(増補版)664E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年1月~1897年2月)

題:(増補版)664E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年1月~1897年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
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1897年1月31日、西周(にしあまね)が死去した。
  (1829年~1897年)
  哲学者(日本最初の西洋哲学者)、啓蒙思想家・啓蒙
 学者。幕府開成所教授。東京学士会院会長。東京師範学
 校校長、元老院議官。貴族院勅撰議員。
  1829年3月7日(文政12年2月3日)生まれ
   岩見(いわみ)国(島根県)、津和野藩医の長男(
   父は時義、母はカネ)
    若くして儒学朱子学を学び、荻生徂徠にも啓発
   された。
  1854年(25歳)ペリーの来航によって蘭学、洋学の必
   要を悟り、専念したく脱藩へ・・
  1857年(28歳)脱藩して蕃書調所に出仕、教授手伝並
   となり・・蘭学を学び、英学を杉田成卿、手塚律蔵
   に学び、英語の発音を中浜万次郎に学んだ。
  1862年(33歳)幕府派遣留学生として、榎本武揚、津
   田真道らとオランダのライデン大学に留学、シモン・
   フィセリングに師事し、邦楽、経済学、統計学など
   を学んだが、J.S.ミルの功利主義や、A.コントの
   実証主義の哲学、および、カントの恒久平和の思想
   に感銘し、共鳴した。
  1865年(36歳)帰国して、開成所教授となり、幕命に
   よって万国公法の翻訳を大成して行く(1868年)・・
  1866年(37歳)大政奉還前後は徳川慶喜の政治顧問と
   もなり京都に行く、私塾も開いて哲学を講義した・・
  1868年(39歳)沼津兵学校頭取となったが・・
  1870年(41歳)明治維新の政府に招かれ、新政府軍部
   官僚となり、近代軍制の整備にあたる・・
    兵部省のちの陸軍省のほか文部省にも勤務し、か
   たわら私塾・育英舎を開いた。
    兵部省陸軍省での軍制整備では軍人訓誡、軍人
   勅諭の原案の起草に関係する。
  1873年(44歳)福沢諭吉森有礼中村正直らと「明
   六社」の設立に参加し、1874年(45歳)明六社を結
   成し活躍した。
    西洋文明や西洋哲学の紹介、啓蒙思想の普及活動
   に努め、尽力し『明六雑誌』に哲学論文を発表した・・
  1874年(45歳)新しい時代の青年を教育するために学
   問全体の統一的理解の必要を感じ、『百一新論』で
   この統一科学の試みを「哲学」と称した。
    彼の哲学はミル、コントの実証主義哲学をモデル
   とし、自然科学の土台の上に社会、人文科学を積み
   重ねる学問体系を志し、これらの諸科学をつなぐ環
   となる原理を物理と心理、学と術、コントの歴史3段
   階説、ミルの帰納法などに求めたが、未完成に終わ
   る。
    のちに人間性論に関心を移して人間論を展開。
    彼は主観、客観、概念、観念、理性、悟性、感性、
   演繹、帰納、定義、命題、実体、属性など多くの哲
   学用語を訳出した。日本近代哲学の父といわれる。
  1880年(51歳)山県有朋の下で軍事政策にも参画し『
   軍人勅諭草案』を著した。
  1897年(明治30年1月31日)歿、69歳。
  著「百一新論(1874年)」「致知啓蒙(1874年)」「
 百学連環」など、訳書に「万国公法(1868年)」「心理
 学(1875年~1876年)」「利学(1877年)」など・・
 「西周全集」全4巻がある。
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1897年1月、正岡子規が、雑誌「ホトトギス」を創刊した。
  ホトトギスは俳句雑誌で、子規の援助によって柳原極
 堂が、松山に創刊した日本派初の俳誌・・
  1898年10月、発行所を東京に移し、高浜虚子が編集発
 行を担当・・
  子規一派の機関誌として、内藤鳴雪河東碧梧桐、石
 井露月、佐藤紅緑らを擁し、新聞「日本」の子規選俳句
 欄と並び、日本派興隆の拠点となる。
  1902年、子規の没後、虚子がこれを継承し、碧梧桐は
 「日本俳句」欄を継承し、それぞれ子規の奥義を継いだ。
  しかし、両者の俳句観に対立が生じ、俳壇の中心はし
 だいに碧梧桐選「日本俳句」に移った。
  それとともに、虚子は小説に力を注ぐようになり、「
 ホトトギス」は文芸雑誌化した。
  しかし、碧梧桐の新傾向俳句が変調をし始めると・・
  1912年、虚子は、「ホトトギス」誌上、雑詠欄を復活
 する・・
  そして、反新傾向を標榜し、平明にして余韻ある句を
 唱道し、渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、前田普羅、原
 石鼎が輩出して、大正興隆期を迎えた。
  昭和に入ると、水原秋桜子山口誓子、阿波野青畝、
 高野素十らのほか、山口青邨、富安風生を擁し、花鳥諷
 詠、写生俳句の提唱に「ホトトギス」の全盛期を形成し
 た。
  さらに、中村草田男、川端茅舎、星野立子中村汀女
