(増補版)642E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

題:(増補版)642E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
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1896年3月30日、官吏恩給法及官吏遺族扶助法補則公布(法
 律第36号)
  1.恩給法上の公務員
  恩給の対象となる公務員は、具体的には、次のような
 者をいう。
  (なお、公務員の年金制度は昭和30年代に旧共済年金
 に移行しており、恩給の対象となる公務員は、旧共済制
 度発足前に退職した公務員及びその遺族である。
  したがって、現職者に恩給の対象者は存在しない。)
 (1) 一般文官 ア 文官(官にある者)〔最短恩給年
   限17年〕
  イ 教育職員(公立学校等の職員)〔最短恩給年限17
   年〕
  ウ 警察監獄職員(警部補以下、副看守長以下、消防
   士補以下の者)〔最短恩給年限12年〕
  エ 待遇職員(形式的には官吏ではないが判任官以上
   の待遇を受ける者のうち、恩給法令により特に指定
   したもの。
    例えば、神宮司庁職員、地方道路技師等)〔最短
   恩給年限17年〕
 (2) 旧軍人(兵~大将)〔最短恩給年限 兵・下士官
   12年、准士官以上13年〕
  2.公務員の遺族
   遺族の順位は、
  ア 配偶者
  イ 未成年の子
  ウ 父母
  エ 成年の子(公務員の死亡当時から重度障害の状態に
   あり、生活資料を得る途のない者に限る。)
  オ 祖父母・・である。
  (以上、抜粋・・総務省ホームページより)
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1896年3月30日、事業公債条例が公布(法律第50号)され、事
 業公債をもって鉄道改良費の資金とする。
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1896年3月30日、逓信省官制改正(勅令第85号、4月1日施行、
 勅令第150号は廃止)
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1896年3月30日、客車代用貨車取扱規程を制定(鉄運乙第534
 号)
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1896年3月31日、拓殖務省官制の公布
  拓殖務省(たくむしょう)は、この年に、台湾事務局
 関係事務と、北海道拓殖事務を統轄する機関として、拓
 殖務省が設置された。
  しかし、1年余ののちに廃省となり、その後、南樺太
 朝鮮の併合、関東州の租借、南洋委任統治などの植民地
 行政拡大に伴い、1910年以後、拓殖局、1922年以後、拓
 殖事務局、1924年以後、内閣拓殖局がそれぞれ設置され
 て統轄機関となった。
  1929年、田中義一内閣のとき、拓務省官制として省に
 昇格したが、所管事務として旧内閣拓殖局の事務と従来
 内務省社会局の権限であった「移民に関する事務」を引
 継いだ。
  具体的には、朝鮮、台湾両総督府、関東、樺太、南洋
 3庁の事務を統督し、南満州鉄道株式会社、東洋拓殖株式
 会社などの監督にあたった。
  1942年11月、大東亜省設置に伴い、対満事務局、興亜
 院とともに吸収され、廃省となった。
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1896年3月31日、横浜のペスト患者が死亡した(4月1日説
 あり)
  開港した横浜、伝染病も流入して来る。
  日本にベストが初めて上陸した。
  横浜港に入港したアメリカ船籍のゲーリック号の乗客
 の一人(外国人)が病気のため下船した。
  そして、市内の病院に入院する。
  患者は容態が急変し、4月1日に死亡した。
  検査して「ペスト」と判明した。
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1896年3月31日、台湾総督府直轄諸学校官制が公布された。
  日本は韓国や朝鮮、そして、台湾の教育制度を整備し
 教育を施すことに熱心だった。
  欧米列強の様な捨てて置く様な事はしなかった。
  修学年限や修学の科目などを決めたりした。
  女子には、特別に、この教科が必要などと、きめの細
 かい指導をしてあげた。
  そして、必要に応じて、その後も、向上させて行った。
  それに応じて、財源を配慮もした。
  今、韓国は、何かと恩になった日本を批判するが、韓
 国が出来なかった小学校や大学などの学校づくりを、誠
 実に日本は行っただけではなく・・その他に、日本は、
 それだけではなく、その教育が実際にうまく行くように
 配慮して、行なっていた。
  日本と遜色(そんしょく)なく、まったく平等で、師
 範科なども置いたりした。
  日本語の習得に関して強制することなく行われた。
  日本語を常用せざる者の別建てのコースも作った。
  だからと言って、全く同等で差別などもしていない。
  同じように豊かになろうという体制だった。
  大学なども日本人との共学の大学も置かれた。
  日本を批判することは「何事においてもできる」が、
 日本がしなかったならば、大学も小学校もない状態だっ
 た。
  できた状態が「ああだった」とか、「こうだった」と
 かという批判は、想像すれば何事も言える状況で、教育
 施設が無い状態を考えれば、その様な批判はできないは
 ずだ。
  そこまで言うのであるのならば、何故?自分たちで造
 らなかったのですか?と問いたい。
  恩を売っている訳ではないが・・感謝の気持ちを持っ
 てもらいたい。
