 密裏にされているが、さも中国の中に居ないようにされ
 ているイギリスだが、何と第一の中国の利権国だった・・
 何しろ中国侵略の歴史があった・・
  そして、第二がロシア(歴史的な侵略行為国・・南下
 政策という侵略行為を続けた国)・・
  第三がフランス(ベトナムビルマ・タイから北上す
 る)・・以上の三国でほとんどが占められていた・・
  そのあと、第四がドイツ・・そして、第五が日本・・
  この国々が、中国の美味しい汁を吸っていた国々・・
 ヨーロッパ列強と言われる国々がほとんど・・
  だから、第一のイギリスは、この日本とロシアを笑う
 が如く、満州以外のすべての中国の『いちばん美味しい
 良い所』を全部押さえていた。
.
1858年7月、コレラ流行・・我国最大の流行
  伝染病の流行で、多くの死者が出たという我が国の怖
 い事例がこの年である。
  1858年7月、支那より長崎に入港したアメリカ軍艦ミシ
 シッピー号により、日本全国に及んだ。
  江戸に於いて最も甚だしく、7月27日より9月23日まで
 の55日間の死者が26万人以上という。
  また、8月の1ヶ月間の死者が3万1000人以上・・
  8月26日までに10万3000人以上が死亡した。
  全国で患者数が数十万、死者十数万に達したと推定さ
 れている。
  『頃痢流行記』に記される惨状・・
  「死するもの多き一町に百数人、少なきは五十、六十
 人、葬礼の棺大道小路に陸続きて昼夜を棄ず絶ゆる間な
 く、お府内数万の寺院は何処も門前に市をなし。焼場の
 棺所せまきまで積ならべて山をなせり・・」と・・
  之が腐敗して臭気甚だしく、更に流行を強める處があ
 る為、八月寺社奉行より速に処理するよう、コレラに関
 する初めての防疫触令が発せられた。
  この時の日本の蘭方医家は活躍する・・
  河に沿って流行するを好むと発し、此病の伝染を防ぐ
 の法は、政令を以て域市、船舶、或は病院に此患人あれ
 ば之を外に移し、無病者と隔離別居せしむるを一良法と
 す・・と提言し、
  尚、予防の処置が重要と提言し活躍している。
  そして、一般人の公衆の予防を法令を以って布達すべ
 きとも提言している。
.
1895年4月17日、下関条約・・日清戦争後の講和会議を経て
 下関条約が結ばれた。
  日清戦争の清も戦争する前は「まさか日本には負ける
 とは思っていなかった」。
  ロシアにしたって「清は負けたかもしれないが、我々・
 ロシアは日本に負けるはずはない」と思っていた。
  だから、ロシアの不凍港を求めた領土侵略は凄まじか
 った。
  ロシアが「最強国だった」からだった。
  基本的に、この様な心がロシアにあった。
  日露戦争を、世界のどこの国も日本が負けると思って
 いた。
  ロシアの横暴はこの様なところから来ていた。
  日清戦争後の、ロシアなどの日本への三国干渉もこの
 様なところから来ていた。
  欲しかった遼東半島を、日清戦争後の下関条約で日本
 に取られ、ロシアの不凍港にしたかった地を失ったから
 だった。
  しかし、傲慢(ごうまん)なロシアは、日本にその遼
 東半島を返還させた。
  日本を戦争で打ち負かせたいとした清の戦争の敗戦の
 結果を、超大国のロシアは横やりを入れて取り上げた。
  そして、後に、ロシアは、この遼東半島を奪う・・結
 局、自分のものにする。
.
1935年8月31日、アメリカで、中立法が成立した。
  ヨーロッパの戦争に巻き込まれるのを恐れたアメリ
 が、この法律を制定した。
  この年(1935年)のイタリア・エチオピア戦争を機に
 制定され、交戦国への軍需品輸出と借款(しゃっかん)
 供与を禁止した。
  この背景には、アメリカ国民の方々の戦争に関与する
 ことへの回避と、孤立主義の選択があった。
.