 らの新人を加えて、新興俳句の勃興にも伝統を持って揺
 るぎなく俳壇の王座に君臨した。
  1951年、虚子は、長子・年尾にこれを継承させて・・
  1955年、年尾の没後からは、年尾の二女・稲畑汀子
 受け継いだ・・
  明治、大正、昭和、平成・令和の五代にわたる最古の
 俳誌としての歴史に輝いている。
  復刻版『ホトトギス(明治期)』全174巻(1973年、日
 本近代文学館)がある。
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1897年1月、政府が、第10回帝国議会に、多治見駅~岐阜駅
 間、松本駅高山駅富山駅間の鉄道を・・
  また、中央線の神奈川駅八王子駅間を第1期線に加え
 る法律案を提出した。
  前者は、2月24日に衆議院を通過し、3月9日に貴族院
 通過して、3月13日に法律第6号として公布された。
  後者案は消滅)した。
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1897年1月、臨時台湾鉄道隊が、台北駅~花蓮港駅~宜蘭駅
 間の東海岸と、東西横断線の埔里社駅~花蓮港駅間の比
 較線の調査を実施した。
  日本は、韓国・朝鮮の鉄道を国じゅう張り巡らし敷設
 したが、台湾も同じように、一生懸命、努力した。
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1897年2月2日、英照皇太后の御遺体を輸送するため青山(仮)・
 京都間に臨時列車運転した。
  1889年に、皇后陛下、および、皇太后陛下の共用の御
 召車が作られ、1893年には、御料車から外されて貴賓車
 となっていた。
  その車両が、英照皇太后陛下の霊柩車両となった。
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1897年2月5日、製鉄所官制によって、福岡県八幡村に製鉄
 所の建設が決定した(2月6日説あり)
  この製鉄所官制は、1896年3月に、公布されていた。
  そして、1896年、政府によって候補地が選ばれていた。
  青森、釜石、塩釜、千葉、品川、鶴見、静岡、和歌山、
 尾道、呉、大竹、梅田、大里(門司区)、板櫃(小倉北
 区)、八幡(八幡東区)、大牟田、長崎・・
  各候補地とも誘致活動を展開した。
  その結果、北九州3か所を含む4か所に絞られた。
  呉(広島県)、大里(門司区)、板櫃(小倉北区)、
 八幡(八幡東区
  洞海湾(八幡)から石炭を入手する若松港の水深が浅
 く、大型船が入港できないとなり、大里が有利な立場に
 なった。
  また、大里は、筑豊炭田を背後に持っていることが有
 利だった・・しかし、葦(アシ)が生い茂る湿地状の土
 地が多かった。
  しかし、陸海の交通の便に優れ、多くの人口も抱え、
 八幡の及ばない好条件を備えていた。
  この時点で、若松築港会社の会長・安川敬一郎は、「
 水深さえ深くすれば八幡は大里に勝る」と確信した。
  政治工作が展開された・・
  旧黒田藩主の金子堅太郎、岩崎弥太郎渋沢栄一の同
 意を得た。
  そして、渋沢栄一と後の長官の和田維四郎を通じて、
 候補地決定の責任者である大島道太郎と長官の山内堤雲
 への説得を依頼した。
  安川敬一郎のこの様な行動が功を奏し、用地買収担当
 の製鉄所事務次官に八幡出張の辞令が出た。
  八幡村の芳賀種義村長も、村民に対して「八幡村に製
 鉄所を、日本の鉄づくりは八幡から」と説得した。
  そして、100万平方メートルの広大な土地の取得が実現
 し、また、価格も予定の半値の協力を得た・・そして、
 この日の決定を得た。
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1897年2月9日、浪速鉄道が、関西鉄道へ譲渡して解散した。
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1897年2月15日、活動写真が登場する。
  1896年、フランスに渡っていた稲畑勝太郎(実業家、
 貴族院議員)が、オーギュスト・リュミエール(エジソ
 ンと並び称せられるフランスの映画発明者)から、2台の
 シネマトグラフ(撮影と英社の機能を持つ)を購入して
 いた。
  1897年、フランスから帰国した稲畑勝太郎は、シネマ
 トグラフの映像を大阪市戎橋(えびすばし)通りの南地
 演舞場で上映した。
  日本初の「映画興行だった」。
  「自動写真」と名付けた。
  1897年3月6日には、東京市の「新居商会」によって、
 神田錦輝館で「電気活動大写真会」と銘打ち、バイタス
 コープが上映された。
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  (今日の言葉)
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  題:中国が、インターネット上の空白の「価値創造の世界」に乗り出した。
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紀元前7万年前、人間の認知能力が、この頃、より向上した。
  (参考)認知:にんち、ある事柄をはっきり認める事。
  (参考)認知考古学:にんちこうこがく・・
     心の進化を研究する進化心理学を取り入れ、遺
     物・遺跡の分析から