  日本の先人の方々は、資金だけではなく、誠実に努力
 していたのです。
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1896年3月末、酒造税法・営業税法・葉煙草専売法などが公布
 された。
  酒造税法 (明治29年3月28日法律第28号)
  葉煙草専売法 (明治29年3月28日法律第35号)
  営業税法 (明治29年3月28日法律第33号・・翌年の明治
  30年1月1日に施行された。
  この法律は、明治29年11月の税務管理局官制、すなわち
 税務署創設の前提となっている。
  この法律は、複雑な課税標準を設定したため、その執行
 に専門的な税務行政の必要性が生じ、対応できる期間の創
 設を促した。
  この法律は全国的な反対運動も起きた。
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1896年3月末、陸軍平時編成を改め、近衛および第1師団~第
 12師団が設置された。
  師団の増設に伴う師管の改編によって旅管が廃止されて
 13師管となり、従来の大隊区は連隊区と改称された。

  その一つ・・札幌に陸軍第7師団が編成され、北海道の
 開拓と警備を担った屯田兵が基盤となった。
  初代師団長は屯田兵司令官であった永山武四郎。
  1899年に旭川への移転が決定、
  1902年、移転が完了。
  北海道に置かれた常備師団で、北辺の守りを担う重要な
 師団だった。
  北海道民は畏敬の念(いけいのねん、畏れ、かしこまり、
 敬う心情)で見ていた。
  この「北鎮部隊」の元で、旭川は軍都として発展する。
  十勝(→旭川)連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・根室
 →釧路)連隊区
  部隊は、日露戦争二〇三高地や太平洋戦争のガダルカ
 ナルなど、歴史に残る激戦地へ派遣された。
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1896年3月末日、臨時軍事費特別会計終結した。
  日清戦争の臨時軍事費特別会計が編成されたのが、1894
 年6月1日からだったが、1896年3月末日で終結した。
  歳出:200百万円
  うち:陸軍82.1%(人件費18.4%、糧食費12.4%、被服費
 10.8%、兵器弾薬費5.6%、運送費16.9%、その他18.0%
  海軍17.9%(物件費75.0%・人件費19.5%・その他5.5
 %(ただし、別の資料では、海軍の人件費1.1%、艦船費6.4
 %、兵器弾薬費・水雷費5.0%、その他5.4%)
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1896年3月、進歩党が結成された(大隈重信総裁)
  憲改進党ほか諸派自由党に対抗して結成した。
  改進党、立憲革新党、財政革新会、中国進歩党などが合
 同し、進歩主義に立つことを宣言した・・
  また、責任内閣の完成、国権拡張、財政整理を政綱に掲
 げた。
  1896年9月に、事実上の党首大隈重信が、第2次松方正義
 内閣に外相として入閣して、進歩党も与党となって第10議
 会では金本位制確立のための貨幣法案や、戦後経営関連諸
 法案を成立させた。
  議会後、大隈は農商務相を兼任した。
  また、党幹部が農商務次官・局長、県知事などに就任・・
  1897年8月、新設の勅任参事官にも多数任命されたため
 官僚勢力との利害が対立することになる。
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  (今日の言葉)
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  題:アメリカは、自国の通貨を発行するたびに、アメリ財務省が、
   民間銀行の株主に金を払う(利子を払う)という「おかしな形」と
   なっている・・??
    また、アメリカは、「通貨供給量の生殺与奪の魔法の力」が
   握られている。
    そして、これが、アメリカの財政赤字の原因の一つとなっている。
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紀元前261年頃、アショカ王が、全インドへ仏教を広める。
  アショカ王・・紀元前3世紀のインドのマウリヤ王朝の
 王子として生まれ、マウリヤ朝の第3代国王となる・・生
 没年は不詳。
  紀元前3世紀の半ば、史上初めてインドのほぼ全土を統
 一した。
  仏教に熱心に帰依し、不殺生や慈悲などの仏法にもと
 づく政治を掲げた・・そして、仏教のその精神にもとづ
 く世界秩序をめざす。
  世界中に伝道師を派遣し・・エジプトのアレクサンド
 リアにまで訪れる伝道僧も居た。
  この地道な布教活動は、幾世代も続いた。
  アショカ王は、仏法をを説いた碑を多く建てているが、
 アショカ王の建てた碑にアラム語の碑もあり、アフガ二
 スタンの南西部で発見された・・
  キリスト教のイエスアラム語を話していたが・・ア
 ラム語は、オリエント世界の公用語だった。
  また、ギリシャ語の碑もあり、ギリシャ人は集団で移
 住し、その地に住んでいた。
  キリスト教は「一神教の壁があった」と嘘を言うが、
 東西の交流は頻繁(ひんぱん)になされ、仏教も伝わっ
 ていた。
  アショカ王は、厚い信仰心を人々に示し、また、その
 地を栄えさせた。
  王は肉食を断ち、人々や狩人、また、王の漁師たちも
 猟や漁を止めた。
  ギリシャ人の王・ミリンダ(メナンドロス)と仏僧と
 の宗教問答をつづった「ミリンダ王の問い」(那先比丘
 経・なせんぴくきょう)も残っている。
  高名な仏僧・ナーガセーナの説法は見事だった。
  ミリンダ王はそれに屈し、仏法に帰依するのだった。
