(増補版)696E2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1898年5月~1898年6月)

題:(増補版)696E2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1898年5月~1898年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
 ☆声を上げ続けることで社会は変えられる。
 ☆NHKは国を守る大事さを放送しない放送局。
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1898年5月、上田万年新村出(しんむらいずる)らが言語
 学会を創設した。
  宝力朝魯氏は論文で言う・・
  「標準語の確立と国定教科書の編纂に対して、国語調
 査委員会によって纏められた『口語法』と『口語法別記』
 の果たした役割が大きい。
  当時、国語調査委員会の主事を務めていた上田万年は、
 国語統一のために明治時代後期に精力的に活躍しただけ
 ではなく、大正時代が過ぎて、昭和時代に入っても相変
 わらず努力していた。
  明治後期以降の日本で標準語教育と共通語教育が行わ
 れていたが、その背景に上田万年の国語を統一するとい
 う国語教育思想が根強く働いていたと言える。
  一方、国語辞書は、国語研究の結晶であると共に、国
 語教育のための重要な武器である。
  それ故、上田万年は、国語の規範となる辞書の編集に
 も多大のエネルギーを費やして、膨大な量の辞書を発行
 させ、明治後期以降の国語統一と国語教育のために大き
 く貢献している」と。
  日本言語学会の設立の主旨:言語の科学的研究の進歩・
 発展に寄与することを目的とする。
  その目的を実現するために3つの事業を行う・・
  特に、機関誌そのほかの学術的図書の刊行・・機関誌
 『言語研究』の安定した刊行は、会員相互の研究交流促
 進のためだけでなく、会員の研究成果を広く全世界に届
 けるための学会の自前の手段として、きわめて重要な活
 動である・・
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1898年5月、東京商業会議所が、政府に鉄道国有に対する建
 議書を提出した。
  12月19日には、京都商業会議所も同問題に対し政府に
 建議書を提出した。
  この年は恐慌が起きている・・
  渋沢栄一は「財政整理をするべきだ」とし、また、「
 民間への外資の導入が必要」と従来から言っていた主張
 をさらに強く主張した・・
  そして、8月「半成の鉄道若しくは諸工業等有利なる新
 工事の完成を期するに足る額を標準として外資を輸入し、
 多少の活気を与ふるは時宜に適当なるものと信ず」と言
 った」。
  そして、不況対策として、民間から盛んに鉄道国有化
 が主張されるようになった・・民間への新たな資金供給
 が必要とされて、そのため、鉄道国有化が頻繁に議論さ
 れ、鉄道国有化運動が展開された。
  景気対策としての民間への資金供給から財界救済策と
 して私鉄買収が希求された。
  渋沢栄一東京商工会議所は、政府や議会への請願運
 動を起こした。
  軍事的な観点からも鉄道の国有推進化が進められて行
 く。
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1898年5月、ロシアが、中国・清へ貪欲な最終的利益獲得要
 求を行なった・・
  (1)旅順と大連の25年間の租借、
  (2)満州を横断する東清鉄道から旅順と大連までの
    南支線の敷設権。
  ロシアは、この要求を貫徹し、これによって満州を通
 過してその南の旅順まで南下ができる様になった。
  このことによって、ロシアは、渤海湾とその周辺の制
 海権を得て、軍事的行動ができるようになった。
  また、渤海湾に面する天津から北京に至る重要な経路、
 戦略的領域を押さえた。
  また、この頃、ロシアは、韓国の高宗が親露政策をと
 っていたことに乗じて、ロシアは、韓国へ軍人を派遣し
 た。