      古代人の精神状態を解明しようとする、新し
     い研究分野。
     ・
     ・
     ・
紀元前1000年、人類が、貨幣、帝国、普遍的宗教という想
 像上のものを皆が共有できるようになった。
     ・
     ・
     ・
1526年、インドの北にイスラーム国家が建国された。
  後に、インドの全域を治めた「ムガル」。
  このムガルとは、ペルシア語でモンゴルを意味する「
 ムグール」の発音が変化したもの。
  このインドのムガル帝国は、モンゴル系民族にあたる。
  16世紀初め、アフガニスタンから侵攻したバーブルが
   北インドに建国したイスラーム国家。
  17世紀後半のアウラングゼーブ帝時代に最盛期となり、
   ほぼインド全域を支配した。
    しかし、ヒンドゥー教徒との融和策を廃棄したこ
   とから衰退し、
  18世紀には、イギリス・フランスの侵攻を受けて弱体
   化し、
  1875年に、インド大反乱が起こり、
  1876年の翌年、滅亡した。
  ティムールの5代の孫に当たるバーブルが、インドに開
 いたイスラームスンナ派を奉じる王朝。
  バーブルが、ティムール(チンギス=ハンの子孫と称
 していた)の家系につながっていることから、自らをモ
 ンゴル系と称していた。
  ムガル帝国の支配者層は、トルコ=モンゴル系と言え
 る。
  1526年、パーニーパットの戦いでロディー朝を破った
 バーブルがデリーに入り、建国した。
  イスラーム教(スンナ派)を奉じる。
  公用語はペルシア語が用いられた。
  文化面では、デリー=スルタン朝に始まるイスラーム
 文化とインド文化の融合が進み、インド=イスラーム
 化が開化した。
     ・
     ・
1791年9月3日、フランス革命後のこの年、フランス憲法
 1791年憲法)が制定され、キリスト教に由来する王権神
 授説を放棄した。
  そして、国王は、「国民の代表者」とし歳費を貰う一
 官吏として規定された。
  しかし、国王は、行政権をもち、内閣閣僚を議会外か
 ら任免することができ、議会の立法権に対し拒否権を持
 っていた。
  議員は、選挙によってえらばれたが、国民の大半を占
 める農民や貧民(受動的市民)は政治から排除され、選
 挙権は無かった。
  後の憲法と異なり、国民投票には付されず、国王の裁
 可によって効力を持った。
  内容は、革命派と反革命派との妥協の産物であった。
  この為、混乱は治まらず・・
  1792年8月10日、チュイルリー宮殿襲撃(8月10日事件)
 が起き、「1791年憲法」は破綻した。
  1789年10月、「ヴェルサイユ行進」(十月事件)以来、
 国王ルイ16世は、オーストリアスペイン・ブルボン朝
 の宮廷に行動費の援助と列強による支援を要請する一方、
 聖職者民事基本法をめぐる宗教界の紛糾を利用してフラ
 ンス国内を分裂に導こうとした。
  1790年夏、25,000名の反革命の農民ゲリラが組織され、
 国王がリヨンに脱出したら内戦に持ち込もうという計画
 がなされた(リヨンの陰謀)
  1790年、キリスト教聖職者への土地財産の払い下げが
 農民にとって不利な競売方式だったため、農民の不満が
 爆発し、各地での農民一揆となった。
  1790年春から、経済もインフレ状態で、物価高騰で庶
 民の生活は困窮を極めた。
  1790年8月、ナンシー連隊の兵士の反乱となる(ナンシ
 ー事件)・・政治も混乱・・
  1791年6月20日、国王逃亡事件(ヴァレンヌ事件)とな
 る。
  ルイ16世一家がパリを脱出し、
  6月22日、東部国境に近いヴァレンヌで捕まる・・
  亡命だと国民に受け取られ、喧伝される・・
  国王の権威は失墜した・・共和派の台頭と立憲王政の
 成立の見込みが無くなり・・反革命側に居るルイ16世
 処刑の可能性が高まった・・
  そして、国王を処刑する・・
  その後も続く恐怖政治・・処刑者が続出する状態が続
 いた・・
  1799年のナポレオンによるクーデターまで混乱は続い
 た。
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1820年、ハワイにアメリカのキリスト教プロテスタント
 の宣教師団が来訪する。
  この時からアメリカのハワイを奪う行為が始まる。
  そして・・
  1849年、アメリカとハワイが、修好通商条約を締結し・・
  1897年6月16日、アメリカがハワイを併合する・・日本
   が抗議をする。
  そして、今、アメリカ合衆国の一つの州となったハワ
 イ王国の滅亡後の姿がある。
  英語化がなされて、ハワイ語は、今、滅亡の危機にあ
 る。
  文化はおろか、言葉も奪われてしまっている。
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1830年、インディアン強制移住
  アメリカ第37代大統領アンドリュー・ジャクソンが、
 インディアン強制移住法によって、約10万人のインディ
 アンの方々を強制的に移住させた。
  先住の民・アメリカ・インディアンの方々が、先祖代々
 の地を、アメリカ白人たちに追われた・・、
  ミシシッピ川の西のオクラホマや、アリゾナなどへ
 強制的に移住させられた。
  白人アメリカ人、キリスト教プロテスタントに、何の
 正義があるというのだ・・追い出す権利があるというの
 だ・・
.
