(増補版)716E2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1899年2月~1899年3月)

題:(増補版)716E2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1899年2月~1899年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
...(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか?)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なものにする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆様の、そして、
  人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切なこと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆大きな解決を図(はか)ろうとすればするほど、原理原則に立ち戻らなけ
  ればならない。
 ☆正しい事実の認識があってこそ寛容が生まれ、捏造される認識の元では寛
  容は生まれない。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・だからこそ、正し
  いことを言って正しい関係を作らなければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはならない・・正しいこと
  を教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解することにつとめなければ
  ならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならない・・民の選択を受
  けない独裁の指導者たち・・民主化が達成できない独裁国=中国・・
 ☆力による現状変更をしている中国の九段線否定の国連決議をするべき・・
  また、国民の信託を受けていない政権は正式な政権ではない・・
  (参考)信託:しんたく、信用して任せること。「国民の信託による政治」
 ☆中国の利することばかりする公明党を与党の座から降ろそう・・与党席を
  剥奪し、止めさせよう・・この度も国土交通省の大臣職を欲しがって、そ
  の大臣の席に座り、今までの様に中国に利することをする予定・・「証拠
  がない」と言って中国を庇(かば)ったなど中国に利することばかりして
  いる・・
 ☆NHKは国や民を守る大事さを放送しない放送局・・
  国民の命や暮らしを護る大切さを放送せよ・・
  愛する人たちを守る話を放送しない親中放送局=NHK
  ハワイまでの第3列島線の中華圏を主張する中国になびくNHK・・
 ☆第二次世界大戦アメリカが始めた戦争
   日本の連合艦隊が到着する前に、日本の潜水艦をアメリカが攻撃したこ
  とから始まった(潜水艦は足が遅いので先に出発してハワイに来ていた、
  その日本の潜水艦をアメリカは攻撃した・・これが開戦・・アメリカが先
  に手を出していた・・NHKはこの事実を隠す。
 ☆1264年、モンゴルの元に襲われてアイヌが日本に逃げて来た・・『北の元
  寇』と言われる元に追われたアイヌの日本への逃亡移住・・当然、日本の
  先住民ではない・・しかし、アイヌを先住民と書く法律が日本にはある、
  当然、正しい法律にしなければならない・・
   また、当然、これ以前のアイヌの遺跡は無い。あるのは縄文遺跡だけ・・
  その縄文遺跡が、北海道で壊されている・・ウポポイのアイヌ記念館の下
  にも縄文遺跡があり埋められて見られない状態にされている・・
 ☆国連が独裁者になろうとしている・・国連がある指針と称するものを与え
  て国際的な絶対的指針としているが、普遍的なものではない・・また、国
  連はロビー活動に弱い、その少数者の意見を国際的な意見としている・・
 ☆世界の若者たちよ!、世界や国連の不正に対してインターネットなどで正
  義の声を上げよう!
 ☆声を上げ続けることで社会は変えられる。
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1899年3月7日、紀和地震紀伊半島南東部
  マグニチュード:M7
  震源地:0 34.1°N、136.1°E
  奈良県吉野郡・三重県南牟婁郡で被害が大きく、木ノ本・尾鷲で死者7人、
 全壊35戸、山崩れ無数。
  大阪府奈良県では煉瓦煙突の破損が多かった。
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1899年3月9日、日本で商法が公布された。
  旧商法は全3編の1,064条であったが、御雇外国人 のヘルマン・ロエス
 ルの草案をもとにして、1890年4月、明治 23年法律32号として公布され、1891
 年の翌年1月1日に施行と定めらた。
  公布の後、日本の実情に合わないなど国内に批判が起り、民法とともに、
 施行が延期された (→民法典論争となる) 。
  その後、一部が修正施行されたが、1899年、商法 (いわゆる明治商法) 施
 行と同時に、破産法を除く全規定が廃止された。 
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1899年3月10日、岩越鉄道中山宿駅~山潟駅(現:上戸駅)間が開通した。
  岩越鉄道(現在のJR磐越西線)は、郡山駅福島県)から新津駅(新潟
 県)を結ぶ私設鉄道として計画された。
  1892年(明治25年)、福島県知事に就任した日下義雄(1851年~1924年
 は「地域発展のため鉄道は必要不可欠」との強い信念のもと、この路線開通
 のために奔走した・・東京の渋沢栄一のもとにもたびたび相談に訪れる。
  渋沢栄一は、日下に対し、「中央からの援助を待つばかりではなく、地元
 の資産家も資本投入をするべきだ」とアドバイスをする・・そして、自らも
 出資した・・そして、さらに、株主を募り、創立委員の一員となった。
  また、創業から1903年に退任するまで、取締役として同社の経営に関与し
 た。
  岩越鉄道は、その後、1906年鉄道国有法実施により官設鉄道岩越線に、
 1917年には磐越西線となり、後に、JR磐越西線へと継承された。
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1899年3月11日、鉄道敷設法第1期線の八代駅~鹿児島駅間の建設のため鉄道作
 業局鹿児島出張所が新設された。
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1899年3月14日、正岡子規根岸短歌会を創始した。
  正岡子規は、闘病生活の傍ら新聞「日本」や俳誌「ホトトギス」、歌誌「
 心の花」などで活動していた。
  俳句や短歌の改革を唱え、俳句の近代化に成功した。
  そして、1898年に「歌よみに与ふる書」を発表し、万葉への回帰と写生に
 よる短歌を提唱し、写実的な短歌の実践を試みた。
  根岸短歌会は、1899年3月14日に、東京の下谷区上根岸(現在の台東区内)
 の自宅・子規庵で正岡子規、岡麓、香取秀真、山本鹿洲、木村芳雨、黒井怒
 堂の6名で開かれた短歌会の歌会を源流とし、同郷の後輩である高浜虚子
 河東碧梧桐らにより結成された。
  新聞「日本」、雑誌「心の花」によって、写生説に基づき、万葉風の復活
 を唱えた。 
  伊藤左千夫長塚節らも参加した。
  子規の没後は、伊藤左千夫根岸短歌会歌人をまとめ・・
  1903年に機関誌「馬酔木(あしび)」(1908年終刊)が発行され・・
  根岸短歌会参加者に加え島木赤彦や斎藤茂吉らも参加し・・
  これが歌誌「阿羅々木」(後のアララギ)の「アララギ」派へと発展して
 いった。
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1899年3月16日、官設鉄道距離比例制による旅客運賃を廃止して、遠距離逓減制
 を採用した・・
  賃率50マイルまで1マイルにつき1銭5厘、50マイルをこえ100マイルまで1銭
 3厘、100マイルをこえ200マイルまで1銭1厘、 200マイルをこえ300マイルま
 で9厘、 300マイル以上は8厘とした。
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1899年3月20日北陸線富山駅高岡駅間が開通したことによって敦賀駅~富
 山駅間が全通した・・
  そして、米原駅富山駅間に1往復の直通列車を運転した。
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1899年3月22日、「鉄道貨物運送補則及賃金表」中一部改正(逓信省告示第97号、
 4月1日に施行した。
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1899年3月23日、国有林野法(法律第85号)を制定し、国有林特別経営事業が開
 始された。
  明治以降は官有林となり、1899年に国有林野法制定とともに国有林となっ
 た。
  国有林において、明治期、その組織体系が整理されていく中で、1899年(
 明治32年)に、国有林野の管理経営の基本法規である「国有林野法」、及び、
 国有林の整備事業を一般会計から切り離し、特別会計で行うための「森林資
 金特別会計法」が成立した。
  国有林は、明治初期に藩有林や社寺有林、地租改正により所有者が明らか
 にならなかった奥地の森林等が母体となって成立した。
  その結果、地域による偏りがあるが、民間等への売り払いや民有保安林の
 買い入れ等により、概ね、奥地脊梁山地や重要な水源地域に位置するなど、
 公益性の高い森林となっている。
  このように成立した国有林では、その後の管理経営の基礎となった。
  「国有林野特別経営事業」によって、全国統一的な森林経営の取組が始ま
 った。
  また、この事業を通じて、全国的な施業案の編成や、無立木地への大規模
 な造林、大量の伐採木を搬出するための森林鉄道の作設など、その後の国有
 林経営を支え、民有林の森林整備にも活用される様々な取組がこの時期に行
 われた。
  国有林は、1869年(明治2年)の版籍奉還により、それまで各藩が所有して
 いた藩有林が、1871年明治4年)の社寺上知(しゃじじょうち)により、社
 寺有林が明治政府に編入され成立した。
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1899年3月、中国の山東省で義和団が蜂起した。
  1899年末、毓賢は、アメリカやヨーロッパの列強の要求によって更迭され
 た。
  かわって袁世凱が赴任し、義和団を弾圧した。
  しかし、それは山東省外への義和団拡大をもたらす結果となった。 
  (参考)毓賢:いくけん、山東省の山東巡撫という役職の官僚、
  宗教的秘密結社である義和団が、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼす)」
 というスローガンを掲げて、山東省で蜂起した。
  義和団とは、義和拳という武術をマスターすれば『鉄砲も刀も怖くない』
 という信仰を持った人々の集団で、山東省に始まった暴動は、清国全体に広
 まった。
  外国勢力にうまい汁を吸われる民衆の鬱積(うっせき)した不満が下地に
 あった。
  特に、この外国の武力を後ろ盾にしたキリスト教勢力(傲慢な宣教師など)
 の行動は反感を買い、排外的な機運が高まった。
  トラブルの解決に「武力による威嚇」が用いられる事が多く、キリスト教
 会側に有利に妥協させられ、処理されることが多かった。
  そのため義和団は、キリスト教会を焼き、キリスト教徒を殺すという『反
 キリスト教運動』を行なった。
  民衆の間には、『外国人は、官僚より三等上』という認識が広がっていた。
  民衆は、外国人に、ぺこぺこと平身低頭せざるを得ない自国の官僚への失
 望感が拡大していた。
  そして、義和団は、破産させられた農民と結び付き、急速に発展して行っ
 た・・「義和団事変」「拳匪の乱」「ボクサー・レベリオン」ともいう・・
  1900年になると、反乱集団は、キリスト教徒を殺害し、キリスト教会、鉄
 道、電線など西洋伝来のものを破壊し、北京にまで至った。
  乱が、たちまちの内に全土に広がって、外国人にとって、さながら地獄図
 のような光景が眼前で繰り広げられた。
  また、この欧米列強の侵略は、中国支配層の中にも対立する集団を作り出
 した。
  この対立は、守旧派と洋務派という構図だった・・、
  守旧派は、従来からの支配者である西太后(せいたいこう)らの満州人貴
 族層が中心で、
