(増補版)676E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年8月~1897年8月)

題:(増補版)676E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年8月~1897年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年8月6日、奈良鉄道が、初瀬鉄道の全線を自社の延長
 線とする免許を得た。
  1897年10月1日、引継ぎを受けて工事を続行した。
  奈良鉄道は、京都と奈良を結ぶ鉄道として計画された。
  建設は京都から進められて、1896年に、七条駅~奈良
 駅間が全通した。
  そして、この年・1897年、奈良駅~桜井駅間の区間
 建設していた初瀬鉄道を合併し・・
  1898年に、全通した。
.
1897年8月10日、両国川開きの花火大会で、多数の見物客の
 重みで木橋の両国橋の欄干が落ち、川に転落するなどで
 死傷者が多数でた。
  この事故を契機に、旧橋の上流に鉄橋が架けられた。
  因みに、両国川開きが初めて行われたことについて・・
 若月紫蘭『東京年中行事 下巻』(春陽堂、1911年)に
 以下の記述がある。
  「享保十八年(1733年)、八代将軍吉宗の時である。
  前年大飢饉の余勢をうけて米価しきりに騰貴し、山陽・
 西海・四国尤も甚しく、民の餓死するもの九十六万余人
 に及んだと言うにもかかわらず、漸く太平に慣れ、奢侈
 の風これより盛んならんとしたる江戸に於ては、この年
 五月二十八日を以て、今猶江戸名物の名残の一として数
 えられつつある、隅田川は両国の川開が初めて催された
 のである」
.
1897年8月18日、逓信省官制が改正(勅令第267号)されて、
 鉄道局を「鉄道の監督」および「私設鉄道の免許に関す
 る行政庁」とした。
  庶務課と監理課の2課を設置した。
.
1897年8月18日、鉄道作業局官制を公布(勅令第268号)した。
  それによって、作業局に建設・工務・汽車・運輸・計
 理の5部を設置・・
  建設部には、庶務・経理・監督の3掛を・・
  工務部には、計算・設計・庶務の3掛と国府津・静岡・
 名古屋・敦賀・神戸・長野の6保線事務所、および、新永
 間建築事務所を・・
  汽車部には、庶務・運転の2掛と新橋・長野の2機関事
 務所、および、新橋・神戸・長野の3工場を・・
  運輸部には、庶務・調査・運転・旅客・貨物の5掛と新
 橋・名古屋・神戸・敦賀・長野の5運輸事務所を・・
  計理部には、主計・出納・倉庫・検査・購買・庶務の
 6掛と静岡・名古屋・神戸・長野の4出納事務所、および、
 青森・福井・福島・八王子・篠ノ井の5派出所をそれぞれ
 設置した。
.
1897年8月18日、中越鉄道の福野駅~福光駅間が開通した。
  中越鉄道は富山県で最初に開業した鉄道。
  日本海側において、最初に開業した私設鉄道
.
1897年8月24日、陸奥宗光が死去した。
  陸奥宗光:(1844年~1897年)紀州藩士、外交官、政
 治家。
  明治初期に行われた版籍奉還廃藩置県、徴兵令、地
 租改正に大きな影響を与える。
  カミソリ大臣と言われる・・伯爵
  1844年8月20日天保15年7月7日)紀伊藩士・伊達宗広
   (千広)と政子の子(6男)として生まれる。
   父は国学者・歴史家としても知られ、影響を受け、
   尊王攘夷思想を持つ・・
   父は紀州藩に仕え、財政再建を成した重臣(勘定奉
 行)・・しかし・・
  1852年(8歳)父が、藩内の政争に敗れ失脚・・一家は
   困苦と窮乏の生活となる・・
  1859年(15歳)江戸に出る・・
   安井息軒の塾などで学ぶが・・吉原通いが露見し破
   門となる・・その後、水本成美の塾で学ぶ・・
   これより陸奥陽之介と名乗る。
   父・宗広、宗興(伊達家養嗣子)が尊皇派であったた
   め長州、土佐の志士らとの交流ができ、坂本竜馬
   知られ、神戸海軍操練所、亀山社中海援隊と行動
   を共にする(1867年)・・
   長州藩桂小五郎木戸孝允)、伊藤俊輔伊藤博
   文)などの志士と交友を持つ・・
   脱藩し、国事に奔走、尊王攘夷運動に・・
  1863年(19歳)勝海舟の神戸海軍操練所に入る・・
   才覚を発揮する陸奥に対する坂本竜馬の言葉・・
   「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺
   と陸奥だけだ」
   陸奥も竜馬のことを・・
   「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあら
   ざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と絶
   賛した。
  1867年(23歳)12月10日、龍馬が暗殺され・・
   後、紀州藩士・三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込む。
   海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃
   する事件(天満屋事件)を起こした。
  1867年(23歳)維新政府が成立するや、
  1868年(24歳)岩倉具視の推挙により、外国事務局御
   用掛、次いで会計官権判事に任ぜられ、外国使臣と
   の応接、
   戊辰戦争に際し、中立を表明するアメリカと交渉し、
   甲鉄艦ストーンウォール号の引き渡しに成功、外国
   軍艦の購入に活躍・・金は大阪商人達に交渉して、
   一晩で借り受けることに成功・・
  1869年(25歳)大阪府知事後藤象二郎の下で働いた
   のち、摂津県(のち大阪府編入)知事、兵庫県知事・・
  1870年(26歳)薩長土肥を中心とする政府人事に不満
   を抱き、紀州藩強化策に専念、兵器購入、教師雇い
   入れのため欧州に出張すえう。
   廃藩置県ののち、神奈川県知事、外務大丞、大蔵省
   租税権頭から租税頭、大蔵少輔心得と進み、大隈重
   信、井上馨渋沢栄一らと共に大蔵省改革派として
   活動した。
  1871年(27歳)神奈川県令
  1872年(28歳)租税頭、地租改正局長として地租改正
   を推進・・しかし・・
   薩長藩閥政府の状況に憤激して、官を辞し・・和歌
   山に帰る・・蓮子夫人が亡くなる・・翌年、亮子と
   結婚・・
  1873年(29歳)政変で、薩派が大蔵省を握ったため陸
   奥ははじき出された。
  1875年(31歳)大阪会議で政府と民権派が妥協し、そ
   の一環で設置された元老院成立で議官。幹事役を務
   めた。
  1877年(33歳)西南戦争に挙兵を企てた立志社・大江
   卓らに加担したと発覚(土佐立志社事件・政府転覆
   計画)として5年の刑を受け下獄(1878年)。
  1878年(34歳)下獄・・妻亮子にせっせと手紙を書く・・
   獄中で功利主義哲学者ジェレミ・ベンサムの著作を
   翻訳した。
  1883年(39歳)1月、特赦によって出獄
  1884年(40歳)イギリス、オーストリアに留学、シュ
   タイン(国家学)など猛勉強状態で学んだ(伊藤博
   文の勧めでのヨーロッパ留学)・・西洋近代社会の
   仕組み、内閣制度の仕組み、議会はどの様に運営さ
   れているか、民主政治の先進国のイギリスの知識と
   知恵の数々を盛んに吸収した。
  1886年(42歳)帰国後、外務省に入る。
   井上外相に引き上げられ弁理公使から特命全権公使
  1888年(44歳)駐米公使となり、日米条約、日墨条約
   の改正交渉に従事・・
  1890年(46歳)帰国、農商務大臣に就任、民党対策を
   主として担当した。
  1892年(48歳)第二次伊藤博文内閣の成立で外務大臣
   に就任し、念願の条約改正事業に着手・・
  1894年(50歳)日英条約の改正(治外法権を撤廃)を
   成功させ、以後、次々に各国との条約改正をなしと
   げた。
   また、朝鮮問題ではついに清国との開戦にいたる外
   交を展開し、開戦から三国干渉に至る難局に対処・・
   講和会議では全権をつとめ、下関条約締結に手腕を
   発揮した。
   アジアをめぐる国際関係に大きな変動をもたらすに
   至った。
   この経緯を『蹇蹇録』として外務省高官、および、
   ごく限られた政治中枢に配布した。
  1896年(52歳)5月、病気のため辞職後も、雑誌『世界
   之日本』(主筆は竹越三叉)を刊行するなど、政治的
   再起を目指していたが・・
  1897年8月24日、死去、54歳
   著書:『蹇蹇録(けんけんろく)』
   参考文献:『陸奥宗光』(現代日本思想大系10巻)
.
  (今日の言葉)
.
  題:果たして中国が・・「自分の意思を通せるのか?」
    中国の暗号資産(仮想通貨)は成功するか?
.
紀元前2世紀~紀元前1世紀、荒神谷(こうじんだに)遺跡
 が発見された・・これは大発見だった・・
  最初の発見は、農道建設で遺跡分布調査に入った調査
 員が、田んぼのあぜ道で一片の土器を拾ったことがきっ
 かけだった。
  弥生時代中期後葉~後期初頭
  島根県北東部、出雲市斐川町神庭(ひかわちょうかん
 ば)に所在する青銅器埋納遺跡。
  「出雲風土記」にある神名火(かんなび)山と言われ
 る標高366メートルの仏経山の北東、小さな谷間の標高22
 メートルの南向きの急斜面。
  1984年~1985年の島根県教育委員会の調査で、丘陵斜
 面の3地点から、整然と一括埋納した状態で銅剣358本、
 銅鐸(どうたく)6口、銅鉾16本がまとまって出土した。
  刃こぼれなどが見られず、形式が単一であることなど
 から、鋳造後比較的短期間のうちに一括埋納されたもの
 と考えられている。
  それまでの弥生時代の日本全土で出土した銅剣の総数
 を上回る数が一度に出土したのだった・・
  この地方の強大な勢力の存在を示すものだった。
  この銅剣は、武器としてより祭器としての性格が強い
 と考えられている。
  弥生時代を代表する3種の青銅器が一括埋納された遺跡
 の最初の発掘例となった。
  銅剣は中細銅剣で、損傷が見られず、単一型式を示す
 ことから、製作後比較的早い時期に埋納されたと考えら
 た。
  銅鐸はいずれも小型で、菱環鈕式横帯文銅鐸 1、外縁
 鈕式四区袈裟襷文銅鐸 5。
  銅鉾は中細形 2、中広形 14で、北部九州からの搬入品
 と考えられている。
  銅鐸・銅鉾も共伴遺物がなく埋納時期は不明、最も新
 相を示す中広銅鉾の年代より弥生中期末~後期前葉以降
 と考えられている。
  この遺跡は、弥生時代の青銅武器、特に、銅剣が過去
 の出土総数を大量に上回り、従来の分布論を破壊した。
  また、不時発見の多い埋納青銅器としては例外的に正
 式な発掘調査で出土し、埋納状況が明らかになった点も
 重要。
  1998年の出土品は一括して国宝に指定された。
  これによって、出雲が神話だけの存在ではないと考え
 られる契機となった・・
  王国あるいは文化圏の存在・・
  (参考)不時発見:工事中などに、予想されていなか
     った埋蔵文化財が確認されることを言う。
.
紀元前2世紀~紀元前1世紀、加茂岩倉遺跡が発見された・・
  これは、不時発見・・
  弥生時代中期から後期
  島根県東部、雲南市加茂に所在する弥生時代の集落跡
 の銅鐸埋納遺跡。
  赤川の支流を遡(さかのぼ)った狭い谷の最奥部、標
 高138メートルの丘陵南斜面の中腹。
  荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4キロメートルし
 か離れていない。
  1996年10月、農道工事に伴い丘陵地を掘削中に谷底よ
 り18mの斜面から、史上最多の39の銅鐸が発見された。
  重機による掘削中に、突然異様な音がしたため、直ち
 に重機を止めた運転者が「誰がポリバケツをこんなとこ
 ろに埋めたのか」と考えつつ近づいたところポリバケツ
 ではなく銅鐸を発見した。
  銅鐸の高さは30~50cmで、ほとんどが大きい銅鐸の中
 に小さな銅鐸が入っているという「入れ子」の状態で出
 土した。
  このうち7個は絵画銅鐸で、ウミガメの絵が描かれてい
 るものや、吊り手に小さな人の顔が描かれているものも
 あり、これらは、これまで出土したどの銅鐸にもみられ
 ない独特のもの。
  また 12個の銅鐸の吊り手には×印がついており、わず
 か3kmほど離れた神庭 (かんば) の荒神谷遺跡で出土した
 358本の銅剣の328本の把手にみられた×印との関係も注
 目を集めた。
  39個の銅鐸は国宝に指定された。
     ・
     ・
372年、倭王に、朝鮮半島百済王が朝貢した時に、鉄刀
 「七支刀(しちしとう)」が献上された。
  ヤマト王権が担った外交の一端を示す史料である。
  刀の表裏に計61文字の銘文が金で表わされている。
  朝鮮半島で、高句麗が南下した事への危機感が贈呈の
 背景にあるとみられている。
  東アジア情勢を語る史料となっている。
  この鉄刀は、奈良の石上神宮に伝わり、国宝となって
 いる。
  長さ74・9センチ、
  日本書紀などの史書に、百済が倭に対して複数回朝貢
 していて、人質も差し出していることが記述されている。
  そして、七支刀の献上について、日本書紀神功皇后
 政52年条に、百済倭国の同盟を記念して神功皇后へ「
 七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたと
 の記述がある。
  紀年論によると、この年が372年にあたり、年代的に
 日本書紀と七支刀の対応、および、合致が認められてい
 る。
  銘文の判読された内容・・
  表:「泰始四年(268年)夏の中月なる5月、最も夏な
    る日の16日、火徳の盛んな丙午の日の正午の刻に、
    百度鍛えた鋼の七支刀を造る。
     これを以て百兵の兵器の害を免れるであろう。
     恭謹の徳ある侯王(倭王)に栄えあれ、寿命を
    長くし、大吉の福祥あらんことを」
  裏:「先世以来、未だこのような刀は、百済には無か
    った。
     百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝と倭に寄せ
    ることにした。
     それ故に、倭王百済王に賜われた「旨」を元
    にこの刀を「造」った。
     後世にも永くこの刀と共に倭と百済が伝え示さ
    れんことを」
     ・
     ・
8世紀後期、日本は、唐文化を卒業し、唐文化を無条件に受
 容しなくなった。
     ・
     ・
10世紀末、この頃、現在、使用されている西洋歴(キリス
 ト紀元)が定着した。
  「イエスの生誕年が何時なのか?」の問題が起きた。
  古代のキリスト教年代学を受け継いだフライジング
 ギリシャ語訳聖書をもとに計算して5500年と算出した。
  ユリウス・アフリカヌスでは5500年、
  エウセビオスとヒエロニムスでは5199年、
  アウグスティヌスでは5349年、
  人類史をキリスト教は6000年としている。
  このことから、キリスト教は、この頃、『終末が近い』
 とし、その終末の到来を恐れた。
  人々は、終末が切迫しているとの認識が強かった。
     ・
     ・
1882年5月、アメリカと朝鮮が米朝修好条約を締結した。
  この時、中国・清は、その条約の中に「朝鮮は、清の
 属国だ」という条文を入れさせようとした。
  朝鮮・韓国が、中国・清の冊封体制したにあったが、
 「そう甘いものではなかった」。
  ただ、中国・清に挨拶に行けば良いという様な甘いも
 のではなかった。
  1881年、清国は、対朝鮮関係を監督を強化した。
  わざわざ再編して強化した。
  今まで監督していたのは中国・清国の礼部が行ってい
 たが、海軍を率いて大活躍したことで有名な李鴻章の下
 に移した。
  この時、李鴻章は北洋大臣をしていた。
  朝鮮に対する清国の干渉は強まった。
  伝統的な宗属関係なんてものではなかった。
  その様な強烈な対応を清国はとった。
  また、その様な状況の中で、1882年5月、アメリカと朝
 鮮が、米朝修好条約を締結するが・・中国・清は斡旋・
 仲介をして、朝鮮は中国・清の「属国だ」と、条文に記
 す様に動いた。
  条約上で明文化しようとした。
  アメリカは、その異常さに反対をした。
  結果、中国の思惑は失敗した。
  中国・清は、この様に単なる冊封ということでなく、
 他国の条約締結にも口出しをして、アメリカだけでなく、
 欧米列強各国、および、世界へ印象づけ、朝鮮は、中国
 が宗主だということを承認させ様とした。
.
1918年12月22日、原内閣は、パリ講和会議に向けた人種差
 別撤廃に関する訓令案を決定した。
  欧米の人種差別行為を止めさせたかった。
  この当時、欧米列強諸国に、キリスト教にマインド・
 コントロールされた「有色人種差別」が根強くあった。
  (とは言っても、2020年の今・現在でも、人種差別が、
 まだ、なされている状況・・)
  この頃、黒人の方々が、卑劣な奴隷の身分から解放さ
 れていたとはいえ、まだまだ、アメリカ社会のキリスト
 教国やヨーロッパ社会には、黒人の方々を初め、黄色人
 種に対する人種差別がどぎつく、卑劣にも行われていた。
  ハワイの方々は、王国を潰され、アメリカに乗っ取ら
 れていた。
  日本は、それに強烈に抗議をしたが、その日本人が、
 黄色人種蔑視の差別を受けていた。
  中国人と共に、人種差別の嵐の中に居た。
  第二次世界大戦でも、黒人の方々は、最前線に立たさ
 れ、白人兵より黒人兵士の方が戦死率が高かった。
  70年前の出来事であるが、キリスト教に流れる有色人
 種差別観にマインド・コントロールされた状況は、そう
 簡単に抜けきるものではなかった。
  キリスト教国の国家がイニシアチブを取って出来た国
 際連盟も、キリスト教の価値観で判断されるという社会
 だった。
  イスラム社会がノーベル賞から除外されている今・現
 在の状況とまったく同じだった。
  強いキリスト教信仰のキリスト教国オーストラリアも、
 この前まで「白豪主義」と言って、「白人だけによる豪
 州(オーストラリア)」という軽蔑すべき人種差別政策を
 とっていた。
  また、先住民の黄色人種アボリジニの方々を、動物
 のごとく撃ち取ってよいという法律を作ってまでして、
 アボリジニの方々を動物狩りの様に虐殺していた。
  また、この強いキリスト教信仰国家は、キリスト教
 迷信「鯨は知恵のある動物で、高いステージにある」と
 いう迷信を掲げて、日本の捕鯨に大打撃を与えた。
  日本の食文化の一画にある鯨食は消し去られた。
  その一方、オーストラリアは、カンガルーを撲殺・虐
 殺するという行為をしている国。
  食文化というものは、それぞれの国々が育んだ尊重さ
 れるべきものだ。
  オーストラリアの歴史より古い太地(たいじ)町の鯨
 漁が大きな被害を受けた。
  オーストラリアは、この太地の方々へ謝罪と補償をし
 なければならない!!
.
1941年4月13日、日ソ中立条約が合意され、署名された。
  この条約の中に、満州国の領土保全と相互不可侵を約
 束した条項があった・・
  しかし、この後、ソ連は、この条項を無視し、満州
 どへ武力侵攻の行使をした。
  ソ連は、1945年4月5日に、「翌年(1946年)に満期に
 なるが自動延長はしない」と日本政府に通達して来た。
  つまり、それまでは破棄しないという姿勢を見せ、「
 破棄する」という意思をソ連は日本側にまったく見せて
 いなかった・・つまり、現状は継続するという姿勢を見
 せていたが、ソ連は裏切った。
  そして、武力侵攻をし、日本人の一般市民を虐殺した。
  また、ソ連は捕虜と言ったが、日本兵ばかりではなく
 日本人の一般市民までシベリアへ連れ去った・・拉致・
 誘拐である・・
  この行為は「シベリア抑留」と言われているが・・拉
 致行為であり、誘拐行為である。
  そして、捕虜だと言っていたが、日本兵だけではなく
 大勢の日本人の一般市民を連れ去った。
  このことを書いた本「女たちのシベリア抑留(小柳ち
 ひろ著)」がある。
  ソ連は、多くの日本女性を強姦して卑劣な行為をした
 が、シベリアへも連れ去った。
  その日本女性たちは、その時から70年以上が経たなけ
 れば口を開くことが出来なかった・・それほど精神的シ
 ョックは大きかった・・あまりにもつらい出来事だった。
  開拓団の方々の妻たち、女子学生、日赤看護婦の方た
 ちなど・・
  本来、ソ連は連れ去ってはいけない方々まで、非人道
 的にも、ソ連(現:ロシア)は、シベリアという極寒の
 地へ連れ去っていた。
  そして、北極圏から中央アジアという広大なソ連の領
 内へ連れて行き、抑留し拘束した。
  そして、何ら罪のないこの様な方々へ重労働を科した。
  多くの方々が命を落とした。
  悲しいことに、この方たちの中に「日本に帰ろうと思
 っておりません」という留まらざるを得なくなった大き
 な精神的打撃を受けた方々も居る。
  まったく人生をソ連によって踏みにじられた方々・・
  ここに、ソ連の抑留システムのその極めて非人道的な
 面がある。
  これから、日本は、この補償についてもソ連(現:ロ
 シア)に求めて行かなければならない。
  韓国が言うような1000万円/1人という補償を求めて
 行かなければならない!
.
1946年11月3日、日本国憲法が公布された。
  日本国憲法は、アメリカが最初から最後まで、すべて
 を作った・・これがプロパガンダ(嘘宣伝)されている・・
  日本は、ただ、その憲法の『翻訳に徹しただけ』。
  しかし、この事実がまったくプロパガンダ(嘘宣伝)さ
 れ、戦後、70年以上経った2020年でさえ間違って認識し
 ている・・
  日本が自主的に作った「自主憲法だ」と・・
  その様に思い・・思わされている。
  日本は「翻訳だけ」という役割分担さえあった。
  しかし、この様な真実は「報道しては駄目だ」とアメ
 リカからの偽(いつわ)りの卑劣な強制があった。
  アメリカの何が「自由だと言うのだ?」・・
  アメリカの何が「民主主義だというのだ?」・・
  日本国民の民衆にまったく情報を与えないで、日本国
 民の意思などを問わないで、アメリカが『独裁』で与え
 た日本の現行憲法なのた。
  アメリカは、言論統制(プレス・コード)を強いた。
  アメリカは、ラジオ・コードも強いて、徹底的に検閲
 を実施し、秘密にさせた。
  事実は、まったく報道できない状態におかせた。
  長い間、アメリカは、この様な非民主主的な行為を日
 本に対して行っていた。
  NHKやマスコミは、「日本国憲法アメリカが作っ
 た」とは決して報道しなかった。
  『最大のタブー』とされた。
  しかも、NHKやマスコミは、嘘を報道し始める。
  アメリカが作った日本憲法を、言い換えて「日本の政
 府草案だ」と「嘘の報道し始めた」。
  NHKやマスコミは、「日本がある程度、自主的に作
 ったのだ」と「嘘の言い方をし始めた」。
  アメリカが、強権をもって、箝口令(かんこうれい)の
 口封じをして、日本に与えた日本の現行憲法を「強烈に
 定着させた」。
  世界記憶遺産ものの「茶番劇憲法制定劇場だった」。
  アメリカの戦後の日本改造政策の大成功事例の一つだ
 った。
  それとも??? そのすべてをお見通しの日本国民は、
 そのアメリカの筋書きに、その演技指導に乗ったふりを
 して、やって来たのか?
  しかし、今、日本を取り巻く環境に、現行のこの日本
 国憲法は、耐えられなくなっている。
  そろそろ日本も、核兵器を搭載・装備した原子力潜水
 艦を持たねばならなくなっている。
  女房・子供の笑顔を維持するために、その行動に移る
 時になって来ている。
  愚かな人間・・ある程度の力を持たないと「外交の正
 常さ」は保てないのだ。
  その様な状態にしてから・・それから・・平和外交が
 スタートする。
  丸腰の人間に「真に耳を傾ける」は・・絵空事
.
1959年、この年に始まった在日朝鮮人の帰国事業
  この帰国事業の始まる前の・・終戦後のこと・・
  日本へ、朝鮮半島から渡って来ている朝鮮の人たち・・
  そのお父さんたちは、朝鮮で貧しさの中で苦労し、日
 本に渡ればよくなるかと日本へ渡って来ていて・・日本
 に来たと言っても苦労はした。
  自分の子供たちには・・自分が食べさせねばならない
 と・・また、この子たちは餓えさせまいと・・自分は食
 べなくても、子供たちには食べさせた。
  そして、そのお父さんは、自分の知り合いの日本人宅
 を訪れた。
  お父さんは、子供たちとは違って、色々な人間関係を
 持っていて、人間的付き合いを持っていた。
  そして、朝鮮からの方々が訪れて来た、そして、長い
 話の中で食事をして戴いた。
  その様な中で、ある時の話だが・・お新香(カラシ菜)
 が美味しいと、その方はよく食べられた・・
  よく食べて戴いたので、母は、次から丼(どんぶり)で
 お代わりを出して差し上げた・・
  それも食べるという余程可哀想ですがお腹(なか)が空
 いていた様でした。
  食事がすでに終わっていたので、話の御茶受けにお新
 香を出したのですが、この様な展開をしていた。
  しかし、急に空きっ腹にお新香(おしんこう)を入れた
 ものだから、急に腹が痛くなり、急にトイレはどこです
 か?と聞いた。
  トイレを教えてあげたけれど、少しトイレまで遠かっ
 たので、トイレまでの途中の廊下でその方は粗相(そそう)
 をしてしまった。
  厳しい戦後の中の話の一コマで、日本人とて大変で、
 その中で朝鮮からの方々も必死に生きていた。
  日本人の人々も、できることをして差し上げていた。
  近所で、日本人のお父さんが栄養失調で亡くなったと
 いう話が耳にも入って来ていた頃・・その様な厳しい時
 代だった・・
  今・現在、韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領が、
 半分、引っ掛けの様な言い掛かりを日本に言って来てい
 るが・・
  日本に来ていた韓国の当時の方々は、この文在寅の様
 な卑劣な非礼な言い方はしなかった。
  日本にまったく非が無い話に・・「日本から解決案を
 示せ」と言う韓国の文在寅である。
  例えば、あなたがまったく悪くない話で、相手から「
 誠実に解決案を示せ」と言われたらどの様に思いますか?
     ・
     ・
2020年1月12日、インド太平洋に、アメリカ陸軍が新部隊を
 配備する・・
  今後、2年で、中国やロシアに対抗 (読売新聞)
  アメリカのマッカーシー陸軍長官は10日、ワシントン
 市内で講演し、今後2年間で、複数領域で作戦を行う新た
 な2部隊をインド太平洋地域に配備する方針を明らかにし
 た。
  中国やロシアに対抗する狙いがあり、サイバー戦・電
 子戦の実行や、極超音速兵器の運用などを想定している
 という。
  「2021会計年度に最初の部隊を配備する」と述べたが、
 具体的な配備先には言及しなかった。
  「中国が米国の戦略上の脅威として台頭するだろう」
 とも指摘し、装備の近代化を進める重要性を強調した。
.
2020年、文在寅ムン・ジェイン)・韓国大統領さん!!
  「他人(ひと)の顔を殴っておいて、未来志向で行こう」
 という言い方は成立しませんよ・・
  文在寅・韓国大統領よ、貴方は、よくこの様な引っ掛
 けの言い方をしますが・・貴方は、まず、謝罪をしなさ
 い。
  人を引っ掛ける言い方は止めなさい。
  誠実になりなさい!!
  元徴用工の件は、「条約で解決した」と合意しました
 ね!
  それを、「元徴用工の問題の解決案を日本政府が出し
 なさい」は、頓珍漢(とんちんかん)な言い方をする文在
 寅・韓国大統領となっています。
  「韓国政府が、すべて解決するから韓国政府へ金を渡
 してくれ」と言ったのは韓国政府です。
  その様に条約で確定し、約束したのを無視しないこと。
  問題があるのは「韓国政府に問題がある」のです。
  それを、さも、何も知らない世界の人を騙す様に、「
 日本政府に解決案を出しなさい」は成立しない言葉です。
  日本政府が、逆に、「韓国政府が解決するからと言っ
 たことが履行されてないではないか」・・と問いただし
 たい。
  だから、「韓国政府よ!! 解決案を出しなさい!!」と
 言いたい。
  こんな、人を騙す様な言い方ばかりする韓国政府よ、
 誠実になりなさい!!
.
2020年、文在寅・韓国大統領は「未来志向の改善をしたい」
 と言うなら、まず、自分の失言を謝罪しなさい!!
  自分の失言を謝罪しないで「未来志向で行こう!!」は
 成立しません。
  韓国大統領は「この様な引っ掛け発言をするから注意
 を要する」。
  謝罪がないなら安易にこの大統領とは手が握れない。
  例えば、他人(ひと)の顔を殴って、「未来志向のため
 に手を握ろう」と言われて、手が握れるか?という事。
  日本から「未来志向のために、韓国大統領の失礼発言
 について誠実に話し合おう、そして、悪いと韓国は分か
 ったら、誠実に謝罪しよう」と言いたい。
  韓国は、未来志向のために「誠実に謝罪しなさい!!」。
.
2020年、中国は、根拠を明確に示さないで「日本人を捕ま
 えている」。
  根拠を示さないので「拉致状態となっている」。
  それも一人・二人ではない。
  十人、またはそれ以上という大変異常な状態となって
 いる。
  これは犯罪行為だ。
  この様に中国は国際法的にも通用しない行為をする国
 家である。
  この様な状況の改善が何らなされない状態で「習金平
 を国賓として迎えようとしている」。
  この問題がはっきり解決されないならば、国賓として
 の訪日は拒否するべきだ。
.
2020年、社会資本の整備に於いて・・アンバランスな状況
 にある・・
  一方は勿体ない工事を行ない、一方はまったく手が付
 けられない・・
  予算のある組織が「まだまだ使えるものをバカバカ壊
 し、新しいものを造る」。
  予算の無い組織は、「直さなければならない」と思い
 ながらも、そのままにするから落下する様な橋などが出
 るというアンバランスな日本の社会資本の維持の状態と
 なっている。
  例えば、NEXCO中日本のやり方はまったく勿体な
 い。
  贅沢(ぜいたく)なやり方をしている。
  「30年、経ちましたから壊して作り替えてます」と言
 って壊している。
  30年で寿命が来るわけない。
  30年で作り替えるほど壊われる訳はない。
  また、これまで十分にメンテナンスをして「供用年限
 を伸ばす努力をして来たのか?」・・と言いたい。
  あたかも人間の寿命の様に「寿命が来ましたから」と
 何ら『根拠のない年限』で取り壊しの破壊行為となって
 いる。
  人間の細胞の寿命とはまったく違うのだ。
  その事が分かっていない。
  予算が余っているのだ。
  テレビでも新聞でも、不必要な宣伝・通知を繰り返し
 ている。
  まったく潤沢(じゅんたく、豊かにあるさま)な行動
 をしている。
  その取り壊し行為、そして、作り替えにしっかりした
 裏付けがあるのか?
  「どんぶり勘定的な30年が来たから」では駄目なのだ。
  点検を丁寧に行なって、メンテナンスを丁寧に行なっ
 ていれば「半永久的に供用できるものなのだ」。
  工事をする技術者集団の無駄遣いとなっている。
  本当に修復が必要な日本の他の社会資本へその技術者
 集団を振り向けるべきだ。
  何しろ丁寧に点検して、丁寧にメンテナンスをせよ!!
  社会資本は大事に大切に使いなさい!!
  このNEXCO中日本の潤沢な金は他へ回わすべきだ!!
.
