(増補版)638E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年2月)

題:(増補版)638E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
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1896年1月1日、北海道の渡島、後志、胆振、石狩に徴兵令
 を施行した。
  日清戦争後の国を守る政策改革の一環として行われた。
  そして、1898年、残る7カ国へ拡大して制度的な確立を
 みた。
  北海道開拓を一生懸命している北海道は一定の配慮が
 あった。
  徴兵令の施行を定めた明治28年(1895年)勅令第126号
 は開拓に配慮して、次のような条文を設けていた。
  第二条、前条ノ徴兵令施行地(渡島・後志・胆振・石
     狩)二転籍移住シ開墾其ノ他一定ノ生業二従事
     スル者ハ転籍移住ノ後五箇年二満ツル年迄徴集
     ヲ猶予ス但転籍移住ノ後前条の区域外二転籍し
     更に転籍移住シタル者ハ此の限二アラス
  第三条、屯田兵ノ戸籍内二在ル者ハ徴集ヲ免除ス
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1896年1月6日、米国でユタが45番目の州となった。
  入植は1837年に始まった。
  モルモン教徒が開いた州。
  宗教の構成比(2008年時点)
    モルモン教...58%
    キリスト教...25%
      プロテスタント.......15%
      ローマ・カトリック...10%
      他のキリスト教........1%以下
    他の宗教......1%
    無宗教.......16%
  1869年、岩倉具視を団長とする岩倉使節団が訪れた史
 実があるせいか、親日的な土地柄である。
  太平洋戦争中、日系人の強制収容に唯一反対した州。
  また、戦後も日系人を多く受け容れてきたため、現在
 でも日系人の割合が比較的高い州である。
  2010年の人種構成・・
    白人.........80.4%、
    ヒスパニック.13.0%、
    アジア系.....2.0%、
    インディアン.1.2%、
    黒人.........1.1%、
    混血.........2.7%。
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1896年1月13日、この年に、アメリカ大統領の選挙が行われ、
 ウィリアム・マッキンリーが、第25代アメリカ大統領と
 して当選したが・・
  このマッキンリーは、1896年1月13日まで知事職にあっ
 た。
  ちなみに、マッキンリーの在任期間は・・、
   1897年3月4日~1901年3月4日、および、
   1901年3月4日~1901年9月14日。
  1898年、当選から2年後、このマッキンリーは、数人の
 上院議員と元副知事アンドリュー・L・ハリスを産業委員
 会に任命した時、反トラスト運動を始めた。
  マッキンリーの時代には、アメリカ西部への伝統的な
 フロンティア開拓は終了していて・・
  新しくアメリカ以外の太平洋などの国外の「海のフロ
 ンティア」開拓を推し進めるという領土収奪を始めた。
  国内の反対の声もあったが、欲得が先行するアメリ
 だった。
  アメリカは、この様な帝国主義政策へ突進し始めた・・
 この至る先に、日米の第二次世界大戦があった。
  マッキンリーは、保護貿易主義政策を行ない、外国製
 品に対し実に57%という史上最高の関税率をかけた「デ
 ィングレー関税法」を制定させた。
  また、マッキンリーは、覇権獲得の米西戦争へ国を導
 いた(第二次世界大戦を導いたルーズベルトの様に)、
  1898年には、ハワイ諸島を侵略し、併合した(ハワイ
 併合)。
  この時、日本の大隈重信総理は、『正義の書簡』で「
 これほど激烈で『宣戦布告か最後通牒に等しいような外
 交文書』は見たことがない」と言われるほどの抗議をし
 た。
  米西戦争では、アメリカは、当然、スペインに敵対す
 るフィリピンの独立勢力を支援した。
  しかし、この後、アメリカは、このフィリピンの独立
 勢力を裏切る。
  アメリカは、戦争に勝利するや、一転して、フィリピ
 ンの現地勢力を弾圧し始めた。
  そして、アメリカは、フィリピン、および、カリブ海
 のスペインの旧植民地をアメリカの保護下に置いてしま
 い、植民地としてしまった。
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1896年1月20日房総鉄道蘇我駅大網駅間が開通した。
  これが外房線の始まり。
  この1ヶ月後の1896年2月に、千葉駅で総武鉄道と接続
 した。
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1896年1月24日、参宮鉄道の宮川駅~宇治山田駅間の線路延
 長免許状を下付した。
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1896年1月25日、奈良鉄道の桃山駅~玉水駅間(20.2km)が
 開通した。
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1896年1月、クーデンホーフ伯爵と光子夫人、ヨーロッパへ
 向けて出発した。
  光子夫人は本名「青山ミツ」と言い、ヨーロッパで最
 も有名な日本人と言われた。
  骨董店の娘だったミツは、日本に赴任したオーストリ
 ア・ハンガリー帝国の外交官ハインリッヒ・クーデンホ
 ーフ・カレルギー伯爵に見初められる。
  その知り合いのきっかけは、クーデンホーフ伯爵が着
 任早々、乗っていた馬ともども凍った道で転んだことだ
 った。
  この時、親切に光子に助けられた。
  1896年、この時、伯爵と共にウィーンへ帰国し、社交
 界へもデビューした。
  そして、その後、チェコのロンスベルフ城へ移る。
  彼女は、日本で生まれた二人の子供と共に7人の子供に
 恵まれた。
  しかし、悲劇が訪れる。
  1906年、ヨーロッパへ向かった1896年から10年後、光
 子は、伯爵を突然の心臓発作で失う。
  ボヘミアの地に広大な領地を所有するクーデンホーフ
 家。
  そのすべての遺産を相続するにあたり、異国の女性に
 相続させることを望まない親族との間で裁判が起きる。
  しかし、この裁判に勝ち、光子は、クーデンホーフ家
 の当主となった。
  1908年、そして、ウィーン・ビーつぃんぐ地区の大邸
 宅へ移住するとともに、「黒い瞳の伯爵夫人」として、
 ウィーンの社交界へ復帰した。
  しかし、1914年から始まった第一次世界大戦によって、
 そのすべてを失った。
  ウィーン郊外へ移住し、病魔にも襲われた。
  1941年、そして、この年、67歳で亡くなる。
  光子は、ウィーン・ヒーツィング墓地に埋葬された・・
  渡欧して45年、光子は一度も日本に帰らなかった。
  この光子の東京で生まれた子・次男が、「欧州連合
 父」とも言われる人・・
  80年前に、欧州統合を主張し、EUの概念を訴えた人・・
 そして、この人物をモデルとした映画が「カサブランカ
 の名作。
  尚、「ミツコ」というゲラン社の香水もある・・東洋
 的な香りがする。
  ゲラン社のジャック・ゲランも、ウィーン社交界でク
 ーデンホーフ光子との面識も有った事でしょう・・なか
 ったにしろ、この美しく気高い日本人女性の評判はジャ
 ックの耳にも入っていたでしょうとゲラン社は書いてい
 る。
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1896年1月、朝鮮中部の忠清道堤川で柳麟錫(りゅうりんし
 ゃく)らが親日政権打倒を掲げ、指揮した。
  柳麟錫は朱子学を唯一の正学とする学者で、攘夷論
 主張する。
  日本の攘夷論者と同じように日本排斥に行動した。
  1866年に、アメリカ船やフランス艦隊の侵入の際も、
 李朝の王へ提言書などを提出する活動をしている。
  この1896年1月の時も、門人らと蜂起し、忠州(忠清北
 道北部の都市)を占領し地方官を殺害して勢力を振るっ
 たが、朝鮮政府軍に敗れた。
  1896年5月には、堤川も失った。
  李氏朝鮮政府は、この時期、日本の助けを利用しなが
 ら国家を強化する事で、西洋近代の広がりによる世界の
 変化に対応しようとしていた。
  李氏朝鮮政府側からすれば、近代国家の形成のために、
 集権的な政治制度の樹立は不可欠な課題であったため、
 その「国」以下の政治空間における儒教的な文明に基づ
 いた動きに対して抑圧すべきとされた。
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1896年1月、閣議明治27年法律第6号「比較線路決定ニ関
 スル法律」中改正および「鉄道敷設法」改正の2法律案を
 第9回帝国議会に提出(いずれも未成立)
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1896年1月、参謀本部が、「全国鉄道ヲ四呎八五ノ軌道ニ改
 築シ、且ツ、其幹線及重要ナル各枝線ヲ直チニ複線ト為
 シ若クハ他日複線ト為シ得ル如ク準備スヘキ意見」ト題
 する意見書を作成した。
  (広軌改築に関する14項目にわたる調査事項添付)
  1890年、ドイツへ留学しドイツ軍制を研究した田村(
 旧姓早川)怡与造は、この年の愛知県における陸海軍連
 合大演習で、田村は、東海道の幹線鉄道と武豊線を利用
 して人馬を輸送することを提案した。
  また、二年後の1892 年には、栃木県宇都宮周辺におい
 て陸軍特別大演習がおこなわれ、そこで彼は、日本鉄道
 と両毛鉄道を用いて騎兵以外のほとんど全軍を集結させ
 ることを考案した。
  これらの計画は、「まさにモルトケ戦術そのものであ
 った」。
  (参考)モルトケ:ドイツ、プロシア軍人。近代ドイ
     ツ陸軍の父。
      1835年、中近東を視察旅行し、そのままトル
     コ軍顧問となってその再編、近代化に尽した。
      1839年、帰国、再びプロシア軍に入り、
      1855年、フリードリヒ・ウィルヘルム (後の
     フリードリヒ3世) の副官、
      1858年、参謀総長となり軍制改革を推進し、
     デンマーク戦争 (1864年) 、プロシア=オース
     トリア戦争 (1866年) 、普仏戦争 (1870年~1871
     年) を指導、そのすぐれた戦略・戦術的才能を
     遺憾なく発揮した。
      彼が参謀部に設けた新制度 (総括的作戦指令)
     は、その後近代化されたあらゆる軍隊が範とす
     るに至った。
  鉄道輸送の利用法の考案以上に明確に、ドイツ陸軍の
 軍制を日本陸軍の制度に田村が採用したものとしては、
 操典類の制定がある。
  田村は、まず、草案という形で1889年に公布された「
 野外要務令」をまとめた。
  1887年に公にされた軍部の主張としては、当時の参謀
 本部長・有栖川熾仁親王によって政府に上奏された「鉄
 道改正建議案」がある。
  有栖川建議案は、当時すでに開通、もしくは敷設され
 つつあった諸鉄道(東海道幹線も含む)の経営方針が、
 「経済上ノ便益ノミニ」基づきすぎるものだと考え、「
 軍事上ノ要求ニ適セズ」と判断した。
  建議案の内容も、次の6項目のように、諸鉄道に対する
 軍事的要請を前面に出した。
  「鉄道改正建議案」のなかの6要項
  1、線路ノ位置ヲ防備上務メテ海岸ニ遠サカラシムル
   コト。(山県建議書に類似。鉄道線路の内陸化)
  2、軌道ノ幅員ヲ一米突四三五ニ擴ムルコト。(広軌
   化について)
  3、幹線ハ必ス複線トナスコト(複線化について。な
   お、以上の3項目が6要項のなかでも「主要ノ事項」
   とされる)
  4、隄道ノ高サヲ車輛ノ床板ト水平ナラシメ載卸ノ便
   ヲ増スコト(プラットフォームの高さの利便性向上
   について)
  5、車輛ノ幅員ヲ増廣シ其他構造ヲ改ムルコト。
  6、陸軍官憲ヲシテ大ニ鉄道ノ議ニ参セシムルコト。
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1896年2月1日、プッチーニラ・ボエーム」が初演された。
  フランスの作家・ミュルジェの自己体験によってまと
 め上げた短編集《ボヘミアンの生活情景》に基づく・・
  4幕のオペラで、もっともよく演奏されるイタリアオペ
 ラの一つ。
  初演は、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮によりト
 リノ・ レージョ劇場で行われた。
  https://www.youtube.com/watch?v=PNQVRzCKDFs
  物語は、1830年ころのパリのラテン区、芸術家を志す
 4人の若いボヘミアンたちが気ままな生活を送っている屋
 根裏部屋。
  消えたろうそくの火をもらいにきたのが縁で恋におち
 たボヘミアンの一人、詩人のロドルフォと隣に住む貧し
 いお針娘ミミの淡い恋物語
  第1幕
  パリにある、ボヘミアン仲間が暮らす屋根裏部屋。
  クリスマス・イヴ。
  画家・マルチェッロと詩人・ロドルフォが火の気の無
 い部屋で仕事をしている。
  寒さに耐えかねてロドルフォが売れ残りの原稿を暖炉
 に入れて燃やす。
  「世界の損失だ」などと軽口をたたいていると哲学者
 コッリーネが帰ってきて、何も金になることがなかった
 とぼやく。
  そこへ音楽家ショナールが食料・薪・煙草などを運ぶ
 従者たちとともに意気揚々と入ってくる。
  ショナールはこれらをどうやって稼いだかを得意げに
 語るが、誰も耳を貸さず貪るように食料に飛び付く。
  しかし、ショナールはワイン以外は取り置いて、「今
 夜はクリスマス・イヴなのだから、皆でカフェ・モミュ
 スに繰り出そう」と提案し、一同大賛成する。
  そこへ家主のブノアが未払い家賃の催促にやってくる。
  ボヘミアンたちはブノアにショナールの金を見せて安
 心させ、ワインをすすめておだてる。
  家主が酔った勢いで、妻があるにもかかわらず浮気を
 していたことを語ると、一同憤慨したふりをして家主を
 部屋から追い出してしまう。
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1896年2月3日、衆議院議員市島謙吉ほか31名、第9回帝国
 議会において、「東海道鉄道複線敷設ニ関スル質問書」
 を提出し、広軌の単線か狭軌の複線かについて政府狭軌
 複線案提出に関して答弁を請求・・
  翌4日、逓信大臣は、「衆議院議員市島謙吉君提出
 東海道鉄道複線敷設ノ件質問ニ対スル答弁書」で、政府
 は広軌改築案を認めない旨答弁した。
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1896年2月5日、豊州鉄道の伊田駅~後藤寺駅間が開通した。
  豊洲鉄道は、田川地域の石炭搬出を主目的として設立
 された。
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1896年2月5日、李範晋が、ロシアの指示で春川、忠清道
 暴動を起こした。
  また、日本の電信線を切断したりした。
  李氏朝鮮の末期は、朝鮮為政者の権力闘争や、様々な
 国の権益を売却し、また、ロシアには半植民地化される
 という状況あった。
  その様な状況の中で、各地で暴動が発生した。
  また、財政難で改革に手が付けられないという、数々
 の問題を抱えていた。
  欧米列強も朝鮮の権益を得るという草刈り場状態の中
 に居た。
  李氏朝鮮は、陸続きの中国・清の冊封体制下にあった。
  その様な中で近代法体系が整わず、国民の教育に手が
 回らず、産業基盤もほとんどない状態だった。
  1896年、高宗勅令で、閔妃殺害事件の犯人として特赦
 された趙羲淵、禹範善、 李斗璜、李軫鎬 李範来 権濚鎮
 の首を持ってロシア公館に持参せよと命令した。
  この様な中、この日にロシアの指示によって李範晋が
 暴動を起こした。
  そして、1896年2月10日、ロシア軍が王宮に突入した。
  150名のロシア兵と共に、漢城へ大砲が運び込まれた。
  高宗が、ロシア公使館で政務を執り行うという状況に
 なり、親露派の政権の李氏朝鮮は、財政不足から、不平
 等条約による治外法権どころか、様々な権益、鉱山の採
 掘権や森林伐採権、鉄道の施設権が欧米列強諸国へ売り
 渡された(李氏朝鮮は欧米の草刈り場状態)
.