  洋務派は、列強が懐柔して、力を伸ばした李鴻章らの漢人の大官僚たちで
 あった。
  守旧派の清国政府は、乱の鎮圧がしきれないのを知り、逆に利用し、彼ら
 を応援し、列強諸国や洋務派に対抗した。
  義和団の勢いが良いと見るや、清国政府の実権を握っていた西大后は、義
 和団の味方をして、清国軍を派遣し、北京の公使館や天津の租界を攻撃した。
  また、農村の自衛組織を義和団に組み込んだ。
  短期間に河北全省、満州、蒙古(もうこ)に拡大し、キリスト教会を襲い、
 鉄道、電信を壊し、石油ランプ、マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った。
  そして、清国は、北京に公使館を置く列強諸国に、1900年6月、宣戦布告を
 行なった。
  これによって、北京では、公使館のある区域が義和団に包囲され、そこに
 いた8ヶ国の人たちが皆殺しにされる危険が生じ、その危険が迫った。
  そこで、8ヶ国は団結して連合軍を作り、義和団の大軍に合同で立ち向か
 うことになった。
  8か国は、アメリカ、イギリス、フランス、日本、ドイツ、ロシア、イタ
 リア、オーストリア・・、
  総司令官には、ドイツ人のガスリーが就任した。
  約2ヵ月後、8ヵ国の連合軍は、首都北京及び紫禁城を制圧し、乱を鎮圧
 した。
  西太后と光緒帝(こうしょてい)は西安に逃れ、失脚した。
  守旧派に代わって実権を握った洋務派は、8か国連合軍に協力姿勢を取っ
 た・・そして、義和団の残部を虐殺した。
  日本は、たった25人の軍人しかいなかったが、柴五郎中佐が率いた軍は、
 規律正しい精悍な精鋭で、抜群の働きをした。
  他の国の兵士は怖がってなかなか戦わない状況でもあった。
  日本は、各国から地理的に最も近いという理由で、本国から応援部隊を出
 すよう要請されたが、野心があると思われるのを避けるため、なかなか応じ
 なかった。
  しかし、再三、イギリスなどから要請され、福島安正少将が、混成三個大
 隊を率いて天津に来た。
  そして、日本軍の活躍で、連合軍は天津を占領することができた。
  その後、連合軍は、日本軍を主力として北京に進軍、8月14日に、北京の公
 使館を包囲していた義和団と清国兵を駆逐し、公使館区域の外交官や居留民
 を救出することに成功した。
  その後、連合軍は、国ごとに分かれて北京を占領した。
  そして、ロシアは、義和団の乱支那から満州にまで及んだときに、増派
 して、ついに、ロシアは、全満州を占領してしまった。
  この乱につけ込んで、ロシアは満州をロシア領にしてしまった。
  しかし、清国は、満州をロシアから取り返そう、ロシアを追い払うという
 努力は一切しなかった。
  満州からロシアの勢力を追い払ったのは、その後の日露戦争に勝利する日
 本だった。
  (このロシアが占領した満州を、日本は日露戦争でロシアを駆逐し、満州
 の所有権の移譲を受けた。日本は満州を占領したのではない)
  もし、日本が日露戦争で勝利しなかったら・・、宣統帝・溥儀の家庭教師
 だったレジナルド・ジョンストン(イギリスの中国学者)が言うように・・、
  遼東半島のみならず、満州全土も、その名前までも、ロシアの一部となっ
 ていたことは「まったく疑う余地はない」。
  ちなみに、北京を占領した連合軍は、各所で略奪を開始し、美しく綺麗な
 事で有名だった頤和園(いわえん)も略奪と破壊の対象とした。
  しかし、この卑劣な行動に、日本軍だけは、略奪に参加しなかった・・こ
 の話は有名・・、
  当時の戦争では軍隊が市民から略奪、強姦するという行為は普通に行われ
 ていた・・この時も行なわれた・・
  当たり前の様に北京や上海でも列強各国による略奪が頻発していた。
  白人で一番まともなイギリス兵ですら、支那人から貴重品を取り上げ、か
 っぱらった。
  ロシアの占領地区では、ロシア兵が虐殺や放火、強姦をやり、日本の占領
 地区に逃げて来る支那人が大勢いた。
  北京から遠く離れた所でも、ロシアは大虐殺を行なっていた。
  しかし、日本軍だけは、その様な行為はしなかった。
  日本の占領地域だけは軍規厳正で、治安維持が特に優れていた。
  これを見たイギリスが、素晴らしい日本と同盟を結びたいと、この後に、
 日本に日英同盟を求めて来たくらいだった。
  日本には天皇陛下の兵隊という、「皇軍」という意識があって、卑劣な行
 為はしなかった。
  ここに至る経緯を見ると・・中国にキリスト教が伝来したのはかなり古か
 った・・しかし、多くの信者を獲得することができずに清朝の末に至ってい
 た。
  この様な状況に変化をもたらしたいとしたのが有色人種を見下す欧米・キ
 リスト教国の列強諸国だった。
  相次ぐ欧米列強との戦争・・そして、その後の不平等な条約の締結を強い
 られた中国だった。
  それまでのキリスト教の布教活動は、条約港に限り認められていたが・・
  しかし、相次ぐ戦争・・第二次アヘン戦争(アロー戦争)、この後に結ば
 れた天津条約・・この条約で、清朝の内陸へのキリスト教布教を強要し認め
 させる条項(内地布教権)が挿入された。
  そして、これ以後、多くの欧米人のキリスト教宣教師が中国内地へと入っ
 ていった・・キリスト教は次第に信者を増やして行く・・
  欧米人の宣教師たちは、宗教的な差別信念と、戦勝国に属しているという
 傲岸(こうがん、おごり高ぶること)さと、キリスト教の有色人種蔑視観か
 らの傲慢さが入り交じった姿勢で中国社会に臨み、中国のやり方を無視し、
 その慣行を無視することが多く、しばしば地域の官僚や郷紳(ごうしん、地
 方の有力者)と衝突した。
  そして、さらに、事態を複雑にしたのは、「ライス・クリスチャン(キリ
 スト教会の飯を食う者)」の存在だった。
  飢饉などによって、また天災によって、困窮したした中国民衆はキリスト
 教宣教師の活動に救いを見出し・・家族ぐるみ・村ぐるみで帰依しライス・
 クリスチャンとなった。
  また、当時、清朝の内部対立の結果、社会的弱者となった人々も庇護を求
 めて入信した・・軍事的後ろ盾を持つ傘の下に入った・・クリスチャンの勢
 力は拡大した。
  一例として、南方では、現地人と客家(はっか、漢民族の一種)がしばし
 ば対立し、土客械闘(とかくかいと、客家と本地人との対立)という争いが
 起きていた。
  地方官は客家を弾圧することが多く、救いを求めて客家が一斉にキリスト
 教に入信するようなことがあった。
  さらに、義和団の母胎となったと言われてきた白蓮教徒も、官憲の弾圧か
 ら逃れ、その一部がキリスト教に入信した。
  対立の構図は決して単純なものでは無かった。
  欧米人宣教師やその信者たちと、郷紳や一般民衆との確執・事件を仇教(
 きゅうきょう)事件という。
  (参考)仇教:19世紀後半~20世紀初め、中国の民衆の中に起こった反キ
     リスト教運動・・キリスト教の教えが儒教的な秩序を脅かすことか
     ら地方の郷紳の中には民衆を扇動して教会や宣教師を襲撃する事件
     を起こすことが多くなっていた。
  具体的な例は、信者と一般民衆との土地境界線争いにキリスト教宣教師が
 介入した・・また、キリスト教教会建設への反感からくる確執といった民事
 事件などから発展した。
  1860年代から事件が起き、1890年代になると主に長江流域で多発するよう
 になった。
  事件の発生で、欧米列強への反感を次第に募らせていった・・
  布教活動や宣教師のみならず、同じ中国人であるはずの信者も不平等条約
 によって強固に守られていた。
  この様な差別的状況を作っていた。
  時には欧米列強国の軍事力による威嚇が用いられた。
  そして、おおむね、事件は、キリスト教教会側に有利に妥結することが多
 かった。
  この様な日常茶飯的な常にある状況の中で、キリスト教勢力の采配に惑わ
 される地方官の裁定に不満な民衆たちは、キリスト教教会や神父たちを襲っ
 た・・また、信者を襲い、暴力的に解決しようとすることが多くなった。
  太平天国平定の功労者であった曽国藩ですら、もし、欧米人の方に非があ
 ったとしても、公文書に記載して事を大きくしてはならないと述べた。
  この様な状況から中国民衆の間に、欧米人は官僚より三等上だという認識
 が普通となり広がっていた。
  こうした対立に、キリスト教との確執に迷信・風説の流布が拍車をかけた。
  当時、キリスト教宣教師たちは道路に溢れていた孤児たちを保護し、孤児
 院に入院させていたが、それは子供の肝臓を摘出し、薬の材料にするためだ
 とした。
  事件の頻発は、一般民衆の中に、欧米及びキリスト教への反感を醸成し、
 欧米人に平身低頭せざるを得ない官僚・郷紳への失望感を拡大させた。
  乱の主体となった義和団山東省で発生した。
  19世紀末、山東省ではドイツの進出が目立つようになり、それに伴い事件
 が頻発するようになった。
  ドイツは、山東省を国家権益の観点のみならず、孔子の生地である曲阜を
 キリスト教布教の観点からも特に敵対的に重視した。
  ドイツは、山東省における熱烈な布教活動を行ない、その反動として民衆
 の排外的な感情を呼び起こさせ、時を追うごとに高まっていった。
  義和団は、 太平天国における拝上帝会のようにその起源を単一のものに特
 定できない、そのため白蓮教的な拳法(けんぽう)に由来するという説と、
 団練という地方官公認の自警団に求める説とがある。
  (参考)拝上帝会:中国の民間宗教組織で、洪秀全をリーダーとし、太平
     天国の前身となった。 
  (参考)団練:だんれん、 中国の郷村の住民による武装自警組織。
  山東には、元々、大刀会という武術組織もあった。
  この会は初め盗賊を捕まえて役所に突き出すなど、郷土防衛や治安維持を
 担った自警団的性格をもっていたが、やがてキリスト教信者と一般民衆との
 土地争いに介入した。
  1897年に、キリスト教側を襲撃し、教会の破壊や神父の殺害を決行した(
 曹州教案)。
  こうした動きに対してのドイツの抗議をうけた清朝が弾圧し、一旦鳴りを
 潜めるようになる。
  しかし、1899年になると山東省の西北方面に勢力を拡大し、神拳という一
 派と融合していった。
.
  (今日の言葉)
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  題:紀元前5万年~紀元前3万年、日本に来たアフリカを出発した我々ホモ・
    サヒエンスは、日本の先住民となった。
     日本民族はこんなに古い歴史を持っている民族・・アメリカインデ
    ィアンなどと同じモンゴロイドなのだ・・先住民なのだ・・
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紀元前5万年~紀元前3万年、日本に来たアフリカを出発した我々ホモ・サヒエ
 ンスは、日本の先住民となった。
  長い期間、万年という単位の時間の流れの中で日本の先住民となった人々
 は沖縄から九州、四国、本州、北海道、北方領土などその長い長い期間を歩
 き回り、そして、交雑し、日本人を形成した・・また、後から日本に来た渡
 来人の人々とも交雑した。
  その交雑は続いた・・万年という長い長い単位の時の中で移動と交雑が続
 き日本人は形成された・・
  南の沖縄なとの島づたいに日本列島に来る人々、朝鮮半島から来る人々、
 伊豆諸島の南方の島づたいに来る人々、樺太から千島列島の島づたいに来る
 人々などと先住民は交雑を繰り返した。
  そして、紀元前0年をむかえた。
  この紀元0年から約1270年が過ぎた頃、日本への元寇の約10年前、「北の
 元寇」と言われる事件があった。
  元(げん)がアムール川樺太に居たアイヌの人々を襲った。
  アイヌの人々は千島列島に逃れ、そして、北方領土や北海道に逃げて来た。
  アイヌはその事件以来の人々である・・約700年前からの日本の領土の住民
 である・・700年前からの日本に住む人々となった。
  しかし、今、このアイヌの人々を「先住民」とする日本の法律がある。
  何万年も前に日本の先住民は形成されていて、アイヌは先住民と言えない
 のに、先住民だと間違って記述した法律が日本にはある。
  北海道にも縄文人の日本の先住民の人々の遺跡が多くある・・それなのに
 それ以降の最近に、日本の北海道に来たアイヌを先住民だとした・・
  間違いである。
  この法律は訂正しなければならない。
  また、先住民でもないアイヌが、先住民としての権利を主張して利益を受
 けているのは違法行為だ。
     ・
     ・
紀元前14000年〜紀元前500年、縄文時代・・1万年以上も続いた偉大な時代・・
  立派な時代だった・・立派な文明が栄えていた・・
  縄文時代三内丸山遺跡(青森県)では、直径1メートルの大木(たいぼく)
 を使った建築物がある・・
  そして、ここには、常時、600人が住んで居て、定住生活を営んでいた・・
  この建築物には、大木を6本も使っていた。
  この様な大木をどの様な道具で伐り倒していたのだろうか?
