(増補版)653E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年8月)

題:(増補版)653E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
 される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆J・ロックの言葉:議論こそは真理を広める唯一の正
  しい方法だ。
 ☆歴史を知って、アイデンティティが形成される。
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1896年7月24日、名古屋に株式会社鉄道車両製造所(現:日
 本車両製造株式会社)が創業した。
  1896年9月に鉄道車両の製造販売を目的として設立との
 説明もある。
  別説:1896年7月26日、日本車輌製造株式会社設立。
  企業家・奥田正香ら中京財界人により創立。
  鉄道庁・鉄道関係者以外の民間人による車両会社設立
 は前例がなかった。
  この頃、車両だけでなく大八車も製作した。
  笹島仮工場にて操業開始。
  1896年8月18日、農商務省指令、第10399号
  「明治29年7月30日付申請、日本車輌製造株式会社設立
 の件、免許す」 農商務省大臣、子爵、榎本武揚
         申請者:奥田正香、他拾名
  1897年、熱田工場が稼働した。
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1896年7月、上川線の空知太駅~旭川駅間の建設工事が着工
 された。
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1896年7月、加能鉄道会社が、社名を七尾鉄道株式会社と改
 称した。
 沿革・・
  1894年5月、第4回鉄道会議の中で加能鉄道認可に関す
   る審議がなされた。
   鉄道会議とは、「鉄道会議規則」に基づき鉄道担当
   官庁が1892年に設置した諮問会議で、渋沢栄一は第1
   回より臨時議員として出席していた。
   加賀の津幡町から能登半島の七尾町に至る加能鉄道
   について「半島の突先に鉄道を架ける必要はない」
   などの意見があり、それに対して渋沢栄一は、突先
   であっても七尾港は良港であり、津幡から七尾への
   連絡線は地域のためにおおいに利益ある路線と反論
   した。
    また、地域の繁盛になることだから許可を希望す
   ると意見を述べた。
    審議の結果、過半数の賛成を得て加能鉄道への仮
   免状下付は可決された。
    この決定を受けて、加能鉄道会社には同年9月に仮
   免許が、1896年4月に本免許が下付された。
    同社は、七尾鉄道と社名を変更して工事に着手、
   七尾・津幡間の工事は1898年4月に竣工した。
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1896年7月、関西鉄道会社と浪速鉄道(大阪片町・四条畷
 営業)が譲受の契約を締結した。
  関西鉄道は、官設鉄道の経路から外れた東海道沿いの
 滋賀、三重県下の都市を東海道線に結ぶ目的で設立され
 た。
  しかし、大阪進出の意図はあった。
  そして、また、名古屋と大阪の間に出願した大阪鉄道
  (初代)との間で調整も行なわれていた。
  その後、路線を奈良へ向けて西へ延長し、片町~四条
 畷を開業していた浪速鉄道、および、四条畷から木津方
 面の路線免許を持つ(未開業の)城河鉄道を合併して現
 在の片町線経由で名古屋・大阪間を開通した。
  そして、1898年に大阪片町にターミナルを入手した。
  しかし、敷地の拡張が困難なため網島に起点を移設し、
 さらに湊町から奈良に路線網を持つ大阪鉄道 (初代)を合
 併し現在の関西本線を全通させ、湊町にターミナルを、
 再度、移転させた。
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1896年7月、フランスが、朝鮮半島の鉄道敷設権を取得した。
  この年、ソウルと現在北朝鮮の新義を結ぶ京義線(き
 ょんうぃせん)の敷設権を取得した。
  結局、この後、この路線も日本が建設を行なう・・そ
 して、朝鮮半島・韓国の社会資本の充実の貢献を行なう。
  日本は、朝鮮半島のあらゆる地方の鉄道敷設を行ない
 朝鮮半島の物流の改善に貢献しており、朝鮮・韓国経済
 などの発展の元を築いた。
  韓国は、この様な日本の行為を、まったくと言って良
 いほど感謝の意を示していない。
  それまでは、畑のあぜ道の様な状況の道路に物流を頼
 っていた朝鮮・韓国・・この改善が第一に必要とした日
 本は、朝鮮・韓国の鉄道敷設に多くの日本の資本を提供
 し、実施した。
  また、これ等に従事した日本の技術者の汗の結晶に、
 韓国は感謝の意を示していない。
  また、これ等の多くの工事に従事し、亡くなった工事
 関係者の多くの方々への慰霊の意も示していない。
  韓国は、これは、日露戦争の兵士を送るために作った
 のだと、感謝どころか批判をしている。
  多くの朝鮮・韓国の人々が、汽車や列車に乗って生活
 を享受している姿を、その様に表現している。
  その便利さに笑顔でいる朝鮮の方々の顔を見ていない
 で、その様な言い方をしている。
  何をしてあげても、この国は感謝をしない国・・逆に、
 恩を仇で返す国。
  誠実に対処して来た日本の「ことごとくの好意」に、
 韓国は、意地の悪い言い方を続けている。
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1896年7月、朝鮮で改革派が、独立協会を組織した。
  軍事、財政、人事権にまで干渉するロシアを排除する
 ため、市民を動員して万民共同会が開催された。
  多くの成果が上げられた。
  李商在、徐載弼、尹致昊、李完用らを中心に結成され