  (今日の言葉)
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  題:電磁パルス攻撃が・・一旦、起きれば・・
    敵味方なく・・人類は絶滅へ・・人類の歴史も終結する・・
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1580年、豊臣秀吉は、スペインのフェリペ2世へ「日本は
 神の国である」と毅然と言った。
  スペイン王の命令を受けたコロンブスが、1492年、大
 西洋を渡ってアメリカ大陸の手前の西インド諸島に達し
 た。
  それから、79年後、1571年10月7日に起きたレパント
 海戦(ヨーロッパでの初めての大海戦、参加した船は285
 隻)で、キリスト教国は、イスラム教国を破り、閉ざさ
 れていた東の海域を開いた。
  この時、このレパントの海戦で戦ったのがスペイン・
 ベネチア連合海軍と、オスマン帝国海軍だった。
  スペイン王は、フェリペ2世だった。
  因みに、フィリピンという国の名は、このフェリペ2世
 から取った名であり・・、
  最近、フィリピンのドテルテ大統領は、この国の名は
 フィリピンの汚辱に満ちた歴史上の由来の名前だから「
 変えよう」という話がある。
  このフェリペ2世と対等に渡り合ったのが日本の豊臣秀
 吉だった。
  秀吉は、一歩も引かずに、スペインなどのキリスト教
 の欺瞞に満ちた行為(日本の娘たちを売る人身売買や植
 民地化など)を糾弾した。
  そして、ルソン島(フィリピン)のキリスト教本部へ、
 「日本を植民地などにするな」などとの書簡を送った。
  ルソン島のスペイン総統は、「日本にはすごい男が居
 る」、「どうしたらよいか?」と、スペイン本国へ打診
 した。
  1580年、秀吉は、毅然としたしっかりした態度で、フ
 ェリペ2世と書簡を交換した。
  「日本は神の国である」、それ故、「日本は耶蘇教(
 キリスト教)を受け入れる訳にはいかぬ」と、自分の意
 見を突き付けた。
  同時に、物品の交換もしている。
  また、秀吉は、「何故、日本を植民地にしようとする
 のか?」と正論を言った。
  日本の秀吉は、フェリペ2世と対等に正義と正論を貫い
 た。
  フェリペ2世は、日本のキリスト教宣教師たちへ「日本
 には手出しをするな」(余計な植民地への動きはするな)
 と指令した。
  この時、フェリペ2世から豊臣秀吉へ送られた物は「
 立派な鐙(あぶみ)の付いた黒アラビア馬1頭と、沢山の
 宝物(ほうもつ)」だった。
  日本からは、鎧兜(よろいかぶと)や種々の立派な贈
 り物を贈り返した。
  これらの鎧兜などは、今でもマドリッドの博物館に貯
 蔵され、陳列されている。
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17世紀、ロシアは、シベリア東部に進出し、中国の清と戦
 争を繰り返した。
  1689年には、中国の清(満州族国家)とネルチンスク
 条約が結ばれている(中国の現政権の漢民族ではない満
 州族国家との条約)
  シベリア・・それは、ロシアのウラル山脈以東のアジ
 ア部であって、東は太平洋岸までで・・
  北は北極海から、南はカザフスタンやモンゴルとの国
 境までの地域・・
  それは、東西 7000km以上、南北 3500km、面積約 1000
 万km2 (太平洋岸まで含めると約1300万km2)
  16世紀、西シベリアにあったシビル・ハン国に、また
 は、チュルク語のシブ (「眠っている」の意) 、イル (
 「土地」の意) に由来するという。
  永久凍土帯が広く分布している。
  シベリアは、地下資源に恵まれていて・・石炭、石油、
 天然ガス、ダイヤモンド、金、鉄、ニッケルなどを埋蔵
 している。
  16世紀後半のロシアのシベリア進出以前は、フィン=
 ウゴル語派に属する言語をもつ諸民族や、古アジア諸族
 などが住んでいた。
  これらの人々は、牧畜、狩猟に従事していた。
  ヤクート(サハ)族、トゥバ族、ブリヤート族などは
 それぞれ共和国を形成していた・・
  そのほか、コリヤーク、チュクチなどいくつかの民族
 については自治管区(もと民族管区)が設けられている。
  今、約3200万人が住み(1989年)、95%が移住者。
  また、アンガラ川河岸に、旧石器時代後期のマルタ遺
 跡、ブレチ遺跡がある・・
  また、各地に新石器時代青銅器時代の遺跡がある。
  また、紀元前3世紀末には、匈奴(きょうど)が、シベリ
 アをその領土に加えている。
.
1774年、米中貿易の最初
  アメリカは、アメリカの東部に産する「野生の朝鮮ニ
 ンジン」を、アメリカ船「エンプレス・オブ・チャイナ」
 に積み、中国・清の広東へ向かった。
  これが、米中貿易の最初だった。
  ペリーが、日本に来る79年前の事だった。
  イギリスの弟分のアメリカの「自立へ向かっての動き」
 だった。
  そして、この頃から、アメリカは、急速な発展をして
 行く。
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19世紀、イギリス帝国とロシア帝国は、中央アジアを盗り
 合って戦った(グレート・ゲーム
  砂漠や大山脈が舞台となったこの戦いは、探検隊めい
 た戦いだった。
  この中央アジアの覇権を巡るロシア帝国とイギリス帝
 国の敵対関係・戦略的抗争は、一体化して行く世界にあ
 って、空白域となっていた地を巡る戦いだった・・
  そして、これをグレート・ゲームと称する。
  その主とするところは、アフガニスタンの争奪抗争で、
 舞台は、コーカサスからチベットにおよぶ広大な地域に
 およんだ。
  これに、アメリカや中国が加わり、このグレート・ゲ
 ームは、今なお引き継がれていると言える。
  一般的には、1800年代初頭に始まり、1907年の英露協
 商協定をもって終結したとされている。
  この第1期の中に、香港・上海に拠点を得て、海上から
 清朝を侵略したイギリス帝国と・・
  シベリアに鉄道を敷設し、満洲から清朝を侵略したロ
 シア帝国との競争が・・
  中国・朝鮮・日本といったアジア諸国を巻き込んで争
 われた・・極東において進行した。
  (参考)英露協商協定:1907年8月 31日、イラン、ア
     フガニスタン、チベットに関してイギリスとロ
     シアが結んだ協約。
      アジアにおける両国の利害対立から、日露戦
     争に際しても、イギリスはロシアに敵対的な外
     交政策をとった。
      しかし、ロシアの敗北、ドイツの強硬な世界
     外交をみて、中東における英露の勢力範囲を調
     整し、ドイツ包囲の協商網の実現をはかろうと
     し、1906年から交渉を進め、ペテルブルグで協
     約を成立させた。
      内容は・・
     (1) イランについては、テヘランを含む北部お
      よび中部をロシアの、南東部をイギリスの勢
      力範囲とし、その間に緩衝地帯をおく。
     (2) アフガニスタンについては、イギリスの勢力
      範囲とする。
     (3) チベットについては、中国の宗主権を認め、
      内政不干渉を守る、など。
     この協商の結果、ドイツ包囲の英仏露三国協商
     が成立した。
.
1855年2月7日、日露通好条約で、国後島択捉島が、日本
 の領土と確定した。
  日米和親条約に続き、下田で日本側全権・筒井政憲(ま
 さのり)・川路聖謨(かわじとしあきら)と、ロシア特派大
 使プチャーチンが調印した日露間の和親条約。
  国境を択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間とし、
 樺太(からふと)(サハリン)には国境を設けないとした
  (日本の主権がおよぶ混住の地とした)
  国境を北緯50度を国境とすることを議題とした。
  また、ロシア船のために箱館(はこだて)、下田、長崎
 を開き、船の修理と薪水(しんすい)・食料・石炭の供給
 をすること、および、箱館、下田のうち一港に領事を置
 くことを定め、居留民は相互に本国の法で処分する双務
 的領事裁判権を認めた。
  1858年、安政五か国条約の一つとして日露間に修好通
 商条約が結ばれたが、この条約も他の諸国との条約と異
 なり、領事裁判権最恵国条款が双務的であった。
.
1866年10月、丙寅(へいいん)の洋擾(ようじょう)
  李氏朝鮮フランス帝国は戦いとなった。
  この時の朝鮮の近代化は遅れていて、近代的な軍隊と
 戦った最初の経験となった。
  しかし、戦いは、文殊山城の戦いと鼎足山城の戦いに
 勝利した朝鮮軍側の優位に進んだ。
  また、同時期に発生したゼネラル=シャーマン号焼き
 討ち事件によるアメリカ合衆国の侵略介入行動が阻止さ
 れた(辛未洋擾)
  アメリカの武装商船シャーマン号が交易を求めて大同
 江を遡上して侵略し、交戦も行ない、最後は平壌付近で
 焼き沈められ、乗組員の全員が戦死した。
  アメリカ船やフランス艦隊が朝鮮へ侵略した際に、柳
 麟錫(りゅうりんしゃく)は朝鮮国王へ意見書を提出す
 る斥和上疏運動を行なった。
  尚、この後、朝鮮は孤立路線を取る・・そして、この
 10年後に結ばれれる日朝修好条規が締結され、朝鮮は目
 覚める。
.
1867年8月28日、アメリカの領土欲・・ミッドウエイ諸島の
 侵略・領有など・・
  領土拡張欲に乗っかり、この年、アラスカをロシアと
 談判し、買収した(ロシアが持ち主などではないアラス
 カを、買うという演技をした)。
  そして、続けて、アリューシャン列島を経て、満州
 竜江(こくりゅうこう)に至る電信線(海底ケーブル)
 の架設を企て・・、
  さらに、この年・1867年、ハワイ王国のミッドウェー
 諸島を侵略し、領有し、島名を改名した。
  そして、ウィリアム・マッキンリー大統領と、セオド
 ア・ルーズベルト大統領の両大統領の時代(1897年~1909
 年)からアメリカの帝国主義の政策が強くなった。
.
1881年アメリカが、海軍の軍備拡張に乗り出した。
  「国益を確保したい」。
  美しく言えば上記のような言い方となるが、欲に絡ん
 で『儲けたい』ということだった・・金が欲しいという
 ことだった。
  西欧列強各国は、これで競って来ていた。
  何も人類社会を「良くしよう」などという頭は微塵も
 無かった。
  その西欧列強の競いには、当然、武力の軋轢(あつれ
 き)が生じた。
  その態度の前提に・・「自分たちは進んだ武力を持っ
 ている」という卑怯な卑劣な前提があった。
  そこで、さらに、西欧列強各国は、自国の武力を研ぎ
 澄ます事に専念した。
  そして、スエズ運河が出来て・・出やすくなったアジ
 アがその収奪の地となった・・儲けの場となった。
  この様なヨーロッパ各国が、列強の国々が、アジア諸
 国を植民地とした・・
  この様なこの頃・・盛んに美味しい汁を吸うヨーロッ
 パ諸国の巧い行為をを見ながら・・アメリカは出遅れて
 いた・・出遅れてやって来た。
  残っている所は・・中国(支那)しかなかった。
  アメリカは、中国やアジアの儲けの場へ行くために「
 パナマ運河」を拓(ひら)く必要性を考えた(1914年、
 開通)。
  しかし、その前に、パナマ運河を我が物とするまでに、
 没落したとはいえ覇権を誇示するスペインの「カリブ海
 があった。
  そして、その海域の「キューバ」は、盛んにスペイン
 へ貢(みつ)がされていた・・キューバは、収奪を行な
 っているスペインの植民地だった。
  アメリカは、そのスペインを叩かねばならないと思っ
 た・・
  その為にも、「海軍力の増強の必要性を痛感するアメ
 リカ」だった。
  アメリカは、1881年から、海軍拡張を行なった。
  そして、海軍力が整った1898年、アメリカは、スペイ
 ンと戦争を行なった(米西戦争
  そして、アメリカは、パナマ運河を通りその軍艦と共
 にアジアへと向かった。
  当然、戦いが発生するとしていた。
  この様なアメリカの動きの中で、「スペインの時代は
 去った」。
  このアメリカとスペインの戦争も、アメリカの汚い引
 っ掛けから戦争が始まった。
  アメリカは、歴史上この様な事ばかりをしている。
     ・
     ・
2007年9月12日、NHK関連団体の剰余金886億円、検査院
 が改善求めた(読売新聞、2007年9月12日)
.
2008年5月、東京国税庁がNHKに対して消費税約13億
 3千万円の申告漏れを指摘した(脱税行為)
.
2017年8月27日、「電磁パルス攻撃」の脅威 
  上空の核爆発で日本全土が機能不全に・・と報じられ
 た。(産経新聞、2017年8月27日)
  北朝鮮が、核兵器弾道ミサイルで挑発を続けるなか、
 もう一つの深刻な脅威として「電磁パルス攻撃」の可能
 性が指摘されている。
  上空で核爆発を起こし、広範囲で都市機能を破壊する
 もの・・
  北朝鮮は既に攻撃能力を持つとみられるが、日本の対
 策はほぼ手つかずで、専門家からは懸念の声が上がる。
  大規模停電の恐れ
  電磁パルス攻撃は、高度30~400キロの上空で核
 爆発を起こして行う。
  その際に生じたガンマ線が、大気を構成する窒素や酸
 素などの分子に衝突。
  分子に含まれる電子がはじき飛ばされて雷のような巨
 大な電流が発生するなどした結果、強力な電波の一撃で
 ある電磁パルスが地上に襲いかかる。
  電磁パルスは、送電線を伝ってコンピューターなどの
 電子機器に侵入。
  その電圧は5万ボルトに達するため、機器はIC(集
 積回路)の機能停止で損壊し、同時に大規模な停電も発
 生すると予測される。
  核爆発に伴う熱線や衝撃波は、地上には届かない。
  影響範囲は、爆発の高度や規模によるが、高度100
 キロで広島型原爆の3分の2に相当する10キロトン(
 TNT火薬換算)の場合、日本全土をほぼ覆う半径約
 1100キロにも達する。
  1962年に、米国が北太平洋上空で行った高高度核
 実験「スターフィッシュ・プライム」では、高度400
 キロの宇宙空間での核爆発で電磁パルスが発生。
  爆心から1400キロも離れた米ハワイ・ホノルルな
 どで停電が引き起こされ、その威力が実証された。
  空から襲う“津波
  現代社会は、電気なしでは成り立たない。
  電磁パルス攻撃によって大規模な停電が発生し、公共
 インフラを支える電子機器が損壊すれば、都市機能はま
 ひする。
  電話やインターネットなどの通信やガス、水道の供給
 が停止。
  飛行中の航空機が操縦不能になったり、電力を絶たれ
 た原子力発電所が制御不能に陥ったりする恐れも指摘さ
 れている。
  米国の専門家チームが、今世紀に入ってまとめたシナ
 リオでは、10キロトンの核爆弾がニューヨーク付近の
 上空135キロで爆発した場合、被害は首都ワシントン
 を含む米国東部の全域に及ぶ。
  損壊した機器を修理する人員や物資が大幅に不足し復
 旧には数年を要し、経済被害は最悪で数百兆円に達する。
  電磁パルスは健康に直接影響しないとされるが、食糧
 不足や病気などで死傷者は数百万人に上ると推定してい
 る。
  元陸上自衛隊化学学校長の鬼塚隆志氏は・・
  「電磁パルス攻撃は宇宙から襲う津波のようなものだ。
  被害を完全に防ぐことは難しくても、備えを固めるな
 どして減災に取り組む必要がある」と強調する。
  「日本は無防備」
  電磁パルス攻撃は、地上への核攻撃と違い、ミサイル
 の弾頭部分を大気圏再突入時の高熱から守る技術は必要
 ない。
  小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空
 で起爆するだけだ。
  米国防総省の内部では、北朝鮮が既に核弾頭の小型化
 に成功したとの見方もある。
  成功が事実なら、弾道ミサイル人工衛星を搭載した
 ロケットが上空を通過するとみせかけ、日本の真上の宇
 宙空間で核爆発を起こすことも可能だ。
  日本の領土や領海に着弾する恐れがない場合、迎撃ミ
 サイル発射のタイミングを逃す可能性は十分にある。
  電磁パルス攻撃は、米国やロシア、中国も能力を保有
 しているとされる。
  核爆発以外の方法でも可能だ。
  米露中のほか、北朝鮮や中国の脅威にさらされる韓国
 や台湾でも、インフラや軍などの防護対策が進んでいる。
  これに対し日本は、取り組みが遅れている。
  電子戦に関わる研究開発を担う防衛省の電子装備研究
 所は、電磁パルス攻撃を受けた場合に「(自衛隊の)指
 揮・統制機能が無力化される恐れ」があるとして、今秋
 にも防護技術の動向調査を始める。
  だが、その内容は、攻撃の脅威に関する調査や、防護
 技術の実現に向けた課題の明確化など基礎的な検討にと
 どまる。
  電磁パルスが、防衛装備品に与える影響に詳しい企業
 関係者は・・、
  「日本には、電磁パルス攻撃への備えがまともに存在
 しない。
  社会全体が無防備な現状は非常に危険だ」と警鐘を鳴
 らす。
.
2017年9月11日、電磁パルス攻撃
  産経ニュース(2017年9月11日)に以下のことが記され
 ている(抜粋)
  北を「石器時代」に戻す米国の「贈り物」電磁パルス
 攻撃受けるのは金正恩氏 地中貫通核爆弾も!