  この疑問に挑戦した東大教授が居る・・
  また、この教授は、石器しか持たない人たちが、どの様に海を渡ったのだ
 ろうかの疑問にも挑戦した。
  先生は、当時の石器の道具を使って色々な舟を作って海を渡ることに挑戦
 した。
  石包丁で草を刈って、草の舟を作り上げ、実際に台湾を出港して海を渡る
 実験をした・・しかし、この草の船は失敗した。
  次に、石の道具で竹を伐り、竹の舟を作って実験をした・・しかし、これ
 も失敗した。
  今までの草や竹の舟は、水との抵抗が大きい舟だった・・そのため推進力
 が得られなかった・・その為、黒潮を渡ることが出来なかった・・
  そこで、石斧で大木を伐って丸木舟の抵抗の少ない舟を造ろうと挑戦した・・
  果たして丸木舟を作れるような太い大きな大木を石の斧で伐れるのか?
  試してみると、大木を石斧で伐り倒すことができた・・6日間を要した。
  そして、また、石の道具で木をくり抜き、くり舟を作ることもできた・・
 そして、海を渡った・・実験は成功した。
  黒潮の流れを乗りきり、台湾から沖縄県の與邦国島まで渡ることができた。
  アフリカを出発したホモ・サピエンスが、日本に来たのは5万年前~3万年
 前だった・・そして、その長い長い無土器時代を経て・・
  そして、紀元前14000年〜紀元前500年の縄文時代・・
  紀元前12000年には、『世界最古の土器』が日本の縄文時代に作られている、
 つまり、世界最初に日本人の先祖の先住民によって土器が発明されている。
  日本の縄文時代は高度な技術を持つ文明社会だった。
  栗や椎ノ木を栽培する林(畑)も持っていた。
  狩猟・採集だけの移動生活だけではなかった。
  そして、定住もしていた・・狩猟・採集のための移動の生活ではない定住
 して村を作りコミュニティを作っていた。
  色々な情報を交換する社会を形成していた。
  紀元前3300年〜紀元前2800年に作られた火焔土器のデザインからも分かる
 様に高度な精神世界も存在した。
  縄文時代火焔土器を見ればその芸術性は高く、制作技巧も優れている・・
 知的で高度である・・
  そして、この様な大木の伐採の痕跡は出雲大社でも発掘されて発見された。
  大木で作った高層建築物の基礎が発掘された。
     ・
     ・
4世紀〜6世紀半ば、ゲルマン民族の大移動
  大きな大勢の人たちの大移動・・
  ゲルマン民族は、インド=ヨーロッパ語族に属する民族。
  ローマ帝国時代にはドイツ北部、デンマークスカンジナビア南部あたり
 に居住していたが、遊牧騎馬民族であるフン族の西進によって4世紀〜6世
 紀半ばまで大規模な移動をした。
  移動した後は、ローマ帝国領内の各地で建国し、フランク人、バンダル人、
 東ゴート人、西ゴート人、ランゴバルド人など新しい部族を形成した。
  故に、この頃から国をなす民族が大きな変化を起こした。
  例えば、フランスは、9世紀頃にできたが、それまでのフランク王国は、
 まだまだゲルマン民族が大移動していた時代にできた。
  その前のローマ時代は古代ローマ人の時代で民族が違う。
  また、ギリシャギリシャ文明の時の民族と、今の民族は違う。
  今は、トルコ系の人、または、周辺の人たちの混血。
     ・
     ・
1860年頃、フランス画壇は日本ブームだった、ジャポニズムの嵐が吹き荒れて
 いた・・有名な画家たちが日本の画家の真似をしていた。
  葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「東海道保土ヶ谷」を真似たポール・セザ
 ンヌの「ジャ・ドゥ・ブファンのマロニエ並木」(「サン・ビクトワール山の
 連作」より)がまったく良く似ている。
  前面に樹々が並び、背後に山を望む構図になっている。
  また、北斎の「富嶽三十六景」を真似る様に「サン・ビクトワール山の連
 作」も36枚となっている。
  ゴッホは、自分が描いた絵の中に日本の画家の絵が描き込んでいるぐらい
 だった。
  モネも日本の浮世絵の影響を受けている。
  この頃のフランスは絶対王政を倒し、王家をギロチンにかけ、キリスト教
 を否定し、多くのキリスト教教会堂を破壊した。
  精神的拠りどころのキリスト教を否定し、そして、破壊した。
.
1880年代、ニーチェは「神は死んだ」とキリスト教を否定した・・
  また、この頃、キリスト教教会の多くが破壊された・・
  ヨーロッパ文明世界は乱れた。
  18世紀末からこの様な模索が続いていた。
  今まではキリスト教の権威に民は抑え込まれていた・・
  今までのキリスト教世界の間違いに気付き始めた。
  「新古典主義」は、キリスト教以前のギリシャやローマ時代に戻りたいと
 した・・そして、回帰しようとした。
  また、「ロマンチシズム」では、異文化へ答えを求め、模索し、探求した。
  「オリエンタルリズム」もこの流れの中にあった。
  社会主義が生まれ、それに平行する様に写実主義の絵画が描かれた。
  しかし、どれもが解決策を与えることはできなかった。
  ここに浮世絵が知られ、そして、登場した。
  ヨーロッパは、その浮世絵に人々が生き生きと描かれていることに感動し
 た。
  また、自然がありのままに描かれていることに感動した。
  また、連作を描くという発想も教えられた(ヨーロッパにはなかった)
  この頃の西洋社会は、宗教に媚(こ)びるところがなくなっていた・・
  (金持ちのキリスト教は権威を欲し、持っていた・・それで民を抑えた)
  民は「自立した表現」を取り戻した。
  そして、その深い日本の精神性に驚嘆した。
  そこには、宗教や国家にとらわれない自由な精神世界が表れていた。
  だからこそ、セザンヌは、必死に北斎を模倣した。
  1899年に描かれたクロード・モネの「白い睡蓮」は、日本の歌川広重の「
 亀戸天神境内」をモチーフにした。
  モネは、この浮世絵を見た時、非常に強い衝撃を受けた。
  モネは、自宅の庭に、この歌川広重の浮世絵に似せて池を作り、太鼓橋を
 架けた。
  この様に輝かしい日本の文明であるのだが、自分の素晴らしさに気付かな
 い日本は、明治維新に、何でも西洋讚美となった・・
  キリスト教の何たるかのすべてを知らぬ状態で、キリスト教を聞き、それ
 だけで受け入れ、キリスト教宣教師の偏った讚美されたキリスト教像を持っ
 て、キリスト教をより知りたいとアメリカへ渡った・・
  渡ったアメリカは、黒人の方々を奴隷として家畜の様に使うアメリカ社会
 だった・・残酷な人種差別のキリスト教アメリカ社会を見た。
  また、有色人種蔑視のキリスト教の実態を知る・・そして、自身もその差
 別を受け、キリスト教観が崩れ、そして、変わる・・
  脆(もろ)くも崩れたキリスト教観を持って、出て行く時と変わって日本
 に帰って来る・・そして、説を変え・・そして、キリスト教教会を捨てた者
 も居る。
  何でも西洋近代を模倣するという日本から一枚皮が剥(む)けた日本となっ
 て行く。
.
1907年、日露戦争講和条約(ポーツマス条約)で、日本が、ロシアから賠償金
 の代わりに満州を得る・・
  満州は、今、『中国東北部』と名付けられている、そして、この地域を中
 国の領土だとしている。
  しかし、この地域の満州は、万里の長城の北側である如く、「中国の領土
 ではない」・・襲来する他民族国家の襲来を避けようという万里の長城の外
 である・・
  中国が万里の長城を築いて、万里の長城の北側には中国の民以外の民が居
 て、中国にその民が攻め来て困るからと、その民が攻めてて来ない様にと、
 万里の長城は築かれた。
  この万里の長城が、万里の長城の外は中国の領土ではないと証明している。
  この満州には満州人(女真族)の方々が居た。
  その地をロシアが南下して来て占領した。
  そして、1907年、日露戦争講和条約(ポーツマス条約)で、日本がロシア
 から賠償金の代わりに得た。
  日本は、武力で占領して得たのではない。
  中国は、日中戦争で日本が武力で奪った様にプロパガンダ(嘘宣伝)し、
 言うが間違いだ・・中国のプロパガンダ(嘘宣伝)だ。
  台湾だって日本が武力で奪ったものではない。
  日清戦争で日本が勝ち、中国・清国から割譲されたのだ。
  旅順も大連も25年間の租借権を条約を取り交わして得たもので、何一つ
 日本は中国の領土を奪っていない。
  中国の清国が倒れた後、中国はその様な正当な筋を無視する様になる・・
  中国にナショナリズムが勃興したと言えば美しく聞こえるが、筋は通って
 いない。
  西欧、その後、欧米の列強諸国が、中国と同じ有色人種の日本が、白人の
 列強諸国と同じ事をすることに干渉して何だかんだと関係して来る。
  第一次世界大戦の勝利国になっていた日本は、1921年ワシントン会議
 出て、欧米列強諸国と会談し、満州の権利をこの時も確定している。
  中国も参加するこの会議で確定し『99年間の租借期間延長』が確認され確
 定している。
  しかし、1925年7月に、中国に新しい政権(孫文の系列)が確立した。
  放逐されていた国民政府(汪兆銘蒋介石)が樹立された。
  日本に敗北したロシアは、その後、ソ連となり、共産主義をとり、世界革
 命を画策するコミンテルンやそれを繰るソ連政府と中国は連絡し、そして、
 関係していた。
  その結果、1924年ソ連共産党に似せて国民党を解体し、中国共産党も入
 る第一次国共合作となる。
  ソ連共産党員も入る怪しげな政権を蒋介石を中心にして作った。
  毛沢東周恩来劉少奇、鄧小平らも居た。
  国民政府は急速に力を増大させ、中国は混沌とし、筋を通す必要などない
 という中国の時代となって行った。
.
1912年、中国の孫文中華民国を建国した。
  首都を南京とした。
  すると、清朝の高官だった袁世凱が、この時を権力を奪う好機と思い、初
 代の大統領に就任した。
  その引き換えに革命軍に協力した。
  そして、清朝皇帝の搏儀を退位させ清朝は滅んだ。
  しかし、この様な独裁政権が支持される訳もなく、中国は乱れ、反対する
 勢力が第二、第三の革命を起こした。
  1928年、蒋介石が北伐して終焉させた。
.
1916年、中国の袁世凱が死去した・・軍閥の群雄割拠へ
  すると、部下の軍人たちが各自に派閥を作った。
  そして、権力の奪い合いが始まった。
  中国は大混乱となった。
  欧米列強はこの混乱を利用し、また、この軍閥を利用して中国への利権拡
 大に走った。
.