 た組織だった。
  これらの人々は、日本の好意を理解している人々だっ
 た。
  協会は、機関誌「独立協会報」を発行、また、ハング
 ル専用の「独立新聞」の発行した。
  因みに、このハングル文字も、それまで使われていな
 かったこの朝鮮文字の良さを発見し、使用する様に提案
 したのは、慶應義塾大学を創立した日本の福沢諭吉氏だ
 った。
  独立建設活動などにより一般大衆の支持を受け、わず
 か3ヵ月で会員約1万名に達した。
  この様にして、この協会は、民衆への啓蒙団体から、
 政治団体へ変化して行った。
  1898年10月に至り、協会は、官民合同によって官民共
 同会議を開催した。
  そして、国政を改善するための6ヵ条を決議した。
  しかし、政府は、決議案を空文化させ・・反対行動を
 とる様になる・・
  協会の幹部に対して懐柔行為がなされたり、果ては、
 強硬手段の逮捕など・・あらゆる手段を用いて弾圧する
 様になった。
  1899年、政府が、皇国協会を示唆し扇動して流血事件
 を引き起させた・・
  独立協会は、やむなく解散した。
  朝鮮の改革派の有志が、軍事、財政、人事権にまで干
 渉し、朝鮮の独立を崩壊させるロシアに対して立ち上が
 ったが、そして、市民も参加して大きな行動となったが、
 結局、弾圧を受けて崩壊して行く・・
  この様な所にも、日本が、ロシアに対して立ち上がっ
 た遠因があった・・
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1896年8月1日、釧路鉄道の標茶駅~跡佐登駅間の営業が休
 止された。
  釧路鉄道(くしろてつどう)は、北海道東部の硫黄山
 で産出される硫黄の輸送を目的として建設された。
  硫黄輸送の専用鉄道で、鉄道事業者安田財閥
  安田財閥は、この事業で基盤が築かれたと言われてい
 る。
  しかし、鉱山保有する山田銀行への貸し付け分の回収
 が関係し、硫黄の採掘が中止され、開通から10年足らず
 で廃止となった。
  しかし、この鉄道によって釧路地域の開発が進展した。
  安田善次郎氏は、1921年に、釧路の発展の功績によっ
 て釧路区(現:釧路市)から表彰された。
  因みに、1872年、佐野孫右衛門が硫黄山の採掘を始め
 た・・
  1886年北海道開拓使の方針に基づいて、採掘が開始
 された。
  佐野孫右衛門は、凾館の山田銀行に譲渡していた。
  1887年、山田銀行へ融資していた安田善次郎へ譲渡さ
 れた。
  この鉄道によって、当時、馬によって運び、標茶から
 船で運ぶという大変な運送が改善され改革された。

1896年8月6日、フランスが、マダガスカルを「植民地だ」
 と宣言した。
  フランスは、その強大な武力を背景に、アフリカ大陸
 の西側、インド洋上にある島々を侵略し・・また、イン
 ド、および、東南アジアを侵略して領有した。
  フランスは、広大な地を植民地とした。
  ヨーロッパ列強の一つのメンバーであるフランスの行
 為だけでも、この様な横暴を世界にしていた。
  マダガスカルは、4世紀から5世紀の頃、東南アジアか
 らオーストロネシア語系の人びとや、マライ系の人びと
 が、インド洋を渡ってやって来ていた。
  そして、アフリカ東岸に住みついて、社会が形成され
 た・・
  10世紀頃には、マダガスカル島に移住して来た人々が
 いるとされている。
  現在でも、マダガスカル島は、インドネシアや、マレ
 ーシアの人々との近親性があり、稲作農耕も行われてい
 る。
  15世紀以降、イスラーム化した・・アラブ系住民も増
 加した。
  イスラーム国家も存在した・・、
  19世紀後半、ヨーロッパ諸国の帝国主義の列強諸国に
 よるアフリカ分割の悪夢の時代に、フランスが侵入して
 来た。
  1880年代~1890年代、フランスは、優れた自分たちの
 武器による武力をもって、抵抗を排除して、領有権を奪
 った。
  マダガスカルの方々は抵抗した・・たびたびの反フラ
 ンスの抵抗運動は起きた・・しかし、その度に、武力で
 押さえつけられた。
  独立は、20世紀に至るまで果たせなかった・・
  1960年に至って、やっと独立が果たせた。
  マダガスカルの19世紀初めは、アンドゥリアナムプイ
 ニメリナ王の息子であるラダマ1世がメリナ王国を引き継
 いでいた。
  彼は、先進的な考え方の持ち主で、国民の教育レベル
 を引き上げようとした。
  ヨーロッパの知識を取り入れなければ、ヨーロッパに
 植民地にされたままになってしまうという危機感を持っ
 た。
  それに対し、今・現代の日本は、中国が、沖縄や北海
 道などを狙っている中にあるが、まったくその様な状況
 についての危機感は無いという状況になっている。
  植民地化の危惧を抱いていたラダマ1世は、モーリシャ
 スの『イギリス総督』であったファーカーの援助を受け、
 軍隊をイギリス流に訓練した。
  さらに、奴隷貿易の廃止運動を行ない・・また、学校
 の設立、アルファベットによるマダガスカル語表記の導
 入など、近代化=西欧化政策を進めた。
  日本が、学校を一生懸命に建設して、朝鮮・韓国の教
 育を一生懸命にしたのと同じ・・
  しかし、1828年、志なかばでラダマ1世は死去した。
  ラダマ1世の第一夫人が、ラナヴァルナ1世として即位
 した。
  彼女は、植民地行為がありありのヨーロッパ諸国に対
 し、敵視政策に切り替えた。
  まず、植民地行為の尖兵であったキリスト教を、1835
 年に、布教の禁止を行なった・・しかし・・
  1861年、ラナヴァルナI世は死去する。
  その息子が、ラダマ2世として即位した。
  ラダマ2世は、再び、ヨーロッパ化を推し進める苦悩の
 政策へと変更した。
  しかし、その政策が急であったため、欧化反対派によ
 って、1863年に、暗殺された。
  ラダマ2世の後継は、その妃であったラスヘリナが即位
 した。
  1868年、このラスヘリナも没する・・暗殺か?