  また、軍事教官の派遣と国王警備の編成についてを韓
 国で進めた。
  また、ロシアのアレクセーエフは、韓国の財政顧問の
 要職の地位に就いた。
  そしてまた、彼は、関税長にも任命された。
  また、露韓銀行も開設された。
  完全に韓国はロシアに篭絡(ろうらく、巧みに言いく
 るめられ)され、ロシアの南下政策の領土獲得政策が日
 本の水際まで迫った・・今、中国によって北朝鮮、そし
 て、韓国の文政権が篭絡されている様なもの・・
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1898年5月、イギリスのアジアにおける政策が大転換した。
  その原因は、大胆な領土獲得行動をするロシアだった。
  この年、ロシアは、中国・清をまったく馬鹿にした威
 圧的な条約を結んだ・・
  イギリスにとって一番気になったのは渤海湾、および、
 その周辺のロシアの制海権が確立したことだった。
  このことによってロシアは、完全に中国の首都・北京
 への海上要路が制圧できる様になった。
  それでなくても、ロシアは、武力的にまた威圧的に領
 土を奪い、十二分に陸上の要衝を抑え、戦略的優位を持
 つに至っていた・・陸上でも制圧していた・・
  ロシアの行動は、単に、経済的利益を得るという行動
 だけではなかった。
  この様なアジアのバランスを崩す侵略国家・ロシアの
 出鼻をくじいたのが日本だった。
  日本は、日露戦争で、この侵略国家ロシアの出鼻をく
 じいたのだった。
  また、日清戦争で中国・清は、日本との戦いに敗け、
 韓国を属国としていた冊封体制を止めさせられた。
  これは、単に、韓国を独立させたというだけの話だけ
 でなく、東アジア諸国にも影響を与えた。
  中国の冊封から逃れることができ、逃れさせた。
  その様になった中国へ、また、東アジア諸国へ、利権
 を求めてヨーロッパの列強諸国が寄り付いて来た。
  ただ、ロシアの領土的侵略的野心を持った行為は、単
 なる経済的利権を求める「今までの形」を変えて、侵略
 国家丸出しで、ロシアは『覇権を構築して来ていた』。
  今、中国は、南シナ海の戦略基地化の侵略的事例や、
 それ以上に、東南アジア諸国をも中国化し、その中国の
 覇権は世界に及んでいる・・この時のロシアの様な行為
 をしている。
  この時の卑劣な条約によるロシアの進出に、イギリス
 は、方針を大転換した。
  ロシアの圧倒的な戦略的優位の確立という事態を黙過
 できないとした。
  1898年5月、イギリスは、ロシアへの対抗措置として、
 渤海湾の反対側に、威海衛を軍港として中国・清から租
 借した。
  また、1898年6月、すでに手にしていた香港島の対岸(
 中国本土の側)の九竜半島を99年の租借をした。
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1898年、イギリスが、ロシアのえげつない行動を見ていて
 方針(政策)を転換した。
  ロシアは、利権や利益を、強力な武力を誇示しながら
 中国・清や李氏朝鮮・韓国に要求し、君臨して来た。
  しかし、世界には色々な勢力が居る・・ロシアの一人
 舞台ではなかった(1896年・東清鉄道敷設権、1898年・
 旅順・大連)
  1898年のイギリスの政策転換・・この様なロシアを見
 て政策転換した・・今の中国を見て政策転換をしたアメ
 リカの様・・
  1895年、日本が日清戦争に勝って、朝鮮・韓国を独立
 国だと中国・清に認めさせ、講和条約の条文にも書かせ
 て、中国に実行させたが・・
  これは朝鮮・韓国だけの問題だけではなく、東アジア
 の各国の中国の冊封体制が崩壊することにもつながった
 (東アジア各国の解放)・・
  東アジア世界は、中国・清の冊封体制から国民国家
 ステムへと移行することができ、その行動がなされて行
 った・・
  そして、列強各国は、意外に脆(もろ)くも敗れた「眠
 れる獅子と言われた中国・清」を見ていた・・そして、
 ロシアが、えげつない態度を見せた・・
  そのロシアは、ただ経済上の利益を得るだけではなく、
 鉱山採掘権・鉄道敷設権・港湾の租借、そして、他国へ