1917年12月6日、フィンランドがロシアから独立した・・
  ロシアから独立した後、新しい国づくりの一環としてデザインに力を入れ
 たフィンランドだった・・そこから現在のデザイン大国に発展する・・
  フィンランドは、近世にスウェーデンフィンランドとしてスウェーデン
 の1州だった時代や、ロシア帝国と同君連合のフィンランド大公国での自治
 代・・それらの時代を経て徐々に民族主義が高揚して、やがて、1917年12月
 6日、フィンランド独立宣言をして独立につながった。
  1901年、ロシアは、新しい徴兵法でフィンランド軍を変えようとした。
  この新しい徴兵法では、フィン人がフィンランドを守るだけではなく、全
 ての前線においてロシアのために戦うことを義務だとしていた。
  フィンランドの抵抗は大衆運動となり、兵士として適格なフィンランド
 のうち徴集に応じたのは半分だけだった。 
  フィンランドのロシア化が起きた第二期、そして、第一次世界大戦により、
 活動家で構成されたいくつかの組織が団結した。
  ヤーカリリーケ(「猟兵運動」)は、まず、志願兵200人を、次に1,900人
 をドイツに派遣して猟兵の訓練を受けさせ、武装抵抗を準備した。
.
1919年、中国の孫文は、北京の政府に対抗して国民党を立ち上げ、国民政府と
 名乗った。
  孫文が死ぬと四分五列し対立を繰り返し、首都も南京、広東、武漢重慶
 と転々とした。
.
1926年、中国の国民政府が急速に勢力を増大させ、蒋介石を総司令官にして北
 京政府打倒の北伐が開始された。
.
1928年、袁世凱が死ぬと、部下たちは、中国各地で軍閥を作った。
  張作霖は北京で組織を作り、中華民国軍政府を名乗っていた。
  蒋介石の北伐で打ちのめされる。
.
1928年、中国の蒋介石軍が北京を占領し、北伐は成功した。
  首都を南京に移動した。
  そして、北京を北平と改名した。
.
1931年、中華ソビエト共和国臨時政府が樹立された。
  国民政府が、のほほんとしている隙をついて樹立された・・、毛沢東が主
 席だと名乗った。
  しかし、1934年に撲滅される。
  以後、中国の奥地に隠れる。
  日本と戦う国民政府の衰退を望み・・待つ。
.
1933年、ドイツにナチス政権が誕生すると、ソ連(ソビエト連邦)はそのドイツ
 と日本に挟撃されることを恐れた。
  1935年に、コミンテルン第七回大会を開催し、各国の共産党階級闘争
 路線闘争を停止し、国民を巻き込んで反ファシズム統一戦線を構築して闘う
 ことを決議した・・ソ連の攻撃を防ぐ目的の路線だった。
  中国共産党もこの路線にそって「抗日救国のために全国同胞に告ぐ」を発
 表した。
  そして、統一された国防政府の樹立をしたいとした。
.
1930年代、癩病(らいびょう、ハンセン病)を無くすための無癩県運動が起き
 た・・しかし、差別の歴史の始まりとなった。
  無癩県運動(むらいけんうんどう)とは、1930年代から1960年代にかけて、
 県内からすべての癩病患者を療養所に隔離して強制収容させて、放浪患者や
 在宅患者を県内から一掃しようという目的で行われた日本の社会運動だった・・ 
  医師の光田健輔や各都道府県が主導した運動・・
  官民一体となって患者を摘発して、強制的に療養所へ送り込んだりした。
  また、一般市民によるハンセン病患者の監視制度ともなった。
  周囲に隠れて暮らしているハンセン病の患者の方を市民が発見した場合、
 警察などへ通報し、患者を強制収容するということも行なわれ・・これが奨
 励されるという運動だった。
  悲劇だったのは、 特効薬が出来たのにこの差別的な行為が行われた事だっ
 た。
  2001年5月11日に出た判決・・日本のハンセン病患者の人権侵害問題で画期
 的だった熊本地方裁判所判決
  この判決によれば、無癩県運動は「今日にまで続くハンセン病患者に対す
 る差別・偏見の原点があるといっても過言ではない」とした。 
  (参考)ハンセン病は、以前から自然治癒もあったが、治療薬の無い時代
     は発病すれば治癒することが難しい病気だった・・
      だが、 1943年、アメリカのカービル療養所(ハンセン病療養所)
     で「プロミン」の治療効果が報告され、ハンセン病の治療ができる
     様になった・・これは「カービルの奇跡」と呼ばれた・・
      また、さらに、「不治の病だ」として恐れられていたハンセン病
     が、「確実に治る病気」となったのは、1980年代からだった。
      3種類の薬を組み合わせて服用するMDT(多剤併用療法)が確
     立し画期的な治療法となった・・
      さらに、治療効果の研究が進んだ1990年代後半以降、服用後、半
     年から1年で完治するようもなった。
      日本でもこの病気の治癒に貢献した東京帝国大学医学部教授だっ
     た石館守三博士が、独自にプロミンの合成に成功した・・
      1950年代になると、さらに、注射剤のプロミンを飲み薬にした「
     ダプソン」が開発され、多くの国で使われるようになった・・
      そして、この後、前記した様な決定的な治療薬であるMDTにつ
     ながって行った・・
      この薬について大量の資金を提供し、世界へ無償配布をしたのも
     日本だった・・
      世界からハンセン病が克服されて行った・・この経緯に大きく貢
     献したのが笹川記念保健協力財団・・お蔭様で、今・現在、ハンゼ
     ン病は克服されている・・このグループにノーベル賞が授与されて
     も良い功績だった・・
.
1937年〜1938年、ソ連スターリンは独裁者だった、そして、大粛清を行った。
  70万人以上の人たちが銃殺された。
  この事実であり、史実である真実を、ロシアは消そうとしている。
  この時のソ連は、現在ではロシアという国なっているが、現在のそのロシ
 ア政権指導者のプーチンは、ロシア(かつてのソ連) の国の威信が落ちること
 を変えたいとしている・・歴史的真実を変えたいとしている。
  昨年の2021年12月の末、ロシアの裁判所に、この様な国威の落ちることを
 顕彰しているロシア国内の団体へ「閉鎖せよ」という命令判決を出させた。
  そして、「ソ連がテロ国家であるとの誤ったイメージを流布したからだ」
 と言わせた。
  そして、その歴史を顕彰している団体が、外国から活動資金の援助を受け
 ていることに対して「外国の代理人だ」というスパイとほぼ同義語の団体だ
 と指定して、その様な団体が受ける規制を課(か)した。
  そして、さらに、「その規制に従わなかった」と更なる弾圧をした。
  プーチンのロシアの現政権は、スターリン時代の暗黒の歴史をかき消そう
 としている。
  ロシアの現政権は、スターリンを美しく言った・・「ソ連は第二次世界大
 戦でヨーロッパをファシズムから解放した偉大な戦勝国だ」と・・
  そして、「スターリンの指導がソ連に戦勝と超大国の地位をもたらしたの
 だ」とプーチンは言った。
  そして、プーチンは、さらに、「欧米は、ロシアをおとしめるために歴史
 を書き換え、国を弱体化させようとしている」と言った。
  プーチン政権のロシアは、経済が長期に渡って停滞し、国民に何ら前向き
 な展望を示せなくなっている、そのため、「歴史の守護者だ」として、その
 様な主張して求心力を維持したいとしている。
  昨年の2021年7月には、法律まで作って国家安全保障戦略にまで盛り込んだ。
  かつてのソ連末期、ソ連ゴルバチョフ政権は、ペレストロイカ(再建)期
 にグラスノスチ(情報公開)でスターリン時代の闇が暴かれ、真実が語られた。
  今の現政権のプーチンは、その逆で・・2021年12月には、メモリアルの閉
 鎖命令を出した。
  現在、ロシアで歴史的真実を隠す卑劣な行為がなされ続けている。
.
1940年10月8日、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトは、この日、
 海軍大将ジェームズ・リチャードソンに対して「遅かれ早かれ、やつら(日
 本)は過ちを犯し、そしてわれわれは戦争に突入することになる」と言った。
.
1941年8月9日~12日、アメリカ大統領のルーズヴェルトは、ニューファウンド
 ランド沖の大西洋上の戦艦プリンス・オブ・ウェルズ号で、イギリス首相の
 チャーチルと会談を行った・・真珠湾での日米の戦いの4ヵ月前だった。
  真珠湾の戦いの時、足の遅い日本の潜水艦隊は連合艦隊の本隊より先にハ
 ワイへ向けて出港していた。
  そして、その日本の潜水艦隊はハワイに先に着き、本隊の連合艦隊のハワ
 イ到着を待っていた・・ハワイで待機をしていた。
  その日本の潜水艦隊がアメリカ海軍に発見され、攻撃された。
  アメリカ海軍は、この日本の潜水艦へ攻撃を始めた、日米の戦争が起きた・・
 この時が、日米の開戦である・・アメリカのこの攻撃により第二次世界大戦
 の日米の戦いが始まった・・アメリカの攻撃、先に手を出したアメリカの戦
 闘行為により始まった・・
  この日本の5隻の特殊潜航艇は、すべて、アメリカ海軍の攻撃によって撃
 沈された。
  1隻に2名の兵士が特殊潜航艇に乗っていたが、その5隻の10名の日本
 海軍の兵士の内、9名が戦死し、1名の兵士がアメリカ海軍によって救助さ
 れた・・この1名の日本海軍の兵士が第二次世界大戦アメリカの日本人捕
 虜の第一号となった。
  この捕虜第一号となった日本の特殊潜航艇は、アメリカ海軍の駆逐艦ヘル
 ムの攻撃を受けたことが分かっている・・また、別の日本の特殊潜航艇はア
 メリカ海軍の駆逐艦ウォードの攻撃を受けていることも分かっている・・こ
 の時も日本の特殊潜航艇は撃沈されている・・特殊潜航艇の爆発もあっただ
 ろうし、油も浮くだろう・・しかし、アメリカはクジラだったと公表した・・
  クジラと間違える言い訳は苦しい言い訳だ・・クジラに間違える訳はない・・
 この様なアメリカ軍艦による攻撃があちこちで行われていて、このアメリ
 軍艦の攻撃が日米の戦いをアメリカ軍から始めたという事実の中で、救助さ
 れた日本海軍の兵士もいた・・必死に隠そうとするアメリカがそこに居る・・
  日本軍の奇襲などという話はまったくの『アメリカのデッチ上げ』という
 こと・・ルーズベルト大統領の策略ということ・・
  アメリカはイギリスのチャーチルに頼まれ、ドイツのヒットラーに敗けそ
 うになっているイギリスを助けるため参戦を約束していた・・この時、ヒッ
 トラーとまともに戦っているのはイギリスぐらいだった・・
  参戦に反対のアメリカ国民の方々の世論を変えたいため、アメリカ大統領
 のルーズベルトは日本を貶(おとし)める手を卑怯にも使った。
  日本が奇襲をした様な状況を作り上げたかった。
  故に、日本軍がハワイに来る前にアメリカ海軍が日本の潜水艦へ攻撃して
 日米の戦争が始まった事実を隠したかった。
  アメリカ海軍が日本の潜水艦を攻撃したことは隠され、「あれはクジラだ
 った」とされた。
  クジラと間違えて攻撃したことが5回もあったのかと言いたい、また、ク
 ジラから日本の海軍兵士が出て来るという笑い話にもなる・・アメリカの嘘
 はぬぐいきれない、隠しきれない・・
  第二次世界大戦の戦争は、アメリカの攻撃により始められていた。
  この様な卑劣な嘘行為をアメリカが始めなければこの戦争で起きたすべて
 の悲劇は起き得なかった。
  1941年8月9日~12日、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャー
 チル首相が大西洋上の軍艦の上で会談したが、この時、この悪計が企(くわだ)
 てられた。
  この時、ドイツのヒットラーと戦っていたイギリスは敗勢にあった・・単
 独で戦うイギリス・・チャーチルのイギリスは非常に劣勢だった・・アメリ
 カに助けを求め、日本を悪者に仕立て上げたのだった。
  因みに、NHKスペシャル「真珠湾の謎、悲劇の特殊潜航艇」(2009年12月
 6日放送)でも、アメリカが日本の特殊潜航艇への攻撃をクジラだったとした
 話を放送している・・しかし、今、この話が隠されている・・アメリカに忖
 度している日本となっている・・
.