2020年、日本人は、子供に、よく「ありがとうと言いなさ
 い」と言う。
  子供に、何か良いことをしてくれた方に、子供が感謝
 の言葉を忘れている時には、親は、その感謝の言葉を子
 供に言い、感謝の気持ちを現(あらわ)すことを促(うなが)
 す・・それが大切な行為だから、その様にしつける・・
  「感謝の気持ちを表わすことが、人間関係を築く上で
 一番大切だ」ということを「教え」そして「しつける」。
  日本は、韓国に大分(だいぶ)良いことをして来ている
 が、韓国から「感謝の言葉を貰(もら)ったことがない」。
  韓国は、プライドが高いので感謝の言葉を言わない。
  しかし、優しい日本は、その様な韓国の態度でも、何
 かと韓国を助けて来た。
  そして、韓国は、相変わらず感謝の言葉のない行為を
 し続けて来た。
  逆に、卑劣な行為を日本にして、日本はその様な卑劣
 な行為を受けて来た。
  日本人はしないという最悪レベルの「卑劣な行為」を
 受けて来た・・
  日本大使館前の慰安婦像の設置が最悪な行為で、その
 反省さえ韓国にはない・・
  この様な濡れ衣をでっち上げられたうえに、さらに、
 この様な行為をされている・・
  これからは、この様な事を看過せず、必ず、韓国に正
 邪を正そう。
  そして、必ず、韓国に感謝の意を表明させ、感謝状を
 必ず貰(もら)おう。
  今まで、日本にあることないこと、悪口の言いたい放
 題でも、日本は、金を出したりして支援をしたが、この
 様な態度の時は、絶対に金は出さない様にしよう。
  国際裁判所での判決が、そのほとんどが日本の勝利に
 なっている様に、常に、日本は正論を言って来た。
  つまり、日本の正論が分からない韓国には、日本の正
 論をあくまでも説き、その正論が理解されないなら絶対
 に金は出さない様にしよう。
  理解されて金を出したのならば、常に、感謝状を貰お
 う。
  約束をしたって、後で、なんだかんだと好き勝手を言
 って条約でも何でも、取り決めたことまでひっくり返す
 韓国には、ここまでしっかり徹底的にやろう。
  そして、条約をひっくり返す場合は、違約金を支払う
 取り決めにしよう。
  これから、韓国には、温情抜きで毅然としよう。
  同じことは繰り返さない様にしよう。
  いくら応援しても、後の金、次の金を引き出すために
 何かを探して、悪口を言い出す韓国には、とことん正邪
 を正してから、金を出す様にしよう。
  「ひねくれたやり方が通る様な状況」に絶対ならない
 様にしよう。
  韓国系の日本の国会議員も、韓国の屁理屈に手を貸す
 様なことはしない様に・・
.
2020年、26の文字しか知らない民よ!!
  十万字を超えると言われる漢字の事が想像できるか?
  ナポレオンの辞書には、「不可能」という言葉が無い
 そうだが??
  我々の辞書には、約五万字が記載されている。
  そして、常に、三千字以上の文字を使用する民の思索
 の深さが想像できるか?
  そして、26文字しか知らない民よ・・君たちは表意文
 字を持たないが・・表音文字だけの世界に住んでいるが・・??
  日本語は、表音文字以外にも表意文字を持ち、そして、
 表音文字も一種類ではない・・この様な豊富な文字で意
 思を伝達をしているのだ・・
  君たちは、この豊かな日本語に代わりなさい!!
  日本語を、世界共通語にしなさい!!
.
2020年、日本の財務省は、国際金融カルテルの動きに敏感
 に影響されている。
  日本の財務省は、日本の生存の根幹を左右し、日本の
 生命の根幹も左右している・・
  例えば、今回の消費税の増税も、財務省の強い意思の
 下に行われた。
  消費税を増税しない方が良いことは誰でも分かってい
 た・・
  今まで消費税を上げると、毎回、景気は後退局面を迎
 えていた・・
  それで、消費税を増税しないで景気上昇をさせた方が
 良いという事は誰もが思っていたが・・その様にはなら
 なかった。
  その様な強い意思で増税を行わせた財務省が悪いとい
 う話も出るが・・財務省への裏の力があった。
  国際金融カルテルは・・アメリカに関係している。
  そして、そこで力を持っているのが銀行幹部たち・・
  この選挙で選ばれた訳でもない者たちが、金融カルテ
 ルを牛耳って、各国の中央銀行を通じて、各国の経済を
 無言のうちにコントロールし、支配している。
  余り知られていないが・・国家を超越した巨大な存在
 となっている。
  アメリカがきれいごとを言って、「グローバリズム
 なんて言って・・
  アメリカの仕掛けは・・アメリカの中央銀行の様に思
 わせているFRB(連邦準備銀行)が・・中央銀行の役割
 しているのが・・これは「おかしい組織」・・
  何で?? 国の中央銀行の様なことをするのだ??
  FRBの正体は「完全なる民間の銀行」・・
  何で?? 民間機関が国の役割を行っているのだ?
  この様なシステムを成立させている・・アメリカの金
 融システム・・
  そして、これが、ウォール街シティグループを持っ
 ている。
  そして、これらに大きく影響されている日本の中央銀
 行の日本銀行(日銀)・・
  そして、財務省
  為替を操作され・・自由にされている。
  日本人が一生懸命に働いても、為替で操作されれば、
 国の状態は変わってしまう。
  簡単には、良くなんてならない。
  完全に操作されている。
  こんな面を持つ「自由主義社会の金融システム」・・
 こんな資本主義制度下で働いている。
  ディープステイトと言われる者たちに集まる利益メカ
 ニズムが存在し・・
  反対行為をすれば「操作されてしまう」・・
  財務省が悪いのではない・・
  これに挑戦している形になっているのが中国・・
  果たして中国が・・「自分の意思を通せるのか?」
  中国の暗号資産(仮想通貨)は成功するか?
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)675E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年8月)

題:(増補版)675E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年6月29日、中越鉄道の高岡駅伏木駅間の建設の仮免
 許状が下付された。
.
1897年6月、滝川仮工場(旭川工場の前身)が作業を開始した。
.
1897年6月、十勝線の旭川駅~美瑛駅間が着工した。
.
1897年6月、天塩線の旭川駅~蘭留駅間が着工された。
.
1897年6月 関西鉄道の加茂駅~木津駅間の建設の仮免許状
 が下付された。
.
1897年7月1日、第十八国立銀行が、国立銀行制度改革で株
 式会社十八銀行と改称転換した。
  営業は継続・・
  因みに、1907年(明治40年十八銀行は、ウラジオス
 トクに松田銀行部(十八銀行支店)を開業した。
  ロシアは、外国人法人による銀行支店の開設を認めな
 いため、頭取の松田庄三郎の個人名義として開業し、こ
 れは実質的な支店である。
.
1897年7月1日 北海道炭砿鉄道の室蘭駅輪西駅間が開業し
 た。
  因みに、従来の室蘭駅輪西駅と改称し、新たに室蘭
 駅を設置)した。
  北海道炭礦鉄道(ほっかいどうたんこうてつどう)は、
 官営幌内鉄道が開業した手宮駅(小樽市)~幌内駅(三
 笠市)間の鉄道路線を、1889年(明治22年)に譲渡され、
 現在の北海道旅客鉄道JR北海道函館本線の一部など
 を建設した私鉄。
  沿線の炭鉱から産出される石炭を、積出港に運搬する
 役目を担った。
.
1897年7月1日、逓信大臣が、閣議に鉄道局から作業機関を
 分離し鉄道作業局の設置を提案した。
.
1897年7月4日、労働組合期成会の発起人会が開会し・・
  翌日の1897年7月5日、労働組合期成会が創立した。
  労働組合期成会は、労働組合結成を目的とした団体で、
 1897年7月5日に高野房太郎らによって、労働組合運動の
 促進をめざす「労働組合期成会」が結成された。
  期成会の母体となったのは、1891年(明治24年)に、
 サンフランシスコで日本人労働者により組織された職工
 義友会だった。
  高野房太郎は、城常太郎、沢田半之助の職工義友会の
 仲間とともに仮幹事に選ばれた・・片山潜も加わった。
  労働者が中心のものの、一部財界人、知識人が資金を
 援助し演説会に出演するなど・・
  秀英舎(大日本印刷)の社長・佐久間貞一、東京工業
 学校(東京工業大学)講師の鈴木純一郎、高野の弟岩三
 郎ら・・
  後に、期成会に積極的に応じ、会員に加わったのは鉄
 工関係だった。
  鉄工は、旋盤工や仕上工、缶詰工など金属関係の職工
 の総称で、多くは東京砲兵工廠や石川島造船所、日本鉄
 道大宮工場など比較的大規模な工場で働く労働者だった。
  1897年12月1日、労働組合期成会の働きかけで日本最初
 の近代的労働組合「鉄工組合」が創立された。
.
1897年7月10日、九州鉄道の武雄駅~早岐駅間が開通した。
.
1897年7月12日、貨車取扱及貨物積載方心得を制定した(鉄
 運乙第763号、7月20日施行)
.
1897年7月15日、豊川鉄道の豊橋駅豊川駅間が開通した。
.
1897年7月19日、汽車検疫規則が制定された(内務省令第19
 号)
.
1897年7月22日、九州鉄道の長与駅長崎駅(現:浦上駅)間
 が開通した。
.
1897年7月22日、豊川鉄道の豊川駅一宮駅間が開通した。
.
1897年7月30日、成田鉄道延長線の成田駅川越駅間(我孫
 子・野田・岩槻・大宮経由)仮免許状下付を出願した。
  (関東鉄道会社計画線、および、総州鉄道会社計画線を
 協議のうえ成田鉄道会社延長線とすることを協定したも
 の、31年9月19日免許状下付)
.
1897年7月、長野県松本で木下尚江や中村太八郎らが、普通
 選挙同盟会を結成した。
.
1897年8月1日、北越鉄道の鉢崎駅~柏崎駅間が開通した。
  北越鉄道新潟県内で鉄道を建設し、営業した鉄道事
 業者。
  現在の信越本線・・この線が、日本海岸の直江津から
 内陸の長野に向けて、1886年、路線を伸ばしはじめたも
 のの、直江津以北の官設による建設は見通しが立たない
 と判明した。
  そのため、地元新潟県有志は、渋沢栄一に東京の資本
 家を呼び込むことを依頼した。
  渋沢を発起人代表として、1895年、北越鉄道株式会社
 (本社:新潟市)を設立した。
.
1897年8月2日、日本勧業銀行が開業した。
  日本勧業銀行(後のみずほ銀行)が創立された。
  日本勧業銀行は・・殖産興業政策の推進の観点から、
 1877年頃より構想されて来た特殊銀行として設立された。
  1896年、日清戦争後の企業勃興期であったこの時に制
   された日本勧業銀行法により・・翌年1897年2月、資
   本金定1000万円で開業した。
   不動産担保による長期資金供給の専門金融機関とし
   ての性格を持ち、長期低利による農業開発資金、地
   方公共団体の耕地・農道・水路などの整備・改良資
   金などの貸し付けが期待されていた。
   その運用資金は、主として債券発行で調達されるも
   のとされた。
   開業当初には紡績業への救済もあったが、耕地整理
   資金の供給など農業面へ貢献するところが大きかっ
   た。
  1897年6月、日本勧業銀行法(勧銀法)に基づいて、
   ①農工水産業の改良、
   ②発達を促すため長期資金を供給する特殊銀行・・
    として設立された。
   創業時の資本金は1000万円。
   当時は、預金業務は許されていなかった。
   債券発行は認められていた。
  1902年、工業向けの長期資金供給機関として日本興業
   銀行が設立されたため・・
   日本勧業銀行は、農業向け長期資金供給機関として
   の性格を強めた。
  1910年、勧銀法改正によって預金、手形割引、短期貸
   付業務を開始した。
  第2次世界大戦後、救済銀行の役割を果たし、1921年
 日本勧業銀行及農工銀行ノ合併ニ関スル法律(勧農合併
 法)以来、農工銀行の吸収、合併によって全国の支店網
 を形成した。
  1950年、勧銀法廃止で普通銀行となった。
  1952年、長期信用銀行法の制定により、日本興業銀行
   が長期信用銀行に転換したが、日本勧業銀行は普通
   銀行として残存した。
  1971年10月1日、第一銀行と合併し、第一勧業銀行と改
   称した。
  2000年、日本興業銀行、富士銀行と共に持株会社みず
   ほホールディングスを設立した。
  2002年、3行が統合・再編されて、みずほ銀行、および、
   みずほコーポレート銀行となった。
.
1897年8月4日、後藤象二郎が死去した。
  後藤象二郎(ごとうしょうじろう)1838年天保9年3
 月19日)~1897年(明治30年)8月4日、60歳
  土佐高地藩士の出身。幕末から明治の武士、政治家。
  義伯父・吉田東洋に訓育された。
  乾(板垣)退助とは竹馬の友。
  1858年(20歳)参政(仕置役)吉田東洋に抜擢され郡
   奉行、普請奉行に任じた。
  1862年(24歳)武市瑞山一派による東洋暗殺事件後は
   藩の航海見習生として江戸に出て航海術、蘭学、英
   学などを学ぶなどして雌伏期間。
  1863年(25歳)前藩主・山内容堂(豊信)が7年ぶりに
   帰藩、藩論を元に復して勤王党粛清を実行すると、
   象二郎は大監察に就任した。
  1865年(27歳)武市瑞山ら勤王党の罪状裁断の衝に当
   たった。
   吉田東洋の富国強兵路線を継承し、推進機関たる開
   成館を開設、開港場・長崎に出張所を置き土佐の特
   産品の樟脳の輸出を企て、自ら長崎に出張。
   この時、亀山社中を経営する脱藩浪士・坂本竜馬
   開合、坂本の論策である広議政体論・大政奉還論に
   賛同、山内容堂の強い支持を得て、公議政体派とし
   て討幕派とのつばぜり合いを演じたが、王政復古政
   変から鳥羽・伏見の戦いに至り、討幕派に機先を制
   せられた。
  1867年(29歳)1月、坂本龍馬と長崎の清風亭で会談し
   た・・土佐藩大政奉還武家手動き出す契機とな
   った。
   龍馬は、姉の乙女らへの手紙で、後藤について「実
   ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニハ
   あるまいと存候(ぞんじそうろう)」と評している。
  公武合体大政奉還運動に活躍(公議政体論を唱え、
 前藩主・山内豊信(とよしげ)を説得し、大政奉還の建
 白書を幕府に提出させた。徳川慶喜の動きに影響を与え
 た)
  明治維新後は新政府に仕えた(参与、参議を歴任)が・・
  1873年明治6年)(35歳)征韓論に敗れて辞任し、西
   郷隆盛、板垣退助と共に下野した。
  副島種臣江藤新平板垣退助らとともに愛国公党
 組織して、民撰議院設立建白書の提出に参画した。
  1881年(43歳)板垣退助らと自由党を結成。
  1887年(49歳)自由民権運動末期の大同団結運動を提
   唱し起こし、大きな役割を果たしたが政府に買収さ
   れ・・
  1889年(51歳)以降、逓信相・農商務相を歴任した。
  伯爵。
  1897年8月4日死去。60歳。
.
  (今日の言葉)
.
  題:海底でも日米の連携を強化する。
    その目的は、中国が、この分野で情報を奪う恐れがあるから・・
    また、国賓としての習近平の来日の条件・・
    習金平の国賓としての訪日の条件として、訪日したら日本のしきたりに従うということ。
    つまり、日本の安倍首相と習金平がそろって「靖国神社の参拝を行なう」ということ。
.
1392年~1897年、李氏朝鮮
  韓国・朝鮮の李朝は、その500年間の歴史のすべてが政
 争に明け暮れた。
  豊臣秀吉軍が朝鮮へ行くが、韓国・朝鮮と戦う意思は
 無かった。
  (参考)文禄・慶長の役
      文禄の役(1592年~1593年)
      慶長の役(1597年~1598年)
  「仮道入明(かどうにゅうみん」で、朝鮮半島を通っ
 て中国の明に入るのが目的だった。
  この様なことが起きそうな、この様な国家緊急のこの
 時でさえ、韓国・朝鮮の李朝は、王や臣下が、国家や国
 民の事など、まったく眼中になく、政争を続けていた。
  李朝は、中国・明の冊封を受け、従属されている半独
 立国家の状態であった・・
  外交、国防は、明へ委託状態だった。
  眼が中国にしか向いていないという状態だった。
  そして、「虎の威を借る狐」状態で・・
  日本をまったく馬鹿にし、無視し・・情報も無いに等
 しかった。
  当然、正しい日本についての情報が無ければ、また、
 正しい判断もできないという状態だった。
  秀吉が侵攻ではなく「仮道入明」で、その意思を伝え
 るため、李朝の国王の日本への招待の意味の入朝の国書
 を送っても、半分無視で、その対応を李氏朝鮮は誤るの
 だった・・『無能力』状態だった。
     ・
     ・
1544年10月、史実をまったく無視する嘘のテレビの韓国番組
  史実として・・『朝鮮王朝実録』の『中宗実録(チュ
 ンジョンシルロク)』に大長今と呼ばれて重用され、王
 の主治医となった医女がいたことが書かれている。
  大長今に関する記述は中宗実録に10箇所あるが・・
  王の主治医を務めたとされる記述は、中宗39年(1544
 年)10月の『予證女醫知之』(予の証は女医これを知る)
 という一行のみである。
  放送大学教授対談で、吉田光放送大学教授・東京大
 学名誉教授(朝鮮史)は、高橋和夫放送大学教授の『チ
 ャングムの誓い』が歴史に忠実であるか? の問いに・・
  ほぼ100%フィクション(作りごと)で、史実に基づい
 ていない・・と答えている。
  古田博司筑波大学教授は、チャングムの「物語をその
 まま史実だと思いこんでいる」ファンも多いが・・
  「朝鮮の李朝では、女子が宮中に出仕すると王様と疑
 似婚姻関係に入るので、一生外に出られない」ので「チ
 ャングム女史のように出たり入ったりはできない」・・
  また、「ドラマでは、李朝時代は色彩にあふれている
 が、ほんとうは顔料がないので、民間には色はない」と
 本作を非難している。
  朝鮮王朝時代の陶磁器(李朝白磁など)の顔料は青(
 青花)黒(鉄絵)赤(辰砂)の3種類だけ・・、
  そのうち1色、または、2色を用いた淡彩画的なものし
 かなく、日本の伊万里焼の色絵磁器のような華やかなも
 のはない。
  当然ながら、朝鮮と日本とでは美意識は異なる。
  著名なものとしては、大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の
 青花辰砂蓮花文壺などがある。
     ・
     ・
1898年5月、ロシアが、中国・清へ卑劣な最終的な利益獲得
 要求をする・・それは・・
  ①旅順と大連の25年間の租借、
  ②満州を横断する東清鉄道から旅順と大連までの南支
   線の敷設権。
  ロシアは、これによって満州を通過してその南の旅順
 まで南下できる様になった。
  このことによって、ロシアは、渤海湾とその周辺の制
 海権を得た。
  また、渤海湾に面する天津から北京に至る重要な戦略
 的領域を押さえた。
  そして、この頃、ロシアは、韓国の高宗が親露政策を
 とっていたこともあり、ロシアは、韓国へ軍人を派遣し
 た。
  また、軍事教官の派遣と国王警備の編成について韓国
 側と進めている。
  また、ロシアのアレクセーエフが韓国の財政顧問とな
 った。
  また、彼は、関税長にも任命された。
  また、露韓銀行も開設された。
  完全にロシアの南下政策の領土獲得政策が日本の『水
 際まで迫って来ていた』。
.
1898年、イギリスのアジアにおける政策が大転換した。
  その原因は、ロシアだった。
  この年、ロシアは、中国・清をまったく馬鹿にした威
 圧的な条約を結んだが・・
  イギリスにとって一番気になったのは渤海湾、および、
 その周辺のロシアの制海権が確立したことだった。
  このことによって中国の首都・北京への海上要路をロ
 シアは制圧できる様になった。
  それでなくても、ロシアは、武力的にまた威圧的に領
 土を奪い、十二分に陸上の要衝を抑え、戦略的優位を持
 つに至っていた。
  ロシアの行動は、単に、経済的利益を得るという行動
 だけではなかった。
  このアジアのバランスを崩す侵略国家・ロシアの出鼻
 をくじいたのが日本だった。
  日本は、日露戦争で、この侵略国家ロシアの出鼻をく
 じいたのだった。
  また、日清戦争で中国・清は、日本との戦いに敗け、
 韓国を属国としていた冊封 体制を止めさせられた。
  これは、単に、韓国を独立させたというだけの話だけ
 でなく、東アジア諸国にも影響を与えた。
  中国の冊封から逃れさせた。
  その様な中国へ、また、東アジア諸国へ、利権を求め
 てヨーロッパ列強諸国が寄り付いて来た。
  ただ、ロシアの領土的侵略的野心を持った行為はだけ
 は、単なる経済的利権を求める今までの形を変えて、侵
 略国家丸出しで『覇権を構築して来ていた』。
  今、中国が、南シナ海の戦略基地化の侵略的事例の様
 に・・今、中国は、この時のロシアの様な行為をしてい
 る。
  この時、卑劣な条約によるロシアの進出に、イギリス
 は、方針を大転換した。
  ロシアの圧倒的な戦略的優位の確立という事態を黙過
 できないとした。
  1898年5月、イギリスは、ロシアへの対抗措置として、
 渤海湾の反対側に、威海衛を軍港として中国・清から租
 借した。
  また、1898年6月、すでに手にしていた香港島の対岸(
 中国本土の側)の九竜半島を99年の租借をした。
.
1900年、傲慢なロシアが、中国の義和団事件に乗じて『南
 満州を占領した』・・日露戦争前のロシアの傲慢な蛮行・・
  (参考)義和団事件:欧米ロシアなどの列強による
     山東半島租借危機感を抱いた中国民衆が、「扶
     清滅洋」のスローガンを掲げて武装集団化し、
     1899年に蜂起した。
      翌・1900年には、天津を占領し、北京も掌握
     したが・・
      同年・1900年8月14日、英・米・ロシア・日本
     などの列強8ヶ国連合軍によって制圧された。
  (参考)扶清滅洋:ふしんめつよう、清朝を助けて西
     洋を討ち滅ぼす意。
      中国清末、欧米勢力の進出に反対して民族主
     義者が用いた標語。
      義和団のスローガンとなった。
  (参考)多額の賠償金のほか、北京・山海関沿線の外国
     の駐兵権を認め、人民の反帝運動の鎮圧を清朝
     が義務づけられるなど、中国の半植民地化をい
     っそう深めるものであった。 
      1899年から1900年にかけ、義和団が「扶清滅
     洋」の旗をかかげたことから、清朝義和団
     関係については異なる評価があるが、清朝は基
     本的に反人民的立場をとりつつも、宮廷内抗争
     もからんで懐柔・利用と弾圧の両面の対応の間を
     揺れ動き、対外的には排外主義と投降主義の間
     を揺れ動いた。
      結局、義和団帝国主義列強の両者から追い
     つめられ、帝国主義の側に投降した。
  このロシアのこじつけ理由による南満州の侵略・占領
 行為・・
  世界、および、日本の注目は、当然、ロシアは撤退す
 るもので、いつ撤退するかという点だった。
  1902年4月に、ロシアと中国・清との間で条約が結ばれ
 た・・
  その条約「満州還付に関する露清条約」では・・
  ①条約調印後6ヶ月以内に、盛京省西南部地方の軍隊を
   撤退させる(第一期)
  ②次の6ヶ月以内に、盛京省残部および吉林省の軍隊を
   撤退させる(第二期)
  ③またその次の6ヶ月以内に、黒龍江省の軍隊を撤退さ
   せる(第三期)
  以上が、ロシアと清国との間で確認された・・
  しかし・・
  長城に一番近い地域からの撤兵・・この第一期の撤兵
 はつつがなくなされたものの・・?
  第二期以降の撤兵に、ロシアは応じなかった。
  1903年4月18日、ロシアは、逆に、撤兵の見返りを清に
 要求した・・七項目の要求・・
  新聞報道・・1903年1月13日の記事・・
  「露国自ら満州より撤兵すといひ、既に其の第一回撤
 兵を終われりと曰ふも、是れ全然事実に非ずして彼は依
 然満州の占領を継続しつつあり、現に其の撤退したりと
 称する軍隊は僅かに服装を更たるのみ」
  ロシアの軍人は、軍服を脱いでいるだけだと報じてい
 る。
  実態は、撤兵はなされていないと・・
  第二期の撤兵が近づく1903年2月16日の記事には・・
  近づきつつある第二次撤兵期限に際して、ロシアは表
 面上の撤兵をするだろう・・と書いている。
  ほとんどのロシア兵は、東清鉄道敷地圏内に入って、
 兵装を解いて人夫に偽装して、実態は撤兵しないだろう
 と書いている。
  この時、日本は、清との条約に於いて、最恵国待遇条
 項があり、ロシアがこの様な状況であるなら、同様な状
 況を日本に与えてもらいたいとしている。
  逆に、日本は、この様な形で、しっかりロシアの撤兵
 を要求していた。
  強力な武力を背景に、ロシアが強硬な態度を中国に取
 っていた。
  今・現在の中国が、やはり強力な武力を背景に、何ら
 根拠のない南シナ海を戦略基地としてしまった状況と同
 じである・・
.
1904年2月8日、日露戦争(~1905年9月5日)
  日本政府が、国民を積極的に開戦へ導いたという痕跡
 はまったくなかった。
  また、日清戦争(1894年7月25日~1895年4月17日)の
 後、約10年、日本政府の側が日露開戦へキャンペーンを
 したなどということもまったくなかった。
  日露が戦えば日本は敗けるというのが、世界も日本も
 その様な見方だった。
  しかし、ロシアの「南下政策の侵略性」は最悪だった。
  中国は、良いようにロシアに領土を蝕(むしば)まれて
 いた。
  この様な東アジアにおけるロシアの態度によって「英
 米の政策が明確に大転換した」。
  満州地域において、日本とロシアの関係が最悪になっ
 ていた。
  ロシアの満州占領は強引だった。
  この様なロシアに、国際的な環境も戦争への道を自然
 に導くものであった。
  ロシアとの戦争を支持できる論理が広く社会に行き渡
 っていた。
  門戸を閉じる非文明のロシアという見方もあった。
  また、「自国民に専制をしくロシア」という見方もロ
 シアを悪者にしていた。
  まったく今の中国と同様・・武力と経済だけが異常に
 発達し、政治は一部の者による独裁という異常さだった・・
 民意はまったく聞かれないという状況だった。
  しかし、日本が、この悪者のロシアに対抗するとして
 も、ロシアとの戦争を可能とする軍備拡張が可能か?、
 また、その計画と完整時期は?
  また、戦費の確保が可能か? それも安定的に確保で
 きるのか?
  この様な戦略的問題点が種々あった。
  逆に、日本政府は、民間の対露強硬論を抑制するよう
 に動いていた。
  非力な日本の戦力・・
  日清戦争開戦時と日露戦争の開戦時を比較しても、そ
 の差は歴然だった。
  日本は、やみくもに戦争への道を進んだのではなかっ
 た。
  日清戦争開戦時、軍艦28隻、5万7600トン。水雷艇24隻、
 1475トン。
  主力の軍艦は、一隻たりとて世界的な水準ではなかっ
 た。
  10年後の日露戦争開戦時にはどの様になったのか?・・
  軍艦152隻、26万4600トン。
  この増強を可能にしたのは、1896年度からの世界水準
 の戦艦の建造努力で6隻(富士、八島、敷島、初瀬、朝日、
 三笠)。
  装甲巡洋艦6隻(浅間、常磐、八雲、吾妻、出雲、磐手)
 を基幹とする103隻、15万3000トン。
  この建艦計画を海軍が建て、着手し、達成させた。
  それを支えた日本の造船技術が凄かった。
  これが、日露戦争を勝利へ導いた第一関門だった。
  また、海軍だけでなく陸軍も努力した。
  日清戦争の時、8個師団(近衛、第一師団〜第七師団)だ
 ったが・・
  1898年には、第八師団〜第十二師団(弘前、金沢、姫路、
 丸亀、小倉)の五師団を一挙に新設した。
  また、日露戦争の開戦の頃は、第十三師団〜第十八師
 団(高田、宇都宮、豊橋、京都、岡山、久留米)を増設し
 た。
  そして、十九師団態勢となった。
  今、中国が、毎年、20%近くという馬鹿げた軍拡を続け
 て来ていて、民意も聞かないという独裁体制で、これを
 いいことにやって来ていて、この時のロシアの如く侵略
 的に南シナ海を奪ったりしている・・世界と協調しよう
 ともしない。
  世界は、これに迎合するな!!
  こんなことをして中国が作ろうとしている社会は、中
 華思想で、冊封体制社会・・
  中国へなびけば良しとして、敵対すれば悪しとする、
 何ら世界の声を聞かない、現在の中国の国家体制の世界
 版ができる。
  次元の低い統治システム、時代が遡(さかのぼ)る統治
 システム・・
  経済優先で、低劣な理念の中で生きることになる。
  個人の自由は低く見られる社会となる。
  そのいびつな社会を維持するために監視社会となる。
  情報は開示されず、隣の人が急に不明のうちに居なく
 なるという社会となる。
  体制への「ごますりマスコミ」しか存在しない。
     ・
     ・
1944年2月、日本の本土への帰還・・アメリカは、日本の民
 間人の乗った帰還の船も狙った・・
  島民及び日本人入植者
  日本人居留民の本土疎開
  マリアナ諸島防衛が真剣に検討されるようになると食
 糧事情も鑑み、昭和19年2月に兵員増強の輸送船の帰りの
 船を利用して、婦女子・老人の日本への帰国が計画され
 た。
  一方、16歳〜60歳の男性は防衛強化要員として帰国が
 禁止された。
  上記の疎開計画に従い、日本への帰国対象者はマリア
 ナ諸島各島からサイパンへと集結していた。
  しかし、3月の帰国船「亜米利加丸」がアメリカの潜水
 艦に撃沈され、500名の民間人ほぼ全員が死亡するなどの
 事件があった・・
  そのため疎開は進捗しなかった。
  そのほかにも、卑劣にも、6月4日沈没の「白山丸」な
 どでも多数の民間人の犠牲者が出ている。
  アメリカ海軍は、太平洋戦争開戦当初から民間船への
 無差別・無警告攻撃を行う無制限潜水艦作戦を卑劣にも
 実施していた。
  日本の真珠湾攻撃では、1人のアメリカ民間人の殺戮を
 していない。
  戦闘開始段階での在留邦人は約20,000人と推計される。
.
1945年~1989年、米ソ冷戦期は44年間続いた。
  アメリカ・ロシアは、冷戦期、3万発~4万発もの核弾
 頭を製造し持っていた。
  本気で相手を殺そうとして持っていた。
  こんな軍事政策を、アメリカとロシアは実行していた。
  こんな事は、一瞬に「ニューヨーク・ホロコースト
 「モスクワ・ホロコースト」(核大虐殺)が現出して、
 国家指導者のコントロール不能状態となる。
  何百基、何千基、何万基、撃ち合って、世界中が阿鼻
 叫喚の核地獄となる。
  始めたアメリカとロシアはもとより、お互いの国民の
 半分は、30分~40分以内に死に至る。
  アメリカとロシアの当事国だけではなく、1時間以内に、
 全世界の半数が死ぬ。
  今・現代、この様な核保有国に、中国もなった。
  そして、何百万年も、えいえいと築いてきた人類のす
 べてが消滅する。
  「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても良
 い」は・・成立しない。
  アメリカも、ロシアも、キリスト教国である・・??
.
1945年、戦後、マッカーサーが、日本人を馬鹿にして、日
 本語の字数の多いことにびっくりして・・「こんなに字
 を覚えている訳がないだろう」・・と・・
  「日本語は低劣だから英語に変えろ」と言った。
  そうだろう、わずか26文字のアルファベットしか知ら
 ない御仁に、日本語は驚嘆な字数だろう・・言葉だろう。
  「テストをしてみろ」という事になり・・まったく日
 本人を馬鹿にした話だが・・テストが行われた・・
  テストを日本人に実施してみて「そのほとんどが100点
 に近い点を取ったという日本人」に、また、「マッカー
 サーは、びっくりした」。
  低劣な文字数の人間には想像できない「ハイレベルの
 日本人」の話だった。
  逆に、アメリカが日本語化せよ!!
.