  やむなく、従妹がラナヴァルナ2世として即位した。
  彼女は、行政改革に努めるが、メリナ王国は衰退して
 行く。
  メリナ王国が衰退を続けると、ハイエナの様なイギリ
 スは、王国の衰退を察して、植民地化の野心を向け始め
 た。
  これを察したフランスは、それに先んじるため、1883
 年に、タマタブ(マダガスカル東部の都市トゥアマシナ
 の旧称)を占領した。
  1883年、ラナヴァルナ2世が没する。
  その従妹が、ラナヴァルナ3世として即位した。
  1890年、メリナ王国の保護権をフランスに認めざるを
 得なかった。
  一方、イギリスに接近し、軍隊の再整備を進めた。
  1894年、フランスは最後通牒を突きつけた。
  1895年、メリナの王宮の置かれていたアンタナナリヴ
 (マダガスカルの首都)を占領する。
  1897年、フランスは、ラナヴァルナ3世を拘束し、レユ
 ニオン島に流した。
  そして、メリナ王国を滅ぼした。
  1896年8月6日、フランス政府は、マダガスカルを植民
 地としたことを宣言した・・フランスは、この宣言を正
 式だと称した。
  この様な歴史は、日本を貶める事ばかりを放送するN
 HKは、まったく放送しない。
  フランスがマダガスカルを植民地化した(1896年8月6
 日)・・
  この解放は、第二次世界大戦後の日本の戦いの後とな
 る。
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  (今日の言葉)
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  題:彦星(ひこぼし)と、織姫(たなばたつめ)と、今夜(こよい)逢(あ)ふ、
   天(あま)の川門(かわと)に、波(なみ)立(た)つなこめ
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698年、遠い昔からジェンダー平等(男女平等)だった日本・・
  また、身分の上下ない社会だった。
  今(2019年)、盛んに国連はSDGsをして「ジェン
 ダー平等を啓蒙している」が・・
  世界は、日本をお手本とするべきである・・
  万葉集に・・
  「彦星(ひこぼし)と、織姫(たなばたつめ)と、今
 夜(こよい)逢(あ)ふ、天(あま)の川門(かわと)
 に、波(なみ)立(た)つなこめ」(詠み人知らず)・・
 がある・・
  (訳)彦星と織姫が逢う今夜なのです・・
  天の川の渡し場に、波よ、決して荒く立ってくれない
 でください・・
  今から1300年以上も前の日本人の優しい心が伝わって
 来る。
  彦星(牽牛星)と織女(織女星)の逢瀬が、年に一度
 だけ許されるという七夕(たなばた)の和歌です・・
  この伝説は、持統天皇が在位していた698年代頃、中国
 から日本に伝来したと言われているが・・
  この話は、それまで、それ以前から日本各地にあった
 「棚機津女(たなばたつめ)伝説」と融合した。
  それは、年に一度、7月に訪れる神への捧げものとして
 処女が水辺の棚で神衣(しんい)を織ったという話・・
  これと融合して庶民の間にも広まり、人々の想像力を
 掻き立てたのだった・・
  万葉集には、130余首も七夕歌が収録されている。
  その多くが庶民の歌で「詠み人知らず」となっている。
  身分の上下、貴賤もない社会の日本だった・・
  日本は、遠い昔から庶民の一般市民と隔たりない処遇
 をしていた優しい平等な国だった。
  遠いこの昔から、女性方々も尊重されていた。
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9世紀~10世紀、神聖ローマ帝国が出来た(~1806年)
  神聖ローマ帝国は、代々のドイツ王が、ローマ教皇
 ら冠を授けられて、皇帝となった。
  神聖ローマ帝国は、実質的にはドイツ帝国・・
  神聖ローマ帝国は、巨大な領域を持つ。
  最盛期の版図は、現在のドイツ、オーストリア、イタ
 リア、フランス、チェコ、スイス、オランダ、ベルギー、
 ポーランドリヒテンシュタインルクセンブルク、モ
 ナコ、クロアチアサンマリノスロバキアなど現在の
 EUの領土とほぼ同じ・・
  巨大だが、国家とか連邦という性格は・・ほとんど無
 い。
  帝国全体を総括する行政機関も無かった。
  多くの領域の緩い集合体の様なものだった。
  軍も借りものが集まったもので、帝国全域を包括する
 ナショナリズム持った。
  この様なこの領域は、独立を保つ実力も無かったが、
 権威を犯すなと存続した。
  しかし、1806年、ナポレオンの台頭で幕を閉じた。
  しかし、ドイツ人の武力によるリベンジは素早かった。
  1870年、普仏戦争でフランスを負かし、
  翌年の1871年には、鉄の宰相ビスマルクが活躍して、
 ドイツ帝国が起こった。
  そして、第一次世界大戦の敗北で、そのドイツ帝国
 消滅すると、今度は、ヒトラーが台頭した・・そして、
 再再度、ヨーロッパ制覇を目論んだ。
  ヒトラー政権は、神聖ローマ帝国、後のビスマルク
 ドイツ帝国に続く第三帝国と呼ばれた。
  そして、その第三帝国は、無残に滅び、消滅した。
  そして、二度と立ち直れないと思われたが、西ドイツ
 は、1990年、東ドイツを飲み込み、一体となりヨーロッ
 パで第一の大きな国となった。
  そして、今(2017年)、EUに君臨した。
  一番の影響力のある国となっている。
  そして、その軍事力でも強大になって行くと予測され
 ている。
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1158年、キリスト教聖職者のオットーが死んだ。
  キリスト教の「教父」と言われたアウグスティヌス
 354年~430年)は、その生存した古代の時代なりの考え
 方をしていた。
  その様な古代の遅れた認識で、その存在が古代ゆえに
 やむを得ない面があるが・・問題は、その彼の遅れた論
 理が、今・現在もなお、現在に至るまで、多大にキリス
 ト教へ影響を与え、延々とキリスト教に引き継がれ、キ
 リスト教の遅れた状況を作り出す原因となっている
  その様なことの一つが、「キリスト教普遍史」である。
  彼=アウグスティヌスは、「ローマ帝国が終われば、
 人類が終わる」と考えた。
  そして、キリスト教の教義である「人類の終末に訪れ
 る最後の審判」となり、その審判を恐れた。
  悲しいかな、まったく無用な恐怖なのであるが、キリ
 スト教は、この恐怖を抱えていた・・今・現在も・・
  しかし、そのローマ帝国が滅び、年月を経ても、「何
 も起こらなかった」。
  びくびくして・・年月だけが過ぎた。
  当然の事だった。
  しかし、年を経て、その整合性を問う話が沸き出て来
 た・・そのことを考えた者が現れた。
  ドイツのキリスト教聖職者のオットーだった。
  彼は、中世的普遍史の完成者と言われている・・そし
 て、彼は「年代記」を書いてアウグスティヌスを訂正し