  イエスもこの様な状況の中で、仏教に触れている可能
 性が高く・・この様な所から「汝の敵を愛せよ」の仏教
 の慈悲に影響された言葉が発せられたと言える。
  因みに、近年になって、アメリカの研究集団は、キリ
 スト教の聖書におけるイエスの言葉はほとんど無いとし
 ている。
     ・
     ・
958年、韓国・朝鮮の両班のはじめ・・
  この年、高麗・李朝時代に中国の科挙に由来する制度
 によって地方豪族などから登用する両班制度を始めた。
  両班の多くは地方の地主層であった。
  しかし、その制度は、300年後の14世紀になって後に崩
 れて行く・・
  14世紀頃から、韓国・朝鮮の両班(りゃんばん)は、
 様々な理由から増加し出した。
  特に、18世紀後半は、最悪の状況となった。
  両班(りゃんばん)。
  これが、韓国・朝鮮の諸々の悪の根源だった。
  両班は、王の両側にいた側近で、東班(とんばん)と
 西班(そばん)の特権的な官僚(最上級身分の支配階級)。
  東班(文班)は文官で、西班(武班)は武官だった。
  本来の姿は、この官位・官職は独占世襲し、種々の特
 権・特典を受けた・・血縁的身分として固定化された。
  両班は、兵役・賦役免除の特権を持ち、封建的土地所
 有を行なって常民・奴婢を支配した。
  そして、党派に分かれて党争を繰り返した。
  両班は、「働く人を蔑(さげす)んだ」。
  額(ひたい)に汗して働く人を蔑んだ。
  両班は、頭を働かせて知的に働くのを良しとした。
  両班は、科挙の試験を通ったエリートだった。
  だから、前記した頭脳労働者への偏重の思想を持った。
  韓国・朝鮮には、この両班が約7%居た。
  ただ、韓国・朝鮮ではこの頭脳労働偏重の思想が、肉
 体労働者への蔑みが大きく出た。
  また、韓国・朝鮮には家系を尊ぶ思想がある。
  そして、その家系によって肉体労働者は、ズーッと常
 に肉体労働者でなければいけないという慣例・風習があ
 った。
  これと、両班が持つ特権が、くっついた。
  本来なら科挙の試験を合格しなければならない資格が、
 肉体労働者の家系から抜け出たいとするものが、その両
 班の地位を金で買うことがなされた。
  最後には、両班は、国民の50%近くまで行った。
  もう、ここまで来たら誰でもが両班と言えるような状
 態になった。
  韓国・朝鮮には、両班が持っていた肉体労働を蔑む風
 潮が社会に根付いているが・・、
  その点、日本は、匠(たくみ)と言って技術を極めた
 方々を、日本では尊敬し、大切にして尊んだ。
  この様な日本の様な状況は、韓国・朝鮮にはない。
  そして、両班は、様々な悪事の極みを行なっていた。
  虐(しいた)げられた家系から抜け出し、両班になっ
 た者たちは、逆に、虐げる側になって、民を虐げた。
  韓国・朝鮮は、中国に長く冊封される体制を受けて来
 た風潮や性格から属国根性は染み込んでいた。
  この両班の地位を作る科挙は中国の制度で・・大陸で
 地続きにある隣国の中国・・そして、朝鮮半島の小国に
 は、常に蹂躙され続ける歴史があった。
  虐げられた民は、両班のことを・・、
  「朝鮮の官人はみんなが盗賊だ」とか、「転んでも自
 分で起きない」とか、「箸と本より重い物は持たない」
 などと揶揄(やゆ、からかう、なぶる)した。
  両班は、「兵役の免除」「刑の免除」、「地租以外の
 徴税・賦役免除」、そして、常民に道や宿の部屋を譲ら
 せる権利や、家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々
 な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪した。
  マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは、「世界一傲
 慢な貴族階級」と蔑んだ。
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1619年、オランダが、アフリカの方々を、アメリカへ奴隷
 として運び、売った。
  オランダ船が、アメリカのバージニアへ、20人のアフ
 リカの方々を連れて行き、売った。
  バージニアという地は、まったく卑劣な地で、特に多
 くの黒人の方々を奴隷とした。
  1680年~1750年には、何とバージニアの人口の44パー
 セントが黒人奴隷の方々だった。
  参考:サウスカロライナは61パーセント。
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1624年、江戸と京都の間に53の宿場が整備され、東海道
 十三次となった。
  1600年の関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、次々と
 新しい政策を実施した。
  街道整備もその一つだった。
  1601年、東海道の伝馬制度を定め、江戸と京都の間に
 37の宿場を置いた。
  横浜には、「神奈川宿」と「保土谷宿」の2つの宿が置
 いた。
  その3年後の1604年に、「戸塚宿」が加わり、横浜は3
 つの宿場となった。
  1624年には、江戸と京都の間に53の宿場が置かれ、東
 海道五十三次となった。
  東海道のメインの街道は、参勤交代の大名や幕府の役
 人、商人や伊勢神宮などの社寺の参詣の旅人で賑わった。
  旅人は、その道中で・・名物料理を食べたり、土産物
 を買ったり、寄り道をしたり、物見遊山を楽しんだりし
 た。
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1640年、ジョン・パンチ裁判
  黒人のパンチは、逃亡し、裁判となり・・判決で・・
 「当地、および、他の場所で、所有者、および、その受
 託者に生涯仕える」ことと命じられた。
  法律を犯したとき、黒人の方の場合、奉公期間が『無
