(増補版)717E2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(紀元前6550万年~紀元前1万年)

題:(増補版)717E2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(紀元前6550万年~紀元前1万年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
...(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか?)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なものにする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆様の、そして、
  人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切なこと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆大きな解決を図(はか)ろうとすればするほど、原理原則に立ち戻らなけ
  ればならない。
 ☆正しい事実の認識があってこそ寛容が生まれ、捏造される認識の元では寛
  容は生まれない。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・だからこそ、正し
  いことを言って正しい関係を作らなければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはならない・・正しいこと
  を教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解することにつとめなければ
  ならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならない・・民の選択を受
  けない独裁の指導者たち・・民主化が達成できない独裁国=中国・・
 ☆力による現状変更をしている中国の九段線否定の国連決議をするべき・・
  また、国民の信託を受けていない政権は正式な政権ではない・・
  (参考)信託:しんたく、信用して任せること。「国民の信託による政治」
 ☆中国の利することばかりする公明党を与党の座から降ろそう・・与党席を
  剥奪し、止めさせよう・・この度も国土交通省の大臣職を欲しがって、そ
  の大臣の席に座り、今までの様に中国に利することをする予定・・「証拠
  がない」と言って中国を庇(かば)ったなど中国に利することばかりして
  いる・・
 ☆NHKは国や民を守る大事さを放送しない放送局・・
  国民の命や暮らしを護る大切さを放送せよ・・
  愛する人たちを守る話を放送しない親中放送局=NHK
  ハワイまでの第3列島線の中華圏を主張する中国になびくNHK・・
 ☆第二次世界大戦アメリカが始めた戦争
   日本の連合艦隊が到着する前に、日本の潜水艦をアメリカが攻撃したこ
  とから始まった(潜水艦は足が遅いので先に出発してハワイに来て待機し
  ていた、その日本の潜水艦をアメリカは攻撃した・・これが開戦・・アメ
  リカが先に手を出していた・・NHKはこの事実を隠す。
 ☆1264年、モンゴルの元に襲われてアイヌが日本に逃げて来た・・『北の元
  寇』と言われる元に追われたアイヌの日本への逃亡移住・・当然、日本の
  先住民ではない・・しかし、アイヌを先住民と書く法律が日本にはある、
  当然、正しい法律にしなければならない・・
   また、当然、これ以前のアイヌの遺跡は無い。あるのは縄文遺跡だけ・・
  その縄文遺跡が、北海道で壊されている・・ウポポイのアイヌ記念館の下
  にも縄文遺跡があり埋められて見られない状態にされている・・
 ☆国連が独裁者になろうとしている・・国連がある指針と称するものを与え
  て国際的な絶対的指針としているが、普遍的なものではない・・また、国
  連はロビー活動に弱い、その少数者の意見を国際的な意見としている・・
 ☆世界の若者たちよ!、世界や国連の不正に対してインターネットなどで正
  義の声を上げよう!
 ☆声を上げ続けることで社会は変えられる。
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  (今日の言葉)
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  題:十万年も前に、アフリカに生まれた人類が、アフリカを出て五万年前にアジアに到達し、
   そして、日本に渡って来た日本人の祖先の方たち。
    その長い長い歴史の中を、アフリカからの人類のうねりの様に日本列島を南の沖縄から
   北海道そして北方四島をそのうねりで往き来した。
    その中で交雑が繰り返されたその長い長い歴史は、ADからの2000年間を短い期間だね
   と言う様にその歴史は長い長い歴史だった。
    しかし、この長い長い歴史の中で作られた日本人の歴史を笑うかの様に、本当は北の
   元寇でわずか600年前に追われて日本に逃げて来たアイヌの人たちが先住民だという法律
   ができた。
    何の根拠もないアイヌの人たちを先住民だとする法律、この無根拠で間違った法律は
   正さなければならない。
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紀元前6550万年、生物が大量絶滅した(白亜紀末)
  この頃、恐竜が絶滅し、アンモナイトも絶滅した。
  隕石の落下による環境の激変を原因とする説が有力と考えられている。
  そして、この頃、霊長類が出現した。
  → KーT境界、チクシュルーブ・クレーター
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紀元前6500万年~紀元前1億3500万年、中生代白亜紀、新白亜紀、哺乳類
 の先祖が現れた。
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紀元前6500万年~紀元前150万年、新生代第三紀(クジラ、鳥類、食肉類、
 サル、ヒト、ウマ、ゾウ、有袋類)・・古い順に暁新生、始新生、漸新
 生、中新生、鮮新生という。
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紀元前6500万年、衛星衝突の影響から生き残れたグルガトリウス(猿の仲
 間)は、果物や昆虫を食べていた。
  これが猿の先祖であり、遠い人類の先祖である・・
  恐竜の絶滅以後、熱帯雨林が繁殖していた・・
  猿もこの森の中に居た・・
  森は、豊富な果物に恵まれていた・・豊かな安全な森の中で猿は種類
 を増やした・・人類の先祖につながる猿もこの森で生まれた。
  キリスト教は、突然、アダムと言う男が現れて来るが、あたかも飛び
 出してくるが如く、キリスト教の神が創ったと言っている・・
  そして、そのアダムの体の一部の骨(あばら骨)でイブと言う女性を
 キリスト教の神が創ったと言っている・・まったく男の従属物のように
 女性を考え、あつかうキリスト教であるが、男尊女卑的に女性は作り出
 された・・当然、この様な話はあり得ない・・
  男に従属して創られたというキリスト教の女性像は、キリスト教の底
 流に大きく流れている・・『女性蔑視観念』をゴリゴリに持つキリスト
 教・・この基本的考え方は、キリスト教が世界に与える悪影響の基本に
 存在する・・
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紀元前5600万年、日本列島:始新世(5,600万年前~3,400万年前)の頃か
 らその原型が形成された。
  中新世(2,300万年前~530万年前)に、日本海が形成され、ユーラシ
 ア大陸と分離した・・
  (中新世になると今度は、日本列島が大陸から引き裂かれる地殻変動
 が発生し、大陸に低地が出来始めた)
  2100万年前~1100万年前には、さらに断裂は大きくなり、西南日本は、
 対馬南西部付近を中心に時計回りに40度~50度回転した・・
  同時に、東北日本は、北海道知床半島沖付近を中心に、こちらは反時
 計回りに40度~50度回転したとされる。
  これによって今の日本列島の関東以北は南北に、中部以西は東西に延
 びる形になった・・いわゆる「観音開きモデル説」・・
  そして、およそ1500万年前には、日本海となる大きな窪みが形成され、
 海が侵入して来て、現在の日本海の大きさまで拡大した。 
  1600万年前~1100万年前までは、西南日本(今の中部地方以西)のか
 なり広い範囲は陸地であった。
  東北日本(今の東北地方)は、広く海に覆われ、多島海の状況であっ
 た・・
  その後、東北日本は、太平洋プレートなどによる東西からの圧縮によ
 り隆起して陸地となり、現在の奥羽山脈・出羽丘陵が形成されるにいた
 った。
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紀元前5500万年頃、この頃に現れたアダピス類が、初期の霊長類と考えら
 れている。
  これより前の約7000万年前に、北米に出現したプレシアダピス類のプ
 ルガトリウスを最古とする考え方もある。
  霊長目で、ビタミンC合成能力が失われたのは、約6300万年前であり、
 直鼻猿亜目(合成能力なし)と曲鼻猿亜目(合成能力あり)の分岐が起
 こったのと、ほぼ同時である。
  ビタミンC合成能力を失った直鼻猿亜目には、メガネザル下目や真猿
 下目(サル、類人猿、ヒト)を含んでいる。
  ビタミンC合成能力を有する曲鼻猿亜目には、マダガスカルに生息す
 るキツネザルなどが含まれる。
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紀元前4500万年、インド亜大陸が北上を続け、ユーラシア大陸に衝突し、
 ヒマラヤ山脈を形成した。
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紀元前3000万年、2色型色覚(赤緑色盲)に退化した哺乳類のうち、霊長
 目狭鼻下目が、3色型色覚を再獲得した。
  ビタミンCを豊富に含む色鮮やかな果実等の獲得と生存に有利だった。
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紀元前2800万年~紀元前2400万年、狭鼻下目のヒト上科(テナガザル、オ
 ランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ヒトの共通祖先)が、オナガ
 ル上科から分岐した・・
  同時に、ヒト上科で、尿酸を分解する尿酸オキシダーゼ活性が消失し
 た・・尿酸が、直鼻猿亜目で、合成能が失われたビタミンCの抗酸化物
 質としての部分的な代用となった。
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紀元前2600万年、アフリカ大地溝帯の形成
  化石人骨が多数発見される「グレートリフト・バレー」と呼ばれる幅
 30㎞~60㎞の細長い窪地の列を「アフリカ大地溝帯」呼ぶ・・
  この「アフリカ大地溝帯」は、亀裂の縁と底の高低差が1000メートル
 にも達し・・この大陥没滞は、南北6,400㎞にも達している。
  アフリカの約660%は、標高500メートル以上の大地で、「アフリカ・
 プレート」と呼ばれる。
  この大地溝帯のアフリカ東部の台地の「裂け目」は、紀元前2600万年
 前からその形成が始まった。
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紀元前2500万年、最古の類人猿と思われる化石・・?
  アフリカのケニヤで発見された。
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紀元前2000万年~紀元前1600万年、ヒト科とテナガザル科が分岐した。
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紀元前1900万年、大陸(ユーラシアプレート)の縁(へり)の地溝帯に、海
 が侵入して、海底の拡大が始まり、200万年~300万年の間に日本海が出
 来上がった(1450万年前)
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紀元前1800万年、ルシンガ島で、人類の先祖につながる猿の手掛かりが発
 見された。
  1800万年前の骨で、人類につながる猿の骨だった・・
  プロコンスルと呼ばれた猿で、指が長く、木をしっかり掴んでいた・・
 歯にも特徴があった・・現在、奥歯の奥がふくらんでいる(臼歯)のは
 類人猿と人間だけである・・この猿は、1日のほとんどを木の上に住んで
 いた。
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紀元前1800万年、400万年前に現代人は生まれたが、この時、プロポンスル
 は4本足で歩いていた・・
  1800万年前~400万年前の間の空白の時間が謎であった・・
  森にその謎を解くヒントがあった・・森には豊富な食料があった・・
  1800万年前のプロホンスルは、豊富な果物を食べていただろう・・そ
 の子孫が、アフリカにいるチンパンジーである・・遺伝子が人間に一番
 近く、人間の先祖もチンパンジーと同じような生活をしていた。
  ニューヨーク州立大学は、チンパンジーを歩かせ、筋肉の使われ方を
 研究している・・その結果、二本足歩行で中殿筋が一番使われる事が分
 かった・・中殿筋は、バランスをとって歩くには大切な筋肉で、普通の
 動作時には、この筋肉は使われていない・・
  しかし、木の幹を登る時には、盛んに中殿筋は使われる事が分かった・・
 幹をよじ登る時の後ろ足が、体を持ち上げる動作や二本足で歩く動作の
 練習となっていたのである・・
  木から木へ移る時は手でぶら下がる、これも背筋が伸び、歩く動作に
 必要な背骨を真っ直ぐにする練習となっていた・・森の木の上のプロポ
 ンスル、その子孫で次第に大型になったものもあった・・それが、人類
 とチンパンジーとの共通の先祖であった。
  では、人類とチンパンジーを分けた出来事とは何か?
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紀元前1500万年、日本列島が今の位置に来た。
  日本列島が今の位置にやって来たのは1500万年前・・
  その形は現在と同様ではなかった・・気温や海面の変化、氷河の拡大・
 縮小などに起因するダイナミックな変動を繰り返しながら、現在の日本
 列島の姿へとなった。
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紀元前1400万年頃、ヒト科が、ヒト亜科とオランウータン亜科に分岐した
 と推定されている。
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紀元前1300万年、この頃からヨーロッパ、南アジア、東アジアなどユーラ
 シア各地にも類人猿の化石が現れた。
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紀元前1000万年頃、ヒト亜科が、ヒト族とゴリラ族に分岐したと推定され
 ている。
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紀元前1000万年~紀元前500万年、アフリカで大地溝帯(グレート・リフト・
 バレー)の形成が始まる・・人類誕生に大きな影響を与えたとする説。
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紀元前700万年、初期猿人がアフリカに出現した。
  二足歩行をした・・そして、猿人へと進化して行く。
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紀元前700万年~紀元前600万年、現在最古の人類化石は、中央アフリカ
 見のサヘラントロプス・チャデンシスとされている・・2002年に報告さ
 れた。
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紀元前600万年頃~紀元前400万年前、琵琶湖が形成された。
  琵琶湖は、世界に現存する湖の中では3番目に古い湖と考えられている。
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紀元前500万年、アフリカで人類の先祖が生まれた。
  最初の人類は、猿と同じ能力しか持っていなかった・・
  草原に出た人類は、脳を大きくして行った・・そして、アジア、ヨー
 ロッパ、オセアニアに広がって行った。
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紀元前500万年、アウストラロピテクスが発見された
  化石人骨の発掘によって最古の人類の祖先が、アフリカのエチオピア
 のタンザニアで発見された・・
  「アウストラロピテクスラテン語で南の猿の意味)」で背骨、骨盤、
 下肢などの形態から、直立二足歩行をしていたことが明らかで・・、人
 類最古の祖先と見なされている。
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紀元前500万年、人類とチンパンジーを分けた出来事とは何か?
  国立遺伝子学研究所の宝来博士は、遺伝子を調べている・・人類とチ
 ンパンジーは、490万年前頃に分岐した(誤差は20万年)・・
  500万年前に分かれたと考えても良い・・アフリカを襲った大異変があ
 った・・地下変動である・・火山は火を噴いた・・アフリカ大陸の下の
 マントルが地表を100メートルも押し上げた・・
  隆起させられた地表は、広大なアフリカ大陸の森の中を南北に走り、
 山脈を形成し、大陸を東西に分けた・・
  その東西を分断した山脈は、東西の行き来を出来なくした・・
  東側の土地は乾燥し、西側の土地には雨が降った・・
  東側は草原となって行った・・そして、森林は消えて行った・・木の
 上に居た人類とチンパンジーの共通の先祖は草原の生活を強いられた・・
 それが『人類への進化』をもたらした・・
  東側の地域で化石が発見された・・それはラハール猿人と呼ばれた。
  発掘された骨と同じ土壌の花粉を分析し、猿人の住んでいた環境を調
 べてみた・・
  草原の植物であるイネ科の植物が発見された・・
  ラハール猿人は、草原に住んでいたことが証明された・・森は次第に
 消えて行き、草原が開けて行った・・ラハール猿人は木から降り、だん
 だん地上で生活するようになって行った・・
  豊かな森は消え、ラハール猿人は、小さな森から森へと草原を歩いて
 渡って行った・・住み慣れた森から森へ渡るときには、二本足で歩く歩
 行現象が起こった。
  現在のチンパンジーは、西側の大陸の木のある森で生活し、そのまま
 現在まで進化してきた・・
  二本足で歩く機能を持ちながら、それを発達させなかった・・草原が
 無ければ、東側も二本足で歩くことが起こらなかったかもしれない・・
 森は楽園であったが、その森が無くなった事が二本足で歩くきっかけを
 作った。
  現在の人類は、二本足で歩いているが、猿の特徴をまだいっぱい持っ
 ている・・
  草原は新しい環境であった・・ラハール猿人は、だんだんその環境に
 適応していった・・
  草原は、森と違って危険がいっぱいあった・・肉食動物であるヒョウ
 は、木の上に獲物を引っ張り上げた・・そのヒョウの食べ残しがある洞
 窟の中で、ラハール猿人の化石は発見された・・
  当時の人類も、ヒョウの餌食になっていたという事である。
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紀元前500万年、人の祖先が、チンパンジーとの共通祖先から分岐した。
  因みに、現時点で、人とチンパンジーとはDNAで、98.5%が一致し
 ている・・
  また、この時以降、東アフリカの大地溝帯で、十数種類のヒト科の化
 石人類が次々と出現した。
  「キリスト教の神が、その都度、創造した?」という「キリスト教
 神の食い違いの間違い話」は言っても始まらない・・
 (参考)化石人類:化石として発見される古い人類・・具体的には、約
    400万年前~1万年前までの更新世以前の人類のこと。
     次のように4つの進化段階に分けられている。 
   (1) 猿人:パラントロプスを含んだアウストラロピテクス類のこと・・
    およそ400万年前~100万年前、不完全ながら二足歩行をして、礫
    石器を使用していた。
     礫石器:れきせっき、礫の周囲を簡単に打ち欠いた石器。
   (2) 原人:ピテカントロプス北京原人などホモ・エレクトスをさ
    す・・およそ、150万年前~20万年前、完全に直立二足歩行し、
    握斧を作った・・火を使用したと思われる。
   (3) 旧人ネアンデルタール人などのことで、およそ、20万年前~
    5万年前、おもに剥片石器を使用した。 
     剥片石器:はくへんせっき、石材の外面を次々に打剥した剥片
    をそのまま、あるいは整形加工を加え、鋭利な側縁を刃器として
    用いた石器。
   (4) 新人:現生人類と同類である。
     石刃を多目的に加工して使用した。
     (参考)石刃:せきじん、円錐状石刃核の打面を周縁に沿って
        打撃し、側面から次々に打剥された剥片石器。
     約3万5000年前、更新世の最終寒冷期(いわゆるビュルム氷期
    以降に生存したとみられるため、化石現生人類とも称せられる。
     上記の人類は、いずれも現生人類の先祖であるとの可能性が考
    えられている。
     今後、残存DNAなどにより、系統が明らかになる可能性があ
    る。
     尚、上記の二つの段階の中間に位置する化石も存在する。
     また、人類に近縁な化石類人猿として古くからドリオピテクス
    類があげられているが、今日では、ヒトとは、若干、道を異にし
    たゴリラやチンパンジーなど、現生類人猿の祖先とみられている。
  また、因みに、現代人の祖先であるホモ・サピエンスは、その前に発
 生したネアンデルタール人と交雑していることが、最近、科学的に立証
 された。
  ネアンデルタール人のDNAの2%を、現代人の我々ホモ・サピエン
 スは持っている。
  両者の遺伝子差異は、他の動物種ならば、当然、別種と認定されるレ
 ベルで、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスは混血できなかったと
 する考え方が有力だった。
  しかし、ここ約10年の化石人類の発見ラッシュと遺伝学的研究の発展
 によって、この定説は大きく書き換えられた。
  2010年、ネアンデルタール人のゲノムが解読された。
  そして、あらゆる地域の染色体6万個とネアンデルタール人のハプロタ
 イプを比較したところ、サハラ以南アフリカの地域以外の世界中の人々
 の遺伝子に、ネアンデルタール人のDNA配列が存在することが分かっ
 た。
  アフリカ人を除く全ての現生人類は、ネアンデルタール人の遺伝子を
 平均で2%持っていた。
  ネアンデルタール人は、2万数千年前に絶滅したヒト属の一種。
  体格はがっしりしており、脳容量も現生人類より大きく、男性の平均
 が1600cm3あった。
  (現代人男性の平均は1450cm3)。
  ヨーロッパに分布し、肌は白く、髪は金髪もしくは赤かったとされる。
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紀元前500万年、日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあっ
 たのは、今からおよそ500万年前。
  その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。
  その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期間氷期が交互に繰
 り返す氷河時代には地形の変化が起こった。
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紀元前500万年、伊豆・小笠原孤の高まり隆起が付加して丹沢山塊などを作
 った。
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紀元前440万年、「人類最古の化石発見、エチオピア、440万年前の猿人」
 と報道がされた(朝日新聞、H6/9/22)
  エチオピアで、日本・アメリカ・エチオピアなどの研究者による共同
 調査の成果・・新種の猿人で、名前をアウストラロピテクス・ラミダス
 (ラミダス猿人)と名付けられた・・この発見で、人類の歴史は、従来、
 考えられて来た事より、少なくとも数十万年はさかのぼることになる・・
 猿人から、人類の祖先が進化したという過程の新たな化石が見つかった
 という事は、人類の起源と進化を探る大きな手掛かりとなりそうだ・・
 化石が見つかったのは、アウシュ川中流のアラミス地域。
   発掘と調査は、東京大学の諏訪元講師たちのグループが進めた・・化
 石は、あごや腕の骨など計17点・・数キロに渡って、鮮新世(約530万年
 前~約160万年前)の地層から発見された・・年代測定の結果、約440万
 年前のものと分かり、これまで見つかっているものの中で、最も古い人
 類のアファール猿人の化石より、更に、50万年~100万年近く古い・・化
 石には、猿人と類人猿との中間的な要素が多くみられる・・だが、犬歯
 や頭骨底部の構造などに猿人の特徴が強く表れており、猿人の一種で人
 類の祖先にあたると判断された・・名前のラミダスは現地語の「根(ル
 ーツ)」を意味する・・腕や歯の特徴から、森林に近い環境で生活して
 いたと考えられるが、足の骨などが見つかっておらず、どんな行動をし
 ていたかまでは明らかではない。
   これまでの化石で見つかった最古の人類は、エチオピアタンザニア
 から発掘されたアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシ
 ス)だ。
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300万年前~400万年前頃に居たと考えられ、これを祖先としてアフリカヌ
 ス猿人やエチオピクス猿人などにつながったとみられる。
   人類の起源は、最近の遺伝子や化石の形態的な研究から500万年前頃と
 の見方が強まっていたが、アファール猿人以前の人類の祖先を知る具体
 的な証拠はなかった。
   今回、見つかったラミダス猿人は、正に、このアファール猿人と人類
 の起源とのギャップを埋める「ミッシングリンク(失われた環)」だ。
   500万年前からのわずか100万年ほどの間に、類人猿から猿人へ、二足
 歩行への移行を含む大きな変化があったかどうか、疑問視する見方もあ
 る。
   しかし、今回の化石は、中間的な特徴をかなり備えており、急速な進
 化を裏付けているようだ。
   「ヒトとサルとの分岐点が、500万年前ごろだったと考える上では有力
 な知見になる」という。
   「これが人類の第1号とは思わないが、見つかった最古の人類化石とい
 うだけで大きな意味がある」と、人類学者の間の評価は高い。
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紀元前400万年、人類登場。アウストラロピテクス(猿人・エンジン)、現
 在、認められている最初の人類。身長:約125センチメートル、脳の大き
 さ:約450立方センチ。
   前かがみだが二本足で歩く。~160万年前。前記の朝日新聞の報道の通
 り、人類の歴史はさかのぼった。
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紀元前370万年~紀元前100万年、アウストラロピテクス(猿人)
  最初の人類とされる。
  一定の道具を使用した。
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紀元前350万年、アフリカ大陸で人類が生まれた。
  人間の足跡の350万年前の化石がある。
  立って歩くという事は人間だけの特徴である。
   人は森にすむ猿から発達した。ある時、二本足で立った。
  ホモサピエンスと呼ばれる人間。
  人間の特徴は、言葉を話す、家族を持っている、などだが、二本で立
 って歩くのは最大の特徴である。
  恐竜の仲間のティラノサウルスも二本で立って歩くが、背骨をまっす
 ぐにしていない。
  また、前後を天秤の様にバランスを取って歩いている。
  人間の歩き方は非常な特徴がある。バランスを取って歩いている最大
 の特徴であり、いつから歩いたかが最大の謎であった。
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紀元前340万年~紀元前390万年、これまで見つかっている最も古い人類の