1939年9月4日、アメリカが、欧州大戦に中立宣言をした。
  アメリカは、ドイツにそれ程恨みがあるわけではなか
 った。
  そして、ドイツに投資をしている投資家や企業も沢山
 あった。
  例えば、ドイツに子会社を持っているフォードやGM
 などはドイツが戦争を始めても、以前とまったく変わら
 ずドイツ子会社を営業させ続けていた。
  アメリカにとってドイツと戦わなければならない理由
 は見当たらず・・
  特に、当時、アメリカは孤立主義を採り、議会が参戦
 に賛成する雰囲気はなかった。
  しかし、1940年中盤に入ると一変する。
  イギリス支援に傾き・・
  日本へも圧力をかけ始めた。
  この一変の理由の一つに、ドイツのマルクの『世界通
 貨化の動き』があった・・この動きと反ナチスへのアメ
 リカの態度の転換は連動している。
  今、中国が、アメリカ・ドルの世界通貨に挑戦し、中
 国・人民元の世界通貨化と、中国の仮想通貨(暗号通貨)
 を実施しようとしている。
  今、米中で摩擦が起きているが、この摩擦は、『この
 意味からも尋常ではない』。
.
1941年3月11日、中立国のアメリカが、レンドリース法を成
 立させて、アメリカ自らは参戦しない代わりに、ソ連
 イギリス、中華民国などの、ドイツや日本、イタリアと
 の交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。
.
1941年8月頃、ドイツが日本に対し、東から対ソ攻撃を行う
 よう働きかけた。
  しかし、日本は、独ソ戦開始前、すでに、ソ連と1941
 年4月13日に、日ソ中立条約を締結していたので、これを
 きっぱりと拒否した。
  (しかし、ソ連は、この「日ソ中立条約を誠実に守ら
 なかった」)
.
1941年10月中旬、ドイツ軍がモスクワに接近する。
  ドイツ軍は、1941年7月16日にスモレンスク・・
  1941年9月19日に、キエフを占領・・
  さらに北部のレニングラードを包囲し、
  1941年10月中旬には、首都モスクワに接近。
  モスクワ市内では一時混乱状態も発生し、そのため、
 ソ連政府の一部は、約960km離れたクイビシェフへ疎開
 た。
.
1944年、アメリカの軍事視察団が、中国共産党のメッカで
 ある延安に行った・・第二次世界大戦が行なわれている
 最中だった・・
  毛沢東幹部らは、この軍事使節団を大歓迎した。
  1944年7月~1944年11月は、毛沢東共産党軍とアメリ
 カは蜜月状態だった。
  そして、中国の背後に居るアメリカという状態となっ
 た・・
  巧妙にアメリカは立ち回った。
  中国・共産党軍の毛沢東は延安に居て・・
  アメリカは、この延安の毛沢東のところにエマーソン
 という外交官を派遣した(1944年11月)
  アメリカは、この様に中国・共産党軍のところに外交
 官を派遣する行為の様に「アメリカは、中国・共産党
 の毛沢東を承認していた」。
  エマーソンは、後に、ライシャワー駐日大使の下で駐
 日公使を務めるほどの重要人物だった。
  そして、アメリカは、この毛沢東軍に大量の武器を供
 与した。
  OSS(戦略事務局、後のCIA) 長官のドノヴァンは、
 延安の毛沢東に大量の武器や物資を送った。
  その目的は、「中国・共産勢力を勢いづかせることだ
 った」。
  また、この時、アメリカのジャーナリズムも毛沢東
 讚美し、その素晴らしさを新聞に書き立てた。
  アメリカのジャーナリストのスメドレーは、毛沢東
 共産党軍に密着取材して、讚美した記事を世界に発信し
 た。
  この様に毛沢東勢力を、アメリカは、あらゆる面から
 支援した。
  アメリカの国家を動かしている勢力が、それが狙いだ
 った。
  中国・蒋介石軍は、日本と戦わせられて、衰弱をさせ
 られ、疲弊させられていた。
  日本は、中国の首都・南京が陥落すれば戦争は終結
 ると見ていた。
  しかし、その様にはさせじと・・戦争終結をさせなか
 ったのはアメリカだった。
  日本が仕切りに「和平提案をする」が、蒋介石は引き
 延ばした・・アメリカの差し金だった。
  あやふやな態度であった。
  和平をしようとしない蒋介石は「事実上、和平拒否を
 しているのと同じだった」。
  アメリカによる「蒋介石勢力の疲弊策」で推移した。
  蒋介石軍は、更なる中国・奥地の重慶へ逃げた。
  この様にして・・アメリカが背後にいる中国での戦い
 は続いて行った。
  中国・蒋介石軍に、上海の日本祖界を攻めさせたアメ
 リカの筋書き通りの展開が続いた。
.