 利権を渡さないという均霑(きんてん)の約束など排他な
 利権を中国から得ていた。
  このロシアを憎々しく見て、敏感に反応したのがイギ
 リスだった。
  イギリスは、多くの利益・利権を得ていたが、ロシア
 の行為の刺激からイギリスは表だってロシアを牽制した・・
 自らも利益・利権獲得を目指した。
  また、すでに、陸上で十二分な戦略的優位さを得てい
 るロシアが、更なる行動に出て、渤海湾の一港を得て、
 中国の首都への海上要路を制圧し・・これには大変な危
 機感を持った・・イギリスは黙過できないとした。
  ロシアに『圧倒的な戦略的優位さが確立した事態』が
 現出したことに対し、イギリスも対清政策を見直した。
  ロシアの渤海湾の勢力範囲の排他性を減ずる方向へ動
 いた。
  1898年、イギリスは、ロシアの租借した旅順・大連の
 反対側の山東半島の威海衛を租借し、イギリス東洋艦隊
 の基地とした。
  また、イギリスは、1898年1月、ビルマから長江に至る
 鉄道の敷設権・長江流域の他国への不割譲などの利権を
 得た。
  ドイツも一緒になって、欲を出して、1898年3月、膠州
 湾・青島の租借、膠済鉄道敷設権・その沿線の鉱山採掘
 権を得た。
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  (今日の言葉)
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  題:1898年頃のロシアの横暴が、2020年頃の中国の行動の如くにある・・
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紀元1世紀~2世紀、キリスト教の聖書には、旧約聖書と新
 約聖書があり、キリスト教徒はこれを正典としている。
  そのキリスト教旧約聖書は、紀元前4世紀までに、ユ
 ダヤ教徒によって書かれ、ヘブライ語およびアラム語
 文書群である・・
  また、キリスト教新約聖書は、紀元1世紀から2世紀
 にかけて、キリスト教徒たちによって書かれた。
  キリスト教聖書の新約聖書には、「(地に落ちた)一
 粒の麦は・・一粒のままだ」と説くところがある・・、
  この様に「落ちた一粒の麦は、いつまでも一粒だ」と
 説いている様に・・雨に恵まれる地の人間には、理解で
 きないことを説く・・
  天なる神の雨の恵みを、「今か今かと待つ」・・この
 様な天候の地の宗教なのである・・
  ほとんどが降雨に恵まれないという・・降雨の期待が
 裏切られる地・・乾燥の地・・降雨のない砂漠の地の教
 えは、その様になってしまっている。
  雨に恵まれている地は、公平に、そして差別なく、降
 りそそぐ雨の恵み・・その雨の恵みに感謝する・・
  その公平なる恵みの雨が・・降り注(そそ)がれる地
 には、また、公平に、その恵みの讃歌がある・・
  一斉に、あちこちが芽吹く・・その公平なあちこちの
 芽生えが、命の誕生が、見られる・・
  民は、あちこちのその芽生えに、その公平なる恵みに
 感謝する・・そこに、あちこちにいずる佛の満ち溢れる
 姿を見て、そして、その恵みに感謝する。
  一方、砂漠の落ちた一粒の麦は、その一粒のままにあ
 るが、一年を経ると・・、
  その未発芽のその種子は・・、
  厳しい環境の砂漠の地での・・その一年の経過の後に、
  発芽のチャンスを失した種子は、死滅する・・一年で・・、
  砂漠の地とは・・その様に厳しい所・・、
  聖書に記された様な、「いつまでも」という状態では
 ない・・この様な環境の下で作られたキリスト教聖書・・
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17世紀、イギリスの奴隷貿易で大きな利益を得た奴隷貿易
 商人のエドワード・コルストン・・
  この商人の銅像が、イギリス西部の港湾都市ブリスト
 ルにあるが・・
  2020年6月7日に、人種差別撤廃運動のデモ隊に引き倒
 され、海に投げ捨てられた。
  このイギリス商人は、白人で、8万人の黒人の方々をア
 フリカからアメリカへ奴隷として送り込んだ。