1859年、横浜が開港すると、もうその翌年の1860年には、
 横浜を守る神奈川台場が、神奈川区の海岸部につくられ、
 防御施設を備えて整備された。
  外国船を監視し、迎撃する任務があり、海岸砲台も設
 置された。
  江戸湾には、この他にも品川区に品川台場などあり、
 この様な台場は日本各地に作られた。
  その数は約1000ヵ所ある。
  日本は、しっかりした防衛意識の下に行動していた。
  今・現在の様な体たらくではなかった。
  「戦争が嫌い」でマインドコントロールされ、妻や子
 を守ることさえ放棄している。
  「戦争が嫌い」で防衛行動さえしないで「戦争が起き
 ないなら、誰も苦労はしない」。
  しっかりした防衛体制をとってこそ、「悲惨な戦争を
 避けられる」。
  弱味があれば「いじめっこ」が関わって来るように、
 逆に、戦争を起こされ巻き込まれる。
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1863年南北戦争のチャンセラーズヴィルの戦いで、北軍
 のフッカー将軍が、南軍のロバート・E・リー将軍に対し
 て惨めな敗北を喫した。
  このことは、アメリカで、一番知られていることであ
 る・・が・・、
  この北軍のフッカー将軍・・南北戦争に売春婦を連れ
 て行ったことでも有名(従軍慰安婦である)
  (参考)ジョセフ・フッカー(1814年11月13日~1879
     年10月31日)は、アメリカ合衆国職業軍人
     あり、南北戦争のときは北軍の少将を務めた。
      フッカーは、南北戦争の全体で従軍し多くの
     実績を挙げたが、1863年のチャンセラーズヴィ
     ルの戦いで大敗北を喫す。
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1911年12月16日、トーマス・ブレーク・グラバーが死んだ。
  武器商人として幕末の日本で活躍し、暗躍した。
  イギリス人(スコットランド出身)の商人。
  その長崎のグラバーさんが、『牛が食べたい』と言え
 ば、幕府は、牛屠場を、その最適地を探して作って上げ、
 その要望に寄り添った。
  それに対しオーストラリアは、その反対だった。
  オーストラリアの国が出来る前から・・日本はクジラ
 獲りをしてきた。
  そのオーストラリアの国の歴史より古い日本のクジラ
 獲りを「止めろ」とこの国は言った。
  その理由が・・勝手な理由で・・キリスト教では、ク
 ジラは知恵があって、高い地位にいる動物だからだと言
 う。
  カンガルーを殴り殺しているオーストラリア。
  自分のやっている事は、何ら気付かず、正しいという。
  キリスト教は、祭りだと言っては七面鳥を食うが、そ
 れは問題ないのか?
  ヨーロッパの先住民のケルト人は殺すし・・ヨーロッ
 パ大陸から居なくなってしまった・・
  自分たちがやっていることは良いのだと言う・・
  自分たちがやってないことは違和感がある、「だから・・
 やめろ」・・と言う。
  こんな論理が正しいとしている方が「野蛮ではないの
 か?」。
  「その各々に、文化があり、尊重しなければならない」。
  クジラを食べるのも食の文化・・
  牛を食べる文化と同じ・・
  散々、クジラの油が欲しいと、クジラを殺して来たの
 に、急に、手のひらを返したように日本を悪者にした・・
  本音は、牛肉を買ってくれ・・なのだろー・・、
  もっと、正直に、まともに言いなさい・・キリスト教
 の性悪説の様な言い方は止めるべき・・
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1946年3月31日、終戦の後、日本を占領したアメリカ(GHQ
 は、日本の国語教育における漢字の学習を廃止し・・
  最終的に、「日本語をローマ字で表記せよ」とする計
 画を持っていた・・
  (参考)1946年3月、アメリカ教育使節団が、GHQ
     の要請で来日し、この日に、その報告を提出し
     ・・その中に、日本の学校教育の漢字の弊害を
     言及した・・
      そして、ローマ字が便利だと馬鹿々々しい浅
     はかな提案をした。
  民主化のためなどと屁理屈の理屈が付けられていた。
  もし、その計画が行われていたら以下の様になる・・
  Doon igigo no kubetsuga konnan ni naru.
  Yotte,hayai dankai de iikae ga fukyu shite ita.
  Kubetuga shiyasui youni,gairaigo no torikomi ga
 susundeita kamo shirenai.
  Meijijidai no doon igigo tairyo seisan wa nakatta.
  まったく馬鹿々々しいのが分かる・・
  ローマ字化と民主化はまったく別の話・・
  また、これで、民主化が進められるとは強引な言い掛
 かり・・
  「煩雑で不合理な文字を使っている=野蛮人=非民主
 的」という強引な論理も展開し、垣間見られた。
  日本の国体の解体と破壊が本音だった。
  そして・・
  こんなに多くの漢字を覚えている訳がないと、この日
 本を占領したアメリカは、日本人を馬鹿にして英語化し
 ようとしていた(アメリカに植民地にされたフィリピン
 の様に・・)
  日本の知識人方は、必死に説明し、理解を求めた。
  そうしたら「テストをしよう」という事になった。
  テストをした結果・・
  ほとんどの人たちが、100点に近い結果となり、アメリ
 カ進駐軍は驚いた・・キリスト教から来る有色人種蔑視
 観もあって、日本人がその様に見られていた。
  日本語は、何万という漢字と、平仮名やカタカナ、そ
 して、アルファベットなども使って意思を記し、伝えて
 いる。
  当然、心の機敏、細やかな意思の伝達ができる。
  それに対して米語や英語は、アルファベットだけ・・
  アルファベットの26文字だけ、そのたった26の文字
 で意思伝達する。
  その意思伝達手段は、順列組み合わせだけで識別性を