1944年11月、アメリカ軍事視察団の要員の一人としてエマ
 ーソンが、中国共産党の拠点の延安へ行った。
  占領下の日本国民に、戦争に対する贖罪(しょくざい)
 意識を植え付けるため、連合国軍総司令部(GHQ)が、
 中国・延安で、中国共産党が、日本軍捕虜に行った心理
 戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書
 館所蔵の秘密文書で判明した。
  (産経新聞
  GHQの工作は、「ウオー・ギルト・インフォメーシ
 ョン・プログラム(WGIP)」と呼ばれ、現在に至る
 まで日本人の歴史観に大きな影響を与えている。
  文書は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だ
 った米国の外交官、ジョン・エマーソンが、1957年3月12
 日、共産主義者との疑惑が浮上したカナダの外交官、ハ
 ーバート・ノーマンとの関連で米上院国内治安小委員会
 で証言した記録で、「ノーマン・ファイル」(KV2/
 3261)にあった。
  1944年11月に、米軍事視察団の戦時情報局(OWI)
 要員として延安を訪問したエマーソンは、中国共産党
 支配下野坂参三(延安では岡野進と称した)元議長が
 日本軍捕虜の思想改造に成功した、として「岡野と日本
 人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(
 政策)に役立つと確信した」と証言。
  さらに「共産主義者の組織であったが、捕虜たちが反
 軍国主義反戦活動に喜んで参加するまで吹き込み(洗
 脳)に成功したことから彼らの成果はわれわれ(米国)
 の対日政策に貢献できると思った」と述べている。
  エマーソンは、後に、「(延安での収穫を元に)日本
 に降伏を勧告する宣伝と戦後に対する心理作戦を考えた」
 (大森実『戦後秘史4赤旗とGHQ』)と告白した。
  エマーソンが「対日政策に貢献できる」と証言した「
 心理戦」は、日本兵に侵略者としての罪悪感を植え付け
 るもので、軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主
 義者への批判と人民への同情を兵士に呼びかける「二分
 法」によるプロパガンダ(宣伝)だった。
  GHQは、終戦直後の1945年9月に「プレスコード」
 (新聞綱領)を定めて言論を統制し、一般人の私信まで
 検閲を実施した。
  1945年10月には、「日本人の各層に、敗北と戦争を起
 こした罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国
 主義者の責任、連合国による軍事占領の理由と目的を周
 知徹底する」との一般命令第4号を出した。
  さらに、1945年12月8日から全国の新聞に『太平洋戦史』
 を掲載、翌日からラジオ番組『真相はこうだ』を放送さ
 せ、戦勝国史観を浸透させた。
  日本人にさきの戦争への罪悪感を植え付けた連合国軍
 総司令部(GHQ)の「ウオー・ギルト・インフォメー
 ション・プログラム(WGIP)」。
  その原点は、大戦末期の中国・延安で中国共産党によ
 る日本軍捕虜に対する「心理戦」にあった。                  
  「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に
 いとまがない」
  1945年12月8日、GHQの民間情報教育局(CIE)に
 強要され、新聞各紙が連載を始めた『太平洋戦史』では、
 「大東亜戦争」を公的に使用禁止し、冒頭から「真実を
 隠蔽(いんぺい)した軍国主義者」と「大本営発表にだ
 まされた国民」を二分して対峙(たいじ)させ、日本が
 非道極まりない国だったと全国民にすり込んだ。
  それは現在も国民的な「神話」となっている。
  文芸評論家の江藤淳は『閉された言語空間』で、WG
 IPと規定し、「日本と米国との戦いを、『軍国主義者』
 と『国民』との戦いにすり替えようとする」と指摘。
  『軍国主義者』と『国民』の架空の対立を導入して、
 「大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、