 先祖=アファール猿人が生息した。
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紀元前318万年、ルシーの死因
  「ルーシー」の愛称で知られる約318万年前の猿人の死因は、「木から
 落ちたためだった」とする研究成果を、アメリカのテキサス大学などの
 チームが発表した。
  地上の生活が増え、木登りの能力が落ちた可能性があるという。
  論文が、29日、イギリス科学誌ネイチャーに掲載された。
  ルーシーは、1974年に、エチオピアで骨が見つかった猿人の女性。
  地上と樹上の両方で暮らした初期人類で、それ以前の猿人より二足歩
 行に適応していたと考えられている。
  チームは、骨をコンピューター断層撮影法(CT)で分析。
  腕や足首などの折れ方から、12メートル以上の高さから落ちて骨折し
 た可能性があることが分かった。
  骨折が治った後がなく、チームは木から落ちた直後に命を落としたと
 推定した(読売新聞、2016・8・31)
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紀元前300万年~紀元前400万年、最古の人類であるエチオピアやタンザニ
 アから発掘されたアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレン
 シス)・・これを先祖としてアフリカヌス猿人やエチオピクス猿人など
 につながったとみられる。
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紀元前260万年~紀元前250万年、世界最古の石器
  ヒト属(ホモ属)によるものは、エチオピアはアファール盆地のゴナ
  (Gona) にある化石人類遺跡で発見された『オルドワン型礫石器群』(
 新生代第三紀鮮新世後期)
  ホモ・ハビリスによるものと推定される。
  『磨製石器の最古のものは日本の岩宿遺跡』・・日本の群馬県みどり
 市笠懸町にある岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で出土したもの、人の手
 によって磨きがかけられた石器としては、これが「世界最古」の石器で
 ある。
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紀元前260万年、世界最古の石器
  ヒト属(ホモ属)によるものは、エチオピアのアファール盆地のゴナ
 にある化石人類遺跡で発見されたオルドワン型礫石器群。
  約260万~約250万年前(新生代第三紀鮮新世後期)、ホモ・ハビリ
 スによるものと推定されている。
  (参考)オルドワン石器:堅いハンマーで打撃を加えて製作された剥
     片やチョッピング・ツールを特徴とする石器文化。
      製作は、250万年前に始まり、アフリカやアジアの各地で2万
     年前まで続く。 
      アフリカの大地溝帯(オルドヴァイ峡谷など)で遺跡ととも
     に最古の石器が発見される。
      これらの石器は、礫を打ち欠いて制作した簡単な礫器や剥片
     からなり、解体された動物骨とともに見つかる。 
      ホモ属(ホモ・ハビリスホモ・エレクトスなど)はもとよ
     り、アウストラロピテクス猿人などにより製作された可能性が
     ある。 
  また、これ以前には、加工しない自然石の使用もあったと予想される・・
 この場合、無石器時代と呼ぶ時代も予想される。
  因みに、我々ホモ・サピエンスの出現は、紀元前20万年である。
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紀元前250万年~紀元前280万年、南アフリカの洞窟から、新種の人類の化
 石が発見された。
  手足が人類のように進化している一方で、脳や肩などには原始的な特
 徴が残っている。
  研究者は、「約250万年~280万年前に生きた人類の可能性がある」と
 推定しており、猿人(アウストラロピテクス)から原人〈ホモ)へと進
 化する移行期の人類とみられる。
  そして、『ホモ・レディ』と名付けた。
  また、化石は、15本以上が特定の場所に集中した状態で見つかり、「
 葬られていた可能性がある」と指摘している(読売新聞、2015・9・11)
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紀元前250万年、「250万年前の人類、道具使い肉食」猿人から、現代人な
 ど「ホモ属」の人類につながる進化の道筋で、これまでの空白域を埋め
 る約250万年前の新種猿人の化石を、日本・アメリカ・エチオピアの研究
 チームがエチオピアで見つけた。
  23日付の米科学誌サイエンスに発表した(朝日新聞、H11/4/23)
  一緒に見つかった石器などから、道具を使って肉食をした最古の人類
 とみられている。
  化石が見つかったのは、アディスアベバから約250キロ北東の乾燥地帯。
  東京大学の諏訪元助教授や、米カリフォルニア大学バークリー校のテ
 ィム・ホワイト教授らのチームが、1996年~1998年12月にかけて調査と
 発掘をした・・6人分の頭部や腕、足の骨が得られ、年代測定で約250万
 年前のものと分かった・・一部の頭骨と歯の大きさから新種の猿人と判
 定し、現地語の「驚き」を意味するアウストラロピテクス・ガルヒと名
 付けられた・・腕の長さは、過去に見つかった猿人に近いが、脚の長さ
 は現代人に近かった・・また、同じ地層から見つかった石器や馬などの
 骨の状態から、この猿人は、石器を使ってこれらの動物の肉をそいだり、
 骨髄を取るなどしたりしていたらしいと分かった・・研究グループは、
 道具を使って肉食する種としては最古とみられるとしている・・これま
 で道具を使って肉食をした例としては、約200万年前に居たホモ・ハビリ
 スが最も古いとされていた・・諏訪さんは、「肉食になって栄養状態も
 良くなり、その後の脳の発達につながった可能性もある」としている・・
 アフリカでは、様々な猿人の化石が見つかっているが、300万年前~400
 万年前に居たと見られえるアファール猿人以降に、ホモ・ハビリスなど、
 ホモ属への枝分かれが始まったとみられている・・その途中をつなぐも
 のとしては、200万年~300万年前に居たとされるアフリカヌス猿人が候
 補だったが、はっきりした証拠はなかった・・今回の化石は、頭骨や歯
 の形などがアフリカヌス猿人とは異なり、アファール猿人の特徴を残し
 ていた・・諏訪さんは、「今回の化石は、アファール猿人とホモ属とを
 つなぎ、現代人の祖先となり得ることが分かった」と話して居る・・馬
 場国立科学博物館人類研究部長の話:「猿人からホモ属へ進化する道筋
 としては、これまでアフリカヌス猿人から進化したのか、そうでないの
 かがあいまいだったが、今回の化石でアフリカヌスを経由しないで進化
 していたことが、かなりはっきりしてきた。我々の祖先に直接つながる
 道筋が明らかになったことは、非常に意義深い」。
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紀元前250万年頃~紀元前180万年、この頃、石器の使用がはじまった。
  エレクトス原人が出現する(250万年前)。
  丹沢山地の大爆発(約250万年前)面積1万1750km2、降下火山灰のみの
 体積は2.8km3を超え、火山爆発指数VEIは5。
  オルドヴァイ文化、オルドワン石器
  (参考)オルドヴァイ文化:東アフリカのタンザニア北部にあり、リ
     ーキーらが調査したオルドバイ遺跡を標式とする世界最古の旧
     石器文化。
      その担い手は、アウストラロピテクスで、この文化は東アフ
     リカに始まり、中央アフリカを除くアフリカ全土、および、西
     アジアにひろがる。
      主体となる石器は、円礫、もしくは、角礫の一端を打ち欠い
     て刃をつけ、ものをたたき切ったりつぶしたりするのに用いた
     チョッパーであるが、その他、肉を切ったりものを削ったりす
     るスクレーパーをはじめ、数種類の石器があり、すでに用途に
     よって形態が分化していた。 
  (参考)円礫:えんれき、岩石の破片のうち、大きさが2mm以上のもの
     を礫といい、川原の玉石のような丸いものを円礫、砂利道の砂
     利のような角張ったものを角礫という。
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紀元前200万年頃、フィリピン海プレートに乗って移動してきた伊豆半島が、
 北アメリカプレートに衝突し、富士山や箱根などの噴火の引き金になっ
 た。
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紀元前200万年、氷河期に入った(~紀元前8000年)
  地球には、定期的に氷期(=氷河期)がやって来た。
  200万年前~1万年前(紀元前8000年)までを「氷河時代」と言う。
  そして、その後の紀元前8000年~現代を「後氷期」と言う。
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紀元前200万年、アフリカに、200万年前と思われる頃のホモ・ハビリス
 ら、アウストラロピテクス群、ジンジャントロプスを経て、50万年前の
 アトラントロプスに至る化石人類が存在する。
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紀元前200万年、現代人の祖先のホモ・ハビリスが生息した。
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紀元前200万年、人類の先祖が南アフリカの草原に出現する。
  (山極寿一・京都大学学長、人類学、霊長類学)は、
  「人類の祖先は森を出たことで、貴重な食物を持ち運び、仲間と共に
 食べる様になった。
  近年の研究では、人類が社会の発達させた根本要因として「食物の共
 有」が注目されており、「目の前にいない相手を思いやる共感の能力に
 基づく、最初に起こった人間らしい行動」。
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紀元前200万年~紀元前1万年旧石器時代と言い、土器を作る知恵を持た
 ない石器だけの人類の時代。
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紀元前200万年、ロブストス猿人が居た・・脳の重さは500グラム。
  同じ地層から石器が発見された・・脳が小さな猿人に石器が出来たの
 か?・・手の構造が石器を作るのを可能にしたのではないか・・親指の
 骨が猿と違う・・親指と人差し指で物を持つことができた。
  アファール猿人の手は、チンパンジーと似ている。
  ロブストス猿人は、器用で石器が作れた。
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紀元前200万年~紀元前300万年、現代人の先祖のアフリカヌス猿人、絶滅
 したロブストス猿人やボイセイ猿人の祖先のエチオピクス猿人が生息し
 た。
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紀元前200万年、猿人:能容積500㏄、ゴリラもこの程度、
  木製の道具を使ったか?)から原人(能容積500㏄から1200㏄、石器
 を使うようになる)へ移り変わって行く・・そして、この原人がアフリ
 カから出ていく(180万年前)・・ジャワへ180万年前から160万年前に
 至る・・ジョージアへ170万年前に至る・・アジアへ160万年前から120万
 年前に至る・・ヨーロッパへ100万年前に至る・・
  そして、各地で人種が形成されていく・・
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紀元前180万年、原人は、アフリカを出て、欧州やアジアに進出した最初の
 人類・・石器や火を使用したと考えられている・・人類の進化は、猿人
 →原人→旧人→新人(現生人類)と大きく4段階に分けられる。
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紀元前180万年、グルジアのクラ川下流の下カルトリ地方ドゥマニスィ(ド
 マニシ)で発見された化石は、ユーラシア最古の原人として知られる。
  180万年前~150万年前に、アフリカの地を脱してユーラシア大陸の熱
 帯・温帯に拡散したらしい。
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紀元前160万年、人類の先祖は、草原の生活で洗練された歩きをした。
  160万年前のホモエレクトス・・画期的な進化・・言葉が話せる脳の
 進化である・・まっすぐ立つことによって、喉の奥に空間が出来、複雑
 な音が出せるようになったからだった・・
  脳の拡大は、足や手が発達した後に与えられた・・木から降りて、猿
 と違って、二本の足で歩った・・アファール猿人から400万年が経ってい
 た・・人類は、またたく間に、地球の隅々に広がって行った。
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紀元前160万年、人類の先祖が、この頃、草原の生活で洗練された歩き方を
 始めた・・160万年前のホモエレクトスだった・・画期的な進化が現れた
 のだった・・垂直に立つことによって脳は進化し、重く、大きく・・言
 葉の話せる脳への進化だった・・情報伝達力の向上であった。
   アファール猿人の場合は、喉の奥が広くなく、まだ、音の種類は狭か
 った・・が・・まっすぐ立つことによって、喉の奥に空間が出来て、複
 雑な音が出せるようになった・・
  この脳は、足や手が発達した後に与えられたものだった・・
  木から降りて、猿と違って、二本の足で立って歩く生活になって・・
 貴方の祖先も・・ここから・・アダムとイブもここから・・キリスト教
 のアダムとイブの話の前に、これが無いと始まりません・・そうでなけ
 ればいけません・・その様な進化があったのでした・・
  『進化する力を持つ人間』が存在していた・・思考を固定化しては、
 発展はありません・・キリスト教は、この最初から間違っていた・・
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紀元前100万年、デニソワ人
  2010年3月25日付のイギリスの科学雑誌『ネイチャー』に、マックス・
 プランク進化人類学研究所の研究チームは、発見された骨のミトコンド
 リアDNAの解析結果から、「デニソワ人」は、100万年ほど前に現生人
 類から分岐した未知の新系統の人類と発表した。
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紀元前100万年~紀元前200万年、絶滅した猿人の祖先のロブストス猿人や
 ボイセイ猿人が生息した。
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紀元前100万年、現代人の祖先のホモ・エレクトス(原人)が生息した。
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紀元前80万4000年、「ネアンデルタール人」と「デニソワ人」の祖先が分
 岐した。
  2008年、ロシア西シベリア・アルタイ山脈のデニソワ洞窟で子どもの
 骨の断片が発見された。
  2010年12月23日、マックス・プランク進化人類学研究所などの国際研
 究チームは、『ネイチャー』に論文を掲載した・・その内容は・・、
  見つかった骨の一部は、5歳~7歳の少女の小指の骨であり、細胞核
 NAの解析の結果、デニソワ人はネアンデルタール人と近縁なグループ
 で・・80万4000年前に、現生人類であるホモ・サピエンスとの共通祖先
 からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐し、64万年前にネア
 ンデルタール人から分岐した人類であることが推定された。
  デニソワ洞窟は、ネアンデルタール人化石発見地のうち最も近いイラ
 ク北部シャニダール遺跡から、約4000kmの距離を隔てている。
  メラネシア人のゲノムの4%~6%がデニソワ人固有のものと一致する
 ことから、現在のメラネシア人にデニソワ人の遺伝情報の一部が伝えら
 れている可能性が高いことが判明した。
  また、中国南部の住人の遺伝子構造の約1%が、デニソワ人由来という
 研究発表も、スウェーデンのウプサラ大学の研究チームより出されてい
 る・・ネアンデルタール人と分岐した年数も、35万年ほど前との説もあ
 る・・ジョージ・ワシントン大学の古人類学者のブライアン・リッチモ
 ンドは、デニソワ洞窟で見つかった巨大臼歯からデニソワ人は体格はネ
 アンデルタール人と同じか、それよりも大きいとみている。
  概略のところは、40万年前~30万年前にアフリカを出て、中東を経て、
 ヨーロッパに拡がった集団がネアンデルタール人に・・中東を経て、ア
 ジア内陸部に移動した集団がデニソワ人になった。
  それに遅れて、6万年前~5万年前に、アフリカを出た我々現生人類(
 ホモ・サピエンス)の祖先は、まず、中東でネアンデルタール人と交わ
 り、さらに、アジア内陸部でも先住者のデニソワ人と交雑し、世界中に
 拡がって現在に至ったという推定もある。
  ネアンデルタール人やデニソワ人は、その後、絶滅してしまったが、
 アフリカ土着のネグロイドを除く現在の現生人類遺伝子のうち数%は、
 ネアンデルタール人由来である。
  中東での現生人類祖先とネアンデルタール人との交雑を示す研究成果
 は、2010年5月に発表されているが、2010年12月に、アジア内陸部におけ
 るデニソワ人とも現生人類祖先は交雑したとする研究結果が出たことか
 ら、この結果が正しければ、過去には異種の人類祖先同士の交雑・共存
 は「通常のことだった可能性が出てきた」。
  (この例の様に、我々の祖先は、広い交雑域の中に、長い長い年月に
 居た・・アイヌ琉球は別民族というキリスト教系大学の独断は、まっ
 たくの科学性のない主観的見解である)
  なお、アジア内陸部で、デニソワ人と交雑した現生人類祖先は、その
 後、長い期間をかけてメラネシアなどに南下していったと考えられてい
 る。
  また、中国方面に移住したグループは漢民族となり、高地に移住した
 グループはチベット人の「別民族となった」。
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紀元前70万年、ジャワ原人:まっすぐ立って歩く。身長:約150センチメー
 トル、脳の大きさ:約900立方センチ。~紀元前50万年まで。
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紀元前70万年、ペキン原人:石器や火を使っていた・・家族で生活をして
 いた。身長:約150センチメートル、脳の大きさ:約1000立方センチ。
 ~紀元前20万年まで。
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紀元前55万年、日本列島を形成する要素の一つの堆積が始まる。
  日本列島形成の一例・・55万年前から、55万年かかって南海トラフ
 堆積層が作られて来た・・この堆積層が、プレートテクトニクスによっ
 て列島を作っていく。
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紀元前50万年、伊豆半島の衝突が始まる。
  その力で、本州に褶曲山脈が作られた・・伊豆半島は、巨大な海底台
 地となる・・伊豆・小笠原弧の高まりは、次々に本州に衝突して来た。
  海洋プレートの水分の作用で温められマントルが熔け、火山の列を作
 った・・火山の列は、海溝に並行して作られた・・また、地震震源が、
 海溝に並行して分布し、プレートの沈み込みによって歪が溜まる。
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紀元前約50万年前、北京原人
  中国北京郊外、周口店の石灰岩洞穴から発見された化石人類。
  更新世中期、50万~20万年前の生息と推定されている・・原始的な石
 器を用い、火を使った・・ホモエレクトゥス‐ペキネンシス
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紀元前50万年、アフリカに50万年前のアトラントロプスに至る化石人類が
 存在する。
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紀元前45万年~紀元前1万年、台湾沖の海底から原人の化石が見つかった・・
 台湾と台湾西方沖にある澎湖諸島とには挟まれた海域・・下あごと歯は
 大きく進化の初期の特徴をとどめている・・既知の原人とは別の集団と
 見られている・・教科書を塗り替える発見という・・国立科学博物館
 どの国際チームが発表予定(読売新聞、2015・1・28)
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紀元前約40万年前、マンモスは、北東シベリアで誕生したとされている。
  別の説は、最古のマンモスが、約500万年前~400万年前、北アフリカ
 において生まれたと考えられている・・
  また、別の説は、マンモスゾウの化石は、これまでおもに、ユーラシ
 ア北部から北アメリカ北部にかけての約11万5000年前から1万年前にかけ
 ての地層から発見されている。
  しかし、2001年に、東シベリア海東部のウランゲリ島で発掘されたマ
 ンモスゾウの化石は、7000年から4000年前のものだった・・もっとも新
 しい発見。
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紀元前40万年、ネアンデルタール人がアフリカを出た。
  40万年前~30万年前に、アフリカを出て、中東を経て、ヨーロッパに
 拡がった集団・ネアンデルタール人に・・、中東を経てアジア内陸部に
 移動した集団がデニソワ人になった。
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紀元前40万年、ネアンデルタール人は、約40万年前に出現し、2万数千年前
 に絶滅したとみられるヒト属の一種・・ただし、新しい学説では、以前
 の学説よりも約1万年早く4万年前に絶滅していたと新しい化石年代は示
 しているとする・・そのネアンデルタール人は、花を敷いて葬送したと
 いう・・また、身体的に欠陥のある人(手の悪い人)を丁重に葬ったと
 いう遺跡があるという。
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紀元前35万年、ナウマン象が、日本列島に現れた。
  日本列島の旧石器時代は、日本列島へ人類が移住して来た時に始まり、
 その終りは1万6000年前である・・最終氷期の時に、大陸と繋がった北海
 道だけはマンモス動物群が宗谷陸峡を渡って来ることが出来た・・ナウ
 マン象は、約35万年前に日本列島に現れ、約1万7000年前に絶滅した。
  長野県野尻湖遺跡の約4万年前の地層からナウマン象の骨製品がまと
 まって発見された。
  12万年前の島根県出雲市多岐町砂原にある砂原遺跡は、中期旧石器時
 代の遺跡である。
  岩手県遠野市の金取遺跡(9〜8万年前)から中期旧石器が発見されて
 いる。
  そして、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続けられ
 た栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確
 認されている。 
  日本の旧石器時代の調査・研究が始まるきっかけを作った相沢忠洋
 の岩宿での旧石器が発見され・・それ以降、日本列島の全域で4000ヶ所
 を超える遺跡が確認されている・・そして・・これらの遺跡のほとんど
 が約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代となる。
  日本列島の後期旧石器時代は、3.5万年前に始まり、縄文時代へ移行す
 る1.5万年前までの「2万年間続いた」。
  遺跡は、樺太から沖縄まで約1万ヶ所以上が確認された・・また、青森
 県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性
 炭素年代測定暦年較正年代法で、1万6500年前と出た。 
  北海道の何万年も続く旧石器時代・・そして、それに続く1万年以上の
 縄文時代弥生時代に生きた本当の日本の先住民・・日本の本当の祖先
 たちは、この様な長い年月を北海道の地にも居た。
  その北海道の生活の痕跡は、本州奥羽地方などより、逆に濃いのだと
 古代史研究家の歴史学者(東大教授)は言う。
  わずかな年数・・最近の七百年前に、北海道に来たアイヌが日本の先
 住民であるはずがない。
  日本の政治家は、圧力に屈して「アイヌが先住民」という法律を作っ
 てしまったが、これは間違い・・この科学的に間違った法律は改正すべ
 きである・・また、圧力をかけた者は、「間違いを認めて、謝罪を表明
 すべきである」・・また、この者たちへ数々の名目で渡した金は「その
 返済を求めるべきである」・・その返還訴訟もすべきである。
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紀元前35万年、日本列島にナウマン象が現れる(~1万7000年前に絶滅)
  ナウマン象は、約35万年前に日本列島に現れ、約1万7000年前に絶滅し
 た。
  日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(間宮・宗谷・津軽・対
 馬海峡)を通って、色々な動物が渡って来たと考えられている・・さら
 に、それらの動物群を追って旧石器人が渡って来た・・最終氷期に大陸
 と繋がった北海道だけは、マンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってくること
 が出来たので、それらの混合相となった。
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紀元前23万年頃、ネアンデルタール人が出現した。
  この頃、温暖期のピーク。
  この後、緩やかに寒冷化へと向かい、14万年前頃に氷期のピークとな
 った。
  別の説は、約25万〜3万年前に、欧州と西アジアに住んでいた。
  また、別の説は、第三間氷期およびビュルム氷期第一期、年代として
 は15万年前~3万5000年前に生存していたと考えられている。
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紀元前20万年頃~紀元前19万年、ホモ・サピエンス(現在のヒト)が出現
 した。
  別の説は、ヒト属とチンパンジーの共通祖先が分岐したのは・・およ
 そ200万年前~1000万年前・・、ホモ・サピエンスホモ・エレクトス
 共通祖先が分岐したのは・・およそ20万年前~180万年前と見られている。
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紀元前20万年、人類の起源のホモ・サピエンスが、アフリカに登場した。
  人類はアフリカに誕生したあと、数回にわたってアフリカからユーラ
 シア大陸へと移動した・・しかし、現在のように地球の広い範囲に拡散
 移動したのはホモ・サピエンスの登場以降のことである。
  現代に生きる人類の起源を遺伝学的に研究すると、20万年前ごろにア
 フリカにいた人類集団の一つにその起源をたどれる
  ホモ・サピエンスが全地球的な拡散をはじめたのは、今から5万年前頃
 であった。
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紀元前20万年~10万年前、人類がアフリカに誕生した。
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紀元前20万年頃~紀元前19万年、ホモ・サピエンス(現在のヒト)が出現
 した。
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紀元前20万年、現在の人間と同じ形質を持ったホモ・サピエンス(新人)
 が出現した・・このホモ・サピエンスは、二度の氷期を乗り越えた・・
 「リス氷期」「リス・ビュルム間氷期」「ビュルム氷期」を経て現在に
 至った。
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紀元前20万年、現生人類が生まれた。
  この時の世界人口は・・と言ってもアフリカだけに居たのであるが、
 5000人程度と言われている・・そして、生涯出  産数は4.4程度で、生後
 1年間に4分の1近くが死亡しただろうと推定されている・・平均寿命は20
 歳ちょっとぐらいとされている。
.