  また、2020年6月中旬、イギリスのロンドン博物館前に
 設置されていた像も、この周辺を管理する団体によって
 撤去された。
  この像は、18世紀、ジャマイカで500人以上の奴隷を使
 って砂糖のプランテーションを経営していた商人ロバー
 ト・ミリガンの像で・・博物館側もこの像が白人を中心
 とする制度の一部と判断していた。
  まだまだイギリスにはこの類いの話しはある。
  移民の流入によって、イギリスも、その社会性や考え
 方も大きく変化している・・
  ただ移民が入って来ただけではない・・日本もこの点
 をこころしていなければならない・・
  「議会制民主主義の父」と言われるイギリスの政治家
 グラッドストンの父親は、西インドで多くの黒人奴隷を
 使って大農場を経営していた・・この点が指摘された・・
  そしてまた、オックスフォード大学のオリオルカレッ
 ジにあるセシル・ローズ卿の像も撤去が決まった。
  ローズ卿は、南アフリカアバルトヘイトなど、人種
 差別主義の象徴となった。
  ローズ卿は、南アフリカのダイヤモンド鉱山で巨万の
 富を築いた経歴がある・・
  イギリス社会が変革するというより破壊されている・・
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19世紀半ば以降、ロシア帝国は極東、特に、中国・清への
 圧力を強めていった。
  1858年4月、愛琿条約(あいぐん)を締結してロシアは
   黒竜江左岸地域を獲得し・・
  1860年には、北京条約を締結して沿海州を獲得した。
   (参考)愛琿条約:太平天国の乱やアロー戦争で清朝
     が苦しんでいるのに乗じ、東シベリア総督 N.N.
     ムラビヨフが、黒竜江将軍奕山 (えきさん) に
     迫って結んだもので、アムール川左岸をロシア
     領として割譲させ、ウスリー江以東の沿海の地
     をロシアと清の共同管理と決めた。
      次いで、1860年の北京条約で沿海の地もロシ
     ア領となり、アムール川流域からロシア人を締
     出したネルチンスク条約の効果はまったく失わ
     れた。
   (参考)北京条約:アロー戦争の終結のため、清朝
     イギリス、フランス、ロシアとの間で結ばれた。
      この条約でロシアは、清朝とイギリス、フラ
     ンス間の講和を斡旋しただけなのにその代償と
     して、ロシア公使N.イグナチェフは、愛琿条約
     に追加、修正に加え、ウスリー川以東の沿海州
     を割譲させた。
      また、庫倫 (現ウラーンバートル) 、張家口
     での貿易を認めさせた。
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1855年11月11日、安政の大地震安政二年十月二日)
  安政の大地震が夜半に起きた。
  江戸直下地震(今で言う東京直下型地震)。
  広範囲で町屋が倒壊、多数の死者が出た。
  大名屋敷では、藩士が高張提灯を手に避難した。
  町屋は、火によって灰塵(かいじん)と帰す。
  焼け跡に銘々の敷地を示す木札が立つ。
  町内会は立派な仕事をした・・地震が発生したその日
 から被災した人々に握り飯を作って出した。
  また、名主に命じて人別帳を作って、当面の生計が立
 たない者に御救米の段取りをした。
  ひと月後には支給を始められた。
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1870年4月~5月、天津教案、
  天津で幼児が失踪する事件が相次いだ。
  6月に疫病が流行し、育嬰堂(孤児院)では30人~40人
 の子供たちが病死した。
  民衆の間では、育嬰堂のキリスト教修道女が幼児を殺
 害して薬の材料にしているとの噂が広まった。
  1870年6月20日、誘拐犯人の武蘭珍が逮捕され、キリス
 ト教会とキリスト教信者の王三なる者が共犯であると供
 述した。
  翌日、天津知県の劉傑は、武蘭珍を伴って育嬰堂を調
 査したが、王三なる人物は存在せず、武蘭珍の供述はで
 たらめであることが分かった。