1941年11月25日、日本に先に攻めさせるようとするルーズベルトとルーズベル
 ト政権、
  アメリカ大統領のルーズベルトとイギリス首相のチャーチルが、大西洋上
 の軍艦の上で会談し、ヒットラーと戦うのはイギリスぐらいになり「助けに
 来てくれ」と要請し・・そのため、アメリカ国民の方々の世論を変えるのに
 「日本に攻めさせよう」と会談した3か月半の後・・
  あらゆる情報を手にしているルーズベルトは、「日本は攻めて来る」と予
 測する様になった、また、その様な手を打っているルーズベルトだった・・
  陸軍長官ヘンリー・スチムソンの日記によると、ハル・ノートが日本に通
 告される前日の1941年11月25日、関係閣僚と軍幹部による戦争閣議で、ルー
 ズベルトは、「アメリカはたぶん次の月曜日(12月1日)に攻撃を受ける可能
 性がある」と発言した。
  そして、「われわれ(アメリカ)自身が過大な危険にさらされないで、最
 初の一弾を日本に撃たせるような立場に、日本をいかにして誘導していくべ
 きか」が話し合わた・・
  (日本に最初に手を出させて奇襲をさせるように持って行く会議となった)
  この様な会議を開いた夜のこと・・
  日本の命運を左右する謀議を行ったその夜、ルーズベルトは浮かれていた。
  ホワイトハウスノルウェーのマッタ皇太子妃を招き、夕食を共にした。
  マッタ妃は、ナチス・ドイツの侵攻から逃れてアメリカに滞在し、イギリ
 スにいたオーラブ皇太子とは離れて暮らしていた。
  当時、40歳で美貌のマッタ妃に、59歳のルーズベルトは恋愛感情を抱いて
 いた・・ルーズベルトの妻・エレノアは、この日、ニューヨークに出掛けて
 留守だった。
  ホワイトハウスの記録によると、マッタ妃は午後7時半から翌日の午前0時
 15分までホワイトハウスにいた。
  因みに、日本の暗号はすべてアメリカに解読され、日本の動きはすべてア
 メリカに読まれていた・・すべてが知られていた・・当然、ルーズベルト
 大統領としてそのすべてを知っていた・・これから何が起きるかが予測でき
 る立場にいた・・
  日本の連合艦隊が発信する通信は傍受しているし、それらの情報のすべて
 を総合すれば、これから、いつ何が起きるかはルーズベルトには知らされ、
 分析され、分かっていた・・
.
1941年11月30日、ハワイの新聞「ヒロ・トリビューン・ヘラルド」は、「ルー
 ズベルト大統領は、日本が数日のうちに真珠湾を攻撃することを知っている」
 というコーデル・ハル国務長官のリーク(秘密を漏らすこと)により情報を
 得て、一面の紙面に「日本による攻撃が来週末にもある可能性」と報じた。
  大統領の前任者のフーヴァーやマッカーサー連合軍最高司令官などがルー
 ズベルト大統領を非難していることが明らかになっている。
.
1941年12月8日、日本はやむなくハワイの米海軍基地を攻撃(真珠湾攻撃)し
 た。
  平和を願ってぎりぎりまで努力を続けた昭和天皇陛下は、開戦の詔書に「
 豈(あに)朕(ちん)カ志ナラムヤ」(このような事態は私の本意ではない)
 と書き加えるようご下命された。
  天皇陛下の戦争を避けたいというお気持ちを汲んで日本の外交団はアメリ
 カと開戦の直前までぎりぎりまで交渉を続け努力していた・・しかし、日本
 と戦争をしてアメリカは参戦するのだとの方針がすでにあるアメリカ大統領
 のルーズベルト政権には通じなかった・・
  (参考)やむなく:「他によい方法がないので(~する)」「どうしよう
     もないため(~する)」という状況を指す意味で用いられる表現。 
      要するに「仕方がなく」「しょうがなく」と同じ意味だが、さら
     に「他に選択の余地がない・残念ながら(不本意だが)そうせざる
     をえない」という逼迫したニュアンスを含む。
  1941年12月12日、閣議で戦争の名称を、進行中の支那事変も含めて大東亜
 戦争と決めた。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された直後、黒い雨が降った・・
  その雨には放射能が大量に含まれていた・・被爆者の方々がこれでまた増
 えた・・
  その被爆者の方々は、今・現在も、その後遺症で苦しまれている・・
  また、国の補償を受けられずに戦っておられる方も居る・・線引きの問題・・
  原爆依る黒い雨の賠償
  ようやく認められた原爆被害:「黒い雨」訴訟原告らの闘い
  広島への原爆投下後、放射性物質を含んだ黒煙が巻き上がり、空気中の水
 滴と混じって地上に降った「黒い雨」・・
  この雨を浴び、健康障害に苦しみながら、これまで「被爆者」と認められ
 なかった人たちがいる。
  被爆者の「証明」ともいえる被爆者健康手帳。
  交付されると医療や健康診断などで、国の支援が受けられる。
  厚生労働省によると、手帳を持つ人は2020年3月末で13万6682人。
  最も多かった37万2000人(1980年)の3分の1近くまで減った。
  平均年齢は83.31歳だ。
  だが、あの日から70年以上もの月日が経っても「被爆者」と認めてもらえ
 ない人たちがいた。
  広島では、「黒い雨」を浴びながら国の指定から外れた地域にいたために
 手帳を取得できない人々が集団訴訟を戦った。
  「黒い雨」の跡が残ったしっくい壁=広島平和記念資料館所蔵
  「忘れられない」弟の黒いシャツ
  広島市佐伯郡湯来町麦谷。
  爆心地の北西、直線距離で19キロ離れた山あいの農村だ。
  本毛稔(ほんけ・みのる)さん(80)は被爆当時5歳。
  母親と弟と3人で自宅の縁側にいた。
  その日は麦の出荷のため、庭先で近所のおじさん2人が俵の縄を締めていた
 という。
  「その時、突然ピカーッと光って、ドーンと地鳴りがするほど大きな音が
 した。
  家の前の山の上から灰色の雲がもくもくと上がって暗くなり。
  そのうちに新聞紙や雑誌の焼けたようなものが空から降ってきた。
  そのおじさんらは『広島で何かあったのではないか。飛んできたものは手
 で触るな。毒かもしれない』と話していました」
  その後、弟と外で遊んでいたが、空が真っ暗になり雨が降ってきたので家
 の中に戻ったという。
  弟を見ると、シャツには黒いしみが付いていた。
  「この出来事は、今でも決して忘れることはない。
  私は雨に打たれ、黒い雨の注いだ山の沢水を飲み、その水で育てた野菜を
 食べて生活していた。
  子どものころは鼻血がよく出て、朝に顔を洗うと止まらない時もあった。
  それなのに、なぜ国は不十分な調査で線引きをしたのか。
  納得できるわけがない」
  川を挟んでの「線引き」で明暗
  1976年、国は黒い雨の降った地域を「大雨地域」と「小雨地域」に分け、
 大雨地域だけを「健康診断特例地域」に指定した。
  大雨地域では健康診断とがん検診、精密検査を被爆者と同様に無料で受け
 ることができ、がんや白血球減少、白内障など特定の病気にかかった際は被
 爆者健康手帳が交付される。
  しかし、小雨地域は支援対象から外された。
  この「線引き」は、広島管区気象台の宇田道隆技師が原爆投下直後に聞き
 取り調査をしてまとめた「宇田雨域」を基準に決められた。
  区域の指定直後から、小雨地域では住民から反発の声が上がり、制度改正
 を求める運動が起こった。
  同じ村落で、大雨地域と小雨地域に分断された地区もある。
  本毛さんの住む集落は、その典型的な例だ。
  自宅のすぐ目の前を流れる水内川。
  この南側に住む住民は大雨地域で、本毛さん宅のある北側は小雨地域とさ
 れた。
  8月6日の当日に勤労奉仕に出ていた子どもたちのうち、川の南側を歩いて
 帰った人には後に被爆者健康手帳が交付され、北側から帰った人には認めら
 れなかった例もあるという。
  本毛さんは、こう訴える。「母親は白内障緑内障になって失明し、胆の
 うがんを患って死亡した。
  私も白内障で3回も手術をし、今は緑内障もある。
  内部被ばくの影響を心配するのは当たり前だ。
  多くの人が口をそろえて黒い雨は降ったと話すのに、国は聞き取りにも来
 ない」
  広島県・市の実態調査結果さえ反映されず
  「黒い雨」問題はその後、何度か制度改正の機運が盛り上がった時期もあ
 った。
  1980年後半には元気象庁予報官の増田善信氏が新たな聞き取り調査などを
 実施し、従来説よりも広範囲に黒い雨が降ったと結論づける研究結果を発表。
  2008年から10年には広島市・県が原爆被害実態調査を実施し、3万人を超
 えるアンケートとその解析から、大雨地域の約6倍となる「新降雨域」を発
 表した。
  広島県と、広島市など3市5町の首長は2010年、新降雨区域の全域を支援の
 対象とするよう求める要望書を国に提出。
  この姿勢は現在まで変わっていない。
  広島平和記念資料館の「黒い雨」の展示も、現在は新降雨区域が最も目立
 つ赤い線で示されている。
  しかし、厚生労働省は12年、要望書を受けて立ち上げた検討会で、短時間
 の審議で「黒い雨の拡大はしない」と結論付けた。
  納得のいかない住民らは15年、被爆者健康手帳の交付などを求めて広島地
 裁に集団訴訟を起こした。
  被爆から70年、大雨地域の指定から数えても39年が経っていた。
  「自分もやはり被爆者だ」
  「黒い雨訴訟」原告団のけん引役、高東(たかとう)征二さん(79)=広
 島市佐伯区=がこの問題に関わるようになったのは、高校教師の職に区切り
 をつけた2002年のことだ。
  同級生の女性から「よく分からない病気で死んでいく人や、寝たきりにな
 る人が地元で相次いでいる」と相談を持ち掛けられた。
  爆心地から西約9キロの、高東さんの自宅からもそう遠くない旧八幡村
 同区)を2人で、病気の人を訪ねて回った。
  「ある男性から、『どうせ治らないし、病院に行く金もない。放っておい
 てくれ』と突き放されるように言われたのがショックで…。
  訪ねた人の多くが生きる気力をなくしていた」。
  この地域も大雨地域との境界にあり、被爆者健康手帳がないために治療を
 あきらめる人がいた。
  聞けば、「ここでも雨が降っていた」と話してくれる。
  高東さんは援護拡大実現のための「佐伯区黒い雨の会」設立に奔走。
  設立集会には100人以上が集まり、黒い雨の影響を心配する当事者がいか
 に多いかを実感した。
  高東さん自身は被爆当時4歳。旧観音村(同区)の、大雨地域からわずか
 に西側に位置する自宅にいた。
  一瞬の閃光、ドーンという衝撃音と地響き、広島市内の空が赤く染まって
 いく様子、しばらくして周りが暗くなったことなどは覚えている。
  しかし、「正直言って、その後の事はあまり覚えていない」
  高東さんは裁判の原告尋問でこう証言している。
  「自分がどんな環境にいたのかを知りたくて、(その自宅の近くで)聞き
 取り調査をしました。
  当時14歳の女性は、学校から家に急ぐ途中、あたりは暗くなりチリやゴミ・
 灰が降り、制服を払いながら帰ったとのことでした。
  これを聞いたとき、自分もゴミや灰と一緒に放射性微粒子を体に取り入れ
 たのだと思いました」
  小学生の頃は身体が弱く、リンパ節が腫れて手術をしたことも。
  しかし、その後は大きな病気もせず、教員生活を無事に終えることができ
 た。
  そのため「黒い雨の記憶もない、こんな自分が運動の先頭に立ってもいい
 のだろうか…」ともたびたび考えたという。
  19年春、高東さんは健康診断で「高血圧性心疾患」と診断され、軽い脳梗
 塞も患って2週間入院した。
  今年に入ってからは、不整脈で再度の入院生活を余儀なくされた。
  「高血圧性心疾患」は被爆者援護法が定める、「放射能の影響を否定でき
 ない」とされる疾病にあたる。
  この一連の経験で「自分もやはり被爆者だ。
  一日一日を大事にして、裁判の結果を見届けたい」との思いを新たにした
 という。
  全面勝訴の判決
  「黒い雨訴訟」は2015年の提訴以来、22回の口頭弁論を経て、20年1月に
 結審した。
  裁判では国が定めた援護対象区域の妥当性が最大の争点となった。
  弁護団の事務局長である竹森雅泰弁護士は「援護対象を大雨地域に限定す
 る根拠はないし、国の”線引き”の根拠とされた『宇田論文』の調査は時間
 的・物理的な限界がある。
  原爆投下直後の混乱の中で、そもそも原告らのいた遠方の地域の調査は行
 われていない」と指摘する。
  その上で、「被爆者援護法の立法趣旨を考えれば、原告らが援護の対象に
 なるのは明らかだ。
  黒い雨の被爆者は、どう考えても原爆の放射能の影響を否定できない事情
 にあった」と話した。
  提訴からこれまでに、死亡した4人が訴訟を取り下げて、裁判の原告は現
 在84人。
  この84人のうち、9人の遺族が訴訟継承の申し立てをし、1月の口頭弁論終
 結後に死亡した方が3人。
  つまり、もともとの原告88人のうち4年の間に16人がこの世を去った。
  最高齢の原告は96歳(被爆時21歳)、最年少は75歳(同生後4カ月)だ。
  7月29日の判決で、高島義行裁判長は、84人の原告全員を被爆者と認める
 よう命じる判決を下した。
  黒い雨をめぐる初の司法判断で、国は援護対象区域の見直しを迫られるこ
 とになった。
  バナー写真:「黒い雨」訴訟の全面勝訴を受け、喜ぶ支援者ら=2020年7
 月29日、広島市広島地裁前(時事)
  (参考)2020年8月5日、石井 雅仁(ニッポンドットコム)
.