紀元前20万年、旧人(能容積1500㏄、現代人とほぼ同じ容積)から新人(
 ホモ・サピエンス)へ・・
  この新人(ホモ・サピエンス)がアフリカから出ていく・・ホモ・サ
 ピエンスの化石はアフリカか中東からしか出土しない・・その他の地域
 から、ホモ・サピエンスの化石が出て来るのは紀元前5万年前くらいの年
 代からとなる・・
  ヨーロッパからの化石の出土も紀元前4万年くらい前からとなる・・南
 アジア・東アジア・オーストラリアも、どんなに古くても紀元前4万年く
 らい前からの化石の出土となる。
.
紀元前15万年頃、マンモスがヨーロッパに現れた。
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紀元前15万年、日本は大陸とつながっていた。
  この頃のリス氷期末期、日本は樺太ともつながり、また、朝鮮半島
 中国とも繋がっていた。
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紀元前15万年~紀元前7万年、対馬海峡ができる。
  対馬朝鮮半島の間の対馬海峡ができた。
.
紀元前14万年頃、氷期(リス氷期)のピーク。
  この後、急速に温暖化へと向かった。
.
紀元前13万年頃~紀元前12万年、温暖期のピーク。
  現在よりも温暖であったと考えられている。
  この後、急速に寒冷化し、約11万年前頃から緩やかに上下を繰り返し
 ながら徐々に氷期へと向かった。
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紀元前12万5千年頃、初期のヒト属による火の利用
  日常的に、広範囲にわたって、火が使われるようになったことを示す
 証拠が、約12万5千年前の遺跡から見つかっている。
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紀元前12万年、日本の旧石器時代の始まり・・
  日本に人類が移住して来た時が始まり、旧石器時代は無土器時代、先
 土器時代、先縄文時代ともいう・・日本列島での人類の足跡は、12年前
 (島根県出雲市多伎町砂原、砂原遺跡)がある。
  因みに、日本人の祖先たちは、舟に乗って海上をかなり自由に往来し
 た・・それは、伊豆諸島や神津島産の黒曜石が、関東地方の後期旧石器
 時代の遺跡から発見されている事からも分かる・・また、特筆できるこ
 とは、磨製石器の世界最古のものが日本列島で製作されていて、かなり
 独自の文化が形成されていたと言える・・その年代は4万年前~3万年前。
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紀元前12万年、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)の前期旧石器など
 の遺物が発見されている。
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紀元前12万年前、島根県出雲市の砂原遺跡
  砂原遺跡の前期旧石器などの遺物が発見されている。
.
紀元前12万年、デニソワ人の旧人が日本列島に居た。
  現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前にアフリカを出発し、そ
 れ以前にはアフリカ外には分布していなかった。
  従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのはデ
 ニソワ人などの旧人である・・日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス
 が現れるのは4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハプロ
 グループD1b (Y染色体)の起源年代とおおむね一致する。
  (参考)デニソワ人:ロシア・アルタイ地方のデニソワ洞窟(ロシア、
     中国、モンゴルの国境に近い地域)に約4万1千年前に住んでい
     たとされるヒト属の個体および同種のヒト属の人類である。
      デニソワ洞窟は、アルタイ地方の中心都市バルナウルから約
     150km南方に位置する・・Homo sapiensの亜種とされることが多
     い・・ネアンデルタール人と並んで、我々現生人類であるホモ・
     サピエンス・サピエンスに最も近い化石人類である。
      また、現生人類の一部(メラネシア人など)と遺伝子情報を
     部分的に共有する可能性が高いとしている。
      マックス・プランク進化人類学研究所の研究チームは、発見
     された骨のミトコンドリアDNAの解析結果から、デニソワ人
     は100万年ほど前に現生人類から分岐した未知の新系統の人類と
     発表した。
.
紀元前12万年、ナウマンゾウが本州から津軽海峡を渡って北海道へ行った。
  紀元前1万3000年になると、最後の氷期は終了した。
  この氷期には、海水面が80~140mも下がっていて、津軽海峡や宗谷海
 峡がなくなっていて大陸と地続きとなっていた。
  幕別町忠類村(ちゅうるいむら)で見つかったナウマンゾウの全身化
 石は、12万年前のものだった。
  このゾウは、本州から津軽海峡を渡って北海道へ行った・・
  また、その様なゾウを食糧としようと本州から人々が渡って行った。
  4万5千年前から2万年前頃になると、サハリンを通って大陸から渡っ
 てきたマンモスゾウがいた。
  マンモスゾウを追って、北海道に北方の人々が渡って来た。
  また、渡ることが出来る津軽海峡で、北海道と本州の人の行き来がな
 されていた。
  日本人の先住民である縄文文化の人びとの暮らしが、北海道各地に残
 された遺跡から知ることができる。
  北海道では、旧石器文化縄文文化など約1万2,000ヶ所の遺跡が確認
 されている。
  そのうちの約7,000ヶ所という多くの遺跡が、縄文時代の遺跡となっ
 ている。
  日本の各地を、沖縄から北海道まで、アフリカからの人類のうねりの
 様に、日本の先住民たちは移動し、そして、交雑した。
  縄文文化の遺跡から、住居や「ムラ」の跡、土器や石器などの道具が
 たくさん見つかっている。
  墓地や水場、狩りの跡なども見つかる。
  また、北海道では、多くの「貝塚」も見つかっている。
  伊達市北黄金貝塚からは、ハマグリ、カキ、ホタテなどの貝がらだけ
 でなく、マグロやヒラメの骨、オットセイやクジラなど海獣の骨、さら
 に、縄文文化の人びとのお墓やシカの頭の骨をならべた儀式の跡なども
 見つかっている・・この人たちはアイヌの人々とは違う。
  釧路市にある東釧路貝塚からも、貝類や魚の骨のほか、イルカの頭骨
 を放射状に並べたものが出土している。
  縄文文化の人びとは、すべてのものや事象に魂があると考えていた。
  「貝塚」は、人びとが使い終わったものを、恵みをもたらしてくれる
 世界へ送る場だったと想像もできる。
  函館市大船遺跡や垣ノ島遺跡で見つかった「盛土(もりど)」遺構も、
 同じような祭祀や儀礼の場であったと想像され推定されている。
  このような「送り場」は、縄文文化の人びとの精神文化を伝えてくれ
 ていると推定されている。
  北海道北東部には、約7,000年前に「石刃鏃(せきじんぞく)」とい
 う独特な鏃(やじり)が伝わった。
  これはシベリアなど大陸の影響を受けたものと想像されている。
  また、北海道の西南部と津軽海峡を挟んだ北東北は、縄文時代前・中
 期に同じ特徴の円筒状の土器を使うなど、共通の文化圏を持ち、つなが
 りがあった。
  このことからも津軽海峡を挟む18ヶ所の縄文遺跡群は、現在、世界遺
 産登録を目指している。
  北海道からは、北黄金貝塚、入江・高砂貝塚、鷲ノ木遺跡、大船遺跡、
 キウス周堤墓群、垣ノ島遺跡の6ヶ所が入っている。
  (北海道博物館 赤れんがサテライトを参考にした)
.
紀元前11万年、気候が冷涼になった。
  約11万年前には気候が涼しくなり始めた。
.
紀元前10万年頃、マンモスは、ヨーロッパから北アメリカ大陸にまで生息
 分布を広げた。
  マンモスは、寒冷な草原での生活に適応していた。
.
紀元前10万年頃、現代人(ホモ・サピエンス)が、アフリカを出て、世界
 各地に拡がった。
  日本列島での人類の足跡は、9〜8万年前(岩手県遠野市金取遺跡・中
 期旧石器)に遡(さかのぼ)る。
  現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前にアフリカを出発した(
 別説)
.
紀元前10万年頃、現代人(ホモ・サピエンス)が、アフリカを出て、世界
 各地に拡がった(アフリカ単一起源説を裏付けるもの)
  7万年前との説(後述)もある。
  ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分岐年代は14万
 3000年前±1万8000年である。
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紀元前10万年、現代人が生まれた。生命の発生を1月1日とすると人類の誕
 生は12月31日午後11時47分である。
  その時から、脳の大きさは変わってないと言われている。
  新しい進化を人類はしている。
.
紀元前10万年、ネアンデルタール人が生きた。
  石を叩いたり、削ったりして、尖らせて石槍や石斧を作った。
  火も使って、肉を焼いて食べた。
  身長:約170センチメートル、脳の大きさ:約1400立方センチ。~紀元
 前3万5000年まで。
.
紀元前9万年~紀元前8万年、日本列島での人類の足跡は、9〜8万年前(岩
 手県遠野市金取遺跡・中期旧石器)に遡(さかのぼ)る。
  この時代に属する遺跡は、日本列島全体で数千ヵ所と推定されている。 
  地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世
 頭までである。
  (参考)更新世:こうしんせい、地質時代の区分の一つで、約258万年
     前から約1万年前までの期間。
      大陸の形は現在とほとんど変わらないが、氷期間氷期の氷
     床の拡大・縮小による海水準変動に伴って、海岸線の位置が移
     動した。
      更新世の後期では海水準にして百数十メートルの変動があっ
     た。
      海水準が低下した時期は、現在浅い海である海域の多くが陸
     地となっている。
  また、日本列島は、氷床によって大陸と陸続きだった。
  完全に渤海は氷床に埋まり、また、黄海も完全に氷床に埋まり、東シ
 ナ海も北半分は氷床に埋まっていた。
  また、対馬海峡も氷床で埋まり、台湾も大陸と氷床で埋まり地続きだ
 った。
  人類は容易にこの氷床上を歩いて日本に渡って来れた。
  また、樺太と大陸は地続きで、樺太から北海道、本州、四国、九州は、
 氷床があり歩いて渡れる状態にあった。
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紀元前9万年、9万年前、阿蘇山が大爆発した。20Kmのカルデラが出来た。
  溶岩流が山口県まで達した。
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紀元前8万1000年、地球温暖化に伴う海面の急速な上昇が起こっていた。
  国際研究グループが、気候変動に伴う氷床の拡大、縮小は、今まで考
 えられていたよりも急速に起きる可能性があると発表した。
.
紀元前7万5000年頃、世界最古の装身具の貝殻ビーズ
  南アフリカ共和国の都市ケープタウンの300km東に所在する『ブロン
 ボス洞窟遺跡』にある約7万5000年前の地層から、大きさが完璧に揃っ
 ている上に、例外なく開口部の反対側の同一箇所に孔が開いている巻貝
 の貝殻が60個あまり発見された。
  孔は、ビーズ飾りを作るための、紐の通し孔であったと考えられてい
 る。
.
紀元前7万3000年頃、スマトラ島のトバ火山の大噴火。
  スマトラ島のトバ湖は、この時の噴火によって形成されたカルデラ湖。
  ここ10万年ほどでは、最大級の噴火とされ、地球の気温が数年間3度~
 3.5度低下した。
  ヒトのDNAの解析によれば、7万年ほど前に、人類の人口が1万人以下
 に激減し、遺伝的な多様性の多くが失われ現在の人類につながる種族の
 みが残った。
  「ボトルネック効果(遺伝子多様性減少)」があったと考えられるが、
 これが、トバ火山の大噴火に関連すると考えられている。→ トバ・カタ
 ストロフ理論、
.
紀元前7万年、ヒトが、衣服を着るようになり、ヒトに寄生するヒトジラミ
 は、7万年前に2つの亜種、主に毛髪に寄宿するアタマジラミと、主に衣
 服に寄宿するコロモジラミに分岐した。
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紀元前7万年、この頃のヒトの出アフリカ説。
  7万年前±1万3000年に、ヨーロッパ人と日本人の共通祖先が分岐。
.
紀元前7万年~紀元前6万年、この頃から人類発生地点のアフリカから世界
 へ、地球全域へと本格的に広がって行ったという。この頃の世界人口は、
 50万人と推定されている。
.
紀元前7万年~紀元前1万年、ビュルム氷河期
  この時、ヨーロッパは氷の中だった。
.
紀元前7万年~紀元前1万年、ビュルム氷河期
  この時、ヨーロッパは氷の中だった。
  この地球の寒冷化の時、この寒冷化によって南方に下りた偏西風が、
 サハラ砂漠北部や、アラビア半島北部、イラン高原に雨を降らせ、緑の
 草原にした。
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紀元前7万年、ヒトが、衣服を着るようになった。
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紀元前7万年前、人間の認知能力が、この頃、より向上した。
  (参考)認知:にんち、ある事柄をはっきり認める事。
  (参考)認知考古学:にんちこうこがく・・
     心の進化を研究する進化心理学を取り入れ、遺物・遺跡の分析
     から古代人の精神状態を解明しようとする、新しい研究分野。
.
紀元前6万5500年、メキシコのユカタン半島小惑星が衝突した。
  これによって恐竜が絶滅した。
  また、2013年2月、ロシア中部に、直径20メートル(推定)の小惑星
 落下し、1000人を越えるけが人が出た。
  宇宙航空研究開発機構JAXA)の吉川真准教授によると地球に接近す
 る可能性がある小惑星は、これまで約1万6000個が確認されている。
  直径数百メートル以上の小惑星が、地球に達する恐れはないと見られ
 ている。
  地球に接近する小惑星や彗星(すいせい)を国際協力で早めに観測し、
 衝突を回避しようとする動きが盛んになってきた。
    (読売新聞、2017年5月4日を参考にした)
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紀元前6万年~紀元前5万年、アフリカを出た私たちホモ・サピエンスの祖
 先は、6万年前〜5万年前頃には、東アジアにまで到達していたと考えら
 れている。
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紀元前6万年、現生人類(ホモ・サピエンス)が東アジアに到達した。
  アフリカを出た私たちホモ・サピエンスの祖先は、5万年前〜6万年
 前頃には、東アジアにまで到達していたと考えられている。
  研究者の多くは、4万年前頃に、旧石器時代の遺跡が急激に増えること
 から、現代人につながる人々が少なくともその頃に日本で暮らしていた
 と考えている。
  ところが、実際は、さらに古い遺跡も見つかっている。
  岩手県遠野市では、8万5000年前~5万年前と推定される遺跡が見つか
 り、石器も出土している。
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紀元前6万年~紀元前4万年、大陸と地続きだった日本列島に、あらゆる方
 向から人類がやって来た。
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紀元前6万年~紀元前4万年、大陸に地続きだった日本列島に、あらゆる方
 向から人類がやって来た・・
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紀元前6万年、板状の木製品が出土した。
  板状の木製品は、明石市西八木遺跡で、約6〜5万年前の砂礫層の中か
 らハリグワという広葉樹を用いた板状の木製品(加工痕のある木片)が
 出土した。
  この木片は、長さ23.4センチ、最大幅4.8センチ、厚さ4ミリで、少な
 くとも2種類の石器で加工されている。
  用途はまだ分かっていない。
  この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代の板ということに
 なり、旧人が工作した板ということになる。
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紀元前5万年以上、原人:「ホモ・ルゾネンシス」がフィリピンで発見され
 る。
  2018年4月11日の読売新聞に・・新「原人」化石、フィリピンに。
  アジアで5番目・・と報道されていた・・
  以下、その記事の抜粋・・
  フィリピン・ルソン島で、新種の人類の化石が見つかったと、フラン
 スとフィリピンなどの研究チームが発表した。
  同島に5万年以上前に生存していた原人とみられる。
  (参考)原人:人類の進化は5段階(初期の猿人、猿人、原人、旧人
     現生人類)に大別され、その3段階目にあたる。
      猿人とは違い、アフリカからユーラシア大陸に進出した。
      猿人より脳が増大し、顎や歯が縮小した。
  アジアで発見された第5の原人となり、同チームは「東南アジアの島々
 における人類の進化の複雑さなどを示す発見だ」としている。
  論文が11日、英科学誌ネイチャーに掲載される。
  化石が見つかったのは、同島北部のカラオ洞窟。
  歯や手足の骨の化石で、分析した結果、猿人の様な原始的な特徴と30
 万年~20万年前に誕生した現生人類(ホモ・サピエンス〉などに似た特
 徴が混在し、同時代にアジアにいた他の原人と異なっていた。
  同チームは新種と判断し、「ホモ・ルゾネンシス」と命名した。
  化石の年代測定から、5万年以上前に同島にいたとみられる。
  アジアの原人は、中国の北京原人インドネシアジャワ原人とフロ
 ーレス原人、中国の和県人(わけんじん)、台湾の澎湖人(ほうこじん)
 が過去に見つかっていた。
  ホモ・ルゾネンシスの臼歯は極端に小さく、海部陽介・国立科学博物
 館人類史研究グループ長は・・身長1メートルあまりのフローレス原人の
 ように「小型化していた可能性がうかがえる」と指摘。
  「アジアの島々では非常に独特は進化が起きており、他の島でも新種
 が見つかる可能性がある」と話す。
  ・・以上・・
 (関連事項):
  以上の話の中に、日本の先住民として、アイヌの根拠となる話はまっ
 たく出て来ない・・また、想像も、まったくできない。
  それは、アイヌは、それよりズーット後の世の1300年代にできたこと
 が科学的に判明していて、分かっているからで・・
  アイヌは、まったく先住民ではない・・
  その様なことが分かっていながら、今、日本では、まったく異常な、
 非科学的な、また、まったく根拠のない「アイヌが日本の先住民族だ」
 という政治的決議がなされようとしている。
  今回の地方選で演説していた立憲民主党の女性議員と話し合ったが・・
  その論理に、まったく科学的な根拠がなく、ただ政治的な動きで「先
 住民としようとしていることが、はっきりわかった」。
  その議員が、「北海道でアイヌは先住民として生きて来た」と主張し
 たので・・
  「北海道には、アイヌの人たちより何万年も前から縄文人の人たちが
 居たのですよ。縄文遺跡もいっぱいありますよ」と教えてあげた。
  「アイヌは日本人なんです」と主張したので・・
  「そうです。しかし、樺太アイヌは日本人ではありません」と答え
 た・・
  「私は人類学をやって来た」と主張したので・・
  「そんな看板で話はしないでください」と言った。
  「国連が決めているから」と主張したので・・
  「国連が間違ったことを決める訳がない。国連が間違っているのなら、
 国連に科学的に正しいことを教えてやってください」と伝えた・・
  「アイヌの言語が独特だ」と主張するから・・
  「言語が独特というなら、1例として中米のインディオの方々には160
 もの言語があるのです。160もの先住民が居るという事ですか?」と・・
 返事が出来ない、答えられない。
  「北海道にはアイヌの地名が一杯ある」と主張するので・・
  「アイヌの地名なら九州にだってあるんですよ」と説明する。
  「学者・専門家に言って下さい」と主張するので・・
  「学者にも言っています。今は、間違っている政治家のあなたに間違
 いを説明しているのです」と言った。
  などなど・・最後は、応援演説をしたいのでと言って逃げた。
.
紀元前5万年、ホモ・サピエンスが全地球的な拡散をはじめたのは、今から
 5万年前頃であった(別説もあり)
.
紀元前5万年、オーストラリアに住む先住民族アボリジニの方々がアジア
 から海を渡って、オーストラリアに住み着いた。
  1998年現在の人口は、約28万人。
  ほとんどが、シドニーなど都市化の進んだ南部に住み、都市部のライ
 フスタイルで生活している。
  しかし、中には、中央砂漠や北部海岸にある保護区などで、昔ながら
 の狩猟採集生活を送る人も居る。
  昔の様な槍やブーメランで獲物を仕留めるわけではない。
  四輪駆動車に乗って、銃でカンガルーなどを獲っている。
  イギリスから白人たちがオーストラリアに来て、あたかも動物の狩り
 をするように殺された先住民・アボリジニの方々。
  民族絶滅の道を歩んでいる。
.
