(増補版)636E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)

題:(増補版)636E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
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1896年、科学
・1896年、小石川植物園の平瀬作五郎が、世界で初めてイ
 チョウの泳ぐ精子を発見した(1894年説あり)
  平瀬作五郎(1856年~1925年、植物学者)安政3年1月
 7日、越前国福井市)に生まれる。
  1872年(16歳)福井藩中学校(藩校)に入学、卒業後、
   図画術教授補助に任命される。
  1873年(17歳)東京に出て油絵を学ぶ。
  1875年(19歳)帰郷し、岐阜中学の図画教師となる。
   かたわら「小学用器画法」(1888年)ほか図画教科
   書を著した。
  1888年(32歳)帝国大学理科大学(現:東京大学理学
   部)植物学教室へ画工となる。
  1890年(34歳)技手となる。植物学に興味を抱く。
  1893年(37歳)助手となり、矢田部良吉教授の植物図
   を描く。イチョウの研究を始める。
  1894年(38歳)池野成一郎(この後、東京大学教授と
   なる。ソテツの精子の発見者)の助言で、イチョウ
   の花粉管内に精子を発見した・・裸子植物に初めて
   精子を発見・・受精過程を追跡した(イチョウの受
   胎および胚の発生研究)
  1896年(40歳)イチョウ精子発見を発表した。
   ソテツの発見と共に、これらの発見は、植物分類学
   細胞学・進化学上の一大事件であった・・海外の学
   者にも称賛された。
   平瀬作五郎は、当時、助教授だった池野成一郎に、
   精子を発見した時、寄生虫だと思って見せた・・そ
   れを見るなり池野は「精子だ」と直感したという。
  1896年9月9日、「花粉管端より躍然精虫の遊動して活
   発に転々突進する状況を目撃」となる。
  1896年10月、「いてふノ精虫に就テ」という論文を発
   表する(裸子植物の世界初の精子の発見)・・なお・・
   1894年1月、最初の論文「ぎんなんノ受胎期二就テ」
   を「植物学雑誌」に発表という史料もある。
   そして、1896年に、イチョウ精子を世界初でプレ
   パラート上で確認したの史料もある。
  1897年(41歳)東京大学を退職し、彦根中学へ転出、
   一時、研究も断念する不幸の時期があった。
  1912年(56歳)池野と共に学士院恩賜賞を受ける。
   初めは、平瀬作五郎の授与は予定されていなかった
   と言われている・・が、しかし、池野成一郎が、「
   平瀬が貰わないならば、私も断らせて戴く」と言い、
   二人の同時受賞となったという。
   後半生は、平野は、花園中学校で教鞭をとった。
  1918年(62歳)クロマツの受精に関する報告をする。
  1924年(68歳)肝硬変で花園中学校を退職する。
  1925年1月4日、京都市右京区御室の自宅で永眠された。
  尚、平瀬作五郎の精子発見のイチョウの木は、今でも、
 東京都文京区白山東京大学理学部付属植物園に保存さ
 れている。
  1956年、その記念のイチョウの木の下に記念碑が建立
   された。「精子発見六十週年」と刻まれた。
  1996年9月9日、「イチョウ精子発見百周年記念市民国
   際フォーラム」が東京大学安田講堂で開催され、広
   瀬作五郎の功績が讃えられた。
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1896年、教育
・1896年7月8日、東京美術学校に西洋画科・図案科の2科
 が新たに設置された。
  この年、西洋画科が新設され、黒田清輝藤島武二
 横山大観らが指導にあたった。
  東京美術学校は・・
  1884年7月、文部省に図画教育改良を目的とする図画調
   査会が置かれ、調査が行われ、官立美術学校を設置
   することに決定されたことに始まる。
  1885年12月、文部省学務一局に図画取調掛が置かれ、
   そして、アーネスト・フェノロサ、岡倉覚三、狩野
   芳崖、狩野友信らが委員となって設立準備が進めら
   れた。
  1886年2月、図画取調掛の事務所が小石川植物園内に移
   され、岡倉覚三がその主幹となった。
  1886年9月、文部省と宮内省が協議し、フェノロサと岡
   倉を委員とする欧米の美術及び秘術教育視察が行な
   われた。
  1887年10月、二人の報告に基づき、勅令によって、図
   画取調掛及び工部大学校内「工部美術部」を統合・
   改編して東京美術学校が設立された。
   また、校則も定められた。
  1887年12月、東京都台東区上野公園の現在地へ移転す
   る。
  1889年2月、開校される。
   5年制の学校として、普通科(2年)、専修科(3年)、
   特別の課程(1年)を置いて、授業を開始した。
   普通科:絵画・造形、専修科:絵画(日本画)・彫
   刻(木彫)、美術工芸(金工・漆工)に分かれてい
   た。
  1890年、岡倉覚三が就任し、事実上の初代校長となる。
   副校長はフェノロサが務めた。
   開校時の教官は、他に、黒川真頼・橋本雅邦、小島
   憲之であり・・
   後に、川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲
   を加えた。
  1892年、鋳金科を設置。
  1893年、第1回卒業式が挙行される。
   横山大観らの卒業生を送り出す。
  1895年、鍛金科を設置。
  1896年、西洋画科と図案科を設置。
   西洋画家の教官には、黒田清輝藤島武二・和田英
   作・岡田三郎助、
   図案科の教官には、福地復一・横山大観・本多天城
   らが就任した。
  1898年、美術学校騒動が起きた。
   岡倉覚三の学校運営が問題とされ、岡倉をはじめ、
   橋本、横山、下村観山、菱田春草らの多数の教官が
   退任し、日本美術院を結成した。
  1899年、塑造科を設置。
  1902年、図案科に建築教室を設置。
  1905年、学科を再編成し、日本画、西洋画、図案、彫
   刻、金工、鋳造、漆工の7科とする。
  1907年、図案師範科(3年制)を設置。
  1914年、製版科(3年制)を設置された。
   (図案科が第一部(工芸図按)と第二部(建築装飾)
   に分離の史料もある)
  当時は、年限1年の予科、年限3年~6年の本科(絵画科、
 彫刻科、工芸科、建築科)と師範科、年限2年の研究科か
 らなった。