 出すしかない。
  日本語の様に表音文字以外にも「何万の表意文字」を
 持つ言葉の様な豊かな伝達は米語・英語にはない・・そ
 の様な芸当はできない。
  頭の中の思考も言葉で行っているので、米語・英語の
 思考は、日本語による思考に及ぶことはできない。
  いくら翻訳機が発達しても日本語の翻訳は「米語・英
 語レベルの翻訳レベルとなる」。
  つまり、米語圏・英語圏の人達は、到底、日本語の奥
 深い領域に分け入ることはできない。
  日本語を学ばない限り、日本語の深さは理解出来ない。
  安易な翻訳で(または、翻訳機で)分かったふりをし
 てはならない。
  その逆の英語の日本語翻訳は「余裕であり」・・アル
 ファベット26文字しか頭にない人たちの領域の総べては
 分かり得る。
  因みに、フィリピンは、独立した後に公用語を米語だ
 けではなく、現地語も公用語に加えた・・
  アメリカの強引な英語化の弊害に泣いている結果だっ
 た。
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2019年、韓国の本当の声
  韓国の知識人が、とうとう本当の声をあげた。
  「嘘ばかりの韓国の話」を恥ずかしいと思ったのか、
 その真実を言い出した。
  https://www.youtube.com/watch?v=WCxIQCBdj34
  李栄薫(李承晩学堂の校長の話)(1:22:30より)
  李承晩TV視聴者の皆さま、こんにちは・・
  危機の韓国の根源・・反日種族主義
        (日本語翻訳:鈴木喜久子)
  今日の主題は、1910年に、日帝が実施した土地調査事
 業に関することです。
  題名は、「片手にはピストルを、もう一方の手には測
 量器を」、この様に付けてみました。
  1910年、大韓帝国を併合した日帝朝鮮総督府は、す
 ぐに全国の土地の調査を始めました。
  朝鮮土地調査事業でした。
  1918年まで、8年間実施されたその調査事業のため、韓
 半島全域の土地状態が調査されました。
  お見せしているこの背景の写真は調査事業当時、土地
 調査班が測量をしている場面です。
  土地調査の結果、全国土が約2300万ヘクタールである
 と明らかにされました。
  (本来、自分の国土ぐらい自分たちで測量をして、済
 ませておかなければならない。
  その様な基本的な事までして無かった韓国・朝鮮・・
  日本は、すでに江戸時代に伊能忠敬が測量をしていた)
  そのうち、約486万町歩が人間の生活空間として、田ん
 ぼ、畑、大地、河川、堤防、道路、鉄道用地、貯水池、
 墓地などであり・・
  残り1800万ヘクタールが山地でした。
  1960年代以来、中学・高校の国史教科書は、日帝が行
 なった土地調査事業の目的が、朝鮮の農民の土地を収奪
 するためのものだ・・と書いた。
  そのような目的で実施されたと生徒たちに教えてきま
 した。
  朝鮮の農民の土地を収奪するためのものだ・・と・・
  1960年に、歴史教育学会が作った教科書は、全体のう
 ちの半分が総督府の国有地として収奪されたと教えまし
 た。
  1967年のある教科書は、全国の土地の40%が総督府
 所有地に収奪されたと書きました。
  当時までは、検認定教科書でした。
  従って書く人によって、教科書によってみな内容が少
 しずつ違っていました。
  1974年から、国定教科書にかわりました。
  以後36年間、2010年まで、韓国史教科書は土地調査事
 業に対して全国の土地40%が総督府の所有地に収奪され
 たと教えました。
  しかし、ところでどの研究者もこの40%という数値を
 証明したことがありません。
  検認定であれ、国定であれ、教科書を書いた歴史学者
 たちが勝手気ままに作り出した数値に過ぎません。
  収奪を強調する必要があり、どの程度の収奪なのか具
 体的に話さなければならず、勝手に作り上げた数値にす
 ぎません。
  ところで、それが歳月が流れるにつれ、不動の真実に
 なってしまいました。
  視聴者の皆様は「おかしい」と考える事でしょう。
  誰も証明したことのない学説と数値をどうやって、1960
 年から数えれば50年もの間、教科書に事実であるかのよ
 うに書き、生徒たちを教えることが出来るのかという事
 です。
  内容をもう少し紹介すると、その教育を受けた大多数
 の国民は記憶している事と思いますが、
  総督府は土地を申告するよう農民たちに申告書を配り
 ました。
  1910年代、農民たちは所有権がなんであるか、意識も
 薄弱で、申告が何であるかも知らない曖昧(あいまい)
 な状態でした。
  文字も分かりませんでした。
  それで申告の期限を平気で破りました。
  そうするとまるで総督府が待ってたとばかりにその土
 地を総督府の所有地(国有地)に没収しそれを東洋拓殖
 株式会社や日本から来た日本の移民に払い下げしたとで
 っち上げて言うのです。
  歴史の授業でこの部分が出ると、教える教師も教わる
 生徒も共に涙を流したと言います。
  あまりに悔しく恨めしかったからです。
  大学の私の講義室で、ある学生が、実際、高校生の時
 その様なことがあったと、経験を私に話してくれました。
  そんなにも世代に渡り、涙で怨(うら)みで共有され
 伝承されて来た事が、この講座を通し私が批判しようと
 する反日種族主義の歴史意識です。
  しかし、異常の内容は「真っ赤な嘘です」。
  1910年代、我々の先祖が申告が何であったのか知らな
 かったとは。
  朝鮮王国500年間、我々の先祖たちは、3年に一度ずつ
 戸籍を申告して来ました。
  今、お見せしているこの背景の画面は、そうやって3年
 に一度ずつ申告されたある家の戸籍の事例です。
  中国・明の国では10年に一度ずつ戸籍を申告しました。
  その次の清の国になってからは戸籍を申告することが
 無くなりました。
  それに比べると我々韓国人は500年間、3年に一度ずつ
 戸籍を申告しました。
  世界で一番申告を訓練された人々です。
  これで、申告が何であったか知らなかったと言えます
 か?