 制限』に延長するという卑劣な事をするアメリカだった。
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17世紀、アメリカへ、労働力を補うためヨーロッパから多
 くの年季奉公人が送り込まれた・・特に、イギリスから
 供給された。
  半奴隷的な扱いをした。
  アメリカは、その様な雇い主の白人へ、広い土地を与
 えた。
  また、「他の人間を支配する名誉」まで与えた。
  アメリカの人権無視に、あらためて腹が立つ。
  それまでは、イギリスからの年季奉公人を使っていた
 アメリカだった・・が・・
  この年季奉公人には、ある年数の奉公に対する購入費、
 そして、年期中の諸経費、解放時の給付金があった。
  これに対し、アフリカの黒人奴隷の方々の費用は格段
 に安かった。
  イギリスは、自分の国の「質の悪い国民」を片付ける
 様にして、かき集め、アメリカへ連れて行った。
  道路にたむろしている「貧しい弱者」や「ホームレス」
 を、なかば強制的に捕獲した。
  イギリスは、この捕獲という言葉がまったく当てはま
 るかの様に、この様な弱者の方々を捕獲した。
  人権無視のイギリスだった。
  その様な年季奉公人を、承知してアメリカは使った。
  イギリスと、人権無視の共犯的な行為をするアメリ
 だった。
  しかし、アフリカからの黒人の方々は、安いだけでは
 なく、質の良い労働力でもあった。
  また、まったくの「人権無視の行為が出来る」という
 労働力だった。
  それを得たいアメリカだった・・アメリカはこれを「
 これ幸い」とし・・非人道的な「奴隷」に落とした。
  キリスト教の聖書にも書いてある「奴隷概念」が実行
 された。
  最初の購入費以外、費用はまったくかからなかった。
  なおかつ、黒人奴隷の方々の宗教をアメリカは奪った。
  また、卑劣な事に、その言語をも奪った。
  アフリカの言葉を話せない様にした。
  そして、家族のつながりも配慮されず、バラバラに
 されて、生まれ育った家族のつながりも奪われるアフリ
 カからの黒人の方々だった。
  まったく家畜同然だった。
  キリスト教の洗脳によって、その行為に対し、まった
 く罪悪感は無かった。
  生まれた子供は奪われた、そして、その子は売られた。
  年季奉公人は、待遇改善の要求などをしたが、黒人奴
 隷の方々には、それが許されなかった。
  その様な抗議は、当然のように、黒人の方々へは許す
 ようなことはしなかった。
  また、アフリカに居た時も農業にいそしんでいた。
  また、逃亡の時、肌の色から見分けがはっきりして、
 捕まえ易さがあり、法律上の権利もまったく与えられて
 居なかった。
  公的機関から配慮されるような事もまったく無かった。
  アメリカは、言うことも憚(はば)れるような軽蔑的
 思考で、黒人の方々をキリスト教の聖書の概念の奴隷と
 して扱った。
  非文明国家の極みにあった。
  そして、卑劣にも、イギリスが、アフリカから易い物
 品で拉致の様にして連れて来る役を担った。
  せっせとアフリカから黒人の方々をアメリカへ捕まえ
 て、安いヨーロッパの物品と交換して奪った・・そして、
 アメリカへ連れて行った。
  黒人の方々が、絶えず供給されるという点を、アメリ
 カは必要事項として、イギリスへ要求した。
  アメリカ南部のプランテーションだけではなく、アメ
 リカ北部の大商人や船主たちが、アフリカの方々を奴隷
 として要求した・・(北部には奴隷要求は無いと言うが、
 まったくの嘘・・アメリカ北部政権のプロパガンダ
  アメリカ全土が黒人の方々の奴隷の恩恵を受けたいと
 考えていた。
  因みに、年季奉公人制度は、「偽装された奴隷制度だ」
 とされている。
  表面的な目を誤魔化す行為とされている。
  状況は悪化さえしている。
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1664年、英蘭戦争(~1667年)
  イギリスは、この戦争で勝利するとオランダと・ポル
 トガルが持っていた奴隷貿易を独占した。
  長い間、イギリスは奴隷貿易を続けた。
  酷い輸送で死亡率が高かった。
  奴隷にされた女性が産んだ子供も「奴隷という解釈」
 で、黒人の方々は、その方の人生以上の長きにわたって、
 白人から逃れられないという解釈の下におかれた。
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1672年、ロイヤル・アフリカン・カンパニーが、イギリス
 に設立され、イギリスは奴隷貿易を本格化させた。
  この組織に、奴隷貿易を専従させた。
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1676年3月、バージニアナサニエル・ベイコンの反乱
  アメリカの植民地としての最初の反乱。
  イギリス領バージニア植民地の反乱。
  オランダ人の経済的圧迫などでその防衛を求めた。
  また、税金も高く要求された。
  1674年、植民地の住人は、ロンドンにいるバージニア
 の領主であるアーリントン卿とカルペッパー卿に対して
 政治的働きかけを行う代理人を送るために更なる課税を
 要求された。
  この状況は、入植者の悲惨さをさらに悪化させるもの
 であり、バージニア総督ウィリアム・バークリー卿の指
 導のまずさもあって、政府に対する憤懣が広がった。
  また、アメリカの先住民族であるアメリカ・インディ
 アンの方々との関係も悪化していた。
  1676年3月、ジェームズタウンに戻った後、ベイコンと
 バークリー支持者の間に紛争が起こった。
  ベイコンの一党はバークリー派に打ち勝ち、総督はバ
 ージニアの東海岸に逃走した。
  ベイコンの一党は、首都を3ヶ月間占領し、貴族政府の
 象徴である町を破壊した。
.