  北朝鮮が「石器時代に戻る」可能性が浮上している。
  地中貫通核爆弾は後回しにし、まずはEMP攻撃とは
 何かの復習・・
  EMP攻撃は、高度30~400キロの上空での核爆
 発を起点とする。
  その時生じたガンマ線が大気を構成する窒素や酸素な
 どの分子に衝突。分子中の電子がはじき飛ばされて雷の
 ような巨大な電流が発生するなどした結果、強力な電波
 の一撃であるEMPが地上に襲来する。
  「宇宙より押し寄せる津波」に例えられるゆえん。
  EMPは送電線を伝ってコンピューターといった電子
 機器に侵入。
  電圧は5万ボルトに達するので、機器はIC(集積回
 路)の機能停止で損壊し、同時に大規模停電にも見舞わ
 れる。
  影響範囲は爆発の高度や規模によるが、高度100キ
 ロで広島型原爆の3分の2に相当する10キロトン(T
 NT火薬換算)のケースでは、日本全土をほぼ覆う半径
 約1100キロにも達する。
  現代社会は電気なしでは成り立たない。
  大規模停電で公共インフラを支える電子機器が損壊す
 れば、都市機能はマヒする。
  携帯電話&電話&インターネットなどの通信やガス&
 水道の供給が停止。
  飛行中の航空機が操縦不能になり、電力を絶たれた原
 子力発電所が制御不能に陥る。
  自衛隊・警察・消防の指揮・命令系統や金融機関も機
 能不全となる。 
  EMP攻撃は地上への核攻撃と違い、ミサイルの弾頭
 部分を大気圏再突入時の超高熱から守る素材や突入角度
 制御に関わる技術は必要ない。
  小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空
 で起爆するだけ。
  米国防総省では、北朝鮮が既に核弾頭の一定程度の小
 型化に成功し、EMP攻撃能力を備えたと確信している。
  この恐るべき兵器を米国は当然、研究・開発し、実戦
 段階まで昇華している。
  実際、米国は1962年、北太平洋上空で高高度核実
 験《スターフィッシュ・プライム》を実施、高度400
 キロの宇宙空間での核爆発でEMPを発生させた。
  ところが、爆心より1400キロも離れた米ハワイ・
 ホノルルなどで停電が引き起こされ、予想通りの「魔力」
 が実証された。
  米国の専門家チームが近年まとめたシナリオでは、10
 キロトンの核爆弾がニューヨーク付近の上空135キロ
 で爆発すると、被害は首都ワシントンが所在する米国東
 部の全域に及ぶ。
  損壊した機器を修理する技術者や物資が大幅に不足し、
 復旧には数年を要し、経済被害は最悪で数百兆円に達す
 る。
  EMP攻撃で、北朝鮮の核・ミサイル施設&基地を含
 む軍事拠点や各種司令部&各部隊間をつなぐ電子・通信
 機器=指揮・統制システムを不通にできれば、もはや戦
 (いくさ)はワンサイド・ゲームと化す。
  その上、EMP攻撃敢行のハードルは、核爆弾の直接
 攻撃に比べハードルが低い。
  EMPの場合、核爆発に伴う熱線や衝撃波は地上には
 届かない。
  EMPは被攻撃側の人々の健康に直接影響しない。
  半面、食糧不足や病気などで数百万人単位もの死傷者
 は出る。
  病院をはじめ、無線などの情報通信やテレビ・ラジオ
 もマヒし、被害情報把握も救援・復旧活動も困難に。
  信号機も突如消え、交通事故や火災で死者を増やし、
 大パニックに陥るため。
 こうした、一般の北朝鮮国民への被害をどう局限し、国
 際世論の批判をかわすか、米国は今、シミュレーション
 を繰り返している。
  もちろん、米国にとり最優先事項は人道ではなく、E
 MPの届きにくい地下坑道に陣取る北朝鮮朝鮮人民軍
 の通常・核兵器による報復の芽を摘み取る点にある。
  核施設の制御不能回避も大きな課題だ。
  以上の課題も、米国は着々と解決している。
  ところで、北朝鮮の韓大成・駐ジュネーブ国際機関代
 表部大使は5日、あろうことかジュネーブ軍縮会議で「
 米国が北朝鮮に圧力を加えようと無駄な試みを続けるな
 ら、わが国のさらなる『贈り物を受け取ることになる』
 だろう」と演説した。
  が、現実には『贈り物を受け取ることになる』側は、
 北朝鮮になるかもしれない、ということだ。
  20階建て鉄筋ビルを貫通して爆破する「大型貫通爆
 弾=MOP」
  さて、《地中貫通核爆弾》を論じたい。 
  バラク・オバマ政権は、政権の最終盤に入って、よう
 やく北朝鮮の脅威に気付いた。
  昨年11月の政権引き継ぎ会談で、当時のオバマ大統
 領は、大統領選挙を制したドナルド・トランプ次期大統
 領に、「米国の最大脅威は北朝鮮」だと、自戒を込めて
 伝えた。
  米国防総省も引き継ぎ直前、秘中の秘たる《地中貫通
 核爆弾B-61タイプ11》の模擬弾投下試験を超異例
 にも公表。
  大統領選で激突していたトランプ候補とヒラリー・ク
 リントン候補に、暗に覚醒を促した。
  地中貫通核爆弾B-61タイプ11こそ、朝鮮人民軍
 がこもる地下要塞殲滅の切り札だ。
  朝鮮人民軍の指揮・統制施設や、核・生物・化学兵器
 &弾薬の貯蔵施設といった軍事中枢は、地下深くにあっ
 て分厚い岩盤+ベトン(コンクリート)で鎧われ、坑道
 も十重二十重に掘られている。
  陸軍の火砲や地対艦ミサイルも坑道内を移動して、射
 撃時に「顔」を出す。
  空軍の軍用滑走路は低山の斜面をえぐって造られ、軍
 用機は通常、滑走路横の低山内の坑道に格納される。
  海軍基地も、沿岸部をくりぬいた坑道内に小型艦艇/
 小型潜水艦・潜水艇/半潜水艇を収容する。
  この種の海軍艦艇は、戦端が開かれる前や直後に工作
 員や特殊作戦部隊員を乗せ韓国近海に侵入、上陸して要
 人テロや軍・政治・経済中枢破壊を実行するプラットフ
 ォームになる。
  2012年に、国際問題誌ディプロマットは《軍事衛
 星の監視を外れる地下航空基地は20カ所、地下砲兵陣
 地は数千カ所》と報じる。
  米軍は、国土が要塞化されている北朝鮮の特性を受け、
 地中貫通爆弾+核爆弾の組み合わせによる北攻撃を立案
 している、と筆者はみる。
 (1)非核弾頭を搭載した通常型地中貫通爆弾=バンカ
   ーバスター
 (2)核爆発力を抑えた「小さな核爆弾=ミニ・ニュー
   ク(戦術核)」
 (3)通常型地中貫通爆弾では破壊できぬ深く堅牢な地
   下施設を破壊する、「小さな核爆弾」を装填した地
   中貫通核爆弾
  上記の3種類の使い分け・・
  使い分けは、作戦と予想される戦況によって変わる。
  軍用機や潜水艦を敵の攻撃から防護する掩体壕を撃ち
 抜く地中貫通爆弾=バンカーバスターは第2次世界大戦
 (1939年~1945年)時には実戦投入されていた
 が、イラククウェート侵攻で勃発した湾岸戦争(19
 91年)でも、イラク軍の地下司令部を無力化すべく使
 用された。
  しかし、北朝鮮とイランが進める核・ミサイルの脅威
 が高まると、従来の地中貫通爆弾では地下施設に対して
 破壊力不足だとの実験・シミュレーション結果が判明し
 た。
  そこで開発した切り札が、格段に大きな破壊力を有す
 《大型貫通爆弾=MOP》である。
  米空軍のB-2ステルス戦略爆撃機の弾倉に搭載され
 るMOPは、1万メートルの高高度で投下され、猛烈な
 重力加速度を付けて落下する。
  弾頭部分は、弾着時の強烈な衝撃に耐えるように高強
 度鋼を鍛造して仕上げている。
  GPSや慣性航法装置による自律誘導で、発射された
 爆弾の半数が目標の2メートル範囲内に着弾する。
  貫通力は、一般の分譲マンションが使用する鉄筋コン
 クリートの強度に比し、はるかに硬い標的を相手にして
 も、60メートル(20階建てビルに相当)も「深掘り」
 する。
  その倍の強度=超高層マンションの基礎部分の柱に使
 われる鉄筋コンクリートでも8メートルを突き進む。
  標準的な硬岩なら40メートル下まで達する。
  限界深度に到達後に起爆して、地下施設を吹っ飛ばす。
  大型貫通爆弾=MOPのパワー・アップ費&生産費や、
 MOPのプラットフォームとなるB-2ステルス爆撃機
 の改修費について、米国防総省は2000年代に入り近
 年でも頻繁に請求 → 認められている。 
  対する北朝鮮の核・ミサイル施設は地下深く、鉄筋コ
 ンクリートや硬岩、鋼鉄などを巧みに組み合わせて構築
 されている。
  しかも、時間の経過とともに地下施設は補強され、強
 度を増している。
  かくして、米国が「克服しなければならない課題」は
 多数残っている。
  けれども、「克服しなければならない課題」は着実に
 「克服」されているもようだ。
  30センチ以下の動く対象を捉える米国の偵察衛星
 移動式発射台のワダチをさかのぼり、核・ミサイル格納
 トンネルを特定する。
  軍事利用している衛星の種類には資源探査型があり、
 地質構造・地表温度を識別して、地下施設・坑道の構造
 や深度が一定程度判別可能だ。
  こうして長年蓄積し続けた膨大な量の偵察・監視資料
 を精緻に総合的に再分析する。
  すると、見えなかった地下施設が浮かび上がる。
  例えば、地下施設建設前と建設後で、地上地形がどう
 変化していったか/地形変化のスピード/掘削機の能力
 割り出し/トラックで運び出される土砂の量/トラック
 で搬入されるセメント・鉄骨・鋼板などの量/労働者数…
 など。
  地下施設といえども、兵器や技術者、軍人が出入りす
 る出入り口は絶対に必要だ。
  換気施設も然り。
  絶好の監視対象であり爆撃ポイントになる。 
  北朝鮮金正恩朝鮮労働党委員長の秘密居所は、地
 下150メートルともいわれ、MOPですら荷が重い恐
 れがあるが、先述の《地中貫通核爆弾B-61タイプ11》
 であれば確実に粉砕する。
  《電磁パルス(EMP)攻撃》と同様、地中貫通核爆
 弾B-61タイプ11は、他の核搭載兵器に比べ、実戦
 投入のハードルは低い。
  爆発威力を抑えれば、地下での起爆であり、一般国民
 の住む地上の被害を抑え、核汚染被害も局限できる。
  地下に蓄えられる朝鮮人民軍の生物・化学兵器も、核
 爆発力を抑えた「小さな核爆弾=ミニ・ニューク」が発
 する熱波で蒸発 → 無害化に一定程度貢献しよう。
  やっぱり、「贈り物」が届く先は金正恩委員長が震え
 ながら閉じこもる「地下の住まい」・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)637E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)

題:(増補版)637E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年、スポーツ
・第1回国際オリンピック大会
  近代オリンピック競技大会の第1回大会が、フランス
 のピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、ギ
 リシャのアテネで開催された(1896年4月6日~1896年4月
 15日)
  開会式は、アテネのパンアテナイ競技場に5万人の観
 衆を集めて行なわれ・・参加国は欧米先進国の14か国だ
 った。
  選手は、男子のみで280人で、古代オリンピックと同じ
 ように女子禁制の大会だった(参加人数241人説あり)
  実施競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェン
 シング、射撃、自転車、テニスの8競技43種。
  ヨットも予定されたが悪天候のため中止になった。
  ウエイトリフティングは、体操の一種目として実施さ
 れた。
  観衆に人気の陸上競技は、アメリカが圧倒的な強さを
 発揮し、全11種目のうち9種目において優勝した。
  ギリシャの財政事情によって金メダルは無く、優勝者
 には銀メダルが、第2位には銅メダルが、第3位には賞状
 が授与された。
  記録は、100メートル陸上競技男子は12秒0で、アメリ
 カのトーマス・バークが優勝した。
  金メダル獲得数、アメリカ(11)、ギリシャ(10)、
 ドイツ(6)、フランス(5)、イギリス(2)、ハンガリ
 ー(2)、オーストリア(2)、オーストラリア(2)、デ
 ンマーク(1)、スイス(1)、混合チーム(1)
  オリンピック賛歌は、この第一回アテネオリンピック
 で演奏されたもの・・スピロ・サマラス作曲、コスティ
 ス・パラマス作詞
・野球の日本最初の国際試合(1896年5月23日)
  旧制一高ベースボール部対横浜在留アメリカ人が、横
 浜公園での対戦した。
  結果は29対4で、一高の大勝した。
  この時、日本は捕手以外は素手でやった。
  この頃の野球は、雨が降ると蓑笠(みのかさ)を付け、
 頭には白はちまき、腰に越中フンドシ、ワラジばきとい
 ういで立ちであった。
  ある遊撃手が袴(はかま)を着て出場し、「礼節を知
 る選手」と相手チームより絶賛されたが、実際はゴロを
 後逸しないためであった。
  当時、ストライク・ゾーンが三つあり、目から胸まで
 を「ハイボール」、腰までは「フェアボール」、膝まで
 は「ローボール」と言った。
  そして、打者は審判に向かい「余はハイボールを欲す」
 と予告し、そこに球が来なければ「ボール」になった。
  「相手の弱点を狙わず。欲するものを与えて勝負する」
 のが正々堂々の試合とされたという・・
  尚、大負けしたアメリカチームは、再試合を申し込ん
 で来て、アメリカチームは、アメリカ東洋艦隊の選りす
 ぐりのオールスターチームを結成し、再戦したが、日本
 チームが32対9で返り討ちにして連勝した。
  正岡子規は、この第一高等中学の野球選手だった、そ
 して、1890年に卒業し、帝国大学文科に入学している。
  記録によると(1896年分の外国試合み記載)・・、
  1896年5月23日、在留米国人と横浜で試合して29対4で
   日本が勝利
  1896年6月5日、在留米国人と横浜で試合して32対9で
   日本が勝利
  1896年6月27日、米軍艦デトロイト号乗組員チームと
   向ヶ丘で試合をして22対6で日本の勝利
  1896年7月4日、在留米国人と米軍艦オリンピア号の連
   合チームと横浜で試合をして12対14で日本の負け、
   この試合にはアメリカチームにプロ野球選手のチャ
   ーチが入っていた。
・日本初のボクシングジムができる。
  米国帰りの元柔道家・齋藤虎之助とジェームス北條の
 2人が、横浜市石川町に日本初のボクシングジム「メリケ
 ン練習所」を開設した。
  そして、1902年に、横浜山手公会堂(パブリックホー
 ル)でボクシングの試合が行われた。
  そのことを時事新報は・・
  「目下横浜市山下町グランドホテル滞在中なる拳闘家
 スラヴィン氏と同市喜楽座に演芸中なる怪力家ルシフア
 ー氏との拳闘仕合は既報の如く愈々本日午後五時三十分
 より同市山手町パブリックホールに於て開会せらるゝ筈
 にて、当夜は本邦駐在英国公使マクドナル氏も見物する
 由」
.
1896年、伝染病
赤痢が大流行をして、全国の死者数が22,356人となる。
 志賀潔は、この翌年の1897年12月25日に、苦心して赤痢
 の病原菌を発見した。
・腸チフスが流行し、死者数が9,174人となる。
.
1896年、天変事変
・明治三陸地震・大津波、死者2万人(1896年6月15日)
 午後7時32分30秒、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜
 石市)の東方沖200kmの三陸沖(北緯39.5度、東経144度
 を震源として起こった。
 マグニチュード8.2~8.5の巨大地震
  更に、地震に伴って、東北地方太平洋沖地震前まで本
 州における観測史上最高の遡上高だった海抜38.2mを記録
 する津波が発生し、甚大な被害を与えた。
  (参考)津波の遡上高:陸を駆け上って到達した高さ。
  (注意)この地震は、震度分布に基づいて長らくマグ
     ニチュード7.6とされてきた・・しかし、津波
     大きさを考慮して数値が改められているた「理
     科年表 平成18年」
  大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7
 分に記録された。
  遡上高は、気仙郡吉浜村(旧:気仙郡三陸町吉浜、現:
 大船渡市三陸町吉浜)で22.4m、
  同郡綾里村(旧:気仙郡三陸町綾里、現・大船渡市三
 陸町綾里)で21.9m、
  綾里湾の奥では入り組んだ谷状の部分を遡上して、日
 本の本州で観測された津波では当時最も高い遡上高であ
 る海抜38.2mを記録する。
  この時、ハワイへも2.4m~9.14m、カリフォルニアに
 2.90mの津波が到達している。
  ハワイでは波止場が破壊され、住宅の複数棟が流失し
 た(カリフォルニアの被害記録はなし)
信濃川の堤防各所が決壊した(1896年7月22日)
  信濃川の洪水として有史以来の過去最大規模。
  破堤地にちなんで「横田切れ」と呼ばれている。
  破堤してから21日後でも、新潟市新通は、まだ浸水し
 ていた。
  長岡市中之島は、浸水が引かないため堤防上に小屋を
 建てて生活する人も居た。
  「横田切れ」による被害は、死者43名、浸水家屋43684
 戸、浸水耕地58254ヘクタール。
  新潟市から長岡市のほぼ全域が浸水する大水害だった。
  この後、原田貞介が大河津分水工事改良案を提出し、
 1909年、原田案をもとに、第二期大河津分水路工事が建
 設された。
  難工事で100名以上の殉職者を出しながら、1922年に、
 通水に成功し、2年後の1922年、皆が待望し悲願した完成
 に至った。
  この分水によって、この後、信濃川本流が破堤するこ
 とはなくなった。
  (史料)大河津水位14尺4寸(4.32m)となる。
      各地の被害は・・木津に破堤あり亀田郷は皆
     無作となる・・白根郷では赤渋字赤池の安中542
     の上手が破れ、新築早々の五幣氏宅は根こそぎ
     流される。横田でも破堤し泥海となった(大洪
     水:横田切れ)鷲ノ木の煉瓦水門が損傷し漏水。
  初期の1918年~1941年に、千曲川第一期補修工事が進
 目られていたが、洪水は1年おきぐらいにどこかで起きる
 という状況で、苦労させられていた。
  尚、現在も補修事業は進められている。
.