  話にならない荒唐無稽な説です。
  にもかかわらず、その様な説を教科書に平然と書いた
 という事は、その教科書を執筆した歴史学者も無意識の
 中で20世紀初の韓国人を野蛮な最悪レベルに置かれた種
 族として感覚したためです。
  韓国の人々の多数が文字を知らなかったのは事実です。
  (だから、日本が、一生懸命、韓国・朝鮮じゅうに小
 学校や中学校、大学まで作ったのです)
  調査によれば19世紀末、人口の約85パーセントは文盲
 でした。
  (日本は、この時、文盲率はほとんど0パーセントで、
 だから、韓国・朝鮮に学校が必要と感じたのです)
  しかし、村には文字の分かる人がいるものです。
  村には秩序があります。
  私が発掘したものですが、土地調査事業当時の申告書
 を見ると、次の画面がそれです。
  この申告書の筆跡を見ると村単位で同一です。
  つまり、村を代表する人が、村の人々の申告書を代筆
 してあげていたのです。
  それで、我々の歴史教科書は、我々の伝統の村々には
 隣人も居らず、相互扶助の秩序もない野蛮な状態、野蛮
 な村と描写したことになります。
  それもまた、反日種族主義の感覚だったと私は考えま
 す。
  土地の40%が総督府の国有地に収奪されたという「で
 たらめな学説」がこんなにも長い間、50年間、教科書に
 堂々と記述できたのでしょうか?
  少し深く考えてみたら誰もが分かる嘘です。
  我々の先祖たちは、土地を命綱だと考えていました。
  土地人之命脈也といいました。
  土地が人の命脈です。
  どこの誰が自分の命綱が切れるのに黙って放っておく
 でしょうか?
  妻子が飢えてしまうというのに家族が乞食になってし
 まうのに、黙って見ている人がどこに居ますか?
  誰もが決死的に抗戦をします。
  侵略者の力がもとよりあまりにも強暴で、仕方が無か
 ったとしましょう。
  それでも奪われた恨(うら)みだけは忘れずにいつか
 土地を、財産を取り戻そうと機会を伺い待つものです。
  ついに、1945年、解放になりました。
  土地調査事業が終わってわずか27年後です。
  土地を奪われた大部分の人々は、ほとんどが生きてい
 ました。
  土地を奪われた人々は倭族が退却したのだから、土地
 を返してもらおうと叫んで当然でした。
  しかし、誰もその様に叫んだ人は居ませんでした。
  土地台帳を保管している全国の郡庁と裁判所のどこに
 もそのような騒ぎが請願として起こりませんでした。
  全国の農地の40%も奪われたのにどうしたんでしょう
 か。
  それは初めからその様なことが無かったからです。
  それでも韓国の国史の教科書には、平然とそんな話を
 作り上げ、何と50年以上も国民をそうやって教えました。
  他でもない反日種族主義の非科学であり、迷信でした。
  また、土地調査事業当時、一部の土地から所有権をめ
 ぐって紛争がありました。
  全国436万町歩の田畑の大地のうち12万町歩に過ぎない
 約2.5%程度の国有地でその様な紛争が発生しました。
  これと関連して、慎ヨン厦教授が書いた「朝鮮土地調
 査事業研究」という本を挙げることができます。
  背景の画面に見える写真が慎ヨン厦教授であり、その
 本が慎ヨン厦教授が関連して書いた「朝鮮土地調査事業
 研究」という本です。
  この本の中で慎教授は、国有地紛争に関して「片手に
 ピストルを、もう一方の手には測量器を」という言葉を
 作り出しました。
  今日の講義の題目でもあります。
  この言葉の意味は、総督府を相手にある民間人がその
 土地が民有だ、私の所有だと主張し抵抗すると、総督府
 の土地調査を行う土地調査班員は、ピストルでそれを制
 圧したと言います。
  その様に慎ヨン厦は、土地調査事業がピストルの発射
 を同伴する暴力的な行為だったと文学的に叙述しました。
  当時、土地調査班員は、軍服の様な制服を着て、腰に
 拳銃を付けていました。
  常時、そういう訳ではありません。
  必要な時に、そうしましたが、山奥に入ると山の獣の
 攻撃を受ける危険がありました。
  (朝鮮には日本には居ない虎が居た。加藤清正の虎退
 治の話があるくらい)
  実際、当時の報告書を見るとその様な事故があり、人
 命の損傷が発生したりもしました。
  また、山奥では匪賊が活動したりしてました。
  (参考)匪賊:ひぞく、集団的に略奪などを行なう賊。
  それで、護身用に拳銃を付ける必要もあった訳です。
  その拳銃が朝鮮の農民に向かって発射された事はあり
 ません。
  当時、農民たちはむしろ調査班を歓迎しました。
  調査班が来ると土地の所有者は、自分の土地に、自分
 の名前を書いた立札を持って待機しました。
  里長と隣人たちが、一緒に立ち会って、この人がこの
 土地の所有者で当事者であることを確認してくれたので
 す。
  土地調査局は、調査を終えると土地台帳の原本を公開
 しました。
  そうしてから異議申請を受け付けました。
  人々は、自身の土地と名前が公簿に記されているのを
 見て喜びました。
  調査班員に対する農民たちの反応は、初めは大変警戒
 的な眼差し(まなざし)でしたが、彼らのしている活動
 内容を理解してからは、概して友好的でした。
  それなのにどうして慎ヨン厦教授は「片手にはピスト
 ルを、もう一方の手には測量器を」という「でたらめな
 小説」を書いたのでしょうか。
  彼は、土地調査事業に関して研究しながら一線の郡庁
 や裁判所に所蔵されている土地台帳を見たことがありま
 せん。
  当時、土地台帳を提出した申告書や測量関係の資料を
 発掘し整理したこともありません。