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1896年、報道
正岡子規が、ベースボールの解説文を連載(日本新聞)
  1884年正岡子規は、東京大学予備門時代にベースボ
   ールを知り、野球に熱中したといわれる。
   正岡子規は、野球を題材とした短歌、俳句を数多く
   詠み「野球(のぼる)」の雅号も使っている。
  1889年7月、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、
   松山中学の生徒らにベースボールを教えた。
  1890年2月、「筆まかせ」の雅号の項に「野球」が初めて
   見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。
  1896年、「日本」新聞に連載された「松蘿玉液」の中
   で野球のルール、用具、方法などについてくわしく
   解説した。
   野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自
   分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献を
   した。
   「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見
   れど飽かぬかも」
   「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打
   ち騒ぐかな」
  2002年に、正岡子規野球殿堂入りをした。
   野球を愛した明治の俳人歌人とされている。
  (参照:野球殿堂博物館ホームページ)
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  (今日の言葉)
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  題:今、韓国の若者が反日教育を受けて、その様なことをまったく
   知らずに、当時の事をお年寄りに聞くと、予想に反して
   「良かったよ」と想像とまったく違う返事にびっくりする。
    その様なお年寄りが朝鮮の地に減って来ているが、
   日本は、朝鮮・韓国の国づくりを誠実に努めて来た。
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16世紀末、日本の捕鯨が始まり、そして、鯨文化が広まっ
 て行った(江戸時代)
  この頃の16世紀の末頃、日本に本格的な捕鯨が始まっ
 た。
  そして、17世紀には屏風絵に描かれるようになってい
 る様に、庶民の間に完全に根付いている。
  1500年代末には、日本は捕鯨を始めていて、食糧とし、
 また、鯨を文化としていた。
  初代のアメリカ大統領のワシントンは、1789年4月30日
 に在任したが・・この200年も前に、既に、日本は鯨と関
 わっている・・
  キリスト教の宗教観から、日本の捕鯨を禁止する西欧
 諸国・・この日本の歴史の重みをよく見極めなさい!
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18世紀半ば、日本は、アメリカのペリーの来る1世紀も前か
 ら、独自に、近代化への道を歩き始めていた。
  ペリーが来たから、その時に目覚めて、それから慌(
 あわ)てて近代化への道を歩み始めた・・という自虐史
 的に言う輩が居るが・・大間違い。
  日本の夢を覚ます黒船来航・・何て言う話は眉ツバ!
  日本は、「勉学への欲求」「知識への目覚め」から近
 代化へアクセスして行った。
  元々、勤勉だった日本人・・すでに、世界的な業績を
 残す天才数学者の関孝和(1642年~1708年、西欧より早
 い時期に数々の数学的業績を残した)や平賀源内(1728
 年~1780年本草学者、地質学者、蘭学者、エレキテル
 や鉱山開発)等を輩出している日本・・
  18世紀のフランス革命の頃のフランスよりも識字率
 高いという日本だった。
  私塾の寺子屋が流行るという日本だった。
  識字率は5割前後で、私塾は全国で何と5万校もあった。
    (参考)因みに・・1910年の日韓併合で、日本が
       朝鮮・韓国の学校の少なさにびっくりして、
       学校を造り始める時には、5校しか小学校が
       無かった・・
  そして、農民が作物を市場で売り、利益を得るという
 生産面と流通での革命も起きる。
  都市へ広がる勤勉とともに、19世紀の初めには、家内
 制工場があちこちに出来るという日本だった。
  産業資本が大阪で興り、農民が労働者となる・・この
 形が日本各地に広がって行った。
  これらすべてが、日本独自の動きだった・・
  それと共に、江戸や大阪には、歌舞伎や相撲興業とい
 う大衆の人気を博す文化も盛んとなり華やかとなった。
  浮世絵の商品なども盛んに刷られ宣伝媒体となり・・  
  日本は、西欧に何も学ぶ事なく独自に、近代化への歩
 みをいち早く始めていた『優秀な国民だった』。
  犠牲者の少ない「明治の奇跡的な革命」を経て・・
  江戸時代の時から・・日本は、西欧列強のアジアにお
 ける私利私欲の横暴な行動を目にして来て、富国強兵の
 必要性を痛感していた・・
  その中で、特に、イギリス・ロシア・中国の脅威に、
 接していた。
  その一つが、巨艦の艦隊を長崎にまで威圧行動した中
 国に縮こまる日本・・そして、長崎の街で大暴れをする
 中国水兵の艦隊の強さを誇示し見せつける行動などを経
 て、日清戦争へ至って行くという道となる。
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1846年4月25日、アメリカ・メキシコ戦争米墨戦争)が始
 まる(~1848年2月2日)
  アメリカ合衆国ではメキシコ戦争と言われる。
  また、メキシコでは、アメリカ合衆国のメキシコ侵略、
 米国の対メキシコ戦争、北部の侵略戦争としている。
  アメリカ軍:78,700名、メキシコ軍:40,000名
  戦死:アメリカ13,271名、メキシコ5,800名(病死を
 除く)
  この戦争で、アメリカ側に、9,200名の脱走者、または、
 亡命者がでている。
  この戦争の発端は、アメリカ人のメキシコ領への流入
 (不正な移民、不法流入)から始まった。
  ルイジアナは、先住民のアメリカ・インディアンの方々
 の地であるが、1803年、アメリカは、この地をフランス
 から買った(何もフランスの土地ではないのに、フラン
 スから買った・・白人同士の演技?)・・これによって、
 アメリカに、テキサスの地も得たいという欲望・意識が
 強まった・・メキシコの地であるのに??