1896年、その他
勝海舟が、明治27年、28年事件の功により金盃一組下賜
 (氷川清話)
勝海舟、老衰につき辞表を奉呈す(氷川清話)
勝海舟、旨を伝え辞表却下される(氷川清話)
・臨時軍事費特別会計終結した。
 日清戦争の臨時軍事費特別会計が編成されたのが、1894
 年6月1日からだったが、1896年3月末日で終結した。
・陸軍を13師団に拡張した。
 陸軍は、師団を6個増設して13の師団・師管を作ることに
 なった。
 この軍備増強のため札幌に陸軍第7師団 が編成された。
 北海道の開拓と警備を担った屯田兵がその基盤となった。
 日本は、北海道を屯田兵が苦労して開拓したのだった。
 初代師団長は永山武四郎。
・広島の大本営が解散した(1896年4月1日)
 1894年8月8日、広島城内にあった第五師団司令部の建物
 が明治天皇陛下の広島の御滞在所とされた。
  陛下は、1894年9月15日から1895年4月27日までの7か月
 間、この地に御滞在された。
 そして、大本営は、戦後処理の終え、この日に解散した。
自由党と政府の提携がなり、板垣退助が内相に就任した。
 第9議会を前に政府との提携を模索していた自由党は、
 1895年11月22日、立憲政体と責任内閣の方針を同じくす
 るものとは相共に連携するとの「宣言」を発表した。
  この宣言は、藩閥、とりわけ伊藤博文との提携があり
 うることを示した。
  伊藤首相は、これを受けて閣僚を集めて演説を行った。
  自由党の方針は、内閣と同じく立憲政体の完成にあっ
 て、「譲るべきは譲り」「相共に謀るべき」であると主
 張した。
  そして、両者の提携の必要を訴えた。
  自由党は、第9議会に与党として臨み、1896年4月2日に
 は、板垣退助が離党の上、内相として入閣した。
・第25代アメリカ大統領のウィリアム・マッキンリーが、
 大統領選で勝利した(1896年11月3日)
  共和党ウィリアム・マッキンリーが、民主党のウィ
 リアム・ジェニングス・ブライアンを破った。
  歴史家達は、この選挙をアメリカ史の中でも最も劇的
 な選挙戦の一つと見た。
  ブライアンより10倍もの金を遣ったマッキンリーだっ
 た。
  また、マッキンリーの共和党選挙対策本部長マーク・
 ハンナは、350万ドルの予算に裏付けられた多くの近代的
 選挙技術を発明して実行した。
  ブライアンは36歳であり、ブライアンの演説は非常に
 劇的だった・・主要政党に大統領候補に指名された者と
 しては最も若いものだった。
  多くの実業家や銀行家は、ブライアンの人民主義的言
 葉遣いや金本位制を終わらせることを支持していること
 を恐れていた・・故に、資金集めに苦労する。
  マッキンリーは、南北戦争の退役兵だった。
  マッキンリーと共和党は、金本位制アメリカの経済
 には必須だと言った。
  共和党は、ブライアンの顔が書かれた偽1ドル札を印刷
 することまでして、ブライアンを揶揄した。
  ブライアンの資金力は10分の1だった。
  ブライアンの魅力は、背の高いことと、人を魅了する
 雄弁術の演説であった・・信念と情熱を表現した・・彼
 を見るため莫大な群衆が集まった。・・南部や西部では
 支持者がパレードをし示威行動をして出迎えた。
  これに対しマッキンリーはオハイオ州の自宅前で、「
 玄関前」選挙運動を行なった。
  金の勢いで、有権者を自宅前に列車で連れて来た。
  有権者集団は歓待された・・その集団へ向かって演説
 がなされた。
  そして、マッキンリーの代わりの国内遊説者を、国中
 に旅させた・・そして、ブライアンを危険な急進者と貶
 (おとし)めさせた。
  ブライアンが、もし選挙に勝てば、工場は閉鎖し労働
 者は職を失うことになるという張り紙を張ったりした。
・神戸でキネトスコープ(のぞき眼鏡式活動写真)の上映
 が始まった(1896年11月17日)(11月25日説あり)
  シネマトグラフよりも先に、エジソンが発明したキネ
 トスコープが1896年に渡来した。
  これは覗き眼鏡式の動画再生装置であるので・・、
  一度に、複数の者が、スクリーン上の動画を共有する
 という今日の上映スタイルからすれば、まだ、映画では
 ないとされるが、人によってはこれを日本映画の歴史の
 はじまりとしている。
  特に、その初公開の場所が神戸神港倶楽部であり、昭
 和38年に「12月1日」を「映画の日」としたのは、11月25
 日にキネトスコープが、神戸で一般公開されたのに因ん
 でのこと・・
日本銀行本店が竣工した(1896年2月29日)
  設計:辰野金吾
  そして、永代橋のたもとから、新築された東京都中央
 区日本橋本石町へ移転した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:スエズ運河パナマ運河も・・特定の国の利権の
   ために使われた・・
.
紀元前20万年頃~紀元前19万年、ホモ・サピエンス(現在
 のヒト)が出現した。
.
紀元前12万年、デニソワ人の旧人が日本列島に居た。
.
紀元前12万年前、島根県出雲市の砂原遺跡
  砂原遺跡の前期旧石器などの遺物が発見されている。
.
紀元前10万年頃、現代人(ホモ・サピエンス)が、アフリ
 カを出て、世界各地に拡がった。
  日本列島での人類の足跡は、9〜8万年前(岩手県遠野
 市金取遺跡・中期旧石器)に遡(さかのぼ)る。
  現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前にアフリ
 カを出発した(別説)
.
紀元前7万年~紀元前1万年、ビュルム氷河期
  この時、ヨーロッパは氷の中だった。
.
紀元前7万年、ヒトが、衣服を着るようになった。
.
紀元前6万年~紀元前5万年、アフリカを出た私たちホモ・
 サピエンスの祖先は、6万年前〜5万年前頃には、東アジ
 アにまで到達していたと考えられている。
.
紀元前6万年~紀元前4万年、大陸と地続きだった日本列島
 に、あらゆる方向から人類がやって来た。
.
紀元前5万年、ホモ・サピエンスが全地球的な拡散をはじめ
 たのは、今から5万年前頃であった(別説)
.
紀元前5万年、日本の遺跡・竹佐中原遺跡
  長野県飯田市で、竹佐中原遺跡が発掘調査された。
  この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が
 出土した。
.
紀元前4万年、この頃になるとこのホモ・サピエンスがアジ
 アへ到達する。
  大陸の形は現在とほとんど変わらないが、氷期・間氷
 期の氷床の拡大・縮小による海水準変動に伴って、海岸
 線の位置が移動した。
  更新世の後期では、海水準にして百数十メートルの変
 動があった。
  海水準が低下した時期は、現在、浅い海である海域の
 多くが陸地となっている。
  また、日本列島は、氷床によって大陸と陸続きだった。
  完全に渤海は氷床に埋まり、また、黄海も完全に氷床
 に埋まり、東シナ海も北半分は氷床に埋まっていた。
  また、対馬海峡も氷床で埋まり、台湾も大陸と氷床で
 埋まり地続きだった。
  人類は、容易にこの氷床上を歩いて日本に渡って来れ
 た。
  また、樺太と大陸は地続きで、樺太から北海道、本州、
 四国、九州は、氷床があり歩いて渡れる状態にあった。
.
紀元前4万年、研究者の多くは、4万年前頃に、旧石器時代
 の遺跡が急激に増えることから、現代人につながる人々
 が少なくともこの頃に日本で暮らしていたと考えている。
.
紀元前4万年、日本へアフリカから出発した人類が到達した。
  そして、共通の祖先を縄文人とする日本人が形成され
 て行った。
  アイヌも沖縄も「同じ共通の日本人の祖先を持つ」と
 証明されている。
  政府が、アイヌを日本人の祖先と議決したことは大間
 違い。
  「是非、訂正の議決を再度する様に提言する」。
  現代にいたる4万年という長い年月、この人類は日本列
 島を縦横無尽に行き来し、交雑し、日本人を形成して行
 った。
  この交雑の仕方に少しづつ差異はあるものの、アイヌ
 を含む沖縄の人びとも縄文人としての共通の祖先を持つ
 人種と証明された。
.
紀元前4万年、こんなに遠い昔に・・日本人は日本列島にや
 って来た・・
  ウルム氷期と言われる約7万年前~1万年前のこの氷期
 の中の紀元前4万年に、日本人は日本列島に来た。
.
紀元前4万年~紀元前1.5万年、モンゴロイドの人々がアメ
 リカ大陸へ渡った。
     ・
     ・
紀元前3世紀~紀元前2世紀頃、この頃の弥生時代早期の新
 町支石墓群で、弥生人縄文人は融合したことが確認さ
 れた(争っていたのではない)
  福岡県糸島市の新町支石墓群(しせきぼぐん)。
  玄界灘の入江、引津湾の砂浜に営まれた弥生時代早期
 ~前期の墓地で、1986年度の発掘調査で、支石墓や甕棺
 (かめかん)墓など57基が確認された。
  支石墓は、墓穴を覆う大きな上石を数個の石でテーブ
 ル状に支える朝鮮半島の墓制で、水田渡来期の九州西北
 部に分布する。
  副葬品にも、半島系遺物が多いことから渡来人の墓だ
 と理解されていたが、ここから見つかった人骨は、低顔
 (丸顔)、低身長で抜歯痕がある縄文系だったことが驚
 きもって発表された。
  「この遺跡の発見を契機に、弥生文化は、渡来人が縄
 文文化を駆逐したのではなく、渡来人と稲作を受け入れ
 た縄文人との融合によって成立したと見れることになっ
 た」。
  ただ、この融合に至る過程で争いのあった痕跡もある。
  そして、融合に至った。
  この新町支石墓群は、2000年に、国の史跡に指定され
 た。
  ちなみに、弥生時代の終わりは3世紀。
     ・
     ・
1650年頃、イギリスは、一度、共和国になった。
  その時、王室は?
  (イギリス王室の上に君臨するデンマーク王室)
  スペインは、何度も共和国になった。
  王室は、その都度、有為転変が激しかった。
  20世紀だけでも、何度か共和制になった。
  それ以外(ベルギー王室、オランダ王室、スウェーデ
 ン王室、ノルウェー王室)は、歴史が短い(せいぜい150
 年~170年、そして、その由来が、公爵や伯爵などから成
 り上がった王室)。
  イギリスとデンマークは、男子優先を断固として変え
 ていない。
  女帝は多くおいでになっても、明白に『中継ぎ』に徹
 しておられた。
     ・
18世紀、オーストラリア(シドニー湾)に上陸したキリス
 ト教徒のイギリス人は1200人で、すべてが囚人だった。
  この後、オーストラリアは、イギリスの政治犯やコソ
 泥などの囚人が、宗主国イギリスの国から送られる流刑
 地としての歴史が始まる。
  当時、オーストラリアには、先住民のアポリジニの方々
 が、推定で100万人が生活していた。
  しかし、南米・中米・北米メキシコ、および、それら
 の離島で繰り広げられたキリスト教徒スペイン人と、同
 行したキリスト教聖職者らによる殺戮・全滅の愚行と同
 様なことを、この地・オーストラリアにおいても、キリ
 スト教徒イギリス人は行なった。
  100万人が居ただろうという先住民アポリジニの方々は、
 またたく間の内に、このキリスト教徒イギリス人に虐殺
 され、駆逐されてしまった。
  狩猟でもやる様に、アポリジニの方々は撃たれ、殺さ
 れていった。
  先住民のアポリジニの方々は、4万年前、一説で、6万
 年前から住んでいて、立派な先住権があったが、まった
 く無視され、先祖代々の土地は奪われてしまった。
  キリスト教は、古い歴史の史料に、アフリカ黒人を「
 人とは見ない」というキリスト教聖職者の言葉が残され
 ているが、キリスト教の判断基準・教義からこのオース
 トラリアのアポリジニの方々の人権も無視された。
  今、約1900万人の人口のオーストラリア。
  その95パーセントは、アングロサクソン(コーカシア
 ン)で、アポリジニの方々は、その中の1パーセント(
 19万人)にも満たない。
  3分の2以上ものアポリジニの方々は、当時、殺戮され
 た。
  今、不毛の砂漠地帯に追いやられている。
  環境の悪さから、平均寿命が白人より20歳も短い50歳
 であり、失業率も白人の4倍以上と悲惨な状況となってい
 る。
  是非、「日本を捨てて、日本を知った」林秀彦著をお
 読みください。
.
1808年、スペイン国内に反乱が起きた。
  イギリスは、先行しているスペインを乗り越えたかっ
 た。
  また、同様に、イギリスには、乗り越えたい国にオラ
 ンダがあった。
  イギリスは、太平洋ではオランダを意識し、また、南
 アメリカではスペインと戦い、対立した。
  南米は、まだ、スペインの勢力圏だった。
  しかし、1808年に、スペインに国内反乱がおきると、
 スペインの国力は衰微し、衰弱した。
  そして、南アメリカの国々が次々と独立した。
  19世紀の初め、ボリビア、コロンビア、エクアドル
 ベネズエラ、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグ
 アイなどが独立した。
  そして、この頃、太平洋では、オランダが、インドネ
 シアの植民地の方々に対して、「強制栽培制度」という、
 オランダに都合の良い有利な農奴的な植民地支配をして、
 搾取政策で虐(しいた)げていた。
  インドネシアの方々は苦しめられていた。
  オランダにとっては、着々と植民地の収穫が上がると
 いう状況だった・・その分、インドネシアの方々は苦し
 んだ(これを助けに行くのが日本だった)。
  イギリスは、この時、中国(支那)で儲けたいという
 触手を伸ばして行く。
  そして、1840年~1842年に、アヘン戦争をけしかけた。
  また、1856年~1860年には、第二次アヘン戦争(アロ
 ー戦争)を卑劣にも仕掛け、何度も戦争を仕掛けた。
  そして、その度に、イギリスは利権を拡大し、勢力圏
 を拡大していった。
  そして、南アメリカには、スペインの勢力圏から逃れ
 て独立した国々があった・・残ったのが「キューバ」と
 「プエルトリコ」だった。
  この時点で、スペインの勢力を、また、権力を、もう
 一度、復活させようとする動き・・取り戻したいという
 活動が始められた。
  利害が一致するヨーロッパ諸国は、スペインに同調し、
 協力した。
  「独立などもってのほかだ」と南米諸国を元のスペイ
 ンの植民地状態に戻そうという反動が起きた。
  この時に、アメリカは黙っていなかった。
  この南米の地は、アメリカの利権が働く地で、勢力圏
 だと主張した。
  1823年、アメリカが「モンロー宣言」を発した。
  アメリカのジェームズ・モンロー大統領は、教書で「
 アメリカ大陸は、南も北もヨーロッパから独立した別天
 地だ」・・
  「ヨーロッパの干渉などは受け入れられない」と宣言
 した。
  このアメリカに同調したのが「イギリスだった」。
  アメリカとイギリスは利害が一致した。
  イギリスは、南アメリカ諸国を独立させた形で、スペ
 インから自由にさせて、自分の貿易相手国としたかった。
  ここへ、ロシアが迫って来る。
  シベリアに達したロシアは、アリューシャン列島から
 アラスカへ、そして、アメリカ大陸へと南下して来た。
  1588年、イギリスは、スペインの無敵艦隊を撃破して
 いて・・スペインの没落は始まっていたが・・南アメリ
 カからも衰退して行った。
  大西洋の勢力を失ったスペインは、まだ、太平洋では、
 マーシャル群島、カロリン群島、フィリピンなどを持っ
 ていた。
  1891年、日本は、硫黄島を領土に編入しようとした。
  この様な日本に、スペインは反対した。
  この時、日本は、尖閣諸島も領土に編入した。
  こちらは、どこの国からの異議は無く、何の問題も無
 く尖閣諸島の日本への編入は行われた。
  中国(支那)の清も何も異議を言わなかった・・当然
 という態度だった。
  「日本の領土だと記した中国(支那)の史料」も存在
 するくらいだ。
  硫黄島も、イギリスやアメリカとの意見のやり取りが
 あったが、「日本の領土が正当」となった。
.