1950年6月25日~1953年7月27日、朝鮮戦争が戦われた。
  1950年11月24日、この朝鮮戦争中のこの日、アメリ
   のF51戦闘機が偵察中に、北朝鮮最北部の小さな家
   の周囲で、何やら不明な行為が行われているのを発
   見した。
  1950年11月25日のその翌日、その家をアメリカ軍は、
   大挙して攻撃した。
   ナパーム弾による繰り返し爆撃をした。
   この家は、司令部だった。
   ここに、毛沢東の長男・毛岸英が居て、このナパー
   ム弾攻撃で、焼き死んだ。
  (参考)毛岸英:もうがんえい、1922年10月24日~1950
     年11月25日、28歳、毛沢東の長男、
      1950年夏、北京機器総厰の党総支部の副書記
     に任じられた。
      しかし、朝鮮戦争彭徳懐のロシア語通訳と
     して従軍中、平安北道昌城郡東倉面大楡里(現
     在の東倉郡大楡労働者区)において、アメリ
     空軍のナパーム弾による爆撃で戦死した。
      墓には、北朝鮮の最高指導者でもある金正日
     やその後継者の金正恩など両国の要人が訪れた。
  毛沢東も将来を楽しみにする才能に恵まれた人だった。
  元帥のロシア語通訳も勤める優秀さだった。
  中国首脳は、アメリカと、中国軍に朝鮮戦争で空中援
 護をしなかったソ連スターリンに、その死の責任を帰
 した。
  毛沢東は、この子息の死について、常に、スターリン
 を責めた。
  この朝鮮戦争で、ソウルは4回も統治する持ち主が入れ
 替わった・・そのくらい激戦だった。
  そのため、ソウルの栄光を示す歴史遺産などは、その
 ほとんどが失われた。
  南北朝鮮で、合わせて数百万人の人々がこの戦争で死
 んだ。
  そして、500万人が難民になり、数十万人の子が、孤児
 となった。
.
1980年代、慰安婦問題が議論されるようになり問題となる。
  NHKや朝日新聞が、韓国の慰安婦問題などの火付け
 役だった・・(参考:ニュース女子
  慰安婦問題は、日本の活動家が頼み込んで問題にして
 くれと言った。
  中国なんか問題にしてなかったのにこの様な行動をし
 た。
  頼み込んだのはNHKの元ディレクターの女性や、朝
 日新聞の女性記者などの大手マスコミの活動家だった。
  由々しきなのは徴用工判決に向けて日韓併合が違法で
 あったというアイデアを持ち込んだのも東京大学の教授
 や京大、一橋などの一流大学の教授陣が日韓の学者たち
 とやった。
  (参考)大沼 保昭(おおぬま やすあき、1946年〈昭
     和21年〉3月8日~2018年〈平成30年〉10月16日
     は、日本の法学者。東京大学名誉教授。
      元明治大学法学部特任教授。専門は国際法学。
      東大法学部在学中に、全共闘運動やベトナム
     反戦運動に影響を受け、在日韓国・朝鮮人の指
     紋押捺撤廃やサハリン残留朝鮮人の帰還運動な
     どに参加。
      また戦争責任問題の追及でも知られるなどリ
     ベラル色が濃いが、日本国憲法第9条に関しては
     改正容認の立場を取るなど、従来の左派勢力と
     は立場を異にしている。
      日本軍の関与と強制性を認めた1993年の河野
     談話を否定する動きには「『看護婦になる』な
     どと業者にだまされた人が多い。
      日本軍は慰安所を黙認していた。
      法的、道義的に許されない行為に国家として
     関与していたことの責任がある」「戦争を反省
     して、平和で安全で豊かな社会をつくってきた
     戦後の歩みこそが誇り」と語り、保守派が過去
     を反省する姿勢を「自虐」と断じることへの危
     惧を表明した。
      「首相が被害者のところに行って深々と頭を
     下げてほしい」と語った。
  西岡力氏が強調した。
  慰安婦が強制連行されたわけでも性奴隷でもなかった
 ように・・
  また、徴用工は強制連行されたわけでも奴隷労働を強
 いられたわけでもなく・・
  日韓間では解決済みの問題である。
  西岡氏は当時の状況を具体的に振りかえるべきだと、
 強調する。
  私が補償するから、私に金をくれと言った韓国政府・・
  それ故、日本に個人補償させずに、まとめて資金を受
 けとった朴正熙元大統領・・
  もし日本が個人補償をしたら、朝鮮戦争の戦死者の補
 償よりも、日本の徴用で死んだ人への補償の方が高くな
 る。
  韓国の国が持たない。
  だから日本の資金をまとめて受けとり、それで独立運
 動家や亡くなった人の遺族に奨学金を出した。
  一人一人に配ると食べて終わりですから、ダム、製鉄
 所、道路を作り経済成長につなげ、元慰安婦も元徴用工
 も元独立運動家も皆を豊かにする『漢江の奇跡』に結び
 つけた。
  1966年から1975年まで、日本の資金の韓国経済成長へ
 の寄与率は20%。
  日韓双方に良い結果をもたらした。
  1965年の日韓請求権協定における「完全かつ最終的な
 解決」という合意がある・・韓国はこれを無視する。
.
1997年、NHKの北九州局の経理職員が印鑑の不正使用を
 して、銀行の口座から100万円を着服した。
.
1999年、NHK京都放送局の営業職員が、2001年にかけて
 208万円を着服していた。
.
2004年7月以降、NHKの不祥事
  ①出向のNHK職員が経費を私的に流用(約370万円)
  ②NHK職員が着服(取引銀行通帳改竄して約300万)
.
2019年5月19日、キリスト教に偏するNHKは、仏教を蔑視
 し、貶(おとし)める。
  この様なNHKが、「何かに失敗する」と仏壇の鐘(
 鈴・りん)をチーンと鳴らすという「仏教を貶(おとし)
 め、馬鹿にする放送をした」。
  NHKは、この様な放送を度々するという放送局で・・
  2019年5月19日、午後13時12分確認、NHKワールドで
 もしていた・・
  何度もビデオを見せて貶めるという放送内容だった。
.
2019年12月31日、田原総一朗のテレビの生放送における天
 皇陛下への侮蔑的発言・・
  生放送なので犯罪的行為がすぐに放送されるという問
 題があった・・
  田原総一朗が、急にその根拠を示さずにテレビで「天
 皇陛下に対する侮蔑的発言をした」。
  まったく根拠を示さず、一方的な侮辱だった。
  犯罪的な行為であり、この行為は看過してはならない。
  テレビ朝日にも、日本国民の電波を預かる意識がまっ
 たくない。
  放送法の違反行為でもある。
  この責任を田原総一朗に取らせよ・・テレビ朝日にに
 取らせよ。
  この様な生番組におけるゲリラ的な発言、生放送は直
 ぐに電波として日本全国へ流れてしまう。
  田原の「事前に計画された犯行」の様相がはっきり存
 在する。
  この行為によって日本国民が持っていた天皇陛下に対
 する尊敬の念が大きく傷付けられた。
  この失ったものに対する補償を田原総一朗と放送局(
 テレビ朝日朝まで生テレビ)はするべきである。
  (参考)放送時間:朝まで生テレビ、2019年12月31日
      0時30分~5時50分
  国に供託金を積む行為をまずせよ!!
  この番組は、間違った発言ばかりをしている。
  次の様な「訂正とお詫び」がある。
  「先月29日の放送で田原総一朗が『ベネッセが自民党
 の下村博文衆議院議員に二千数百万円の献金をしている』
 という趣旨の発言をしました。
  しかし、ベネッセから下村議員へのそのような献金
 ありませんでした。お詫びと訂正を致します」となった・・
  (その2)
  以下もあり、この様な事が多発している。
  「2019年12月7日、テレビ朝日系で11月30日未明に放送
 された討論番組『朝まで生テレビ!』で、司会のジャー
 ナリスト田原総一朗が事実と異なる発言をしたとして、
 同番組は7日までに公式サイトとツイッターで謝罪した」
  謝罪すれば済むという問題ではない。
  上記のように、確信犯的な行為を何回も続けてやって
 いる。
.
2020年、韓国は、苦しければ日本に助けてもらい、助けて
 もらっても帰る時は礼も言わずに帰るという国。
  礼儀に失した国。
  助けてもらう時もプライドが高いから『助けてくれ』
 と言わずに、その意思がありありなのに言わない。
  日本人は優しいからその点に気を配って、悟って助け
 てあげる。
  しかし、韓国は礼も言わない。
  簡単な挨拶だけ・・
  日本人なら「いつも、ありがとうございます」と常日
 頃から助けられていることも含めて礼をする。
  しかし、韓国は、プライドが高いのでその様なことは
 言わない。
  日本に「あることないこと、言いたい放題で、礼を失
 することまでする韓国」。
  助けてもらいたいなら「礼を尽くして、助けて下さい」
 と言うべきだが、韓国は言わない。
  駄々をこねたら「おしまい」ということを韓国に学ば
 せなければならない・・
  日本は、優しくて、人が良いから「そこで、韓国に与
 えてしまうから駄目なのだ」。
  駄々をこねたら、その論理が正しいのかが見極めがつ
 くまで、分別が付くまで「韓国を助ける行動を起こして
 は駄目なのだ」
  日本は毅然と正邪を正して、示さなければならない・・
  韓国の悪いところは、昔から素直に「金を支援して貰
 いたい」と言わないところ。
  韓国はプライドが高過ぎる。
  決して素直に金の支援を要求しない。
  逆モーションに来る。
  日本をこてんこてんに悪く言う。
  小遣いが欲しい子供が、素直に「小遣い、ちょうだい
 よ」と言う子と、何だか分からないが「ぐずぐずといつ
 までも駄々をこね、ぐずっている子」との違いである。
  日本は、優しいから思いやって小遣いをやったが、こ
 れが悪かった。
  これから、筋が通らないことには「一円もやらないこ
 と」。
  そして、必ず「ありがとう」と言わせること。
  毎回、御礼状を韓国から貰うこと。
  韓国には優しさが通じない。
  喉元を過ぎれば次の手が出て来るという国。
  韓国には一切妥協はしないこと・・
.
2020年1月8日、海底でも日米の連携を強化する。
  その目的は、中国が、この分野で情報を奪う恐れがあ
 るからで・・中国への情報流出懸念を無くすため・・
  読売新聞によると・・
  日本政府が海底ケーブルの輸出支援に乗り出す・・
  その目的は、この分野での中国勢の台頭を放置すれば、
 重要な機密データーが途中で抜き取られるといった安全
 保障上の不安を抱えてしまうから・・
  次世代通信規格「5G]の普及を見据えて、日米は携
 帯電話の基地局などのファーウェイ製の通信機器への警
 戒を強めているが、海底ケーブルでも連携を進める。
  世界のデータ通信量は、5Gの普及などで、2022年に、
 2018年の2.5倍に膨らむと予想されている。
  これに連動して、海底ケーブルの需要も拡大する見通
 しだ。
  アメリカは、同盟国に中国製の通信機器を使用しない
 よう呼びかけている・・そして、海底ケーブルについて
 も神経をとがらせている。
  アメリカ紙ウォール・ストリート・ジャーナルは昨年
 8月、中国通信大手が参加する香港~ロサンゼルス間の海
 底ケーブル事業に対し、米政府が許可しないことを検討
 していると報じた。
  また、米国と緊密に連携しているオーストラリア政府
 は2018年、ソロモン諸島などと結ぶ海底ケーブル建設で
 ファーウェイの小会社を排除した。
  米国などの懸念が最も大きいとみられるのが、海底ケ
 ーブルの両端に設けられる施設「陸揚げ局」などでのデ
 ータの抜き取りだ。
  この施設に中国製品が入り込むことを米国は強く警戒
 している。
  今後、ファーウェイの小会社など中国勢による海底ケ
 ーブルの敷設が拡大すれば、そこを起点として、ほかの
 ファーウェイ製品の使用が広がる可能性がある。
  海底ケーブルの敷設を受注した企業と同系列の機器を
 陸揚げ局など地上でも使用するケースが多いためだ。
  海底ケーブルの受注が突破口になり、米国によるファ
 ーウェイ製品排除の呼びかけの効果が抑え込まれる形だ。
  NECなど日本勢が受注競争で中国勢に敗れる影響は
 米国にも及ぶ。
  一方、中国政府側には、自国企業が海底ケーブル分野
 へ積極的に進出することで、新興国への影響力を強めよ
 うとする国家戦略がのぞく。
  習近平国家主席が推進する巨大経済圏構想「一帯一路」
 の海底版だと見ることもできる。
  海底ケーブルをめぐっても米中が攻防を繰り広げる中、
 日本の輸出支援は成果を上げることが出来るのか。
  例えば、日本は高速鉄道で一時、圧倒的に優位な立場
 に居ながら、その後、中国の急速な追い上げを受け、受
 注に競り負けるケースもあった。
  こうした轍(てつ)を踏んではならないが、そこに中
 国の低価格戦略が立ちふさがる。
  携帯電話の基地局の価格では、ファーウェイ製は日本
 勢の3分の1の安さだとされる。
  海底ケーブルでも同様に日本勢は価格面では、ファー
 ウェイに太刀打ちできないと見られる。
  このため、日本政府は今後、データの機密保持など日
 本勢が長年培ってきた信頼性と、品質の高さを前面に押
 し出し、日本勢が技術力で中国勢を上回っている間に、
 他国に売り込みをかける方針だ。
.
2020年1月8日、国賓としての習近平の来日の条件・・
  習金平の国賓としての訪日の条件として、訪日したら
 日本のしきたりに従うということ。
  つまり、日本の安倍首相と習金平がそろって「靖国
 社の参拝を行なう」ということ。
  そして、安倍首相と習金平は神殿にぬかづき、玉ぐし
 を捧げるということ。
  これができないのなら「国賓としての来日の資格はな
 い」。
  日本は、この日本の一番大切なことを中国に要求せよ!!
  また、今回の中国の習金平の国賓来日の答礼で「天皇
 陛下の訪中を依頼されても、天皇陛下が訪中してはなら
 ない」。
  答礼の訪中は、安倍首相がするべき・・
  万一の中国での天皇陛下の「暗殺のリスク」は避けね
 ばならない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  キリスト教よ! 性悪説で原罪があると言いたてるが・・
  純真な人々に「原罪がある」と言いたてる者こそ
 「原罪がある」。
  キリスト教聖職者たちよ! 君たちのためにどれだけ
 の若者が命を絶ったか?
  純真な人々には、「悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」
 を説き、諭しなさい・・
  「分け隔てなく、皆様に、佛となれる仏性が備わって
 いるのです」と諭す、そして、希望ある未来の仏性を備
 えた生活を享受する喜びを与える仏教。
  その様な仏性を持って生まれて来た大切なあなたの体
 なのですよ・・と教え、諭す仏教。
  破滅の心に洗脳され、性悪説に希望を無くし、天国の
 ことしか考えない・・その様に洗脳するキリスト教から・・
 目を覚ましなさい。
  純真な人々に「原罪がある」と言いたてる者こそ「原罪
 がある」。

(増補版)674E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年6月)

題:(増補版)674E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年6月12日、日本機械学会が設立された。
  これは、機械工学とその関連分野の学会・・
  設立の目的:「機械に関する学術、技芸の進歩、発達
 をはかり、かつ工業の発展のためにつくす」・・
  民法第34条により、文部大臣の認可を受けた社団法人・・
  会員数は、1996年3月現在、正員36,616名、准員2,466
 名、学生員5,598名、特別員1,053社の合計45,733名・・
  組織:東京の本部・事務局と・・
  全国各ブロックに置かれた8支部(北海道、東北、関
 東、東海、北陸信越、関西、中国四国、九州)・・
  および、20部門(計算力学、バイオエンジニアリング、
 材料力学、機械材料・材料加工、流体工学、熱工学、エン
 ジンシステム、動力エネルギーシステム、環境工学、機
 械力学・計測制御、機素潤滑設計、設計工学・システム、
 生産加工・工作機械、FA、ロボティクス・メカトロニク
 ス、情報・知能・精密機器、産業・化学機械、交通・物流、
 宇宙工学、技術と社会)・・からなる。
  (参考)FA:Factory Automation(ファクトリーオ
     ートメーション) ・・ 工場の自動化
  日本人のために、日本人が設計・製造し、日本人がそ
 れを使い生活するところから機械の国産化の歴史が始ま
 る。
  日本の産業革命は、この学会が設立された時期とほぼ
 同時期に確立したと言われている。
.
1897年6月16日、あめりかが詭弁のハワイ併合をする。
  米・ハワイ併合条約が調印され、ハワイ併合がなされ
 た。
  日本政府は、この不誠実なアメリカの行為に対して抗
 議を行った。
  (参考)詭弁:きべん、道理に合わない、言いくるめ
     の議論。ごまかしの議論。
 「詭弁を弄(ろう)する」。論理学で、相手の思考の混乱
 や感情につけ入って相手をだます、見掛け上は正しそう
 な、虚偽の推論。
.
1897年6月17日、神奈川県の船大工の360名が同盟罷工を行
 なった。
.
1897年6月18日、京都帝国大学(後の京都大学)が創立した。
  (6月22日説あり)
  創立以来「自由の学風」を建学の精神としている。
  日本で2番目に創設された、帝国大学の流れを汲んでい
 る国立大学・・
  大学の起源は、1861年9月20日文久元年8月16日)に
 長崎に設立された長崎養生所(後、長崎精得館へ改称)
 まで遡る。
  1949年、理学部教授・湯川秀樹が日本人初のノーベル
 賞に輝いた。
.
1897年6月20日高山樗牛(たかやまちょぎゅう)が、日本
 主義を提唱した。
  文学者、文芸評論家、ジャーナリスト、美学者、倫理
 学者、
  1871年1月10日、山形県に生まれる・・山形県鶴岡の酒
   井藩士の子(旧庄内藩士斎藤親信・ちかのぶ、芳の
   次男として生まれる)
  1873年(2歳)高山家の養子へ(父方の伯父・高山久
  の家)、養父の転勤で山形、福島と移る・・
  少年期から投書雑誌「穎才新誌」や地元新聞に投稿す
 るなど、文才を発揮する。
  1886年(15歳)上京し、東京英語学校に入学・・
  1887年(16歳)第二高等学校に入学(1888年説あり)
  1891年(20歳)学校の有志らと語らって「文学会雑誌」
   を創刊し数編の論文を載せた・・そこに、人生への
   懐疑、文学への志向などすでに浪漫主義のモチーフ
   があった・・
  1893年(22歳)東京帝国大学文科大学哲学科に入学。
  1894年(23歳)大学在学中、「平家物語」に材を取っ
   た悲恋物語歴史小説「滝口入道」を日就社の懸賞
   募集に応募し、当選し「読売新聞」に掲載された。
   一躍有名になったが、以後は小説の筆を執らなかっ
   た。
   学問の活性化を目指してエッセイストの道を選択し
   た・・
  帝大文科大学の帝国文学会機関誌「帝国文学」や博文
 館の雑誌「太陽」などに、それまでの戯作を批判し理想
 主義的文学を高く評価する評論を次々と発表し、注目を
 集める。
  1895年(24歳)「帝国文学」発刊に参加・・上田敏
   姉崎嘲風(あねさきちょうふう)らと編集委員となる・・
   近松文学に託して自らの思いを吐露する・・「愛」
   こそ「人生に対しては幸福の最大なる源」であり、
   「情死」こそ「幸福なる愛の最後」と書く・・
  1896年(25歳)大学卒業と同時に第二高等学校教授に
   就任し、一時、中央論壇から離れる・・が・・評論
   への志望が強く、翌年4月、二高教授を辞職し博文館
   へ入社・・
  1897年(26歳)「太陽」を主宰し復帰(主幹を務める)・・
   鋭い批評文を精力的に書く・・それとともに、東京
   帝国大学や東京専門学校(早大)に出講する。
   国家を史上の人格的存在ととらえ(国家至上主義)、
   それを自我の独立と直結する日本主義を井上哲二郎
   らと唱えた・・論壇を領導(りょうどう、統率して
   指導すること)する・・日本主義を太陽に掲載・・
   木村鷹太郎らと大日本協会を起こし、機関誌「日本
   主義」を創刊した・・
  1900年(29歳)欧州留学を目の前にして、突如、血を
   吐いて倒れる・・
   次いで、ニーチェの死に際し、大いに感化を受ける・・
  「美的生活を論ず」等でニーチェの思想を賛美し、ニ
  ーチェ主義を主張する・・個人主義へ転換・・本能満
  足主知を主張し、浪漫主義宣言として反響を呼ぶ・・
  ニーチェへ傾倒は、ニーチェを天才主義の文明評論家
 として解釈し礼讃する・・ニーチェの強烈な「超人」的
 な個性に魅かれて行く・・「美的生活を論ず」など大き
 な反響を引き起こした・・
  この天才主義、主我主義は、理想の人格を日蓮に見い
 出し、崇拝し傾倒した・・日蓮を絶対的な予言者と見た・・
  1902年(31歳)文学博士となる・・
  明治35年12月24日(1902年)歿、32歳
  死の直後、桑木厳翼(くわきげんよく)が、樗牛の「煩
 悶(はんもん、浪漫主義~日本主義~個人主義の三変)は、
 一貫して一つの問題に触れて居(い)」た、それは「人生
 問題と云(い)ふものゝ解決であつた」と述べている・・
  このように、変転する彼の思想遍歴のうちに新しい時
 代の刻印をはっきりと見ることができる。
  著「美的生活を論ず(1901年)」「わが袖の記(1897
 年)」「文明批評家としての文学者(1901年)」「平家
 雑感(1901年)」「平相国(1902年)」「日蓮上人と日
 本国(1902年)」「日蓮と基督(1902年)」「日蓮上人
 とは如何なる人ぞ(1902年)」など。
  言葉:己れの立てるところを深く掘れ、そこには必ず
    泉あらん
.
1897年6月26日、河口慧海(えかい)が、チベット調査に出
 発した。
  河口慧海(かわぐちえかい)、黄檗宗の僧侶、仏教学
 者、チベット探検家、大正大学教授。
  「チベット旅行記」など著書多数。
  中国や日本に伝承されている仏典に疑問が指す・・従
 来の漢訳仏典の正確さに疑問を抱いた。
  仏陀本来の教えの意味を知りたいと・・それが分かる
 物を求める・・梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を
 決意・・チベット語原典の研究を志して、インドからチ
 ベットへ密入国・・
  日本人で初めて首都・ラサに至り、チベット一切経
 どの多数の貴重な資料を将来(しょうらい、持って帰る
 こと)した。
  「西蔵旅行記」「在家仏教」をはじめとして数多くの
 著作を残している・・慧文社から著作選集も出版されて
 いる。
  1866年(慶応2年)摂津国堺山伏町(現:大阪府堺市
 区北旅籠町西3丁)生まれた。
  1899年(明治32年)(33歳)1月、仏陀成道の地ブッダ
   ガヤに参り、摩訶菩提会の創設者であるダンマパー
   ラ居士より釈迦牟尼如来の舎利をおさめた銀製の塔
   とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿
   り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと
   託された。
  1900年(34歳)7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ド
   ルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)
   を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成
   功した。
  1902年(明治35年)(36歳)5月上旬、日本人だという
   素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計
   画した。
    親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬
   屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典
   などを馬で送る手配を済ませた後、
  1902年(36歳)5月29日、英領インドに向けてラサを脱
   出する。
   捕まった者たちが投獄の上、責め苦に会っていると
   いう情報を聞きながら・・ネパールへ
  1903年(37歳)3月、慧海が自ら書いたチベット法王ダ
   ライ・ラマ宛ての上書をネパール国王を通じて法王
   へ送ってもらう事に成功・・また、国王より多くの
   梵語仏典を賜る。
  因みに、1887年(明治20年)前後から、日本仏教界に
 は「入蔵熱」(チベット入国フィーバー)が起こってい
 た。
  何人もの有為の仏教徒が、ヒマラヤ山脈からチベット
 高原にかけ、果てしなく広がる「未テラ・インコグニタ
 知の土地」の探検に名乗りを上げていた。
  当時、チベットは国が閉ざされていた。
  チベットの内情はほとんど知られない国だった。
.
  (教の言葉)
.
  題:
.
紀元前7200万年、この頃の恐竜の骨が、北海道で見つかっ
 た。
  全身骨格の可能性がある。
  希少な例。
  2013年9月から本格発掘を開始する。
  ハドロサウルス科の恐竜。7.2トン。
  全長8メートル。白亜紀後期。
  顎(あご)と歯。
  800~1000本の歯を持っている。
  植物を食べていた。
  裸子植物も食べる歯だった。
  2014年9月、頭部発見を目指す。
  歯の化石発見。頭もあるはず ⇒⇒ あった。
     ・
     ・
     ・
9世紀~10世紀、神聖ローマ帝国が成立した(1806年まで
 続いた)
  神聖ローマ帝国は、ローマ皇帝が頂点に居る国家だっ
 た。
  しかし、それはプロセイン、オーストリア、バイエル
 ンなどの「領邦国家」や、ハンブルク、ケルンなどの「
 自由都市(帝国都市)」が350くらい集まって構成されてい
 た。
  この領邦国家の下には、農村や領邦都市があった。
  それらは、領邦君主の政治支配は受けるが、都市はお
 おむねギルドなどの市民の団体によって運営されていた。
  農村は、東部などでは領主が直接経営する場合もある
 が、西部ドイツでは、村の運営も村人自身にゆだねられ
 ているのが多かった。
  領邦国家自由都市が集まって一つの有機体の「神聖
 ローマ帝国」を構成していた。
  1806年、この神聖ローマ帝国が、ナポレオンによって
 命脈を絶たれた。
  そして、この頂点に居た君主は、絶対君主として「キ
 リスト教の神」から授けられたと、長い間、ヨーロッパ
 で、何らかの政治的主張の根拠とされたのが、いつも「
 キリスト教の神」だった。
  この考え方も、命脈が絶たれる時代となっていた。
  啓蒙主義者たちは、「人間の持つ理性を気付かせた」。
  君主の権力の源にキリスト教の神へ求め王権の絶対性
 を主張し唱える「王権神授説」があったが、これを批判
 した。
  啓蒙主義者たちは「歴史の主体を人間に於いてその根
 拠を説いた」。
  「キリスト教の神の姿」が消える時代となった。
  当然の人間主体の正当な論理だった。
     ・
     ・
17世紀〜18世紀半ば、ヨーロッパに列強諸国が成立した時
 代。
  各々の個性が異なるフランス、イギリス、ロシア、オ
 ーストリア、プロイセンが成立した。
  そして、これから、世界で悪さを始める。
.
17世紀、綿に関わる産業が、17世紀のイギリス産業革命
 主要産業となった・・ここにインドの犠牲があった・・
  綿花を原料とする木綿・綿織物は、インドが原産であ
 る。
  12世紀になって中国へ伝わり、重要な産業となった。
  また、西方にも伝わり、イスラム世界を経由してヨー
 ロッパにも伝えらられた。
  17世紀のイギリスの産業革命の主要産業となって、イ
 ギリス産綿布は、インドや中国に運ばれ、大きな経済的
 変動の要因になった。
  インドには、豊かになる素地があった。
  広い国土に、そして、その沃野に綿は良く育った。
  また、綿工業もよく育っていた。
  しかし、イギリスは、このインドを単なる綿の原料供
 給国に貶(おとし)めてしまった。
  インドの綿産業を奪い、綿製品の消費国にして利益を
 収奪した。
  イギリスは、綿工業の製品を大量生産し、インドの産
 業を潰した。
  それは、イギリスの目的通りのけいかだった・・
  そして、イギリスは、産業革命がさらに進んだ。
  逆に、インド綿産業は破壊されて、そして、無くなっ
 た。
  そして、インドは、イギリスの市場となって落ちぶれ
 た。
  これを、イギリスは、インド社会を「文明化した」と
 称した。
  キリスト教の神の「倫理的信託だ」と称した。
  イギリスに、「インドを文明化する使命があった」と
 論じた。
  発展途上のインドに、「半未開状態に居る事を押し付
 けた」。
  「停滞状態に居る事を押し付けた」。
  そして、イギリスは、インドを支配した。
  自身は、これを「天命だ」「義務だ」と称して、侵略
 状態を正当化した。
  この様な「ヨーロッパ諸国の『偽善論』で世界の支配
 が行われた」。
  フランス・ドイツの列強諸国も、競い合いながら、同
 様にして「世界で収奪した」。
.
1642年、イギリス議会とイギリス王室が内戦を起こした。
  10年間にわたる大戦争で、何十万人という犠牲者を出
 した。
  クロムウェルが率いる議会軍が王朝軍を破り・・
  1649年、国王のチャールズ一世を処刑し・・
  共和制を宣言した(ピューリタン革命、1642年~1649年)
  イギリス王室は途絶えた・・
  そして、このイギリスの共和制も、クロムウェルの死
 去によって終わった・・
  1660年から、王政に再び復帰した。
     ・
     ・
18世紀末、この頃に至ると、キリスト教国のヨーロッパ諸
 国は、やっと『劣等感から』立ち直ることができた。
  18世紀の初めに知った、特に、「中国の事実」は衝撃
 的だった。
  まず、中国の歴史の事実が、キリスト教の構築して来
 た「歴史を完全に破壊した」。
  そのキリスト教の歴史の空理空論が実証された。
  しかも、その中国の「史実は、確かなもの」で崩すこ
 とが出来なかった。
  キリスト教の架空の作り話が痛烈に指摘された状態に
 なった。
  そして、この打ちのめされたヨーロッパは、この状況
 から立ち直るためにとった方策は、「徹底的な中国やア
 ジアの卑下だった」。
  2000年以上前に、ヨーロッパが影も形も無かった頃に、
 中国は立派な社会・文化・文明を築いていたが・・「そ
 の状態で進歩は停止し、今は、その古いままにある」と・・
 屁理屈を言った・・
  この徹底的な蔑(さげす)みによってヨーロッパは、
 やっと立ち直った。
  中国が、世界最古で、かつ現在でも最高の民族である
 ことを認めますが、その水準に停止している・・と、「
 200年前のヨーロッパ」のままだ・・と・・
  ヨーロッパは、何ら根拠のない「こんな薄ら根拠」で
 立ち直った。
  卑劣な「中国やアジアの差別化によって」自らを慰め、
 そして、救われた。
  モンテスキューは、自著「法の精神(1748年)」で、
 政体がヨーロッパでは「専制政体や君主政体」で自由を
 基礎として、文化の進歩や発展が生じるが・・
  中国やアジアは、古来から常に専制政体が存続してい
 て、その政体は、「人間の隷属を基礎としている」ので、
 文化も変化せず進歩もしないし、停滞していると決め付
 けた。
  その様なヨーロッパは、中国やアジアは、暖(あった)
 かいからそうなるのだなどと、もっともらしい風土論で、
 その自信回復を支持した。
  アジアを無気力とし、ヨーロッパは、強い国と強い国
 が接し、互いに接して、その国々は、ほぼ同様な勇気を
 持っていると自身を讃美した。
  肥沃で広大な沃野を持つアジアを評価してない、また、
 ヨーロッパのハレムの女性の存在などに目が行ってない、
 また、市民的奴隷制の存在にも目が行ってない。
  ローマなど奴隷制社会である。
  「アジアの政治的な隷属」などヨーロッパが指摘でき
 る立場にはない。
.
1806年〜1807年、ロシアは、江戸幕府に、日本との通商を
 断わられた腹いせに、『日本の領土の樺太(現:サハリン)』
 や『日本領の択捉島(えとろふとう)』にある日本の施設
 を襲撃した。
  この様なことを卑劣にも繰り返していた。
  特に、択捉事件の時は、南部藩津軽藩の藩兵と激し
 い交戦をした。
  日本は、退却を余儀なくされた。
  このことを江戸幕府は、隠すことなく全国の諸大名に
 報じた。
  ロシア船蝦夷地襲撃の情報は瞬(またた)く間に全国へ
 広まった。
  「蝦夷地での騒動の噂を禁じた町触(まちぶれ)も出さ
 れたりした」。
  また、「日本国の大恥」「異国之物笑(いこくのものわ
 らい)」などと幕府の軍事面の失点を非難する言葉もあっ
 た。
  攘夷の意識は国民の中にもあった。
  日本近海への外国列強の接近に対する危機感は、幕府
 や大名だけでなく、「一般国民にも高かった」。
  民衆も、地域共同体の運営を通じた政治的才覚が民の
 中にも育っていた。
.
1820年以降、アメリカやイギリスの宣教師が次々とハワイ
 へ押し寄せた・・そして・・
  1898年に、アメリカに併合されてしまった。
  その後、英語化が進められ、現在はハワイ語は消滅の
 危機にある。
.