1708年、アメリカは、先住民のアメリカ・インディアンの
 方々を奴隷にした。
  この年、1例として、サウスカロライナ州で、最も先住
 民のアメリカ・インディアンの方々の奴隷化が進んでい
 た。
  12,580人の人口中、1,400人の11.1パーセントの先住民
 奴隷が居た。
  この状態は、卑劣にも19世紀になっても行われていた。
  誰でも彼でも、白人以外は奴隷とするキリスト教の聖
 書の奴隷の記述に洗脳された輩どもだった。
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1794年、銀の市場価格が低下を始めた。
  このことで、アメリカの貨幣法で前提とされた「15:1」
 という金・銀の価格比が、市場での実体と乖離すること
 となった。
  そのために、連邦議会は、1834年に、ドルの純金分を
 減らすことで、複本位制の金・銀の価格比を「16:1」へ
 と調整した。
  グレシャムの法則(Gresham’s law)として知られる
 通り、「品位の劣る鋳貨が流通に投ぜられると、流通中
 の高品位の鋳貨が退蔵された」。
  この法則によれば、金・銀貨が、固定比率でドルとし
 て等価で流通する場合には、市場価格と比較して過小評
 価された貨幣(この場合は金貨)が退蔵されるはずであ
 る。
  実際に、Laughlin は、1792年~1834年の期間に、アメ
 リカで、金硬貨は殆ど使用されなかったと述べて、過小
 評価されたドルが「駆逐」されたと結論付けた。
  1837年の法律改正で、ドルの金含有量がさらに微調節
 された後も、アメリカ貨幣制度は、金・銀複本位制を保
 っていたが、カリフォルニアでの金ブームの結果、金の
 銀に対する相対価格が低下し、貨幣制度の上では、今度
 は、銀が過小評価されることとなった。
  そして、金が流通の主役となった。
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1834年8月1日、イギリスで奴隷廃止法が出された。
  この日に発布されたイギリスの奴隷制廃止法では・・
  黒人の方たちは、奴隷身分からは解放されたものの年
 季奉公人として元の奴隷主の下で週45時間働くことを強
 いられた。
  まったく卑劣な事を、まだ行うイギリスだった。
  そして、表面的には奴隷解放がなされたように見える
 が・・実際には・・この奉公人の制度は、奴隷制と変わ
 らないばかりか、部分的にはそれよりも悪くなっていた。
  そして、白人の行なうこの制度を監視する役割を担っ
 た有給判事は、プランターの白人経営者と奉公人との間
 の紛争を処理する役目であったが・・公平な紛争処理の
 態度ではなく、白人のプランター側に着いた処理であっ
 た。
  奉公人と名前は変わっても、まだまだ「鞭打ち」や「
 虐待」などがなされた。
  そして、元の奴隷制に戻そうとのキャンペーンまで行
 なわれた。
  そして、1838年8月1日には、年季奉公人制を廃止する
 ことをイギリス政府は決議した。
  まったく唾棄すべきイギリスの状況だった。
.
1835年4月28日、ジャマイカにおいて、白人が経営する農場
 で、「ムチ、ムチ」という叫び声が聞こえるという手紙
 が残っている。
  そして、今まで以上に奴隷状態に置かれている状況を
 伝えている。
  5月30日の手紙では、今までの3倍悪くなっていると伝
 えている。
  黒人の方々にも抑えきれない不満が鬱積(うっせき)
 していると伝え、抵抗を作り出していると伝えている。
  このままでは反乱となるだろうと伝えている。
.
1835年6月22日、ジャマイカ西部のトレローニー教区のウェ
 イクフィールド農園という白人の経営する農場で働いて
 いたジェイン・リードという奴隷状態の奉公人の事例。
  奴隷状態の女性が、気分が悪くなったので監督に言い
 に行くと・・地下牢に行くよう命じられ、
  そこで、翌日まで食事は与えられず、特別判事の所へ
 連れて行かれた。
  白人の特別判事は、踏み車を4日間踏むように命じた。
  この女性は、踏み車に手首をくくりつけられ、鉄の首
 輪をはめられ、腰に鎖を掛けられるということを、この
 後、行われたりした。
.
1861年3月4日、アメリカ第16代大統領に、リンカーンが就
 任した。
  アメリカ北部は、「北部は、黒人たちをあまり奴隷に
 しなかった」と自慢気に言うが・・、
  これは、アメリカ北部の主義主張が奴隷にしなかった
 とかではなく、初めから奴隷労働を必要としなかっただ
 けだったという・・しかし、これもマユツバ・・
  南部の綿花を、北部の綿布工場が綿布にする工場では、
 黒人の方々が、奴隷として、しっかり使われていた。
  何ら、アメリカ北部が自慢するような事ではなかった。
  また、アメリカ北部には奴隷思想が無いかと言えば、
 それは、まったくの嘘で・・、
  アメリカ北部は、インディアンの方々を盛んに奴隷に
 していた。
  アメリカ北部の象徴的人間のリンカーンが、積極的に
 奴隷制度に反対しなかったのもその証拠で・・
  黒人奴隷の方々を、たまたま開放する段階になったか
 ら「奴隷解放宣言」をしたまでであって、そして、アメ
 リカ北部政権が、そのことをプロパガンダ(嘘宣伝)し
 たので、アメリカ北部のリンカーンは、奴隷解放論者だ
 と錯覚されているだけ・・
  リンカーンは、「まったく奴隷解放などしたくない」
 という演説までしている。
  また、「私(リンカーン)は、奴隷解放論者ではない」
 とまで言っている。
  黒人の方々をアフリカのリベリアへ棄民さえしたアメ
 リカ大統領のリンカーンだった。
  アメリカ・インディアンの方々は、土地勘があり、す
 ぐ逃げたり、また、民族として連携が強く、繋(つな)
 がりの強い救済があったりして、奴隷にしにくかった。
  しかし、アメリカ北部人は、このアメリカ・インディ