1827年アメリカ政府が、1830年代に、小笠原諸島にアメ
 リカ住民ぞ送り込んだ。
  この行為に対し、イギリスが、アメリカに抗議した・・
 「小笠原諸島は、1827年に、イギリス人のティーチェ大
 佐という者によって占領済みだ」と。
  しかし、これも大間違いだった。
  このイギリスの言う1827年より遠い以前、230年以上も
 以前の1593年に、この小笠原諸島は、日本人の小笠原貞
 頼によって発見されていて、既に、日本の領土となって
 いた。
  小笠原定時は、小笠原の地に「日本領」の標識まで建
 てていた。
  アメリカは、この事を知っていて、イギリスにこの事
 を知らせ、了解させ・・この様な経緯もあって、小笠原
 は日本の領土となっている。
  しかし、ユーラシア大陸アムール川の流域や、樺太
 を探検した日本人探検家の間宮林蔵の事実は、ロシアは
 無視している。
  間宮林蔵は、何度も樺太などを探検し、樺太が島であ
 ることさえ発見している。
  この地は、実際は、日本の領土なのである。
.
1850年代、イギリスで「蒸気船」が発明された。
  それまでの「帆船」で、極東の日本に来るのは大変だ
 った。
  また、スエズ運河パナマ運の無い時代、アフリカの
 南端の喜望峰を回る以外、日本に至るルートは無かった。
  風待ちなどもあり、「極東」の名の通り極めて遠い日
 本だった。
  しかし、蒸気を動力として極めて自由な意思で日本に
 やって来ることが出来るようになった。
  日本の近海に、この期から頻繁に外国船が現れる様に
 なる。
.
1869年、スエズ運河が開通した。
  この恩恵を最大に受けたのがイギリスだった。
  この恩恵を最大に発揮させて、イギリスは、中近東を
 押さえ、インドを押さえ、チベット・ネパールを押さえ、
 ビルマ、オーストラリア、ニュージーランドなどを押さ
 えた。
  重要拠点のほとんどを、イギリスは押さえた。
  アメリカは・・出遅れた。
  植民地主義者の狡猾な侵略が始まった。
  この後、遅れて来たアメリカの帝国主義的な利権獲得
 のうごめきが始まる。
  これが戦争を起こさせる。
  また、残っている部分があった中国に、アメリカの自
 己主張が始まる。
  スエズ運河のような「アメリカの利権獲得、そして、
 利権拡大の運河」・・それはパナマ運河の開通を考えた。
  卑劣な画策の後、1914年、パナマ運河は開通した。
  スエズ運河から遅れること45年だった。
.
1944年、第二次世界大戦の帰趨が、連合国側の勝利で確定
 し始めるのに応じて、ユダヤ人難民問題が表面化し始め
 た。
  1944年末頃、ユダヤシオニズムとイギリスが、「マク
 ドナルド白書」をめぐって対立し始めた。
  ベングリオンは、ナチスの迫害によって生じた10万人
 のユダヤ人難民のパレスチナ移住を求めたが、イギリス
 政府の管掌する委任統治政府は受け入れを拒否した。
  ハガナーが救出したユダヤ人難民達は、パレスチナ
 キプロスの難民収容所に押し込まれてしまった。
.
1946年5月、第二次大戦後、パレスチナを調査していた米英
 合同調査委員会が、現地を視察し、ナチ・ドイツの迫害
 を逃れたユダヤ人難民10万のパレスチナへの即時受け入
 れを勧告したが、イギリスのベバン外相は、現地での抵
 抗は必死として反対した。
  ベバンは、「アメリカは、ユダヤ人を入国させたくな
 いのでパレスチナへの移住をすすめている」と拒否した。
  この頃、すでに、ユダヤ人の国家基盤は労働総同盟や
 ユダヤ基金ユダヤ機関を中心に、ほぼ完成していた。
.
2006年、エマニュエル・トッド氏へ、2006年の朝日新聞
 インタビューにおいて、
  「核兵器は、偏在こそが怖い」。
  「広島、長崎の悲劇は、米国だけが核を持っていたか
 らで、米ソ冷戦期には使われなかった」。
  「インドとパキスタンは、双方が核を持った時に和平
 のテーブルについた」。
  「中東が不安定なのは、イスラエルだけに核があるか
 らで、東アジアも中国だけでは安定しない・・
  日本も持てばいい」・・と述べ、日本の核武装を提言
 した。
  さらに、トッドは、ドゴール主義的な考えだとして、
 「核を持てば、軍事同盟から解放され、戦争に巻き込ま
 れる恐れはなくなる」と指摘した。
  被爆国である日本が持つ核への国民感情については、
 「国民感情はわかるが、世界の現実も直視すべきだ」と
 した。
.
2012年2月、NHKの編成局ディレクターが、大麻所持で
 逮捕された。
.
2013年9月、韓国で、旭日旗を法律違反とする法案が出され
 た。
  旭日旗など「日帝を象徴するもの」関連法案は、2013
 年9月発議されたが、19代国会の任期満了で廃棄された。
  当時、ソン・インチュン、セヌリ党議員が、日本帝国
 主義の象徴を使用する者に対し、1年以下の懲役、または、
 300万ウォン以下の罰金に処する内容の刑法改正案を出し
 た。
  しかし、改正案は、発議はされたか、2015年12月4日、
 所管常任委員会の法制司法委員会の法案審査制1小委員会
 にてやっと上程された後、他の法案が優先され、まとも
 に議論されなかった。
  法司委の検討報告書は、改正案について「憲法上の表
 現の自由を制限する側面はあるが、憲法第37条第2項の規
 定により国家安全保障・秩序維持又は公共福利のために
 (旭日旗を)制限することはできる」とし、立法者の判
 断に応じて旭日旗の禁止は、可能な立法だと評価した。
  ただし、刑罰に関する法律であることから、法条項文
 句が明確性の原則を厳格に遵守しなければならないと指
 摘した。
  また、刑法の「属地主義」の原則に基づいて、(刑法
 を改正した場合)日本人が国内で旭日旗など日本帝国主
 義の象徴を使用した場合にも、刑法第2条の規定により処
 罰の対象となる点も考慮する必要があると説明した。
  一方、旭日旗は、日本の自衛隊の公式の旗として使用
 されているだけに、全面的に禁止する法が作られた場合、
 日本との外交摩擦を避けることができないという指摘も
 ある。
  国交を結んでいる相手国の旗の使用に対する罰則規定
 を置くなら、必然的に外交紛争化するだろう。
.
2016年、日本人の平均寿命・・男:80.98歳、女:87.14歳
  参考に・・
  1947年、男:50.06歳、女:53.96歳
  未来の2060年、男:84.19歳、女:90.93歳、
.
2017年3月7日、中国の鉄鋼の減産・・
  中国の鉄鋼の大生産が世界を大きく狂わせた。
  土俵から出されると負け・・相撲のルールである。
  出されても、また、自分から出ても相撲は負けという
 ルールである。
  そのように「相撲は、その様にルールを決めているか
 らである」。
  しかし、「土俵から出ても負けではない」という輩が
 現れたらどうなるのか?
  話は、がらんと変わるが、日本の製鉄業のトップの新
 日鉄が、過去に「とっておきの技術」を、中国へ教えた。
  その様なとっておきの『マル秘技術』を、果たして中
 国に教えて良いのか?
  この懸念が日本にあった・・が、しかし、種々の工作
 から、日本は教えなければならない羽目に陥(おちい)
 った。
  その技術を得た後の中国は、オーストラリアから、び
 っくりするほど大量の鉄鉱石を買った。
  国としてやる中国のやり方は、桁違いに大きかった。
  売る方も喜んで中国という国へ売った。
  世界の景気も良くなった・・が・・
  その鉄鉱石を運ぶ海運業界も潤った・・が・・
  しかし、数年後に・・中国に大量の鉄鋼製品の山の在
 庫で積み上がった。
  大停滞の時がやって来た。
  2017年3月7日の読売新聞は報じる、「中国、鉄鋼5000
 万トン減が目標」。
  「2017年の生産能力、2016年6500万トン減」とある。
  中国の過剰生産で余った鉄が海外に輸出され、世界の
 鉄鋼価格は不安定な値動きが続いた。
  それも・・長い・・長い期間、この様な状態に低迷し
 た。
  長期的に見れば、新日鉄は、自分の首を絞めていた。
  そして、その行為が、世界中の鉄鋼業界をこの様な状
 況に貶(おとし)めた。
  ルールを知っていても・・知らない振りして中国がや
 ったことだった・・ルールを破る中国がやった事だった。
  恩も義理も知らない中国、新幹線でも、日本に、後ろ
 足で砂をかけている。
  新聞は、中国の対応が「実効性が疑われている」と、
 「その様なデーターがある」と報じている。
.
2017年3月18日、中国の資本規制、日本企業に影 海外送金
 ストップ続出(日本経済新聞
  中国の通貨である人民元と外貨の双方で国境をまたぐ
 取引を抑える中国の資本規制が、日本企業の活動に影を
 落とし始めた。
  現地事業の売却代金を受け取れなかったり、日本への
 送金が止まったりする例が続出。
  ごく一般的な資金管理すら難しくなっている。
  中国は、2016年に円換算で30兆円超が国外に流れた。
  当面は規制を優先せざるを得ず、習近平政権が掲げる
 人民元の国際化は揺らいでいる。
.
2017年10月、アメリカで、60人におよばんとする大変多く
 の方々が、銃の乱射に合い亡くなられるという、なんと
 も痛ましい事件が起きた。
  この様な事件を起こした犯人・・どの様な経緯で、こ
 の様な想像もできない様な極悪の行為に及んだのか?・・
  この行為を・・最高に恨む。
  しかし、必ず、この行為に至る原因があった訳だ。
  何が、此奴(こやつ、この犯人)に、この様な極悪行
 為をさせたのか?
  例え、それが分かったと言っても、可哀想な亡くなら
 れた方々は戻っては来ないけれど・・しかし、再発しな
 いようにと願って、この犯人の大犯罪に至る原因は何な
 のだろうかと考えることは必要な事である。
  此奴には、当然、この様な大惨事を起こす肯定的理由
 になり得る訳があったのだろう。
  一般人には、当然、肯定的な理由になり得ない
  その理由があったのだろう。
  どんな理由があっても、勿論、当然、他人の方々の命
 を一人であってさえも、当然、奪う行為の肯定的理由は
 ない。
  「(キリスト教の)神の義があるなら・・」という前
 提で肯定するという低劣なキリスト教の教義があるが、
 この教義でさえ『肯定できる理由では、まったくない』。
  (キリスト教は、この教義で、何人の人々を殺戮して
 来た事か??・・)
  社会を見た時、このキリスト教の最悪教義の様に、こ
 の犯人の行為の様な行為を「誘発するようなことがある」。
  社会の中に、この様な行為を起こす因子が存在する。
  ヨーロッパでは、子供たちが集団で、突然、憑依(ひ
 ょうい)した実例がある・・
  それに似た「その様な行為」が、日本でなされている。
  ヨーロッパのこの実例は、一度ならず、また、あちこ
 ちの国で繰り返し起きていた。
  キリスト教が原因として起きていた。
  子供たちは口々にキリスト教のことを口走って罵った。
  魔女が天を飛び回っている・・などと、口走った。
  子供たちが、自分の心を制御できずに、行動も制御で
 きずに、制御できない状態で行動を起こしたのだった。
  今、日本で行われているキリスト教の祭り=ハロウィ
 ンがこの要因として挙げられる。
  奇怪な姿をして街中を徘徊する・・
  ハロウィンは長い期間に渡って心をむしばむ。
  長期間の内に、特に、感受性の強い子供たちをむしば
 んで行く。
  喜んでいる子供たちばかりではない。
  また、常に喜んでいる子供たちではない・・、急に、
 心が変化したりする・・憑依する怖さがある。
  日本政府内のある役所が音頭を取って行っている。
  経済的効果があるからとして・・行なわれているが・・
 経済的利益のためにやらせているという話では済まない。
  しかし、そのために、あの気持ちの悪いハロウィンの
 祭りに、そして、展示に、あちこちで出くわす。
  キリスト教という特定宗教の「巧妙なる伝道行為」に、
 日本の役所が加勢している。
  この政府の行動は、国際規約のISO26000の違
 反となっている。
  結局、ストレスの多いハロウィン祭りに、長い期間、
 出合い、向き合い、耐えなければならない状態に置かれ
 ている。
  ストレスが何かと多い現代社会の日本、『どや顔』が
 良いのだと、「どや顔」の嫌な顔がおおやけの中に表示
 され続けている・・その様な巷となっている。
  結局、この変で嫌な「どや顔」にも耐え続けなければ
 ならない状況になっている。
  結局、この様な心のストレス社会で、「アメリカの不
 幸な事件は起きてしまった」。
  ハロウィンの『儲けだけの商行為』はおかしい??
  長期間に渡って行うということも「たちが悪い」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)636E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)

題:(増補版)636E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年、科学
・1896年、小石川植物園の平瀬作五郎が、世界で初めてイ
 チョウの泳ぐ精子を発見した(1894年説あり)
  平瀬作五郎(1856年~1925年、植物学者)安政3年1月
 7日、越前国福井市)に生まれる。
  1872年(16歳)福井藩中学校(藩校)に入学、卒業後、
   図画術教授補助に任命される。
  1873年(17歳)東京に出て油絵を学ぶ。
  1875年(19歳)帰郷し、岐阜中学の図画教師となる。
   かたわら「小学用器画法」(1888年)ほか図画教科
   書を著した。
  1888年(32歳)帝国大学理科大学(現:東京大学理学
   部)植物学教室へ画工となる。
  1890年(34歳)技手となる。植物学に興味を抱く。
  1893年(37歳)助手となり、矢田部良吉教授の植物図
   を描く。イチョウの研究を始める。
  1894年(38歳)池野成一郎(この後、東京大学教授と
   なる。ソテツの精子の発見者)の助言で、イチョウ
   の花粉管内に精子を発見した・・裸子植物に初めて
   精子を発見・・受精過程を追跡した(イチョウの受
   胎および胚の発生研究)
  1896年(40歳)イチョウ精子発見を発表した。
   ソテツの発見と共に、これらの発見は、植物分類学
   細胞学・進化学上の一大事件であった・・海外の学
   者にも称賛された。
   平瀬作五郎は、当時、助教授だった池野成一郎に、
   精子を発見した時、寄生虫だと思って見せた・・そ
   れを見るなり池野は「精子だ」と直感したという。
  1896年9月9日、「花粉管端より躍然精虫の遊動して活
   発に転々突進する状況を目撃」となる。
  1896年10月、「いてふノ精虫に就テ」という論文を発
   表する(裸子植物の世界初の精子の発見)・・なお・・
   1894年1月、最初の論文「ぎんなんノ受胎期二就テ」
   を「植物学雑誌」に発表という史料もある。
   そして、1896年に、イチョウ精子を世界初でプレ
   パラート上で確認したの史料もある。
  1897年(41歳)東京大学を退職し、彦根中学へ転出、
   一時、研究も断念する不幸の時期があった。
  1912年(56歳)池野と共に学士院恩賜賞を受ける。
   初めは、平瀬作五郎の授与は予定されていなかった
   と言われている・・が、しかし、池野成一郎が、「
   平瀬が貰わないならば、私も断らせて戴く」と言い、
   二人の同時受賞となったという。
   後半生は、平野は、花園中学校で教鞭をとった。
  1918年(62歳)クロマツの受精に関する報告をする。
  1924年(68歳)肝硬変で花園中学校を退職する。
  1925年1月4日、京都市右京区御室の自宅で永眠された。
  尚、平瀬作五郎の精子発見のイチョウの木は、今でも、
 東京都文京区白山東京大学理学部付属植物園に保存さ
 れている。
  1956年、その記念のイチョウの木の下に記念碑が建立
   された。「精子発見六十週年」と刻まれた。
  1996年9月9日、「イチョウ精子発見百周年記念市民国
   際フォーラム」が東京大学安田講堂で開催され、広
   瀬作五郎の功績が讃えられた。
.