紀元前5万年、アボリジニの方々が、スンダランドからオーストラリアに来
 た。
  その時以来、延々と、アボリジニの方々は、オーストラリアに住み続
 けた。
  完全に、オーストラリアの地はアボリジニの方々の地となった・・国
 となった。
  だが、しかし、その時から50000年以上も後になって、
 キリスト教の白人たちがやって来た。
  今、紀元2000年が過ぎた頃である。
  このアボリジニの方々が、オーストラリアを国にして来た『50000年と
 いう年月』にどのくらいの重みがあるのかを考えて見なさい。
  1642年に、オランダ人のアベル・タスマンがタスマニア島を発見した。
  (このタスマニア島アボリジニの方々も、白人キリスト教徒に、こ
 の後、絶滅させられる)
  そして、このアベル・タスマンは、この後、ニュージーランドを発見
 している。
  17世紀末に、イギリス海賊のウィリアム・ダンビアがオーストラリア
 西海岸に上陸した。
  (結局、このイギリスがオーストラリアを奪う)
  このダンピアノ報告を受けたイギリス王立協会は改めて調査船を派遣
 した。
  1766年、イギリスは、ジェームス・クックを派遣し、
  1766年10月7日にニュージーランドを発見し、
  1770年4月20日に、オーストラリア東海岸を発見した。
  1770年4月29日に、シドニー南方のボタニー湾に上陸した。
  クックは、この東海岸一帯をイギリス国王ジョージ3世の名において領
 有すると宣言した。
  (「天の名において、この領有を認めない」)
  そして、この地を「ニュー・サウス・ウエールズ」と命名した。
  そして、18世紀に後半に至ると、イギリスは、この地の開発を本格的
 に進めることにした。
  この計画の当初より、全住民のアボリジニの方々の殺戮が計画(全滅
 計画)として卑劣にもあった。
  そして、資源獲得と囚人対策があった。
  イギリスという国のこの方針により、先住民のアボリジニの方々は殺
 戮され始めた。
  アボリジニの方々に言わせれば、当然、『私たちの地が、イギリスに
 侵略された』となった(これが正論)
  そして、アボリジニの方々は、動物の狩りをされるように射殺され続
 けた。
  「今日は、○○匹を獲った」と書かれた日記が残されている。
  もしアボリジニの方々が、この逆の行為をしたら『正当』とイギリス
 は認めるのか?
  イギリスは、その考え方を受け入れられるのか?
  自分たちは、アボリジニの方々に対して行っておきながら、その行為
 を、当然、受け入れられないだろう。
  その様なことを、イギリスはしたのだ。
  アボリジニの方々が、最新式の武器を持って、イギリスへ上陸し、イ
 ギリスがやったことと同じことをやった
 なら、その行為を、イギリスは、認められるか?
  アボリジニの旗を立て、領有したと宣言したら・・、
  「君たちを同じことをしているのだ」という論理は、認められるか?
  イギリスに問う?
  または、悔い改めて懺悔せよ。
  キリスト教聖職者たちが、陰の任務として、『侵略の尖兵』としての
 任務を与えられて、世界のあちこちで植民地化の可能性を探るスパイ行
 為にうごめいていたが・・
  最悪の暗躍の極悪行為をしていたが・・
  すべての悲劇は、ここから始まった。
  アメリカ大陸のインディオの方々は、1000万人を越える、途方もない
 数の方々が殺された。
  悪の殺戮行為を、歴史上、長い長い期間、やって来ている。
  いい加減止めれば良いものを・・
  今・現代も、『形を変えて』、日本などで、色々な工作をしている。
  放送媒体にも潜り込んでいる、NHKにも潜り込んでいる。
  官僚にも、教育界にも、その他にも潜り込んでいる。
.
紀元前5万年、ベーリング海峡を渡って、東ユーラシア大陸の人々がアメリ
 カ大陸へ渡った。
  また、約3万年前~1万3000年前のウルム氷期の最寒期とされる頃に、
 ベーリング海峡地域は陸地化していて、いわゆるベーリンジアとなって
 いた。
  ユーラシア大陸モンゴロイドは、このベーリング地峡を渡ってアメ
 リカ大陸に進出した。
  (参考)ベーリンジア(ベーリング陸橋):現在のベーリング海峡
     近に、上部洪積世氷期に陸化していた陸地のこと。
      人類の新大陸への渡来の経路、および、時期と深くかかわり
     あう、その古環境とともに注目されていて、ベーリンジアいわ
     れる。
      氷河形成による海水面低下により出現したもので、陸橋が存
     在していたのは約5万年前から約3万5000年前までの期間と、約
     2万5000年前から約1万年前までの期間だという。
  日本には、「血は争えない」という言葉がある。
  ベーリング海峡が、まだ地続きだった頃、だから、大昔の大昔、日本
 などの東ユーラシア大陸の人々が、その地続きのベーリング海峡を歩い
 て渡って、アメリカ大陸へ行った。
  そして、とうとう、風の吹きすさぶパタゴニアまで、南アメリカ大陸
 の南の最南端まで行き着いた。
  だから、アメリカ大陸、北米・中米・南米、そして、その離島まで、
 その東ユーラシアの人たちで満ちた。
  北アメリカ大陸を見ても、北はアラスカなどのエスキモーの方々、そ
 して、アメリカ合衆国アメリカ・インディアンの方々、その隣のメキ
 シコ・インディオの方々。
  しかし、「カナダが未定となっている・・空白となっている」・・??
  何故なのだ??
  そこにも、人が居たわけだ・・東ユーラシアからの人が・・。
  そして・・それが・・分かった。
  最近、カナダへ旅した方の写真に、今は居ないカナダ・インディアン
 の方々の集落の写真があった。
  このカナダ・インディアンの方々の記念館もあった。
  「このカナダ・インディアンの方々は、今、存在しているのですか?」
 との質問をした・・、
  かつてからの、以前からの疑問だったことを質問させて戴いた。
  その方は、「黙って」居られた。
  その方の「その答え方」から答えは分かった。
  その方の答え方は、「そうだろう」と予想は出来ていた。
  やはり、「血は争えなかった」。
  隣国の富を、(キリスト教の)神の義があるからと、隣国の人々を殺
 戮してまでして「奪う事を是認する宗教」に洗脳されて、アメリカ合衆
 国と同じことをやっていた。
  カナダは、特に、「バッファロー狩り」で、食糧を奪う方法で、カナ
 ダ・インディアンの方々を絶滅させていた。
  特に、アメリカ合衆国より寒冷の地・カナダでは、この攻撃方法は、
 たまらなかっただろう。
  このカナダの、特に、悲惨な事は、生き残りの方々が居ないことだ。
  また、完全に、その事実が覆い隠されている事だ。
  この悲惨な行為をしたという事を懺悔して、すべての事実を、すべて
 の史実を、世界へ公表して、懺悔し尽くすべきだ!
  また、国の半分を返還して、完全絶滅させた「カナダ・インディアン
 の方々」を祈念すべきだ。
  (参考)血は争えない:この「血」は、『血統』(先祖から代々受け
     継がれてきた血のつながり、血すじ)を意味する。
      そこから、血=親、先祖を意味し、
      「子は、親と同じ道を歩むものが多い」ということを表して
     いる。
.
紀元前約5万年前、クロマニョン人
  ヨーロッパ、北アフリカ各地で発見された。
  別の説は、3万5000年前~1万年前に生息し、頭が大きく現代人によく
 似ているが、身長はやや高い。
  文化的には、後期旧石器時代に属し、洞窟壁画などを残している。
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紀元前約5万年前、隕石の衝突で、バリンジャー・クレーター(アメリ
 アリゾナ州)が形成された。
.
紀元前5万年~紀元前3万年、人類が日本に到達する・・
  アフリカでの人類の発生と、そのアフリカからの世界へ向けての移動
 の大きなうねりは極東の地・日本へ到達した。
  紀元前5万年から紀元前3万年だった。
  想像もできない遠い昔だった。
  日本近隣に到達したアフリカからの人類のうねりは、南方の島づたい
 に日本の地に入り込んだ・・
  また、その北方に位置する朝鮮半島を経由して日本の内陸へ入り込ん
 だ・・
  また、さらにその北方の樺太を経由して日本の内陸に入り込んだ。
  また、南方の海からも日本に来た人たちがいた。
  長い長い時の流れの中で、この様に遠い昔に日本に来ている人たちが
 居た・・この人たちが日本人の祖先となり、日本に住み着き先住民とな
 った。
 (参考-1)長野県飯田市の竹佐中原遺跡があり、4か所の石器集中地
    点から800余点の遺物が出土した。
     石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、植物珪酸
    体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス年代測定など)し
    た結果、紀元前5万年~3万年と分析された。
     この遺跡は、中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変わる
    時期の遺跡で石器文化を持っている。
 (参考ー2)4万年前頃に、旧石器時代の遺跡が急激に増えることから、
    現代人につながる人々(日本の先住民)が少なくともこの頃に
    日本で暮らしていたと言える。
 (参考ー3)紀元前4万年~紀元前3万年、日本列島で世界最古の磨製石
    器が作られていた・・すでにこの頃、日本では独自の文化が形成
    されていたことが分かる。
     舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が関
    東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、
    「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」とも言える・・
     一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続け
    られた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では、知的で効率的な作
    業の痕跡も確認されている。
 (参考ー4)長野県の野尻湖遺跡で、約4万年前の地層(日本考古学用語
    では「土層」とも言う)からナウマン象の骨製品がまとまって発
    見された。
 (参考ー5)時の経過の中で、数多くの渡来の中で、長い長い年月を経
    て、アフリカからの人類移動の大きな「うねり」の人々は、
    日本中を移動し、日本国土の全体で交雑が繰り返されて・・
    長い年月での北から南まで移動が日本国土全体で繰り返されて・・
    日本人が形成されて行った・・そして、後期旧石器時代人が、縄
    文人の根幹をなした(北海道にも多くの縄文遺跡があり、北海道
    は別だなどとは言えない)
 (参考ー6)紀元前3万8000年、野尻湖湖底遺跡
     約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した動物を解体する場所で
    あったと推定されている。
     長野県上水内(かみみのち)郡信濃町野尻にある遺跡・・ナウマ
    ンゾウやオオツノジカなど大型哺乳類の化石、ニホンジカ・イノ
    シシなど中・小型哺乳動物の化石とともに、剝片によるナイフ形
    石器、象牙を加工した骨角器などが出土し、約4万年前の旧石器時
    代の人々が狩猟した動物を解体する場所であったと推定されてい
    る。
     最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は、野尻湖
    湖底遺跡はじめ各地から報告されており、そうした動物を追って
    大陸の旧石器人が日本列島へ移動してきた、そして、日本中をく
    まなく歩きまわっていた(北海道を経由して本州へ入って来た人
    たちも居たし、北海道へ行った人たちも居た)
 (参考ー7)紀元前3万年、種子島の横峯遺跡から約3万年以上前の土層
    (地層)から、日本国内最古の調理場跡が発見された(南方の島
    伝いに来た人たちの痕跡の遺跡)
 (参考ー8)紀元前1万2500年、愛媛県の上黒岩岩陰遺跡で、放射性炭素
    年代測定により1万4500年前と測定された人骨が発掘された。
 (参考ー9)紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針が、日本の沖縄県で発
    見された・・貝殻製の釣針(大陸から島伝いで日本へ至る人たち
    の痕跡の遺跡)
 (参考ー10)紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡・・日本
    の住居跡遺跡が整った形で発見された。大阪府藤井寺市の「はさ
    み山遺跡」
 (参考ー11)太平山元遺跡(青森県外ヶ浜町):日本最古とされる約1万
    6500年前の土器が出土した集落遺跡
     愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射性炭素年代
    測定により1万4500年前と測定され、人骨が発掘された。
  以上は、数々ある歴史的、科学的証拠だが、それも一部の抜粋だが・・
 この様な数々の科学的、歴史的な証拠から、旧石器時代人を経過した「
 縄文人」が「日本の先住民である」ということは明らかである。
  「先住民としての何の歴史的な根拠や証拠の無いアイヌ」を先住民だ
 とした法律は間違いである・・
  この様に明らか「間違いでおかしい法律」は、即座に、法律改正をし
 なければならない・・
  また同時に、国連にしっかりした歴史的事実を示さずに、「国連に間
 違いや嘘を言って」変なお墨付きをもらった行為も、すぐに訂正するべ
 きである・・日本の法律を改正とともに、これも訂正するべきである。
  アイヌは、今からわずか700年前の13世紀に日本に来たのであって、先
 住民ではない・・先住民だとした公明党や政府などの認識が間違いなの
 である。
  間違った法律をすぐに正すことをすべきである・・法律改正を、すぐ
 にしなければならない。
  (追伸)
  1264年、アイヌが北海道に来た・・この年に、アムール川下流域から
 樺太にかけて、この地域に住んでいた「吉里迷(ぎれみ)族」が、元(
 げん)のフビライに「アイヌが攻めて来る」と報告し、嘆願した。
  因みに、この前年の1263年に、この集団は、モンゴル(蒙古・元)に
 遠征されていて、服従していた。
  そして、この服従しているこの集団が、1264年、「骨㟴(くい)」や
 「亦里于(いりう)」が、「毎年の様に侵入して来る」という訴えをフ
 ビライへ報告した。
  ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
  フビライは、この事によって日本への襲来の元寇より早い時期に、こ
 の地域へ襲来した・・「北の元寇」「北からの蒙古襲来」と言われる。
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ逃げて来て、移住した。
  この史実を示す証拠文献がモンゴルに存在する。
  元の樺太侵攻(1264年~1286年)
  この様に、アイヌは日本での歴史が短期間であることから、北海道へ
 来たアイヌの人々は、同化の少ない移動前の独特の文化を、保持して来
 ていた。
  今では、同化が進み、まったく日本人と同じで、見分けも出来ない、
 差異の無い同じ状態となっている。
  アイヌ族の主張をするときにアイヌの衣装を着ることから、その衣装
 によって分かるようなものとなっている・・着なかったら、まったく
 日本人と同じ。
  また、日本との交易で得た日本の刀や食器類をアイヌの文化品だと虚
 偽の嘘のアイヌ文化を宣伝している。
  アイヌは日本の先住民ではありません・・その裏付け・・間違った法
 律は、すぐ、改正すべき・・
.
紀元前5万年、日本の遺跡・竹佐中原遺跡
  長野県飯田市で、竹佐中原遺跡が発掘調査された。
  この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が出土した。
  石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、植物珪酸体分析、
 炭素14年代測定法、光ルミネッセンス年代測定など)した結果、3万年よ
 り古く、5万年より新しいことが分かった。
  4か所から出土した石器は、2グループに分けることができ、一つは3万
 年〜3万数千年前(後期旧石器時代の初め頃)、
  もう一つは、3万数千年前〜5万年前のものであること推測された。
  つまり、中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変わる時期の遺跡
 とされた。
.
紀元前5万年、日本の遺跡・竹佐中原遺跡
  長野県飯田市で、竹佐中原遺跡が発掘調査された。
  この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が出土した。
.
紀元前5万年~紀元前4万年、この頃、ユーラシア大陸から人類が、寒い極
 北の地を通って、そして、地続きだった凍てつくベーリング海峡を渡り、
 アメリカ大陸へと行った。
  この時、この極低温の地を、人類が行けたのは、体温の低下を防ぐた
 めの衣類・着物があったからだった。
  その様な防寒性能の良い着物が作れたのは、『縫い針』の発明があっ
 たからだった。
  この当時の縫い針が、シベリアから出土している。
  人類のこの発明の智慧が、その活動範囲を拡大していたのだった。
  この様な歴史的な知識や、科学的知識のない北海道の政治家が、議会
 の討論の中で、「北海道は無土の地だった」と、人の居ないと地だった
 と言った。
  「人類が広い広範囲な活動をしていた」などという状況の知識の「ま
 ったく無い理解状況」の中で、政治的議論と判断と決定がなされている。
  人類の広い活動範囲とともに、広い人類の結婚・交雑が行われていて、
 日本列島は5万年前から、また、4万年前という遠い遠い昔から、広い活
 動とともに結婚・交雑の歴史の中にあった。
  アイヌ琉球も、また、本州も、その人類の交雑の歴史が続いて来て
 いて、その遺伝子的にも、そのことが証明されている。
  アイヌだけが特別ではない。
  中国の仕掛ける「アイヌ独立論」は、自国の抱える別民族である「チ
 ベット民族の方々の独立活動」「ウイグル民族の方々の独立活動」「内
 モンゴル民族の方々の独立活動」などの独立運動を相対化したいための
 仕掛けなのである。
.
紀元前5万年~紀元前3万年、アフリカでの人類の発生と、そのアフリカか
 らの世界へ向けての移動の大きなうねりは極東の地・日本へ到達した。
  紀元前5万年から紀元前3万年だった。
  想像もできない遠い昔だった。
  日本近隣に到達したアフリカからの人類のうねりは、南方の島づたい
 に日本の地に入り込んだ・・
  また、その北方に位置する朝鮮半島を経由して日本の内陸へ入り込ん
 だ・・
  また、さらにその北方の樺太を経由して日本の内陸に入り込んだ。
  また、南方の海からも日本に来た人たちがいた。
  長い長い時の流れの中で、この様に遠い昔に日本に来ている人たちが
 居た・・この人たちが日本人の祖先となり、日本に住み着き先住民とな
 った。
 (参考-1)長野県飯田市の竹佐中原遺跡があり、4か所の石器集中地
    点から800余点の遺物が出土した。
     石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、植物珪酸
    体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス年代測定など)し
    た結果、紀元前5万年~3万年と分析された。
     この遺跡は、中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変わる
    時期の遺跡で石器文化を持っている。
 (参考ー2)4万年前頃に、旧石器時代の遺跡が急激に増えることから、
    現代人につながる人々(日本の先住民)が少なくともこの頃に日
    本で暮らしていたと言える。
 (参考ー3)紀元前4万年~紀元前3万年、日本列島で世界最古の磨製石
    器が作られていた・・すでにこの頃、日本では独自の文化が形成
    されていたことが分かる。
     舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が関
    東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、
    「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」とも言える・・
     一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続け
    られた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では、知的で効率的な作
    業の痕跡も確認されている。
 (参考ー4)長野県の野尻湖遺跡で、約4万年前の地層(日本考古学用語
    では「土層」とも言う)からナウマン象の骨製品がまとまって発
    見された。
 (参考ー5)時の経過の中で、数多くの渡来の中で、長い長い年月を経
    て、アフリカからの人類移動の大きな「うねり」の人々は、日本
    中を移動し、日本国土の全体で交雑が繰り返されて・・長い年月
    での北から南まで移動が日本国土全体で繰り返されて・・日本人
    が形成されて行った・・そして、後期旧石器時代人が、縄文人
    根幹をなした(北海道にも縄文遺跡があり、北海度は別だなどと
    は言えない)
 (参考ー6)紀元前3万8000年、野尻湖湖底遺跡
     約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した動物を解体する場所で
    あったと推定されている。
     長野県上水内(かみみのち)郡信濃町野尻にある遺跡・・ナウマ
    ンゾウやオオツノジカなど大型哺乳類の化石、ニホンジカ・イノ
    シシなど中・小型哺乳動物の化石とともに、剝片によるナイフ形
    石器、象牙を加工した骨角器などが出土し、約4万年前の旧石器時
    代の人々が狩猟した動物を解体する場所であったと推定されている。
     最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は、野尻湖
    湖底遺跡はじめ各地から報告されており、そうした動物を追って
    大陸の旧石器人が日本列島へ移動してきた、そして、日本中をく
    まなく歩きまわっていた(北海道を経由して本州へ入って来た人
    たちも居たし、北海道へ行った人たちも居た)
 (参考ー7)紀元前3万年、種子島の横峯遺跡から約3万年以上前の土層
    (地層)から、日本国内最古の調理場跡が発見された(南方の島
    伝いに来た人たちの痕跡の遺跡)
 (参考ー8)紀元前1万2500年、愛媛県の上黒岩岩陰遺跡で、放射性炭素
    年代測定により1万4500年前と測定された人骨が発掘された。
 (参考ー9)紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針が、日本の沖縄県で発
    見された・・貝殻製の釣針(大陸から島伝いで日本へ至る人たち
    の痕跡の遺跡)
 (参考ー10)紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡・・日本
    の住居跡遺跡が整った形で発見された。大阪府藤井寺市の「はさ
    み山遺跡」
 (参考ー11)太平山元遺跡(青森県外ヶ浜町):日本最古とされる約1万
    6500年前の土器が出土した集落遺跡
     愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射性炭素年代
    測定により1万4500年前と測定され、人骨が発掘された。
  以上は、数々ある歴史的、科学的証拠だが、それも一部の抜粋だが・・
 この様な数々の科学的、歴史的な証拠から、旧石器時代人を経過した「
 縄文人」が「日本の先住民である」ということは明らかである。
  「先住民としての何の歴史的な根拠や証拠の無いアイヌ」を先住民だ
 とした法律は間違いである・・
  この様に明らか「間違いでおかしい法律」は、即座に、法律改正をし
 なければならない・・
  また同時に、国連にしっかりした歴史的事実を示さずに、「国連に間
 違いや嘘を言って」変なお墨付きをもらった行為も、すぐに訂正するべ
 きである・・日本の法律を改正とともに、これも訂正するべきである。
  アイヌは、今からわずか700年前の13世紀に日本に来たのであって、
 先住民ではない・・先住民だとした公明党や政府などの認識が間違いな
 のである。
  間違った法律をすぐに正すことをすべきである・・法律改正を、すぐ
 にしなければならない。
  (追伸)
  1264年、アイヌが北海道に来た・・この年に、アムール川下流域から
 樺太にかけて、この地域に住んでいた「吉里迷(ぎれみ)族」が、元(
 げん)のフビライに「アイヌが攻めて来る」と報告し、嘆願した。
  因みに、この前年の1263年に、この集団は、モンゴル
 (蒙古・元)に遠征されていて、服従していた。
  そして、この服従しているこの集団が、1264年、「骨㟴(くい)」や
 「亦里于(いりう)」が、「毎年の様に侵入して来る」という訴えをフ
 ビライへ報告した。
  ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
  フビライは、この事によって日本への襲来の元寇より早い時期に、こ
 の地域へ襲来した・・「北の元寇」「北からの蒙古襲来」と言われる。
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ逃げて来て、移住した。
  この史実を示す証拠文献がモンゴルに存在する。
  元の樺太侵攻(1264年~1286年)
  この様に、アイヌは日本での歴史が短期間であることから、北海道へ
 来たアイヌの人々は、同化の少ない移動前の独特の文化を、保持して来
 ていた。
  今では、同化が進み、まったく日本人と同じで、見分けも出来ない、
 差異の無い同じ状態となっている。
  アイヌ族の主張をするときにアイヌの衣装を着ることから、その衣装
 によって分かるようなものとなっている・・
 着なかったら、まったく日本人と同じ。
  また、日本との交易で得た日本の刀や食器類をアイヌの文化品だと虚
 偽の嘘のアイヌ文化を宣伝している。
.