 『軍国主義者』が悪かったから起(おこ)った災厄」と
 米国の戦争責任を『軍国主義者』に押しつけたと指摘し
 た。
  『軍国主義者』と『国民』の対立という「二分法」の
 「洗脳」を1944年11月、延安で学んだのがGHQでマッ
 カーサーの政治顧問付補佐官を務めたジョン・エマーソ
 ンだった。
  英国立公文書館所蔵の秘密文書によると、エマーソン
 は、1957年3月12日、米上院国内治安小委員会で、初期G
 HQが民主化のため日本共産党と手を握ったことを認め
 ている。
  エマーソンは、戦前の1936年から1941年までと、終戦
 直後の1945年~1946年、さらに、1962年から1966年まで
 3度日本に駐在した日本専門家。
  占領初期は、政治顧問として対敵諜報部に所属した。
  エマーソンが『戦後秘史4』で大森実に語ったところ
 によると、ルーズベルト大統領のニューディール支持者
 で大戦中は米戦時情報局(OWI)要員として中国・重
 慶に赴任し、中国共産党八路軍の対日心理作戦の成功
 に注目し、戦後の占領政策を視野に経験に学ぼうとした。
  エマーソンらOWIのスタッフが作成した『延安リポ
 ート』(山本武利編訳)によると、野坂らは、天皇批判
 を軍国主義者に置き換え、軍国主義者と人民(国民)を
 区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を呼びかけ
 る心理工作を繰り返し、贖罪(しょくざい)意識を植え
 付けた日本軍捕虜を反戦兵士に「転向」させるまで洗脳
 した。
  野坂の日本人民解放連盟は、八路軍敵軍工作部と表裏
 一体で、彼らの工作は中国共産党によるものだった。
  中国共産党は、反戦日本兵の育成を通じて、徐々に厭
 戦(えんせん)感と贖罪意識を強め、やがて日本人全体
 を精神的捕虜にする狙いだった。
  中国軍が連合軍捕虜を外部隔離や尋問、集団・自己批
 判させて共産主義者に強制的思想改造したのは、1950年
 に勃発した朝鮮戦争が最初で、「洗脳」の新語が生まれ
 たが、延安では集団批判で日本人捕虜に「洗脳」の原型
 といえる思想改造が行われた。
  エマーソンらGHQの実務家にとって延安で学んだ「
 捕虜」洗脳は、占領政策を遂行するためのよき「先例」
 となった。
  GHQは、「洗脳」手法を積極的に取り入れ、東京裁
 判などの節目で展開し、「悪い侵略戦争をした」と日本
 人に自虐史観を植え付けた。 
  (参考)二分法:「共通の敵を打倒するため連帯でき
     る諸勢力と共闘する」との毛沢東の理論。
  中国共産党は、戦後一貫して少数の軍国主義者と大多
 数の日本人民を区分する対日外交政策を取っている。
  1972年の日中国交正常化の際、中国内の反日感情を抑
 制するための根拠として使われた。
  教科書問題や靖国問題でも同じ論法をとっている。
  反日プロパガンダ招いた壮大な「歴史戦」 外交評論
 家・加瀬英明
  「GHQは、日本民族から独立心を奪い、精神を破壊
 して未来永劫(えいごう)にわたって属国とするために
 WGIPを仕掛けた。
  軍国主義者と人民を区分する『二分法』は、毛沢東
 代からの中国共産党の教化政策。
  米国は、朝鮮戦争まで中国共産党と太いパイプがあり、
 エマーソンの証言通り、延安で成功した日本人捕虜に対
 する手法を占領政策で日本が二度と歯向かわないように
 利用した。
  その結果、自虐史観が蔓延(まんえん)し、『河野談
 話』『村山談話』のように日本人自身が過剰に自己否定
 し、中国、韓国の反日プロパガンダを招いた。
  壮大な『歴史戦』といえる」
  (参考)ウオー・ギルト・インフォメーション・プロ
     グラム(WGIP):GHQが占領政策として
     戦争に対する罪悪感を日本人に植え付けるため
     行った宣伝計画。
      日本の歴史や文化・伝統を破壊し、日本人自
     身が日本人を否定して精神を改造するよう誘導、
     原爆投下や大都市の無差別爆撃などを行った米
     国の正当化を図った。
      新聞や雑誌、ラジオを検閲し、占領政策にあ
     うよう書き直させたり、発禁処分にしたりした。
      検閲に協力した日本人は数千人といわれ、メ
     ディアや官界、大学などで活躍した。
.