 アンの方々を必死に奴隷にしようとした。
  アメリカ北部に奴隷思想が無かったというのは、「真
 っ赤な嘘」。
  日本のテレビ朝日は、アメリカにゴマをする「奴隷解
 放をしたリンカーン」という嘘放送を今日(2019年4月20
 日)もしていた。
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1863年リンカーンが発行した法定通貨の金債権との兌換
 性が取り消された。
  グリーンバック(greenbacks)と呼ばれる合衆国紙幣
 (法定通貨、United States notes)の発行を、リンカー
 ンは、1862年に始めていたが、発行当初に保証されてい
 た金債券との兌換性は、1863年に取り消された。
  グリーンバックは、連邦政府の信用のみで価値を担保
 されていた。
  そして、法定通貨のグリーンバックは、金との交換比
 率が低下して行った・・半分以下にまで減価した(その
 様に操作されていた)
  アメリ財務省は、グリーンバックの価値の回復に努
 めた。
  1875年、正貨兌換復帰法が採択され・・
  1879年に、グリーンパックの兌換が再開された。
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1863年、横浜の山の手に、この年以降、イギリス軍やフラ
 ンス軍の軍隊が駐屯した。
  1868年の戊辰戦争の時、官軍が横浜に到着した時、戦
 闘が発生する様な事も無かった。
  諸外国は、横浜における貿易が出来る状態にして置く
 ことを重点としていた。
  貿易の出来ない状態、乱れることを望まなかった。
  その様な状況から、横浜は平穏な場所であった。
  1868年1月14日(戊辰戦争が始まった1月3日から11日後)
 平穏に安定している横浜に、戦闘で大怪我をした36人が
 送り込まれた・・
  忠右衛門の手紙には・・「当浜御役所へ上り薬用中に
 これあり」と記されていて、横浜の役所で治療を受けて
 いることを伝えている。  
  また、死去した兵士の処置で横浜は「大混雑」してい
 ることも記されている。
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1865年、この年以降の15年の間に、「50%のデフレ―ショ
 ン」が、アメリカで起きていた。
  通貨不足と物価下落の影響で、アメリカ国民は苦しめ
 られた。
  特に、最も苦しめられたのが農民だった。
  作物価格の下落と、利子率高騰の2つの要因で、農民の
 生活は追い詰められた。
  農民は、通貨不足に悩む一部の産業資本家と協力し、
 グリーンバック党(Greenback Party)という新党を、
 1874年に、組織し、グリーンバック増発を訴え、通貨縮
 小をもたらす兌換回復に反対した。
  グリーンバック党は、1876年の大統領選に、独自候補
 を擁立したが、その運動は短命であった。
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1868年1月14日、戊辰戦争で大怪我をした者(36人)が横浜
 に運ばれて来て、横浜の役所で治療を受けた。
  イギリスとフランスの軍隊が、1863年文久3年以降、
 横浜の山の手に駐屯した。
  戊辰戦争が発生した頃、そして、日本が戦乱で動揺し
 たこの頃、諸外国は日本が戦乱の渦の中で乱れ、貿易も
 なされないという状態になることを望まなかった。
  戊辰戦争の官軍が横浜に到着しても、横浜では戦闘も
 起きず、平穏な地として経過した。
  1868年1月14日に、戊辰戦争で大怪我をした者の36人が、
 横浜に上陸し、横浜の役所で治療を受けた・・この様な
 事を記した日記が残されている。
  また、戦死した兵の処置で横浜は「大混雑している」
 と書かれた日記もある。
  安全な場所とされた横浜は、その様な役目も果たして
 いた。
  「次々と怪我人が運び込まれる」の記述もある。
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1875年、アメリカは、正貨回復法(正貨兌換復帰法)を採
 択した。
  法定通貨を独自に発行した「アメリカの第16代大統領
 リンカーン」は、暗殺された(1865年4月14日)
  犯人は、「ユダヤとの関係を感じさせた」。
  その後のアメリカ大統領が、リンカーンの発行した法
 定通貨を慌てふためいて回収したが・・その姿が、その
 怪しさを表わしていた。
  また、このリンカーン法定通貨の無力化が、政府組
 織ではない手によってなされた。
  ロンドン・シティやウォールストリートの銀行家たち
 は、ち密な工作を着々と進めた。
  1875年、正貨回復法を成立させた。
  そして、金(ゴールド〉のみを正貨とした。
  そして、銀(シルバー)硬貨を廃止する様にした。
  その後、持っていた財務省証券をアメリカ政府に買い
 取らせた。
  金(ゴールド)が手に入るように要求した。
  アメリ財務省保有する金はショートした、金は無
 くなった。
  1883年に、金融パニックが、アメリカに発生させられ
 た。
  この機に乗じて、彼らの銀行家は、金融を引き上げて、
 そして、新規貸し出しを縮小させた。
  ここで、アメリカは、史上最悪の金融恐慌が起こされ
 てしまった。
  さらに、イギリスは、植民地のインドに、「コイン鋳
 造用の銀の受け取りの拒否をさせた」・・
  この事によって、完全に、銀に、正貨の地位を失わせ
 させた。
  銀の価値を完全に失わせ・・金(ゴールド)のみが価
 値を持つ世界を作ってしまった。
  1900年、アメリカは、やむなく金本位制を成立させた。
  この様な状況の中で、アメリカの財務省金保有は減
 った。
  リンカーン法定通貨は、その裏付けを失わせられて