紀元前4万9000年、人類がアフリカから出て移動していく。
.
紀元前4万7000年~紀元前4万2000年、人類が、ヨーロッパに到達した。
.
紀元前4万7000年、人類が、オーストラリアに到達した。
.
紀元前4万3000年~紀元前2万6000年、この間に、ネアンデルタール人が滅
 んだ。
  この時に、ホモ・サピエンスが進出し、交替劇が演じられたと考えら
 れている。
  この交代劇は、争いや戦いが無い状態で行われたと考えられている。
  この交替についての説には、「疾病説」や、「環境説」や、「生存戦
 略説」があるが、
  環境説が有力と言われている。
  寒い環境のため、南へ移動して行った・・、
  そして、北アフリカ南ヨーロッパへと、
  そしてまた、カスピ海周辺から東へと・・、
  ネアンデルタールの谷というドイツの谷(タール)で最初の発見がな
 された。
  その骨から復元すると、足は太く短く、胴は長く、筋肉はりゅうりゅ
 うとし、目の上の骨は盛り上がり、火をおこし、狩りの生活をしていた。
  美術解剖学によって、骨に肉を付けて行き、その様なことが観察され
 た。
  頭は非常に大きいと言え・・、
  700万年前に、人類が誕生し、猿人から原人へ(旧人、新人)、そして、
 ホモ・ハイデルベルゲンシスへ、
  (参考)ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルクのヒト)は、
     ヒト属の一種。
      ハイデルベルク人をホモ・エレクトスとは別種とするときの
     名称。
      ホモ・エレクトスに比べ脳容量が大きく(1100cc~1400cc)、
     より人間的な行動をとることができ、これを種レベルの違いで
     あると考える場合に別種とする。
      種レベルの違いはなかったと考える場合は、エレクトスに含
     め、エレクトスの種内亜種として区別する場合は、ホモ・エレ
     クトス・ハイデルベルゲンシス と呼ぶ。
      時期は、60万年前から40万年前。
  80万年前に、ヨーロッパに進出⇒ネアンデルタール人となった。
  アフリカに於いては、ホモ・サピエンスとなる。
  化石に作り方が違う、古い昔のまま再現したネアンデルタール人
  作り方の学習研究から、新しい石器を作ったホモ・サピエンス
  学習能力の進化、化石能機能研究、集団同士が文化を交流して進化し
 たホモ・サピエンス
  教えることをしないで、自主性を尊重する、狩猟採集民族、
.
紀元前4万年前~1.5万年前、モンゴロイドの人々がアメリカ大陸へ渡った。
  (参考)モンゴロイド:形態人類学における人種分類概念の一つ。
      日本では、一般に黄色人種・蒙古人種とも訳される。
      18世紀、ドイツ人の人類学者ブルーメンバッハによって分類
     された。
  4万年前~1.5万年前に、日本人と同じモンゴロイドの人々が、ベーリ
 ング海峡を渡ってアメリカ大陸へ達した。
  氷河期の最盛期には、蒸発した海水が両極に氷床として固定されるた
 め、海水の量が減少して海水準が低下する。
  海面が、現在より約150m程度下がっていたと考えられている。
  そのため、アジアと北アメリカの間のベーリング海峡は陸続きとなり、
 4~1.5万年前頃に、パレオ・インディアンがユーコン地方に達した。
  (参考)パレオ・インディアン:旧石器時代北米大陸に定住してい
     た原始的な古代インディアンで、現インディアンの祖先。
  また、1.4~0.85万年前には、アジアから別の移住があったもよう・・、
  北アメリカの西北部に拡散したエスキモーの祖先、アリューシャン
 島に定着した古アリュート、ナディーン
 (北西インディアン)の祖先など・・、
  (参考)アリュート族(ウナンガン族):アリューシャン列島の島々
     の沿岸部に約9000年前に移り住んだ古シベリア系北方先住民の
     人々。
      考古学的な発掘異物や文化的遺産から判明。
      アザラシの皮と骨、木材を組み合わせて作ったアリューシャ
     ンカヤックでクジラ漁、アザラシ漁を行なう。
      また、ナディーン(北西インディアン):DNA解析によると、
     南北アメリカ大陸に住んでいる先住民(ネイティブアメリカン
     の方々は、全員、シベリア南部(バイカル湖辺り)に住んでい
     たという・・、
  遠い昔、海峡を越えてアメリカ大陸に達した人々・・この人々へ思い
 をはせれば・・今・現在、アメリカ合衆国に居られるアメリカ・インデ
 ィアンの方々・・そして・・アラスカ・極北の地に居られるエスキモー
 の方々・・、
  アメリカ・インディアンの方々は、誰でも知っている様に、アメリ
 白人のキリスト教徒によって大虐殺がなされた・・
  今、アメリカ・インディアンの方々は絶滅の危機にある・・
  まったく卑劣な行為が行われたものだ・・
  また、「その北への思い」をはせれば・・エスキモーの方々が・・今・
 現在、アザラシ漁やクジラ漁をして幸せに暮らしている・・
 しかし、その中間にあるカナダが・・何故か?この地のモンゴロイド
 人々の情報がまったくの空白である・・?
  その北と、その南に、モンゴロイドの方々が居て・・、何故? カナ
 ダの空白地域があるのか・・??・・
  偶然、その情報が得られた・・やはり、カナダ・インディアンの方々
 はいた・・その集落の写真を見た・・そうだろう、アメリカに居て、エ
 スキモーも居て・・その中間のカナダに『居ないわけがない』・・と・・
 そこで、かねてからの疑問だったことを知りたいと、その写真の表示し
 ている方へ連絡を取った・・種々、質問をさせて戴いたが・・「現在の
 カナダ・インディアンの存在」については、その方は、答えを「されな
 かった」・・答えを避けた・・私は、その答えで、『答えが解った』・・
 カナダ・インディアンの方々は、絶滅させられている・・と・・アメリ
 カ・インディアンは、銃による虐殺が続き、最後の方で、アメリカ・イ
 ンディアンの方々が食糧としているアメリカ野牛(アメリカ・バイソン)
 が殺された・・飢え死に作戦で、アメリカ野牛が、「絶滅寸前まで殺さ
 れた」・・アメリカ・インディアンの方を、絶滅させようという意図の
 「卑劣な野牛絶滅作戦」だった・・
  アメリカ西部の原野に、食糧にしたわけでもないアメリカ野牛の頭だ
 けが、山と積まれていた・・卑劣な事である。
  カナダ・インディアンの方々の場合は、このアメリカ野牛の絶滅作戦
 が使われたらしい・・カナダは、アメリカの北に位置し、さらに、その
 寒い環境の中で、食糧を断たれたカナダ・インディアンの方々への打撃
 は強烈だったろうと想像できる・・
  カナダ・インディアンの方々が、今・現在、存在されておられるのか
 どうか?は、今だに、不明となっている。
  カナダ政府は、「過去の不正な行為を明らかにする」という姿勢を、
 最近、少し示したが・・これ等の情報は秘密にしている・・
  カナダ政府は、一時は、これではいけないと、自国に不利な情報を開
 示したが・・しかし、この件についての不明状態は続いている・・カナ
 ダ・インディアンの方々は、推測だが、完全に絶滅させられたため、カ
 ナダ・インディアンの方々のサイドからの情報は出て来ないという状況
 なのだろう・・
  この件は、国連のユネスコ世界遺産へ登録し・・事実を明らかにし
 て行くべきである。
.
紀元前4万年、この頃になるとこのホモ・サピエンスがアジアへ到達する。
  大陸の形は現在とほとんど変わらないが、氷期間氷期の氷床の拡大・
 縮小による海水準変動に伴って、海岸線の位置が移動した。
  更新世の後期では、海水準にして百数十メートルの変動があった。
  海水準が低下した時期は、現在、浅い海である海域の多くが陸地とな
 っている・・
  また、日本列島は、氷床によって大陸と陸続きだった・・
  完全に渤海は氷床に埋まり、また、黄海も完全に氷床に埋まり、東シ
 ナ海も北半分は氷床に埋まっていた・・
  また、対馬海峡も氷床で埋まり、台湾も大陸と氷床で埋まり地続きだ
 った・・
  人類は、容易にこの氷床上を歩いて日本に渡って来れた・・また、樺
 太と大陸は地続きで、樺太から北海道、本州、四国、九州は、氷床があ
 り歩いて渡れる状態にあった。
.
紀元前4万年、研究者の多くは、4万年前頃に、旧石器時代の遺跡が急激に
 増えることから、現代人につながる人々が少なくともこの頃に日本で暮
 らしていたと考えている。
.
紀元前4万年、日本へアフリカから出発した人類が到達した。
  そして、共通の祖先を縄文人とする日本人が形成されて行った・・ア
 イヌも沖縄も「同じ共通の日本人の祖先を持つ」と証明されている・・
 政府が、アイヌを日本人の祖先と議決したことは大間違い・・「是非、
 訂正の議決を再度する様に提言する」・・現代にいたる4万年という長い
 年月、この人類は日本列島を縦横無尽に行き来し、交雑し、日本人を形
 成して行った・・この交雑の仕方に少しづつ差異はあるものの、アイヌ
 を含む沖縄の人びとも縄文人としての共通の祖先を持つ人種と証明され
 た。
.
紀元前4万年、こんなに遠い昔に・・日本人は日本列島にやって来た・・
  ウルム氷期と言われる約7万年前~1万年前のこの氷期の中の紀元前4万
 年に、日本人は日本列島に来た。
  このウルム氷期に、アジア大陸から日本列島に移った後期旧石器時代
 人が、縄文人の根幹をなした・・大陸と日本列島は、まだ、地続きだっ
 た・・
  遠い遠い昔から、日本人は民族として成
 り立って来た・・その様な、長い長い長い歴史を持っている・・先住民
 の方々が居る事にお構いなく・・武力によって先住民の方々を殺戮し・・
 最近と言いたいほどの近年に、国を作ったアメリカ、カナダ、そして、
 ラテンアメリカ、そして、オーストラリアなどとは・・訳が違う。
  この様な一連の事は、ユネスコの世界記憶遺産に登録すべきである!
 ウルム氷期直後の厳しい自然環境が改善されて、生活も安定化していく
 と、日本列島全域の縄文人の骨格は頑丈となって行った・・独自の身体
 形質を得て行った・・長く続いたその縄文人の時代・・その縄文時代
 終末期から弥生時代にかけて、再び、アジア大陸から新石器時代人が、
 西日本の一角に渡来した・・その地域では、急激に、新石器時代的身体
 形質が生じた・・混血が急激に進んだ・・が、和して進んだその身体的
 形質の変化は・・直接及ばなかった地域もあり、その地は、縄文人的形
 質をとどめた・・そして・・、その後「徐々に均一化」がされて行った。
  地理的に隔離された北海道や南西諸島の人びとは、文化の変革による
 身体形質の変化はあっても、現在、なお縄文人的な形態を持っている。
  歴史的資料としては、種子島の横峯遺跡から約3万年以上前の土層(地
 層)から、日本国内最古の調理場跡が発見されている・・また、南九州
 の地層は、火山灰による時代の確認が容易である・・、そして、愛媛県
 の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射性炭素年代測定により14,500
 年前と測定された人骨が発掘された・・せいぜい数百年のアメリカ合衆
 国・オーストラリア・カナダ・ラテンアメリカなどの、先住民の方々の
 殺戮により成り立った国々とは「まったく違う」のである。
.
紀元前4万年~紀元前1.5万年、モンゴロイドの人々がアメリカ大陸へ渡っ
 た。
.
紀元前4万年、日本人が日本列島に来た時、日本列島も、まだ、しっかり形
 成されていない頃で、その地と大陸は、地続きだった・・
  それは、アフリカからスタートした人類の地球上での拡散の一コマだ
 った・・
  このような時、やはり、4万年前~1.5万年前には、この日本人の形成
 と同じ様に、モンゴロイドの人々が、地続きのベーリング海峡を渡って
 アメリカ大陸へ渡って行った・・アメリカに達していた・・日本人の形
 成は、この「ウルム氷期の狩猟民」と、その後の、「弥生時代の農耕民」
 とが渡来した「遠い遠い昔のこと」だった・・
  何度かの渡来の中で、長い長い年月を経て、日本国土全体における混
 血が繰り返されて・・日本国土全体で繰り返されて・・日本人が形成さ
 れて行った。
  それと比較して・・現代と言っていいほどの最近の・・その最近の1614
 年のアメリカのピルグリム・ファザースのアメリカ・インディアンの方々
 の地での殺戮と侵略とはまったく違う。
  また、6万1000年前から・・5万2000年前とも、また、12万5000年前と
 も言われているオーストラリアの地に来たアボリジニの方々も同様だっ
 た・・
  このオーストラリアの地へ、最近とも言いたいくらいの1788年に来て、
 アボリジニの方々を法律まで作って殺戮し(アボリジニの方々を殺して
 も良いという卑劣な法律)、侵略し、植民地としたイギリス・・、
  また同様に、最近と言いたいくらいの16世紀の時に、ラテン・アメリ
 カの各地に来て、侵略し、全滅と言いたいくらいに蛮行を繰り返したス
 ペイン・ポルトガル(この時、ローマのバチカンは、先住民の方々を「
 人間ではない」と言い、つまり、人間ではないから殺してよいと言い)・・
  長い年月、殺しに殺す行為をしたスペインとポルトガル・・このイン
 ディオの方々の殺戮を繰り返したスペインとポルトガルとも、まったく
 違うのだ。
  しかし、今・現在、日本人のこの遠い昔の成り立ちを、この最近の蛮
 行と同じように語って、誤魔化そうとする行為がなされている。
  日本の場合は、完全なる混血であった・・その日本の数々の遺跡を分
 析すると、だんだん文化が混在化して行くのが分かる・・これは、混血
 での一体化を証明している・・アメリカ・インディアンの方々や、また、
 インディオの方々や、そしてまた、アボリジニの方々と同じような状況
 とされる卑劣な言行・・日本人となった経緯が、ヨーロッパ人の蛮行と
 同じとされる卑劣な言行がなされている・・まったく歴史的、科学的根
 拠を無視した論理が展開されている・・この様な事が、盛んに、今・現
 在、工作員によってなされている・・また、今・現在、チベットの方々
 の地が、そして、ウィグルの方々の地が、そしてまた、内モンゴルの方々
 の地が、最初は自治区だなんて言っ誤魔化していたが、この完全なる別
 民族の地が・・今・現在、漢民族を、政策として流入させて、漢民族
 地と化する行為が「盛んになされている」・・これと似たような流入が、
 今・現在、日本においてもなされている・・特に、沖縄県や北海道、帝
 国主義的な侵略流入が、今・現在、日本に於いて「盛んになされている」。
.
約4万年前頃~約4400年前、アフリカから始まった人類の拡散~偉大なる人
 類のうねりが世界へ・・そして・・日本人は、遠い遠い昔のこの頃、旧
 石器時代から縄文時代の中期と言われるこの頃・・日本人の大陸からの
 移動がなされていた。
  この頃、大陸と日本列島は地続きだった・・そんなそんな遠い昔、大
 陸から移動して来た日本人が形成がなされて行った・・その長い間の長
 い長い期間、日本列島に於いて、血は混ざり合い、そしてまた、混ざり
 合い、その混血によって日本人の形成はなされて行った。
  アイヌの方々の祖先も、琉球の方々の祖先も、その仲立ちの本州など
 の島々の祖先も、その混血によって形作られて行った。
  そんじょそこらの数百年の歴史しかない国々とは訳が違っている・・
 数百年の歴史しかない者たちが、数万年の歴史を持つ先住民の方々を殺
 戮して出来たような国とは訳が違う・・オーストラリア・ラテンアメリ
 カ・カナダ・アメリカ合衆国などとは訳が違う・・日本列島の遺跡を分
 析してみても、その文化が混ざり合っていく経緯が分かる・・日本列島
 への渡来のルートは、ユーラシアの各地からさまざまなルートで日本に
 流入した・・特に、1万2000年前までは、日本は、大陸と陸続きであった
 ため、流入は容易であった・・この時の日本人の集団は、狩猟採集を主
 としていた・・DNA(デオキシリボ核酸、遺伝子の本体)的には、現
 在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団だった・・この旧
 石器時代の日本人が、そのまま混血がなされながら、結婚がなされなが
 ら縄文人へと発展した。
  (参考)デオキシリボ核酸:DNAと略記され、遺伝子の本体であり、
     真核細胞では核膜に包まれ、核の中に塩基性蛋白質であるヒス
     トンと会合した状態で存在している。
  今、分子人類学が進展している・・
  そのDNAから見ると・・母系が辿れるミトコンドリアDNAハプロ
 グループと、父系が辿れるY染色体グループがある・・
  ミトコンドリアDNAハプログループの研究によってアフリカを人類
 の起源とする説が証明された・・
  そして、その民族集団の移動のルートも辿れるようになった・・
  日本人のミトコンドリアDNAハプログループで特徴的なのはハプロ
 グループM7aがある・・
  琉球諸島アイヌに比率が高く本州が少ない分布となっている・・し
 かし、その一体的な形質が証明された・・
  この発生は、台湾付近で日本を最大の集積地(最も頻度の高い地域)
 とし、台湾・日本から朝鮮半島中国東北部へ北上し、北上の上限がシ
 ベリアとなっている・・
  また、人間の祖先がアフリカを出た後、イランからアルタイ山脈を経
 由し、「北ルート」で到達したとする説と・・インドから東南アジアを
 経由したルートで到達したことが分かるという・・
  父系が分かるY染色体グループから見ると、最初に日本列島に到達し、
 後期旧石器時代を担ったのは、4万年前~3万年前にやってきたD1b系
 統である・・D1bは、日本に多く見られる系統であり、アイヌ88%、沖
 縄県約50%(4%~56%)、本州約36% (31%~39%)で、東アジアではほとんど
 存在しない・・日本人を特徴づけるD1bである・・
  D1系統は、4万年程前に、二つのグループに分岐し、日本列島に至り
 誕生した(それがD1b)・・
  ミトコンドリアDNAによる人類集団を類似性を系統樹様にして見て
 みると・・他集団との類似性がみられるが・・日本人集団に近いのは中
 国人集団であり、その次にカンボジア人集団であるという結果となる・・
  また、日本人集団は、中国人集団、マレーシア人集団、ポリネシア人
 集団などと近縁で、「アジア・モンゴロイド」としてまとめられる・・
  「アジアのモンゴロイド」と近縁なのが「アメリンド」、次いで、「
 オーストラロイド」、「コーカソイド」の順で、「ネグロイド」とは最
 も離れている・・
  斎藤成也氏ら総合研究大学院大学により、ヒトゲノム中のSNP(単
 一塩基多型)を示す100万塩基サイトを一挙に調べることができるシステ
 ムを用いて、アイヌ人と琉球人を含む日本列島人の大規模なDNA分析
 が行われた。
  その結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、
 両者の中間に位置する本土人は、沖縄にすむ日本人に次いでアイヌ人に
 近いことが示された・・一体とした民族を裏付ける結果となった。
  今、キリスト教系大学で語られる、アイヌ琉球人は別民族という論
 は、まったく主観的に主張されているだけで、まったく科学的裏付けの
 ない根拠のない論理であって、結果を見間違っている・・その論理性は、
 まったく浅い主観的分析で、ある意味、感情論的主張となっている・・、
 (何故か?中国が言う「アイヌ独立論」とつながる主張の様に感じられ
 る)・・(今、キリスト教系大学では、孔子学院など中国とのつながり
 が強い行為が行われている)
  (参考)アメリンド:ヨーロッパからの移住民による虐殺が始まる以
     前より、アメリカ大陸に住んでいた諸民族の総称。
      狭義では、北米大陸に居住するイヌイットとアレウト、さら
     には、エスキモーを除いている・・カナダとアメリカ合衆国
     先住民(カナダ・インディアンとアメリカ・インディアン)を
     さすこともあるが・・中南米に住むインディアンも含む・・そ
     して、スペイン語インディオと呼ばれ 、その言語は、約160
     の語群に分けられる・・キリスト教系大学で語られる「言語が
     違えば別民族」という論理で行けば、このインディオも160の別
     民族となってしまう。
  (参考)オーストラロイド:オーストラリア先住民(オーストラリア・
     アボリジニー)とその類縁の人種をいう・・やはり、この人種
     もヨーロッパからの移住人(イギリス)による虐殺に会った。
  (参考)コーカソイド:白色人種、ヨーロッパ人種と
     もいう。
  (参考)ネグロイド:類黒色人種。アフリカ‐ニグロ
     イド・エチオピア人種・コイサン・ピグミー・
     メラネシア人など。
  以上の様な、科学的知識を根拠に持たない者たちが、日本国内で、中
 国の働きかけで、アイヌ独立論を振りまいたり・・、
  北海道は無土の地で、人が居なかったと言ったり・・、
  白老町に、100億円もの国民の税金で、アイヌ民族の為の箱物を建てる
 とか・・馬鹿馬鹿しい話があちこちで展開している。
  この他にも、いっぱいこの類の無智の話が展開している日本となって
 いる。
  それよりも、遺伝子的にもまったく別の民族であるチベット・ウィグ
 ル・内モンゴルの民族の方々の地が、漢民族というまたく違う民族によ
 って・・まったく関係が無い民族によって、奪われようとしている。
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紀元前4万年、アフリカを発したホモ・サピエンスが、日本列島に到達した。
  この中にアイヌが居る訳はない・・
  アイヌを日本列島の先住民にしたいキリスト教勢力は、この中にアイ
 ヌが居たことを証明しなさい!