 た・・。
  彼は、ローマ帝国まではアウグスティヌスを踏襲した。
  問題はその後にあった。
  キリスト教が色々な面で、辻褄(つじつま)合わせを
 色々、苦労してやっているが、オットーもこの辻褄合わ
 せに苦渋した。
  そして、考え出したのが「帝権移動」の屁理屈論理だ
 った。
  何を意味するのか?・・まったくのこじつけ論理なの
 だが・・「ローマの帝権は移動し、そして、続いている」
 とこじつけた。
  だから、キリスト教が説く「終末は来なかったのだ」、
 また、「最後の審判」も無かったのだとした。
  彼の帝権移動論を細かく書くのも馬鹿々々しいが、そ
 の抜粋・概要を以下に書くと・・
  ローマ帝国は、ラテン人のローマ帝国だった。
  しかし、ローマ帝国の滅亡後、数世紀を経過しても、
 なお、世界は終末を迎えることなく存続していた。
  カール大帝が皇帝に即位した。
  ローマ建設から1552年、カールは、ローマ教皇によっ
 てパトロキウスの称号を与えられ、アウグストゥス以後
 第69代の皇帝かつアウグストゥスと呼ばれた。(中略)
  コンスタンティヌス帝から以後この時まで、首都にコ
 ンスタンティノーブルに中心が置かれていたローマ人の
 統治権は、こうしてフランク人に移された・・
  ・・意味不明な事を延々と書き・・
  はっきりしているのは、「ローマ帝国は滅亡してない、
 引き継がれた」・・だった。
  まだまだこの他にも「おひれはひれ」が付いているが
 割愛(かつあい、はぶく)する。
  何しろ、現在も、コンスタンティノーブルが存在して
 いるが、ならば、「現在も、ローマ帝国は存在している
 のか?」と、キリスト教に言いたいところだ。
  キリスト教は終末が来ること、その時に演じられる「
 最後の審判」におびえている・・
  この様に、遠い昔の古代から「いつ来るか?」「いつ
 来るか?」と怯えている。
  このキリスト教の終末論理には「色々な怪物も登場し
 たり、色々な華やかな話も展開する」。
  教父のアウグスティヌスは、「怪物たちもアダムの子
 孫だ」と言う様な人だった。
  そして、また、アウグスティヌスは、「この怪物と胎
 児」について「理性的で死すべき生き物」として、自分
 勝手な論理展開をした。
  そして、この定義に当てはまるので「すべて起き上が
 り、生きるか死ぬかを求められるべきだ」と言った。
  これらは、「インドは世界の果てだ」という言葉と共
 に語られる・・
  キリスト教において、「意味が分からなくても、心配
 してはならない世界の話」。
  ちなみに、オットーの生涯は1111年?~1158年。
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17世紀~18世紀、ヨーロッパの啓蒙時代
  「啓蒙時代」とは、17世紀~18世紀に、ヨーロッパで
 広まった、キリスト教神学に代表される旧来の伝統や権
 威を『理性のもとに批判』し、民衆を啓蒙し、目覚めさ
 せようとした時代だった。
  中世のヨーロッパは、キリスト教の考え方によって日
 常が歪(ゆが)められていた。
  しかし、科学知識が、革命的に得られて来た事によっ
 て、その知識を得た啓蒙主義者たちは、その歪んだキリ
 スト教の観念に立ち向かって行った。
  その一つが、「キリスト教普遍史」に立ち向かった知
 識人たちであった。
  彼らは、厳しく「キリスト教普遍史」を批判し、キリ
 スト教の「時間観念」に立ち向かった。
  そして、彼らは、キリスト教普遍史とまったく異なっ
 た「時間観念の下で過去を見直した」。
  キリスト教から見れば「異端的考え方をする者たち」
 だった。
  それまでの常識とされて来た「キリスト教から洗脳さ
 れた歴史の時間」からは「かけ離れた長大な時間だった」。
  「地球が巨大な火の玉だった」という事は、キリスト
 教観念からは・・まったく考えられなかった。
  その様な科学知識などを知った知識人たちには、キリ
 スト教観念に沿って説明することは「苦痛だった」。
  それでも、地球の誕生は7万5000年前と、また、人類の
 誕生は6000年~8000年前と、キリスト教の時間観念に妥
 協をした。
  でも、キリスト教普遍史の時間スケールからは「大き
 くはみ出していた」。
  すべてがはみ出していた。
  太陽系の他の惑星が同時に誕生したこと、地球の誕生
 前の「物質の創造」「光と闇の分離」など、どうしても
 キリスト教聖書に沿って説明が出来ない面が「多々あっ
 た」。
  キリスト教は、彼らを脅(おど)した。
  しかし、彼らは、そのキリスト教の脅しには屈しなか
 った。
  彼らは、また、一般人に配慮した。
  キリスト教に洗脳されていた一般人、この一般人から
 理解が得られる説明に心がけた。
  人類の誕生は、キリスト教聖書の記述に合わせたりし
 た。
  日常生活が、キリスト教観念によって影響されている
 一般人、その人々に配慮した。
  間違った観念の下で生きている問題に対し、正しい観
 念を「必ずしも与え得なかった」。
  間違った観念の下で暮らす怖さを取り除いてあげられ
 なかった・・そのもどかしさの中に科学者たち・知識人
 たちは居た。。
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1883年、アメリカで、黒人の方々に対し、大変卑劣な差別
 判決が出た。
  合衆国最高裁判所が、「アメリカ国民に与えられた色々
 な特権(公民権)は、そもそも州の市民にそなわるもの
 であるから、これ等は黒人の市民権付与を規定した憲法
 修正第十四条の適用は受けない」として、「1875年の公
 民権法を否定した」。
  この判決によって、アメリカでは、堂々と黒人の方々
 への「差別」が、一層さらに、行われる事態となった。
  交通機関、学校、レストラン、教会、映画館などなど
 において人種差別行為が行なわれ、また、隔離も行なわ
 れた。
  また、州法や市条例やその他によって、法制化して確
 実化した・・そして、縛(しば)った。
  1896年5月18日には、さらに、最高裁判所が、「列車で
 黒人隔離をしても、平等だ」という、「隔離しても平等
 という屁理屈判決」を出した。
  これが、また、差別行為を正当化して、アメリカ差別
 社会は、一層その卑劣さを増した。
  軽蔑を通り越すアメリカの黒人の方々に対する差別に
 憤りが湧く。
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19世紀末、スペインのバルセロナ地方に独立したいという
 動きがある・・差別が原因・・
  これは、19世紀の末頃から、常にあった。
  スペイン中央政府カタルーニャ民族を軽視する行動
 が原因だった。
  また、カタルーニャは裕福な州で、中央政府のカタル
 ーニャへの支出金があまりに少なく・・
  カタルーニャ州が税金として支出する金額と隔たりが
 大きい・・還元される金額が少ないという状況もあり、