  全国各地で国有地紛争が発生した時、紛争の内容と判
 決がどうだったのか関連資料をめくっても見ませんでし
 た。
  彼は、総督府が編纂した土地調査事業の報告書をめく
 って読む方式で、自身が幼い頃もっていた先入観を学術
 書として書き込んで包装しただけです。
  それに対して韓国の学会と知性界は歓声をあげました。
  日帝の土地収奪が具体的に証明されたということです。
  そうして、慎ヨン厦教授に栄光の学術賞を授与しまし
 た。
  私は、先の講義で、小説家・趙廷来を虐殺の狂気に捕
 らわれた憎悪の小説家だと批判しました。
  彼の大河小説「アリラン」は、土地調査事業、当時、
 一介の駐在所の警察が土地調査事業に抵抗する朝鮮農民
 を即決処刑する場面を劇的に演出しました。
  全国的に4000余名の朝鮮人がその様に処刑されたと言
 いました。
  実は、趙廷来がそういう風に「でたらめな歴史」を小
 説にしたのは彼の責任だけではなかったのです。
  実は、その数年前に、少し前に紹介したように慎ヨン
 厦という韓国社会学界を代表する学者が、「片手にはピ
 ストルを、もう一方の手には測量器を」そんな内容ので
 たらめな学術書を編纂していたのです。
  日帝の朝鮮併合は、土地を収奪するためのものではあ
 りませんでした。
  この韓半島を、2300万ヘクタールに及ぶこの韓半島
 体を、その付属領土として支配する目的で来たのです。
  12万ヘクタールに及ぶ国有地を収奪するために来たの
 ではないのです。
  この地に暮らす朝鮮人全体を永久に日本人として同化
 させる目的で来たのです。
  (当時、韓国・朝鮮は併合されることを望んでいた。
 併合されて、日本の様な一等国になりたいと表現してい
 た)
  それで彼らの法と制度と機構をこの地に移植したので
 す。
  その一環として、以前の朝鮮王朝は知り得ていない全
 国の土地がどのくらいなのか、その面積がどれ程なのか、
 その形質がどうなのかを、そして、その所有者が誰なの
 かを調査したのでした。
  それが土地調査事業でした。
  そして、当時、創られて土地台帳と地籍図は今もこの
 国が大韓民国が行なうあらゆる土地行政の基礎資料に重
 宝に活用されています。
  (ならば、日本にその御礼を言わなければならない。
  そうです、何から何まで韓国・朝鮮は失礼ですが遅れ
 ていました。支配しようとするものが鉄道や学校を作っ
 たりしますか? 道路を整備したり、衛生状態を良くし
 たり、韓国・朝鮮の人口が、瞬く間に、2倍になり、そし
 て、豊かになりました。これらについての感謝を表明し
 てください)。
  (だから、この部分は言い過ぎではありませんか?)
  教科書を執筆した歴史家や慎ヨン厦教授は日帝の朝鮮
 支配の目的、そのメカニズム、その結果や歴史的意義を
 知らずにいました。
  そんな中で、彼らは、朝鮮はもちろんのこと日本を奪
 われ、奪うという野蛮な種族として感覚しました。
  実は、その様な歴史の認識がいつから出発したのかを、
 私は調査してみたことがありますが、1910年代当時から
 だったと言えます。
  皆さまはこのシリーズ講義の三番目で金容三先生の鉄
 杭騒動に関する講義を覚えていらっしゃることでしょう。
  土地調査事業当時、総督府が全国各地に大小の三角点
 を設置しました。
  お見せする背景画面が全国、釜山から咸鏡北道(ハム
 ギョンブクどう)まで、済州島までを連結する大三角点
 の網です。
  すると多くの人々が三角点の表示を日帝が朝鮮の急所
 を突き、民族精気を遮断するため打ち付けたのだと誤解
 し、それを破棄しました。
  金容三先生の講義にその話が出て来るので確認して下
 さるようお願いします。
  その様に当時の朝鮮人たちは日帝の土地調査事業を気
 脈遮断、または風水侵略として感覚し、「誤解しました」。
  日帝が行なったその他のすべての行政がその様に認識
 されたケースが沢山あります。
  当時、多くの朝鮮人日帝が敷設する鉄道と道路に対
 してその様な感情を持ちました。
  (まったく便利でその利便性を享受しているのに、感
 謝の念をまったく持たなかった。いままでの畑のあぜ道
 のような道での輸送とはまったく違った便利な状況にな
 ったのに感謝の念がまったく無い)
   道路の施設過程で村の守護神である堂山の木が切ら
 れたりもしました。
  私が読んだある両班(ヤンバン:朝鮮の官僚)の日記
 はその道路と鉄道に対し「そんなものが一体我々の生活
 と何の関係があるというのだ」と嘆息しました。
  その様に日帝が行なった各種近代化施設や行政は、伝
 統文化、伝統風水、伝統タブーに対する破壊として感覚
 され、憤りの対象となったのです。
  そうしてできたのが土地調査事業の収奪説です。
  その韓国人たちが、朝鮮たちが抱えている近代化に対
 する集団的被害妄想感覚、その収奪感覚、その意識を1960
 年代の歴史学者たちは、全国の農地の40%が収奪された
 と嘘の包装をして教科書に載せたのです。
  鉄杭騒動が起こった時、この背景の画面は、鉄杭を撤
 去するため祭官の服装をした人たちが、祭礼を行なって
 いる場面ですが、きょう私の批判の対象となった慎ヨン
 厦教授は、次の様な論文を書きました。
  「日帝は、当時、韓人たちの多数が風水地理を信頼し
 山川の精気を重視するという事実に注目し、名山の血脈
 にこれを遮断し息の根を止めようと鉄杭を打った。
  勿論、日帝自身は、風水地理説を信仰していなかった
 が、韓国人がこれを信じたため韓国人の挫折感を植え付
 けるためこの様な政策を取ったのだ」・・
  皆さま、これが話しになるでしょうか?