  日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)が現れるのは4〜3.5万年前
 と考えられていて・・紀元前3万3000年、日本列島の後期旧石器時代は、
 約3万5000年前に始まり、縄文時代へと移行する約1万5000年前までの約
 2万年間という長い長い期間、続いていた。
  この長い期間の間、日本に到達したホモ・サピエンスは日本列島中を
 移動し、交雑し、結婚した。
  紀元前3万年、沖縄の洞穴で発見された子供の骨は初期現代型新人の特
 徴に一致する。
  歴史的資料としては、種子島の横峯遺跡から約3万年以上前の土層(地
 層)から、日本国内最古の調理場跡が発見されている。
  紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針
   日本の『沖縄県』で発見された貝殻製の釣針。
  紀元前2万年、この頃、海面が最も下がった、現在より120メートルも
 低下していた。
  本州と四国、九州、それから屋久島、種子島も陸続きで、また、ロシ
 アと北海道も陸続きで・・、
  縄文人の祖先たちやマンモスは、ユーラシア大陸から歩いて日本にや
 って来た。
  紀元前2万年、最終氷期の寒冷期で、海面が120メートル以上も低下し
 ていた。
  紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡。
   日本の住居跡遺跡が整った形で発見された。
   大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」
  紀元前1万8000年頃、世界最古の土器
   中国『湖南省』で発掘された約1万8000年前の土器また、日本の『大
 平山元I遺跡』の縄文土器(約1万6500年前)や・・
   太平山元遺跡(青森県外ヶ浜町):日本最古とされる約1万6500年前
 の土器が出土した集落遺跡
   愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射性炭素年代測定
 により14,500年前と測定された人骨が発掘された。
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紀元前4万年~紀元前3万年、日本列島で世界最古の磨製石器が作られてい
 た。
  氷河期に日本列島は大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って
 日本列島にやって来たとされてきたが、近年の研究では、氷河期の最寒
 期でも津軽海峡対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分
 かってきた。
  また、舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が関
 東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、「日本
 人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言も新
 聞で報道されている・・しかし、この時期には、船の遺物は発見されて
 いないため少数の意見である。 
  一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続けられた
 栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では、知的で効率的な作業の痕跡も確
 認されている。 
  また、4万年〜3万年前には、世界最古の磨製石器が製作されており、
 すでに日本では独自の文化が形成されていたことが分かった。
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紀元前4万年、ナウマン象の骨製品
  長野県の野尻湖遺跡で、約4万年前の地層(日本考古学用語では「土層」
 とも言う)からナウマン象の骨製品がまとまって発見された。
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紀元前約4万年前、オーストラリアに人類が渡島したのは4万2000年前~4万
 5000年前である。
  また、オーストラリア最古の人骨の年代は、およそ4万5000年前である。
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紀元前3万8000年、人類が、日本列島に到達した。
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紀元前3万8000年、人類の居住の始まり
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紀元前3万8000年、野尻湖湖底遺跡
  約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した動物を解体する場所であった
 と推定されている。
  長野県上水内(かみみのち)郡信濃町野尻にある遺跡。
  野尻湖は、斑尾(まだらお)山と黒姫山に挟まれた標高約650mの高原に
 位置し、遺跡は湖西岸の立ケ鼻という岬付近の湖底に所在する。
  1948年、地元住民が偶然ナウマンゾウの臼歯を発見し、
  1962年から湖底や湖畔の発掘調査が始まり、以後、継続的な調査が行
 われている。
  ナウマンゾウやオオツノジカなど大型哺乳類の化石、ニホンジカ・イ
 ノシシなど中・小型哺乳動物の化石とともに、剝片によるナイフ形石器、
 象牙を加工した骨角器などが出土し、約4万年前の旧石器時代の人々が狩
 猟した動物を解体する場所であったと推定されている。
  最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は野尻湖湖底遺跡
 はじめ各地から報告されており、そうした動物を追って大陸の旧石器人
 が日本列島へ移動してきた可能性は考えられる。
  つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さえも想像される。
  この期の遺跡の調査例は少ない。
  石器や生活道具類が発見される程度である
  野尻湖で狩りが行われた決定的な証拠はまた発見されていないが、骨
 製品がその可能性を示唆している。
  ちなみに、ゾウ1頭の肉で50人の集団が45日分のカロリーを確保できた
 と推定されている。
  縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中で大きな比重を
 占めていたが・・、
  旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が主体であったよ
 うだ。
  旧石器時代人は、主として狩猟によって食糧を得ていたと言える。
  当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの大型哺乳類の骨、
 ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見され
 ている。
  そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見さ
 れている。
  このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人たちであった
 と思われる。
  竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代
 人がキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたからだとも推定され
 ている。 
  当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたという。
  この様な大きな移動量は、日本人の形成に於いて、北海道から沖縄ま
 で、長い歴史の中で、その血の混合が均一になされていた。
  日本の旧石器文化が、シベリアとの強い関連性があることが分かって
 おり、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見
 つかっている。
  その移動の広さは想像以上である。
  日本は、酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の
 道具を用いて刺突漁を行なっていた可能性がある。
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紀元前3万6000年、日本に人類(ホモ・サピエンス)が到達した。
  日本に人類の遺跡が登場するのは、約3万8000年前。
  日本にやって来たホモ・サピエンス
  ホモ・サピエンスは、約30万~20万年前にアフリカに誕生し・・
  5万年前以降にアフリカを出たホモ・サピエンスは、ヨーロッパ、アジ
 ア、シベリア、オセアニア、そして、アメリカ大陸へと『大きな人類の
 移動のうねり』と共に大拡散して行った。
  そして、東アジアに到達したホモ・サピエンスは、陸続きだった日本
 にも、当然、到達した。
  また、そのホモ・サピエンスの別のグループは、やはり陸続きだった
 ベーリング海峡を渡りアメリカ大陸へと渡って行ったが・・
  その東アジアに到達したホモ・サピエンスモンゴロイドは・・南ア
 メリカの最南端にまで到達した。
  アフリカを出たホモ・サピエンス、その人の移動の大きなうねりは、
 地球上の至るところにまでおよんだ。
  アメリカ大陸の先住民が、モンゴロイドだという訳はこの様な人類の
 移動の大きなうねりがあった。
  日本も、当然、その途中の段階で、その大きな人のうねりの中に飲み
 込まれた。
  北から南から大陸からモンゴロイドの人々は日本に来た・・北海道の
 北のはしから、そしてその島々、そして、南の沖縄の島々を人類移動の
 『大きなうねり』が日本中をなめつくした。
  何万年の時の流れの中は「その様な時代だった」。
  最初は無土器だった。
  石器だけの時もあり、その石器さえないという時代もあった。
  あるのは長い長い時間の流れだった。
  日本中がその時間の中でなめ尽くす様に、人々はあちこちに移動し交
 雑し混血した。
  そして、縄文時代も形成され、その遺跡も北海道に多くある。
  この人々が「日本人の祖先(先住民)」となった。
  アイヌは、その後、紀元後になって、紀元後1280年代の日本へ襲来す
 る元寇の前(10年くらい前)アムール川沿岸や樺太への「北の元寇
 の時、その元に追われて、アムール川沿岸や樺太に住んでいたアイヌ
 日本に来た。
  この史実はモンゴルの文献に残っている。
  つまり、紀元後の何千年も経て日本に来たアイヌが、紀元前の何万年
 も前に日本に来た日本人の祖先を差しおいて「先住民だと主張した」。
  そして、政府へ圧力をかけて「法律に先住民と書かせた」。
  「まったく恥ずかしい行為(史実に無い嘘の行為)」をアイヌの人々
 はした。
  この法律を、正しい史実に改正する運動をアイヌの方々は始めなさい。
  そして、「間違っていました」と謝罪しなさい。
  「もう二度としませんと宣言しなさい」。
  アイヌの歴史に汚点を残したことを悔いなさい。
  日本の若者に嘘のプロパガンダをすることを止めなさい。
  こういう行為を影で支援するキリスト教団体は悔い改めて、この様な
 行為は止めなさい。
  NHKもこの様なキリスト教を支援をしないこと。
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紀元前36000年~紀元前14000年、旧石器時代
  今から約3万8千年前から1万6千年前の約2万2千年間を言う。 
  人々はまだ土器を持たず、主に打ち欠きによって作られた石器(打製
 石器)や動物の骨や角を用いて作られた骨角器(こっかくき)を使い、
 狩猟や採集活動を行っていた。
  日本列島の旧石器時代の人々は、大型哺乳動物(ヘラジカ、ヤギュウ、
 オーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなど)や・・
  中・小型哺乳動物(ニホンジカ、イノシシ、アナグマノウサギなど)
 を狩猟対象としていた。
  大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを
 追って旧石器時代人もキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返
 していた。
  キル・サイトやブロック、礫群、炭の粒の集中するところなどは日本
 列島内で数千ヶ所も発見されているが、竪穴住居などの施設を伴う遺跡
 はほとんど発見されていない。 
  旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営
 みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。
  アフリカを発した人類は、当然、生きる糧の動物を追い、アジアに到
 達し、日本列島もくまなくこの長い旧石器時代に移動した。
  北海道から沖縄、それ以上の地域を移動していた・・この人たちが日
 本の先住民で、この後も、時代と共にあらゆる方角から来る人たちとも
 混血して行った・・13世紀末に元の「北の元寇」で追われて北海道に来
 たアイヌを先住民とする法律は間違い・・この時より30000年以上も昔に
 日本の先住民は日本に到達していた。
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紀元前3万5000年、クロマニヨン人:現代人を含む新人類で最初に現れた
 人類。
  精密な道具を作ったり、言葉を話したり、絵を描くことも出来た。
  身長:約175センチメートル、脳の大きさ:約1450立方センチ。~紀元
 前1万年まで。
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紀元前3万5000年頃、世界最古の楽器
  マンモスの牙や鳥の骨で作られた横笛
  ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州はシュヴェービッシェ・
 アルプにある『ホーレ・フェルス洞窟』の後期旧石器時代オーリニャッ
 ク文化遺跡で発見された。
.
紀元前3万5000年頃、世界最古の絵画
  『ホーレ・フェルスの洞窟壁画』
  洞窟は、南ドイツのシュヴェービッシェ・アルプにあり、壁画は、オ
 ーリニャック文化によるもの。
  後期旧石器時代に当たる約3万5000年前に描かれたと推定される。
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紀元前3万3000年、人類が、ベーリング海峡アメリカ大陸を望むところへ
 到達した。
.
紀元前3万3000年、日本列島の後期旧石器時代は、約3万5000年前に始まり、
 縄文時代へと移行する約1万5000年前までの約2万年間続いた。
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紀元前3万2000年頃、世界最古の動物形象による像
  ライオンマン(ライオンレディー)
  ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州はシュヴァーベン・ア
 ルプのローネタール(はぐれ谷)にあるホーレンシュタイン・シュター
 デルの洞窟(ホーレンシュタイン山の『シュターデル洞窟』)から出土
 した、後期旧石器時代のオーリニャック文化に属すると考えられる象牙
 製の彫像(女神像)で、世界最古の動物形象による像とされる。
  発見当初は、ホラアナライオンの雄をモデルとした男神像と見なされ
 て「ライオンマン」と呼ばれたが、雌をモデルとした女神像説も論じら
 れるようになったため、「ライオンレディー」とも呼ばれる。
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紀元前3万年~紀元前2万年、日本人の祖先である縄文人が、アフリカから
 東アジアや東南アジアに移動してきた現世人類の中で、最も古い2万年~
 3万年前に分岐した集団と見られることが分かった。
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紀元前3万年、北アメリカ大陸に最初に住んだ人々は、アジア系のモンゴロ
 イドであった・・この人々・インディアンの方々は・・氷河期であった
 およそ3万年前から1万年前にかけて、凍結したベーリング海などを渡
 って、シベリアからアラスカを経由し、広大な南北アメリカ大陸各地入
 り、そして、分散して行った。
  こうした人々・インディアンの方々は、母系社会による独自の文化を
 育んだ・・今、アメリカ合衆国には、そのずーと後に来た白人が我が国
 土の様な顔をして住んでいるが・・この白人たちの論理は、「この先住
 の民であるインディアンの方々が国家を形成していなかったから」・・
 なんて、屁理屈を言う・・「だから、土地を奪ってもよかったのだ」と
 いう筋の通らない屁理屈論理を展開している。
  「部族は形成していたが、国家は形成していなかった」という理屈・
 論理である・・もし、ある家が、家庭崩壊していたら、家庭という状況
 が崩壊し、家庭が形成されていなかったら、第三者は、その家を「乗っ
 取っても良い」という論理である。
  その様な論理が、「正義であるわけはない」・・そして・・近世まで、
 北米には、中南米に匹敵するインディアン文明が存在しないとされてい
 たが、近年発掘が進み・・8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミ
 シシッピ文化の存在が、マウンド(土塁)群と呼ばれる墳墓遺跡によっ
 て確認された。
  そのうちの最も大規模なものは・・イリノイ州セントルイス郊外のカ
 ホキアと呼ばれる大遺跡で、最盛期で1万人に達したとされている。
  この超巨大遺跡は・・1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」とし
 て世界遺産に登録された。
  イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブスは、スペイン
 女王の承諾を受け、大西洋周りによるアジア発見を志したが、1492年に、
 西インド諸島に到達した。
  これに引き続き、1498年、英国人・ジョン・カボットが、北米大陸
 東海岸を探検し、英国がこれを領有(ニューイングランド植民地)・・
  1534年、フランス人ジャック・カルティエが、セントローレンス川
 遡って、これをフランスが領有化(カナダ植民地)するなどがあった。
  これらのヨーロッパ人による南北アメリカ大陸の探検と開拓、インデ
 ィアンに対する領土略奪と虐殺がはじまった。
  16世紀に、ヨーロッパで、キリスト教宗教改革がなされ、プロテス
 タント(新教徒)が生まれた。
  その様な中で、イギリスでは、宗教的な迫害(はくがい、弱い立場の
 人々を追い詰めて、苦しめること)を受けたピューリタン清教徒)が、
 1620年のメイフラワー号で、アメリカへ渡った。
  これをきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次いで入植した。
  現在のアメリカ合衆国を作ったと言われるこの人々は、アメリカ大陸
 に渡った最初、厳しい冬期・厳寒期が越えられず、餓死者が多く出る・・
 大変出るという状況だった。
  餓死者が出るくらいと言うより、ほとんどが死んでしまうかという酷
 (ひど)さだった。
  元のイギリスへ、再び、帰ろうかという状況だった。
  この窮地(きゅうち、追い詰められて逃げ場のない苦しい状態や立ち
 場)を救ってくれたのが、アメリカ・インディアンの方々だった。
  アメリカ・インディアンの方々に助けられ、耕作物の種類を教えても
 らい、
  また、その生育方法なども教えを受けたりと、
  越冬方法なども教えてもらい。
  やっと、力を付け、安住できるようになった。
  すると、今度は、安住ができるようになると・・、
  今度は、アメリカ・インディアンの方々と混住できないと、人種差別
 の行動に出た。
  キリスト教の「有色人種蔑視の考え方」に洗脳された頭に影響され、
  有色人種であるアメリカ・インディアンの方々の追い出しに出た。
  恩も義理もないキリスト教の宗教の世界に住む人々の、耕作地を拡大
 したいという欲に敗けた姿も出た。
  そこには、仏教の教える「共生の姿」はなかった。
  アメリカ合衆国は、イギリスとの戦争に勝つと、ミシシッピー河以東
 の地は、「我が領土だ」と、勝手に奪った。
  そしてさらに、卑劣なことに、そこに住む本当のその地の持ち主であ
 るインディアンの方々の追い出しにかかった。
  アメリカ・インディアンの方々は、昔から居て、幸せに暮らしていた、
  当然の生活をしているのに関わらず、
  アメリカは、その手に入れた地から、奪い取った地から、先に住んで
 いたアメリカ・インディアンの方々の追い出しにかかった。
  ただ、イギリスとの戦争に勝っただけなのに・・である。
  アメリカ・インディアンの方々に、何ら関係がない事なのにである。
  まったく関係のないアメリカ・インディアンの方々に、初めの恩も何
 も棄てて、自分だけの利益だけに執着し、卑劣な行為をし始めた。
  アメリカ・インディアンの方々は、力で、武力で殺戮され、
  そして、ミシシッピー川以東に居る人々のすべてを、河の西へ行けと
 された。
  生活が出来なくなったインディアンの方々は、ミシシッピー川以西に
 追われた。
  殺戮を伴う追い出しに、やむを得ず、逃げて行った。
  この際限ない欲に敗けた者どもの追い出しは、また際限なく繰り返さ
 れた。
  アメリカ合衆国は、その後、追い出したその地から、また、さらに、
 インディアンの方々を追い出し・・、
  その様な卑劣な行為を繰り返し、アメリカ合衆国は出来て行った。
  インディアンの方々の土地を奪って行く、西へ西へと奪って行く、そ
 の地を奪って行く。
  今、アメリカ・インディアンの方々は、人口が激減し、絶滅に瀕して
 いる。
  そして、キリスト教は、その弱いインディアンの方々を殺戮し、土地
 を奪った行為を賞賛している。
  そして、1620年の移民は、アメリカのプロテスタントの間で『偉業と
 して称えられている』。
  「マニフェスト・デスティニー」だと・・???
  当然、インディアンの方々からは、民族虐殺の始まりとして、『罪な
 る行為の始まり』として
  「ピルグリム・ファーザーズの感謝祭」には、大規模な抗議が行われ
 ている。当然である・・、
.
紀元前約3万年前、ネアンデルタール人が、この頃、絶滅した。
  最古の洞窟壁画・・現在知られている古いものでは、南フランスのシ
 ョーヴェ洞窟壁画(約3万年前?)がある。
  また、ラスコー(約1万8000年前~1万6000年前)、アルタミラ(約1万
 4000年前~1万3000年前)など、多くの洞窟壁画がある。
.
紀元前約3万年前~2万年以前、モンゴロイドアメリカ大陸に渡った。
  氷河期の時代にベーリング海峡は地続きになっていた・・この頃、ユ
 ーラシア大陸から無人アメリカ大陸に人類が移り住んだと考えられ、
 約1万年前頃までには、南アメリカ大陸の南端地域まで到達した。
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紀元前3万年、沖縄の洞穴で発見された子供の骨は初期現代型新人の特徴
 に一致する・・沖縄県那覇市山下町第一洞穴遺跡で、1968年に発見され・・、
  約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古
 級の人骨で、最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致する・・
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紀元前2万8000年~紀元前1万1000年、後期旧石器時代
  後期旧石器時代は、コナラ、クリ、クヌギを主体とした落葉広葉樹林
 が西日本から東日本を覆うようになった。
.
紀元前2万8000年~紀元前1万年、日本の後期旧石器遺跡が4000ヶ所を超え
 て存在する。
  1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(現・群馬県みどり市)で
 関東ローム層中から旧石器を発見した・・日本の旧石器時代の調査・研
 究は、ここから始まった。
  現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。
  これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1万2000年前の後期旧石器時
 代に残されたもの。
.
紀元前2万7000年、沖縄県で、この頃の人骨が発見された・・沖縄県石垣市
 の旧石器時代の遺跡から、人の全身の骨が見つかり、沖縄県立埋蔵文化
 財センターなどが分析した結果、これまで国内最古とされていた骨より
 さらに1000年古い、およそ2万7000年前の骨と見られることが分かった。
  遺跡からは複数の骨も見つかり、埋蔵文化財センターは、国内で初め
 ての旧石器時代の墓だったと考えられると指摘した。
  沖縄県埋蔵文化財センターなどは、石垣市にある「白保竿根田原洞
 穴遺跡」で、2016年7月までの5年間、発掘調査を行い、国内で最も古い
 およそ2万6000年前の人の骨が見つかっていた。
  この調査では、人の全身の骨も見つかっていて、詳しく分析した結果、
 これまで国内最古とされていた骨よりさらに1000年古い、およそ2万7000
 年前の骨と見られることが分かった。
  また、遺跡からは、食べ物や道具など生活の痕跡が見つかった一方で、
 複数の骨が発掘され、このうち1体の骨は、体を折り曲げた状態だった
 ことなどから、文化財センターは、国内で初めての旧石器時代の墓があ
 ったと考えられると指摘した。
  調査に参加した元琉球大学准教授の土肥直美氏は、「見つかった全身
 骨格は、動物にかまれた痕があることから、遺体を埋葬しない風葬で葬
 られたと見られ、沖縄では、琉球王国時代には、風葬の風習があったこ
 とがわかっているのでつながりがあるのか分析したい」と話した(2017
 年5月19日、NHKニュース)
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紀元前2万7000年、地球の寒冷化が進行する。
  2万9000年前を過ぎる頃から、地球規模で急激に寒冷化が進行し、約2
 万5000年前を前後する頃には最終氷期最寒冷期を迎えた。
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紀元前2万6500年前頃、タウポ湖が大爆発を起こす。
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紀元前2万5000年前頃、姶良(あいら)火山が大爆発を起こす。
  姶良カルデラは、鹿児島湾北部(湾奥)において直径約20kmの窪地を
 構成しているカルデラで・・、
  南九州のカルデラ群のひとつで、現在のカルデラを形成した姶良噴火
 は、約3万年前と推定されている。
  桜島火山のマグマ供給源とされる。
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紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針
  日本の『沖縄県』で発見された貝殻製の釣針。
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紀元前2万数千年、ネアンデルタール人が絶滅した。
  そして、我々=現生人類(ホモ・サピエンス)の時代となる。
  ホモ・サピエンスは、現生人類が属する種の学名で、ヒト属で現存す
 る唯一の種(ネアンデルタール人などすでに絶滅した多くの旧人類も含
 む)・・そして、このホモ・サピエンス絶滅危惧種なのか?