1862年4月4日、ユゴーの「レ・ミゼラブル」が発売された。
  翌日の午後、パリで第一部上下巻6000部が完売した。
  第二部、第三部の発売の日には、朝6時に早くも出版社
 の前の通りは人であふれ、行列の整理のために警察官が
 出勤する騒ぎになった。
  そして、「レ・ミゼラブル」は世界各地でベストセラ
 ーとなった。
.
1870年、ダーウィンが「種の起源」を発表したのが1859年
 だった。
  当然、従来のキリスト教聖書の教えるところの人間の
 位置づけと真っ向から対立するため・・
  キリスト教の宗教界は大騒ぎとなった・・
  大きな批判の声が挙げられた・・反対の声が挙げられ
 た。
  そして、論争がなされた・・
  しかし、キリスト教が敗けるのも早かった。
  1870年を過ぎる頃は、キリスト教の命運は尽きていた。
  各国の学界も、進化論に軍配を挙げた・・
  進化論の位置づけもゆるぎないものとなっていた。
.
1896年6月、ロシアは、ニコライ二世の戴冠式に出席した中
 国・清の李鴻章に莫大な賄賂を送り、条約を締結した。
  その条約は、対日秘密条約で「露清防敵相互援助条約」
 (李・ロバノフ密約)だった。
  内容は、条約の標記の内容の他・・
  鉄道敷設権をロシアへ与えるものだった。
  ロシアは、黒龍江省吉林省を通ってウラジオストッ
 クに通じる中東鉄道(東清鉄道)の敷設権を得たのだった。
  さらに、1896年10月、東清鉄道に関する条約が改定さ
 れて、黒龍江省吉林省と盛京省の東三省鉄道とシベリ
 ア鉄道の接続が認められた。
  そして、ロシアは、傲慢にも、1897年12月、中国・清
 を脅した。
  ロシアは、旅順に軍艦を入港させて清を脅し、強引に
 次のことごとを要求した。
  ①黄海沿岸の一港の租借、
  ②工業の独占権、
  ③満州内モンゴルの鉄道敷設権(満蒙鉄道敷設権)、
  ロシアは、シベリア鉄道の有効性を向上したかった。
  この鉄道ですみやかに兵力を東アジアへ運びたかった。
  ロシアの南下政策で、益々、日本海沿岸から朝鮮が、
 ロシアの行動しやすい権益利益領域となって来た。
.
1898年5月、ロシアが、中国・清へ最終的な利益獲得要求を
 した・・それは・・
  ①旅順と大連の25年間の租借、
  ②満州を横断する東清鉄道から旅順と大連までの南支
   線の敷設権。
  ロシアは、これによって満州を通過してその南の旅順
 まで南下できる様になった。
  このことによって、ロシアは、渤海湾とその周辺の制
 海権を得た。
  また、渤海湾に面する天津から北京に至る重要な戦略
 的領域を押さえた。
  そして、この頃、ロシアは、韓国の高宗が親露政策を
 とっていたこともあり、ロシアは、韓国へ軍人を派遣し
 た。
  また、軍事教官の派遣と国王警備の編成について韓国
 側と進めた。
  また、ロシアのアレクセーエフが、韓国の財政顧問と
 なった。
  また、彼は、関税長にも任命された。
  また、露韓銀行も開設された。
  完全にロシアの南下政策の領土獲得政策が日本の水際
 まで迫って来ていた。
.
1898年、イギリスのアジアにおける政策が大転換した。
  その原因は、大胆な行動をするロシアだった。
  この年、ロシアは、中国・清をまったく馬鹿にした威
 圧的な条約を結んだ。
  イギリスにとって一番気になったのは渤海湾、および、
 その周辺のロシアの『制海権が確立』したことだった。
  このことによって、ロシアは、中国の首都・北京への
 海上要路が制圧できる様になった。
  それでなくても、ロシアは、武力的にまた威圧的に領
 土を奪い、十二分に陸上の要衝を抑え、戦略的優位を持
 つに至っていた・・陸上でも制圧していた・・
  ロシアの行動は、単に、経済的利益を得るという行動
 だけではなかった。
  この様なアジアのバランスを崩す侵略国家・ロシアの
 出鼻をくじいたのが日本だった。
  日本は、日露戦争で、この侵略国家・ロシアの出鼻を
 くじいたのだった。
  また、日清戦争で中国・清は、日本との戦いに敗け、
 韓国を属国としていた冊封体制を止めさせられた。
  これは、単に、韓国を独立させたというだけの話だけ
 でなく、東アジア諸国にも影響を与えた。
  中国の冊封から逃れさせた。
  その様な中国へ、また、東アジア諸国への利権を求め
 てヨーロッパ列強諸国が寄り付いて来た。
  ただ、ロシアの領土的侵略的野心を持った行為は、単
 なる経済的利権を求める「今までの形」を変えて、侵略
 国家丸出しで・・ロシアは覇権を構築して来た。
  今、中国が、南シナ海の戦略基地化の侵略的事例の様
 に・・今、中国は、この時のロシアの様な行為をしてい
 る。
  この時の、卑劣な条約によるロシアの進出に、イギリ
 スは、方針を大転換した。
  ロシアの圧倒的な戦略的優位の確立という事態を黙過
 できないとした。
  1898年5月、イギリスは、ロシアへの対抗措置として、
 渤海湾の反対側に、威海衛を軍港として中国・清から租
 借した。
  また、1898年6月、すでに手にしていた香港島の対岸(
 中国本土の側)の九竜半島を99年の租借をした。
.
1920年代〜1930年代、日本は、この頃、盛んにコミンテル
 ンの策動にあった・・が、しかし、それに対して日本は
 あまりにも無防備だった。
  そして、今、日本は、中国の膨大な金と人(工作員)の
 策動を受けているが、それに対する防備が「無策」と言
 われている。
  日本は、今、諜報機関が必要とされている。
.
1996年~1997年、NHKの岡山局の放送部長が、架空の飲
 食費名目で着服、90万円の詐取(さしゅ、金などをだま
 し取ること)をしていた。
.
1998年~2000年、NHKの編成局のチーフプロデューサー
 とEPが、1998年から2000年にかけて、カラ出張をして、
 架空経費請求を繰り返した。
  これによって300万円を着服した。
.
2000年、怪(あや)しい日本のメディア
  スパイ容疑で北朝鮮で逮捕され、拘留された日本経済
 新聞の元記者の杉島隆という人が居るが・・
  結局、この年に、1年半の拘留の後に、杉島氏は釈放さ
 れた。
  しかし、この時、TBSが怪しいニュースを報じた。
  TBSは、特ダネの様に「現在、北朝鮮に拘留中の杉
 島氏に死刑判決が出ました」と間違いニュースを報じた。
  実際は、釈放されたのにである。
  何で、こうなったのか?
  これは、北朝鮮からTBSに偽の間違った情報がリー
 クされ、流されたのを、TBSは、喜び勇んで特ダネ的
 に放送したのだった。
  そして、この事によって、TBSという放送局は、北
 朝鮮と、この様なニュースが流れる特別な関係を持って
 いることを露呈してしまった・・ばれてしまった。
  また、不思議な事に・・
  この時、北朝鮮の取調官(北朝鮮という国の官吏)が、
 この釈放された日本経済新聞元記者の杉島氏に、「日本
 のメディアは、おまえの事をちゃんと報道するかな」と
 言っていたという・・?
  TBSと北朝鮮の怪しいつながりが感じられる言葉だ・・?
  そしてまた、日本の国民は、この様な報道機関の、こ
 の様なレベルのニュースを聞かされているということ。
  杉島氏は、日本に帰国後、この事情を聞くために、T
 BSの偉い人を訪問した・・しかし、無視されたという。
  重責を担う報道機関であるなら、当然、この事情を国
 民に明らかにする行動を起こすはずだ・・また、責任あ
 る回答をすべきだった。
  ちなみに、日本の大切な報道機関の一つであるこのT
 BSが、一時、赤字で困窮したとき・・外国資本が入り、
 それ以後、この外国資本を意識する放送をしているよう
 に感じられた。
  ある意味、日本の国民のための大切な報道機関の一つ
 のTBSが、資本を出した外国を意識し、ある意味コン
 トロールされた放送姿勢になっていると言えた。
  TBSは、「ある特定宗教」に有利な放送をよくする。
  日本のメディアに、アメリカ系資本が入って来ていて、
 コントロールされている傾向が強くなっている。
.
2004年8月、NHKのソウル支局長が不適切な経理処理をし
 ていることが発覚した。
  このNHKの支局長は、1993年~1997年の間、外部プ
 ロダクションへの支払いを、月60万円~210万円も上乗せ
 して請求していた。
.
2015年9月5日、NHKの自虐放送。
  NHKの全編が『日本が悪い』の自虐放送だった。
  かくらきよし。経済ジャーナリスト。
  NHKが、氏素性のはっきりしない者に「土曜コラム」
 を話させ放送していた。
  2015・9・5、午前5時50分、NHKラジオ第一、
  天皇陛下が、戦争を宣言したから戦争が始まったと言
 わんばかりの話し方だった。
  また、「現政権が進めている政策が、戦争を誘発する」
 と印象されるような言い方だった。
  全放送を通して自虐的で、日本が悪いのだの言い方で・・
  そして、単純論理の言い方をつなげた放送で、「日本
 の70万の軍隊で、中国各地を占領したから、日本が悪い」
 という言い方だった。
  また、「アメリカやイギリスに挑戦していったから悪
 いのだ」の言い方だった・・こんな放送をするNHK・・
  「アメリカは、我慢していて、そして、満を持してや
 った」と・・、
  「アメリカとイギリスが正しくて、日本が悪い」とい
 う言い方で、公正さはまったく無かった。
.
2020年1月7日、元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)訴訟で原
 告代理人を務める弁護士らが、元徴用工問題の解決策を
 検討するため、日韓両国の法曹・政財界関係者らによる
 「共同協議体」の創設を提案した。
  協議が進む間は、訴訟で敗訴した日本企業の資産売却
 手続きを中断する可能性も示唆した。
  以上、2020年1月7日の読売新聞から・・
  これは詭弁だ。
  日韓の条約で、これは「韓国政府が対応する」ことに
 なっている・・この筋から逃げている・・
  正論をどうするかから逃げている。
  問題は、韓国政府にある・・その韓国政府の責任を追
 及していない。
  「日本は、まったく、この問題の関係者ではない」と
 条約で調印されたが・・この件から逃げている。
  韓国がよくやる引っ掛けの「こんな手」にひっかかる
 な!!
  韓国政府よ!! 誠実に対応しなさい・・責任を取りな
 さい!!
  資産売却手続きを凍結するというのなら、韓国が違反
 して、禁輸国へ輸出した物品の日本からの輸出も凍結せ
 よ!!
.
2020年1月7日、中国が日本の国会議員に金を掴(つか)ま
 せた。
  不正を働いた・・中国の日本工作の一端が表に出た・・
  中国が、金を使って日本の国会議員の抱き込みを謀(は
 か)った。
  中国がやっている金を使った日本工作の一端が暴露さ
 れた。
  読売新聞2020年1月7日の報道によると・・
  カジノを中核とした日本の統合型リゾート(IR)事
 業を巡る汚職事件で、中国企業側が現金100万円を提供し
 たとしている5人の衆議院議員側の内、日本維新の会の下
 地幹郎衆議院議員(58歳)(比例九州)が6日、那覇市
 記者会見し、受領を認めた。
  下地氏は「深く反省している」と謝罪し、返金の意向
 を示す一方、進退については「後援会と相談したい」と
 述べた。
  5人のうち、公に受領を認めたのは初めて。
  (評)中国からの工作は、金によるものが多いが、様々
    な形で、また、色々な方面から日本を解体をした
    いと、中国工作が行われている。
.
2040年、アメリカの白人が、50%以下になり、マイノリティ
 になる・・
  ニューヨーク・タイムズが報じている。
  また、「超大国の自殺」の本で、パトリック・J・ブキ
 ャナンは、アメリカの人口における人種の比率の変化が
 著しい・・と指摘している。
  半世紀前には、白人が90%で、黒人が10%弱だったが・・
 現在、白人は70%以下となり、黒人が15%、ヒスパニック
 系とアジア系で15%と、白人比率の急減少を指摘している。
  国の形も大変化する。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  NHKは、CCTVへ映像を何十年も前から映像資料
 を渡している。
  例えば、一例として、国会の委員会の審議状況の映像
 のすべてを渡している
  CCTVは中国中央電視台で、中国(中華人民共和国
 の国営放送のテレビ局。
  国営通信の新華社とともに「メディア」と言うより、
 中国共産党のための宣伝機関とされている。
  これはスパイ行為である。

(増補版)673E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年6月)

題:(増補版)673E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年5月、東海道線大垣駅長岡駅間の勾配改良工事に
 着手した。
.
1897年5月、甲武鉄道が、旅客運賃の賃率市街線3等運賃の
 1銭3厘を1銭2厘の標準に改正し、実施した。
  同時に、従来の定期乗車券を廃し、回数乗車券を設定
 した。
.
1897年5月、京都鉄道が、京都駅の使用について、鉄道局と
 協定をした。
  その結果、京都駅発着列車本数が制限された。
  そのため、同社は、同社発着用の京都起点駅として大
 宮駅を仮設とした。
.
1897年6月1日、官営八幡製鉄所が開庁した。
  八幡村に官営製鉄所が開庁した。
  背後に筑豊炭田が控え、また、海陸の輸送も便利だっ
 た。
.
1897年6月1日、沖ノ山炭鉱(後の宇部興産)が創立した。
  本社:山口県宇部市
  創業目的は、宇部炭田開発のため、渡辺祐策によって
 匿名組合沖ノ山炭鉱が創設された。
  (1928年株式会社に改組)
  (参考)匿名組合:とくめいくみあい、商法上の契約
     によって組織される営業のための組合。
      当事者の一方(匿名組合員)が相手方(営業
     者)の営業のために出資し、相手方がその営業
     から生じる利益を分配することを約するもの。
  その後、炭鉱用機器の製作修理を目的とする匿名組合
 宇部新川鉄工所(1914年設立、1917年(株)宇部鉄工所に改
 組)、
  同鉱の石炭・粘土と付近に産出する石灰石を利用する宇
 部セメント製造(株)(1923年)
  さらに、宇部炭の完全ガス化による硫安製造のために
 宇部窒素工業(株)(1933年)が相次いで設立された。
  同一資本であるこれら4社が合併して、1942年3月、宇
 部興産(株)が発足した。
.
1897年6月1日 総武鉄道成東駅銚子駅間が開通し、本所
 駅~銚子駅間が全通した。
.
1897年6月4日、台湾の基隆(きいるん)から入港の大阪商
 船「福岡丸」船内で死亡した婦人を検疫した結果、ペス
 トと判明した。
  日本はすでにその兆候をつかんで検疫をする様にとの
 告示が出ていた。
  1897年(明治30年)5月5日、内務省告示第37号 台湾
 ニ於ケル「ペスト」伝播モ兆アル同地ヲ発シ又ハ同地ヲ
 経及ヒ同地ヲ発シ他港ヲ軽テ来ル船舶ヲ諸港ニ於テ検疫
 ヲ実施ス
  1897年(明治30年)6月7日、内務省告示第44号、台湾
 及清国上海上以南ノ地方ヲ発他港ヲ軽テ来ル船舶ニ検疫
 ヲ実施ス 
.
1897年6月5日、鉄道学校が創立され開校した。
  岩倉高校の前身の私立鉄道学校
  神田錦町に開校した。
  1901年(明治34年)8月5日、現在の上野に移転。
  現在の岩倉高校は、鉄道界の恩人の岩倉具視の遺徳に
 因(ちな)んで、岩倉の二文字を校名に冠した(1903年
 12月21日)
.
1897年6月7日、日本勧業銀行の設立が許可された。
  1896年(明治29年)、農工業の改良のための長期融資
   を目的に「日本勧業銀行法」(勧銀法)が制定され
   た。
  1897年、日本勧業銀行が政府を中心に設立され、東京
   に本店を置き、支店は大阪のみに限った。
  それ以外の地は、北海道を除き、各府県に事実上の子
 会社である農工銀行(勧業銀行法と同時に制定された「
 農工銀行法」に基づく)が設置された。
  勧銀への取り次ぎ、または、勧銀と同等の業務を行っ
 た。
  なお、基幹産業(特に重化学工業)向けには別途:日
 本興業銀行(興銀)が設置され、勧銀との棲み分けが行
 われた。
  また、北海道には、勧銀や興銀の代わりに北海道拓殖
 銀行(拓銀)が設置された。
.
1897年6月10日、古社寺保存法が公布された。
  この法律は、古社寺の建造物や宝物の保存に関する事
 項をさだめ、国宝指定が始まった。
  明治政府は、1871年明治4年)「古器旧物保存方」を
 布告し、廃仏毀釈によって破壊された文化遺産の調査を
 始めた。
  古社寺保存法では、古社寺の建造物及び宝物類で、「
 特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範」であるものを「特別保
 護建造物」または「国宝」に指定し、保護した。
  当初、本法の所管官庁は内務省であったが、1913年に
 は文部省となった。
  日本における明治時代以降の文化財保護法制は、1871
 年(明治4年)の太政官布告「古器旧物保存方」に始まった
 が・・
  文化財の保存と公開、そのための補助という文化財
 護行政の基本的内容を一応もりこんだのは、この1897年
 の「古社寺保存法」が最初だった。
  なお、その後、1919年に公布された「史蹟名勝天然紀
 念物保存法」が制定された。
.
1897年6月10日、雑誌「実業之日本」が創刊された。
  読売新聞の記者であった増田儀一と光岡威一郎が設立
 した大日本実業学会から創刊された月刊誌。
  これは経済雑誌で、大日本実業学会(後の実業之日本
 社)が発行した。
  四六倍判(B6判)、本文50ページ、定価10銭。
  実業界の成功事例を載せて好評を得た・・
  また、実業人の修養雑誌としても人気を得た。
  1899年から月2回となるが、1945年に月刊に復した。
  実業という言葉を普及させた。
  実業界の青年に、俸給生活に安易につくことを戒め、
 自ら独自の進路を発見し、進んで艱難(かんなん)を冒す
 ことを説いた。
.
1897年6月12日、長崎入港の福岡丸でペストで男子船客が死
 亡した。
  1897年6月4日に入港した福岡丸船の乗船の男子船客発
 病して、船内で死亡した。
  これは、初めて長崎港にペストが侵入した事例。
.
  (今日の言葉)
.
  題:第二次世界大戦のとき、ドイツは東からソ連を攻めてくれと日本に言った・・
    日本は、「日ソ中立条約」があるからその様な事は出来ないと、「きっぱりと断った」・・
    しかし、そのソ連は、日ソ中立条約を一方的に破って、日本の領土の占守島に攻めて来た・・
    日本は、ここでの戦いで勝利した・・しかし、終戦となっていたので武器を置いた・・
    日本とソ連は、「合意の上」でその武器を置く「終戦の式をした」・・
    しかし、ソ連は、その後、日本の領土の千島列島と北方四島に対し武力行使をして「日本の領土を不法に奪った」・・
.
18世紀の末、イギリスのインドの植民地支配が進む・・イ
 ンドの方々は深刻な貧困に陥(おちい)って行った。
  インドの方々は、イギリスに反抗して「糸車で綿布を
 作った」。
  イギリスは、植民地・インドの美味しいものをしゃぶ
 り尽くした。
  インドには、綿栽培から綿布を作って衣服を得るとい
 う一連の産業と文化があった。
  宗主国・イギリスは、そのシステムを破壊した。
  イギリス自身のため、自分の利益のために、インドを
 破壊した。
  インドで綿花だけを作らせた。
  インドでは、その後のことは行わせず、、その後の工
 程のすべてをイギリス国内で行った。
  産業革命をしたイギリスは、それでインドを破壊した。
  それで出来た綿布を、インドで高く売った。
  インドの方々を「ただの消費者とした」。
  決してインドの方々に『綿布を作らせなかった』。
  インドの方々は「糸車で綿布を作った」、それが、イ
 ギリスへの『反逆の証(あかし)』だった。
  また、イギリスは、インドの安い労働力を使ってアヘ
 ン(麻薬)を作らせて、それを中国へ売った。
  中国には、イギリスが買いたいものが山ほどあった。
  その一つの中国茶は高級品だったが、イギリスの一般
 家庭でも飲めるほどになった。
  しかし、輸入超過のイギリスが使った手が「中国への
 麻薬販売だった」。
  中国が止めてくれと何度も言ったが、イギリスは止め
 なかった。
.
1840年アヘン戦争
  イギリスはアヘンの密貿易をして、そして、中国を侵
 略していた・・そのイギリスと中国との戦い・・
  中国・清政府は、アヘンを投棄した・・傲慢なイギリ
 スは、この行為に抗議して開戦した・・当然のようにイ
 ギリスが勝利した。
  1942年、南京条約を締結して、香港などを割譲させ、
 中国権益を奪った。
  これを契機に、ヨーロッパ列強諸国は餌食(えじき)
 に群がる様に中国をむしばんで行った。
  満州満州と言うけれど、そして、この満州で日本が
 酷(ひど)いことをしたと言われるが、そして、その被害
 を中国が受けたと言われるが、それは、日本を貶(おとし)
 める「誇大に語られる洗脳工作」・・
  まず、満州では、そのロシアがほとんどを占めた・・
 日本もいたの程度・・
  しかし、陰に隠れて、何も語られないイギリスは、隠
 密裏にされているが、さも中国の中に居ないようにされ
 ているイギリスだが、何と第一の中国の利権国だった・・
 何しろ中国侵略の歴史があった・・
  そして、第二がロシア(歴史的な侵略行為国・・南下
 政策という侵略行為を続けた国)・・
  第三がフランス(ベトナムビルマ・タイから北上す
 る)・・以上の三国でほとんどが占められていた・・
  そのあと、第四がドイツ・・そして、第五が日本・・
  この国々が、中国の美味しい汁を吸っていた国々・・
 ヨーロッパ列強と言われる国々がほとんど・・
  だから、第一のイギリスは、この日本とロシアを笑う
 が如く、満州以外のすべての中国の『いちばん美味しい
 良い所』を全部押さえていた。
.
1858年7月、コレラ流行・・我国最大の流行
  伝染病の流行で、多くの死者が出たという我が国の怖
 い事例がこの年である。
  1858年7月、支那より長崎に入港したアメリカ軍艦ミシ
 シッピー号により、日本全国に及んだ。
  江戸に於いて最も甚だしく、7月27日より9月23日まで
 の55日間の死者が26万人以上という。
  また、8月の1ヶ月間の死者が3万1000人以上・・
  8月26日までに10万3000人以上が死亡した。
  全国で患者数が数十万、死者十数万に達したと推定さ
 れている。
  『頃痢流行記』に記される惨状・・
  「死するもの多き一町に百数人、少なきは五十、六十
 人、葬礼の棺大道小路に陸続きて昼夜を棄ず絶ゆる間な
 く、お府内数万の寺院は何処も門前に市をなし。焼場の
 棺所せまきまで積ならべて山をなせり・・」と・・
  之が腐敗して臭気甚だしく、更に流行を強める處があ
 る為、八月寺社奉行より速に処理するよう、コレラに関
 する初めての防疫触令が発せられた。
  この時の日本の蘭方医家は活躍する・・
  河に沿って流行するを好むと発し、此病の伝染を防ぐ
 の法は、政令を以て域市、船舶、或は病院に此患人あれ
 ば之を外に移し、無病者と隔離別居せしむるを一良法と
 す・・と提言し、
  尚、予防の処置が重要と提言し活躍している。
  そして、一般人の公衆の予防を法令を以って布達すべ
 きとも提言している。
.
1895年4月17日、下関条約・・日清戦争後の講和会議を経て
 下関条約が結ばれた。
  日清戦争の清も戦争する前は「まさか日本には負ける
 とは思っていなかった」。
  ロシアにしたって「清は負けたかもしれないが、我々・
 ロシアは日本に負けるはずはない」と思っていた。
  だから、ロシアの不凍港を求めた領土侵略は凄まじか
 った。
  ロシアが「最強国だった」からだった。
  基本的に、この様な心がロシアにあった。
  日露戦争を、世界のどこの国も日本が負けると思って
 いた。
  ロシアの横暴はこの様なところから来ていた。
  日清戦争後の、ロシアなどの日本への三国干渉もこの
 様なところから来ていた。
  欲しかった遼東半島を、日清戦争後の下関条約で日本
 に取られ、ロシアの不凍港にしたかった地を失ったから
 だった。
  しかし、傲慢(ごうまん)なロシアは、日本にその遼
 東半島を返還させた。
  日本を戦争で打ち負かせたいとした清の戦争の敗戦の
 結果を、超大国のロシアは横やりを入れて取り上げた。
  そして、後に、ロシアは、この遼東半島を奪う・・結
 局、自分のものにする。
.
1935年8月31日、アメリカで、中立法が成立した。
  ヨーロッパの戦争に巻き込まれるのを恐れたアメリ
 が、この法律を制定した。
  この年(1935年)のイタリア・エチオピア戦争を機に
 制定され、交戦国への軍需品輸出と借款(しゃっかん)
 供与を禁止した。
  この背景には、アメリカ国民の方々の戦争に関与する
 ことへの回避と、孤立主義の選択があった。
.
1939年9月4日、アメリカが、欧州大戦に中立宣言をした。
  アメリカは、ドイツにそれ程恨みがあるわけではなか
 った。
  そして、ドイツに投資をしている投資家や企業も沢山
 あった。
  例えば、ドイツに子会社を持っているフォードやGM
 などはドイツが戦争を始めても、以前とまったく変わら
 ずドイツ子会社を営業させ続けていた。
  アメリカにとってドイツと戦わなければならない理由
 は見当たらず・・
  特に、当時、アメリカは孤立主義を採り、議会が参戦
 に賛成する雰囲気はなかった。
  しかし、1940年中盤に入ると一変する。
  イギリス支援に傾き・・
  日本へも圧力をかけ始めた。
  この一変の理由の一つに、ドイツのマルクの『世界通
 貨化の動き』があった・・この動きと反ナチスへのアメ
 リカの態度の転換は連動している。
  今、中国が、アメリカ・ドルの世界通貨に挑戦し、中
 国・人民元の世界通貨化と、中国の仮想通貨(暗号通貨)
 を実施しようとしている。
  今、米中で摩擦が起きているが、この摩擦は、『この
 意味からも尋常ではない』。
.
1941年3月11日、中立国のアメリカが、レンドリース法を成
 立させて、アメリカ自らは参戦しない代わりに、ソ連
 イギリス、中華民国などの、ドイツや日本、イタリアと
 の交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。
.
1941年8月頃、ドイツが日本に対し、東から対ソ攻撃を行う
 よう働きかけた。
  しかし、日本は、独ソ戦開始前、すでに、ソ連と1941
 年4月13日に、日ソ中立条約を締結していたので、これを
 きっぱりと拒否した。
  (しかし、ソ連は、この「日ソ中立条約を誠実に守ら
 なかった」)
.
1941年10月中旬、ドイツ軍がモスクワに接近する。
  ドイツ軍は、1941年7月16日にスモレンスク・・
  1941年9月19日に、キエフを占領・・
  さらに北部のレニングラードを包囲し、
  1941年10月中旬には、首都モスクワに接近。
  モスクワ市内では一時混乱状態も発生し、そのため、
 ソ連政府の一部は、約960km離れたクイビシェフへ疎開
 た。
.
1944年、アメリカの軍事視察団が、中国共産党のメッカで
 ある延安に行った・・第二次世界大戦が行なわれている
 最中だった・・
  毛沢東幹部らは、この軍事使節団を大歓迎した。
  1944年7月~1944年11月は、毛沢東共産党軍とアメリ
 カは蜜月状態だった。
  そして、中国の背後に居るアメリカという状態となっ
 た・・
  巧妙にアメリカは立ち回った。
  中国・共産党軍の毛沢東は延安に居て・・
  アメリカは、この延安の毛沢東のところにエマーソン
 という外交官を派遣した(1944年11月)
  アメリカは、この様に中国・共産党軍のところに外交
 官を派遣する行為の様に「アメリカは、中国・共産党
 の毛沢東を承認していた」。
  エマーソンは、後に、ライシャワー駐日大使の下で駐
 日公使を務めるほどの重要人物だった。
  そして、アメリカは、この毛沢東軍に大量の武器を供
 与した。
  OSS(戦略事務局、後のCIA) 長官のドノヴァンは、
 延安の毛沢東に大量の武器や物資を送った。
  その目的は、「中国・共産勢力を勢いづかせることだ
 った」。
  また、この時、アメリカのジャーナリズムも毛沢東
 讚美し、その素晴らしさを新聞に書き立てた。
  アメリカのジャーナリストのスメドレーは、毛沢東
 共産党軍に密着取材して、讚美した記事を世界に発信し
 た。
  この様に毛沢東勢力を、アメリカは、あらゆる面から
 支援した。
  アメリカの国家を動かしている勢力が、それが狙いだ
 った。
  中国・蒋介石軍は、日本と戦わせられて、衰弱をさせ
 られ、疲弊させられていた。
  日本は、中国の首都・南京が陥落すれば戦争は終結
 ると見ていた。
  しかし、その様にはさせじと・・戦争終結をさせなか
 ったのはアメリカだった。
  日本が仕切りに「和平提案をする」が、蒋介石は引き
 延ばした・・アメリカの差し金だった。
  あやふやな態度であった。
  和平をしようとしない蒋介石は「事実上、和平拒否を
 しているのと同じだった」。
  アメリカによる「蒋介石勢力の疲弊策」で推移した。
  蒋介石軍は、更なる中国・奥地の重慶へ逃げた。
  この様にして・・アメリカが背後にいる中国での戦い
 は続いて行った。
  中国・蒋介石軍に、上海の日本祖界を攻めさせたアメ
 リカの筋書き通りの展開が続いた。
.