  しかし、この様な「話にならない話」を、韓国を代表
 する、社会学界を代表する慎ヨン厦教授がしているので
 す。
  皆さまは、なぜ私が慎ヨン厦教授が代表している、日
 帝の土地収奪説を反日種族主義の象徴として批判してい
 るのかお分かりのことと思います。
  全国の土地の40%を収奪したという教科書の叙述は、
 全国所々の軍部隊、または、村が自身が必要なため打っ
 た鉄杭を、日帝が朝鮮の精気を抹殺するために打ったも
 のだと言って、1990年代の政府にまで出ていって、撤去
 騒動を起こしたその野蛮精神世界を忠実に複製反映して
 いるためです。
  視聴者の皆さま、あまり寂しく考えないでください。
  わずか50年前、20年前の出来事です。
  この様な歴史騒動や歴史叙述は、20世紀末まで韓国の
 精神文化が、依然として野蛮の最悪レベルに置かれてい
 ることを間違いなく証明しています。
  今日の講義はこれでおわります。
  ありがとうございました。
             以上(1:52:33まで)
  (評)
  しっかり測量のための三角点を打つことは大切な行動・・
  日本が、土地調査事業をしたのは、韓国・朝鮮に鉄道
 を引くのも、また、橋を作るのも、何でも、土地の状況
 がはっきり分からなければできないからであって・・
  土地調査が一番大切なやるべきことで・・
  そして、一番の基礎のデーター資料を作るために行な
 ったのであって、
  それを悪く言うのは、韓国の被害妄想意識で、韓国は、
 この点を改めなくてはならない。
  そして、日本は、その様な基本的な事から地道に始め
 て、韓国・朝鮮の国づくりを一生懸命に誠実にやった・・
  日本に感謝し、御礼を言わなければならない。
  そうであるのに、韓国政府は、なんだかんだと日本を
 嘘ででっち上げて、貶(おとし)めて来た・・
  これに対して、韓国政府の言い分があるならはっきり
 言いなさい、そして、書きなさい・・ただただ感情的に
 言っているだけであり・・それは駄目。
  そして、日本は、韓国のそれが間違っていたら、しっ
 かり説明をし、この際、徹底的にしっかり謝罪させなけ
 ればならない。
  韓国は、都合が悪くなると黙って何も言わない・・
  再び、この様なデッチアゲが起きないように、しっか
 り謝罪までさせなければならない。
  何年間もくだくだしていたのは、しっかり謝罪をさせ
 なかったからで、これを要求しなければならない。
  例えば、韓国人は以下の様なことを言う・・
  ある韓国の人が答えた「韓国は、中国の属国だという
 根性があり、そう思っていたから、中国には言えないし
 怒れない」・・と・・
  これの裏を返せば、「デッチアゲでも何でも日本に対
 しては言う」・・ということ。
.
2019年、中国が、インターネット上の「価値創造の世界」
 に乗り出した。
  仮想通貨方式というか、MMT方式というか、中国方
 式というか、実体のない作られた価値、その様なものが
 社会に通用している。
  実体のないものの価値を疑わないので、その様なもの
 が世界に通用しているのである。
  疑う余地がないと見るか、疑う気がないのか、疑う能
 力がないのか・・何しろ、今、世界にその様なものが通
 用し流通している。
  その価値はどこで作られているのか?
  明日から「ただの紙くずになるかも知れないもの」が
 通用し流通している。
  中国は、インターネット上の価値創造の世界に乗り出
 した。
  中国が1万元とポチッと押せば「1万元の価値が生み出
 される世界である」。
  今までは1万元札を刷っていたが、その手間もなくなっ
 た。
  中国は無限の価値創造の世界へ入った。
  軍拡投資も「し放題である」。
  北朝鮮への支援も「し放題である」。
  韓国も中国へ靡(なび)く。
  中国はアメリカと拮抗(きっこう)して行く。
  そこに、アメリカに抑(おさ)え込まれた日本が居る。
  憲法改正して軍を持つのはまかりならんと言うアメリ
 カが居る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/