 独立運動と結び付いて行った。
  2010年代、特に、盛んになった。
  また、イギリスのグリーンランド地方でも独立したい
 という動きがある。
  理解できる活動である。
  今、帰属しているスペインやイギリスは、他国民の多
 くを殺戮して来た、本当に多くの人々を殺戮して来た。
  これを思うと、帰属している国と、我々は違う民族な
 のだと、それを主張したいとなるのだった。
  アメリカも、本当に、多くの他民族をキリスト教観で
 乱暴な対処をして来た。
  バルセロナ・・スペイン北東部のカタルニャ自治州で、
 バルセロナ県の県都である。
  伝承であるが、フェニキア人によって建てられた。
  バルセロナの名は、カルタゴの名家のバルカスによる
 とされている。
  ローマ人、そして、西ゴート人の支配を受け、そして、
  717年頃、イスラムの統治下に置かれた・・しかし・・
  801年、カロリング朝フランク王国のルイ1世によって
 征服された。
  9世紀末に、バルセロナ伯領の首都となった。
  中世を通じて、ゼノアやベネチアと並ぶ地中海岸の商
 業の中心地として発展した。
  カタルニャ王国の首都として、アラゴン王権に対抗し、
 商人層を中心とする民主的な自治を行なった。
  独立の気運は「常に高くあった」。
  内乱時には、人民戦線政府の最後の拠点となった。
  このカタルニャには「自治運動があった」。
  この地方は、スペイン中央部とは経済的にも文化的に
 も異なっていて・・
  19世紀末頃から自治運動が絶えなかった。
  1923年、再び自治運動が高まり・・
  1931年4月、地方選挙後、カタルニャ自治政府の樹立を
   宣言をした。
   この時、スペイン全土でも共和派が大勝し、国王は
   亡命した。
  1931年、共和憲法によって地方自治が承認された。
  1932年9月、カタルニャ自治法によって自治州と認めら
   れた・・しかし・・
  1934年10月、耕作法をめぐって中央政府と対立し、カ
   タルニャは独立を宣言したが、すぐに軍隊によって
   武力で鎮圧された・・そして、自治法は停止された。
   スペイン内乱中もカタルニャと中央政府との対立が
   続き「内戦中の内戦」が展開された。
  1939年、 F.フランコの勝利で自治運動も不可能となる。
   しかし・・
  1975年、フランコ総統が死に・・その後・・
  1977年、中央政府の了解のもとに臨時自治政府が成立
   した。
  1978年、新憲法によって正式に自治が認められた。
   中心都市はバルセロナ
  1980年、第1回自治州議会選挙以来、穏健派連合が過半
   数を制してきた。
  1992年3月、自治州議会選挙では独立を標榜するカタル
   ニャ共和左翼党が野党第2党に進出した・・しかし、
   穏健派連合優位の構図に大きな変化はない。
  日本でも、中国が陰で働きかけるアイヌや沖縄を独立
 させようという工作や運動が水面下でなされている・・
.
1933年1月30日、ヒトラーが、ドイツ首相に就任した。
  ナチス(単数形のナチ)は・・
  1919年、K.ハラーによってミュンヘンで結成された「
   ドイツ労働党」を、ヒトラー民族主義社会主義
   を巧みに接合させた・・
  1920年、「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名した。
  1921年ヒトラーが党首となったが・・
  1923年、ヒトラーは、ミュンヘン一揆を企てて投獄さ
   れた。
   党は解散したが、ヒトラーの出獄とともに大衆政党
   として再出発した。
  1925年、党員数はわずか2万7000人にすぎなかった・・
   しかし、その後、群小右翼団体を吸収して膨張した。
  1929年、党員数17万6000人・・
  1930年9月、総選挙で 18.3%を獲得して第2党となり・・
  1931年、党員数80万6000人・・
  1932年7月、総選挙で37.4%を得て第1党に躍進した。
  1933年1月、軍部や財界と取引を行なって、この時、政
   権を獲得した・・
   党員数は390万人とふくれあがった。
  そして、破滅的な第2次世界大戦への道をとった。
  このヒトラー時代のドイツは、自国に有利になる様に
 「女性を道具として卑劣に使った」。
  まことに卑劣な話であるが、この時のドイツは、外国
 から来た者へ、自国女性に性的な対応をする様にさせた
  (ハニートラップ)
  朝鮮・韓国が、中国に冊封されている時、国の施設を
 持って、この様な事を行なっていたが(これは、史実と
 して明確に確定している)・・ドイツも、この様な状況
 であった。
  また、ドイツは、「現地妻」を制度的に用いていた。
  外国からの者へ「現地妻」を提供していた。
  また、冷戦中には、ソ連KGBも、この様な事を行
 なった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変アメリカに支援された中
 国軍が攻めて来た。
  上海事件・・この戦いが、本格的な中国との戦いにな
 ったきっかけだった・・
  この戦いは、陰で、アメリカが、中国を支援をしてい
 た。
  これが、最大の悲惨な状況を作り出す不幸だった。
  ベトナムアメリカの戦争と同じだった。
  アメリカが、陰だとはいえ、間接的に参戦することに
 よって、中国での戦いは「悲惨な戦争となった」。
  大量の武器などの物量を中国へ与え、戦いを大きくし、
 また、戦いへ仕向けていっていたアメリカだった。
  歴史教科書にはこのような事は書かれていないが・・
  ただ日中の戦いだったら・・早期に「決着はついてい
 て、終わっていた」。
  戦う当事国同士なら、早期に戦いは決着し、悲惨な結
 果にもならずに済んだ戦いだった。
  アメリカという第三国による一方の中国への支援が、
 この様な形での「間接的な、アメリカの戦争への参戦」
 が、戦いを長引かせ、また、より悲惨な状況とした。
  ベトナムでの戦いも、ベトナムとフランスとの戦いで、
 すでに、決着し、終わっていた。
  しかし、アメリカが乗り出した・・より強力な武器を
 使って・・また、非人道的な武器や行為を行なって・・
  そして、結局、最後は、陰に隠れてい居られなくなっ
 たアメリカは表に出て来た。
  アメリカ軍それ自体が表で参戦するという、卑劣で破
 廉恥な戦争行為となった。
  そして、表面立ってのベトナムアメリカの戦いが新
 たに生まれた。
  ベトナムアメリカ戦に変わった。
  戦いは、また続いた・・戦いは長いものとなり、また、
 筆舌に尽くせぬ卑劣な手を使ってでもアメリカは勝とう
 とし(枯葉作戦など)、しかし、アメリカは勝つことが
 出来なかった。
  ただ、戦争と何ら関係ないベトナムの一般の方々が、
 女性の方々が・・そして、小さな子供たちが・・大勢、
 死んだだけだった・・多くの奇形児も生まれた・・
  日中の戦争も・・泥沼となった・・
.