1944年11月、アメリカ軍事視察団の要員の一人としてエマ
 ーソンが、中国共産党の拠点の延安へ行った。
  占領下の日本国民に、戦争に対する贖罪(しょくざい)
 意識を植え付けるため、連合国軍総司令部(GHQ)が、
 中国・延安で、中国共産党が、日本軍捕虜に行った心理
 戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書
 館所蔵の秘密文書で判明した。
  (産経新聞
  GHQの工作は、「ウオー・ギルト・インフォメーシ
 ョン・プログラム(WGIP)」と呼ばれ、現在に至る
 まで日本人の歴史観に大きな影響を与えている。
  文書は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だ
 った米国の外交官、ジョン・エマーソンが、1957年3月12
 日、共産主義者との疑惑が浮上したカナダの外交官、ハ
 ーバート・ノーマンとの関連で米上院国内治安小委員会
 で証言した記録で、「ノーマン・ファイル」(KV2/
 3261)にあった。
  1944年11月に、米軍事視察団の戦時情報局(OWI)
 要員として延安を訪問したエマーソンは、中国共産党
 支配下野坂参三(延安では岡野進と称した)元議長が
 日本軍捕虜の思想改造に成功した、として「岡野と日本
 人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(
 政策)に役立つと確信した」と証言。
  さらに「共産主義者の組織であったが、捕虜たちが反
 軍国主義反戦活動に喜んで参加するまで吹き込み(洗
 脳)に成功したことから彼らの成果はわれわれ(米国)
 の対日政策に貢献できると思った」と述べている。
  エマーソンは、後に、「(延安での収穫を元に)日本
 に降伏を勧告する宣伝と戦後に対する心理作戦を考えた」
 (大森実『戦後秘史4赤旗とGHQ』)と告白した。
  エマーソンが「対日政策に貢献できる」と証言した「
 心理戦」は、日本兵に侵略者としての罪悪感を植え付け
 るもので、軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主
 義者への批判と人民への同情を兵士に呼びかける「二分
 法」によるプロパガンダ(宣伝)だった。
  GHQは、終戦直後の1945年9月に「プレスコード」
 (新聞綱領)を定めて言論を統制し、一般人の私信まで
 検閲を実施した。
  1945年10月には、「日本人の各層に、敗北と戦争を起
 こした罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国
 主義者の責任、連合国による軍事占領の理由と目的を周
 知徹底する」との一般命令第4号を出した。
  さらに、1945年12月8日から全国の新聞に『太平洋戦史』
 を掲載、翌日からラジオ番組『真相はこうだ』を放送さ
 せ、戦勝国史観を浸透させた。
  日本人にさきの戦争への罪悪感を植え付けた連合国軍
 総司令部(GHQ)の「ウオー・ギルト・インフォメー
 ション・プログラム(WGIP)」。
  その原点は、大戦末期の中国・延安で中国共産党によ
 る日本軍捕虜に対する「心理戦」にあった。                  
  「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に
 いとまがない」
  1945年12月8日、GHQの民間情報教育局(CIE)に
 強要され、新聞各紙が連載を始めた『太平洋戦史』では、
 「大東亜戦争」を公的に使用禁止し、冒頭から「真実を
 隠蔽(いんぺい)した軍国主義者」と「大本営発表にだ
 まされた国民」を二分して対峙(たいじ)させ、日本が
 非道極まりない国だったと全国民にすり込んだ。
  それは現在も国民的な「神話」となっている。
  文芸評論家の江藤淳は『閉された言語空間』で、WG
 IPと規定し、「日本と米国との戦いを、『軍国主義者』
 と『国民』との戦いにすり替えようとする」と指摘。
  『軍国主義者』と『国民』の架空の対立を導入して、
 「大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、
 『軍国主義者』が悪かったから起(おこ)った災厄」と
 米国の戦争責任を『軍国主義者』に押しつけたと指摘し
 た。
  『軍国主義者』と『国民』の対立という「二分法」の
 「洗脳」を1944年11月、延安で学んだのがGHQでマッ
 カーサーの政治顧問付補佐官を務めたジョン・エマーソ
 ンだった。
  英国立公文書館所蔵の秘密文書によると、エマーソン
 は、1957年3月12日、米上院国内治安小委員会で、初期G
 HQが民主化のため日本共産党と手を握ったことを認め
 ている。
  エマーソンは、戦前の1936年から1941年までと、終戦
 直後の1945年~1946年、さらに、1962年から1966年まで
 3度日本に駐在した日本専門家。
  占領初期は、政治顧問として対敵諜報部に所属した。
  エマーソンが『戦後秘史4』で大森実に語ったところ
 によると、ルーズベルト大統領のニューディール支持者
 で大戦中は米戦時情報局(OWI)要員として中国・重
 慶に赴任し、中国共産党八路軍の対日心理作戦の成功
 に注目し、戦後の占領政策を視野に経験に学ぼうとした。
  エマーソンらOWIのスタッフが作成した『延安リポ
 ート』(山本武利編訳)によると、野坂らは、天皇批判
 を軍国主義者に置き換え、軍国主義者と人民(国民)を
 区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を呼びかけ
 る心理工作を繰り返し、贖罪(しょくざい)意識を植え
 付けた日本軍捕虜を反戦兵士に「転向」させるまで洗脳
 した。
  野坂の日本人民解放連盟は、八路軍敵軍工作部と表裏
 一体で、彼らの工作は中国共産党によるものだった。
  中国共産党は、反戦日本兵の育成を通じて、徐々に厭
 戦(えんせん)感と贖罪意識を強め、やがて日本人全体
 を精神的捕虜にする狙いだった。
  中国軍が連合軍捕虜を外部隔離や尋問、集団・自己批
 判させて共産主義者に強制的思想改造したのは、1950年
 に勃発した朝鮮戦争が最初で、「洗脳」の新語が生まれ
 たが、延安では集団批判で日本人捕虜に「洗脳」の原型
 といえる思想改造が行われた。
  エマーソンらGHQの実務家にとって延安で学んだ「
 捕虜」洗脳は、占領政策を遂行するためのよき「先例」
 となった。
  GHQは、「洗脳」手法を積極的に取り入れ、東京裁
 判などの節目で展開し、「悪い侵略戦争をした」と日本
 人に自虐史観を植え付けた。 
  (参考)二分法:「共通の敵を打倒するため連帯でき
     る諸勢力と共闘する」との毛沢東の理論。
  中国共産党は、戦後一貫して少数の軍国主義者と大多
 数の日本人民を区分する対日外交政策を取っている。
  1972年の日中国交正常化の際、中国内の反日感情を抑
 制するための根拠として使われた。
  教科書問題や靖国問題でも同じ論法をとっている。
  反日プロパガンダ招いた壮大な「歴史戦」 外交評論
 家・加瀬英明
  「GHQは、日本民族から独立心を奪い、精神を破壊
 して未来永劫(えいごう)にわたって属国とするために
 WGIPを仕掛けた。
  軍国主義者と人民を区分する『二分法』は、毛沢東
 代からの中国共産党の教化政策。
  米国は、朝鮮戦争まで中国共産党と太いパイプがあり、
 エマーソンの証言通り、延安で成功した日本人捕虜に対
 する手法を占領政策で日本が二度と歯向かわないように
 利用した。
  その結果、自虐史観が蔓延(まんえん)し、『河野談
 話』『村山談話』のように日本人自身が過剰に自己否定
 し、中国、韓国の反日プロパガンダを招いた。
  壮大な『歴史戦』といえる」
  (参考)ウオー・ギルト・インフォメーション・プロ
     グラム(WGIP):GHQが占領政策として
     戦争に対する罪悪感を日本人に植え付けるため
     行った宣伝計画。
      日本の歴史や文化・伝統を破壊し、日本人自
     身が日本人を否定して精神を改造するよう誘導、
     原爆投下や大都市の無差別爆撃などを行った米
     国の正当化を図った。
      新聞や雑誌、ラジオを検閲し、占領政策にあ
     うよう書き直させたり、発禁処分にしたりした。
      検閲に協力した日本人は数千人といわれ、メ
     ディアや官界、大学などで活躍した。
.
1945年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃する際、アメ
 リカは、事前に、準備よく、ハワイの真珠湾から空母4隻
 を退避させていた。
  アメリカには、日本の技術によって、何が起きるかは
 予知できていた。
  日本は、魚雷を戦闘機から投下して艦を破壊できる技
 術を開発していた。
  当初は、投下した魚雷が海中に没したりして、目的を
 果たせないでいた・・しかし、日本はその技術を得た・・
  日本が技術開発し、航空機によって軍艦を撃沈した時、
 世界は驚嘆した。
  この時、戦う形態が大変革した。
  この時から、「航空機が戦いの主軸となる」と明らか
 に示されていた。
  アメリカは、さすが、これからの主軸の「航空母艦
 積載された戦闘機」を犠牲にはできなかった。
  傍受した情報などで、日本が攻めてくることを知って
 いたアメリカによって、空母4隻は事前に隠されていた。
  空母の居ない真珠湾だったが、日本が開発した航空機
 からの魚雷攻撃によって、多くのアメリカの艦船に多大
 な被害を与えた。
  これで「ルーズベルトの目的が果たされた」。
  ルーズベルトは、すでに、近しい人に「明日、日本が
 攻めて来るよ」と言っていた・・
  この一例の様に、アメリカは、すべて日本の動き・情
 報は事前に掴んでいた。
  これが・・ルーズベルトの筋書きだった・・アメリ
 の筋書きだった。
  「日本から大被害を受ける」「アメリカ国民を驚嘆さ
 せる」「壊滅的だと危機感を抱かせる」「何とかしなけ
 ればと思わせる」、そして、「日本は卑怯な奇襲をした」
 「だから、ここで正義のために立ち上がらなければなら
 ない」と・・
  アメリカ世論は大転換した。
  ルーズベルトは、日本が真珠湾攻撃した時、思惑通り
 に行ったとイギリスのチャーチルへ電話をした・・二人
 は喜び合った・・アメリカの援軍がヨーロッパにも来る・・
 と・・
  アメリカは、この後、ヨーロッパ戦線、そして、太平
 洋戦線へ「大手を振って乗り出して行く」。
  ルーズベルトは、「私は、戦争に反対です。戦争はし
 ません」を大統領選の公約として大統領になった人。
  アメリカ国民の方々の「アメリカは戦争をしない」に
 迎合した大統領だった。
  しかし、この様な形で「アメリカ国民の方々を裏切っ
 た」。
  ここまでに至る道は必然という行為しかして来なかっ
 たルーズベルト、一途に日本との開戦を目指したルーズ
 ベルト、真珠湾は、ただ、その結果に過ぎなかった。
  真珠湾の前からアメリカは隠密利に中国へアメリカ軍
 を派兵し、兵器も送り込み、真珠湾攻撃の前から日本に
 秘密に奇襲攻撃をしているアメリカだった。
  ベトナム戦争の時も、最後はアメリカは影から外へ出
 て来て、「アメリカ対北ベトナム」の戦いになったが、
 この中国でもアメリカは大いに介入した。
  そこに「日本を叩きたいアメリカ」があった。
  中国の戦いにおいて「日中戦争」というのは間違い、
 「日中米戦争」である。
  アメリカは、「遠慮会釈なしに戦争に関わった」。
.
1949年10月1日、中国(中華人民共和国)が建国した。
  国共内戦に勝利した毛沢東が北京を首都とする中華人
 民共和国の成立を宣言した。
  後に、蒋介石中国国民党が、広州から台湾へ逃亡し
 た。
  そして、これがソビエト連邦の支援を受けながら建国
 したと言われるが、『そのソ連が讃美するほど』この建
 国にアメリカが支援していた。
  日本が第二次世界大戦に敗けた後(敗ける直前から)、
 アメリカは、意外な動きをした。
  日本が敗けて、中国では国共内戦が始まった。
  アメリカは、この中国の戦い(共産党毛沢東と国民
 党の蒋介石の戦い)の内・・アメリカは意外にも「共産
 党の毛沢東を応援した」。
  アメリカのトルーマン大統領は、戦後すぐに、ジョー
 ジ・マーシャルを特使として中国へ行かせた。
  アメリカは、毛沢東を支援した。
  そして、マーシャルは、国民党への武器援助の実施を
 遅らさせた。
  そして、蒋介石に、毛沢東を攻撃しない様にと要求し
 た。
  この時、毛沢東共産党は「崩壊寸前」の状態だった。
  マーシャルは、「共産党に対する攻撃を停止しなけれ
 ばアメリカは蒋介石を支援しない」と圧力をかけた。
  その結果、共産党と国民党の即時停戦が成立した。
  蒋介石は、もう少しで勝利するところだった。
  勝利を目の前にして、蒋介石は、アメリカの強要で攻
 撃を停止せざるを得なかった。
  この停戦の期間中、毛沢東は体制の建て直しができ、
 息を吹き返すことができた。
  中国・共産党軍は、力を盛り返すことができた。
  そして、その後、国共の戦いで、毛沢東は勝利に終わ
 った。
  そして、1949年、中華人民共和国が建国された。
  共産中国の中華人民共和国を作ったのは『アメリカだ
 った』。
  アメリカの反共運動をしたマッカーシー上院議員は、
 共産スバイ狩りの「赤狩り」をしたが、「共産・中国は
 アメリカがつくった」という本を出版した。
  この本の中で、マーシャルの背信外交を批判している。
  また、バーンズ国務長官も著書「素直に語ろう」の中
 で次の様に書いている・・
  「スターリンは、マーシャル将軍を称賛した。
  中国問題に決着をつけられる人間は、マーシャル以外
 には居ないと言った。
  スターリンは、こうも言ったかもしれない。
  自分(スターリン)が満足できる様に・・」・・と・・
  ソ連外務大臣のグロムイコも、回想録で、マーシャ
 ルを絶賛している。
  ルーズベルトの周りは、社会主義者ばかりだった。
  側近のハリー・ホプキンスも、ルーズベルトの夫人の
 エレノア・ルーズベルト社会主義者だった。
  この社会主義者ルーズベルトの側近たちに取り入っ
 たマーシャルだった。
  共産主義を防ぐふりをしながら、実際は、これらの意
 向を受けて共産化を支援した。
  今、日本にも、大量の金と人(工作員)を使った中国の
 働きかけ・意向の方向へ動かそうという動きがなされて
 いる。
.
1995年、この年から「ヴェノナ文書」が公開された。
  この極秘史料が公開されたことで、第二次世界大戦
 真実の姿が分かって来た。
  このアメリカの文書は、ワシントンのソ連大使館など
 からモスクワに打電されたソ連の情報機関員(スパイ)の
 電報を集めたもの。
  アメリカ政府は、日本に対して行なっていたことと同
 じ行為(傍受)をソ連に対しても行っていた。
  ソ連の通信のすべてを傍受していた。
  この暗号も、当初はあまり解読できなかったが、しか
 し、アメリカは傍受と共に解読を延々と続けた。
  この行為は、第二次世界大戦後のレーガン大統領(1981
 年1月20日就任)の頃まで延々と解読作業を続けた。
  解読作業には、スーパー・コンピューターも駆使され
 た。
  この解明された内容からアメリカ政府内にうようよと
 ソ連スパイが居ることが分かった。
  アメリ共産党員が300人以上アメリカ政府内に潜入し
 ていることも分かった。
  F・ルーズベルト政権(任期:1933年3月4日~1945年
 4月12日)の財務次官のハリー・D・ホワイトもソ連のス
 パイだった。
  この男は、日本へ出す「ハル・ノート」を起草してい
 る(1941年11月26日に日本側へ出された)
  ハル・ノートは、非常に高圧的に日本へ要求事項を突
 き付けた文書で、「最後通牒」と言われた。
  これを受け取った日本は、1945年12月1日、御前会議を
 開き「開戦もやむなし」となった。
  本当は、日米交渉は、この頃、ぎりぎりのところで「
 まとまりそう」でもあった。
  この情報を得ていたソ連のコミンテル、あるいは、ス
 ターリンは、ソ連のスパイのホワイトやアルジャー・ヒ
 ス(アメリ国務省の高官)に、ハル・ノートの草案を作
 らせた。
  ソ連のモスクワは、このハル・ノートを「日米に戦争
 を始めさせ、開戦に踏み切らせる最後の切り札」という
 位置付けにしていた。
  また、日米が開戦すると、日本は、アメリカとの戦争
 にかかりきりとなり、ソ連のリスクは減り・・
  また、アメリカは、ドイツと戦うソ連に、莫大な援助
 を開始すると見られていた。
  さらに、何故?この様な工作をソ連が必死しにしたの
 かは、1941年秋頃は、ソ連は、ドイツに一方的に攻めら
 れ、モスクワが陥落寸前にあったからだった。
  何としても、「日本のリスクを低減させ」、そして、
 極東の戦力をドイツ戦線へ集結させたかった。
  そして、ソ連は、この時、同時に、日本に居るソ連
 スパイも動かした。
  ゾルゲや尾崎秀実(ほつみ)である。
  このスパイ以上の大物スパイが居たとも見られている。
  この頃の東京帝国大学は、ソ連のスパイの巣だった。
  ここでスパイが量産されていた。
  ここ出身の尾崎秀実は、近衛内閣のブレーンで、日本
 の国策決定に大きく関わっていた。
  そして、強行策を提示して行く。
  日米の開戦打開の会談を進める側より、日本を対米戦
 争へ向かう方向へ動いている。
  ドイツとの同盟の必要性も提言している。
  その底に、日本で革命を起こしたいがあった。
  「ゾルゲ事件」「企画院事件」「満鉄調査部事件」な
 ど、その一端が事件となっている。
  また、宮中にも多くの共産主義者が潜入していて、天
 皇陛下の側近たちの中にも疑わしい動きをするものが居
 た。
  ゾルゲ事件で逮捕され、「有罪」となった西園寺公一
 (きんかず)は、特に謎が一杯である。
.
2020年、今、中国のかつての「冊封体制」が、また、築か
 れ始めている。
  東アジアに、中国は、かつての冊封体制(さくほうた
 いせい)を築こうとしている。
  反対するものは抹殺である。
  冊封体制に入れば利益収奪の対象となる。
  ウィンウィンはない。
  一方的に貢ぐ行為が要求される。
  利益を上げても中国外への「持ち出しは禁止」である。
  その利益は、中国内で再投資せよと・・
  そして、中国の発展に寄与する経済活動をせよと「近
 代的奴隷システム」に組み入れられる。
  働いたって女房・子供の生活費や教育費として持ち出
 しはできない。
  巨大な強力な「中国の武力」によってその囲い込みが
 計られている。
  日清戦争は、この様な中国・清の囲い込みから朝鮮を
 脱却させた・・「朝鮮は独立国だ」と、日本は清に認め
 させた。
  そして、この「冊封体制」というのは、文字通り「冊
 の中に封じておく」というもの。
  冊の中で、中国の都合良くやっていれば「良し」とす
 るもの。
  中国の意に反すれば成敗される。
  日本は、その中国・清の「鼻っ柱」を、日清戦争で朝
 鮮独立を認めさせて「折った」ということ。
  (参考)鼻っ柱を折る:はなっぱしらをおる、つけ上
     がった相手の向こう意気や自信をくじく。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  ロシア(旧:ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦
 であったので、ソ連(現:ロシア)と合意の上で日本は
 武器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日ソの合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島ソ連(現:ロシア)は不法に
 占拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。

(増補版)672E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)

題:(増補版)672E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年5月10日、日本郵船の艀船水夫六百名が同盟罷工した。
.
1897年5月11日、島村駐ハワイ公使が、日本人移民の受け入
 れ拒否問題を抗議した。
  日本人移民の上陸を拒否しながら・・1897年6月16日、
 アメリカはハワイ併合の新条約に調印し、ハワイを併合
 した・・日本はこれにも抗議をした。
  1897年にアメリカ大統領に就任した共和党のウィリア
 ム・マッキンレーは、ハワイ併合を推進し・・
  1897年6月に併合の新条約に調印した。
.
1897年5月13日、北越鉄道の春日新田駅~鉢崎駅(現:米山
 駅)間が開通した。
  北越鉄道は、新潟県内で鉄道を建設し営業した鉄道事
 業者・・
  北越鉄道は、現在の信越本線で・・
  1886年に、日本海岸の直江津から内陸の長野に向けて
   路線を伸ばしはじめたものの・・
   直江津以北の官設による建設は見通しが立たないと
   判明・・
   そのため、地元新潟県有志は、渋沢栄一に東京の資
   本家を呼び込むことを依頼した・・そして・・
  1895年、渋沢を発起人代表として、北越鉄道株式会社
   (本社:新潟市)を設立した。
  1897年、直江津側の春日新田駅~鉢崎駅を皮切りに、
   順次延伸し開業して行った。
.
1897年5月17日、名古屋に、御園座(みそのざ)が開場した。
  1895年、御園座の初代社長、長谷川太兵衛(たひょう
   え)は「東西に負けない一流の劇場を名古屋につく
   りたい」と、劇場設立に乗り出した。
  1896年、名古屋劇場株式会社が創立され、劇場名は御
   園座と定められた。
  1897年、劇場本館が完成した。
   左右に大きなドームがあるルネッサンス式洋風建築
   で、場内には大きなシャンデリアがつるされていた。
   当時の名古屋の芝居小屋で、ひときわモダンで新し
   い劇場の出現だった。
   客席はすべて桟敷で、玄関左には芝居茶屋五軒が並
   び、上等の客は芝居茶屋で食事をとる仕組みになっ
   ていた。
  1897年5月、開場し、柿葺落(こけらおとし)興行(
   1896年6月19日)は、初世市川左團次の一座・・
   当時「團・菊・左」(九世市川團十郎、五世尾上菊
   五郎、初世市川左團次)と称された人気役者の一座
   だった・・大盛況・・
   劇場内はつま先立ちで・・入場できなかった人は帰
   りかねて劇場の前にたむろしていた。
   続く6月の公演も左團次一座が勤めた。
.
1897年5月27日、東京鉱山監督署長が、足尾銅山に対して
 鉱毒除防工事命令を出した。
  足尾銅山鉱毒予防工事命令は、1897年5月27日付で、
 古河市兵衛に伝達された。
  その工事内容は、第1回(1896年12月)、第2回(1897
 年5月13日)の予防工事命令とは、比較にならない規模の
 ものだった。
  東京鉱山監督署長によるこの命令書は、37項から成り、
 その主とするところは、「亜砒酸及煙媒を凝結降沈せし
 め、且、硫酸製造又其他脱硫の方法を以て亜砒酸瓦斯を
 除却」する脱硫塔、「沈澱池濾過池」、「泥渣堆積所」、
 「畑道及大烟突」等々の建設であった。
  そして、これらの建設を、期限をきって義務づけ、37
 項に、「此命令書の事項に違背するときは直に鉱業を停
 止すべし」としていた。
  明らかに、この命令書は、藩閥政府の意図に沿った鉱
 業継続を前提にしたものであった。
  とくに、この37項は、政府部内と農商務省内部の鉱業
 停止派、そして、被害農民への申しわけと、さらに、世
 論の鎮静化を狙いとしていた。
  この命令書がはらむ欺瞞と空洞性は、この予防工事の
 完成後、その命令責任者であった東京鉱山監督署長が、
 足尾鉱業所長に就任したことに、みごとに象徴されてい
 た。
  その内容について、類例のないこの予防工事は果して
 実効を収め得るものだろうか・・と、古河側すら危ぶむ
 ありさまだった。
  とくに、脱琉塔は、いかなる装置によるべきかは全く
 成案を欠き、確信のもてない古河の設計、そのまま承認・
 施工させるという、馴れあい工事だった。
  はじめ、古河側が危惧したようにその効果は薄く、脱
 硫装置に至っては全く機能せず、煙害は一層激化した。
  そのため製錬所の上流にある松木村民は、1901年1月に
 「煙害救助請願書」を政府に提出することになるが、結
 局、解決されずに、この年の暮に廃村となった。
  そして、古河は、最初の危惧をも忘れ去り、予防工事
 後は「足尾銅山に在る、脱硫塔は世界稀有の、殆ど、絶
 一の事業」と自慢し、以後は、完全に開き直ってしまっ
 た。
  この工事に要した費用は、賃金47万円、材料費42万円、
 食料雑費15万円、総計104万円で、その一部の資金は、
 第一銀行の渋沢栄一の融資でまかなった。
  この鉱毒予防工事命令の発動を、被害農民たちは、ど
 のように受けとったか・・
  多くの被害農民たちが、みずからの闘いの成果として
 受けとめた。
  被害農民の一人、永島与八は、「我々の願うところは
 防禦ではなく停止にあるとしながらも、
 長年の間、田中代議士が東奔西走身を挺して運動を続け、
 議会において幾度か血涙を揮って政府に質問を為したこ
 とが刺激となり、一方、「我々被害民が生命がけで運動
 したことが動機となって、ともかくこれだけの命令を下
 した)」としていることに、それが伺えた。
.
1897年5月、井上哲次郎らが、大日本協会を設立して、雑誌
 「日本主義」を創刊した。
  政府の欧化政策に対する反動として起こった国家主義
 思想で・・日本古来の伝統的精神を重視しようとした。
  欧化主義・民主主義・社会主義に反対しながら、日本
 古来の伝統や国粋を擁護しようとした思想、運動・・
  思想的には一定の体系を成しておらず、その内容は、
 論者によって相違するが、政治的には欧米協調主義への
 反対と国権・対外強硬策の強調を主張した。
  井上哲次郎のぼか、三宅雪嶺高山樗牛らによって提
 唱された。
.
1897年5月、緒方正規が、ペスト菌がネズミのノミによって
 媒介していることを発見した。
  緒方正規(おがたまさのり、1853年12月5日~1919年
 7月30日(65歳没)
  肥後国八代郡河俣村小字鶴(現・熊本県八代市
  衛生学者、細菌学者
  東京帝国大学医科大学学長、東京帝大教授。
  日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した。
  長男の緒方規雄は細菌学者、次男の緒方益雄は衛生学
 者。
  1880年、東京帝大医学部を卒業。
  1881年、ドイツのマックス・フォン・ペッテンコーフ
   ァーのもとへ留学、
   ミュンヘン大学で衛生学を学んだ。
  1882年、ベルリン大学で、ロベルト・コッホの弟子で
   あるフリードリヒ・レフラーに細菌学を学ぶ。
  1884年、帰国。
  1885年、東大医学部の衛生学教室と内務省衛生試験所
   に着任し、衛生試験所に細菌室を創設。
  1885年、北里柴三郎にドイツ留学を勧めて、レフラー
   宛に紹介状を書く。
  1885年、脚気病原菌説を発表。
   ドイツ留学中の北里は、この学説を批判した。
   現在、北里の批判が正しかったことが分かっている。
   この事件によって、北里は、東大の医学部と対立し
   続けることになる。
   赤痢ペスト菌の研究でも二人は対立しあう。
   研究面で何かと対決することが多かったが、私生活
   では晩年まで交流が続く。
  1886年帝国大学医科大学の衛生学初代教授となる。
  1896年、台湾でペストが流行した時、現地調査を行い、
   ペスト菌に対する北里の研究(1894年)の誤りを指
   摘した。
   北里が単体分離したと思っていた病原菌には、実は
   ペスト菌を含む2種類の菌が含まれており、この誤り
   を北里は認め、自説を撤回した。
   また、ペストは、ネズミのノミを媒介として流行す
   ることを証明し、ドイツの専門誌に発表した。
  1898年、医科大学学長を勤める。
   東京学士会院会員、第5回日本医学会総会会頭などを
   歴任。
  1919年、食道癌になり、静養していたが、気管支・肺
   に転移し、肺壊疽も併発し、1919年7月30日、死去。
  因みに、日本のペスト流行の初めは、1899年に、流行
 地の中国から侵入したのが初のペスト。
  この翌年、東京市は、予防のため一匹あたり5銭でネズ
 ミを買い上げた。
  ペストが、日本に侵入してから大小の流行が起こった。
  しかし、死亡が2420人に抑えられ、日本がペストの根
 絶に成功したのは、ペスト菌の発見者である北里柴三郎
 や、日本政府のペスト防御対策(特に、ペスト保菌ネズ
 ミの撲滅対策)にある。
  1926年以降、今日まで、ペスト患者は出ていない。
   北里は、研究者としてのみでなく、医療行政家とし
   ても極めて優秀だった。  
  1899年、北里の建議によって開港検疫法にペストが病
   原体として追加された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:韓国の謝罪がないのなら、韓国と妥協をするな!
    今回、韓国から謝罪もないのに、日本は妥協をした・・
.
1879年、琉球処分
  琉球の島民66人が台湾に漂着した時、その54人が殺さ
 れるという事件が起きた。
  この解決に際して、中国・清は、台湾の民を「化外の
 民(けがいのたみ、中国の国家統治の及ばない者たち)」
 と日本へ回答した。
  この琉球処分の時も、中国・清は、琉球島民を日本国
 民と認めた。
  日本は、そこで、1879年(明治12年琉球を日本領土
 とし、沖縄県を設置した。
  NHKの高校講座では、この様な事はまったく放送し
 ない・・中国の事ばかりを放送するという偏った講座と
 なっている。
  中国に偏するNHKとなっていて、高校生を洗脳して
 いる。
.
1882年7月23日、壬午(じんご)事変
  興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現:
 ソウル)で起こった。
  閔氏政権が進める開化政策に不満をつのらせ・・
  また、朝鮮政府が日本人教官を採用して訓練した新式
 の軍隊を優先することへの不満から朝鮮の『旧軍隊』が
 反乱を起こした。
  この時、中国・清は軍隊を出した。
  日本も出したが、清は介入して事変を鎮圧し、そして、
 この事態に乗じて朝鮮政権にあった大院君を自国・中国
 へ連れ去った・・大介入だった。
  そして、閔氏政権を復活させてしまった。
  中国・清は、内政干渉以上の介入を強烈に行なった。
  日本は、この様な事態を憂慮し看過できなかった。
  日本より優れた軍事力を持つ中国・清国、この時、緊
 急的な日本の軍事力整備の必要性が痛感された。
  この年・1882年8月15日、山県有朋は「財政の議」を
 太政官に建議した。
  日本の望ましい軍備は、日本と直接関係ある列国(中国・
 清を指している)との比較からいった場合、軍艦48隻、さ
 らに運輸船若干であり、そして、これを東西の二鎮守府
 に分けて配備する必要があるとした。
.
1883年8月と1885年4月、清仏戦争
  中国・清国が、フランスに対して武力に訴えてまでし
 て安南(ベトナム)との宗属関係(冊封体制)を守ろうと
 した。
  当時、この清国のこの行為が、日本にとって衝撃的だ
 った。
  日本のマスコミもこれに大きく関心を示し・・この詳
 細が、当時、日本で報道され続けた。
  日本は、軍拡する清国が、この様な行動をとることに
 より「切実な問題」として捉えていた。
  この当時、一触即発の状況下にあった。
  1885年4月、イギリスは、この様な一触即発の事態に備
 える目的で、「巨文島を占領する」という挙に出た。
  巨文島(こむんとう)は、半島の南、朝鮮海峡上の要
 衝を占め、全羅南道済州島を結ぶ水路の中間にある島
 で・・
  英露両国の対立が、当時、イギリスの保護領化されて
 いたアフガニスタン地域をめぐって顕在化していた。
  ロシアも、朝鮮半島北部の日本海側に位置する元山(ウ
 ォンサン、ポート・レザノフ)を奪い取ろうとしていた。
  この様な危機が、日本の周りに、現実的に目に見えて
 いた。
  また、英露は、これに伴ってこの地域に有利な制海権
 を築こうとしていた。
  (状況)領土的野心を持つ欧米列強諸国の中のフラン
     スは、1840年頃より、ベトナム阮朝)に対し
     て、その行動が始まっていた。
      1858年~1862年のコーチシナ戦争で、フラン
     スはベトナム阮朝)が南部に設置していたい
     くつかの行政区を武力併合した。
      そして、それらを統合して仏領コーチシナを
     形成し、東南アジアの進出の拠点とした。
      侵略し、領土を奪おうとする欧米列強諸国だ
     った。
.
1884年12月、甲申政変(こうしんせいへん)が起きた。
  これはクーデターで、朝鮮・韓国の開化党らが、中国・
 清の影響下にある閔氏打倒のために起こした。
  この後、朝鮮国王のアドバイザーとして、中国・清は、
 袁世凱を駐剳(ちゅうさつ)朝鮮総理交渉通商事宜として
 派遣した。
  この様にして伝統的な宗属関係(冊封)を越えて、権
 力的な関係に再編強化した。
  この様に中国・清も直接的に加わって、朝鮮の周りに
 不穏な情勢が渦巻いていた。
  中国・清は、朝鮮・韓国へ駐剳朝鮮総理交渉通商事宜
 を送って、朝鮮・韓国の中国人商人たちの商業活動がう
 まくいくようにし、関税を壟断(ろうだん、利益や権利
 を独り占めに独占する)した。
.
1885年4月15日、イギリス東洋艦隊が、朝鮮の巨文(くもん)
 島を占拠した。
  イギリスが、巨文島を占領した時、イギリスは、中国・
 清の許可をとった上で実行した。
  この事は、当時の日本に「大きな衝撃を与えた」。
  朝鮮、韓国の独立性は、「第三国もその独立性を認め、
 認め合うことが大事で必要」と日本は見ていた。
  当時の様な、中国・清の冊封体制によっての韓国・朝
 鮮の属国化による占有化は異常事態と見ていた。
  その様な立脚点が、巨文島占領におけるイギリスの中
 国・清への許可を求めたことによって否定された。
  この様な事態の推移から、ロシアの「朝鮮・韓国の港
 湾などの占領」の可能性も高まったからだった。
  イギリスは、自らの帝国主義的行為の実施に、中国・
 清の冊封の従来の宗属関係を利用したのだった。
  また、中国の従来の宗属関係は、ロシアの朝鮮占領の
 可能性を作り出す恐れを作っていた。
  朝鮮・韓国に、この様な事態が起きることを山県や西
 周は憂慮していた。
  そして、英露の対決の事態、懸念、危険性が生じて来
 た・・英露の対決が深まって行く。
  朝鮮における、中国・清の宗主権の主張は、イギリス
 やロシアに朝鮮侵入の契機を与えることになった。
.