1945年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃する際、アメ
 リカは、事前に、準備よく、ハワイの真珠湾から空母4隻
 を退避させていた。
  アメリカには、日本の技術によって、何が起きるかは
 予知できていた。
  日本は、魚雷を戦闘機から投下して艦を破壊できる技
 術を開発していた。
  当初は、投下した魚雷が海中に没したりして、目的を
 果たせないでいた・・しかし、日本はその技術を得た・・
  日本が技術開発し、航空機によって軍艦を撃沈した時、
 世界は驚嘆した。
  この時、戦う形態が大変革した。
  この時から、「航空機が戦いの主軸となる」と明らか
 に示されていた。
  アメリカは、さすが、これからの主軸の「航空母艦
 積載された戦闘機」を犠牲にはできなかった。
  傍受した情報などで、日本が攻めてくることを知って
 いたアメリカによって、空母4隻は事前に隠されていた。
  空母の居ない真珠湾だったが、日本が開発した航空機
 からの魚雷攻撃によって、多くのアメリカの艦船に多大
 な被害を与えた。
  これで「ルーズベルトの目的が果たされた」。
  ルーズベルトは、すでに、近しい人に「明日、日本が
 攻めて来るよ」と言っていた・・
  この一例の様に、アメリカは、すべて日本の動き・情
 報は事前に掴んでいた。
  これが・・ルーズベルトの筋書きだった・・アメリ
 の筋書きだった。
  「日本から大被害を受ける」「アメリカ国民を驚嘆さ
 せる」「壊滅的だと危機感を抱かせる」「何とかしなけ
 ればと思わせる」、そして、「日本は卑怯な奇襲をした」
 「だから、ここで正義のために立ち上がらなければなら
 ない」と・・
  アメリカ世論は大転換した。
  ルーズベルトは、日本が真珠湾攻撃した時、思惑通り
 に行ったとイギリスのチャーチルへ電話をした・・二人
 は喜び合った・・アメリカの援軍がヨーロッパにも来る・・
 と・・
  アメリカは、この後、ヨーロッパ戦線、そして、太平
 洋戦線へ「大手を振って乗り出して行く」。
  ルーズベルトは、「私は、戦争に反対です。戦争はし
 ません」を大統領選の公約として大統領になった人。
  アメリカ国民の方々の「アメリカは戦争をしない」に
 迎合した大統領だった。
  しかし、この様な形で「アメリカ国民の方々を裏切っ
 た」。
  ここまでに至る道は必然という行為しかして来なかっ
 たルーズベルト、一途に日本との開戦を目指したルーズ
 ベルト、真珠湾は、ただ、その結果に過ぎなかった。
  真珠湾の前からアメリカは隠密利に中国へアメリカ軍
 を派兵し、兵器も送り込み、真珠湾攻撃の前から日本に
 秘密に奇襲攻撃をしているアメリカだった。
  ベトナム戦争の時も、最後はアメリカは影から外へ出
 て来て、「アメリカ対北ベトナム」の戦いになったが、
 この中国でもアメリカは大いに介入した。
  そこに「日本を叩きたいアメリカ」があった。
  中国の戦いにおいて「日中戦争」というのは間違い、
 「日中米戦争」である。
  アメリカは、「遠慮会釈なしに戦争に関わった」。
.