  この頃、メキシコは、長い独立革命の戦いで弱体化し
 ていた・・
  この様な状態で、自国の領土を守る余裕のないメキシ
 コという状態でもあった。
  アメリカの『テキサス』などのメキシコ領の奪い方は
 移民だった。
  初め、アメリカ人が不法な国境越えをして『メキシコ
 領のテキサス』などに入って行った・・そして、メキシ
 コ領テキサスに定着(不法滞在)した。
  その内、その様に越境をした「元アメリカ人たち」が、
 「メキシコ領テキサス住民の様な顔」をして不平を漏ら
 す。
  その不平の声がだんだん大きくなる。
  そしてまた、越境組の元アメリカ人たちの数も多くな
 ると・・その勢力も侮(あなど)れなくなる。
  ますます、その元アメリカ人たちの勢力が大きくなる
 と、メキシコも軍隊の出動もやむを得ないと判断する。
  この様な「不穏な事態」が、たびたび起きる。
  この地の不穏さが、さらに、「きわどくなる」。
  すると、隣国のアメリカも見てはいられないと「アメ
 リカの介入が始まる」。
  内政干渉の「ちょっかい」なのだが、正義の顔をして
 介入行為をする。
  そのアメリカの介入・ちょっかいも度々となる。
  そして、アメリカのやり方の程度が大きくなる。
  そして、「正義を錦の御旗」として、アメリカが軍隊
 を出す。
  メキシコは、軍隊を出さざるを得ないと思っても、戦
 争になってはいけないと「自重はする」。
  しかし、アメリカ軍の行動は、度々となる。
  また、アメリカの介入が大きな行動となって来る。
  そして、多くのアメリカ人不法移民に占領され、テキ
 サス共和国がつくられ、1836年、メキシコからの独立を
 宣言する。
  メキシコもやむなく「ファイトバック・反抗」をする。
  このメキシコの行動を「待っていたアメリカ」は、「
 この時とばかりに大軍隊を送り込む」。
  当然、これが戦争となる。
  アメリカ人の違法行為の越境から始まって、「メキシ
 コ領内で元アメリカ人」となり・・、
  この「元アメリカ人の騒ぎ」から発展したこの戦争の
 実態は、「アメリカの正規軍のメキシコ領の侵略戦争
 という戦いとなる。
  アメリカは、この様な戦争の起こし方で『メキシコ領
 テキサスを手に入れた』。
  そして、このやり方で、テキサスの隣のメキシコ領も、
 結局、「アメリカ領となってしまった」。
  また、その隣のメキシコ領も同様に、アメリカ領にな
 ってしまったメキシコは、自国の領土の「半分以上」も、
 この様にして、アメリカに奪われた。
  アメリカは、ハワイもこの様にして奪った。
  樺太が、また、日本にもこの様な事が起きた。
  樺太にはロシア人が居ないで、日本人だけが居た。
  それから、ロシア人がどんどん入って来た。
  樺太の日本人は中央政府(幕府)にこの状況を伝え、
 日本人もどんどん樺太に来ないと「ロシアに樺太が盗ら
 れてしまう」と伝えた。
  この様な歴史が、「日本の領土の樺太」の歴史の初め
 にある。
  ロシア人の「ロ」の字も無いころ、間宮林蔵という日
 本人の探検家は、樺太はおろか、ユーラシア大陸まで探
 検をしていた。
  コロンブスが、西インド諸島を発見し探検したことと
 同等である、もしくは、それ以上の事をしている。
  このコロンブスの事を思えば、間宮林蔵が探検したア
 ムール川流域のユーラシア大陸の地は「日本領である」。
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1884年、海軍予備員制度が発足した。
  採用は1886年からなされた。
  この制度は、西郷従道農商務卿がイギリス海軍予備員
 制度を例にして発案した。
  海軍予備員は、海軍兵籍を有し、戦時などの有事の際
 には召集されて軍務に服するが、平時は民間において船
 舶職員などの海事に従事する者をいう。
  海軍予備学生などの身分は、海軍予備員たる海軍予備
 少尉となるための教育を一定期間受ける者で、海軍予備
 学生と海軍予備生徒があった。
  1935年からは、飛行科や整備科の予備学生も採用され
 た。
  この海軍予備学生・・
  木馬座の人形劇団をつくり活躍した藤城清治氏は、読
 売新聞の「時代の証言者」欄に、第二次世界大戦時に居
 た海軍予備学生時代のことを書いていた・・
  「海軍予備学生時代に、海軍でディズニー映画を見せ
 てもらい。感動しました。戦争中ですが、視野を広げさ
 せようとしたのでしょう」・・と。
  これ以来、藤城氏は、「ディズニーの様になりたいと
 思い、理想郷となった」と語る。
  しかし、この同じ頃、ディズニーは、アメリカで、「
 日本は黄色い猿だ」と日本を蔑視し、馬鹿にした映画を
 作っていた。
  日本の飛行機が、盛んにアメリカ機に撃墜される映画
 を作っていた。
  アメリカの国民の方々に、「日本に対する敵意を植え
 付け、沸かす工作映画を作っていた」。
  盛んに、アメリカ国内でプロパガンダ工作をしていた。
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1910年8月22日、日韓併合条約(韓国併合条約)
  この日、漢城府(現:ソウル)において、日本側・寺
 内正毅統監と、大韓帝国側・李完用総理が調印した。
  そして、1910年8月29日、裁可され、公布し、発効し、
 日韓併合が成立した。 
  (参考)大韓帝国李氏朝鮮(朝鮮王朝)を改称した国
     号。
      国号変更の動機は・・、
      それまでの李氏朝鮮の朝鮮王朝が、日清戦争
     の日本勝利の結果の日清平和条約により、清朝
     の属国関係(宗属関係)も消滅したとして国名
     変更を行った。
  また、日露戦争の結果、日本勝利で調印されたポーツ
 マス条約の第2条や・・、
 1902年に結ばれた日英同盟の第3条において、日本の朝鮮
 半島における政治上、また、経済上などの卓絶した地位
 が、世界的に承認されていて・・
  この条約も、世界的に当時の国際法上おかしいと判断
 されるところはまったく無く・・、