  キリスト教神父に謝罪し三口通商大臣の崇厚が善後策
 の協議に入った。
  しかし、この時すでに数千の群衆がキリスト教会を取
 り囲み、口論となり、やがてレンガでの殴り合いとなっ
 た。
  フランスの駐天津領事のアンリ・フォンタニールは、
 崇厚に派兵して鎮圧するように要求したが、満足いく回
 答が得られなかった。
  フォンタニールは、教会前の路上で劉傑と口論になり、
 発砲して劉傑の従者を殺害した。
  民衆は、憤慨してフォンタニールと秘書を殺害した。
  さらに、10人の修道女、2名の神父、2名のフランス領
 事館員、2名のフランス人、3名のロシア人、30人以上の
 中国人信者を殺戮し、フランス領事館とフランスやイギ
 リスの教会を焼き討ちした。
  1870年6月24日、フランスを中心とした7ヶ国艦隊が天
 津に到着し、総理各国事務衙門に抗議した。
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1886年6月、雨宮製糸場のストライキ(日本最初)
  日本で記録に残っている最初のストライキは、1886年
 6月、甲府にあった雨宮製糸場の女工によるものだった。
  当時の様子を伝える山梨日日新聞の記事・・
  「同盟罷業」のふりがなに「すとらいき」と付されて
 いるので、明治19年には、既に、ストライキという言葉
 が使われていた。
  記事によれば、長時間労働自体よりも、時間管理につ
 いての不満であったとされている。
  この後、6月18日の記事で、「時間を緩め其他何か特典
 ありしため無事治まり」として「工女和解」との記事が
 掲載されてる。
  ストライキの開始を6月12日とする資料もあるが、6月
 12日は土曜日・・
  1876年(明治9年)3月12日に、官公庁は日曜日を休み
 とし、土曜日を午後からの半休とする太政官通達が出さ
 れた。
  雨宮製糸場がどうであったかは まだ調査中だが、もし
 同様であったとすると、記事にあるように「議会を開き」
 は12日であっても、ストライキは週明けの14日からなの
 かもしれない。
  16日には終結したようです。
  甲斐の国は江戸時代から養蚕が盛んで、女性が製糸に
 携わってきました。
  女性に一定の経済的基盤があったことを反映してか、
 江戸時代に甲斐は全国で四番目に 多く離縁状の残ってい
 る国でした。
  明治に入って、殖産興業のために、甲府に当時として
 は全国でも有数の規模である県営の製糸工場が設立され、
 製糸工場が相 次いで設立されました。
  その結果として、山梨県は明治期の生糸生産量が全国
 で4位から6位となっていました。
  その生産を支えていたのは、農村部 からの通いの工女
 でした。
  雨宮製糸場では朝4時半から夜7時半までの労働時間で
 あるなど、労働条件は劣悪なものでした。
  しかし、農村部での生産でも年季奉 公でもなかったた
 め、不満であれば別の工場に移るという抵抗手段があり
 ました。
  それを背景に、賃上げをもとめ求ることもあったよう
 です。
  そこで工場主たち は生糸組合を作り、働くことのでき
 る工場は一か所に限り、工女に「不都合」なことがあっ
 て解雇した場合には一年間どこの工 場でもやとわないこ
 と等をきめました。
  雨宮製糸場では、この取り決めを背景として、労働時
 間の延長、賃金の切り下げ、遅刻の罰金などを実施しま
 した。
  それ に対して怒った工女たち100名余が近くのお寺に
 立てこもったものです。
  工場主は、出勤時間の繰り下げなどの譲歩を行い、ス
 トライキは収まりました。
  しかし、同年に甲府の4か所の工場で、さらにその後も
 多く争議が起こりました。
  (参考:米田佐代子『近代日本女性史・上』(新日本
 新書)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://stff2010.blog29.fc2.com/
または
  https://32983602.at.webry.info/
または
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