 行った・・
  逆に、金を大量に保有しているイギリスの銀行家の力
 は強まって行った。
  当然の結果、アメリカ金融は、イギリスの影響下に置
 かれて行った。
  アメリ財務省は、必死に抵抗するが、金融パニック
 を再び起こされた。
  これで万事が窮することとなった。
  1907年、ニューヨークの中堅銀行が倒産に追い込まれ
 た。
  ウォールストリートの財閥系銀行がやった・仕組んだ
 のだという噂が立った。
  そして、金融恐慌が起こされた。
  アメリカは屈服した。
  モルガンやロックフェラーなどの財閥とつながるアメ
 リカ大統領のセオドア・ルーズベルトは、反トラスト法
 の停止を宣言した。
  恐慌はおさまった。
  この後、財閥は、さらに、市場独占を強めた・・
  そして、より大きな支配力を持って行った。
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1878年アメリカに、銀の購入を義務付ける法(ブランド・
 アリソン法)が成立した。
  アメリカに、自由銀運動(Free Silver Movement)が
 あった。
  アメリカ西部の銀産出州の利害も、また、反映された。
  その結果、自由銀運動によって、連邦政府に、毎月一
 定額の銀の購入を義務付けるブランド・アリソン法が、
 1878年に、成立した。
  さらに、その2年後の1880年には、シャーマン銀購入法
 によって、ブランド・アリソン法の2倍の銀の購入が、財
 務省に課された。
  その支払いには、財務省紙幣(treasury notes)が発
 行されるべきだとされた。
  これが意味する事は、アメリ財務省は、アメリカで
 産出する銀のすべてを購入することになり・・
  その購入額分の紙幣が発行されることで、通貨膨張が
 避けられないということになった。
  そして、クリーブランド大統領による「銀購入法の撤
 廃」に至る。
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1913年12月23日、アメリカに設立されたFRBは、民間銀
 行となってしまった・・アメリカ政府は『一株も持って
 いない』。
  (参考)FRB連邦準備制度理事会 (Federal Reserve
     Board) の略で・・、
      主要都市に散在する12に分かれた地方の連
     邦準備銀行を統括する。
      予算の割り当てや人事の干渉を受けない。
      そして、最悪なのは監査制度もなく、活動実
     態の情報公開もなされない。
  最も力を持つニューヨーク連邦準備銀行の株主は・・
  ロスチャイルド銀行(ロンドン)、
  ロスチャイルド銀行(ベルリン)、
  ラザール・フレール(パリ)、
  イスラエル・モーゼス・シフ銀行(イタリア)、
  ウォーバーグ銀行(アムステルダム)、
  ウォーバーグ銀行(ハンブルク)、
  クーン・ローブ商会(ニューヨーク)、
  ゴールドマン・サックス(ニューヨーク)、
  チェース・マンハッタン銀行(ニューヨーク)、
  これらの国際主義の外国銀行が、「利子の利益を得る
 株主」となっている。
  これ等の株主は、無国籍のユダヤ系と言える・・
  また、歴代のFRB議長もユダヤ系が続くという状態。
  FRBの設立とともに、「連邦所得税法」が成立した。
  これは、アメリカ国民の方々の所得税によって返済が
 担保される様になった。
  絶対に「とりっぱぐれが無い」という状態。
  これは、やはり、アメリカ国内で「憲法違反」ではな
 いかと「ひと悶着」となった。
  紙幣の発行・・通貨が発行されると、利子や手数料が
 自動的に転がり込むというシステムで・・大儲け状態と
 なった・・
  アメリカは、自国の通貨を発行するたびに、アメリ
 財務省が、民間銀行の株主に金を払う(利子を払う)と
 いう「おかしな形」となっている・・??
  また、アメリカは、「通貨供給量の生殺与奪の魔法の
 力」が握られている。
  そして、これが、アメリカの財政赤字の原因の一つと
 なっている。
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1918年11月11日、第一次世界大戦の休戦協定が、連合国と
 ドイツの間で締結された。
  この日の休戦協定が成立する約2年前の1916年12月30日、
 早くも、仏首相のブリアンは、連合諸国を代表し、大戦
 終結後の欧州新体制を律する原則が、次のようなもので
 ある事を、当時まだ中立国であったアメリカ政府を通し
 てドイツ・オーストリア側へ伝えた。
  1、侵害された諸国民の権利への補償、
  2、諸民族と少国家の自由な存立、
  3、諸国家に対する脅威の恒久的な防止、
  4、世界の安全確保のための効果的保証、
  これ等の原則で、大戦終結後に、民族自決権の確立、
 ドイツへの賠償要求、国際連盟の設立として具現化され
 た。
  しかし、ドイツ・オーストリア側は、この和平提案を
 拒否した。
  さらに、1917年1月10日、ブリアンは、再び、連合諸国
 を代表し、上述の原則をさらに具体的に表現した、対独
 要求を含む次の8項目からなる文書を、アメリカ大統領の
 ウィルソンに伝え、同意を求めた。
  1、ベルギー、セルビアモンテネグロの回復と、その
   損害補償、
  2、フランス、ロシア、ルーマニアの侵略地域からの撤
   退とその損害補償、
  3、欧州の再編成。諸国民、諸民族の権利の尊重。不正
   な侵略に対して国境・領海を保障する領土協定と国
   際規約の設定、
  4、住民の意思に反して武力により奪われた連合諸国の
   領土回復。
  5、イタリア人、スラブ人、ルーマニア人、チェコ・ス
   ロバキア人を外国人による支配から解放。
  6、トルコ人の残酷な暴政下にある民族の解放。西洋文