  「国際法上合法である」と判断されている。
  大韓帝国は「保護国」とされていて・・、
  条約に基づいて、「日本の対外関係の処理を引き受け
 る」と約定されている。
  近年でも、ケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授
 (国際法)が言及されるように・・
  「(大韓帝国のように)自分で生きていけない国につ
 いて、周辺の国(この場合、日本)が国際的秩序維持の
 観点から、その国を取り込むということは、当時よくあ
 ったことである・・
  日韓併合条約は国際法上は不法なものではない」とい
 う意見が「国際的な一般的な判断」となっている。
  今・現在になって、大韓民国(韓国)が違法であると
 違法論を展開しているが、国際的に、無理な主張となっ
 ている。
  この日韓併合条約は、17世紀からこの時まで、ヨーロ
 ッパで作られ発展して来た万国公法(国際法)と同じで・・
 何ら違法的な所は無い。
  また、日本と大韓帝国李氏朝鮮)は、正式な文書で
 条約を交わしていて、国際社会に「公認されている」。
  また、最近、日本のメディアが・・、
  例えば、読売新聞が、2019年3月2日の社説で、日韓併
 合を「植民地支配」と書くのは間違っている。
  この時の李氏朝鮮大韓帝国)は、条約に基づいた被
 保護国であって「植民地ではない」・・
  また、日本は、欧米的な植民地支配はしていない。
  日本には、キリスト教の教義で説く様な「異教の地の
 民を絶滅させて、そこにキリスト教会を建てる」という
 植民地支配の考え方はまったく無い。
  その様な精神で経営する植民地経営や植民地支配の精
 神はない。
  日本は、古事記の「治らす」の精神で朝鮮を栄えさせ
 た。
  何故?・・と、キリスト教的な植民地支配の洗脳を受
 けた人には思えるだろう。
  日本は、何故、赤字になってでも現地を発展させたの
 か?・・と、思うだろう・・考え及ばないだろう。
  古事記に記された精神が、昔から日本が培ってきた・・
 その精神だった。
  古事記に・・、
  天孫が降臨するときに、その降臨する神へ神勅(しん
 ちょく)を与える。
  それは、降臨する国「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂
 (みずほ)の国に、就(ゆ)きてしらす」という、その
 「しらす」は「治らす」であって・・
  この「治らす」が、「その国に産業を興し、栄えさせ、
 国全体としてまとめて行く」という意味で・・、
  キリスト教植民地主義の「鎮圧して支配する」では
 ない。
  天孫から国を栄えさせよと使命を授けられた神が、日
 本にあった。
  その精神で日本はずーっと生きて来た。
  朝鮮の地に鉄道を張り巡らせ・・小学校から大学まで、
 日本と同等に、いや、それ以上に学校を造り、道路も造
 り、山に木を植え、産業も興し、衛生状態を改善し、経
 済も大発展して来た・・人口は倍増し、平均寿命も倍増
 した・・
  今、若者が反日教育を受けて、その様なことをまった
 く知らずに、当時の事をお年寄りに聞くと、予想に反し
 て「良かったよ」と想像とまったく違う返事にびっくり
 する。
  その様なお年寄りが朝鮮の地に減って来ているが、日
 本は、朝鮮・韓国の国づくりを誠実に努めて来た。
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1917年4月6日、アメリカの対ドイツの宣戦布告(第一次世
 界大戦)
  第一次世界大戦は、1914年7月28日に始まっていたが、
 アメリカは、なかなか、ドイツに対して宣戦布告はしな
 かった・・が、しかし・・
  その2年6ヶ月後の1917年2月3日に、アメリカはドイツ
 と断行し・・、
  そして、その2ヶ月後の1917年4月6日に・・アメリカは、
 ついに、ドイツに宣戦布告した・・ここにアメリカ国民
 の方々への世論工作があった・・
  アメリカは・・力を持つ国、武力を持つ国、そして、
 金を持つ国・・
  第一次世界大戦で、ドイツが勝ちかけていた頃、敗け
 そうなイギリスは動いた。
  第二次世界大戦の時も、まったく同じような展開が起
 きているが・・この戦争の時も、同じ様な展開が起きた。
  イギリスの外務大臣のバルフォアが、イギリスのユダ
 ヤ社会へ働きかけた。
  アメリカに参戦させるために、「ユダヤ人の国をつく
 る」と約束して、アメリカが参戦へ動く工作を頼んだ。
  イギリスの外務大臣バルフォアは、「パレスチナに、
 ユダヤ人による民族的郷土の設立」をユダヤ系金融資本
 家に約束した。
  バルフォア宣言への動き・・
  (参考)バルフォア宣言:1917年11月2日、イギリス外
     相 A.バルフォアが、パレスチナにおけるユダヤ
     人の民族的故郷の建設を支持した宣言。
      バルフォアは、それをシオニズム運動の財政
     的な後援者であった L.ロスチャイルドにあてた
     書簡のなかで明らかにした。
      この内容は、1916年に、フランス、ロシア、
     イギリス間で結ばれた秘密条約であるサイクス
     =ピコ協定とは明らかに矛盾するものであった
     が、イギリス政府のねらいはユダヤ人世論を連
     合国側にひきつけ、あわせてユダヤ人のパレス
     チナ入植を通じて中東政策の布石を固めること
     だった。
      同宣言は、1920年のサン・レモ会議でイギリ
     スの正式政策とされ・・
      1922年に、国際連盟パレスチナ地方をイギ
     リスの委任統治領としたとき、その前文に同宣
     言が含められた。
  このバルフォア宣言により、ユダヤ人の方々の社会が
 動き、アメリカの世論操作・世論工作が進められた。
  アメリカの大統領府の広報委員会も動き出した。
  この部署にいたユダヤ人のリップマンとバーネイズが、
 大いに働いた。
  この時なされたドイツについてのプロパガンダが・・
  ドイツが残虐行為をしているとか、妊婦が切り裂かれ