1945年9月10日、GHQが「新聞報道取締方針」(SCAPIN-16)
 を発令し、検閲を開始した。
  アメリカは、あらゆる面で、日本をコントロールし始
 めた・・卑劣だった・・(戦争に勝ったら、そんなこと
 が出来るのか?)
  日本には誇るべき平安京の時代がある・・女性は尊重
 されていた。
  当然、その様な社会環境から・・女性も高い教養を身
 に付けていた。
  その様な社会環境から、「人類最初の長編小説」が、
 日本のこの時代に書かれた。
  アメリカは影も形もないこの時代・・1200年以上も前
 に書かれていて、そして、生まれていた・・
  日本の女性の手によって書かれていた。
  こんな遠い昔でも、日本は、アメリカの様な奴隷制
 の欠片(かけら)もない平等な社会だった・・そして、
 女性の人格も尊重される社会だった。
  まったく卑劣極まるレベルのアメリカの奴隷社会とは、
 まったく隔絶されて違う・・品位ある社会だった。
  日本は遠い昔から、奴隷社会などという遅れた社会か
 ら隔絶していて・・戦争もなく、兵役もなく、宗教の自
 由があり、言論の自由もあった。
  アメリカが、第二次世界大戦後、その様なことを「日
 本に教えるのだ」と言ったのは間違いだった・・逆に、
 日本から学ぶべきだった。
  アメリカの自国の歴史をもって、「日本もそうなのだ
 ろう」と思うことは、「おこがましい(出過ぎている。
 さしでがましい)」・・反省してもらいたい。
  日本人のプライドを奪うことを、この後、戦後に、ア
 メリカは、まだまだ行った・・まったく卑劣である。
  そんなことは、どこの国もやらなかった。
  だから、その点について、イギリスのチャーチルは、
 さすがに言った。
  そんなことをしたら、「タルタル人の様だと」と・・
  タルタル人と同じではないかと・・
  「タルタル人の時代に戻ってしまうではないか」と・・
  アメリカは、戦争に勝ったかもしれないが、それでは、
 タルタル人と同等ではないか・・と・・
  チャーチルは、数日間、抵抗した。
  しかし、アメリカに押し切られた。
  歴史に裏打ちされた品格を持つ日本は、この点で勝利
 していた・・人間として大事なこの点で、日本はアメリ
 カに勝ち、アメリカは敗けていた。
  (参考)タルタル人:タタール(Tatar)は、北アジア
     のモンゴル高原とシベリアとカザフステップ
     ら東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い
     地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、
     ツングース系およびサモエード系とフィン=ウ
     ゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々
     な人々によって用いられてきた民族総称。
      日本では、韃靼(だったん)という表記も用
     いた。
.
1994年、今(2019年)から25年前、アメリカと北朝鮮は、
 かなり危機的な状態となった。
  クリントン大統領の時である。
  アメリカに「やる」という話が出た。
  アメリカ海軍は、「トマホーク」を使えば、北朝鮮
 原子燃料施設を破壊できるという考えだった。
  アメリカ兵の犠牲も出ない。
  金もかからない・・と・・
  「やる寸前」まで行った。
  しかし、北朝鮮アメリカを脅した・・
  「もし、アメリカ軍がトマホーク攻撃を仕掛けてきた
 ら、地上戦でソウルを火の海にしてやる」と言った。
  また、作戦の実行に、アメリカ陸軍が反対した。
  韓国に、アメリカ軍3万人に加えて、その家族が3万5000
 人が居た。
  将兵家族の引き上げの問題である。
  そして、クリントン政権のペリー国防長官が、クリン
 トン大統領へ「全面戦争になったら、100万人の死者が出
 る」と・・言った。
  また、「アメリカ人も、8万人~10万人死亡する。
  そして、我が国が負担する軍事費用は、1000億ドル(
 11兆円)に上る」と報告した。
  クリントン大統領は・・屈した。
  この時が、北朝鮮の核施設を無くすチャンスだったと
 言われている。
  この時、日本は何をするべきだったのか?
  その考え方が、「まとまっていなかった」。
  この時、日米で共同作戦を取っていれば、「日米安保
 体制も、ゆるぎないものになっていた」という・・
  日本には、「自国の安全保障に対して何をなすべきか?」
 の「一本、筋の通った論理」が無かった。
  「何も考えないで、アメリカに、頼り切っている状態
 の日本があった」。
  日本の安全保障であるのに、それを真剣に突き詰めて
 いたのか・・?・・これは、今でも続いている・・
  ただただ、戦争は嫌だと言っているだけで良いのか?
  それで済むなら誰だってそれでよいとする・・
  NHKや池上彰は、「徴兵制は怖い」などと脅す事だ
 けをしている・・本質の解説は「逃げている」・・
  北朝鮮は、必死に生き残りをかけてやっていて・・北
 朝鮮は、核とミサイルで自国民を守った。
  アメリカは、最後まで責任をとってくれるのか・・?
  今日の香港・・明日の東京・・そして、ニューヨーク・・
  周りに核に囲まれた日本・・銃を持った者たちによっ
 て、あなたの愛する妻や子が囲まれた時、あなたは何を
 するのですか?・・
  今日も銃の乱射で多くの人が亡くなったアメリカの報
 道が新聞にあるが・・

.