1951年5月3日、マッカーサーは、アメリカ上院の軍事・外交合同委員会で証言
 した・・そして、東京裁判の根拠が正しくないことを証明した。
  東京裁判の開廷の根拠は、連合国軍最高司令長官だったマッカーサーによ
 って覆(くつがえ)された・・東京裁判は根拠がなくなった・・
  東京裁判の法的根拠だったといってもよいことについて、マッカーサーは、
 朝鮮戦争の開戦後、本国に呼び戻された時、「日本が戦争を行なったのは、
 大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と、公の場で語った。
  また、マッカーサーは、東條英機の基本主張が正しかったことも証明した。
  そして、アメリカ上院軍事・外交合同委員会で語ったこのマッカーサー
 言を、日本のNHKやマスコミは一切報道しないという体たらくだった。
  アメリカの新聞にその記事が出ていることを知らない訳はなかった・・
  日本のNHKやマスコミは、マッカーサーが「日本は自衛のために戦った」
 と証言した部分を省いて報道した。
  そして、マッカーサー証言で今でも通じる証言は、「太平洋においてアメ
 リカ合衆国が過去100年間で犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国
 において強大にさせたことだと私は考える」と主張した・・
  マッカーサー証言の抜粋・・
  5番目の質問です・・(朝鮮戦争に於いて)赤色中国に関する海と空からの
 封鎖という貴官の提案は、第二次世界大戦においてアメリカ合衆国が日本に
 勝利を収めた際の戦略と同じではありませんか。
  マッカーサー将軍:そうです。
  太平洋では、米国は日本を迂回しました。そして閉じ込めたのです。
  日本が抱える八千万人に近い膨大な人口は、四つの島に詰め込まれていた
 ということをご理解いただく必要があります。
  そのおよそ半分は農業人口であり、残りの半分は工業に従事していました。
  潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限り
 どこにも劣らぬ優れたものです。
  いつの頃からか、彼らは、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。
  つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っている
 ときの方が幸せだということを発見したのです。
  このように膨大な労働能力が存在するということは、彼らには、何か働く
 ための対象が必要なことを意味しました。
  彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有して
 いませんでした。
  日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。
  彼らには、綿が無く、羊毛が無く、石油製品が無く、スズが無く、ゴムが
 無く、その他にも多くの資源が欠乏しています。
  それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。
  これらの供給が断たれた場合には、日本では、一千万人から一千二百万人
 の失業者が生まれるという恐怖感がありました。
  したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫
 られてのことだったのです。
  (参考)マッカーサーは、まさしくアメリカのルーズベルトが日本に先に
     手を出させる目的で様々な禁輸をだんだん行なって日本の首を絞め
     て行ったことを暗に示し批判も含めて証言した・・また、ABCD
     (アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網が存在し、この日
     本を追い詰める策が連合国の諸国によって行われ、日本に先に手を
     出させるというアメリカの方針がなされていた・・
.
1969年、中国の毛沢東は、ソ連との国境紛争が泥沼となり、あわや全面戦争と
 いう状況になった。
  この頃のことを毛沢東は、夜も眠れないほど悩み、結局、アメリカに仲介
 をしてもらうことを考え出す。
  そして、アメリカとの軋轢(あつれき)を緩(ゆる)め、アメリカの仲介で中
 ソの国境紛争を収拾(しゅうしゅう)した。
.
1987年、世界の覇権を二分するアメリカとソ連(現:ロシア)は、地球上の人類を
 何回も全滅できるほどの核兵器を持つという馬鹿らしさに気付き、核兵器
 持数の削減の中距離核戦力(INF)全廃条約を締結した。
  その盲点を突いたのが中国だった。
  世界の覇権国になりたい中国は、その兵器を作る技術を獲得し、大量にそ
 の兵器を作った。
  条約で廃棄したアメリカは、中国に対抗する手段をその条約によって失っ
 ている。
  そして、また、中国に対抗するミサイルの製造ができなくなっている。
  この条約は、アメリカとソ連の両国に、核弾頭か通常兵器を問わず、射程
 距離500キロ〜5500キロの地上発射の弾頭ミサイルと巡航ミサイルの製造を
 中止させている。
  そして、さらに、その条約は、すでにあるミサイルまで廃棄する様に求め
 られ決められている・・アメリカとソ連のミサイルの2692基が、実際、廃棄
 された。
.
2013年、中国が豊かになれば民主主義が受入れられるという西側の期待が完全
 に裏切られる文書が中国の共産党独裁政権から発表された。
  その文書は「9号文書」として知られる中国の方針説明書で・・
  中国共産党政権は、その文書の中で西側諸国の理念を完全に否定した・・
 中国共産党の独自・独特の屁理屈理論で否定した・・
  まず、西側の「普遍的価値観」である「西洋的な自由、民主主義、人権は
 普遍的で永遠」とする信念、これらは共産党の根幹に対する攻撃だと主張し
 否定した。
  そして、「西洋型の立憲民主主義の促進」は『危険なのだ』と指摘し、警
 告を発した・・まったく我々の自由の民主主義と相いれないという立場を明
 示し、主張した・・
  そして、その危険な西側論理は、「中国の現在の指導体制と中国特有の統
 治システムを備えた社会主義を弱体化させる企(くわだ)てだ」と陰謀論を展
 開し、言った。
  西側諸国が一生懸命中国を豊かになれば民主化するだろうという配慮と夢
 は完全に砕かれた。
  逆に、西側諸国の富で豊かになった中国共産党独裁主義者たちは、その強
 大な経済力と富で自分たちが過去から持って来た共産社会主義をより一層強
 力に押し進めて、世界へ拡大して行くのだと主張し、明示した。
  中国は豊かになればなるほど西側諸国の各システムを強力に変えて行くの
 だとし、自分たちのシステムが良いのだとしてより強力に押し進めて行く姿
 勢を誇示した。
  より豊かな富で自国をより強固にもして、監視体制もより強固にして、屁
 理屈思考で凝り固まっている・・
.
2015年、中国の生産年齢人口が減少し始めた。
  また、中国の総人口が減少し始めると予測されているのが2030年。
  中国当局は、これに強い焦燥感を感じている。
  中国は、1979年に「一人っ子政策」を始め・・
  2016年に、第2子を容認した・・
  そして、2021年8月20日、第3子までの出産を認める人口・計画出産法を全
 人代は可決した。
.
2018年、中国のトップの習近平は、アフリカ諸国に、この年、語った「中国は
 アフリカの内政には干渉しません。勿論、アフリカ諸国のあなた方に中国の
 意志を押し付ける様なことも致しません」と言った。
  そして、習近平は、600億ドル(約6兆円)〜800億ドル(約8兆円)の援助を約
 束した。
  また、習近平は以下のことも言った「我々・中国が重視しているのは開発
 の経験をあなた方と共有してアフリカの活性化と繁栄のためにできる支援を
 提供したいのです」と・・
  しかし、しかし、中国は巧妙な嘘を言った。
  この言葉を信じて中国からの資金を受け入れることには問題が多かった。
  例えば、中国が電話回線ネットワークを建設すると、その知的財産はすべ
 て中国が奪った、中国のものとした。
  また、発電所を建設した時には、発電所の建設計画をすべて中国がやるん
 だとして、さらに、発電所の運営の権利まで奪った。
  また、中国のやることには「債務の罠(わな)」が隠れていた。
  そして、その国の政権へこのマイナス点を使って圧力をかけた。
  また、台湾と縁を切れと圧力をかけることもした。
  そして、中国がやっているウイグルの方々に対する卑劣な弾圧、虐殺、そ
 して、ウイグル女性の方々に対して行っている強制避妊などに対することに
 沈黙を保てと圧力をかけた。
  チベット内モンゴルの方々へ対する卑劣な中国の行為に対しても黙って
 いろとした。
  中国の金にはこの様な卑劣な糸がまつわり付いていた。
  今では中国はその国を債務漬けにして経済的に支配している。
  そして、この様な金で引っかけるやり方は中国の国がやるだけではなく、
 中国共産党が後ろで糸を引く中国企業がよくやるやり方である。
  条件のすべてを明確にしないから汚い・・不誠実だ。
  そこに罠(わな)がある。
.