 たとか、ベルギー婦人を殺したとかの、世論操作の嘘宣
 伝がなされた。
  アメリカ国民の方々は繰られて行く・・
  比較的、ドイツに好意的だったアメリカ国民の方々の
 気持ちは変えられて行った・・
  そして、結局、アメリカは参戦することになって行く。
  アメリカのメディアを牛耳っていたのがユダヤ資本だ
 った・・それが大きかった。
  イギリスの「ロイター」もユダヤ人が設立した通信社
 だった。
  ユダヤ系列の団体・組織の繰る「資金」と「情報」の
 力は大きかった。
  この時、大きな役割を果たしたリップマンは言った・・
  「大衆に対し、自らが民主的権力を行使しているとの
 幻想を抱かせなければならない」と。
  これは、アメリカは、民主主義国家の様に見えても、
 幻想だと言っている・・「繰られた民主主義的な意見」
 で動いていると・・
  最近、中国は、盛んにアメリカのメディアを買ってい
 る。
  そしてまた、日本も、やってもいない南京事件を中国
 にプロパガンダ(嘘宣伝)されて、やってもいない虐殺
 をしたと虚偽の嘘宣伝をされた。
  ユダヤ人のリップマンを支えた、やはり、ユダヤ人で
 あるバーネイズは・・「プロパガンダ」という本を書い
 たが、その中で書いている・・
  「世の中の一般大衆が、どの様な習慣を持ち、どの様
 な意見を持つべきかといった事柄を、相手にそれと意識
 されない様に知性的にコントロールすることは、民主主
 義を前提とする社会において非常に重要である」と。
  この様な中に「目に見えない統治機構がある」と指摘
 した。
  これが、アメリカの「真の支配する者だ」と指摘した。
.
1944年7月1日、ソ連が、日本に攻めてくる前のこの日から、
 アメリカによる対ソの兵器援助の引き渡しが行われてい
 た・・『第二次世界大戦の不正な、卑怯な行為』。
  スターリンが、アメリカに要求した武器提供は「マイ
 ルポスト合意」として成立した。
  アメリカは、1945年、中立国(日ソ中立条約があった)
 だったソ連の船を使って日本海を抜け、ソ連のウラジオ
 ストクに武器弾薬を陸揚げした。
  このアメリカの援助した武器を使って、ソ連は、日本
 を攻撃し、侵略した。
  まったくソ連国際法違反、及び、日ソ中立条約違反
 であった。
  アメリカは、ソ連をそそのかして、中立条約違反をさ
 せているが・・
  アメリカのルーズベルト大統領のやったそそのかし行
 為だった。
  日本は、一旦、条約を締結すると誠実に、その条約の
 約束を守ったが・・ソ連は条約を破る常習犯だった・・
  ルーズベルトは自分でも言っているが、『自分が有利
 になるなら、嘘だってつく』と言った。
  国の信用・信頼をまったく軽いものにしている、「軽
 蔑すべきアメリカ」だった。
  また、ルーズベルトの嘘つき体質・裏切り体質が現れ
 るのが、中国に関することだった。
  ルーズベルトは、秘密裏に中国に支援する命令を出し、
 また、アメリカ正規軍に日本を攻撃させている。
  ルーズベルトは、日本の真珠湾攻撃以前に、日本を攻
 撃させている。
  これこそ、アメリカの「日本への奇襲攻撃」であった。
  また、金や武器を、中国に支援するということもして
 いる。
  アメリカの大義名分は、「日本が、侵略行為をしてい
 る」だった。
  満州は、日露戦争に勝利し、ロシアから移譲された(渡
 された)ので、侵略ではない。
  また、アメリカ・イギリスは、日本に、「シベリアへ
 出兵してくれ」と頼んできている・・侵略ではない。
  アメリカこそ中国のあちこちの権益を欲しがった国だ。
  そして、アメリカは、日本が侵略していると罪に落と
 しながら、ソ連が中国領を欲しがったら「いいよ」と許
 可する行為をする。
  中国には、秘密にして、こんなことをするアメリカな
 のである。
  ソ連の「中国への主権侵害」に、許可を与えているア
 メリカなのである。
  中国の大連を、「国際港」という誤魔化しの「名目の
 言い方」で、実質、ソ連の港になることを認めたアメリ
 カだった。
  南満州鉄道も、同じ様に、「中国と共同管理で」と言
 いながら、実質は、ソ連のものとして認めている。
  ルーズヘルトは、子供だましの様な事を言った、「中
 国に知らせると情報が漏れるからだ」と・・、
  ルーズベルトは、このことを、強く秘密にすることを
 スターリンに要求した。
  この秘密は、破廉恥な事に、アメリカの国務長官のス
 テティニアスにも秘密にされた。
  この一連の会談について、ルーズベルトは、「欲しい
 ものは、すべて手に入れた」と言ったという。
  すべて嘘と秘密で手に入れる詐欺師やペテン師の如く
 のルーズベルトに、「何を言うのかと、喝を入れたい心
 境だ」。
  こんな輩たちによって、何百万人もの命が亡くなされ
 たのである。
  (参考)レンドリース法(武器貸与法)という法律が
     アメリカにある。
      第4協定期間は、1944年7月1日から開始された。
      1945年4月17日に署名され、公式には1945年5
     月12日に終了したとされた・・が・・
      ソ連への援助は、日本に対する戦争の期間(
     ソ連の対日参戦は1945年8月8日)「マイルポス
     ト合意」に基づいて1945年9月2日まで続けられ
     た。
      そして、1945年9月20日にすべての対ソ連「レ
     ンド・リース・プログラム」は終了した。
      ソ連に対して出荷された軍需物資の概要は・・
     航空機14795、戦車7056、銃8218、機関銃131633、
     爆発物345735トン、化学物質842000トン、
     輸送船90、対潜艦105、魚雷艇197、軍靴15417001足、
     ジープ51503、トラック37503、オートバイ35170
     など・・
      輸送は、北極海の輸送船団、ペルシア回廊、
     太平洋ルートで行われた。
      アメリカは、卑劣にも日本と停戦合意した後
     までもソ連に武器を与え続けていた。
.