  核保有国が次々と増えて、今後の生存可能性は低下している。
  この我々=ホモ・サピエンスの祖先が、生まれた地=アフリカの地を
 出て、世界へ広く分布し、生息するようになったが・・この我々のホモ・
 サピエンス(現生人類)の前に、アフリカを出た人類は・・多く居た。
  その我々のホモ・サピエンスの直前にアフリカを出た人類が、「ネア
 ンデルタール人」・・最近、科学の進歩で、このネアンデルタール人
 遺伝子が、我々のホモ・サピエンスの血の中にあることが分かった。
  絶滅したネアンデルタール人の遺伝子が・・現世に生きるのは「我々
 =ホモサピエンス(現生人類)だけか」と思われていたが、ネアンデル
 タール人と我々=ホモ・サピエンスは交雑し、結婚していた。
  「ネアンデルタール人は、絶滅していなかった」のである。
  我々の血の中に、その血は受け継がれ・・生存していたのである。
  近代科学、遺伝子研究の発達が、そのことを知らしめた。
  (参考)ネアンデルタール人は、約40万年前に出現し、2万数千年前に
     絶滅したとみられるヒト属の一種と説明されている。
      新しい学説では、4万年前に絶滅したという説もある・・が・・
      遺骨(化石)から得られたミトコンドリアDNAの解析結果
     に基づき・・、
      ネアンデルタール人は、我々の直系先祖ではなく別系統の人
     類であるとする見方が有力であり・・
      両者の遺伝子の差異は、他の動物種ならば別種と認定される
     レベルであり・・、
      ネアンデルタール人ホモ・サピエンスは混血できなかった
     とする考え方が有力であった・・
      しかし・・、
      2010年5月7日のサイエンスに、われわれホモ・サピエンス
     ゲノムに、ネアンデルタール人の遺伝子が数%混入していると
     の説が発表された。
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紀元前2万年、フランスの遺跡で、人間が集団で、馬を崖下に落とし、狩り
 をしていた状況が発見された。
   集団で複雑な役割分担をし、言葉で情報をやり取りし・・人間は、さ
 らに、あらゆる面で進化して行きました。
  脳が大きくなった人間・・さらに、この様な複雑な方法も手に入れた・・
 そして、コンピューターにたどり着く・・
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紀元前約2万年前、ウルム氷期(最終氷期)のピーク
  気温は、年平均で7℃~8℃も下がった。
  そのため、地球上で氷河が発達し、海水面が現在よりも100mから最大
 で130mほど低かったと考えられている。
  その後、温暖化と寒冷化の小さな波をうちながら、長期では徐々に温
 暖化に向かった。
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紀元前2万年、この頃、海面が最も下がった、現在より120メートルも低下
 していた。
  本州と四国、九州、それから屋久島、種子島も陸続きで、また、ロシ
 アと北海道も陸続きで・・縄文人の祖先たちやマンモスは、ユーラシア
 大陸から歩いて日本にやって来た。
  この頃は、黄河の河口が、現在の韓国の済州島の南あたりにあり、黄
 河の水が、狭くなった対馬海峡から日本海流入したことによって、日
 本海が淡水化していたことが分かっている。
  その為、新潟は、今、おいしい海産物があるが、2万年前は、日本海
 ほぼ淡水だったため、魚はほとんど採れなかった。
  また、関東平野は、海面が下がったことで、深い谷がたくさん出来て
 いて・・関東平野にできたその大きな谷に、7000年前の海面上昇で海水
 が流れ込んで来た。
  その7000年前の海面上昇は、関東の内陸部、例えば、川越あたりから
 貝塚が発見されていることからも明らか(明星大学教育学部・長谷川裕
 彦准教授)
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紀元前2万年、最終氷期の寒冷期で、海面が120メートル以上も低下してい
 た。
  現在から、約2万年前の最終氷期の最寒期には、海面は全世界で120m以
 上も低下しており・・日本列島も、津軽海峡の一部、宗谷海峡、瀬戸内
 海の大部分などが陸続きで、アジア大陸ともつながり、現在の日本海は、
 ほとんど塩湖だったと推定されています。
  このとき、多くの動物が渡来し、日本の生物相に大きな影響をあたえ
 ました。
  最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南部から中央高地
 にかけては亜寒帯性針葉樹林で・・それより西側は温帯性針葉・広葉の
 混交林が広範囲に拡がっていった。
  暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋側沿岸の一部と
 南西諸島に後退していた。 
  約1万年前からの完新世になって、平均気温が高くなり、海面が上昇し、
 現在の海陸分布ができあがった。
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紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡
  日本の住居跡遺跡が整った形で発見された。
  大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」で、約2万2000年前の極めて形の整
 った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居が発見された。
  外周に柱穴を持つもので、径10センチぐらいの材を20本近く斜めに立
 て並べ、中央で簡単な組み木を施し、その上を草や皮で覆った構造が考
 えられる。
  この住居跡は、構造がよく分かった上にサヌカイト製のナイフ形石器
 や翼状剥片が、約200点も一緒に出土した。
  (参考)サヌカイト:讃岐岩(さぬきがん、サヌカイト)は、名称の
     もとである香川県坂出市国分台周辺や、大阪府奈良県の境に
     ある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩
  調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱の
 ために赤色化していたことで、火が使われていたことが分かる。
  土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。
  礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密
 集したもので、火熱を受け赤色化してい
 て、調理施設に関連したものと考えられている。
  一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた
 後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。 
  そのほか、死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。
  死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこにベンガラ(赤
 色顔料、べにがら)が残っているものがある。
  シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅
 くとも2万年前には出来ていたらしい。 
  旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中している箇所が複
 数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、土坑、墓坑などで構成されてい
 る場合が多い。
  集落の規模と構成はまだ分かっていない。 
  竪穴住居といえば、縄文時代弥生時代の住居形態を想起するが、竪
 穴住居が旧石器時代に遡っただけでなく旧石器時代人が石器だけでなく
 木を使っていたことが分かった。
  木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップなどの生産用具
 を作り、生産効率を上げることが出来る。
  径10センチくらいなら、今の建築材料の柱の太さとそう変わらない。
  それを20本も、木の柄の付いた斧で木を倒したとされている。
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紀元前2万年、この頃の人類最古の縫い針がある。
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紀元前2万年、フランスの遺跡に、集団で馬を崖下に落とし、狩りをしてい
 た。
  集団で複雑な役割分担をし、言葉で情報をやり取りしていた。
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紀元前1万8000年、沖縄県出土の人骨が判定された。
  2010年(平成22年)2月4日、沖縄県教育委員会は、沖縄県石垣市白保
 (石垣島)の新石垣空港建設敷地内にある白保竿根田原洞穴(しらほさ
 おねたばるどうけつ)から発見された人骨について、琉球大学や東京大
 学などと研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20代から30
 代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で約2万年前のものと分か
 ったと発表した。
  また「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合
 的研究」の分析では、発見された人骨片のうちの右頭頂骨片に対して、
 20416±113年前(BP)という推定年代値を得た。
  これは放射性炭素によって直接ヒト化石の年代を推定した値としては
 国内最古のものであった。
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紀元前約1万8000年前、日本海に、津軽海峡を通って寒流である親潮流入
 し、この影響で、朝鮮海峡あるいは、対馬海峡から表層水が流出した。
  (参考)表層水:ひょうそうすい、海や湖などの表層の水。
      太陽光が届く深さで、活発に光合成が行われ、有機物が生産
     される→海洋深層水
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紀元前1万8000年頃、世界最古の土器
  中国『湖南省』で発掘された約1万8000年前の土器
  また、日本の『大平山元I遺跡』の縄文土器(約1万6500年前)や・・
 『シベリア』で発掘された土器(約1万4000年前)も世界最古と言われ
 ている。
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紀元前1万7000年~紀元前1万4000年、沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡で、
 旧石器時代の、国内で例のない貝殻で作った道具類と人骨片が出土した。
  本土から独立した「貝器文化」の存在が浮かんだ。
  また、DNA分析で、現代の沖縄住民の方々に多い「南方系タイプ」と、
 ロシア沿海州の先住民に多い「北方系タイプ」が混在していたと判明し
 た。
  沖縄人の方々が、従来、考えられてきたより複雑な出自を持つと示唆
 された。
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紀元前約1万6500年前、青森県外ヶ浜町にある大平山元I遺跡から土器、石
 器が出土している。
  AMS法による放射性炭素年代測定法の算定による。
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紀元前1万6500年、日本で世界最古級の縄文土器が作られた。
  日本の古代史も世界に誇る状況にある。
  中国湖南省で発掘された約1万8000年前の土器がある。
  日本では・・大平山元(おおだいやまもと)I遺跡の縄文土器(約1万
 6500年前)・・放射性炭素年代測定から推定された。
  これらのことから、多くの研究者は、遅くとも1万5千年前には、日本
 列島で土器が使われていたとしている。 
  他地域の最古の土器をみると、南アジア、西アジア、アフリカが約9000
 年前・・ヨーロッパは、アジアより約1万年も遅い約8500年前・・、
  学校で教えられた「四大文明」の地と比較しても、日本は飛び抜けて
 古い・・、
  (参考)メソポタミア文明:紀元前3500年頃~
      エジプト文明:紀元前3000年頃~
      インダス文明:紀元前2600年~
      黄河文明:紀元前7000年?~
  ロシアのグロマトゥーハ遺跡などでは、約1万5000年前と考えられる土
 器が発見されている・・、
  日本だけが古いと言うより、東アジア全体で古い時期に土器が生まれ
 たと言える。
  ロシアでは、防寒や調理に使う「魚油」をとるために、魚を土器で煮
 ていた可能性が指摘された。
  この様に、土器使用の始まりには、漁撈(ぎょろう)も大きくかかわ
 っていると推定されている・・古代オリエント博物館研究部長の石田恵
 子氏(西アジア考古学)
  生まれた理由も様々・・
  中央大准教授の小林謙一氏(日本考古学)は・・「土器の誕生は、当
 時の環境の変化と深いかかわりがあると考えられる」と説明・・日本で
 は、氷河期が終わりに近づいた約1万6000年前~1万5000年前、気温上昇
 にともない、亜寒帯的な森林から落葉樹も交じる森林へと変化した。
  その結果、ドングリなどの植物質の食料が入手しやすくなり、それら
 を食べるためのアク抜きに必要な容器として、土器が生まれたのではな
 いかと推定されている。
  国内最古と考えられている土器は、模様のない「無文土器」で、主に、
 東日本で出土している。
  しかし、約1万4500年前頃、粘土ひもをはり付けた「隆線文土器」と呼
 ばれる土器が生まれ、日本全国へと広がった。
  「堅果類であるコナラ、カシ、シイなどの分布が広がったことで、土
 器も普及した」と推定されている(小林氏)
  日本列島では「最古級の土器は東日本に多いが、遅くとも約1万3000年
 前頃には、鹿児島でも無文土器が使われていた。
  北と南で、別個に土器が生まれ、それらが広がったと考えた方が良い」
 (南九州縄文研究会代表:新東晃一氏)
  また、シベリアで発掘された土器(約1万4000年前)も世界最古クラス・・
  縄・紐は、フランスにあるラスコー洞窟の最奥部で発見された約1万
 2000年前以前のものが現存する最古の縄。
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紀元前16000年、縄文時代が始まった。
  日本の縄文時代の始期と終期については多くの議論があるが、まず始
 期に関しては一般的に16000±100年前と考えられている。
  終期は概ね約3000年前とされている(諸説ある)
  縄文の人口は26万人、戦争が無い・・長期無変動文化・・世界最古の
 縄文土器文明。
  森林と石清水の文明・・砂漠の文明とは違う。
  人々の暮らしの知恵、祭祀のあり方、建物の技術、社会構成、埋葬の
 形式などに一つの型が生じて、文化的同一性が形成された。
  海により大陸から切断された古地理的条件は、必ずしも人種の同一性
 を可能にはしないけれども生活文化の共通性と連続性を引き起こす可能
 性は高かった。
  稲作は縄文時代に始まっていた。
  森に覆われた湿潤な風土は体質と深く関係して(砂漠の文明とまった
 く違うものだった)
  日本は稲作が中心、他の地域は放牧と牧畜(牧畜と遊牧民)。
  東日本にはブナの森が広がり、他に楢・栗・胡桃(くるみ)、落葉広
 葉樹林に覆われ、縄文後期に杉林が拡大した。
  西日本には早くから杉林があり、ブナ・楢が退いて、代わりに樫・椎・
 楠などの常緑広葉樹林となった。
  「栗の栽培」はかなり早くから行われていた、また、「カキの養殖」
 も行なわれていた。
  日本の地と違い、ユーラシア大陸は民族が入り交じり戦争の世の中に
 あった。
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紀元前1万6000年、浜北人の年代測定の結果、浜北人は、静岡県浜北市(現・
 浜松市浜北区)根堅(ねがた)の石灰石採石場で、1960年から1962年に
 発見された頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・寬骨・脛骨)の人骨化石
 である。
  上・下2つの地層から出土した。
  それぞれの層から出た獣骨の年代を加速器質量分析(AMS)法による
 炭素年代測定での結果は、上層が約1万4000年前、下層出土の脛骨が約1
 万8000年前を示した。
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紀元前約1万6000年前、東南アジアにあったとされるスンダランドが、海面
 上昇により徐々に後退した。
  海面の上昇により、他にも、アラスカとロシアの間にあるベーリング
 海峡(氷期には陸続きだった)の海没や、大陸と地続きだった日本も徐々
 に島化が進んだ。
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紀元前1万5000年、ハルーラ(シリア)で、人類定着の遺跡がある。
  これまでは移動の生活であった。
  かまどの跡もある・・定住の証拠の一つ。
  気候の温暖化が定住に必要であった。
  この頃、雨が多くなった・・温暖にもなった。
  豊かな食料に恵まれ、人口も増大した。
  草原に、森に、豊かな獲物に恵まれた。
  定住の家もあった・・村も作っていた・・豊かな実りがあったからだ
 った。
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紀元前1万5000年、人類が、ベーリング海峡を渡りアメリカ大陸へ至る。
  白人たちより、大分、早い到達者たちだった・・が・・南アメリカ
 陸などは、スペインやポルトガルキリスト教徒とキリスト教聖職者た
 ちによって虐殺され、そして、北アメリカ大陸では、イギリスからのピ
 ルグリム・ファーザーズなどのキリスト教徒たちによって、可哀想な事
 に虐殺行為を受ける・・先住民たちの権利は、キリスト教の有色人種蔑
 視の洗脳によってまったく顧(かえり)みられなかった。
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紀元前1万4500年、世界最古級の土器が日本から出土した。
  世界でも最古級(約1万6500年前)の土器が青森県の大平山元遺跡から
 出土した。
  旧石器時代の終末に、九州では、豆粒文土器(長崎県泉福寺洞窟)、
 本州では無文土器が出現した。
  一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出現期のこの頃の
 土器の役割はまだ十分解明されていない。
  この青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAM
 S法放射性炭素年代測定暦年較正年代法で1万6500年前と出た。 
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紀元前1万4000年、日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島へ移住して来
 た時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。
  無土器時代、先土器時代ともいう。
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紀元前1万4000年、縄文時代が日本に形成される(~紀元前1000年)
  この人たちが日本の先住民・・アイヌの人たちではない・・政府に圧
 力をかけて、法律に「アイヌは先住民」と書かせたが間違い・・
  アフリカを出発したホモ・サピエンス・・そのホモ・サピエンスが、
 紀元前3万年に日本に来た(当然、アイヌではない)
  そして、無土器時代を経験し、約1万6000年前から約3000年前まで、北
 海道から沖縄本島にかけて縄文人が住み、縄文文化を形成していた・・
 この系列が日本人の祖先であり、先住民である。
  だから、北海道にも、当然、「縄文人の遺跡」はある(アイヌの遺跡
 ではない)
  日本人の祖先である縄文人が、当然、北海道に住んで居た。
  北海道のこの縄文人の遺跡群をユネスコ世界遺産文化遺産)に掲
 載される活動を進めている。
  紀元前の遠い昔から日本人の祖先が、北海道で生活して来た遺跡群は、
 キウス周堤墓群(千歳市)、北黄金貝塚伊達市)、入江・高砂貝塚
 洞爺湖町)、大船遺跡(函館市)、垣ノ島遺跡(函館市)などである。
  アフリカからのホモ・サピエンスの人類の大移動は、日本列島でも行
 われ、北海道にも住み、縄文遺跡として残していた。
  しかし、この日本の先住民を差しおいて「アイヌが先住民だと法律に
 書かれた」。
  政府が陳情の圧力に屈したというが、紀元前3万年に来た日本人の祖
 先が先住民ではなく、紀元後の13世紀に日本に来たアイヌが先住民だ
 と法律に書く大間違いをしている。
  この『間違った法律』を改正して行かなければならない!!
  また、アイヌは、その歴史の中で和人と混血している・・アイヌの遺
 伝子を調べて和人から受け継いだ遺伝子でもってアイヌも先住民的遺伝
 子を持っていると主張することは間違い・・何時、その遺伝子を引き継
 いだかが問題であって、ただ、先住民的遺伝子を持っているということ
 をもってアイヌも先住民だと類推することは間違い。
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紀元前14000年~紀元前10000年、縄文時代草創期・・
  縄文時代の始期は一般的に16,000年±100年と考えられている。
  (縄文時代草創期、約16000年前~12000年前)
  旧石器時代との違いは、土器と弓矢が発明され、定住化し、竪穴式住
 居が普及した・・また、貝塚の形式に特徴がある。
  旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には、一時的に特定
 の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。
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紀元前1万4000年~紀元前1万2000年、南北のアメリカ大陸の先住民が、ア
 ジア大陸からアメリカ大陸へ渡った。
  アメリカインディアン(アジア人種インディアン)やインディオを始
 めとするアメリカ大陸の先住民族は、アメリカ大陸に最初に居住した人
 類である(モンゴロイド)。
  後期旧石器時代 に属する紀元前12000年頃、ヴュルム氷期に、ベーリ
 ング地峡経由(陸続きのベーリング海の海峡を渡った)で陸路、アジア
 大陸からアメリカ大陸へ移動を果たした。
  彼らの移入によって、アメリカ大陸の生物相(特に動物相)は、以後、
 激変することになった。
  また、当地の環境全体に対しても、人類史上で最も大きな影響をもた
 らした。
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紀元前1万4000年~紀元前1000年、縄文時代には、カキ漁が
 行なわれていて、貝塚からは、全長40~50センチメート
 ルの巨大なカキ殻が多く出土する。
  縄文時代人は、この様なカキを、日常的に食べていた。
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紀元前1万4000年、今から16,000年前の縄文時代の人骨から分かること・・、
  《古人骨と食べ物》 
  米田 穣氏(東京大学大学院新領域創成学研究科准教授):
  縄文や弥生の時代の人骨を分析して、当時の日本人が何を食べていた
 かを探る研究が進んでいる・・同位体生態学・・、
  骨を分析すれば、そこから食べていたものを突き止められる・・古人
 骨に含まれる元素の重い同位体や、軽い同位体の比率を調べる・・およ
 そ1万6000年前に始まる縄文時代の人骨・・亜寒帯の北海道、温帯の本
 州、亜熱帯の沖縄・・
  北海道では、オットセイの様な海生哺乳類、鮭などの魚を主なタンパ
 ク源とエネルギー源にしていた。
  本州は、氷河期が終わって森で覆われていて、クリなどの木の実を主
 食にしエネルギー源とし、魚をタンパク源としていた。
  これに対し、沖縄では、サンゴ礁で採れる小魚や貝類が主体で、これ
 をタンパク源としていた。
  紀元前800年頃に始まる弥生時代は、稲作が伝わる。
  「縄文時代の後期に、本州の人口が減少する・・森で何かが起きて、
 木の実が採りにくくなったのが原因と思われている・・、
  そこで、弥生時代には、稲を積極的に導入し、タンパク源は、従来同
 様、魚に求めていた・・米と魚に象徴されるスシ文化は・・弥生時代
 確立されたともいえる・・でも・・、植物のデンプンをエネルギー源に、
 魚をタンパク源にする伝統的な日本食文化の起源は・・縄文時代に確立
 していた・・
  私たちの祖先が、アフリカのジャングルで暮らしていた頃は、果実な
 ど植物質の食べ物で胃袋を満たしていて、サバンナに出てくると、肉食
 に転換した・・初めは、猛獣が食べ残した動物の骨を石器で砕き、骨髄
 などを食べていたと考えられる。
  アフリカを出て・・欧州で進化したネアンデルタール人の骨を分析し
 た結果、大型の哺乳類を主に食べていた事が分かっている。
  これに対し、人類学の分類上、人と直接つながるクロマニヨン人が、
 魚や小型の動物を食べていたようで、最終氷期(8万~2万年前)の終
 わり頃、温暖化に向かう中で、植物を食事に取り込むようになった。
  火で加熱して糖分に替えたりして、植物のデンプンを食べるようにな
 った。(参考、日本経済新聞、2010年9月18日)
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約1万4000年前~約1万年前、この頃までに、ヒトがイヌを飼い慣らしたと
 考えられている。
  別の説は、シリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタール人の住居遺
 跡(約3万5千年前?、ムスティエ文化(ムスティリアン文化))から発掘
 されたイヌ科動物の下顎骨:埴原和郎らが発掘。
  オオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古のイエイヌとする
 説がある。
  (参考)埴原和郎:はにはらかずろう、1927年~2004年、昭和後期-平
     成時代の人類学者。
      1972年、東大教授となる。
      1987年、国際日本文化研究センター教授。
      諸人種の歯の形態を比較し、モンゴロイドの歯の特徴に注目。
      骨や歯の特徴を統計学的に処理し、性別や年
     齢を推定する方法を考案。
      また、南方系の縄文人と北方系の弥生人が混血したことによ
     って日本人は形成されたとする「二重構造モデル」を提唱した。
.