1896年、教育
・1896年7月8日、東京美術学校に西洋画科・図案科の2科
 が新たに設置された。
  この年、西洋画科が新設され、黒田清輝藤島武二
 横山大観らが指導にあたった。
  東京美術学校は・・
  1884年7月、文部省に図画教育改良を目的とする図画調
   査会が置かれ、調査が行われ、官立美術学校を設置
   することに決定されたことに始まる。
  1885年12月、文部省学務一局に図画取調掛が置かれ、
   そして、アーネスト・フェノロサ、岡倉覚三、狩野
   芳崖、狩野友信らが委員となって設立準備が進めら
   れた。
  1886年2月、図画取調掛の事務所が小石川植物園内に移
   され、岡倉覚三がその主幹となった。
  1886年9月、文部省と宮内省が協議し、フェノロサと岡
   倉を委員とする欧米の美術及び秘術教育視察が行な
   われた。
  1887年10月、二人の報告に基づき、勅令によって、図
   画取調掛及び工部大学校内「工部美術部」を統合・
   改編して東京美術学校が設立された。
   また、校則も定められた。
  1887年12月、東京都台東区上野公園の現在地へ移転す
   る。
  1889年2月、開校される。
   5年制の学校として、普通科(2年)、専修科(3年)、
   特別の課程(1年)を置いて、授業を開始した。
   普通科:絵画・造形、専修科:絵画(日本画)・彫
   刻(木彫)、美術工芸(金工・漆工)に分かれてい
   た。
  1890年、岡倉覚三が就任し、事実上の初代校長となる。
   副校長はフェノロサが務めた。
   開校時の教官は、他に、黒川真頼・橋本雅邦、小島
   憲之であり・・
   後に、川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲
   を加えた。
  1892年、鋳金科を設置。
  1893年、第1回卒業式が挙行される。
   横山大観らの卒業生を送り出す。
  1895年、鍛金科を設置。
  1896年、西洋画科と図案科を設置。
   西洋画家の教官には、黒田清輝藤島武二・和田英
   作・岡田三郎助、
   図案科の教官には、福地復一・横山大観・本多天城
   らが就任した。
  1898年、美術学校騒動が起きた。
   岡倉覚三の学校運営が問題とされ、岡倉をはじめ、
   橋本、横山、下村観山、菱田春草らの多数の教官が
   退任し、日本美術院を結成した。
  1899年、塑造科を設置。
  1902年、図案科に建築教室を設置。
  1905年、学科を再編成し、日本画、西洋画、図案、彫
   刻、金工、鋳造、漆工の7科とする。
  1907年、図案師範科(3年制)を設置。
  1914年、製版科(3年制)を設置された。
   (図案科が第一部(工芸図按)と第二部(建築装飾)
   に分離の史料もある)
  当時は、年限1年の予科、年限3年~6年の本科(絵画科、
 彫刻科、工芸科、建築科)と師範科、年限2年の研究科か
 らなった。
.
1896年、報道
正岡子規が、ベースボールの解説文を連載(日本新聞)
  1884年正岡子規は、東京大学予備門時代にベースボ
   ールを知り、野球に熱中したといわれる。
   正岡子規は、野球を題材とした短歌、俳句を数多く
   詠み「野球(のぼる)」の雅号も使っている。
  1889年7月、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、
   松山中学の生徒らにベースボールを教えた。
  1890年2月、「筆まかせ」の雅号の項に「野球」が初めて
   見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。
  1896年、「日本」新聞に連載された「松蘿玉液」の中
   で野球のルール、用具、方法などについてくわしく
   解説した。
   野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自
   分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献を
   した。
   「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見
   れど飽かぬかも」
   「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打
   ち騒ぐかな」
  2002年に、正岡子規野球殿堂入りをした。
   野球を愛した明治の俳人歌人とされている。
  (参照:野球殿堂博物館ホームページ)
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、韓国の若者が反日教育を受けて、その様なことをまったく
   知らずに、当時の事をお年寄りに聞くと、予想に反して
   「良かったよ」と想像とまったく違う返事にびっくりする。
    その様なお年寄りが朝鮮の地に減って来ているが、
   日本は、朝鮮・韓国の国づくりを誠実に努めて来た。
.
16世紀末、日本の捕鯨が始まり、そして、鯨文化が広まっ
 て行った(江戸時代)
  この頃の16世紀の末頃、日本に本格的な捕鯨が始まっ
 た。
  そして、17世紀には屏風絵に描かれるようになってい
 る様に、庶民の間に完全に根付いている。
  1500年代末には、日本は捕鯨を始めていて、食糧とし、
 また、鯨を文化としていた。
  初代のアメリカ大統領のワシントンは、1789年4月30日
 に在任したが・・この200年も前に、既に、日本は鯨と関
 わっている・・
  キリスト教の宗教観から、日本の捕鯨を禁止する西欧
 諸国・・この日本の歴史の重みをよく見極めなさい!
.
18世紀半ば、日本は、アメリカのペリーの来る1世紀も前か
 ら、独自に、近代化への道を歩き始めていた。
  ペリーが来たから、その時に目覚めて、それから慌(
 あわ)てて近代化への道を歩み始めた・・という自虐史
 的に言う輩が居るが・・大間違い。
  日本の夢を覚ます黒船来航・・何て言う話は眉ツバ!
  日本は、「勉学への欲求」「知識への目覚め」から近
 代化へアクセスして行った。
  元々、勤勉だった日本人・・すでに、世界的な業績を
 残す天才数学者の関孝和(1642年~1708年、西欧より早
 い時期に数々の数学的業績を残した)や平賀源内(1728
 年~1780年本草学者、地質学者、蘭学者、エレキテル
 や鉱山開発)等を輩出している日本・・
  18世紀のフランス革命の頃のフランスよりも識字率
 高いという日本だった。
  私塾の寺子屋が流行るという日本だった。
  識字率は5割前後で、私塾は全国で何と5万校もあった。
    (参考)因みに・・1910年の日韓併合で、日本が
       朝鮮・韓国の学校の少なさにびっくりして、
       学校を造り始める時には、5校しか小学校が
       無かった・・
  そして、農民が作物を市場で売り、利益を得るという
 生産面と流通での革命も起きる。
  都市へ広がる勤勉とともに、19世紀の初めには、家内
 制工場があちこちに出来るという日本だった。
  産業資本が大阪で興り、農民が労働者となる・・この
 形が日本各地に広がって行った。
  これらすべてが、日本独自の動きだった・・
  それと共に、江戸や大阪には、歌舞伎や相撲興業とい
 う大衆の人気を博す文化も盛んとなり華やかとなった。
  浮世絵の商品なども盛んに刷られ宣伝媒体となり・・  
  日本は、西欧に何も学ぶ事なく独自に、近代化への歩
 みをいち早く始めていた『優秀な国民だった』。
  犠牲者の少ない「明治の奇跡的な革命」を経て・・
  江戸時代の時から・・日本は、西欧列強のアジアにお
 ける私利私欲の横暴な行動を目にして来て、富国強兵の
 必要性を痛感していた・・
  その中で、特に、イギリス・ロシア・中国の脅威に、
 接していた。
  その一つが、巨艦の艦隊を長崎にまで威圧行動した中
 国に縮こまる日本・・そして、長崎の街で大暴れをする
 中国水兵の艦隊の強さを誇示し見せつける行動などを経
 て、日清戦争へ至って行くという道となる。
.
1846年4月25日、アメリカ・メキシコ戦争米墨戦争)が始
 まる(~1848年2月2日)
  アメリカ合衆国ではメキシコ戦争と言われる。
  また、メキシコでは、アメリカ合衆国のメキシコ侵略、
 米国の対メキシコ戦争、北部の侵略戦争としている。
  アメリカ軍:78,700名、メキシコ軍:40,000名
  戦死:アメリカ13,271名、メキシコ5,800名(病死を
 除く)
  この戦争で、アメリカ側に、9,200名の脱走者、または、
 亡命者がでている。
  この戦争の発端は、アメリカ人のメキシコ領への流入
 (不正な移民、不法流入)から始まった。
  ルイジアナは、先住民のアメリカ・インディアンの方々
 の地であるが、1803年、アメリカは、この地をフランス
 から買った(何もフランスの土地ではないのに、フラン
 スから買った・・白人同士の演技?)・・これによって、
 アメリカに、テキサスの地も得たいという欲望・意識が
 強まった・・メキシコの地であるのに??
  この頃、メキシコは、長い独立革命の戦いで弱体化し
 ていた・・
  この様な状態で、自国の領土を守る余裕のないメキシ
 コという状態でもあった。
  アメリカの『テキサス』などのメキシコ領の奪い方は
 移民だった。
  初め、アメリカ人が不法な国境越えをして『メキシコ
 領のテキサス』などに入って行った・・そして、メキシ
 コ領テキサスに定着(不法滞在)した。
  その内、その様に越境をした「元アメリカ人たち」が、
 「メキシコ領テキサス住民の様な顔」をして不平を漏ら
 す。
  その不平の声がだんだん大きくなる。
  そしてまた、越境組の元アメリカ人たちの数も多くな
 ると・・その勢力も侮(あなど)れなくなる。
  ますます、その元アメリカ人たちの勢力が大きくなる
 と、メキシコも軍隊の出動もやむを得ないと判断する。
  この様な「不穏な事態」が、たびたび起きる。
  この地の不穏さが、さらに、「きわどくなる」。
  すると、隣国のアメリカも見てはいられないと「アメ
 リカの介入が始まる」。
  内政干渉の「ちょっかい」なのだが、正義の顔をして
 介入行為をする。
  そのアメリカの介入・ちょっかいも度々となる。
  そして、アメリカのやり方の程度が大きくなる。
  そして、「正義を錦の御旗」として、アメリカが軍隊
 を出す。
  メキシコは、軍隊を出さざるを得ないと思っても、戦
 争になってはいけないと「自重はする」。
  しかし、アメリカ軍の行動は、度々となる。
  また、アメリカの介入が大きな行動となって来る。
  そして、多くのアメリカ人不法移民に占領され、テキ
 サス共和国がつくられ、1836年、メキシコからの独立を
 宣言する。
  メキシコもやむなく「ファイトバック・反抗」をする。
  このメキシコの行動を「待っていたアメリカ」は、「
 この時とばかりに大軍隊を送り込む」。
  当然、これが戦争となる。
  アメリカ人の違法行為の越境から始まって、「メキシ
 コ領内で元アメリカ人」となり・・、
  この「元アメリカ人の騒ぎ」から発展したこの戦争の
 実態は、「アメリカの正規軍のメキシコ領の侵略戦争
 という戦いとなる。
  アメリカは、この様な戦争の起こし方で『メキシコ領
 テキサスを手に入れた』。
  そして、このやり方で、テキサスの隣のメキシコ領も、
 結局、「アメリカ領となってしまった」。
  また、その隣のメキシコ領も同様に、アメリカ領にな
 ってしまったメキシコは、自国の領土の「半分以上」も、
 この様にして、アメリカに奪われた。
  アメリカは、ハワイもこの様にして奪った。
  樺太が、また、日本にもこの様な事が起きた。
  樺太にはロシア人が居ないで、日本人だけが居た。
  それから、ロシア人がどんどん入って来た。
  樺太の日本人は中央政府(幕府)にこの状況を伝え、
 日本人もどんどん樺太に来ないと「ロシアに樺太が盗ら
 れてしまう」と伝えた。
  この様な歴史が、「日本の領土の樺太」の歴史の初め
 にある。
  ロシア人の「ロ」の字も無いころ、間宮林蔵という日
 本人の探検家は、樺太はおろか、ユーラシア大陸まで探
 検をしていた。
  コロンブスが、西インド諸島を発見し探検したことと
 同等である、もしくは、それ以上の事をしている。
  このコロンブスの事を思えば、間宮林蔵が探検したア
 ムール川流域のユーラシア大陸の地は「日本領である」。
.
1884年、海軍予備員制度が発足した。
  採用は1886年からなされた。
  この制度は、西郷従道農商務卿がイギリス海軍予備員
 制度を例にして発案した。
  海軍予備員は、海軍兵籍を有し、戦時などの有事の際
 には召集されて軍務に服するが、平時は民間において船
 舶職員などの海事に従事する者をいう。
  海軍予備学生などの身分は、海軍予備員たる海軍予備
 少尉となるための教育を一定期間受ける者で、海軍予備
 学生と海軍予備生徒があった。
  1935年からは、飛行科や整備科の予備学生も採用され
 た。
  この海軍予備学生・・
  木馬座の人形劇団をつくり活躍した藤城清治氏は、読
 売新聞の「時代の証言者」欄に、第二次世界大戦時に居
 た海軍予備学生時代のことを書いていた・・
  「海軍予備学生時代に、海軍でディズニー映画を見せ
 てもらい。感動しました。戦争中ですが、視野を広げさ
 せようとしたのでしょう」・・と。
  これ以来、藤城氏は、「ディズニーの様になりたいと
 思い、理想郷となった」と語る。
  しかし、この同じ頃、ディズニーは、アメリカで、「
 日本は黄色い猿だ」と日本を蔑視し、馬鹿にした映画を
 作っていた。
  日本の飛行機が、盛んにアメリカ機に撃墜される映画
 を作っていた。
  アメリカの国民の方々に、「日本に対する敵意を植え
 付け、沸かす工作映画を作っていた」。
  盛んに、アメリカ国内でプロパガンダ工作をしていた。
.
1910年8月22日、日韓併合条約(韓国併合条約)
  この日、漢城府(現:ソウル)において、日本側・寺
 内正毅統監と、大韓帝国側・李完用総理が調印した。
  そして、1910年8月29日、裁可され、公布し、発効し、
 日韓併合が成立した。 
  (参考)大韓帝国李氏朝鮮(朝鮮王朝)を改称した国
     号。
      国号変更の動機は・・、
      それまでの李氏朝鮮の朝鮮王朝が、日清戦争
     の日本勝利の結果の日清平和条約により、清朝
     の属国関係(宗属関係)も消滅したとして国名
     変更を行った。
  また、日露戦争の結果、日本勝利で調印されたポーツ
 マス条約の第2条や・・、
 1902年に結ばれた日英同盟の第3条において、日本の朝鮮
 半島における政治上、また、経済上などの卓絶した地位
 が、世界的に承認されていて・・
  この条約も、世界的に当時の国際法上おかしいと判断
 されるところはまったく無く・・、
  「国際法上合法である」と判断されている。
  大韓帝国は「保護国」とされていて・・、
  条約に基づいて、「日本の対外関係の処理を引き受け
 る」と約定されている。
  近年でも、ケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授
 (国際法)が言及されるように・・
  「(大韓帝国のように)自分で生きていけない国につ
 いて、周辺の国(この場合、日本)が国際的秩序維持の
 観点から、その国を取り込むということは、当時よくあ
 ったことである・・
  日韓併合条約は国際法上は不法なものではない」とい
 う意見が「国際的な一般的な判断」となっている。
  今・現在になって、大韓民国(韓国)が違法であると
 違法論を展開しているが、国際的に、無理な主張となっ
 ている。
  この日韓併合条約は、17世紀からこの時まで、ヨーロ
 ッパで作られ発展して来た万国公法(国際法)と同じで・・
 何ら違法的な所は無い。
  また、日本と大韓帝国李氏朝鮮)は、正式な文書で
 条約を交わしていて、国際社会に「公認されている」。
  また、最近、日本のメディアが・・、
  例えば、読売新聞が、2019年3月2日の社説で、日韓併
 合を「植民地支配」と書くのは間違っている。
  この時の李氏朝鮮大韓帝国)は、条約に基づいた被
 保護国であって「植民地ではない」・・
  また、日本は、欧米的な植民地支配はしていない。
  日本には、キリスト教の教義で説く様な「異教の地の
 民を絶滅させて、そこにキリスト教会を建てる」という
 植民地支配の考え方はまったく無い。
  その様な精神で経営する植民地経営や植民地支配の精
 神はない。
  日本は、古事記の「治らす」の精神で朝鮮を栄えさせ
 た。
  何故?・・と、キリスト教的な植民地支配の洗脳を受
 けた人には思えるだろう。
  日本は、何故、赤字になってでも現地を発展させたの
 か?・・と、思うだろう・・考え及ばないだろう。
  古事記に記された精神が、昔から日本が培ってきた・・
 その精神だった。
  古事記に・・、
  天孫が降臨するときに、その降臨する神へ神勅(しん
 ちょく)を与える。
  それは、降臨する国「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂
 (みずほ)の国に、就(ゆ)きてしらす」という、その
 「しらす」は「治らす」であって・・
  この「治らす」が、「その国に産業を興し、栄えさせ、
 国全体としてまとめて行く」という意味で・・、
  キリスト教植民地主義の「鎮圧して支配する」では
 ない。
  天孫から国を栄えさせよと使命を授けられた神が、日
 本にあった。
  その精神で日本はずーっと生きて来た。
  朝鮮の地に鉄道を張り巡らせ・・小学校から大学まで、
 日本と同等に、いや、それ以上に学校を造り、道路も造
 り、山に木を植え、産業も興し、衛生状態を改善し、経
 済も大発展して来た・・人口は倍増し、平均寿命も倍増
 した・・
  今、若者が反日教育を受けて、その様なことをまった
 く知らずに、当時の事をお年寄りに聞くと、予想に反し
 て「良かったよ」と想像とまったく違う返事にびっくり
 する。
  その様なお年寄りが朝鮮の地に減って来ているが、日
 本は、朝鮮・韓国の国づくりを誠実に努めて来た。
.