1910年8月29日、日韓併合
  日韓併合の時点、韓国・朝鮮には公立学校は、たった
 100校しかなかった。
  日韓併合後、日本は、日本並みに韓国・朝鮮にしたい
 と誠実に、一生懸命に学校を作った・・その結果、1930
 年、の段階で、公立学校1500校も日本は創った。
  そして、1942年には、4271校の公立学校を作り・・
  しかも、鉄筋コンクリートの立派な学校を日本は作っ
 た。
  そして、立派なレンガ造もある。
  その点、日本は?と言えば、1950年になっても、日本
 の小学校は木造で、そんなに良い校舎ではなかった。
  日本は、誠実に、台湾と共に朝鮮・韓国も、日本の地・
 内地と同じような学校、または、それ以上の学校をを建
 てた。
  日本の内地と同じ(差別などない)統治をした。
  この事を韓国は感謝の意思を表明すべきである。
.
1937年8月13日、第二次上海事変
  表面上は、日本と中国の戦争のようではあるが・・背
 後からアメリカの大きな介入があった・・最近の資料開
 示で、そのことが明らかになった・・
  これが、第二次世界大戦の遠因となっている・・
  「日本が、中国で戦争を拡大させた」という批判は、
 安易な、また、物事をよく見ていない言い方である。
  一例を言えば、中国の上海という場所は、イギリス人
 などのヨーロッパ人や日本人が居た(租界と言った)。
  その租界に、各国は、その居留民を守るため、兵士を
 駐留させて居た。
  日本も、日本兵を駐留させて居た。
  戦争のための駐留ではない・・故に、僅かな兵力だっ
 た。
  しかし、この日本をターゲット(攻撃目標)に、中国
 は攻撃を仕掛けて来た。
  日本も鎮圧したが、深追いせずにいた。
  国際連盟から賞賛されたくらいだった。
  しかし、アメリカに支援された中国・国民党軍は、巨
 大な兵力で、また、攻めて来た。
  この攻撃する戦力のさらに外にも、アメリカに支援さ
 れた「巨大な戦力」を持った軍で、日本を二重に包囲す
 ることがなされるという状況で・・、
  戦争が、収まるという状況ではなかった。
  中国・国民党軍(蒋介石)を、アメリカなどが支援す
 る「何本もの援蒋ルート」の存在が、すべての問題の根
 幹で・・これが、戦争を止めさせないシステムだった。
  アメリカは、日本を徹底的に叩(たた)きたいのでこ
 の様な事をやった。
  中途半端におさめたくないアメリカだった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変・・日本租界に、中国軍が
 攻めて来たが・・
  NHKは日本を貶(おとし)めようと、内容は、日本が
 攻撃するというまったく逆の番組を作って放送する放送
 局だった・・
  NHKは「日中戦争は日本が始めた」と、まったく史
 実に反する番組を作って放送した。
  そのNHKの放送行為を批判して書いた本が「日中戦
 争、戦争を望んだ中国、望まなかった日本」(2008年、P
 HP研究所)だ。
  この本は、中国人歴史学者の林思雲氏も加わっている。
  NHKのプロパガンダの間違い番組が槍玉に挙げられ
 て、こてんこてんに批判がされている。
  NHKは、何しろ「何でも日本がやったとした」。
  中国は、まったく関係ないという番組だった。
  日本が好きに何でも日本の意向ですべて決まって行っ
 たとした。
  中国人歴史学者の林思雲氏は、こんな木偶の坊(でく
 のぼう)の様な中国人ではないと批判し指摘する。
  日本にされるがままの中国ではないという。
  中国を擁護するNHKは、逆に、「中国を無能な人形
 の様に扱っている」・・その様なところに気がつかない
 NHK。
  だから無能な中国に、「悪漢の日本」がしたい放題に
 できたという「低劣・劣悪な番組の筋となる」。
  NHKは、日本さえ貶めれば良いと思っていた。
  ただそれだけだった。
  真実を探ろうという本筋は消えている。
  林思雲氏は書く・・
  「中国人から見ると、この様に片方だけに戦争責任を
 求める論法には傲慢さが含まれている。
  即ち、日本を日中戦争の主導者と見なし、日本が戦争
 を拡大しようと思えば拡大でき、拡大させまいと思えば
 拡大させぬことが出来たのであり、戦争の方向は日本の
 意思でコントロールできたと言うものであるが、自発的
 に進んで戦おうとした中国人の意思が軽視されている。
  この様な見方は、当時の実情に符合しない。
  実際には、当時の日本は、決して戦争の方向をコント
 ロールしていなかった。
  中国側において自発的に日本と戦おうとする意思が高
 まっている状況では、たとえ日本が戦争を拡大したくな
 くても、中国側は日本と全面戦争を開始したであろう」
 と書く・・
  林思雲氏は、日中戦争は、日本の意思で起こったもの
 ではなく、中国人が日本との全面戦争を決意し、自発的
 に戦う意思を持っていたことで起こった・・と説明して
 いる。
  NHKは、日本を貶(おとし)めたい一心でこの様な
 まったく逆のプロパガンダの筋の番組を作ったが、史実
 を捻じ曲げてまでこの様な行為をする「とんでもない放
 送局となっている」。
  大量の資金と武器を、中国は、アメリカから支援され・・
 ドイツからは、軍事的な指導者を招き入れ、トーチカの
 防御陣地群を作ってまでして、まったく寝耳の日本租界
 を襲って来た・・この第二次上海事変から日中戦争の泥
 沼戦争が始まった。
  アメリカに支援されているから延々と戦いは続いた。
  第二次世界大戦の遠因になって行った・・
     ・
     ・
1947年、戦後の日本に、新しい憲法が発布した。
  戦争の後、日本を占領したアメリカは、戦争前からの
 日本の政府を「存続したままにした」。
  また、憲法も変えずに「そのままにした」。
  戦後も、大日本帝国憲法の国が存続していた。
  その体制がしっかりしていたので、アメリカはそのま
 まにする方が有利りだとした。
  アメリカは、この日本政府へ指示を出して色々なこと
 をさせた。
  日本国民は、この様にして、アメリカの支配を受けて
 いた。
  戦争が終わった後の1945年、1946年、1947年に渡って
 大日本帝国の日本が存続し、その日本に、海外に居た元
 日本兵や一般人の400万人〜500万人の人たちが一斉に帰
 国した。
  それまでは、乏しいながらも流通していた食糧の流通
 がこの時に至って途絶えた。
  それまでは、食糧はある程度は回っていて、食糧はあ
 った。
  流通も動いていて、犯罪もほとんどない社会だった。
  しかし、交通網は麻痺する社会となった。
  流通は途絶えた。
  食糧難が起きた。
  そして、アメリ進駐軍の性的犯罪が氾濫した。
  1946年が最悪だった。
  その翌年もまだ大変だった。
  1948年に、少しずつ回復の兆(きざ)しが見え、日本国
 民は耐えた。
  この様にして復興した日本に『韓国は金をせびる』。
  まったく関係のない事柄に、言いがかりを付けて来る・・
     ・
     ・
1989年9月、日米構造協議が始まった。
  そして、この協議開始と時を同じにするように、何故
 か?『日本のプラス成長』も止まった。
  1989年9月、第1回の日米構造協議が開催された・・悪
 夢の始まりだった。
  これは、日米両国の次官級の経済協議であるが・・
  1989年7月の日米首脳会談において、ブッシュ大統領
 宇野宗佑首相によって合意され、そして、始められた。
  この頃、日本経済が好調で・・
  1985年9月に、プラザ合意がなされて・・
  これ以降、日本は努力し、「円高・ドル安の為替調整」
 の方向へ動かし・・
  また、日本は、内需拡大の努力も行った・・
  しかし、アメリカ側の努力が足りずに、アメリカの対
 日貿易赤字が縮小しなかった。
  そのため、アメリカは、日米構造協議という名目で、
 この事態を改善したいと日本へ言って来た・・
  年間500億ドルのアメリカの対日貿易赤字は減らないの
 だった。
  1989年の日米首脳会談で、ブッシュ大統領は、このこ
 とを言った「日米間の貿易不均衡に端を発した日米貿易
 摩擦で、この解消を目指した協議」をしたいと、そして・・
  1989年9月、第1回協議は・・開催された。
  そして、それ以後・・2か月に1回、会議は開催された・・
  1990年6月に至って「最終報告」がまとめられた。
  この報告は・・
  日本は、1991年から10年間で公共投資を430兆円へ拡大
 せよ・・
  また、大規模小売店舗法規制緩和を行なえ・・
  系列取り引きの排除・・などを行なえ・・となった・・
  1991年5月に至って、第1回の追補年次報告書が作成さ
 れ、アメリカは「日本市場は開かれてない」と言った・・
 日本は「閉鎖的だ」と言い、「商法などの改正も行なえ」
 と要求した・・そして・・
  1991年以降も、フォローアップ(事後点検)会合が開
 かれた・・
  1992年7月、第2回の追補年次報告書が作成され、最終
 報告に盛込まれた措置の進展状況に関する再評価が行わ
 れた。
  これに加え、第2回年次報告書には、1992年1月の日米
 首脳会談での日米構造協議の再活性化に関する合意をふ
 まえた両国のビジネス環境に対処するための新たな取決
 めが含まれた・・そして・・
  1993年1月にビル・クリントン政権になって、G・H・W・
 ブッシュ政権時代の日米構造協議のかわりに「日米包括
 経済協議」としたいと言って来た・・
  より厳しい要求を日本へ掲げて来た・・
  これは、「構造問題と個別の産業交渉」を組み合わせ
 て日本を変ようという要求で・・アメリカに良好な状況
 を作ろうというものだった・・そして・・
  1993年夏以降、その日米包括経済協議は始まった。
  1995年に、自動車が・・そして・・
  1996年に、フィルムが・・、
   世界貿易機関WTO)への提訴という動きも起り、
   摩擦が起こりながら、難航した。
   その後・・日米間の経済協議は・・、
  1997年から、日米規制緩和対話となり・・
  2001年、「成長のための日米経済パートナーシップ」
   となり・・、
  2002年から、「規制改革イニシアティブ」・・などと
   なり・・話は続いている・・
  建前は、「お互いに構造問題を指摘し合う」というも
 のだったが・・アメリカの要求ばかりが強すぎる会議と
 なっている・・
  表題:日米両国の対外収支の不均衡是正に向けてマク
 ロ経済の政策協調努力を補完するものとして、日米双方
 が相手国の構造問題を指摘し合い、みずからが必要と考
 える構造改革に取組むことを目的とする協議・・と美し
 いが・・
  1990年7月の最終報告で・・「日本側措置として、公共
   投資の拡充、大店法および独禁法の改正策」などと
   なり・・
   「米側措置として、財政赤字削減、競争力の強化」
   などが最終報告書に盛込まれ、発表された。
  (このアメリカの財政赤字削減は達成されていない)
  この協議は、まったく不公平な協議であった。
  完全に日本に対して、見下す的な、要求の多い協議だ
 った。
  日本は、アメリカの強硬な要求に応ずるしかなかった。
  アメリカは、基礎的な経済学の原則すら完全に無視し、
 屁理屈理論を一方的に強弁した。
  言い掛かりばかりの発言で、協議の体のなさない協議
 だった。
  「日米間の貿易赤字が存在する理由の大部分は、日本
 のアン・フェア・トレード(不公正な通商政策)にある・・
 とされた。
  これを直ちに是正しないと、日本企業に厳しい制裁を
 加える・・とされた・・
  制裁が嫌なら、アメリカの財とサービスを日本が強制
 的に購入せよ」・・とされ・・この様な一方的な要求と
 恫喝が行なわれた・・
  経済学のロジックを完全に無視するアメリカだった。
  「日米構造協議」は命令だった・・
  または、命令に近い指導(強要だった)・・?
  アメリカの冷酷で利己的な金融業者の発言権があり・・
  また、投票権が与えられ・・
  彼らに、日本企業の経営や人事まで介入させるという
 状況で・・
  この様な状況ならば、日本の雇用関係と人間関係は破
 壊されて行く・・という結果となった・・
.
2004年7月、NHKのチーフプロデューサーの磯野克己が、
  制作費を着服した。
  (1996年~2001年で約4888万円)
  その後の報道で、1億円以上という多額となった。
.
2007年、『性奴隷などというものは存在しなかった』とい
 う調査結果が出ていた・・
  2007年に、すでに、「性奴隷」は存在しなかったとい
 う調査結果を受け取っているにもかかわらず、それを無
 視して、在米中国人団体が慰安婦像を立て始めた。
  アメリカの中国人団体の「この像を建てる目的」は、
 『日米韓を離反させる』ためだった。
  慰安婦のオモニ(おばさん)と自称する人が叫んでい
 た「2度と再び日本を立ち上がれなくする」・・そのた
 めの情報戦略の一環だった。
  これは、「伊藤博文を殺害した安重根記念館を作る」
 と韓国に持ちかけた工作と・・絡んでいた。
  はっきりと「20万人強制連行」という行為が、報告書
 によって、慰安婦像をつくる前から『否定されていて』・・
  一方、諸外国に『韓国は、ただの売春婦と、外国要人
 を殺害したテロリストの銅像を建てる国』という印象を
 与えてしまう事を恐れた(事実がその通りなのだが・・)
  韓国の信用を毀損してしまうという事が起きている・・
  騒いで世界の注目を集めて、一方、その事実を世界が
 知ると・・その韓国の嘘・韓国のデッチアゲが分かって
 しまい、信用失墜となる心配があった。
  日本は、『根拠の無い主張』がなされている像によっ
 て、「在米住民同士が対立するという懸念がある」と表
 明した・・像を建立するアメリカの各自治体へ建立中止
 行動をすべき・・
.
2017年07月15日、日本を裏切り続けるNHK
  貴方のNHK受信料が、日本を貶(おとし)めるために
 使われています。
  日本を貶めるために作られている「外国で発行される
 冊子」に使われています。
  NHKは、「その様な団体へ金を渡し、支援していま
 す」。
  外国で発行している「日本を貶(おとし)めるフリー
 ペーパー」に、NHKは、貴方のNHK受信料の金を出
 して支援している・・スポンサーになっている。
  日本を裏切る行為をしているNHKとなっている。
  日本を貶める番組を外国へ送る行為もしているNHK
 だ。
  海外に居る日本人が、その様なNHKの提供した番組
 を見て、びっくりして連絡をして来た。
  こんなNHKの受信料を支払うのは「止めましょう」。
  (資料)
  日本を貶めるフリーペーパーのスポンサーに『NHK
 も名を連ねる』 
  欧州の『反日』フリーペーパーはこんなにヒドい…
  2017年07月15日 03:00
  前衆議院議員 杉田水脈 月刊正論8月号
  4月と5月に大統領選挙の取材で出かけたフランスで、
 私のツイッターを見たパリ在住の女性から相談が寄せら
 れた。
  早速お会いして話を伺うことになりました。
  彼女は30代。
  現地でフランス人と結婚し、仕事をしています。
  住み始めて15年になるそうです。
  社会保障の話なども詳しく伺ったのですが、私が最も
 びっくりしたのは彼女が持ってきてくれた一冊のフリー
 ペーパーでした。
 この「ZOOM JAPON」という名のフリーペーパ
 ーは、2010年6月創刊。
  フランス語圏において、日本の文化的情報を総合的に
 発信する唯一の無料月刊誌とのことです。
  現在、フランス国内約850ヶ所に配布拠点があり、
 フランスを中心に毎月7万部、多い時には15万部も発行
 されています。
  英語、イタリア語、スペイン語にも翻訳され、ヨーロ
 ッパ中で配布され、JAPAN EXPOや国際旅行博
 覧会の会場をはじめ、多種多様な日本関連イベント会場
 でも積極的に配布をされています。
.
2017年、理化学研究所の改革の必要性・・
  国の最高の研究機関と言われる理化学研究所の研究発
 表会へ行った。
  そこで得たパンフレットのデーターを見て驚いた。
  今回、初めて見た理研のデーター(一部)だったが・・
  (理研のパンフレットでその様なデーターを見るは初
 めて・・)
  それまで、理研のイメージは、国の最高研究機関で「
 すごいのではないか」と思っていた・・が・・
  しかし、その先入観は打ち砕かれた・・
  それまで思っていたイメージのものとは「真逆だった」。
  そのパンフレットに書かれていたその数値は、イメー
 ジしていた数値とあまりにもかけ離れた「低水準さだっ
 た」。
  理研の予算は約1000億円である・・しかし、その研究
 成果である特許料収入は3億円である・・少なすぎる・・
 0.3%の特許料収入である・・驚くべき低水準のパーセン
 テージである・・一桁・二桁違う・・自分の研究費ぐら
 い自分で稼げ!
  これでは、一緒に共同研究をしている企業は儲かって
 いないで困っているなと思えた・・理研との共同研究は、
 逆に、「お荷物だ」くらいに思われているのではないか
 と思えた。
  また、特許の出願件数が、国内出願・海外出願を合わ
 せて年間400件である・・これも非常に少ない・・研究員
 数は3014名、その他職員を含めて3531名である・・
  つまり、研究職の約10名が、「たった1件の特許を、1
 年間かけて出願している」という数字である・・
  ほとんどの研究職員が、肝心かなめの「特許出願をし
 ない研究員」ということになる。
  『10人中9名が特許も出さない研究員』・・
  「国を富ます知的財産権・工業所有権を得る大切さを
 理解しているのか?」・・と言いたい・・
  『ほとんどの研究員が遊んでいるのではないか?』
  また、『特許のひらめかない欠陥研究員ではないか』
  1年間あれば、1名が4~5件の特許の出願くらいは普通
 は出来るはずである・・
  10名居れば「40件~50件の特許が出願できる」はずで
 ある・・この低率さに非常に驚く・・
  今は、多項制の特許出願ができるので、その特許出願
 の価値はこの数倍となる・・
  (この多項制の特許にも気付かねばならない・・ひら
 めかなければならない)
  そして、『研究論文数も少ない』・・
  年平均2510論文である・・
  研究員数が3500名以上であるので・・
  これは、1年間、研究を行なって来た研究員が、その研
 究成果の論文を、『まったく何も出さない』という者も
 多く居るという数字となる・・
  研究成果をまとめて論文にすることもしない・・特許
 も出さない・・という姿が見えて来る・・
  ただただ、研究費の消費だけとなる。
  『まったく呆れる』状況に見える・・
  最低、論文は、1年間に1件は出さなければ、自分の研
 究成果をまとめる事をしなければ、資格剥奪ぐらいにす
 べきである・・
  『何もまとめるべき研究成果が無い』という事となる。
  論文が出せないというのであるのならば『失格である』。
  1000億円の予算を消費する理化学研究所・・それへの
 研究投資は、改革すべきところが多々ある課題である。
.
2018年、中国には、農村に戸籍を持つ者(農民工)がいる。
  2018年には、2億8836万人と中国国家統計局が発表して
 いる・・全人口の約2割・・
  平均月収が、3721元(約6万2000円)
  1980年以降に生まれた新世代農民工は、農民工全体の
 約51.5%を占めた。
  しかし、農民工の平均年齢が40.2歳と高齢化が進んで
 いる。
  都市と農村という二元的な管理構造を持つ中国で・・
 格差が生じている・・
  1980年代の半ばまで、都市労働者について一律いわゆ
 る「固定工」システムがとられ、学校を卒業すれば、国
 から職が行政的に分配された・・
  そして、基本的に定年まで、その職場で勤務が出来た。
  都市労働者の就業は、基本的に国によって保障されて
 いた。
  これが出来るのは、農村からの人口移動を戸籍制度に
 よって厳しく制限し、都市を閉じられた空間に出来たか
 らだった。
  中国の発展のカラクリは、農民工という差別した人々
 を存在させていることだった・・
  安い労働力の供給源となっている。
  その安い労働力を使いたいと、外国企業が中国進出し
 た・・これが「世界の工場となった中国のカラクリ」・・
  中国へ進出した外国企業などの資本・金は、中国の外
 へ持ち出せないとされた。
  だから、いくら中国で儲けても、その中国で儲けた金
 が、中国外へ持ち出せないようにされていた。
  結局、中国へ進出した企業は、名前だけは進出した企
 業名ではあるが、中国の中だけでの再投資しかできない
 ので、『中国の発展に尽くすだけの企業』となり、さも、
 中国企業と同じような立場となる・・
  中国発展だけに尽くすだけの企業となる。
  中国進出の企業は、必ず、中国企業との合弁の形をと
 らされる。
  これは、進出企業の「総べてのノウハウを奪う」とい
 う目的だった。
  それまでに培(つちか)ったその企業のすべての美味
 しい技術などのノウハウが盗られてしまった。
  中国の発展を、さらに補強するため、中国は、あらゆ
 る手段を使って「外国の知的財産を盗む」。
  その為には、国際法も無視し、ネットを通じて盗んだ
 り、中国人学者を学生として外国の大学や研究所へ送り
 込んだりしている(産業スパイ)
  大学や最先端研究所へ、日本の最高の研究機関である
 理化学研究所にも大勢来ている。
  外国への拠点づくり、中国は、自国の土地は外国人は
 所有できないが、外国は、その逆で、「中国人は、外国
 の土地を買って、所有する」・・そのことを許している。
  そこで、中国は、国家として(表は、個人として)外
 国の土地を世界中で買っている。
  そこで、中国へ進出した企業にした逆のことをする。
  それは、その外国で、『中国企業だけの商サイクル』
 をつくり、利益を中国本国へ送っている。
  中国が進出した国(日本など)の利益は無く、その国
 に経済的に貢献していない。
  今まで華僑として個人がしていたことを、中国という
 国家が、『国家規模でやり出した』。
  そして、国家がやるから規模も壮大だし、必ず、利益
 は、『すべてが中国へ還元される』。
  「世界のトップの頭脳」を中国の国家が、目の飛び出
 る金で招聘する。
  また、優秀な学生を、目の飛び出る様な給料で募集す
 る。
  これは、今までアメリカがやっていたこと。
  今までのアメリカの発展を、中国は、これで奪おうと
 考えている。
  民間の力でやるのではなく、人民元がいくらでも刷れ
 る中国という国家が、これをやる。
  人民元を「固定相場制もどき」にしたところに問題の
 根本がある。
  中国は、この為替の利点を享受して来た。
  アン・フェアな形で世界に入って来た。
  それを中国に許してしまった。
  中国を、公正なシステムの中へ戻せ。
  この国の事だから為替操作をするだろうが、形は公正
 にしなければならない。
  ここで「ある情報」・・
  中国側の厳しい規制にもかかわらず、香港やベトナム
 ラオス、ロシア国境など、中国と陸続きの税関において、
 毎日のように何回も入出国を繰り返す運輸業者、旅行業
 者、行商人、国境を越えて通勤する一般人などの中には、
 多額の現金を数回に分けて合法的に中国国外へ持ち出し・
 持ち込みを請け負っている例もあるという。
.
2019年12月8日、中国びいきのNHK・・
  デジタル人民元のNHKの解説は、完全に中国の側に
 立った解説だった。
  中国を『正当だ』とし、中国がやっている方向は『未
 来的だ』と美化ばかりするNHKとなっていた。
  この様なNHK・・「NHKが良い放送局か」の調査
 をした結果、5ポイント低下して5割を割ったという報告
 がある。
  イギリスのジョンソン首相が、公共放送のBBCの「
 受信料を廃止する」と示唆した。
  日本の公共放送と言われるNHKも「受信料を廃止に
 すべきだ!」。
  2019年12月12日、ジョンソン首相は、世論調査でも不
 満が多数を占めていると認識していた。
  そして、この日に投開票されるイギリス総選挙を前に、
 ジョンソン首相は、受信料を撤廃することについて「必
 ず検討する」と発言した。
  イギリスでも、日本のように「若者のテレビ離れ」が
 起きているという・・その若者の批判が強いという・・
  NHKは、とり過ぎの受信料が余剰することによって
 「金があるから拡大する」というおかしな拡大が、不合
 理な拡大が続いて来た。
  余剰のNHKの受信料は、優良民放番組の支援へその
 余剰資金を与えるべきである。
  (民放には、NHKをはるかに超える優良番組が数多
 くある・・それを「より育てよ!」)
  この民放の有料番組へ、NHKの余剰金で応援せよ!
  NHKは、甘い体制の中で拡大だけを続けている・・
  大改革をしなければならない課題が多いNHKである・・
  イギリスは、公共放送の受信を「拒否できる権利」を
 検討している・・
  選択権を個人に持たせようとしている・・
  NHKは、公共放送は名ばかりで・・
  日本を貶めたり、キリスト教に偏した放送をしたり、
 中国が喜ぶ番組にしたり・・と・・
  どぶに捨てたいような放送局となっている・・
.
2019年、日本の技術立国の構築は『国是』である・・
   しかし、この事を裏切る日本の研究者ばかり・・
.
  日本の『技術立国は国是』である。
  これは知的財産権を確立することで成立する。
  日本の財産である知的財産権の特許などを構築して行
 くことが大切・・
  だからこそ、日本政府は、研究開発費を助成している。
  しかし、この行為を行なわない日本の研究者ばかりな
 のである。
  本来のやるべきことをしていない日本の研究者。
  技術研究会・技術発表会を聞きに行って、どこでも思
 う事は「技術立国の日本にしよう」と思っていない研究
 者たちの姿をそこに見る。
  結論を先に言えば・・知的財産権の特許などに関わり
 たくない・・「知的財産権の構築は大変だから」と逃げ
 ている・・研究時間が無くなる・・特許を出すのは大変
 だ・・など・・
  「知的財産権の一つである特許」なんてものは出さな
 いという研究者ばかりの姿を見るということになる。
  「質問をすると」言い訳ばかり言って逃げる研究者ば
 かりである。
  『研究開発者』という言葉があるが、この様な「研究
 開発者」にお目にかかる技術発表会に「ぶち当たること
 はない」。
  すべてが「研究者」である・・肝心の「開発」はやら
 ない。
  開発行為から逃げているから、開発が抜け落ちた研究
 者ばかりである。
  自分の研究行為から得た新規な知見から「さらにアイ
 デアを閃(ひらめ)かせて特許を得ようという段階を上が
 る者が皆無の研究発表会ばかりである」。
  これでは、我々・納税者の税金を食べているだけであ
 る。
  いつまで経っても税金を納税し続けるだけで、「いつ
 まで経っても日本の技術立国の実現が達成できる訳がな
 い」。
  この点の改善をしないと研究開発費を投入しても、そ
 の効果は上がらない。
  「特許が出せない研究者」は居る・・アイデアを閃(
 ひらめ)かせられない研究者は居る・・しかし、これは
 不適格者である。
  アイデアを豊かに「閃かせさせることができる開発者」
 も居る。
  しかし、アイデアを豊かに閃かせられる研究開発者な
 のに、面倒だからと、特許を出さないで「逃げている研
 究開発者も居る」。
  今・現在の日本の研究所や技術センターと称する所は
 この様な研究者ばかりである。
  研究開発費を配分する評価システムが悪いのだ・・
  その様に指導する組織が、日本には組織されていない・・
 日本には皆無である。
  研究さえしていればOKという組織ばかりである。
  「肝心の技術立国への成果」を求めない組織ばかりで
 ある。
  日本の最高の研究所である理化学研究所をはじめ○○
 (名を伏す)や△△(名を伏す)などまったく甘い。
  理化学研究所に至っては、10人の研究者が1年に1つの
 特許を出願だけである。
  10人の研究者たちが、1年間に、よってたかってアイデ
 アを絞ったら1つしか、「アイデアが閃(ひらめ)なかった」
 という体たらくである(こんなんで技術立国が構築でき
 るわけがない)
  『肝心のアイデアを閃かせる業務=辛(つら)い業務』
 から逃げているからである。
  貴重な研究開発費を貰っている研究所は、日本では、
 こんな研究所ばかりである。
  「特許をもっと出せ」と言う憎まれ役が、各研究所に
 居ないのである・・
  各研究所に「この様なことを言う憎まれ役や部署を作
 れ!」。
  肝心な特許庁にも作ることである。
  現状は、皆んなが「仲良しグループになっている」。
  甘い研究体制で満足しているのである・・
  この点を「アメリカに学べ!!」。
  「知財権獲得の苦労話」がまったく出ない研究発表会・
 技術発表会ばかりである。
  質問すれば、「知りません・・業者に任せています」
 と、肝心の特許出願の行為を「他人事の様に言う研究者」
 の返事が来たこともあった・・
  いつまで経っても日本の技術立国は達成できない。
  中国に抜かれっ放しとなっている。
  この様な心の持ちようなら、魂胆なら、次の目標の「
 世界特許を目指そう」というより高い、向上心のある状
 況・気にもならないだろう。

2019年、アメリカで、日本を貶(おとし)める慰安婦像を
 建てているのは「中国人団体」であって、韓国系団体で
 はない。
  在米の中国人団体の影響・・
  「世界抗日戦争史実維護連合会」を参照のこと。
  古森義久氏によると、慰安婦の碑に関わった在米韓国
 人の団体は、慰安婦に関することを活動目標としていな
 い。
  この在米韓国人の団体は、規模が非常に小さく、設立
 して間もない団体でしかないという。
  米国における慰安婦像の建立の中心的動き・・
  従軍慰安婦碑の建立を、広範に、また且つ、積極的に、
 組織的に推進しているのは、在米韓国人の団体ではなく、
 「中国政府系」の在米中国人団体である・・
  その名は・・『世界抗日戦争史実維護連合会』である。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%81%AE%E7%A2%91#.E5.9C.A8.E7.B1.B3.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E4.BA.BA.E5.9B.A3.E4.BD.93.E3.81.AE.E5.BD.B1.E9.9F.BF
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)671E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)

題:(増補版)671E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年5月1日、京都帝国博物館(後の京都国立博物館)が
 開館した。
  当館は、主に、平安時代から江戸時代にかけての京都
 の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示すると
 ともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。
  1888年宮内省に臨時全国宝物取調局(局長:九鬼隆
   一)が設置され・・
   日本各地の社寺等の文化財(当時の用語では「宝物」)
   の調査が行われた。
   その結果、京都・奈良には特に文化財が集中してお
   り、それらを収蔵保管する施設の整備が「急務」と
   された。
  こうして、当時の日本政府は、京都と奈良に国立の博
 物館を設置することにした。
  1890年、帝国京都博物館の建設地を東山七条の現在地
   に定めた。
   この土地は、方広寺(大仏)旧境内にあたる。
   東半が民有地、西半は七条御料地(旧恭明宮)で・・
   恭明宮は、明治初年の神仏分離後、それまで御所の
   御黒戸に安置されていた仏像や歴代天皇の位牌を安
   置していた施設。
  1891年、本館は、当初3階建てで計画された・・が・・
   この年に発生した濃尾地震で、レンガ造2階建ての建
   物が多く倒壊した。
   ことを踏まえて、平屋建てに変更された。
  1892年6月、博物館・本館は、片山東熊の設計になる煉
   瓦造平屋建てのフレンチ・ルネサンス様式で・・
   そして、この時、建築工事が着工された。1
   設計者の片山は、赤坂離宮のほか、奈良国立博物館
   本館や東京国立博物館表慶館の設計も行なっている。
  1895年10月、竣工。
  1897年5月、諸準備が整って、博物館が開館した。
.
1897年5月1日、総武鉄道佐倉駅成東駅間が開通した。
  1894年7月、市川駅佐倉駅間が総武鉄道会社によって
   まず、開通した。
  1904年4月、両国駅銚子駅間が全通した。
.
1897年5月4日、道府県に地方視学が設置された。
  視学(しがく)とは、旧制度の国家および地方教育の
 行政官で・・
  市視学・郡視学・府県視学がある。
  学事の視察、および、教育指導監督を行なった。
  地方の視学は、教員人事の実権を持っていた。
  1872年の学制によって始まり、後に、文部省、道府県
   郡、市に置かれた。
   戦時中に教学官と改称され・・
  1948年、指導主事に移行した。
.
1897年5月4日、中越鉄道の黒田仮停車場~福野駅間が開通
 した(17.2km)
  中越鉄道は、富山県で最初に開業した私設鉄道
  富山県西部の砺波(となみ)地方から産出される米な
 どの農産物を、伏木港へ輸送することを目的として地元
 の地主などを中心に設立された。
  当初、経営不振に陥ったが、明治末頃からの経済情勢
 の好転と、伏木港の改修による増強などを追い風として
 輸送量が増加し、経営も順調となった。
.