   明とは異質なオスマン帝国を欧州から追放。
  7、ロシア皇帝によるポーランド解放宣言の確認。
  8、連合諸国側は、ドイツ民族の絶滅や政治的消滅の意
   図を有しないこと。
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1920年代、「アメリカは、民主主義国家だ」は、作られた
 幻想。
  「アメリカは、民主主義の国だ」は、作られた幻想で、
 洗脳された思い込み・・
  これ等の思い込みは、「金」と「情報」を使って操作
 された洗脳の結果で・・
  この様な事は、1920年代に、既に、リップマンやバー
 ネイズは、「アメリカの民主主義の幻想」に気付いてい
 て、「錯覚の世界に生きていて、それに洗脳されている」
 と見抜いた。
  世論操作が始められている・・
  今・現代、中国が、盛んに金を使って情報操作をして
 いるが・・
  アメリカを初めて明確に「民主制の国」であるとした
 のは・・アレクシス・ド・トクビルだった。
  また、アメリカの支配勢力が、「民主主義を用いて人々
 を支配し、利用するために使っている」とも言われてい
 る。
  また、「民主主義の革命的技法」を使えば、「合意の
 でっちあげ」ができると・・リップマンは主張した。
  宣伝工作技術を駆使すれば、「人々が本来望んでいな
 かったことについても、同意を取り付けられる」という
 意味の事を言った。
  リップマンは言う・・
  第一の市民階級は、専門知識を持つ特別階級で、政治・
 経済、イデオロギーのシステムにおける諸問題の分析、
 実行、意思決定、管理を行っている。
  これらの人々は、人口のごく一部でしかない・・
  しかし・・この特別階級から漏れた人々・・すなわち、
 人口の大部分を構成する多くの人たちは、「とまどえる
 群れ」(戸惑う人たち)・・と称した。
  この様な人たちが、「大多数の意見を構成する」。
  リップマンは、この人たちを「観客」にはなるが、行
 動には参加しない・・と説明した。
  選挙において、観客は、一旦、誰かを支持し、そして、
 後は、また、観客に戻って傍観する・・と・・
  だから・・とまどえる群れを飼いならす事だ・・と・・
  また、とまどえる群れに激高を起こさせてはならない・・
 横暴を許してはならない・・不都合なことを起こさせて
 はならない・・と・・
  アメリカの大統領選は、「金が続いたものが生き残る」
 と言われている・・
  そして、それが、「合意のデッチアゲ」の「民主主義
 が行われた」という満足の結果だと・・これが実態だと・・
  リップマンは、彼の代表作と言われている「世論」(
 1922年)で、「民主主義の基盤となる国民の世論が、マ
 ス・メディアの圧倒的な影響力の下にある」ということ
 を指摘した。
  マス・メディアによって世論は操作されている。
  その様な所から形成された民主主義社会が実態・・
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2019年、「違い」こそが、豊かさを生む。
  「違い」こそが、歓迎すべきところなのだ。
  豊かな差異・「違い」から、人類の幸せが生まれて来
 る。
  「違い」をことさら言い立てて、糾弾すべきものでは
 ない。
  「違い」を愛(め)で、「違い」を味わい、幸せを感
 じ、皆とその「違い」があることを喜び合わなければな
 らない。
  「違い」を指摘し、言い立てて、糾弾し、「異端」を
 追求し、殺した・・キリスト教
  異端審問・・そして、「異教徒は殺せ」の教義を存在
 させている・・この様になってはならない。
  キリスト教の「異教徒は殺せ」の教義は大きな間違い
 である。
  人類、最大の間違いの教義・教えである。
  この洗脳によって・・何と多くの人々が殺され、殺し
 合って来たか?
  多様な違いの中に「豊かさがあるのに」。
  多様な違いが、互いに調和して人類を幸せに存続させ
 て来ている事に感謝せよ・・その喜びを感謝し、享受せ
 よ・・
  多様な多神の中に存在する「喜び」に感謝しなければ
 ならない・・多神に感謝の気持ちで祈れ・・
  他を排除する一神ではない・・他を排除する戦争の神
 ではない・・
  慈悲ある多神の中に人類の幸せがある。
  智慧ある多神の存在、その他の存在に感謝する・・大
 きな気持ちとなれ・・
  グローバル化が良いのだと、一神の、一色共通の、他
 を否定する・・また、人種のるつぼで一色にすることが、
 良いのではない。
  るつぼに突っ込んで同じの一つになるのが・・良いの
 ではない・・
  違いの中に、「その豊かさを求めて行く世界」でなけ
 ればならない。
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2019年、「友好親善」は、結局、絵に描いた餅になると歴
 史が示す・・だから「友好親善だけでは駄目」。
  外交のすべてが、友好親善で事が処せれば、外交なん
 て優しい仕事・・
  肝心な外交項目は、そんな生易しいものではない。
  肝心の外交は、大人の駆け引きの世界。
  友好親善なんて言っていたら、付け込まれて、ほぞを
 かまされるだけ。
  結局、ぎりぎりのところを戦う。
  どこかで踏みとどまって戦わないと同盟国にも見捨て
 られる。
  ハンス・モーゲンソーは、同盟について・・、
  「お互いに何らかの意味で強い国どうしでなければ(
 同盟関係なんて)意味がない」・・と言い・・
  「ぶら下がるだけの同盟国は捨てられる」と言ってい
 る。
  日本の「友好親善」は、結局、お坊ちゃま的なのか・・
 駄目となるのか・・、
  また、「貢ぐのでも駄目」・・
  金と譲歩の安易な外交だったら、「日本の未来はない」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/