1917年4月6日、アメリカの対ドイツの宣戦布告(第一次世
 界大戦)
  第一次世界大戦は、1914年7月28日に始まっていたが、
 アメリカは、なかなか、ドイツに対して宣戦布告はしな
 かった・・が、しかし・・
  その2年6ヶ月後の1917年2月3日に、アメリカはドイツ
 と断行し・・、
  そして、その2ヶ月後の1917年4月6日に・・アメリカは、
 ついに、ドイツに宣戦布告した・・ここにアメリカ国民
 の方々への世論工作があった・・
  アメリカは・・力を持つ国、武力を持つ国、そして、
 金を持つ国・・
  第一次世界大戦で、ドイツが勝ちかけていた頃、敗け
 そうなイギリスは動いた。
  第二次世界大戦の時も、まったく同じような展開が起
 きているが・・この戦争の時も、同じ様な展開が起きた。
  イギリスの外務大臣のバルフォアが、イギリスのユダ
 ヤ社会へ働きかけた。
  アメリカに参戦させるために、「ユダヤ人の国をつく
 る」と約束して、アメリカが参戦へ動く工作を頼んだ。
  イギリスの外務大臣バルフォアは、「パレスチナに、
 ユダヤ人による民族的郷土の設立」をユダヤ系金融資本
 家に約束した。
  バルフォア宣言への動き・・
  (参考)バルフォア宣言:1917年11月2日、イギリス外
     相 A.バルフォアが、パレスチナにおけるユダヤ
     人の民族的故郷の建設を支持した宣言。
      バルフォアは、それをシオニズム運動の財政
     的な後援者であった L.ロスチャイルドにあてた
     書簡のなかで明らかにした。
      この内容は、1916年に、フランス、ロシア、
     イギリス間で結ばれた秘密条約であるサイクス
     =ピコ協定とは明らかに矛盾するものであった
     が、イギリス政府のねらいはユダヤ人世論を連
     合国側にひきつけ、あわせてユダヤ人のパレス
     チナ入植を通じて中東政策の布石を固めること
     だった。
      同宣言は、1920年のサン・レモ会議でイギリ
     スの正式政策とされ・・
      1922年に、国際連盟パレスチナ地方をイギ
     リスの委任統治領としたとき、その前文に同宣
     言が含められた。
  このバルフォア宣言により、ユダヤ人の方々の社会が
 動き、アメリカの世論操作・世論工作が進められた。
  アメリカの大統領府の広報委員会も動き出した。
  この部署にいたユダヤ人のリップマンとバーネイズが、
 大いに働いた。
  この時なされたドイツについてのプロパガンダが・・
  ドイツが残虐行為をしているとか、妊婦が切り裂かれ
 たとか、ベルギー婦人を殺したとかの、世論操作の嘘宣
 伝がなされた。
  アメリカ国民の方々は繰られて行く・・
  比較的、ドイツに好意的だったアメリカ国民の方々の
 気持ちは変えられて行った・・
  そして、結局、アメリカは参戦することになって行く。
  アメリカのメディアを牛耳っていたのがユダヤ資本だ
 った・・それが大きかった。
  イギリスの「ロイター」もユダヤ人が設立した通信社
 だった。
  ユダヤ系列の団体・組織の繰る「資金」と「情報」の
 力は大きかった。
  この時、大きな役割を果たしたリップマンは言った・・
  「大衆に対し、自らが民主的権力を行使しているとの
 幻想を抱かせなければならない」と。
  これは、アメリカは、民主主義国家の様に見えても、
 幻想だと言っている・・「繰られた民主主義的な意見」
 で動いていると・・
  最近、中国は、盛んにアメリカのメディアを買ってい
 る。
  そしてまた、日本も、やってもいない南京事件を中国
 にプロパガンダ(嘘宣伝)されて、やってもいない虐殺
 をしたと虚偽の嘘宣伝をされた。
  ユダヤ人のリップマンを支えた、やはり、ユダヤ人で
 あるバーネイズは・・「プロパガンダ」という本を書い
 たが、その中で書いている・・
  「世の中の一般大衆が、どの様な習慣を持ち、どの様
 な意見を持つべきかといった事柄を、相手にそれと意識
 されない様に知性的にコントロールすることは、民主主
 義を前提とする社会において非常に重要である」と。
  この様な中に「目に見えない統治機構がある」と指摘
 した。
  これが、アメリカの「真の支配する者だ」と指摘した。
.
1944年7月1日、ソ連が、日本に攻めてくる前のこの日から、
 アメリカによる対ソの兵器援助の引き渡しが行われてい
 た・・『第二次世界大戦の不正な、卑怯な行為』。
  スターリンが、アメリカに要求した武器提供は「マイ
 ルポスト合意」として成立した。
  アメリカは、1945年、中立国(日ソ中立条約があった)
 だったソ連の船を使って日本海を抜け、ソ連のウラジオ
 ストクに武器弾薬を陸揚げした。
  このアメリカの援助した武器を使って、ソ連は、日本
 を攻撃し、侵略した。
  まったくソ連国際法違反、及び、日ソ中立条約違反
 であった。
  アメリカは、ソ連をそそのかして、中立条約違反をさ
 せているが・・
  アメリカのルーズベルト大統領のやったそそのかし行
 為だった。
  日本は、一旦、条約を締結すると誠実に、その条約の
 約束を守ったが・・ソ連は条約を破る常習犯だった・・
  ルーズベルトは自分でも言っているが、『自分が有利
 になるなら、嘘だってつく』と言った。
  国の信用・信頼をまったく軽いものにしている、「軽
 蔑すべきアメリカ」だった。
  また、ルーズベルトの嘘つき体質・裏切り体質が現れ
 るのが、中国に関することだった。
  ルーズベルトは、秘密裏に中国に支援する命令を出し、
 また、アメリカ正規軍に日本を攻撃させている。
  ルーズベルトは、日本の真珠湾攻撃以前に、日本を攻
 撃させている。
  これこそ、アメリカの「日本への奇襲攻撃」であった。
  また、金や武器を、中国に支援するということもして
 いる。
  アメリカの大義名分は、「日本が、侵略行為をしてい
 る」だった。
  満州は、日露戦争に勝利し、ロシアから移譲された(渡
 された)ので、侵略ではない。
  また、アメリカ・イギリスは、日本に、「シベリアへ
 出兵してくれ」と頼んできている・・侵略ではない。
  アメリカこそ中国のあちこちの権益を欲しがった国だ。
  そして、アメリカは、日本が侵略していると罪に落と
 しながら、ソ連が中国領を欲しがったら「いいよ」と許
 可する行為をする。
  中国には、秘密にして、こんなことをするアメリカな
 のである。
  ソ連の「中国への主権侵害」に、許可を与えているア
 メリカなのである。
  中国の大連を、「国際港」という誤魔化しの「名目の
 言い方」で、実質、ソ連の港になることを認めたアメリ
 カだった。
  南満州鉄道も、同じ様に、「中国と共同管理で」と言
 いながら、実質は、ソ連のものとして認めている。
  ルーズヘルトは、子供だましの様な事を言った、「中
 国に知らせると情報が漏れるからだ」と・・、
  ルーズベルトは、このことを、強く秘密にすることを
 スターリンに要求した。
  この秘密は、破廉恥な事に、アメリカの国務長官のス
 テティニアスにも秘密にされた。
  この一連の会談について、ルーズベルトは、「欲しい
 ものは、すべて手に入れた」と言ったという。
  すべて嘘と秘密で手に入れる詐欺師やペテン師の如く
 のルーズベルトに、「何を言うのかと、喝を入れたい心
 境だ」。
  こんな輩たちによって、何百万人もの命が亡くなされ
 たのである。
  (参考)レンドリース法(武器貸与法)という法律が
     アメリカにある。
      第4協定期間は、1944年7月1日から開始された。
      1945年4月17日に署名され、公式には1945年5
     月12日に終了したとされた・・が・・
      ソ連への援助は、日本に対する戦争の期間(
     ソ連の対日参戦は1945年8月8日)「マイルポス
     ト合意」に基づいて1945年9月2日まで続けられ
     た。
      そして、1945年9月20日にすべての対ソ連「レ
     ンド・リース・プログラム」は終了した。
      ソ連に対して出荷された軍需物資の概要は・・
     航空機14795、戦車7056、銃8218、機関銃131633、
     爆発物345735トン、化学物質842000トン、
     輸送船90、対潜艦105、魚雷艇197、軍靴15417001足、
     ジープ51503、トラック37503、オートバイ35170
     など・・
      輸送は、北極海の輸送船団、ペルシア回廊、
     太平洋ルートで行われた。
      アメリカは、卑劣にも日本と停戦合意した後
     までもソ連に武器を与え続けていた。
.
1969年1月20日、第36代アメリカ大統領にリチャード・ニク
 ソンが就任した。
  この大統領は、ベトナム戦争を拡大した。
  また、この大統領は、1974年、ウォーターゲート事件
 で任期満了を待たずに辞任している。
  ニクソンは、キッシンジャー外交問題特別補佐官に
 任命し・・
  1969年7月、外交方針の原則としてニクソン=ドクトリ
 ンを発表した・・
  これで、海外への過度な軍事介入の抑制に転じ、対共
 産圏戦略で同盟諸国に肩代わりの強化を要求したりした・・
 が・・一方・・、
  パリ和平会談の有利な展開を狙って、1970年~1971年、
 ベトナムでの主導権を維持するため、アメリカは、カン
 ボジアへ侵攻し・・また、ラオス空爆も始め・・、
 介入を拡大し、ベトナム戦争インドシナ全域に拡大し
 た。
  この戦費の重みは、アメリカ経済に重くのしかかった。
  この様なベトナム戦争の時、この北ベトナムを支援し
 ていたのはソ連だった。
  しかし、「北ベトナムを支援するのは中国だ」と間違
 って見ていた。
  アメリカや世界は、その様に見ていた。
  ベトナム戦争をやらせているのは中国だと見て・・ニ
 クソン・アメリカ大統領の理解も、完全に間違っていた。
  逆に、北ベトナムと中国は、仲が悪かった。
  ソ連北ベトナム支援の物資を、中国は中国領土を通
 させないという事をした。
  また、異常なハラスメント(いやがらせ)をした。
  アメリカは、中国が「革命の輸出」をしたいため、北
 ベトナムを支援しているものと、まったく間違った見方
 をしていた。
  種々、中国に煮え湯を飲まされる北ベトナムの事情を、
 アメリカは知らなかった。
  北ベトナムは、民族統一をしたいから戦っていた。
  この点を大きく見られないというアメリカの大きな間
 違いがあった。
  アメリカは、ソ連に金を渡しているが、そのソ連が北
 ベトナムへ武器などの支援をしている。
.
1979年、中国とベトナムの戦争(中越戦争)が始まり、中
 国とベトナムが、こんなに仲が悪かったのかと世界がび
 っくりした・・
  中国の嘘と諜報とプロパガンダで、世界は誤魔化され
 ていた。
  実は、ベトナムと中国は、仲が悪かったのだった・・
  世界は、周恩来毛沢東の詐術(さじゅつ、通常の知
 能を有する一般人を欺罔(ぎもう)するに足る術策)が
 うまくて、誤魔化す術が長けていたので、仲が良く見え
 ていた。
  あたかも、中国がベトナムをコントロールしているよ
 うに見えた。
  しかし、この1979年に、中国とベトナムの戦争「中越
 戦争」が始まって、世界はびっくりする。
  中国とベトナムは、こんなに仲が悪かったのかと・・
  こんなプロパガンダ(嘘工作)された見方の中で、アメ
 リカ外交は動いていた・・
  キッシンジャー外交も動いていた・・
  それで、中国は、アメリカからとるものを取ってしま
 った・・まったく大きく価値あるものだった・・
  実は、中国は、1970年~1971年頃は、最悪だった。
  アメリカとも、また、ソ連とも対立をしていた。
  ニクソン訪中前であった・・
  中国共産党は、崩壊直前の状態にあった。
  しかし、アメリカは、中国と手を結んだ・・1933年に、
 ソ連を承認したように・・
  中国は、息を吹き返した・・力を取り戻した・・経済
 も良くなった・・
  この時・・毛沢東が、先にアメリカに打診したという。
  中国は、国境を接しているソ連の方が、アメリカより
 脅威という状態だった・・
  アメリカは、『一つの中国』を認めたわけではないが、
 その様な印象は与えてしまった。
  そして、今、南シナ海を無断で自国の戦略基地とし・・
  また、「太平洋を半分ずつにしよう」とアメリカに言
 うという中国になっている・・
  今、アメリカは、中国に抜かれると言う人が多くなっ
 ている・・
.
1990年、中国は、完全に外国情報に触れられない国となっ
 ている。
  この年、海外衛星放送の受信が禁止となった。
.
1994年、中国は、海外情報が得られない国で、政府によっ
 て完全に管理されている。
  この年に、国外テレビ番組の輸入が政府の管理下に
 置かれた。
  また、放送も完全に管理されるもとにされ、管理規定
 ができた。。
.
2000年、中国は、中国国民の情報を得る自由を拘束してい
 る。
  この年に、さらに厳しく、インターネット放送に関す
 る監督管理をし始め・・
  また、海外アニメ番組の購入や放送に関する通知が規
 定されたり・・
  さらに、外国テレビ番組や映画の輸入に関して政府の
 管理下に置かれた。
.
2013年5月19日、日本の防衛省は19日、国籍不明の潜水艦が
 沖縄県南大東島の南の接続水域内を潜航するのを確認
 したと発表した。
  13日と同様に、防衛省は国籍を公表していないが、政
 府関係者は中国海軍の潜水艦と見ている。
  中国籍と見られる潜水艦が日本の接続水域に入ったと
 日本メディアが大々的に伝えたのは今回が初めてではな
 い。
  中国の海軍軍事学術研究所法律研究室の邢広梅主任は
 19日、「環球時報」に対し、「南大東島沖縄本島の東
 400キロの太平洋上にある孤島で、潜水艦を含む各国の船
 舶と航空機はこの島の周辺を自由に航行、飛行できる。
  島の位置から見て、最も近いのは中国ではない。
  日本側が確認が取れていないのに『中国の潜水艦によ
 る威嚇』と大げさに主張するのは、明らかに中国を敵視
 し、顔に泥を塗る行為である」と述べた。
  また邢広梅氏は、「日本が国籍不明の潜水艦の潜航を
 頻繁に報道している点から、日本の対潜能力は非常に高
 いことがわかる。
  潜水艦をキラー兵器としている中国海軍にとっては大
 きな脅威であり、中国海軍は大いに重視する必要がある」
 と語った。

2015年10月25日、K-324は、米海軍に屈辱を与えたソ
 ビエト潜水艦
  高価な機密装備を損傷させたことにより多くの米海軍
 高官が免職されたが、とりわけ米国が憤懣を募らせたの
 はそれら装備がソビエト海兵の手に渡ったというニュー
 スだった。
  1983年の秋、多目的原潜K-324(NATOのコードネームは
 ヴィクトル3、ソビエトではシューカ)が西大西洋を巡視
 していた。
  10月31日、ソビエト潜水艦がサルガッソー海に米海軍
 の最新鋭巡洋艦マックロイを発見。
  同船は最新鋭対艦探知システムTASS(Towed Array
 Surveillance System)の試験を行っていた。
  演習上の標的として選ばれたのは米国の原潜フィラデ
 ルフィア(SSN-690)。
  米艦の乗組員らは演習にもう一人の参加者がいること
 など疑ってもみなかった。
  ソビエト潜水艦K-324だ。
  同船は航行音を消して隠密裏に米巡洋艦に近づき、そ
 の頭部にとりついた。
  それから14時間というものソビエト潜水艦は技術的諜
 報を行い、秘密の潜水艦アンテナのパラメーターを測定
 した。
  熱帯暴風雨で米艦の演習は困難になり、中止された。
  マックロイ号は急に方向を変え、基地へと急ぐ。
  ソビエト潜水艦の船体に奇妙な振動が走った、と長年
 ののち、当時の一級船長アレクサンドル・クジミン氏は
 記者らに語っている。
  「メインタービンが故障した。原子炉もタービンも、
 非常用防護装置が作動。浮上せざるを得なかった。
  浮上し、熱帯暴風雨の真っただ中に入った」。
  こうなった原因は浮上してはじめてわかった。
  潜水艦に、探査機のついた長大な金属製のケーブルと
 いう形状の、米艦の機密アンテナが巻き付いていたのだ。
  この遭難船の救助にハバナにいたソビエト船アルダン
 が出動した。
  しかし、先にそれを見つけたのは米駆逐艦ピーターソ
 ン、および、ニコルソンだった。
  両艦は紛失した機密装置の捜索を行っていたのだ。
  潜水艦が拿捕されることを危惧したK-324の船長は、自
 爆準備を整えるよう命じた。
  しかし、事は公海上で起こっており、米艦は潜水艦の
 周囲でしか行動できず、不運なアンテナをネジで断ち切
 ろうと遠巻きに試みるしかなかった。
  やがて、この危険なゲームに米潜水艦フィラデルフィ
 アが駆け付ける。
  同船は、ソビエトの潜水艦に近づき、その真下に入っ
 た。
  そして、どうやったものか、ソナーつきのケーブルを
 船体に巻き付けることに成功した。
  そうして悲喜劇じみた状況が出来上がった。
  敵対する2隻の原潜が、まるで綱引きを争うような格好
 になった。
  終いには強化ケーブルが引き千切られ、フィラデルフ
 ィアは自らの船体に巻き付けたソナーつきカプセルを丸
 ごと奪い去ってしまった。
  しかし、K-324のネジにはまだ400mにもおよぶ機密低周
 波アンテナが残されていた。
  急行したソビエト船アルダンがK-324を牽引し、キュー
 バに連れ帰った。
  ネジから巻き取られた米国のアンテナは特殊軍事航路
 でモスクワに送られた。
  K-324は、再び、大西洋のパトロールに復任した。
  のち明らかになったところでは、当時のロナルド・レ
 ーガン大統領は、この件について報告を受けると、海軍
 の高官数名を解雇するよう命じた。
  議会は、翌1984年度の軍事予算で、海軍の学術調査諜
 報の割り当て額を25%削減した。
  ロシアに機密のすべてを渡してしまうような海軍の活
 動に渡す金などない・・という。
.