2020年1月24日、新型コロナウイルス肺炎、発生を知ったら即座に対応しなけれ
 ばならないのに、何故? 習近平の指示は遅れたのか?(ニューズウィーク
 を参考にして)
  昨年の2019年12月8日に最初の感染者が出た新型コロナウイルス肺炎に関し
 て、習近平は2020年1月20日になって初めて重要指示を出したが、こんなに遅
 れた責任をとれと言いたいが・・なぜ遅れたのか?
  「野生動物捕獲摂取」や地方議会の「両会」などから意外な事実が見えて
 きた。
  感染人数の推移や場所などに関しては、すでに多くのメディアが時々刻々
 報道しているので、ここではストレートに隠蔽工作を「誰がやったのか」、
 そして「何のためにやったのか」に焦点を絞って考察したい。
  地元政府の隠蔽工作:その1──野生動物保護法と食品安全法
  まず、最も注目しなければならないのは、ウイルスの発生源が野生動物な
 ども売っていた海鮮市場(華南海鮮卸売市場)だということ・・
  今のところ感染源として注目されているのはタケネズミとか蛇などだが、
 この海鮮市場では100種類以上の野生動物を売っていて、2020年1月22日の北
 京の地方紙「新京報」は、そのメニューと価格表一覧を掲載した。
  以下に示すのは、そのメニューと価格表である。
  メニューによれば、タケネズミや蛇だけでなく、アナグマハクビシン
 キツネ、コアラ、野ウサギ、クジャク、雁、サソリ、ワニ・・など、野生の
 動物が「食品」として日常的に売られているようだ。
  それも調理して売るとは限らず、生のまま売ったり、目の前で殺したり、
 中には冷凍して宅配するというサービスもある。
  問題は、このような野生動物を食べ物として売ることが許可されているの
 か否かということだ。
  実は、野生動物の捕獲や摂取を取締る法律はいくつもあり、特に2003年の
 SARS(サーズ)発生以来、さまざまな規制が試みられてきた。
  たとえば「野生動物保護法」(第二十九条、第三十条)や「陸生野生動物
 保護実施条例」という観点や「食品安全法」、あるいは、刑法(第三百四十
 一条)においてさえ、さまざまな規制を設けている。
  この野生動物メニューの中に、合法的なものもあるかもしれないが、100種
 類も供されていれば違法性のあるものも含まれているだろう。
  その入手方法となると、「養殖が許されている野生動物」もあれば「捕獲
 自身が禁止されている野生動物」もあり、ましていわんや「食べていい野生
 動物」となると数が限られる。
  このような野生動物を食していること自体に違法性もしくは犯罪性がある。
  そこで武漢政府の当局は、今回の新型コロナウイルスによる肺炎の発症を、
 できるだけ外部に漏らさないようにしたことが考えられる。
  特に、中央政府に知られることを最も恐れたと考えていい。
  なぜなら以下に示す「全国両会」が間もなく開催されることになっていた
 からだ。
  地方政府の隠蔽工作:その2──地方議会である「両会」が開催される
  中国では2020年3月5日から日本の国会に近い機能を持つ全人代(全国人民
 代表大会)が始まるが、それと同時(一般に2日前から。会期は同じ)に開催
 される全国政治協商会議の二つを「全国両会」と称している。
  その前に各地方の全てのレベルにおける「両会」が開催され、おおむね春
 節前には終わるようになっている。
  武漢市は湖北省にあるが、省レベルの「両会」は今年・2020年1月12日から
 17日まで開催されることになっていた。
  この湖北省両会における審議結果は、2020年3月6日以降の各省レベル分科
 会において、習近平国家主席も参加して北京の人民大会堂で報告されるので
 ある。
  そのような「神聖な」湖北省両会を汚すわけにはいかない。
  そこで武漢市政府は、湖北省政府にも北京の中央政府にも知られないよう
 に画策したと考えていい。
  それを示す画像が中国のネットで出回っている。
  それを以下に示す(この赤い線で示した所にご注目したい)
  12日に湖北省両会が開幕し、17日に「勝利閉幕(勝利的に閉幕した)」と
 書いてあるが、なんとその間だけは「密接に接触した者同士による新しい感
 染者はゼロ」とあるではないか!
  つまり、この間だけは無事にすり抜けたかったのである。
  その証拠に、1月19日になると、患者数が突然「3倍以上に」増加している
 ことが報告されている。
  6日間に発症した患者数を、19日に一気に発表したからだ。
  この「裏事情」を知らない人々は、「19日を境に一気に感染が広がった」
 と報道しているが、それは実は「真っ赤なウソ!」なのである。
  これが、北京、中央政府に感染の実態を報告しなかった本当の理由だ。
  なぜ中央政府に情報が上がったのか?
  ではなぜ中央政府・北京の知るところとなったのか。
  第一段階は「上海」の働きにある。
  こちらの情報をご覧いただきたい。
  2019年12月26日、上海市公共衛生臨床センター科研プロジェクトが通常の
 サンプル収集として、プロジェクトの相手である武漢市中心医院と武漢市疾
 病制御センターから発熱患者のサンプルを入手し、精密に検査した。
  その結果、2020年1月5日に上海市のセンターは、この病原菌が未だかつて
 歴史上見たことのない「新型コロナウイルス」であることを突き止めた。
  それでも湖北省政府は両会を開催し、「たしかに病例はあったが、問題は
 解決していますので大丈夫ですから」という無言の偽装メッセージを北京に
 送った。
  しかしさすがに北京は疑わしいと思ったのだろう。
  第二段階として、1月19日に中国政府のシンクタンクの一つ中国工程院院士
 (博士の上のアカデミックな称号)である鐘南山氏率いる「国家ハイレベル
 専門家グループ」が武漢市の現状視察にやって来た。
  そこで現状を把握した一行は、その日の内に北京に引き返し、中央に報告
 したという。
  こうして習近平の知るところとなり、20日習近平が「重要指示」をやっ
 と発布することになったわけだ。
  それを境に中国国内はパニックに突入。
  2020年1月21日になると、武漢市東西湖区市場監督管理局は「市場経営者に
 告ぐ」という通知を出したが、もう遅い。
  このページの「二」に書いてある漢字をご覧いただきたい。
  「食品安全法」とか「野生動物保護条例」などの文字があるのを確認する
 ことができるだろう。
  その項目にある「生きたまま殺す」などの文字を見ると、誠にゾッとする。
  もっとゾッとする話を最後に付け加えておこう。
  2020年1月17日まで湖北省両会があったとはいえ、2020年1月5日から19日ま
 での空白期間がどうも気になったので、さらに詳細に調べたところ、2020年
 1月21日に、武漢市で湖北省春節祝賀演芸会が開かれていたことを知った。
  湖北省政府や武漢市政府の上層部が全員参加したとのこと。
  おまけに舞台の出演者の中には新型コロナウイルス肺炎の疑いがある症状
 を来たしている者が数名いたという。
  それを押して、動きの激しい演技をさせたと中国のネットでは激しいバッ
 シングが見られる。
  これだけ多くの人が武漢市の劇場に集まれば感染も広がるだろう。
  それでも強行したのは、又しても繰り返すが、「新型コロナウイルス肺炎
 だと判明はしたが、武漢市の肺炎はすでに解決し、コントロールされている
 ので、問題はありません」と偽装したかったものと判断される。
  そのため湖北省政府や武漢市政府の指導層がずらりと顔をそろえた。
  しかし、さすがに北京は今度は騙されず、2020年1月23日に武漢市に対して
 封鎖令を発布した。
  武漢市民は一切武漢から外に出てはならないことになってしまったのだ。
  それを事前に察知した市民の中には封鎖令が発布される直前に上海などに
 脱出した者もいるという。
  その数、数千とも数万とも言われている。
  注意すべきは「封鎖令」を出せるのは中央政府だけだということである。
  どんなに武漢政府や湖北省政府が姑息な偽装工作を行っても、その運命は
 見えている。
  それにしても、「北京に対する保身のためなら全世界を恐怖に巻き込んで
 も平気」という考え方の恐ろしさと愚かさよ。
  一党支配体制でピラミッド型に命令系統が徹底されているように外からは
 見えるかもしれないが、中央と地方の連携が如何にお粗末かということの証
 しの一つでもある。
  14億人もいれば統率に漏れが出て来ることもあろうが、中国の病根を見る
 思いだ。
  中国のもろさは、実はこんなところにもあるのかもしれない。
  ※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
  [執筆者]遠藤 誉
  中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士
  1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グロ
 ーバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学
 究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『激突!遠藤vs田原 日中と習近
 平国賓』(遠藤誉・田原総一朗 1月末出版、実業之日本社)、『米中貿易戦
 争の裏側 東アジアの地殻変動を読み解く』(11月9日出版、毎日新聞出版 )
 『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢
 東 日本軍と共謀した男』、『卡子(チャーズ) 中国建国の残火』、『チャ
 イナ・セブン <紅い皇帝>習近平』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻
 防』、『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』『中国がシ
 リコンバレーとつながるとき』など多数。
.
2021年8月、LNG価格が上昇した・・日本の輸入するLNG価格は平年の2倍
 となった。
  中国のLNGの輸入が跳ね上がっている。
  2021年1月〜6月の輸入量は、前年同期比で3割以上も多くなっている。
  中国は、オーストラリアから、新型コロナウイルスの発生地の中国の武漢
 の国際的な調査を受け入れよと「まったく正しい正義の忠告」を受けた。
  今まで、この様な時にはどこの国も受け入れて来た当たり前な当然のこと、
 しかし、中国は激怒した・・オーストラリアとの貿易も滞(とどこお)ってし
 まった。
  中国は、今までオーストラリアから買っていた石炭の輸入をストップした。
  その為、不足したエネルギーをLNGにしてオーストラリア以外から輸入
 をし始めた。
  LNG価格は上昇し、日本の輸入するLNG価格は平年の2倍となった。
.
2021年、アメリカは盛んに「日本はハワイを奇襲した」「奇襲した」と言う、
 しかし、最近になってアメリカが日本に奇襲をした様に仕組んだという事が
 明らかになって、アメリカは、最近は、日本が奇襲したとは言わなくなった。
  それも、そうである・・アメリカが、日本に奇襲をされるほど馬鹿だった
 訳でもない。
  アメリカの通信傍受網はしっかりしているし、日本の暗号を解読する技術
 も優れていて、日本の何もかもが傍受され、読まれていて、すべてがアメリ
 カには分かっていた。
  日本のすべての状況が分かるアメリカだった・・奇襲だけが分かんなかっ
 たなどという話がおかしいのはすぐに分かる・・
  また、日本に奇襲をさせるほどアメリカはトンマではなかった。
  奇襲は、ルーズベルト大統領が仕組んだ罠(わな)で、仕掛け、日本を嵌
 (は)めた行為。
.
2021年、今、軍事的様相が大きく変わっている。
  それは、中国の兵器が高度化していることに要因される。
  例えば、中国は高度な指揮系統に統制コントロールするシステムを持って
 いて、このコントロールされて命中精度が高いミサイルを数千個も保有する。
  東風26(DF26)は、長さ14メートル、重さ20トンのミサイルであるが
 核弾頭が搭載できる。
  このミサイルは、原子力航空母艦の攻撃用として装備された。
  射程距離は4000キロで、当然、日本全土はすっぽりその射程範囲に入
 ってしまう・・そして、さらに、太平洋の西半分にいる原子力空母は攻撃対
 象にされる。
  アメリカもこの中国の東風26を迎撃できる迎撃ミサイルのSM6を持っ
 ている。
  だが、中国は、小型長距離弾道ミサイルの持つ数が多く、また、対応速度
 が早く(9600キロを30分で飛ぶ)それへの対抗は簡単などと片付けられない脅
 威となっている。
  中国のミサイルが探知できないで攻撃され、そして、戦いが終わることも
 考えられている。
  アメリカの原子力空母が中国のミサイルの射程内に入るリスクはアメリ
 は容易に容認できないだろう。
  日本の横須賀のアメリカの原子力空母の基地もその中国の核ミサイルの射
 程内に入っている。
.