1969年1月20日、第36代アメリカ大統領にリチャード・ニク
 ソンが就任した。
  この大統領は、ベトナム戦争を拡大した。
  また、この大統領は、1974年、ウォーターゲート事件
 で任期満了を待たずに辞任している。
  ニクソンは、キッシンジャー外交問題特別補佐官に
 任命し・・
  1969年7月、外交方針の原則としてニクソン=ドクトリ
 ンを発表した・・
  これで、海外への過度な軍事介入の抑制に転じ、対共
 産圏戦略で同盟諸国に肩代わりの強化を要求したりした・・
 が・・一方・・、
  パリ和平会談の有利な展開を狙って、1970年~1971年、
 ベトナムでの主導権を維持するため、アメリカは、カン
 ボジアへ侵攻し・・また、ラオス空爆も始め・・、
 介入を拡大し、ベトナム戦争インドシナ全域に拡大し
 た。
  この戦費の重みは、アメリカ経済に重くのしかかった。
  この様なベトナム戦争の時、この北ベトナムを支援し
 ていたのはソ連だった。
  しかし、「北ベトナムを支援するのは中国だ」と間違
 って見ていた。
  アメリカや世界は、その様に見ていた。
  ベトナム戦争をやらせているのは中国だと見て・・ニ
 クソン・アメリカ大統領の理解も、完全に間違っていた。
  逆に、北ベトナムと中国は、仲が悪かった。
  ソ連北ベトナム支援の物資を、中国は中国領土を通
 させないという事をした。
  また、異常なハラスメント(いやがらせ)をした。
  アメリカは、中国が「革命の輸出」をしたいため、北
 ベトナムを支援しているものと、まったく間違った見方
 をしていた。
  種々、中国に煮え湯を飲まされる北ベトナムの事情を、
 アメリカは知らなかった。
  北ベトナムは、民族統一をしたいから戦っていた。
  この点を大きく見られないというアメリカの大きな間
 違いがあった。
  アメリカは、ソ連に金を渡しているが、そのソ連が北
 ベトナムへ武器などの支援をしている。
.
1979年、中国とベトナムの戦争(中越戦争)が始まり、中
 国とベトナムが、こんなに仲が悪かったのかと世界がび
 っくりした・・
  中国の嘘と諜報とプロパガンダで、世界は誤魔化され
 ていた。
  実は、ベトナムと中国は、仲が悪かったのだった・・
  世界は、周恩来毛沢東の詐術(さじゅつ、通常の知
 能を有する一般人を欺罔(ぎもう)するに足る術策)が
 うまくて、誤魔化す術が長けていたので、仲が良く見え
 ていた。
  あたかも、中国がベトナムをコントロールしているよ
 うに見えた。
  しかし、この1979年に、中国とベトナムの戦争「中越
 戦争」が始まって、世界はびっくりする。
  中国とベトナムは、こんなに仲が悪かったのかと・・
  こんなプロパガンダ(嘘工作)された見方の中で、アメ
 リカ外交は動いていた・・
  キッシンジャー外交も動いていた・・
  それで、中国は、アメリカからとるものを取ってしま
 った・・まったく大きく価値あるものだった・・
  実は、中国は、1970年~1971年頃は、最悪だった。
  アメリカとも、また、ソ連とも対立をしていた。
  ニクソン訪中前であった・・
  中国共産党は、崩壊直前の状態にあった。
  しかし、アメリカは、中国と手を結んだ・・1933年に、
 ソ連を承認したように・・
  中国は、息を吹き返した・・力を取り戻した・・経済
 も良くなった・・
  この時・・毛沢東が、先にアメリカに打診したという。
  中国は、国境を接しているソ連の方が、アメリカより
 脅威という状態だった・・
  アメリカは、『一つの中国』を認めたわけではないが、
 その様な印象は与えてしまった。
  そして、今、南シナ海を無断で自国の戦略基地とし・・
  また、「太平洋を半分ずつにしよう」とアメリカに言
 うという中国になっている・・
  今、アメリカは、中国に抜かれると言う人が多くなっ
 ている・・
.
1990年、中国は、完全に外国情報に触れられない国となっ
 ている。
  この年、海外衛星放送の受信が禁止となった。
.
1994年、中国は、海外情報が得られない国で、政府によっ
 て完全に管理されている。
  この年に、国外テレビ番組の輸入が政府の管理下に
 置かれた。
  また、放送も完全に管理されるもとにされ、管理規定
 ができた。。
.
2000年、中国は、中国国民の情報を得る自由を拘束してい
 る。
  この年に、さらに厳しく、インターネット放送に関す
 る監督管理をし始め・・
  また、海外アニメ番組の購入や放送に関する通知が規
 定されたり・・
  さらに、外国テレビ番組や映画の輸入に関して政府の
 管理下に置かれた。
.