1949年10月1日、中国(中華人民共和国)が建国した。
  国共内戦に勝利した毛沢東が北京を首都とする中華人
 民共和国の成立を宣言した。
  後に、蒋介石中国国民党が、広州から台湾へ逃亡し
 た。
  そして、これがソビエト連邦の支援を受けながら建国
 したと言われるが、『そのソ連が讃美するほど』この建
 国にアメリカが支援していた。
  日本が第二次世界大戦に敗けた後(敗ける直前から)、
 アメリカは、意外な動きをした。
  日本が敗けて、中国では国共内戦が始まった。
  アメリカは、この中国の戦い(共産党毛沢東と国民
 党の蒋介石の戦い)の内・・アメリカは意外にも「共産
 党の毛沢東を応援した」。
  アメリカのトルーマン大統領は、戦後すぐに、ジョー
 ジ・マーシャルを特使として中国へ行かせた。
  アメリカは、毛沢東を支援した。
  そして、マーシャルは、国民党への武器援助の実施を
 遅らさせた。
  そして、蒋介石に、毛沢東を攻撃しない様にと要求し
 た。
  この時、毛沢東共産党は「崩壊寸前」の状態だった。
  マーシャルは、「共産党に対する攻撃を停止しなけれ
 ばアメリカは蒋介石を支援しない」と圧力をかけた。
  その結果、共産党と国民党の即時停戦が成立した。
  蒋介石は、もう少しで勝利するところだった。
  勝利を目の前にして、蒋介石は、アメリカの強要で攻
 撃を停止せざるを得なかった。
  この停戦の期間中、毛沢東は体制の建て直しができ、
 息を吹き返すことができた。
  中国・共産党軍は、力を盛り返すことができた。
  そして、その後、国共の戦いで、毛沢東は勝利に終わ
 った。
  そして、1949年、中華人民共和国が建国された。
  共産中国の中華人民共和国を作ったのは『アメリカだ
 った』。
  アメリカの反共運動をしたマッカーシー上院議員は、
 共産スバイ狩りの「赤狩り」をしたが、「共産・中国は
 アメリカがつくった」という本を出版した。
  この本の中で、マーシャルの背信外交を批判している。
  また、バーンズ国務長官も著書「素直に語ろう」の中
 で次の様に書いている・・
  「スターリンは、マーシャル将軍を称賛した。
  中国問題に決着をつけられる人間は、マーシャル以外
 には居ないと言った。
  スターリンは、こうも言ったかもしれない。
  自分(スターリン)が満足できる様に・・」・・と・・
  ソ連外務大臣のグロムイコも、回想録で、マーシャ
 ルを絶賛している。
  ルーズベルトの周りは、社会主義者ばかりだった。
  側近のハリー・ホプキンスも、ルーズベルトの夫人の
 エレノア・ルーズベルト社会主義者だった。
  この社会主義者ルーズベルトの側近たちに取り入っ
 たマーシャルだった。
  共産主義を防ぐふりをしながら、実際は、これらの意
 向を受けて共産化を支援した。
  今、日本にも、大量の金と人(工作員)を使った中国の
 働きかけ・意向の方向へ動かそうという動きがなされて
 いる。
.