1897年5月9日、カナダで、日本人・中国人排斥法案が可決
 した。
  鉄道工事に両国人の労働者を使うことが禁じられた。
  1858年、ゴールド・ラッシュを伴って、サンフランシ
   スコや中国本土から金鉱を目指して移民が押し寄せ
   た・・この移民の波の後、カナダへの移住の波が続
   いた。
  1881年~1885年、10000人の中国人が、カナダ太平洋鉄
   道を築くために契約がなされた。
  1882年、アメリカが、カナディアン・パシフィック鉄
   道の中国人労働者に関する特別法を可決したため、
   アメリカに居た多くの中国人達はバンクーバーへや
   ってきた。
  1885年、人頭税が課されて、その流入を止める動き・
   カナダ入国が制限され始めたが、中国人の入国は衰
   えなかった。
  1886年、また、一方、鉄道がバンクーバーまで通じる
   と、森を切り開いて、街を造成するため多くの労働
   力が必要とされた。
   州政府は、自ら開拓することを条件に、中国人に10
   年間無償で現メイン・ストリートの160エーカーの土
   地を貸与した。
   これが、バンクーバーのチャイナタウンの発展する 
   きっかけになった。
  1890年代、チャイナタウンは拡大して行く・・
   白人の雇用を奪うものとみなされて来た・・激しい
   差別が始まった。
   バンクーバーのチャイナタウンは、トロントの次に
   カナダでは2番目に大きい規模へ・・
   この頃の中国人は、中国の習慣・風習をそのまま持
   ち込んでいた・・
   男性は辮髪、女性は纏足(てんそく)、広東語を話
   し、広東食を食べ、冠婚葬祭・宗教儀礼もすべて中
   国の風習・習慣のままだった。
  1897年、中国人の商人が、次第に新しい事業に投資し、
   チャイナタウンは大きく発展して行く・・
   バンクーバーの町づくりに大きく貢献していた・・
   しかし、すべての労働市場へは進出が出来なかった。
   主流社会からも外された・・差別がより広く見られ
   た。
   中国人には、投票権が許されていなかった・・しか
   し、差別に抵抗し、法廷闘争もした。
  1907年、バンクーバー暴動へ
   この年の始めに、アメリカ合衆国での転航禁止令に
   よって、日本人移民が、渡航先をアメリカからカナ
   ダに変更した・・そのため、カナダ入国移民が急増
   した・・これが背景となった。
   また、カリフォルニア州での、排日運動に刺激され
   た。
   1907年8月、「アジア人排斥同盟」が結成された。
   1907年9月7日、バンクーバー暴動が起きる・・
   排日活動家と中国人排斥活動家、政治家、白人労働
   組合は、「ホワイト・カナダ」をスローガンとして、
   仕事を奪われたとストライキなども組織し、集会が
   市公会堂で開かれた。
   東洋人移民の全面停止を訴えた・・
   人種差別的な演説会となった・・
   夕刻に開催されたこの集会に、数千人が詰めかけ、
   公会堂に入りきらず、建物前の道路で、州総督を模
   した人形に火をつけて燃やした。
   これは、総督みずからが所有する炭坑に、中国人や
   日本人労働者を多数雇用していたことに加え・・
   この総督は、この年の東洋人移民の制限する法律に
   拒否権を発動した・・このことへの反発だった。
   公会堂の中では、イギリス帝国を築いたのは「アン
   グロ・サクソンの血属だ」、東洋人の移民停止は「
   必要だ」と言う演説が次々行なわれていた。
   そして、公会堂の外の群衆が、9000人に膨れ上がっ
   て、チャイナタウンへ向かってデモ行進(押し寄せ
   る)し、差別的スローガンを叫び、投石し、暴徒と
   化して行き・・
   資産を壊し、中国人街に隣接する日本人街へも押し
   寄せ、投石し、店から略奪もした。
   夜半まで3回ないし4回・・行われた。
   日本人街は抵抗をした・・これを、新聞が「排日暴
   動」と報道し、全カナダが注目した。
   また、新聞は、暴動を誘発した要因としてアメリ
   の排日運動の影響だと報じた・・
   暴動は、アメリカ人が扇動した排日運動によって引
   き起こされたと一貫して報じた。
   イギリス政府は、それまでのアメリカの排日運動に
   批判的だったが、これで面目を失った。
   「カナダの政府および国民を非難することなく、同
   時に、同盟国である日本を傷つけることなく、自己
   の立場を擁護するために」選んだ責任転嫁だったこ
   とを認めた。
   カナダ政府は、日本へ特使を派遣した。
   日本政府は、毅然と遺憾の意を表明し、賠償を求め
   た・・
   また、それに、早急な対応をしたカナダ政府は、損
   害賠償として、日本人被害者に9000ドル、中国人被
   害者に26000ドルが支払われた。
   中国人の大多数は社会の下層にいた。
   職業選択においても差別された・・選択できる仕事
   は、給料の低いサーモン加工工場、家具製造場、農
   場、クリーニング業、飲食業など・・
   法律や医療関係は従事しては駄目とされていた。
  1923年、中国人労働者とその家族のカナダ入国を禁止
   する「中国人排斥法」が制定された。
  1947年、「中国人排斥法」が廃止されるのはこの年・・
   中国から家族を呼び寄せられるようになった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教は、ビックバン説ができるとその説に乗っかって・・キリスト教の神・創造主が宇宙・地球を創った時だとしたが・・
    宇宙に始まりがあるという考えに、アインシュタインは否定的だった。
.
紀元前180億年、ビッグバンが起きた。
  ビックバン宇宙論によって導き出された一説の宇宙の
 爆発的膨張が始まった。
  観測で遠くの銀河が遠ざかっていることが観測された。
  それから、それを過去に戻ったところが「宇宙の始ま
 りだ」とした。
  ビックバンは、そうであるならその時は高温・高密度
 であっただろうとして出された説(物理学者の間で合意
 されたものではない)・・
  因みに、宇宙に始まりがあったという考えに、アイン
 シュタインは否定的・・
  キリスト教は、これがキリスト教の神・創造主の「宇
 宙創造だ」とこの説に乗っかった。
  しかし、そのキリスト教の神・創造主が創った宇宙・
 地球は、ダーウィンが証明した通り・・進化して来た。
  キリスト教の神・創造主の「創造が不完全であった」
  そのため、その修正がなされ、より適合したものへの
 進化がなされた・・と・・
  そして、今、人間は、今、ゲノムの技術を手に入れた。
  6日間でキリスト教の神・創造主が創ったその後を、
 人間の手によって、「より良いものがそのゲノム技術で
 創られている」。
     ・
     ・
     ・
紀元前35万年、ナウマン象が、日本列島に現れた。
  日本列島の旧石器時代は、日本列島へ人類が移住して
 来た時に始まり、その終りは1万6000年前である。
  最終氷期の時に、大陸と繋がった北海道だけはマンモ
 ス動物群が宗谷陸峡を渡って来ることが出来た。
  ナウマン象は、約35万年前に日本列島に現れ、約1万
 7000年前に絶滅した。
  長野県野尻湖遺跡の約4万年前の地層からナウマン象の
 骨製品がまとまって発見された。
  12万年前の島根県出雲市多岐町砂原にある砂原遺跡は、
 中期旧石器時代の遺跡である。
  岩手県遠野市の金取遺跡(9〜8万年前)から中期旧石
 器が発見されている。
  そして、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の
 採掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では
 知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
  日本の旧石器時代の調査・研究が始まるきっかけを作
 った相沢忠洋氏の岩宿での旧石器が発見され・・それ以
 降、日本列島の全域で4000ヶ所を超える遺跡が確認され
 ている・・そして・・
  これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の
 後期旧石器時代となる。
  日本列島の後期旧石器時代は、3.5万年前に始まり、縄
 文時代へ移行する1.5万年前までの「2万年間続いた」。
  遺跡は、樺太から沖縄まで約1万ヶ所以上が確認された。
  また、青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着
 した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代
 法で、1万6500年前と出た。
  北海道の何万年も続く旧石器時代・・
  そして、それに続く1万年以上の縄文時代弥生時代
 生きた本当の日本の先住民・・
  日本の本当の祖先たちは、この様な長い年月を北海道
 の地にも居た。
  その北海道の生活の痕跡は、本州奥羽地方などより、
 逆に濃いのだと古代史研究家の歴史学者(東大教授)は
 言う。
  わずかな年数・・最近の七百年前に、北海道に来たア
 イヌが日本の先住民であるはずがない。
  日本の政治家は、圧力に屈して「アイヌが先住民」と
 いう法律を作ってしまったが、これは間違い。
  この科学的に間違った法律は改正すべきである。
  また、圧力をかけた者は、「間違いを認めて、謝罪を
 表明すべきである」。
  また、この者たちへ数々の名目で渡した金は「その返
 済を求めるべきである」。
  その返還訴訟もすべきである。
     ・
     ・
紀元前12万年、日本の旧石器時代の始まり・・
  日本に人類が移住して来た時が始まり、旧石器時代
 無土器時代、先土器時代、先縄文時代ともいう。
  日本列島での人類の足跡は、12年前(島根県出雲市
 伎町砂原、砂原遺跡)がある。
  因みに、日本人の祖先たちは、舟に乗って海上をかな
 り自由に往来した・・それは、伊豆諸島や神津島産の黒
 曜石が、関東地方の後期旧石器時代の遺跡から発見され
 ている事からも分かる。
  また、特筆できることは、磨製石器の世界最古のもの
 が日本列島で製作されていて、かなり独自の文化が形成
 されていたと言える・・その年代は4万年前~3万年前。
     ・
     ・
紀元前16000年、縄文時代が始まった。
  日本の縄文時代の始期と終期については多くの議論が
 あるが、まず始期に関しては一般的に16000±100年前と
 考えられている。
  終期は概ね約3000年前とされている(諸説ある)
  縄文の人口は26万人、戦争が無い・・長期無変動文化。
  世界最古の縄文土器文明。
  森林と石清水の文明・・砂漠の文明とは違う。
  人々の暮らしの知恵、祭祀のあり方、建物の技術、社
 会構成、埋葬の形式などに一つの型が生じて、文化的同
 一性が形成された。
  海により大陸から切断された古地理的条件は、必ずし
 も人種の同一性を可能にはしないけれども生活文化の共
 通性と連続性を引き起こす可能性は高かった。
  稲作は縄文時代に始まっていた。
  森に覆われた湿潤な風土は体質と深く関係して(砂漠
 の文明とまったく違うものだった)
  日本は稲作が中心、他の地域は放牧と牧畜(牧畜と遊
 牧民)。
  東日本にはブナの森が広がり、他に楢・栗・胡桃(く
 るみ)、落葉広葉樹林に覆われ、縄文後期に杉林が拡大
 した。
  西日本には早くから杉林があり、ブナ・楢が退いて、
 代わりに樫・椎・楠などの常緑広葉樹林となった。
  「栗の栽培」はかなり早くから行われていた。
  また、「カキの養殖」も行なわれていた。
  日本の地と違い、ユーラシア大陸は民族が入り交じり
 戦争の世の中にあった。
     ・  
     ・
紀元前10000年、日本の稲の痕跡がある・・起源とされる
 中国の長江より古い。
  鹿児島県の遺跡では、12000年前の薩摩火山灰の下層か
 らイネのプラント・オパールが検出されており、これは、
 稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年
 代となる。
     ・
     ・
紀元前8000年、稲作の起源
  稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の
 約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国・長江
 流域の湖南省周辺地域と考えられている。
  (かつては、雲南省の遺跡から発掘された4400年前の
 試料や、遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺
 からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とさ
 れていた)
     ・
     ・
紀元前6000年、日本へ伝播するジャポニカ米の稲作が始ま
 る。
  長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析
 によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培
 されており、インディカ米の出現はずっと下るという。
  野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後に、
 その集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、
 インディカ米の系統が生じたと考えられている。
.
紀元前6000年~紀元前3000年、中国国内の稲作の伝播
  中国では、紀元前6000年~紀元前3000年までの栽培痕
 跡は、黄河流域を北限とした地域に限られている。
  紀元前3000年以降、山東半島先端部にまで分布した。
.
紀元前6000年、日本列島の稲作の起源となる地域=中国・
 長江流域で稲作が始まる。
  現在の南京や武漢の長江流域の下流域から中流域にか
 けて稲作が始まった。
  今・現在、遺跡や遺物の発掘や研究が進み、その日本
 までの稲作伝搬ルートが解明されつつある。
  その研究成果によると従来の各説のルートがほぼ一本
 のルートに絞られた。
  長江から遼東半島から山東半島の暖流にそって伝搬し、
 紀元前1000年頃、朝鮮半島へ伝搬する。
  そして、紀元前900年〜紀元前800年頃、日本の九州へ
 伝搬して来た。
  また、紀元前6000年頃、雑穀栽培が、中国の長春や瀋
 陽や北京辺りで始まり、
  紀元前3000年頃、朝鮮半島へ伝搬し、
  紀元前900年〜紀元前800年頃、稲作と同じ頃、雑穀栽
 培も日本へ伝搬する。
  今・現代、レプリカ法という方法で、土器についた穀
 物類の痕跡の解明・研究が進んでいる。
  日本列島の穀物の出現が、縄文時代晩期終末の紀元前
 8世紀〜紀元前4世紀に、イネと雑穀(アワ・キビ)がほぼ
 同時に出現したと知ることができた。
  今まで稲作の発生地と思われていた中国・雲南省から
 インド・アッサム州という説は消えた。
  朝鮮への稲作伝搬に時間がかかったのは、この地域に
 獲物が多く、狩が楽なため食糧に困っていなかったと考
 えられている。
  (参考)レプリカ法:最近の古代の研究に貢献したの
     がレプリカ法である。
      これは、土器についた圧痕から穀物の種類な
     ど、当時の食べ物が割り出せる様になった。
      また、プラント・オパールという目では見え
     ないガラス質の粒(土中にある)を分析して、そ
     のプラント・オパールの中に封じ込められてい
     る花粉などを分析する。
      この様な分析から木の実や猪や鹿を主食とし
     ていたことが確かめられた。
      日本の縄文時代早期にはすでに「ヒョウタ
     やアサを栽培していた」。
      また、縄文中期には「ダイズやエゴマを栽培
     していた」。
      また、「シソやゴボウなど、嗜好品を栽培し
     ていた」。
      そのプラント・オパールの分析で縄文時代
     期に稲作をしたという痕跡があるという(目下、
     研究中)。
      レプリカ法の良いところは、土器の圧痕を調
     べるというところから、混入とかのデータが乱
     れることもなく、また、土器の年代が確かなら
     その存在も確かとできる。
      長野県飯田市の石行遺跡からイネの表面の果
     粒状組織が鮮明な圧痕が確認された。
      この土器は縄文時代晩期終末である。
     縄文時代に稲作がなされていた。
     ・
     ・
紀元前6000年、日本の稲作栽培の証拠が発見された。
  日本では、陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の
 朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つ
 かった。
  (参考)プラント・オパール:植物は土壌中の珪酸(
     水に溶けたケイ酸塩)を根から吸収し、特定の
     細胞の細胞壁に蓄積しガラス質の細胞体を形成
     する。
      植物珪酸はイネ科、カヤツリグサ科、シダ植
     物、コケ植物において含有量の高いことが知ら
     れ、特に表皮細胞、樹木類の維管細胞と表皮細
     胞など蓄積されやすい箇所がある。
      ガラス質に変化した植物珪酸体は、植物体が
     枯死した後にも腐敗せず残存し土壌に保存され
     る。
      更に、植物体毎の特徴があることから種を特
     定することが可能であり、花粉と共に古植生環
     境を推定する手段として利用される。
      花粉は広域に拡散し局所環境の推定には向か
     ないが、プラント・オパールは飛散しにくく乾
     燥地や酸性土壌など花粉が遺存しにくい環境で
     も遺存するため、局所的な環境と植生の分析が
     可能である。
      特に、イネ科植物はプラント・オパールが残
     りやすく、稲作の起源を探る研究が精力的に行
     われたため多くの知見が蓄積されている。
     ・
     ・
紀元前3500年、日本への稲作伝播の証拠として岡山県の南
 溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつ
 かった。
  縄文稲作の証拠として、有力な考古学的証拠は、縄文
 時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同
 県津島岡大遺跡の土器胎土内から出たプラント・オパー
 ル。
  砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の
 土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時か
 ら混じっていたと考えられている。
     ・
     ・
紀元前3000年、中国・遼東半島で炭化した稲が見つかった。
  遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、
 朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。
     ・
     ・
紀元前2600年、日本の稲作を行なった水田稲作の遺跡が見
 つかった。
  水田稲作に関する約2600年前の菜畑遺跡の水田跡があ
 る。
  水田稲作の伝来経路としては、従来、「朝鮮半島経由
 説」「江南説(直接ルート)」「南方経由説」の3説がある
 が、現在も議論が続いている。
.
紀元前2500年、韓国の水田跡・・
  水田稲作に関して、約2500年前の水田跡が松菊里遺跡
 (韓国の西南部、忠清南道松菊里にある遺跡)でみつか
 る。
.
紀元前2000年、もともとは「黄河中流域にしか居なかっ
 た少数民族漢民族」が、今は、世界を制覇する民族に
 までなっている(黄河流域の農耕民)
  それは、武力を磨き、策謀を巡らして来た長い歴史が
 ある。
  漢民族の長い歴史は、他民族攻略の歴史だった。
  中国大陸は、多民族が蠢(うごめ)く地で、中央の政権
 を取った政権は入れ替わり立ち代わりめざましく代わっ
 た。
  「洗国(せんこく)」という相手の国を奪う方法は中国
 では古い昔から行われて来た。
  今、共産政権の中華人民共和国も盛んにこの方法を使
 っている。
  女真族(満州族) の多く居た地域に、日本は「満州国
 建国する援助をした」。
  しかし、今、その地は洗国されて、満州族の方々は居
 なくなってしまった。
  その地の名称も「中国東北部」と呼ばされている。
  本当は「中国東北侵略部」と呼ぶべき地域なのだ。
  そして、中国は、今、長い国境線を接するロシア(旧:
 ソ連)国境を超える浸透を諮(はか)っている。
  その「中国東北侵略部」からさらに北の地域を領土に
 しようとの行動をいている。
  今、ウイグルの方々が、大量に大勢の方々が拘束され
 洗脳教育をされているのも「洗国」である。
  ウイグルの国を無くそうとしている。
  今、共産中国は、一帯一路という形で世界の覇権を盗
 ろうとしている。
  日本は、この様な共産・中国の動きで滅亡されない様、
 「反工作員」を大量に組織せよ!!
  共産・中国の消滅までの間の臨時行政措置で、即刻実
 施せよ!!
  今、緊急事態にある。
  日本は、この様な形で自由と民主主義を守る世界に貢
 献せよ!!
  中国が、世界に大量に出動させている工作員に日本が
 メインとなって対抗せよ!!
     ・
     ・
紀元前206年、前漢が成立した。
  漢(かん)は、中国の王朝で、通例、前漢(紀元前206
 年~紀元後8年)と後漢(紀元後25年~紀元後220年)の
 二つの王朝がある。
  漢の成立前にあった国=秦・・
  多くの王国に分かれていた中国を、初めて統一した秦
 だった。
  漢の前の秦は、漢民族ではない民族である・・
  現代の新疆ウイグル自治区チベット満州、内モン
 ゴル自治区、南東部の地域は、この頃の中国・秦にとっ
 て外国だった。
  秦の始皇帝の実の父は、荘襄王ではなく「呂不韋(ロ
 フィー)」と言われている。
  この名前は、中国人ではなく外国人の名前を中国語で
 表記したと言える。
  秦の始皇帝に不老不死の仙薬を求められて、日本に探
 しに来た「徐福」は数千人の集団とともに、その後、日
 本に永住した。
  秦の滅亡を機に、秦の渡来人は、迫害を避けて最終的
 に朝鮮半島へ移住した。
  そして、日本へ渡来する直前まで朝鮮半島に寄留し、
 韓流文化の影響を受けた。
  「魏志和人伝」において「辰韓人(秦韓人)」と記載
 されている。
  その秦の渡来人が、日本に渡ってきて、「秦氏」と名
 乗った(韓民族ではない)。
  『日本書紀』 巻第10「応神紀」の記載では・・
  「十四年二月春、百済王が衣縫工女(きぬぬいおみな)
 を奉った。・・・・・
  その年、弓月君(=泰氏)が百済から来る。
  奏上し、「私は、私の国の百二十県の人民を率いて来
 ました・・
  しかし、新羅人が邪魔をし、みな加羅国に留まってい
 ます」・・と・・
  それで速やかに新羅に行って、「弓月の民を救出した」
 と記されている。
  この秦氏(はたし)が、大陸から携えてきた文化は、
 極めて高度で・・
  泰氏は、その財力と土木技術を活かして灌漑や大規模
 な土木工事、古墳の造営に着手した・・
  湿地で洪水の多かった山背国(現:京都)の治水事業
 や地域の開発と発展に大きく貢献する。
  嵐山にある渡月橋の葛野大堰(かどのおおい)と呼ば
 れている堰(せき)はこの泰氏が築いている。
  この秦の滅亡によって前漢が出来た。
  林惠祥は著書『中国民族史』で・・
  漢民族は、華夏族を中心として東夷系、荊呉系、百越
 系及び東胡系、匈奴系などの民族を吸収し形成した民族
 と論じている。
  黄河の上・中流を中心に居住していた華夏系は、黄河
 の下流の東夷系、長江の中流の荊呉系、及び、珠江を中
 心とした百越系と融合、及び、統合のプロセスを通して
 漢民族に生まれ変わった・・この時、漢民族が出来た・・。
  漢族は、黄河文明を生み出した華夏族と周辺の多民族
 との混淆で形成された民族である。
  中国には、純粋血統の「漢族」は存在しない。
     ・
     ・
     ・
19世紀後半、まだ不完全な明治の日本だった・・
  実力を備え切れていない日本だった・・
  その様な状況の中に、不平等な条約が存在した。
  また、不正常な国際関係が存在した。
  この様な中で、列強諸国と対峙する為の軍拡について、
 為政者と民権派の活動家を含めた国民のあいだに、「基
 本的な対立はなかった」。
  両者が共に敏感に感じる「早急に解決すべき関心事」
 であった。
  自由民権論者の対外認識は極めて正常だった。
  この時代の中国も、今・現代の様に、中国独特の論理
 「華夷秩序」であった。
  それは、「文明の中心である中国が周辺地域に対して、
 世界の中心である中国の『徳』を及ぼすものであり、そ
 の感化によって求める世界を実現する」だった。
  19世紀後半、この中国の華夷秩序が、「欧米列強の形
 成する秩序」に置き換わって行った。
  しかし、この「欧米列強の秩序」と言ったって理想的
 なものではなかった。
  キリスト教マインド・コントロールされた有色人種
 蔑視観を持って、何ら遠慮なく「その領土を奪取する行
 為を是認するものだった」。
  東アジア諸国は、その強権によって植民地化されて行
 った。
  また、その中国の基本理念にある「冊封」も、いつの
 時代においても中国が罹患している病気だった。
  中国は、その行為をすることによって「民族的、かつ、
 文化的な優越意識を確保していたい」とした。
  朝鮮は、今・現代と同様に、安易に、この中国の冊封
 体制下に入った。
  日本は、この様な中国を含めた国際情勢をよく見てい
 た。
  中国は、果たして欧米列強の秩序の前に屈するのか?
  イギリスはイギリスで、ロシアの南下が気になってい
 た。
  イギリスは、ロシアへの対抗を第一とする帝国主義
 行動を取っていた。
  この様な意味から、イギリスが中国の古い秩序感覚=
 冊封体制を認める動きもあり得た。
  その辺がどうなって行くのかが日本の関心事の一つだ
 った。
.
1880年3月24日、日本が「独立の維持」を真剣に考えた時代・・
  約140年前の東京横浜毎日新聞の論説に・・
  「列強諸国が迫って来ている今日、東アジアで、独立
 を保てる国は日本と中国くらいしかないだろう」と論説
 されている。
  それほどの欧米露などの「列強諸国が迫(せま)る危機」
 の中に東アジア諸国があった。
  韓国が、時代が変わった今・現代、立派に独立の形態
 を保っている今・現代、「過去にも同様に、誰にも頼ら
 ずに独立を保てた」かの様な顔をして、日本にあること
 ないことの、言いたいことを言っているが、当時の自国
 の状況をよく知ってから発言して戴きたい。
  韓国・朝鮮は、独立が保てず「日本に頼って来た」と
 いう事実を「韓国はなかったかの様な感じで、今・現代、
 好き勝手を発言している」。
  日本の保護を受けて「時代の波を乗り越えて来られた」
 ことを、韓国は「日本に感謝しなければならない」。
  朝鮮の独立も風前の灯(ともしび)のように・・ロシ
 アの南進の脅威の中にあった。
  そして、この1880年代と言えば、イギリスとフランス
 による「アフリカ再分割」が本格化した時代だった。
  強国の「切り取り自由の野蛮な時代」だった。
  欧米列強の、植民地を獲得して経済的利益を得たいと
 いう野蛮な野獣の様な行動がなされる時代だった。
  そして、遠慮会釈なく植民地の政治にも直接に関わり、
 直接統治をするという卑劣さだった。
  それも「世界的規模で、それをやりだした」。
  その様な状況を見る日本は、危機を最大に感じていた。
  当時の日本の新聞は、今がまさに帝国主義の時代だと
 報じていた。
  そして、欧米露の帝国主義の列強諸国によって、アジ
 ア諸地域が蚕食されつつあるとリアルな認識・現実を報
 じた。
  この様な世界および極東情勢、リアルな認識を持って
 民権派の活動家が活動していた。
  当然、日本の独立の維持についても考え及んでいた。
.
1880年11月30日、冷静な日本の重鎮・山県有朋が、天皇
 下へ「隣邦兵備略表」を上奏した。
  (参考)上奏:じょうそう、大臣・議院・官庁等が天
     皇陛下に意見を申し上げること。
  隣邦兵備略表は、隣国・中国の調査書である。
  山県有朋は、参謀本部長の任にあり、国防計画や作戦
 計画などに関わる軍令機関の長だった。
  山県は、1879年〜1880年にかけて、桂太郎らの将校10
 余名を、駐在武官や語学研究生の名目で中国・清へ派遣
 した。
  中国の兵制改革の進展ぶりを探らせた。
  そして、その報告を受け、深刻な状況にあることを知
 った。
  近代的兵制への改革をしている清の実態に最大限注意
 を払うべきだとした。
  その清国の望ましい状況に引き換えて、日本はといえ
 ば、第一線の海岸防御でさえ準備が不十分であることが
 如実であった・・日本は、この時、この後の対応策を
 着々と取って行く・・
  令和となった今・現在、この時と同じ状況となってい
 る、いや、それ以上の最悪の状況となっている。
  しかし、その様な状況を「見て見ぬふりをする」とい
 う実態がある。
  何ら対応策を取ろうとしない現実の中に居る日本とな
 っている。
  日本国民を守ることについて諦(あきら)めているの
 か?
  愛する人々を守ろうという事について諦めの状況にあ
 るのか?
  北朝鮮は、あの貧困な財政状況の中、必死に国防策を
 進めている。
  「攻撃が最大の防御」という策を進めている。
.
1909年、権益を狙って美しく立ち回るアメリカ・・
  「六ヵ国の提議」(1909年)。
  これはアメリカの偽善である。
  1899年、後から来たアメリカが、中国に対する「門戸
 開放」を宣言した。
  しかし、これは、後から来たアメリカに中国の美味し
 いものが残ってないので、「機会均等」や「領土保全
 という「きれいごと」を提唱して「各国平等で公平に」
 と美しい言葉でアメリカは語ったのだった。
  ヨーロッパ各国は、アメリカが言っていることが正論
 の様に見えたため、従わざるを得なかった。
  ドイツもロシアも表立って反論ができなかった。
  まんまと、アメリカは後から来たけれど、中国の美味
 しいものを手に入れた。
  この「六ヵ国借款」も同じだった・・アメリカの論理
 だった。
  満州に(中国の地ではない、それを国際的に認められて
 いた)、その地に、日本とロシアとイギリスが、共同で
 管理する鉄道があった。
  しかし、後から来たアメリカは、これに難癖(イチャ
 モン)をつけた。
  「これは中国のものだ。中国へ返せ」と・・
  そして、さらにアメリカは言う・・
  「支那は資金難だ」。
  「だから各国が分担金を出し合って借款団を作って、
 支那に金を貸して、名目だけ支那のものにしよう」と・・
  そして・・
  「その鉄道は、日・露・英・米・独・仏の六ヵ国で平
 等のものにしよう・・そして、管理しよう」と・・
  アメリカはきれいごとを言って難癖(イチャモン)を
 付けて「利権に割り込もうとした」。
  こんな論理なら何でも言える。
  例えば、「マンハッタン島はアメリカ・インディアン
 のものである」、だから、各国が分担金を出し合い借款
 団を作り、インディアンに貸し、名目はインディアンの
 ものにしよう」、そして、「そのマンハッタン島を米英
 独仏日露の六ヵ国で平等に管理しよう」と。
  どうですか・・おかしくはないですか?
  アメリカは、こんな猿知恵・悪知恵ばかりを使って、
 こんなことばかりをしていた。
.
1909年9月4日、日清協約・・「満州及び間島に関する日清
 協約」
  (参考)間島:かんとう、豆満江以北の満州にある朝
     鮮民族居住地を指す。
      主に、現在の中華人民共和国(中国)吉林省
     東部の延辺朝鮮族自治州一帯。
      朝鮮王朝実録によれば、太祖・李成桂の時代
     に北部女真族満州族)を帰順させ鴨緑江と豆
     満江(中国名、図們江)を国界とした。
      李氏朝鮮において、「野人」居住地域である
     満州に関する地理的知識は乏しかった。、
      満洲族清朝は、白頭山一帯を祖先の地とし
     て封禁地としていた・・そこへ徐々に朝鮮農民
     が入植し、住民の8割を占める様になった。
      清朝は、引き上げさせようとしたがどうしよ
     うもなかった・・そのため領民と認めた。
      日清戦争で清が敗北し、大韓帝国が樹立され
     たが、1899年、韓清通商条約でも国境の確定を
     することができなかった。
      1900年に清に義和団の乱が起きると、朝鮮は、
     この地の管理使を任命して現地に派遣した。
      ますますこじれた国境問題となった。
  この地に勢力拡大していたロシアが、日露戦争で敗け
 ると、この地から手を引いた。
  大韓帝国は、お陰でこの地を支配した・・日本は大韓
 帝国の主張を継承した。
  清国の統治が弱まった・・清の裁判権や課税権も否定
 された。
  清は、反発して一個連隊の軍を間島に移駐させ強硬な
 態度を見せた。
  ここで、日本と清の外交交渉の必要性が高まった。
  そして、1909年9月4日に条約が成立した。
  間島協約
  第一条:図們江(豆満江)を韓国と清朝の国境とする。
  第二条:清国は、間島の竜井村など4地域を外国人の居
   留・経済活動のために開放し、日本が、領事館また
   は分館を設置できる。
  第三条:韓国人が、豆満江以北の開墾地に居住するこ
   とができる。
  第四条:間島の韓国人は、清国の法律に従う。
   ただし、訴訟事件では日本側の領事館員の立会や覆
   審請求権が認められる。
  第五条:清国は、間島の韓国人の土地・家屋の保護の
   義務を負う。
   また、往来の自由を認める。
  第六条:吉長鉄道を延長して韓国鉄道と接続すること
   を認める。
  日本は、上記のように、一生懸命、韓国人の立場を尊
 重させる様に清国と交渉した。
  韓国人が開墾できるようにしたし、居住もでき、韓国
 人の土地・家屋の保護を約束させ、往来の自由も約束さ
 せたりした。
  因みに、ウィキペディアのこの項は、中国の工作員
 より間違いの記述となっている、日本を貶(おとし)め
 て、まったく間違った記述であるので注意のこと・・
.