2013年5月19日、日本の防衛省は19日、国籍不明の潜水艦が
 沖縄県南大東島の南の接続水域内を潜航するのを確認
 したと発表した。
  13日と同様に、防衛省は国籍を公表していないが、政
 府関係者は中国海軍の潜水艦と見ている。
  中国籍と見られる潜水艦が日本の接続水域に入ったと
 日本メディアが大々的に伝えたのは今回が初めてではな
 い。
  中国の海軍軍事学術研究所法律研究室の邢広梅主任は
 19日、「環球時報」に対し、「南大東島沖縄本島の東
 400キロの太平洋上にある孤島で、潜水艦を含む各国の船
 舶と航空機はこの島の周辺を自由に航行、飛行できる。
  島の位置から見て、最も近いのは中国ではない。
  日本側が確認が取れていないのに『中国の潜水艦によ
 る威嚇』と大げさに主張するのは、明らかに中国を敵視
 し、顔に泥を塗る行為である」と述べた。
  また邢広梅氏は、「日本が国籍不明の潜水艦の潜航を
 頻繁に報道している点から、日本の対潜能力は非常に高
 いことがわかる。
  潜水艦をキラー兵器としている中国海軍にとっては大
 きな脅威であり、中国海軍は大いに重視する必要がある」
 と語った。

2015年10月25日、K-324は、米海軍に屈辱を与えたソ
 ビエト潜水艦
  高価な機密装備を損傷させたことにより多くの米海軍
 高官が免職されたが、とりわけ米国が憤懣を募らせたの
 はそれら装備がソビエト海兵の手に渡ったというニュー
 スだった。
  1983年の秋、多目的原潜K-324(NATOのコードネームは
 ヴィクトル3、ソビエトではシューカ)が西大西洋を巡視
 していた。
  10月31日、ソビエト潜水艦がサルガッソー海に米海軍
 の最新鋭巡洋艦マックロイを発見。
  同船は最新鋭対艦探知システムTASS(Towed Array
 Surveillance System)の試験を行っていた。
  演習上の標的として選ばれたのは米国の原潜フィラデ
 ルフィア(SSN-690)。
  米艦の乗組員らは演習にもう一人の参加者がいること
 など疑ってもみなかった。
  ソビエト潜水艦K-324だ。
  同船は航行音を消して隠密裏に米巡洋艦に近づき、そ
 の頭部にとりついた。
  それから14時間というものソビエト潜水艦は技術的諜
 報を行い、秘密の潜水艦アンテナのパラメーターを測定
 した。
  熱帯暴風雨で米艦の演習は困難になり、中止された。
  マックロイ号は急に方向を変え、基地へと急ぐ。
  ソビエト潜水艦の船体に奇妙な振動が走った、と長年
 ののち、当時の一級船長アレクサンドル・クジミン氏は
 記者らに語っている。
  「メインタービンが故障した。原子炉もタービンも、
 非常用防護装置が作動。浮上せざるを得なかった。
  浮上し、熱帯暴風雨の真っただ中に入った」。
  こうなった原因は浮上してはじめてわかった。
  潜水艦に、探査機のついた長大な金属製のケーブルと
 いう形状の、米艦の機密アンテナが巻き付いていたのだ。
  この遭難船の救助にハバナにいたソビエト船アルダン
 が出動した。
  しかし、先にそれを見つけたのは米駆逐艦ピーターソ
 ン、および、ニコルソンだった。
  両艦は紛失した機密装置の捜索を行っていたのだ。
  潜水艦が拿捕されることを危惧したK-324の船長は、自
 爆準備を整えるよう命じた。
  しかし、事は公海上で起こっており、米艦は潜水艦の
 周囲でしか行動できず、不運なアンテナをネジで断ち切
 ろうと遠巻きに試みるしかなかった。
  やがて、この危険なゲームに米潜水艦フィラデルフィ
 アが駆け付ける。
  同船は、ソビエトの潜水艦に近づき、その真下に入っ
 た。
  そして、どうやったものか、ソナーつきのケーブルを
 船体に巻き付けることに成功した。
  そうして悲喜劇じみた状況が出来上がった。
  敵対する2隻の原潜が、まるで綱引きを争うような格好
 になった。
  終いには強化ケーブルが引き千切られ、フィラデルフ
 ィアは自らの船体に巻き付けたソナーつきカプセルを丸
 ごと奪い去ってしまった。
  しかし、K-324のネジにはまだ400mにもおよぶ機密低周
 波アンテナが残されていた。
  急行したソビエト船アルダンがK-324を牽引し、キュー
 バに連れ帰った。
  ネジから巻き取られた米国のアンテナは特殊軍事航路
 でモスクワに送られた。
  K-324は、再び、大西洋のパトロールに復任した。
  のち明らかになったところでは、当時のロナルド・レ
 ーガン大統領は、この件について報告を受けると、海軍
 の高官数名を解雇するよう命じた。
  議会は、翌1984年度の軍事予算で、海軍の学術調査諜
 報の割り当て額を25%削減した。
  ロシアに機密のすべてを渡してしまうような海軍の活
 動に渡す金などない・・という。
.