1995年、クリントン政権ジョセフ・ナイ国防次官補が「
 アメリカのアジアに対する『深い関与』戦略」という論
 文を発表した。
  それは、「アメリカは、ヨーロッパから軍隊を引き揚
 げても、東アジアからは撤退しない、『深い関与』を続
 ける」というものだった。
  アメリカ軍が、駐留を続けることによって「東アジア
 地域での軍備競争を抑える」だった。
  また、ペリー国防長官も、似たような主張をした。
  アメリカは、「日本を抑え付けておきたい」と言えな
 いから、この様な言い方をした。
  また、「瓶のふた論」も展開できないから、こんな言
 い方をした。
  「瓶のふた論」は・・もう古い・・
  ペリー国防長官の言い方は、「東アジアを安定させた
 い。軍備競争が起きないようにしたい。それ故に、我々
 は、冷戦が終わっても日本に5万人のアメリカ軍を駐留さ
 せる」と。
  どの様な言い方になっても、結局、「瓶のふた論」の
 思想の行動をアメリカは続けている。
  そして、その「瓶のふた論」をするアメリカへ、「思
 いやり予算」と称して日本国民の血税が支払われている。
  ところが、このペリーという男が、曲者(くせもの)
 で、「中国が、大好きな親中派」・・
  それも、自分さえよければ良いの男だった。
  クリントン政権の前に居たカーター政権で何をやった
 かと言うと、「アメリカの軍事技術を、せっせと中国に
 渡していた」。
  国防次官という身分で、「軍事技術供与」と称して、
 アメリカのノウハウを渡していた。
  そして、この行為は、この後も続いた。
  カーター政権を辞め、スタンフォード大学に戻ってか
 ら、「武器・軍事技術輸出に関するコンサルティング
 社」を作った。
  目当ては、政権にいた時に作った中国。
  中国を最大の客として、重要な軍事技術を中国へ渡し
 た。
  それも、20年以上の期間に渡って。
  中国は、国防予算をうなぎ上りに増やした。
  前代未聞の4年から5年ごとに、倍増・倍増・倍増の超
 軍拡。
  「東アジアに軍拡競争をさせない」というアメリカの
 公言(人前で隠しだてすることなく堂々と言うこと)は、
 「絵に書いた餅」となった。
  アメリカなんて、こんな事が展開する国だった。
  アメリカ企業は、中国をお得意様として、中国に対す
 る軍事技術の輸出をどんどん増やした。
  「自分の懐に、金が転がり込めば、何でもいいのさ」
 の状態だった。
  アメリカ政府は、黙認した。
  北朝鮮も、この時期、せっせと核弾頭の材料である核
 燃料を増産した。
  1994年、アメリカは、北朝鮮と「これ以上プルトニウ
 ムを作らない」合意をした。
  しかし、1996年、北朝鮮は、このアメリカとの合意・
 約束を破って、パキスタンから「ウラニウム濃縮技術」
 を導入した。
  アメリカは、この重大な情報を日本に秘密にした。
  日米同盟なんてチャンチャラおかしいという状態。
  同盟関係なんてありもしないという日米同盟だった。
  裏切り者の卑怯なアメリカだった。
  さらに、アメリカが、卑怯で卑劣なのは、この状態を
 黙認したこと、核弾頭の開発を続ける北朝鮮を野放しに
 したこと・・この様な事を、アメリカはした。
  何の対抗策も取らなかった。
  日本だけには、ガチガチと枠をはめるアメリカだった。
  日本の自主防衛能力の構築だけが、ガチガチに抑え付
 けられていた。
  そして、2017年、北朝鮮は、立派な核保有国となり、
  ICBM(大陸間弾道弾)も保有する国となった。
.
2002年2月18日、アメリカのブッシュ大統領が来日した。
  この時、「小泉首相靖国神社に共同参拝したい」と
 申し入れられていたという。
  日本は、中国を刺戟したくないと、この申し入れを断
 った・・(何を怖がっているのか?)
  その結果、ブッシュ大統領の単独による明治神宮の参
 拝になったという。
  日本は、中国に気を使い過ぎている。
  ウイグルの方々を300万人も拘束している中国、ウイグ
 ルの方々へ「洗脳とか、思想教育とか」をしている・・
  この抗議に対して、中国は「テロ対策だ」という「説
 明にならない説明」をしている中国となっている。
  さらなる抗議に対しては、「内政干渉だ」と突っぱね
 る中国となっている。
  その様な状況に対して、その正反対に、気を使い過ぎ
 る日本となっている。
  明治神宮の共同参拝までしなかった日本・・
  「政教分離にならない」というのも理由だったという。
  アメリカは、大統領の就任式にキリスト教の聖書に手
 を置いて祈り、誓うが、一定の範囲に宗教が関わること
 は正しい、「正義だ」、「許されるのだ」。
  宗教を否定する共産主義の中国とは違うのだ。
  馬鹿々々しいほど律義に行なう日本の方が「おかしい」。
  民の選挙も行なわない・・そして、宗教を否定する中
 国の方が・・「おかしいのだ」。
  日本は、中国の内政干渉には、きっぱり撥ね付ける必
 要がある。
  アメリカは日本に対して言っている、「マッカーサー
 の神道指令」を卒業して、「独自の日本の正義の態度を
 示せ」と・・
  その背景に、「中国に毅然と日本の主張をせよ」との
 思いがある。
  最近のアメリカは、日本に対し、「もっと自分の国に
 誇りを持った歴史観を持つべきだ」というメッセージを
 盛んに発している。
  靖国神社の参拝についても、反対の意見は無い。
  逆に、この類の話の中で、「中国への警戒感や脅威論
 が出る」という状況となっている。
.
2011年、ドイツと中国の間で「二国間政府サミット」が定
 期的に開催されるようになった。
  これは、やはり、狙いは商談・・金儲け・・
  首脳同士、閣僚同士の会談の影で、盛んに産業界の大
 物たちが、政府のサポートを受けながら大型契約の交渉
 に熱中していた。
.