2019年、ウイグルの破壊をしている中国の「悪の実態」が
 浮き彫りに・・
  ウイグルで、300万人以上を中国は強制収容している。
  中国は、「再教育センター」だと表向き美しい言い方
 をしているが、この名称の「再教育」という事から思想
 改造をする目的という事を認めているようなもの・・
  捕まえ始めた時、中国は、最初に宗教指導者を捕まえ
 始めた・・
  ウイグルの方々の心の支柱になっているイスラム教の
 聖典コーランウイグル語に訳した宗教者や学者たち
 を捕まえた。
  習近平中国国家主席は明言した「宗教より(中国の共
 産)国家が優先する」と・・
  習近平の狙いは、東トルキスタンが独立した時に「国
 の柱になりそうな人たち」から拘束して、排除した。
  この事を話すムカイダイス女史の両親も捕まっている。
  3年間、母親と連絡が取れていないという・・知人か
 ら「お母さんは亡くなったようだ」と言われている・・
  お母さんは、新疆大学の哲学の教授をしていた・・今、
 63歳になる・・
  大学教授のお母さんが、どのようなやり方で中国は
 再教育をしたのか??
  そして、お父さんに関しても、最近、「貴方の父も亡
 くなったのではないか」と言われた・・もうすぐ70歳に
 なる・・石油管理局のエンジニア・・お父さんともここ
 3年間、連絡が取れていない。
  中国の再教育センターという名称であるが、この様に
 連れ去った後の保障がまったくあやふやな、生死の与奪
 がある様な状況の事をしている。
  このムカイダイス女史の例は、1例で、すべてのウイグ
 ル人の中国の拘束がこの様な状況の中にある・・今・現
 代の時代に行われているとは思えない様な前近代的な行
 為がなされている・・ドイツの強制収容所を彷彿とさせ
 られる・・
  最後の連絡だったのが2015年で、「今、大変危ない状
 況にある」と言われた・・「その為、連絡は取らない様
 に」と言われた・・
  また、弟さんも、38歳であるが、やはり拘束されて、
 連絡が取れない状態になっている・・
  大学の法学部を出て裁判官をしていた・・ホータンの
 強制収容所に中国に連れて行かれた・・まったく不明の
 状態になっている・・好き勝手に国民を連れ去る中国の
 状態となっている・・連絡も何もしないという状況・・
 中国にどのような正義があるのかが「全く説明が無い状
 態」となっている・・
  そして、この収容所に強制収容された方々がウイグル
 人の学者や理論家で、ウイグルの正当性を語れる人々だ
 った。
  ウイグル人ウイグル文学研究家のムカイダイス女史
 が話す。
  https://www.youtube.com/watch?v=NMwwXRHxadI
  ウイグルにとって、この大切な人々は「何処がテロな
 のだ」と言いたいほどの『テロと無関係な人たち』。
  中国の目論見は「まずウイグルをリードしている人々
 を捕まえてしまえ」にある。
  明らかに、「リーダー不在」にして「ウイグル社会を
 破壊したい」にある。
  大学教授・インテリ・医者などを狙った。
  台湾でも同じことが行われ、2万人以上が殺された。
  ウイグルは、規模が極大で台湾の比ではない。
  ウイグル会議は「500万人に達する」という恐ろしい
 規模を算出している。
  2019年12月9日、ニューヨーク・タイムズの報道による
 と・・ニューヨーク在住のウイグル人の息子は、ウイグ
 ル在住の母親が強制収容所に入れられてというニュース
 と連絡を受け・・アメリカで「母親を助ける運動を始め
 た」・・
  それを知った中国が、その母親を監獄送りにした・・
  厳しい管理下に置いた・・体が弱く病気を持っている
 彼女は、常時、薬を飲んでいたが、その薬をまったく与
 えられず・・彼女は病気を発症した・・
  彼女はニューヨーク・タイムズの記者と連絡が取れた・・
 記者は、東トルキスタンに入って、そして、その詳細を
 記事として新聞に載せた・・
  この様な状況の彼女が、労働も強いられていたことも
 判明した・・この強制労働で背骨を折るという重大事態
 になる・・歩行困難になる・・
  この様になってやっと家に帰れた・・というより、ど
 こも行けない彼女を放置した・・
  だが、中国は病院の通院を禁止した・・
  この様な彼女であるが、息子へ伝えたいことがあるか
 との質問に、記者を通じて次のような事を息子へ言った・・
  「貴方の行なったことは、民族として、また、人間と
 して、やるべきことをやった・・正義の行動です。
  このままその行動を続けて下さい。誇りに思います」
 と・・
  中国は、事前に、この母親を脅していた「語るのでは
 ない」と・・しかし、母親は語った・・
  そして、記者に「是非とも公(おおやけ)にして下さ
 い、世界に知らせて下さい」と言った・・
  記者は、母親は命の危険を顧みず、この言葉を言った
 ので、記事に出来ました・・と言った。
  同時に取材したウイグル人の方々のイリの町は廃墟と
 なっていた・・ウイグルの方々の生活も日常もまったく
 無い状態だった・・
  イリは、ウイグルの文化が栄えた町だった・・ウイグ
 ルの昔の面影の残る美しい町だった・・日本で言えば「
 京都の町が破壊され、無人の町になったようなもの」・・
 とことん文化まで破壊する中国・・これが中国の再教育
 センターの政策か??
  中国によってずたずたに破壊されたウイグルの世界が
 あった・・
  日本に国賓として習近平が来た時に、この事について
 明確な説明をしてもらうようにしよう・・
  民主国家・日本も、アメリカのように、この事につい
 て中国の説明をはっきりと追求しよう・・
  中国に忠誠を誓っても「死刑とされた」ウイグル人
 ウイグルの大学の学長がいる・・日本で博士号を取った
 この方は、「心の中は親中ではない」と言われて判決が
 下された・・この様な判決があって良いのか??
  ウイグル文化を担(にな)って来たリーダーが、特に、
 この様な状況で「破壊している中国」・・
  日本の北海道が、沖縄が、また、あなたの国に、中国
 が来て、強制収容所を作られ、この様な事をされたら・・
 「それを思って下さい」・・
  貴方が、是非、声をあげなければ、この中国の動きは
 止められません・・
  一民族の戦いではありません・・
  皆が結束しなければ、止めることはできません・・
.
2019年、人間は、ゲノムを操作できる様になった。
  それも、益々、その技術は進歩し、ゲノム技術によっ
 て好き勝手に操作できる様になって来ている。
  キリスト教の神・創造主が6日間で創ったものが人間の
 手で変えられている。
  キリスト教の神・創造主のやったことが過去の仕事と
 なりつつある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)670E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年4月~1897年4月)

題:(増補版)670E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年4月~1897年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年4月27日、高等商業学校付属外国語学校が設立された。
  これは再興だった(現:東京外国語大学)  
  1857年、日本には、外国語学校の起源として江戸幕府
   によって蕃書調所がこの年に設立されていた。
  1869年、英語と仏語の2学科の「開成学校」(現:東京
   大学)が出来る。
  1873年、東京外国語学校が出来る(英、独、仏、ロシ
   ア、中国語の5語学科)・・1887年、他の学校と合
   併して東京商業学校(のちの高等商業学校、現:一
   橋大学)となる・・語学校として姿を消す・・
  1897年、故に、再興となる。
.
1897年4月27日、帝国図書館が開館する。
  東京図書館帝国図書館と改め、整備を行う。
  1872年設立の書籍館(図書館の古称)を起源として、
 この年に設置された。
  1949年、国立国会図書館に統合され、消滅した。
  この歴史ある建物は、国立国会図書館支部上野図書館
 を経て・・
  2000年、国立の児童書専門図書館である国立国会図書
 館国際子ども図書館として再生された。
  現在も、国立の図書館として存続している。
  この図書館は、上野公園にあることから「上野図書館
 と呼ばれ、親しまれた・・
  多くの文豪や学者もこの図書館に通った・・
  日本の近代を作った図書館である。
   尚、1872年設置の書籍館は、旧幕府の昌平坂学問所
 和学講談所、蕃書調所などの所蔵していた貴重な古典籍
 を蔵書の基礎とした。
.
1897年4月27日、京都鉄道二条駅~大宮駅間が開通した。
  1893年京都鉄道が、民営鉄道として設立された。
   日本海側の主要都市である舞鶴までの鉄道敷設が課
   題となっていて設立された。
  1895年、京都駅から綾部を経て、舞鶴に至る鉄道免許
   を受けた。
  1897年2月15日、二条駅~嵯峨駅(現:嵯峨嵐山駅)間
   が開業した・・また、この時、二条駅も開業した。
  1900年、京都駅~園部駅間が開業する。
   断崖絶壁に線路を通す難工事だった・・
   また、トンネル8ヶ所、橋梁は50ヶ所を越え、保
   津峡もまた難工事だった。
   しかし、これ以北は、資金難のため工事は進まなか
   った。
.
1897年4月28日、九州鉄道が、筑豊鉄道線を自社の延長線と
 することを出願した(8月26日免許)
  筑豊鉄道は、1891年に設立された福岡県に存在した民
 営鉄道創世記における代表的は企業だった・・が・・
  この後、1897年10月1日、筑豊鉄道は、九州鉄道と合併
  し・・
  1907年に、鉄道国有法により国有化された。
.
1897年4月、ハワイ移民の549人が、またも上陸拒否にあっ
 た。
  前記のブログに詳しく記したが、ハワイを手に入れよ
 うとするアメリカに影響される傀儡的なハワイ政府が、
 日本人労働者の人口増加と、それに伴う日本の影響力増
 大を警戒した。
  ゆくゆくアメリカはハワイを合併しようとしていた。
  1898年8月、落ち度を認めたハワイ政府は、日本へ賠償
 金を支払うことで決着した。
  1900年、これから3年後のこの年、ハワイはアメリカの
 準州にされてしまった。
  この様なアメリカの行為の延長線上にアメリカの中国
 の利権獲得と日本との確執が第二次世界大戦の遠因とな
 る。
  アメリカは盛んに中国・蒋介石に肩入れした。
  アメリカ本土では、排日土地法などが成立して日本人
 排斥が盛んに行われた。
  1924年に至ると「1924年民法」が成立し、事実上、
 日本人のハワイ準州を含むアメリカ入国が禁止された。
  この1924年、日本の移民に終止符が打たされた。
  そして、ハワイに在住している日本人は永住するのか?
 帰国するのか?の選択を迫られた。
  これが、日本のブラジル移民の切っ掛けとなった・・
  1925年よりブラジル移民が開始された。
.
1897年4月、政府が、函樽鉄道株式会社の発起人・平田文右
 衛門ほかに対し、仮免許状を下付した。
  1886年函館駅小樽駅を結ぶ鉄道の敷設について岩
   村道庁長官が開拓事業の一環として取り上げて以来、
   歴代長官によって計画が取り上げられてきた重要事
   項であった。
    しかし、容易に実現する兆しはなかった。
  1895年の日清戦争後に全国的な私鉄に対する投資過熱
   が起き・・
  1895年2月、北海道鉄道や
  1896年1月、函樽鉄道などの各社から相次いで鉄道敷設
   の申請がなされた。
   しかし、いずれも認可されるには至らなかった。
  1896年5月、鉄道敷設の重要性について認識が高まり、
   「北海道鉄道敷設法」が制定された。
   予定6線のうちに「後志国小樽ヨリ渡島国函館二至
   ル鉄道」が明記された・・しかし、計画としては第
   二期に編入された。
   実現は早くとも10年後という状況だった。
  1896年6月、この様な情勢から、有志によって再度なさ
   れた函樽鉄道株式会社の設立認可申請に対して・・
  1897年4月、仮免状が下付された。
   しかし、折からの経済不況のため、株式の募集も予
   定どおりにはかどらず、会社の設立準備も進められ
   ないという状況だった。
   仮免状有効期限延期を二度も出願し、許可を受ける
   という状況であった・・設立が危ぶまれた。
  1899年10月、苦難の中、ようやく会社創立総会が開か
   れた。
  1900年2月、函樽鉄道株式会社が社名を北海道鉄道株式
   会社に変更し、設立されるに至った。
   その後、まだ紆余曲折したが・・
  1902年4月、政府が会社の申請を認め、1マイル(約1.61
   キロメートル)当たり8000円の国庫補助が指令され
   た。
   また、3年半をもって全線を完成するよう命じられた。
  1902年6月、工事は、これ以前の1901年6月から一部が
   直営をもって着手されていたが・・
   1902年6月から本格的な建設に入った。
  1902年11月、工事は、極めて順調に進められ、亀田駅
   ~本郷駅(渡島大野)間は1902年11月に完成した。
  1903年5月、八雲地方を含む森駅~熱郛駅間が完成し・・
  1904年10月15日、箱館駅~小樽中央駅(高島)間の全
   長159マイル余(約255.9キロメートル)がめでたく
   開通した。
.
1897年4月、アメリカの第26代大統領になるセオドア・ル
 ーズベルトが、この年、海軍次官に起用された。
  セオドア・ルーズベルトは、アメリカ合衆国の発展は、
 「対外膨張しかない」と考えていた。
  そのため、彼は、ウィリアム・マッキンリー大統領へ、
 「アメリカ合衆国のアジア艦隊は、マニラを封鎖し、出
 来ればフィリピンを占領すべきである」と・・
  そして、「フィリピンの占領をすべき」と口にして進
 言した。
  また、セオドア・ルーズベルトは、上院議員のヘンリ
 ー・カボット・ロッジとアメリカの海外発展を計画して
 いた。
  このロッジ上院議員は、1895年3月発行の「フォーラム」
 誌で、「太平洋におけるアメリカ合衆国の商業的優位を
 保つため、ハワイ諸島を支配しなければならない(占領
 政策)」と・・
  また、「サモアにも影響力を持たねばならない」と主
 張した。
  アメリカの帝国主義占領政策を促(うなが)してい
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1897年、この年、アメリカの第26代大統領になるセオドア・ルーズベルト海軍次官に起用された・・
    彼は、マッキンリー大統領へ、「フィリピンを占領すべきだ」との占領政策を進言した。
.
8世紀、「ギリシャはヨーロッパだ」とヨーロッパ人は言い、
 そのギリシャ文明を引き継いでいると言ったって・・
  その古代のギリシャの文明を引き継いで発展させて来
 たのはイスラムの世界であり、ビザンチンの世界だった。
  (ビザンチンは、8世紀以降、バルカン半島、アナトリ
 ア半島を中心とした国家となり、縮小した。
  そして、民族的・文化的にギリシャ化が進んで行く・・
  この様な事から「ギリシャ帝国」と呼ばれた・・
  13世紀以降には、住民自らも「ギリシャ人」と呼んだ)
  キリスト教世界のヨーロッパは、古代ギリシャの文明
 を引き継いだとは言えても、奪って来たものだった・・
  「古代ギリシャ文明を引き継ぎ発展させたイスラム
 界やビザンチンから奪って来た不名誉な文明だった」。
  これが事実であって、文明的にはヨーロッパはイスラ
 ム世界の世話になっている。
  また、ヨーロッパ人は誇りにしていた自国の文明と、
 そして、蔑視していたアジアの文明の比較においても、
 中国の存在を知るや、その鼻はへし折られた。
  キリスト教に洗脳されたヨーロッパは、野蛮に征服行
 為を行なって、奪って来るだけだった。
  ヨーロッパは、この様な歴史的事実を曲げて、自らの
 中に発展の契機を求め、ヨーロッパ自身をゆがめ・・そ
 して、安住した。
  しかし、悲しいかな・・事実は変えられない。
     ・
     ・
     ・
1687年、ヨーロッパ人の意識を変えた事件・・その発端は、
 1687年に起きた。
  ルイ14世が病気快癒し、それを祝うアカデミーの席上
 で、文学者のシャルル・ペローが読みあげた詩だった。
  彼は、ルイ14世を讃美した詩「ルイ大王の世紀」を発
 表した。
  その中に「ルイ14世の時代は素晴らしい、優れている」
 と讃美した。
  これが問題となった。
  「今の時代の方が譲れていて素晴らしいか?」である。
  当時は、キリスト教の教父と言われるアウグスティヌ
 スが生きた「古代の方が優れていた」とされていた。
  古代を高く評価して、今を、その古代より高めようと
 する考え方の時代だった。
  だから「古典主義文学」の全盛時代だった。
  ラテン文学の黄金時代だった。
  古典主義文学者たちは怒った。
  アカデミーでの論争が始まった・・
  議論は、サロンを通じて広く伝えられて、フランスの
 世論が二分される論争となった。
  論戦で最も活躍したのが「サロンの哲人」と呼ばれた
 フォントネルだった。
  彼は、17世紀の科学革命の成果を広く伝えながら、そ
 れを根拠に、「近代を高く評価した」。
  18世紀に入り、「近代派が圧倒的勝利」となって終わ
 った。
  ギリシャ、ローマを古典として手本とする歴史意識の
 退歩主義は駆逐された。
  近代を、古代より高度な文明を有する時代と捉える進
 歩の過程を捉らえることが通念化して行った。
  「科学革命」が人々の中にしっかり意識されて行った。
  古代よ、サヨナラの時代だった。
.
1799年、幕府は、北海道の東蝦夷地を直轄とした。
  幕府は、道路の開削に力を入れ、箱館からエトロフ島
 に至る道路を開いた。
  これによって人馬の通交の支障は無くなった。
  陸上輸送もより便利にできる様になり、また、海上
 送も整備された。
  1809年の「蝦夷渡海記」にも・・
  「ヤマサキ河上道に橋有道良、海岸汐時に寄深ヌカシ
 テ(ママ)馬蹄難進ことあり用心いたす所なり」とある。
  また、幕府は、道路の開削と並行して交通の便を図る
 ため、各種の施設を設けた。
  浦河以東の東蝦夷地10か所に会所を設置したりした。
  以後、増設して行った。
  そして、東蝦夷地一帯にわたって宿泊の不便を無くす
 ようにした。
  旅舎は初め会所と同じであったが、後に、宿泊専用の
 別棟が設けられた・・これを旅宿所または通行屋と呼ん
 だ。
  会所および通行屋は、人馬継ぎ立てのことも取り扱い、
 急を要する場合には、早馬・早走・早船などの用意があ
 った。
  また、宿泊地の中間には昼休所が設けられて、幕吏や
 藩吏の便が図られていた。
  また、東蝦夷地の各場所には官馬を備え、請負人に委
 託して飼育し、運搬や人馬継ぎ立て様に供した。
  1861年6月には、山越内の関門が廃止され、通行が自由
 になった。
  この事もあって、交通はますます盛んとなった
.
19世紀、西洋人は、満州を「満州人の土地」とした・・今
 は、中国に侵略されているが・・
  満州は、満州語で「マンジュ」の発音を漢字表記した
 ものである・・
  元来は、民族名や国名であって「地名ではない」。
  しかし、19世紀以降、西洋人が、この地を「満州人の
 土地」という意味で使い始めた。
  このことに起因して、日本でも、今のこの中国東北地
 方を満州と称する様になった。
  現在、漢民族中華人民共和国(20世紀中頃に建国さ
 れた)が自国領とし、あえて「中国東北部」と称する様
 にさせられているが・・間違いである。
  日本は、かつて、この地を満州民族の方々の地として
 「満州国の建国を助けたが・・これが正しい」。
  今、「中国東北部」と呼ばされているこの地は、正し
 くは「中国東北侵略部」であり、「満州国」なのである。
  侵略性を持つ中国は、今、この地からロシア領への浸
 透を謀(はか)っている。
     ・
     ・
2015年、人類の終末が訪れると・・
  ニュートンは、キリスト教を信じていた。
  そのニュートンが信じたキリスト教は「人類史は6000
 年と説いていた」。
  ニュートンは計算した、すると「人類の終末が2015年
 と算出された」。
  愚かしいキリスト教の観念を持っていたニュートン
 ったが、彼の自然を見る目から導き出されたニュートン
 物理学、そして、その他の真実が・・、
  結局、キリスト教の架空の教理や論理を崩壊させた。
  キリスト教の間違ったベールが剥がされて行った。
  今、キリスト教は、最早、過去の醜態を曝(さら)す宗
 教の存在でしかない。
  残された歴史には「インディオの方々の絶滅」などの
 弱小の民族の殺戮や、魔女裁判に見る「弱者の殺戮」・・
  「異端審判に見る殺戮」「ユダヤ民族の方々の殺戮」
 など・・殺戮の歴史しかない。
  イギリスの大新聞の世論調査によると・・
  「キリスト教は21世紀中に消滅する」という意見が多
 数の見方になっている。
  大殺戮者のキリスト教が、急に、手のひらを返した様
 に「救済」を叫んでも・・自己の生き残りをかけた偽善
 としか見えない。
.
2019年12月3日、中国の習近平氏の国賓訪日・・自民党内か
 ら異論が出る。
  中国の習近平国家主席の来春の訪日について、国賓
 遇で迎える事に自民党内で異論が相次いでいる。
  香港で激化する警察隊とデモ隊の衝突や、尖閣諸島
 辺の日本領海に中国公船による侵入が相次ぐなどの課題
 が山積みするなか、「国民が納得できるのか」と再考を
 求める声が出ている。
  「なぜ天皇陛下が前面に出る『国賓』なのかという説
 明が足りない」。
  3日、参議院外交防衛委員会佐藤正久前外務副大臣
 こう質問した。
  国賓は日本政府が外国から客を招く「公式訪問」の5段
 階のうち最高ランクで、滞在中は宮中晩餐(ばんさん)
 会も開かれる。
  さらに、佐藤氏は香港情勢について「根本的責任は中
 国政府とその政権党にあることは明らか」とする日本共
 産党の声明を読み上げ、「党派を超えて共有する部分も
 多い」と言及した。
  自民党議員らが問題視する背景には、相次ぐ日本人拘
 束事案もある。
  3日の党外交部会などの合同会議でも、複数の議員から
 「(国賓で)国民が納得できるのか」といった声が出た。
  また、11月13日には党議員の有志が「諸懸案に改善が
 無い場合、国賓としての来日に反対する」という声明も
 発表した。
  一方、党執行部は国賓待遇を支持する考えを示してい
 る。
  岸田文雄政調会長は2日、「要人が往来する事で中国と
 の関係をコントロールして行くことは大事な事」と強調
 した。
  二階俊博幹事長も11月の会見で「国賓待遇でお招きす
 るのは当たり前のこと」と述べた。(朝日新聞2019年12
 月4日)
.
2019年12月7日、NHKの小会社の余剰金は、「受信料値下
 げに使われるべきだ」と立教大学教授が見解を述べた。
  読売新聞に、服部孝章立教大学名誉教授(メディア
 法)の話があった。
  「NHKの事業原資は受信料であり、その経営は収支
 均衡が原則だ。
  NHKは当然だが、小会社の利益余剰金も本来、視聴
 者に還元すへきものだ」。
  「株式配当を増やしてNHKに戻し、NHKはこれを
 受信料を下げる原資に充てるべきだ」。
  「必要以上に事業を拡大させて来た背景の一環には巨
 額の余剰金の問題がある」・・と・・
.
2019年12月7日、中国政府のウイグル弾圧
  中国政府が、新疆ウイグル自治区イスラム教を信仰
 する少数民族ウイグル族らを弾圧している。
  米国などが批判を強めている。
  区都ウルムチの街角には、中国語の宣伝標語や音楽が
 あふれている・・
  中国政府は盛んに中国化への洗脳をしている。
  また、ウイグル人の方々を拘束する行為もしている。
  国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が公表
 した文書には、収容施設で弾圧している実態も記されて
 いる。
  ウイグルの方々の脳へ刻み込むという行為だった・・
  ウルムチの街頭や飲食店に設置されたスピーカーから
 は大音量で童謡調の歌が流されている。
  その中国語の歌詞では・・
  「法治、愛国、誠信・・これらは中国人の宣言だ・・
 私たちの価値観を脳の中に刻み込もう」と歌っている。
  漢民族と55の少数民族の団結の呼びかけである・・
  また民族の「緊密な団結」を訴える横断幕が目に付く。
  その裏は、大きな民族の漢民族が支配する社会の実現
 で・・それに強制的に同調させられる少数民族がある。
  町の声は・・
  「私はウイグル人だ。中国人にはなれない」と、果物
 店の男性店主は本当の気持ちを話した・・
  だが、中国政府は、名目的にテロ対策を掲げて・・町
 中のあちこちに張り巡らされている「監視の目」は、す
 でに住民の思想にまで踏み込んで来ていた。
  ICIJが今年11月、中国当局関係者から入手したと
 して公表した複数の内部文書には、最新技術によって厳
 格に監視を実施する実態が示されている。
  この文書は、自治区共産党委員会が作成したとされる。
  これらによると、自治区で運用されている最新システ
 ムは、監視映像や携帯電話のデータなどを解析し(盗聴)、
 1週間のうちに、思想などが「疑わしい人物」として約2
 万4000人が特定された。
  そのうちの約1万6000人が「職業教育訓練センター」と
 称する強制収容施設に送られた。
  (これでは、まるで第二次世界大戦の時、ドイツが、
 ユダヤの方々をアウシュビッツへ送ったことと同じ行動
 である)
  文書の一つ、訓練センターの運営指針には「思想教育」
 の項目がある。
  (これは、前回、このブログに記した例の中国・共産
 社会が行なう激烈な思想洗脳教育である)
  死角が生まれないように監視カメラが設置された施設
 で個々の収容者が見張られている・・
  そして、その収容者の認識が変わるまで指導するよう
 その文書は求めている。
  収容者に、収容者同士が内部通報させる制度もある。
  『心理矯正が重要なのだ』と位置づけている。
  そして、思想が変わらなかったら自由の身にしてはな
 らない・・施設を出してはならないとしている。
  (日本がされた事と同じである)
  言葉もウイグル語から中国語に変える様に指示してい
 る・・
  頭の中から言葉まで「中国人の漢民族にしてしまえ」
 という指示である・・人権はまったく認められていない
 し、人権無視である。
  中国政府は、自分勝手な中国政府の解釈の主張を言っ
 ているだけ・・
  ウイグルイスラムの過激思想を持っている・・など
 と言っている・・
  アメリカのメディアは、収容中に宗教を強制的に変え
 させられていると指摘している・・
  また、尊重すべき各人の風習まで変えさせられている
 と指摘している・・
  個人のその宗教や風習の強烈な否定が行われている・・
  習近平は、「信仰より党の指導が上だ・・優先される」
 としている。
  国連がしているSDGsなどまったく関係ない・・無
 視している。
  2019年12月3日、アメリカ議会の下院は、アメリカ政府
 に中国に対する制裁を含めた対応を求める「ウイグル人
 権法案」を可決した。
  「香港人権・民主主義法」に続きウイグル人権法案も
 成立すれば、アメリカの中国へ対峙する姿勢もより鮮明
 となる。
  『正義のアメリカ』が腰を上げた。
  日本は、こんな中国の習近平を日本の「国賓」として
 呼ぼうとしている??
.
2019年、習近平が訪日する時にしてもらいたい事・・
  マルクス主義者が、暴力革命を実現しようとしたこと
 は、遠い昔のこと・・
  今・現代は・・
  既存の体制を外から暴力で破壊するのではなく、「体
 制内に入り込んで」内部から秩序の転覆を図る・・とい
 う行為を行っている。
  こんなことは、今や常識、誰もが知っていること・・
  そして、今、かなりの者が日本の国政の中枢へと入り
 込んでいる。
  誰が秩序破壊者なのか?
  それだと意識しないうちに、社会の秩序が乱されて行
 く。
  あらゆる工作がなされている。
  レーガン大統領が偉いところは、ベトナム戦争でアメ
 リカが二分され、分裂されるという危機の時・・、アメ
 リカ社会が分裂するという危機にあった時・・
  首都ワシントン郊外のメモリアル・パークにベトナム
 戦死者慰霊碑を建立して、「国家に殉じた英雄」として
 戦死者の氏名を刻印して・・慰霊した。
  国家として戦死者の氏名を刻印して・・慰霊した。
  国家の行為として行ない、戦死者の遺族の方々は、当
 然、慰霊碑に詣(もう)でて、憚(はばか)ることなく故人
 の霊を慰(なくさ)めることができた。
  一般のアメリカ国民の方々も、ベトナム戦死者の功績
 を感じ、そして、自らの魂を重ねた。
  アメリカ国民の方々の精神的支柱として「大切な絆と
 なった」。
  アメリカ国民の方々の中に「一体感が醸成され、再生
 された」。
  しかし、日本における、この様な行為に共産国家・中
 国が反対する。
  色々と中国なりの理屈をつけて「反対」の「内政干渉
 をする。
  もともと中国の共産主義は宗教を否定している、霊な
 どという概念も疎かで・・その様なものはない。
  この様な自分の主義で、この様な行為である靖国神社
 への参拝行為を反対している。
  勝手な主張であり、行為である。
  この度、習金平・中国国家主席が日本に来るが、是非、
 靖国神社へ参拝して戴きたい。
  自国の好き嫌いを、日本に来てまでして押し付けるな・・
  その様な行為は「内政干渉である」。
  日本に来たら、日本のやり方に従って戴きたい。
  そして、アメリカのレーガン大統領が重視して大切に
 した如く、「この様な行為が大切なのだ」ということを
 実感して戴きたい。
  中国は、日本がこの様な行為をすることによって結束
 が強くなることを、中国は不味(まず)いと感じている。
  また、この様な深い意味を知ってか知らぬか、アメリ
 カの日本大使だったケネディ女史が、軽薄にも日本の靖
 国神社参拝を批判した。
  中国と同じような言葉を吐いた。
  自国のレーガン大統領の例などを知っていたのか?
  日本の行動がこれによって抑制された。
  アメリカ政府は、日本の靖国神社参拝を支援せよ!!
  国に殉じた英雄を敬う行為は大切なのだ。
.
2019年、中国のこれからとる戦略は、世界に中国銀行をど
 んどん増やして、また、華僑を増やして行く。
  目的は中国・人民元の流通である。
  中国・人民元信用創造である。
  目的は、世界の基軸通貨アメリカ・ドルの駆逐であ
 る。
  この流れは・・止められることはない。
  アメリカ・ドルの基軸通貨の立場を縮小させて行く。
  世界は・・二つの基軸通貨を持つ世界となる。
  その次に来る世界は、多基軸通貨世界である。
  世界に構築されたアメリカ金融システムは縮小して行
 き・・他の流通通貨がその代替をする。
  金融の多流通世界で、ある意味、グローバル化である。
  中国の勢いは止めることはできない。
  アメリカがした基軸通貨の立場を利用した行為を、中
 国もまた行なう。
  中国は、「世界の覇権を握りたい」と今・現在の行動
 をより一層鮮明にして行く。
  政治システムを中国は変えることなく「進めて行く」。
  アメリカと中国の二大超国家による対決の世界となる。
  経済から始まる対決は必然である。
  中国の政治体制を許して、「そのままの体制のままで」
 民主主義世界に参入させたところからこの道は始まった。
  いい意味も悪い意味もそのまま持って世界に参入した。
  民意の常識による変革ということがない中国、また、
 それが出来ない体制の中国社会が参入して、大きくなっ
 てしまった。
  民主主義社会の中で、発達した美味しいところだけを
 食べる異質の社会が、ブロパガンダも駆使して、人民も
 参加させて、増殖をし始めて、大きくなってしまった。
  その抗生物質は生まれるのか?
  その抗生物質のーつが、長い歴史に育(はぐく)まれて
 そして幅広く、また高いモラルの「日本の考え方」であ
 る。
  これを「世界が知ること」である。
  将棋という子供たちもする遊びでも王というトップが
 取られたことにより終わる。
  その途中において、王以外の臣下たちは命を取られる
 ことはない。
  捕まり、相手の駒となって生き続けることができる。
  チェスの様に殺されることはない。
  また、日本の「もったいない」という言葉でノーベル
 賞を取った方が居たが、もっとこの言葉は世界に普及し
 定着させねばならなかった・・など・・世界は日本に学
 ばねばならない。
  中国が、新たなる国連を作ったなら日本は参加しなけ
 ればならない。
  敵国条項のある今の国連は「過去の用済みの形態だ」・・
  そして、既存の国連は脱退すべき・・
  中国は、自国に合う新たな国際秩序を作るための行動
 をするだろう・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/