2016年12月21日、なぜ中国は米軍の潜水ドローンを拿捕し
 たのか・・との表題で日経ビジネスが伝えた・・
  以下、その抜粋・・
  中国の人民解放軍海軍が南シナ海で米軍の無人潜水探
 査機(ドローン)を「違法に奪取」した。
  12月15日のことである。
  米国側は、すぐさま返還を要求、
  18日には中国側も返還に応じることを決定したが、い
 ったい中国側は何を考えて、このような大胆な真似をし
 たのだろうか。
  米国防総省の発表では、15日、アメリカ海軍の海洋調
 査船「バウディッチ」が南シナ海のフィリピン・ルソン
 島沖、スービック湾から北西93キロの地点で、無人潜水
 探査機(ドローン)2機による海洋調査を実施、
  探査機を回収しようとしたところ、中国海軍の潜水艦
 救難艦がボートを出して1機を奪ったという。
  バウディッチは無線で返還を要請したが、救難艦は応
 答せずに探査機を持ち去った。
  米国側によれば、ドローンは、海水の塩分濃度や透明
 度などを調査するものだが、これは、潜水艦航行時のソ
 ナーデータに役立つ情報でもある。
  潜水艦の航行、作戦に必要とされる情報といえば、軍
 事情報になるが、機密というほどのものはない。
  国防総省の発表でも、今回の調査は、民間用のドロー
 ンを使って非機密情報を収集していたという。
  無断でこのドローンを拿捕した中国国防部は、「中国
 海軍は15日午後、南シナ海海域で正体不明の装置を発見
 し、船舶の航行の安全と人員の安全を守るために、救難
 艦の責務として、この装置の識別検査をしたのだ」と主
 張した。
  だが、目の前に米海軍の調査船があり、無線で返還を
 呼び掛けているのに持ち去ったとなれば、この主張も口
 実にすぎないとわかる。
  中国国防部側は、識別検査の結果、無人潜水探査機で
 あると判明したので米国に返還すると決定した、と説明。
  「中国側は、米国側とずっと連絡を保っているのに、
 米国側が一方的に問題を公開し、騒ぎ出したのは不適当
 であり、問題をスムーズに解決するのに不利となった。
  我々は、このことに遺憾を表明する」と開き直った。
  さらに、中国国防部は、「強調すべきことは、長年、
 米軍は頻繁に中国当面海域で偵察や軍事測量を行ってき
 ているが、中国はこのことには断固反対しており、この
 種の活動を停止することを米国側に要求する。
  中国側は、引き続き米国側のこうした活動に対し警戒
 を維持し、必要な措置をもって対応する」とけん制した。
  米海軍海洋調査船が寄港していたスービック湾沖とい
 う現場は、本来、フィリピンの排他的経済水域内だが、
 スービック湾西200キロの地点にあるスカボロー礁はフィ
 リピン、中国が領有権を争う係争地である。
  米国側は、この周辺海域を国際水域、つまり、公海や
 自由海に準ずるものとして認識しているが、中国側にす
 れば現場は、中国の排他的経済水域ということになる。
 (中略)
  中国側がいきなりドローンを無断で拿捕するというこ
 とは、これは実力行使、戦闘行為に発展してもおかしく
 ないぐらいの挑発といえる。(中略)
  トランプ(大統領)は、この件について、そんなドロー
 ンなど中国にやってしまえ、とツイッターで発言したの
 は、そこに軍事機密として保護を優先させるものはなく、
 中国の挑発に乗らないことを優先させた、ということか
 もしれない。(後略)
  (追伸)米国防総省20日、中国が南シナ海で先週拿
     捕した米海軍の無人潜水機が返還されたと明ら
     かにした。
      潜水機は、拿捕された場所の近くで米国側に
     返還されたという。
      国防総省は発表文で、国際法で認められた南
     シナ海の海域で、今後も「飛行し、航行し、活
     動する」と述べた。
      中国は15日に、フィリピンのスービック湾か
     ら北西92キロの国際海域で潜水機を海から取り
     上げた(フィリッピンに本当に近い海域)
      これを機に両国は対立し、ここ数十年間の両
     国関係でも特に深刻な事態のひとつと言われる
     状態にあった。
      中国国防省20日の発表文で、「中国と米国
     が友好的な協議を行った結果、引き渡しは正午
     に滞りなく完了した」と述べた。
      20日の発表文で国防総省は、無人機の拿捕は
     国際法海上における海軍間の行動規範に沿っ
     ておらず、事実関係の調査を今後も続けると述
     べた。
      専門家らは、今回の対立が、中国が南シナ海
     で軍事活動を活発化させていることへの米国の
     懸念をさらに高めるだろうと指摘した。
.
2017年2月15日、中国が法改正、外国の潜水艦に浮上航行を
 義務付け・・露メディア
  15日、全ロシア国営テレビ・ラジオのチャンネル「ロ
 シア1」は、中国の海上交通安全法改訂について取り上げ
 た。
  領海内を航行する外国の潜水艦には浮上航行を義務付
 けるとの項目が注目を集めている。
  2017年2月15日、全ロシア国営テレビ・ラジオのチャン
 ネル「ロシア1」は、中国の海上交通安全法改訂について
 取り上げた。
  現在、改定案で注目されるのは外国の潜水艦に関する
 規定で・・中国領海を航行する際には必ず海面へ浮上航
 行し、また、中国当局へ航行ルートの申請も必要だとい
 う。
  専門家は、昨年の南シナ海における米軍潜水ドローン
 拿捕(だほ)事件を念頭に置いた改訂だと指摘している。
  改定案では、外国籍船舶が法律、規定に違反した場合
 には当局が違法行為禁止を命令し、領海から排除できる
 と定めている。
  南シナ海尖閣諸島近海では、中国が領海を主張して
 いるが他国が認めていない海域が多く、海上交通安全法
 改定案は新たな火種となりかねない。
  とりわけ、南シナ海は、大規模な軍事衝突が起きかね
 ないとの懸念が高まっている。
.
2019年頃(2010年代後半)中国海軍は、アメリカ海軍の大
 型空母やイージス艦を撃沈できる精密弾道ミサイル長距
 離巡行ミサイルを、着々と増産してきた。
  これらのミサイルを多数、同時に発射されると、アメ
 リカ海軍のイージス・システムは対抗できない。
  2010年代の後半期になると、アメリカ海軍の空母や駆
 逐艦は「危なくて、東シナ海に近寄れない」という状況
 になる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/