2018年1月14日、スエーデンで、「ジャングルで一番格好の
 良い猿」と言って、黒人の子供の写真を載せる宣伝広告
 がなされた。
  考えられないほどの、「最低の人種差別の宣伝」で、
 世界で、この会社の商品の不買運動を始めよう。
  最悪な卑劣さで、怒りが心頭に達する。
  産経ニュース、2018年1月14日、「ジャングルで最もか
 っこいいサル」…黒人差別の広告に抗議、南アでH&M
 店が襲撃される
  スウェーデンの衣料品大手H&Mが、黒人への差別的
 な広告を使用した問題で、南アフリカ国内にある同社の
 複数の店舗が13日に襲撃され、商品が盗まれるなどの
 被害が出た。
  黒人の権利擁護を訴える野党が、支持者に呼び掛けて
 いた抗議行動が過激化した。
  南アのメディアが報じた。
  地元警察によると、最大都市ヨハネスブルクの店舗で
 は、商品が略奪され警官隊がゴム弾で制圧。
  商品が床にまき散らされた店もあった。
  H&Mによると、客や店員にけがはなかった。
  「ジャングルで最もかっこいいサル」と記したパーカ
 を黒人少年のモデルに着せた写真を、H&Mが広告に使
 っていたことが今月に判明。
  「人種差別だ」と批判が相次いでいた。
  支持者に抗議行動を呼び掛けた野党、経済的解放の闘
 士(EFF)のマレマ党首は「黒人への侮辱は許さない。
  (H&Mは)教訓を学んだだろう」と述べ、襲撃の謝
 罪を拒否した。
.
2019年、存立危機事態(産経新聞の解説文)・・
  自衛隊による集団的自衛権の行使が可能だと日本政府
 が判断する事態の称呼。
  安全保障関連法は、「密接な関係にある他国への武力
 攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自
 由、幸福追求の権利が根底から覆(くつがえ)される明
 白な危険がある事態」と定義している。
  「国民を守るため、他に適当な手段がない」「必要最
 小限度の実力行使にとどまる」と合わせて「武力行使
 新3要件」を満たす場合に、集団的自衛権の行使が認めら
 れる。
  この条文を読んでいるうちに、中国や北朝鮮からの核
 ミサイルは・・着弾するだろう。
.
2019年8月2日、日本は、韓国への「ホワイト国の指定」を
 取り外した。
  これは、韓国が、「軍事上の重大違反」を繰り返すと
 いう重大ミスがあったからだった・・当然の処置だった。
  この韓国へ与えてあげていた「貿易上の優遇処置」の
 取り外しは、特に、「軍事関係の重要品」を不適切国へ
 輸出するという「重大違反を重ねていた」からだった。
  この様な事は、重要な事として韓国も十分知っている
 事だったが、現実に起きることは、韓国の『重大なミス
 が重なる』という状況だった。
  この様な事に対して、韓国は謝罪も説明も一切ない。
  韓国へ与えてあげていた『ホワイト国の優遇処置』を、
 『普通のポジションへ戻した』。
  韓国の輸出不正の多い状態は、「二段階降下が適正で
 あった」が、「普通レベルに留めて」あげた。
  軍事的に重要な戦略物資の不適切な輸出は、非常に神
 経を尖(とが)らせなければならない重要な面であるが、
 故意ではないかと疑われるほど、韓国は「重大ミスが重
 なるという韓国の状況であった」。
  そこで、日本政府になり代わって、韓国政府へ、以下
 の文を書く・・
  日本政府が、韓国のホワイト国(輸出手続き上の最遇
 国)から排除する決定を下した。
  これは、韓国政府が、問題を解決するための外交的努
 力を拒否し、事態を一層悪化させる極めて無謀な行為を
 繰り返していたことに依ることであって、深い遺憾を表
 明する。
  問題を解決するために、膝を突き合せようという日本
 政府の熱意と提案を、韓国政府は、ついに、頑なに自説
 を曲げないで受け入れなかった。
  一定の期限を定め、現状をこれ以上悪化させないよう
 にしながら交渉の時間を持つように促す米国の提案にも、
 韓国政府は応ぜず、解決案にほど遠い自説を曲げなかっ
 た。
  韓国政府は、日本政府と国際社会の外交的解決の努力
 を無視し、状況を悪化させて来た責任を、韓国政府は重
 く反省しなければならない。
  この様な責任が、韓国政府にあるという事が明らかに
 なった以上、これから起きる事態の責任も、全面的に韓
 国政府にあるという点を、はっきりと警告する。
  どの様な理由で言い訳をしようとも、韓国政府の今回
 の行動は、まったく国際社会のルールを踏み外している。
  決着している過去の問題を何度も蒸し返したり、持ち
 出したりして、建設的な前向きな解決をしようとしない
 韓国政府に問題が存在する。
  最も近い隣人であり、友好国であるべき韓国が、この
 様な行為をとって来た事は、実に失望すべき事であり、
 残念なことである。
  この様な不正を押し付ける韓国の姿勢は、国際社会の
 これからの為にも、はっきりと指摘して行かなくてはな
 らない。
  国際社会はお互いが助け合うことが基本であり、ルー
 ルに反することを、自国に有利だからと行なう韓国政府
 の行為は、断固指摘せねばならない立場に日本政府には
 ある。
  日本政府は、韓国のこの様は不当な行動に対し、断固
 として正しい事実に則った態度を取って行く。
  韓国政府が行なう盗人たけだけしく騒ぐ状況を決して
 日本政府は座視しない。
  日本政府は、韓国政府の行なう措置に応じて、対応措
 置を強化して行く。
  そして、今までの、韓国政府の甘えの体質も反省すべ
 きである。
  不正な行動をする韓国政府は、大きな代償があるとい
 うことを認識しなければならない。
  日本政府は、対抗の悪循環を望んではいない。
  止められる方法はただ一つ、韓国政府が、偽りの行動
 を反省し、誠実にそして真実の行動をとることにある。
  日韓両国には、日本が韓国の国づくり、また、社会資
 本づくりなどに貢献して来た歴史があるが、この事につ
 いても一切の感謝の気持ちを韓国は表明していない。
  韓国政府は、この様な事に対する誠実な感謝の気持ち
 を表明すべきである。
  遠い昔から、江戸時代から、韓国政府は、この様な蒸
 し返しの行為を、日本政府に対して繰り返し行なって来
 た歴史がある。
  しかし、日韓政府の正常化に挑戦して行くことに対し、
 日本政府は努力するが、肝心な韓国政府が昔から日本に
 して来たような態度を繰り返すならば、歴史は繰り返さ
 れることとなる。
  共に、日本と延びたいのならば、国際ルールに則り、
 正しい行動の出来る国に韓国政府はならなければならな
 い。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  ロシア(旧ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦
 であったので、ソ連(現ロシア)と合意の上で日本は武
 器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日露の合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島ソ連(現ロシア)は不法に占
 拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。