1995年、この年から「ヴェノナ文書」が公開された。
  この極秘史料が公開されたことで、第二次世界大戦
 真実の姿が分かって来た。
  このアメリカの文書は、ワシントンのソ連大使館など
 からモスクワに打電されたソ連の情報機関員(スパイ)の
 電報を集めたもの。
  アメリカ政府は、日本に対して行なっていたことと同
 じ行為(傍受)をソ連に対しても行っていた。
  ソ連の通信のすべてを傍受していた。
  この暗号も、当初はあまり解読できなかったが、しか
 し、アメリカは傍受と共に解読を延々と続けた。
  この行為は、第二次世界大戦後のレーガン大統領(1981
 年1月20日就任)の頃まで延々と解読作業を続けた。
  解読作業には、スーパー・コンピューターも駆使され
 た。
  この解明された内容からアメリカ政府内にうようよと
 ソ連スパイが居ることが分かった。
  アメリ共産党員が300人以上アメリカ政府内に潜入し
 ていることも分かった。
  F・ルーズベルト政権(任期:1933年3月4日~1945年
 4月12日)の財務次官のハリー・D・ホワイトもソ連のス
 パイだった。
  この男は、日本へ出す「ハル・ノート」を起草してい
 る(1941年11月26日に日本側へ出された)
  ハル・ノートは、非常に高圧的に日本へ要求事項を突
 き付けた文書で、「最後通牒」と言われた。
  これを受け取った日本は、1945年12月1日、御前会議を
 開き「開戦もやむなし」となった。
  本当は、日米交渉は、この頃、ぎりぎりのところで「
 まとまりそう」でもあった。
  この情報を得ていたソ連のコミンテル、あるいは、ス
 ターリンは、ソ連のスパイのホワイトやアルジャー・ヒ
 ス(アメリ国務省の高官)に、ハル・ノートの草案を作
 らせた。
  ソ連のモスクワは、このハル・ノートを「日米に戦争
 を始めさせ、開戦に踏み切らせる最後の切り札」という
 位置付けにしていた。
  また、日米が開戦すると、日本は、アメリカとの戦争
 にかかりきりとなり、ソ連のリスクは減り・・
  また、アメリカは、ドイツと戦うソ連に、莫大な援助
 を開始すると見られていた。
  さらに、何故?この様な工作をソ連が必死しにしたの
 かは、1941年秋頃は、ソ連は、ドイツに一方的に攻めら
 れ、モスクワが陥落寸前にあったからだった。
  何としても、「日本のリスクを低減させ」、そして、
 極東の戦力をドイツ戦線へ集結させたかった。
  そして、ソ連は、この時、同時に、日本に居るソ連
 スパイも動かした。
  ゾルゲや尾崎秀実(ほつみ)である。
  このスパイ以上の大物スパイが居たとも見られている。
  この頃の東京帝国大学は、ソ連のスパイの巣だった。
  ここでスパイが量産されていた。
  ここ出身の尾崎秀実は、近衛内閣のブレーンで、日本
 の国策決定に大きく関わっていた。
  そして、強行策を提示して行く。
  日米の開戦打開の会談を進める側より、日本を対米戦
 争へ向かう方向へ動いている。
  ドイツとの同盟の必要性も提言している。
  その底に、日本で革命を起こしたいがあった。
  「ゾルゲ事件」「企画院事件」「満鉄調査部事件」な
 ど、その一端が事件となっている。
  また、宮中にも多くの共産主義者が潜入していて、天
 皇陛下の側近たちの中にも疑わしい動きをするものが居
 た。
  ゾルゲ事件で逮捕され、「有罪」となった西園寺公一
 (きんかず)は、特に謎が一杯である。
.
2020年、今、中国のかつての「冊封体制」が、また、築か
 れ始めている。
  東アジアに、中国は、かつての冊封体制(さくほうた
 いせい)を築こうとしている。
  反対するものは抹殺である。
  冊封体制に入れば利益収奪の対象となる。
  ウィンウィンはない。
  一方的に貢ぐ行為が要求される。
  利益を上げても中国外への「持ち出しは禁止」である。
  その利益は、中国内で再投資せよと・・
  そして、中国の発展に寄与する経済活動をせよと「近
 代的奴隷システム」に組み入れられる。
  働いたって女房・子供の生活費や教育費として持ち出
 しはできない。
  巨大な強力な「中国の武力」によってその囲い込みが
 計られている。
  日清戦争は、この様な中国・清の囲い込みから朝鮮を
 脱却させた・・「朝鮮は独立国だ」と、日本は清に認め
 させた。
  そして、この「冊封体制」というのは、文字通り「冊
 の中に封じておく」というもの。
  冊の中で、中国の都合良くやっていれば「良し」とす
 るもの。
  中国の意に反すれば成敗される。
  日本は、その中国・清の「鼻っ柱」を、日清戦争で朝
 鮮独立を認めさせて「折った」ということ。
  (参考)鼻っ柱を折る:はなっぱしらをおる、つけ上
     がった相手の向こう意気や自信をくじく。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  ロシア(旧:ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦
 であったので、ソ連(現:ロシア)と合意の上で日本は
 武器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日ソの合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島ソ連(現:ロシア)は不法に
 占拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。