2021年、アメリカが、中国の様な指揮統制コントロールシステムを持っている
 かと言うと、アメリカにはない。
  アメリカの指揮統制能力は、監視衛星に過度に依存するシステムとなって
 いる。
  中国が、この衛星への攻撃能力を持った場合、アメリカの指揮統制能力は
 無力化する。
  アメリカの破壊的な抑止的手段のいくつかの能力は重大な影響を受ける。
  アメリカは、第二の信頼できるネットワークを構築して防衛システムを最
 大に発揮できる様にする必要がある。
.
2021年12月21日、アメリカの大学教授が、中国の「千人計画」に参加で有罪と
 なった。
  アメリカのボストン市の連邦裁判所は、中国政府の人材引抜き政策の「千
 人計画」への参加や受け取った収入を隠し、申告しなかったとして、虚偽報
 告の罪で訴追されていたハーバード大学教授のチャールズ・リーバ被告(62歳)
 に有罪だと判決した。
  被告は、ノーベル賞候補にもなるナノテクノロジー研究の第一人者。
  アメリカ政府の研究助成金などで得られた研究成果(国家の安全保障上の機
 密に触れる研究成果)を、中国の千人計画を通じて、中国へ提供し、流出した
 懸念があるとして捜査が行なわれ・・その結果、嫌疑があるとして、2020年
 1月、逮捕されていた。
  そして、被告は、中国から得た金銭的収入の申告を怠(おこた)り、また、
 中国の銀行口座を秘密にして報告を怠った(秘匿)。
  また、中国の千人計画に参加していることをアメリカ国内で研究助成を受
 ける国立衛生研究所(NIH)や国防総省にも報告しなかった。
  被告は、2008年以降、NIHと国防総省から計1800万ドル(約21億円)の研
 究助成金を受けていた。
  被告は、中国の千人計画に参加した動機を、金銭よりも名誉が欲しかった
 と言い、研究して得たナノテク技術を中国の若い研究者に伝え、後進を育成
 することで自らの評価が高まり、ノーベル賞に近づくと考えたという。
  2012年に中国と結んだ3年契約は、毎月5万ドル(570万円)の報酬と、15万
 ドルの生活費と、150万ドルの研究費を受け取る内容だった。
  この多額の金について、被告は「中国が人を誘惑する手段だ」と認識して
 いると明らかにした。
  アメリカは、2018年より、トランプ前大統領が示した「中国イニシアチブ」
 と称する中国からの安全保障上の脅威に対する取組みを始め、中国の千人計
 画に参加したりした学者の数十人を摘発して、半数を起訴した。
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2021年12月22日、中国の習近平が、『香港はうまく行った』と満足を表明した。
  香港政府のトップと北京で会談して言った。
  中国の民主主義は「見せかけの偽(にせ)民主主義」で、それで香港をや
 った・・その様な香港をうまく行ったと満足している。
  結局、本当の民主主義派を排除した・・立候補をしにくくし、また、その
 立候補の人数を制限した・・そんな習近平の言う民主主義が『民主主義だ』
 と言われたら民主主義の名が廃(すた)れる。
  その様な中国の手の込んだ汚いやり方で、見せかけの民主主義の選挙をし
 た・・その結果、当然の様に、親中派が議会の議席をほぼ独占した・・
  この様な汚いやり方を世界が見ていることを習近平は知らない・・逆宣伝
 となっていることを知らない習近平・・まったく幼稚なやり方・考え方でや
 っているという習近平となっている・・
  だから、12月19日に投開票した香港立法会(議会)選挙に習近平は「成功し
 た」と言った。
  昨年、香港国家安全維持法を立法させて『香港の自由を奪った』・・習近
 平は、これ以後、香港統治の自信を深めた。
  中国が主導し、選挙制度も強行して変わった・・この時、アメリカを始め、
 ヨーロッパや日本など先進7ヶ国(G7)外相は、『民主主義的ではない』と
 いうことに「重大な懸念」を表明した。
  しかし、習近平は、「香港の長期の繁栄と安定を確実にするため、この制
 度の支えを提供した」と自画自賛の表明をし、さらに、「よくなった」と得
 意満面な自讚をした。
  そして、また、さらに、「暴力と混乱の収拾」ができたと言った・・民主
 派の反対デモを、抵抗のデモを『暴力だ』と言った
  イギリスとの約束である一国二制度を、まだ続けなければならない期間で
 あるのを、習近平は無視して、強行して、自分の好きな様に変えた・・独裁
 的に変えた・・強硬的に強引にやった・・約束違反行為である・・そのため
 に起きたデモなどの香港の方々の反対の抵抗デモを、習近平は、自らが暴力
 を振るわせて強力に強行に抑えたことを反省もせず、習近平自画自賛した。
  民主主義ではない「中国のやりたい放題の状況」がおきている・・
  中国なんて約束を守らなくても何とも思わない民主主義のない国家なのだ。
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2021年12月29日、中国が、また、香港のメディアに対する弾圧を行なった。
  香港や中国政府に批判的な香港のネットメディア「立場新聞」を家宅捜査
 し、扇動的な出版物の発行を共謀したとでっち上げて幹部7人を逮捕した。
  この年の2021年6月に、既に、「蘋果(ひんか)日報(アップルデイリー)」を
 発行停止に追い込んでいる。
  立場新聞は残る唯一の民主派メディアだった。
  当局は、資産凍結(約9億円)も行なった。
  武力的に事業継続はできない状況に追い込んだ。
  事業停止宣言をやむを得ず出さざるを得なかった。
  記事も削除された。
  当局は、200人以上を動員して社内の取材資料や個人の携帯電話を押収し、
 記者会見で「香港政府と中国への憎しみを扇動する報道は国家の安全を脅か
 した」と事実を曲げた論理を述べた。
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2021年12月、日豪安全保障共同宣言が改定される・・
  オーストラリアがアメリカから原子力潜水艦を8隻買う。
  日本もオーストラリアと同様に原子力潜水艦を買うことを検討すべきだ。
  また、日本とオーストラリアが、今、日豪安全保障共同宣言の改定を検討
 していることが2021年12月に分かった。
  今まで北朝鮮を中心にしていたが、そして、中国の脅威への対応には触れ
 ていなかったが、改定して中国に対する協力強化を前面に掲げる。
  新次元の安保協力に引き上げる。
  この時、オーストラリアの核の傘に入いることも議題とせよ!!
  当然、アメリカから買う原子力潜水艦に、オーストラリアは、SLBMに
 核弾頭を搭載し、中国をけん制するだろう・・
  何しろ、超巨大な軍事費を、毎年、投入している中国。
  この武力を背景にしてアジアと言わず太平洋、そして、アフリカ、そして、
 世界へと覇権を拡大することを目論む中国。
  この様な方針は間違いだと悟らせる様な行動を起こせ・・
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2021年12月、中国政権が、中国の配車サービス会社の最大手の滴滴出行(ディデ
 ィ)のアメリカでの上場を『廃止する方針だ』とした。
  これは、この会社が持つデータの中にある中国政府の高官のデータから中
 国政府高官の動きが知られるということを恐れて、この措置をした。
  習近平の動きですら漏れる恐れを感じての措置。
  この一例の様に、今後、いかに様々なデータを持っているかがこれからの
 勝負の分かれ目となる・・国だけでなく会社も然り・・
  そして、データの囲い込みの重要性を十分知っている中国は、このデータ
 の囲い込みで中国の産業強化を急ぐ方針。
  2021年11月、中国政府は、2025年までのビッグデータ産業の規模について、
 2020年比で約3倍の3兆元(約54兆円)に引き上げる計画を示した。
  この様な中国の動きを警戒するアメリカは危機感を強めている。
  戦略的競争相手の中国は、ビッグデータを戦略的資産とみなしている。
  アメリカもその様にしなければとしている。
  アメリカは、データの取り扱いを企業の自主性に任せて来た。
  その恩恵を受けてGAFAなどのアメリカの巨大IT企業が急成長できた。
  巨大化し過ぎて是正しようとするアメリカ、そして、国家体制でデータの
 囲い込みをしようとする中国。
  だから、中国は、まともなデータは公表しない。
  コロナの感染者数や死亡者数も中国はデタラメだ。
  国際的基準をつくり、データを正しい数字で公表しなくてはならないと規
 定しなくてはならないと決定せよ・・当然の事なのだが、今、その様になっ
 ていない・・数字を簡単に信用するな・・
  在アメリカの中国企業でさえ、中国の国内法に規制されて、アメリカに在
 住しているのにも関わらず、課税対象のデータの正しい数字をアメリカの関
 連の国家機関へ報告しないという状況。
  この様な中国に対し「中国プレミアム」を創設せよ・・
  しかし、この異端児の中国が、欧米の包囲網から抜け出したいとして、チ
 リ、ニュージーランドシンガポールが合意したデジタル分野のルールづく
 りをめぐる協定に、2021年11月、加盟申請を出し、中国に有利なルールの構
 築をし始めている。
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2021年、中国の「中国人民解放軍」と呼ばれている中国軍の名称は実態をあら
 わしていない。
  香港の民に対する人民抑圧の中国政権をバックで支える中国軍を人民解放
 軍とは到底言えないし、呼べない・・実態は「中国人民抑圧軍だ」。
  または、少しも人民を解放してない中国軍は、ただ「中国軍」と呼ぶか、
 支配を受ける共産党の「中国共産党軍」(まったく人民とは関係ない組織)
 か、「中国人民抑圧軍」と呼ぶべきだ。
  実態は人民の言うことを聞いているのではなく共産党の言うことを聞いて
 いるという軍組織・支配系統だ。
  今の状況からは「中国人民抑圧軍」と呼びたい。
  ウイグル民族への中国政権の抑圧は、中国政権は「再教育施設」だと言い
 変えるが、実態は「完全に自由を束縛し、身体の自由を拘束している」。
  収容されて帰って来ない人も多い状況・・故に、そのウイグルの施設の呼
 び名は「収容所」もしくは「拘留所」で留置状態に置いている・・アウシュ
 ビッツと似たようなこともしているのではという嫌疑が強い・・臓器売買の
 疑惑もある・・
  この様な施設は、完全に「人民抑圧施設」で、その様な行為をバックで支
 えている中国軍は人民抑圧軍だ。
  中国のこの様な行為について、中国は、国際社会の指摘をまったく無視し、
 自分の行為を正当化している・・国際社会の意見にまったく協調していない・・
 中国がこの様な協調しない行為を続ける限り、国際社会は、その様な態度で
 は国際社会では生きていけない、付き合ってはいけないという事を徹底的に
 示し、中国政権を再教育して行かなければならない。
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2021年、核兵器を持つ9ヶ国の核弾頭数
  ① ロシア  6,255、
  ② アメリカ 5,550、
  ③ 中国    350、
  ④ フランス  290、
  ⑤ イギリス  225、
  ⑥ パキスタン 165、
  ⑦ インド   156、
  ⑧ イスラエル  90、
  ⑨ 北朝鮮  40〜50、  ストックホルム国際平和研究所調べ(推計)
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