紀元前1万3000年以前、日本の縄文時代は、紀元前13,000年頃から約1万年
 以上もの長い間続いた。
  その間に作られた土器の形や色など、また、住み方・家などが、だん
 だん変わって行った。
  また、その縄文時代より以前の旧石器時代の人々は、マンモスなどの
 大きなえものを追いかけて、日本列島の中を移動しながら生活をしてい
 た・・その様な遠い昔からの歴史が、日本列島全体にある。
  そのため、住んでいたのは、すぐに移動ができるテントのような家だ
 ったと考えられている。
  縄文時代になると、人々は、長い間、同じところで生活できる家を作
 った。
  みんなで集まって生活するようになった。
  これが、「村(ムラ)」の始まりだった。
  縄文時代の代表的な家を『竪穴住居』と言った。
  この住居は、地面を掘って何本か柱を立て、上に屋根を設けた。
  半地下式の家だった。
  ムラのなかには、竪穴住居だけでなく、太い柱を使った大きな建物や、
 みんなが集まる広場、死んだ人を埋葬する墓、貝がらや食料の食べかす
 を捨てる貝塚・・などが作られていた。
  また、ストーンサークルとも呼ばれる、いくつもの石を直径30~50メ
 ートルの大きな円形にならべた環状列石も見つかっている。
  ムラの周り広がる「クリやクルミなどの森」は手入れがなされた。
  ここから、生活に必要な食料や木材を手に入れることができる「縄文
 里山」として大切にされていた。
  縄文時代の人々は、丸木舟に乗って海をわたり、遠くはなれた場所の
 特産品を手に入れていた・・交流・交易をしていた。
  縄文時代の遺跡には、本州でしかとれないヒスイという美しい石が北
 海道で見つかったり・・、
  また、逆に、北海道の黒曜石が、本州で見つかったりしている。
  また、暖かい南の海でしかとれない数種類の貝が、北海道で見つかっ
 ている。
  縄文人は、日本列島の広い領域を行き来していた。
  縄文の人々は、これらのヒスイや貝などを使って、首かざりや、腕輪
 などのアクセサリーを作っていた。
  また、とても硬い黒曜石は、先を鋭くとがらせて、狩(か)りに使う石
 ぞくや石やり、ナイフなどにしていた。
  縄文時代にも、日本列島での全国規模の交流が行われていて、人々や
 モノや情報の活発な動きや交換があった。
  そして、この縄文時代の住居である竪穴住居が、従来、考えられて来
 た茅(かや)が葺(ふ)かれた形ではないことが分かって来た。
  茅が葺かれていたという痕跡がまったくないからで、逆に、「土(つ
 ち)の屋根」という痕跡が発見されている。
  例えば、岩手県一戸町の御所野遺跡に、火事にあって燃えてしまった
 縄文時代の住居があった。
  火事で、柱などの木部が炭化したため、腐敗菌に木質部が腐敗されず
 に残った。
  その様な腐らなかった竪穴住居の柱の部材の脇に焼けた土が、また、
 部材の間に堆積していた。
  それが、屋根部分の土だと推測された。
  また、茅には「ガラス質」が含まれているが、この住居跡からは、屋
 根に使われていただろう茅のガラス質があまり検出されず、「屋根が茅
 だ」という痕跡が否定され、「土葺きの竪穴住居の屋根」と推測された。
  また、土葺きの竪穴住居の焼却実験もなされ、この遺構の通りの様に
 なることも実証された。
  この様な遺跡が、日本各地で発見され、北海道でも発見された。
  北海道の入江・高砂貝塚遺跡や、東北地方、関東地方などで発見され
 た。
  縄文人は、日本全土で「土葺きの竪穴住居」に住んでいた。
  また、ガラス質を含む硬い茅を刈り取る道具の存在の可能性も無い事
 が、その裏付けにもなっている。
  今、北海道庁の会議で、北海道には、この様な縄文人は居ないという
 答弁がなされている。
  まったく、歴史的事実を無視した非科学的な議論がなされている。
  北海道庁の会議では、「無土の地」という間違った答弁がなされてい
 る。
  誰も居なかったという意味で、この様な間違った認識の議論がなされ、
 この様な間違った認識の議員が、北海道政を動かし、行なっている。
  そして、また、北海道の白老町では、北海道は「アイヌ民族の地だ」
 ということで、白老町の中のある地域をアイヌ民族に返還するという間
 違った話が進んでいるという。
  しかも、国の金が、我々の税金の金が、100億円もの金が投資され、こ
 の記念館の箱物が建てられるという。
  また、この様な北海道に、中国が暗躍して、「アイヌ民族の独立の話」
 が画策されているという。
  まったく馬鹿げた話が北海道には一杯ある。
  日本民族の祖先の縄文人の歴史が、そして、その縄文人以前の旧石器
 人の存在が、まったく無視された企て(くわだて)が進んでいる。
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紀元前約1万3000年前、日本列島が、大陸から完全に離れ、ほぼ今の形を整
 えたと考えられている。
  マイナス約60mの宗谷海峡が海水面下に没した。
  対馬暖流は、一進一退を繰り返しながら日本海流入して行き・・約
 1万年前~8000年前の間に、現在と同じような海洋環境になったと考えら
 れている。
.
紀元前約1万3000年前~1万年前、温暖化が進行しつつあったが、寒冷気候
 に戻った時期。
  北ヨーロッパなどでは「新ドリアス期」と呼ばれている。
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紀元前1万3000年、1粒系小麦の栽培は、今から1万5000年前頃に始まった。
  その後、この1粒系小麦はクサビ小麦と交雑し2粒小麦になり、さらに 
 紀元前5500年頃に2粒系小麦は野生種のタルホ小麦と交雑し、普通小麦が
 生まれた。
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紀元前1万2000年、およそ、地質学上の沖積世(完新世)が始まる。
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紀元前約1万2000年前頃、こと座(七夕の織り姫星付近)が北極星だった。
  地球の歳差運動により、北極星は25,920年周期で変化している。
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紀元前約1万2000年前頃、アメリカ大陸に人類が移動したとされている。
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紀元前約1万2000年前、ナイアガラ滝の形成がはじまる。
  解凍した氷河の水で滝の形成がはじまった。
  初期の滝は、現在より10kmほど下流にあり、年1メートルほどのペース
 で後退しながら現在の姿となった。
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紀元前約1万2000年前、イスラエルのヒラゾン・タクティット洞窟遺跡で、
 農耕開始以前の人々が宴会を開いていた証拠が見つかっている。
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紀元前約1万2000年前、ジェームズ・チャーチワードが、著書の失われたム
 ー大陸(1926年刊)で、この時期に太平洋上に存在したムー大陸が沈ん
 だと証言している。
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紀元前1万2000年頃、世界最古の陶器
  日本の長崎県にある福井洞窟で発見された約1万2000年前のもの。
  2009年には、中国で湖南省で1万4000年前~2万1000年前の陶器が発見
 された。
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紀元前1万2000年頃、世界最古の縄・紐
  フランスにある『ラスコー洞窟』の最奥部で発見された約1万2000年前
 以前のもの・・現存する最古の縄。
  後期旧石器時代マドレーヌ期(約1万8000年~約1万2000年前)に属す
 る遺物。
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紀元前1万1000年、その時、北米で異変が起きた。
  当時、氷河は後退を続けていた。
  溶け出した水は湖を作った。
  北米大陸の中央に大きな湖が出来た。
  ある日、堰き止めていた氷河が崩れ、湖の水は流れ出し、洪水となり、
 大西洋に流れ出した。
  冷たい水で蓋をされた海によって、気候変動が起きた。
  その証拠が、グリーンランドの氷の中にある。
  1万年前の氷には情報が詰まっている。
  1万1000年前の気温が急に下がり始めている。
  それは、1000年も続いた低温であった。
  豊かな森や草原の実りは無くなった。
  狩猟・採集の生活では支えきれない人口に、当時はなっていた。
  危機に直面した人類は、必死に食料を探しただろう。
  人口が増えていたので、事態は緊急であった。
  その時に、人類が集めた種子も見つかっている。
  村の周囲の種子が、食べられるのかを探していたのであろう。
  野生の麦も見つかっている。
  シリアの地層の中から、小麦やイネ科の種子が見つかっている。
  多くは野生のものであった。
  野生の中には、栽培していたとする花粉も見つかっている。
  寒冷化が食料の危機をもたらし、人類は、やむにやまれず農耕を始め
 たと考えられる。
  シリアの人たちは麦と出会い、栽培して食料としだした。
  食料を作り出した人類。
  最初は小麦を選んだ。
  小麦は、理想的な性質を持っていた。
  それをテストしているフランスの研究所では、10年間栽培し実験した。
  野生種は変化が早く起きた。
  殻が剥がれやすくなり、実も2倍と大きくなった。
  石器で出来た鎌も見つかった。
  ヨルダンで発見された鎌は、動物の骨に石の刃を埋め込んであり、金
 属のものと性能は変わらない。
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紀元前1万1600年頃、鳥に歯がなくなった。
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紀元前1万年(1.2万年前)、農耕が始まり、定住がはじまり、世界人口は
 500万人になった。
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紀元前10000年、日本の稲の痕跡がある・・起源とされる中国の長江より古
 い・・
  鹿児島県の遺跡では、12000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラン
 ト・オパールが検出されており、これは、稲作起源地と想定されている
 中国長江流域よりも古い年代となる。
.
紀元前1万年北米大陸にマンモスや大型野牛などを狩る大動物狩猟民の文
 化があったことが確認されている。
  その後、気温の上昇など自然環境の変化に適応して、狩猟から採集へ、
 さらに、初期農耕へと生産活動の移行が見られ・・紀元前2000年には、
 メキシコ中央高原にはトウモロコシ栽培を中心とする定住農耕村落が出
 現していた。
  この影響は四方に広がり現在のアメリカ合衆国ではアリゾナなど南西
 部地方とミシシッピ川とその支流の流域平野に農耕文化が花咲くに至っ
 た。
  前者では彩色土器、編籠、日干し煉瓦造りの住宅建築を特色とするプ
 エブロ文化が栄え、後者では巨大なマウンド(塚)と多様な工芸品を特
 色とするマウンド文化が創り出されていた。
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紀元前1万年~紀元前400年頃、日本の縄文時代・・偉大なる日本、この様
 な時代に日本の歴史は遡(さかのぼ)る。
.
紀元前1万年、人類は、シベリアに出て、拡散し広がって行った・・氷河期
 であった・・極寒の大地を北へ北へと行った。
  当時のシベリアには、トナカイなどの獲物が居た・・槍に使われた鋭
 く尖った石器がある・・2万年前の最古の縫い針がある・・人間は極寒
 の地で生きる知恵を持っていた・・氷河によって、アジアとアメリカは
 地続きであった・・人類は、北米へと渡り発展した。
  気温が、少しづつ上昇していた、氷河が、少しづつ溶け出していた。
  草原が、森に代わって行った・・暖かくなった北米は、獲物に恵まれ
 ていた・・石器が、獲物の首筋や肋骨の間などにあった。
  当時の人類が、集団で攻撃した証拠である。
  豊富な獲物を獲り尽くして行った。
  北極圏の獲物をうまく獲った。
  北米のマンモス、バイソン、ナマケモノは、敵を知らなかった。
  人類は、南米大陸にも獲物を追って行った。
  南米パタゴニア草原に、獲物の壁画がある。
  狩猟・採集の生活だと、土地が一人当たり10平方キロメートル必要で
 ある・・当時の人口は500万人だった。
  この方々は、後の時代になって、スペインのキリスト教徒とキリスト
 教聖職者たちによって絶滅される運命が待っている。
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紀元前1万年、最後の氷河期が去った。
  人類の出現は、約500万年前であるが・・人類は、今まで、4回の氷河
 期などの気候激変期を生き抜いて来た。
  約1万年前に、最後の氷河期が去った。
  その後、地球が温暖化をして行くと、砂漠化・乾燥化が起きた。
  対流圏と呼ぶ地球規模の空気の循環で、広大な砂漠地帯が生み出され
 た。
  赤道付近で上昇気流を起こした大気は、上空から南北の回帰線付近で
 下降し、乾燥空気となって下りて来た。
  その地域は、年間降雨量が250ミリ以下で、降雨量よりも蒸発量が多く、
 乾燥化した。
  この地域は、人類が生活するするには極めて厳しく、人類は、約1万年
 前、この砂漠化地域から移住した。
  砂漠周辺の耐乾性の草が育つ「ステップ」に移住した。
  この地域は、年間降水量が、350~600ミリで、長さが50センチ以下の
 草でおおわれた草原。
  この頃の地球の人口は、約500万人。
  ステップで畑を作り、野生の麦などイネ科の穀物を栽培し、社会が形
 成され現れた。
  焼き畑農業を始めた。
  穀物を収穫するための道具(新石器)、新しい社会の仕組みも必要と
 した。
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紀元前1万年~紀元前8000年、この頃、地中海の東側(シリア、パレスチナ
 など)の沿岸部で、もしくは、北部あたりで農耕が始まったと考えられ
 ている。
  この農耕の始まりと同じ頃、シリア、パレスチナイラク北部のあた
 りで、羊を飼育する牧畜が始まり・・、当時、農耕生活のかたわらで羊
 を飼ったようだ。
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紀元前約1万年前、この頃、最後の氷期(最終氷期)が終わったとされる。
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紀元前約1万年前、この頃、ヨーロッパ中部の火山活動が終息へ。
  アイフェル高地(ドイツ、ベルギー)や中央高地(フランス)の火山
 活動がおおむね終息。
  ピュイ=ド=ドームは約8,000年前まで活動を続けた。
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紀元前1万年対馬と九州との間の対馬海峡ができた。
.
紀元前10000年~紀元前5000年、縄文時代早期(約12000年前~7000年前)、
  縄文早期になると定住生活が出現する。
  鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住
 居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。
  この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居
 跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡や
 その他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。 
  加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟
 の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。
  このうち13棟は、桜島起源の火山灰P-13に覆われていることから、同
 じ時に存在したものと推定できる。
  この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相
 当な規模の定住集落を形成していたと推定される。 
  縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。
  現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超え
 ている。
  そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴
 住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。 
  南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石
 皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。
  定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと
 想像されている。
  南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も
 重要な役割を果たしていたと考えられている。 
  一方、北に目を転じれば、北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃
 の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、落とし穴、多数
 の土器、石皿、磨石、敲石、石錘が出土して、その数は40万点にも上っ
 ている。
  津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに
 行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。
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紀元前1万年、上部港川人が発見された。
  1967年〜1969年に、1万2000年前のものと考えられる人骨(上腕骨・尺
 骨・寬骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・第1中足骨)の断片が発見された。
  これは、日本本土で多く発見されている縄文人の骨格的特徴によく似
 ており、上部港川人と呼ばれている。
  港川人は、沖縄県八重瀬町(旧具志頭村)港川の海岸近い砕石場で発
 見された。
  港川人は、1万8000年前(旧石器時代)に生きた人骨化石に対して発見
 場所にちなんで付けられた名称で、1967年に発見された港川人の人骨は、
 約1万7000年~8000年前頃のものと推定された。
  国内で発見されている更新世化石人骨の中で体全体の形が分かるほど
 残っているのは港川人だけであることもあり、日本人のルーツを研究す
 る上で重要な資料とされている。
  頭蓋骨は現代人よりも少し大きく、堀が深い顔立ちで頬骨がはり、鼻
 筋が高い。
  縄文人と似ている特徴をもつこの港川人は、人類の謎を解き明かす上
 で、非常に重要な存在と考えられており、今後、更なる調査が行なわれ
 ている。
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紀元前1万年、ヨルダンのペイダ遺跡も同じような農耕の状況が見られる。
  1万年前の石臼も見られる。
  パンの製造に欠かせない臼である。
  この後、人類の人口は増加し、5000年前は1億人になっている。
  農業はバイオと同じ知恵が必要。
  パンを焼く。豆を植える。
  輪作の障害防止のため、家畜の糞も利用した。
  ビッグサイエンスであった。
  複雑な社会も生まれて行った。
  エブラ宮殿(シリア)古代都市、20万人の人口。
  市場もあり、周辺の人たちも集まった。
  最古の図書館で、15000枚の陶器の記録が発見された。
  大半が経済のもの。
  小麦で支払った給料。
  金の装飾品。
  文化の芽生えが感じられる。
  農業の発見は、新しい人類の発展をもたらした。
  チグリスユーフラテス、インド、中国でも、農業が発展した。
  シリア中部に、1万年前の水車がある。
  巨大な灌漑用の水車。
  灌漑技術の進歩で収穫も増えて行った。
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紀元前1万年キリスト教聖書に系図がある。
  その系図に、人類最初の人が書いてある。
  その人類の初めの人から計算すると1万年となる。
  キリスト教は、人類は1万年前に誕生したとしている。
.
紀元前1万年キリスト教の教義は1万年前が歴史の始まりとしている。
  故に、キリスト教の始まりの記であるキリスト教聖書の『創世記』は、
 この1万年前の「この時」に始まったという。
  キリスト教の神が宇宙を創造し始めた時だという。
  全能のキリスト教の神が、何故、1万年前に、始めたのか?
  何故? 宇宙を創ることを始めたのか?
  創ろうと思って、当然、始めたのだろう。
  何故、それまでは創ろうと思わなかったのか?
  急に、思い立って創ろうとしたのか?
  気が変わったのは、何だったのだろうか?
  それまで、創らなくて、途中から、何故、創ろうと思ったのか?
  それにしても、1万年前はおかしい??
.
紀元前1万年、全能で唯一の神、そして、正しい神が思い立ち始める。
  これは、キリスト教の聖書に、この様に書かれている。
  「初めに、神は天地を創造された」と。
  始めたのだと・・。
  だから、故に、キリスト教の聖書に書かれている事だから間違いない
 こと。
  しかし、ここでよく見て戴きたい、考えて戴きたい、思っていただき
 たい。
  そのキリスト教の神以外の存在が居られ、キリスト教の神がこの様な
 事が出来る状態を設(しつら)えて居られたという事を・・
  キリスト教の神が作ろうとする空間と時間を設(しつら)え、キリス
 ト教の神が作ろうとする状況のしつらえをして戴いていたという事を・・
  キリスト教の神は、その『ある存在』によって創造ができた、そして、
 始められた、そして、始める事が出来た。
  キリスト教の神は、この『ある存在』には気づかれなかった、気付く
 ことが出来なかった・・故に、そのことは聖書に記されていない・・気
 付かない範囲の聖書となっている・・気付けない範囲の聖書となってい
 る・・そこまでの認識が不充分の中にあるキリスト教となっている・・
 故に、だから、間違いも数多く侵すことになった・・
.
紀元前1万年キリスト教の聖書の系図を計算すると約10000年になる。
  キリスト教は、故に、だから、世の始まりとするその時は1万年前とな
 っている。
  現代科学はビックバンが始まりとしているが、BC(紀元前)の100億
 年以上も以前である。
  キリスト教はこの現代科学のビックバンに乗っかった・・そうだ、そ
 れだと・・
  キリスト教の神が創造した時はと言っているが、前記のようになって
 いる聖書の記述とは、まったく矛盾している。
  また、キリスト教にはノアの方舟の話がある・・この話も、シッチャ
 カメッチャカである・・ノアの方舟キリスト教の話は、『科学的に、
 完全に成立していない』・・大洪水の水か引いて、ノアの方舟は、アラ
 ラト山の頂上に、その舟が着いていたという・・アララト山は、標高が
 5,137メートルある・・これは海抜である。
  『地球上の全表面が水に満たされ、標高5,137メートルのアララト山
 水没するという大洪水になったのだ』とキリスト教は言うが・・??
  地球上の全表面積を覆う水があったという・・陸地がまったくないと
 言うこの水・・『アララト山の頂上も隠れるという水』が、『雨が長く
 降ったから』と、その根拠をキリスト教は言うが・・説明になっていな
 い・・その様に、キリスト教が言ったって、ちょっとした日数・・一日
 にどのくらいの雨が降ったのだと言うのだ。
  全地球上の水位が、海抜が、1日に100メートル以上も上がるという雨
 が降る訳ない・・その水はどこから供給されると言うのだ・・
  1時間に4000ミリ(4メートル)以上の降水量など、あり得ないもあ
 り得ない・・日本の降水量は、1年間1000ミリである・・日本の4年間分
 の雨が1時間で降るという話になる・・もう笑い話だ、あり得ない・・
 4,000ミリの降水量と言ったら4メートル、こんな雨が1時間に降る訳が
 ない・・年単位ではないのと聞き返したいくらい・・その位の雨が降ら
 ないと、雨量がないと、キリスト教の聖書の日数では、アララト山が隠
 れるくらいの海抜の『水面の上昇』がないのだ・・
  そしてまた、その空の水はどこから供給されたの?・・とキリスト教
 に問いたい・・非科学的な話に『沸いている』キリスト教である・・キ
 リスト教は、長い歴史、「この話に、花を咲かせて来た」・・馬鹿馬鹿
 しい限りである・・ノアの方舟が本当かどうかを調査団を組織して、行
 ったという・・お金がもったいないということだ・・そして、その事を、
 キリスト教に偏するNHKが放送した。
  その様なくだらない外国の映像を買っているNHKである。
  そして、放送までしている。
  そして、くだらない言いがかり的な事で『本当だった。本当だ』とい
 う結論をNHKは放送した。
  視聴者の大切な受信料の無駄遣いである。
  キリスト教は、「ノアの方舟」が起こり得ないと心では思っているの
 で、その様な気持ちがあるから、この様な調査をしたり、必死に「大洪
 水はあった」「あった」とプロパガンダ(嘘宣伝)しているのだ・・そ
 の位の科学知識はあるだろう。
  そして言う、英国人探検家が、古代シュメールの都・ウルで発掘して
 たら、紀元前2000年期の洪水跡を発見したと、これは、ノアの方舟の頃
 だと言う・・その様な話なら、日本においても、紀元前2000年頃の地層
 を掘れば、洪水の堆積層はあるだろう・・だから、全地球がノアの方舟
 の洪水だった、日本でも見つかったなどと言わないでください。
  キリスト教は飽きずに言い続ける。
  イラクのバクダッド近くのキシという所でも発見されたと。
  「ウルクでも云々」
  「シュルパク云々」・・など。
  ノアの方舟の史実は一杯あると言いたいのだろう。
  チグリス・ユーフラテス川は、毎年のように洪水を起こしていたと言
 える。
  キリスト教徒は、この例の様な、この類いの話などで、マインド・コ
 ントロールされている。
  元々、この地方は洪水が頻繁に起きる地方だという知識があれば、『
 一笑に付す』ことができるのだが。
  また、このノアの方舟の話は色々ある。
  古代とは、この様な時代なのだ。
  例えば、主人公ウト・ナピシュテムは、エア神の命に従って方舟を作
 るという話もある。
  話の展開が、ノアの方舟とまったく同じ。
  雨の降る日数が違うくらい。
  そして、山の名が違うくらい。
  何しろ、キリスト教は、架空の話とはっきりしている事でも、マイン
 ド・コントロールで真実にする事をするという宗教。
  アララト山の頂上が見えない大洪水が起きる訳がない。
  しかも、その大洪水は、全地球的に起きたという。
  嘘付き宗教です。
  当然、信じるに足る宗教ではありません。
  ただ、人は大勢何だかんだと殺されました。
  「卑怯な宗教め」と言いたい。
.. 
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
.
  https://hanachan28.exblog.jp/
または
  http://kitaguni29.sapolog.com/
または
  http://stff2010.blog29.fc2.com/
または
  https://32983602.at.webry.info/