2016年12月21日、なぜ中国は米軍の潜水ドローンを拿捕し
 たのか・・との表題で日経ビジネスが伝えた・・
  以下、その抜粋・・
  中国の人民解放軍海軍が南シナ海で米軍の無人潜水探
 査機(ドローン)を「違法に奪取」した。
  12月15日のことである。
  米国側は、すぐさま返還を要求、
  18日には中国側も返還に応じることを決定したが、い
 ったい中国側は何を考えて、このような大胆な真似をし
 たのだろうか。
  米国防総省の発表では、15日、アメリカ海軍の海洋調
 査船「バウディッチ」が南シナ海のフィリピン・ルソン
 島沖、スービック湾から北西93キロの地点で、無人潜水
 探査機(ドローン)2機による海洋調査を実施、
  探査機を回収しようとしたところ、中国海軍の潜水艦
 救難艦がボートを出して1機を奪ったという。
  バウディッチは無線で返還を要請したが、救難艦は応
 答せずに探査機を持ち去った。
  米国側によれば、ドローンは、海水の塩分濃度や透明
 度などを調査するものだが、これは、潜水艦航行時のソ
 ナーデータに役立つ情報でもある。
  潜水艦の航行、作戦に必要とされる情報といえば、軍
 事情報になるが、機密というほどのものはない。
  国防総省の発表でも、今回の調査は、民間用のドロー
 ンを使って非機密情報を収集していたという。
  無断でこのドローンを拿捕した中国国防部は、「中国
 海軍は15日午後、南シナ海海域で正体不明の装置を発見
 し、船舶の航行の安全と人員の安全を守るために、救難
 艦の責務として、この装置の識別検査をしたのだ」と主
 張した。
  だが、目の前に米海軍の調査船があり、無線で返還を
 呼び掛けているのに持ち去ったとなれば、この主張も口
 実にすぎないとわかる。
  中国国防部側は、識別検査の結果、無人潜水探査機で
 あると判明したので米国に返還すると決定した、と説明。
  「中国側は、米国側とずっと連絡を保っているのに、
 米国側が一方的に問題を公開し、騒ぎ出したのは不適当
 であり、問題をスムーズに解決するのに不利となった。
  我々は、このことに遺憾を表明する」と開き直った。
  さらに、中国国防部は、「強調すべきことは、長年、
 米軍は頻繁に中国当面海域で偵察や軍事測量を行ってき
 ているが、中国はこのことには断固反対しており、この
 種の活動を停止することを米国側に要求する。
  中国側は、引き続き米国側のこうした活動に対し警戒
 を維持し、必要な措置をもって対応する」とけん制した。
  米海軍海洋調査船が寄港していたスービック湾沖とい
 う現場は、本来、フィリピンの排他的経済水域内だが、
 スービック湾西200キロの地点にあるスカボロー礁はフィ
 リピン、中国が領有権を争う係争地である。
  米国側は、この周辺海域を国際水域、つまり、公海や
 自由海に準ずるものとして認識しているが、中国側にす
 れば現場は、中国の排他的経済水域ということになる。
 (中略)
  中国側がいきなりドローンを無断で拿捕するというこ
 とは、これは実力行使、戦闘行為に発展してもおかしく
 ないぐらいの挑発といえる。(中略)
  トランプ(大統領)は、この件について、そんなドロー
 ンなど中国にやってしまえ、とツイッターで発言したの
 は、そこに軍事機密として保護を優先させるものはなく、
 中国の挑発に乗らないことを優先させた、ということか
 もしれない。(後略)
  (追伸)米国防総省20日、中国が南シナ海で先週拿
     捕した米海軍の無人潜水機が返還されたと明ら
     かにした。
      潜水機は、拿捕された場所の近くで米国側に
     返還されたという。
      国防総省は発表文で、国際法で認められた南
     シナ海の海域で、今後も「飛行し、航行し、活
     動する」と述べた。
      中国は15日に、フィリピンのスービック湾か
     ら北西92キロの国際海域で潜水機を海から取り
     上げた(フィリッピンに本当に近い海域)
      これを機に両国は対立し、ここ数十年間の両
     国関係でも特に深刻な事態のひとつと言われる
     状態にあった。
      中国国防省20日の発表文で、「中国と米国
     が友好的な協議を行った結果、引き渡しは正午
     に滞りなく完了した」と述べた。
      20日の発表文で国防総省は、無人機の拿捕は
     国際法海上における海軍間の行動規範に沿っ
     ておらず、事実関係の調査を今後も続けると述
     べた。
      専門家らは、今回の対立が、中国が南シナ海
     で軍事活動を活発化させていることへの米国の
     懸念をさらに高めるだろうと指摘した。
.
2017年2月15日、中国が法改正、外国の潜水艦に浮上航行を
 義務付け・・露メディア
  15日、全ロシア国営テレビ・ラジオのチャンネル「ロ
 シア1」は、中国の海上交通安全法改訂について取り上げ
 た。
  領海内を航行する外国の潜水艦には浮上航行を義務付
 けるとの項目が注目を集めている。
  2017年2月15日、全ロシア国営テレビ・ラジオのチャン
 ネル「ロシア1」は、中国の海上交通安全法改訂について
 取り上げた。
  現在、改定案で注目されるのは外国の潜水艦に関する
 規定で・・中国領海を航行する際には必ず海面へ浮上航
 行し、また、中国当局へ航行ルートの申請も必要だとい
 う。
  専門家は、昨年の南シナ海における米軍潜水ドローン
 拿捕(だほ)事件を念頭に置いた改訂だと指摘している。
  改定案では、外国籍船舶が法律、規定に違反した場合
 には当局が違法行為禁止を命令し、領海から排除できる
 と定めている。
  南シナ海尖閣諸島近海では、中国が領海を主張して
 いるが他国が認めていない海域が多く、海上交通安全法
 改定案は新たな火種となりかねない。
  とりわけ、南シナ海は、大規模な軍事衝突が起きかね
 ないとの懸念が高まっている。
.
2019年頃(2010年代後半)中国海軍は、アメリカ海軍の大
 型空母やイージス艦を撃沈できる精密弾道ミサイル長距
 離巡行ミサイルを、着々と増産してきた。
  これらのミサイルを多数、同時に発射されると、アメ
 リカ海軍のイージス・システムは対抗できない。
  2010年代の後半期になると、アメリカ海軍の空母や駆
 逐艦は「危なくて、東シナ海に近寄れない」という状況
 になる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)635E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)

題:(増補版)635E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年、演劇
明治座で歌舞伎役者の初世市川左団次一座が興行した
 (1896年9月25日)
  ちなみに、これが大評判で、25日間の興業切符の全部
 を売り切った・・
  このとき、近所のそば屋の印を押した切手を袋に入れ
 て頭取から配った・・これが、。
  明治座は、1893年に新築されていて、市川左団次(初
 代)は、座元(劇場所有者兼興行総責任者)として近代
 的な劇場経営を行っていた。
  そして、新作物中心の興行を推進していた。
川上音二郎が、東京神田に川上座を開場した(1896年7月
 2日)
  川上 音二郎(1864年2月8日~1911年11月11日)は、筑
 前黒田藩(福岡藩)出身。
  「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、
 新派劇の創始者
  この新派劇は書生芝居、壮士芝居と言われ、やがて新
 派となり、旧劇(歌舞伎)と人気を競った。
  1895年に、歌舞伎座の舞台で「威海衛陥落」を上演し
 た。
  歌舞伎の殿堂に素人あがりの役者が出るのは異例のこ
 とだった。
  劇通の人々を驚かせ、市川團十郎は、川上が歌舞伎座
 の桧舞台を踏んだことに激怒し、舞台を削り直させたと
 いう。
  1895年末に、泉鏡花の小説を舞台化した「滝の白糸」
 を浅草座で上演した。
  この作品は新派劇の代表的な演目となった。
  そして、1896年に、東京市神田区に川上座を開場する。
.
1896年、建設
日本銀行旧館(本館)の建物が完成した(1896年2月29日)
  当初は永代橋のたもとにあったが、手狭のため中央区
 日本橋本石町に移転し、建設された。
  この日本橋は江戸時代から両替商が軒を連ねていた場
 所で、金融機関が集まっていた。
  また、商業の中心地ともなっていた。
  設計:辰野金吾(工科大学:現東京大学工学部)教授
  構造:石積みレンガ造
  外装:花崗岩貼り
  工事費:112万円(当初予算は80万円であったが、この
 時期、物価上昇した)
  着工:1890年9月
  1891年に発生した濃尾地震の被害から建物の軽量化が
 図られた。
  1923年の関東大震災でも被害は無く、建物はびくとも
 しなかった・・ただ、近隣に発生した火災によりシンボ
 ルだった丸屋根が焼け、その後、復元したの屋根が現在
 に至っている。
  ちなみに、2階の廊下には代々の総裁の肖像画が展示さ
 れていたが、関東大震災ですべてが焼失し、現在の肖像
 画は、その後、再製されたもの。
  故人になられていた方は、写真から模写された。
  エレベーターや水洗便所など先進的な設備を取り入れ、
 また、防火シャッターやスチールサッシなど外国製品も
 採用した。
中央東線の笹子トンネルを着工した(1896年12月9日)
  長さ:4657,3メートル
  幅:4.58メートル
  煉瓦トンネル・石積坑門
  竣工:1902年10月
  日本人技術者による最新技術を駆使した鉄道トンネル。
  日本で初めてトンネル工事用の発電所を設けた。
  それにより、坑内に電灯を点灯し、電話も設備された。
  また、その電力による空気圧搾の削岩機を、はじめて
 電動機の使用によって掘削した。
  また、掘削土砂などの運搬車の牽引を電気機関車を運
 転して行った。
  明治政府によって、当初、東京~京都間の幹線鉄道計
 画は、東海道中山道の2つのルートが比較検討された。
  その結果、中山道の計画が選択された。
  1871年から踏査され、
  1874年、1875年とイギリス人建築師長R・V・ボイル
 が実施調査を進めた。
  しかし、資金不足のため建設は停滞する。
  1883年に測量を着手し、建設に着手すると、中部山岳
 地帯であること、および、碓氷峠が予想以上に難工事で
 あることが判明した。
  トンネルの掘削、そして、急こう配を克服しなければ
 ならない技術的課題が解決できなかった。
  この頃、トンネル掘削は手掘りで掘られていた。
  1890年代に入ると、工部大学校や東京大学の日本人技
 術者が育って来た・・お雇い外国人に代わって活躍する
 ようになる。
  1892年、鉄道敷設法が公布され、日本の鉄道建設の基
 本方針が確立した。
  また、鉄道の敷設は、経済的観点や軍事的観点からも
 その重要性が確認された。
  海岸線を通る東海道は、海から攻撃される弱点がある
 ため、東京から名古屋へ至る「第二の鉄道建設」が重要
 視された。
  そして、碓氷峠アプト式鉄道は開通し、新たな長い
 トンネルとなる笹子峠を貫くトンネルが計画・検討され
 た。
  建設費は400万円(現在の金額で230億円)と見積もら
 れた。
  鉄道庁は、トンネル掘削技術が未熟なことから1600メ
 ートルを越えるトンネル工事は避けて来ていた。
  また、アプト方式の経費は4分の1だった。
  しかし、アプト式の欠点は、輸送力が大幅に落ちる事
 だった・・
  碓氷峠で軍事輸送試験まで行った(東京日日新聞
 1893年8月29日)
  この結果を受け、政府は、中央線の鉄道建設を決定し
 た。
  1896年から中央線の建設工事が始まった。
  そして、この4656メートルの最難関工事の笹子トンネ
 ルの工事の成功か否かが、日本の鉄道建設事業の成功の
 命運を決める工事となった。
  日本の将来の鉄道網の計画に深くかかわる工事となっ
 た。
  大量輸送手段を方針とした鉄道建設事業だった。
  笹子隧道建設工事は、工部大学校を卒業した古川阪次
 郎の設計と監督(監督長)のもとで進められた。
  当時としては、まったく考えられない長い距離の掘削
 だった。
  トンネルの両側から進められた掘削・・古川は積極的、
 そして、意欲的に新しい技術を導入した。
  工事用の自家水力発電所をトンネル出口付近に建設し、
 前記したように、この電力を大いに活用した。
  電気雷管を用いた掘削も用い、三角測量にトランシッ
 トも初めて用いた。
  硬い岩盤と湧水に妨げられ、悩まされ、一昼夜の掘削
 進行がわずか30センチメートルという状況が数か月も続
 いた。
  しかし、予定工期が8年間のところを6年間で完成させ
 た。
  建設費は予定より少ない220万円であった。
  しかし、忘れてはならないことは、難工事だったこと
 もあって、この工事にあたって命を捧げた方が多かった。
  この工事犠牲者の方々の御冥福を祈らなければならな
 い・・この方々の命を犠牲にしてこの難工事は成就した。
  この命のお蔭で成功があり、今・現在の超電導リニア
 モーターカーの日本の誇る最新鉄道技術へとつながって
 いる。
  また、あなた方が、その便利さを、今、享受している
 「この記念碑的な難工事であった笹子トンネル工事で犠
 牲となった方々は100名を超えている」・・この尊い命を
 捧げて戴いた方々のこの人数も、記録から簡単に知る事
 が出来ない状況にと置かれている・・工事に殉じて亡く
 なられた方々をないがしろにしている。。
  また、その後、不運な事に、2018年12月2日、このトン
 ネルの天井版落下事故で9名の方々が亡くなられた。
  『津波の様に天井版が落下して来た』とNHKのニュ
 ースで、この事故に遭遇した方が証言していたが・・
  この証言の事実から分かる様に、隣の天井版が落下す
 る「その天井版を支えきれず」に、その隣の天井版とと
 もに、次々に落下して行ったという事が分かる。
  隣の天井版が落下したからといって、津波の様に次々
 に落ちるような天井版は欠陥である・・問題である。
  これは、天井版を吊るしていたアンカーボルトの耐力
 不足だと明らかに言える。
  ここに問題の根幹があると明らかに言える。
  一か所が落ちて、その隣も一緒に落ちるという支える
 役目のアンカーボルトの性能設計が欠陥である・・最悪
 である。
  このアンカーボルト部を含む吊り下げ部の設計ミスが
 原因である。
  まず第一に、アンカーボルトを上向きに使わせること
 を良しとした規準が良くない・・
  今後、アンカーボルトの上向き使用はさせないように
 しなければならない。
  特に、このトンネルの重い天井版の様な所に使わせた
 という「設計に問題がある」・・
  この重い天井版が、常に車の振動を受け・・
  また、走り去る車の風圧の変化をも受ける・・
  この様な作用による上下動を、常に受けて上下し、ま
 た、振動している。
  この様な作用を受け続けているアンカーボルト・・重
 い天井版は地球の引力も常にかかり、振動と、風圧変化
 の上下動の、それらの促進劣化が、耐力劣化が、進ませ
 られるという状況下にずーっとあった・・
  それが、経年において、アンカーボルトの耐力の維持
 の限界に達して行った・・限界に達し、維持されずに落
 下した・・そして、事故に至った・・
  接着剤で止めるアンカーボルト工法を「上向きに使っ
 て、支える機能を要求した設計の罪」である。
  どんな接着剤や糊でも・・経年において、剥がれるも
 のである・・それに振動などという促進劣化・促進因子
 が働いている・・そして、使われている向きが上向きで
 ある・・
  また、点検を目視検査とさせていたのもミスである。
  目視で分かるはずがない。
  明日、引き抜け落ちるボルトが分かるのだったら、こ
 の目視点検方法を教えてあげなくてはならない・・目視
 で分かるわけがない。
  結局、点検作業のミスにされた不合理がこの事故にあ
 る・・可哀想に・・濡れ衣である・・点検作業の会社に
 罪が着せられてしまった・・この誤った判決も歴史に永
 久に残るだろう。
  「接着剤のぬれ」の問題もある・・科学が進んだとは
 いえ接着剤の工法は信頼性が低いのだ・・など・・
.
  (今日の言葉)
.
  題:経年劣化しない接着剤があったら『奇跡だ』・・
    いつかは剥がれ・・いつかは落下する・・
.
1910年8月29日、日韓併合条約が公布された。
  日韓は、下記の条文の如く、対等の併合をした。
  NHKや読売新聞などは、「日本が、植民地支配をし
 た」と、日本や、韓国・朝鮮を貶(おとし)めるが・・
 間違い。
  日本は、日本と同等の国となった朝鮮・韓国を、大々
 的な資金投資して、日本と同じような国づくりを目指し
 行った。
  条文・・
  日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下は両国間の特殊にして
 親密なる関係を顧ひ相互の幸福を増進し東洋の平和を永
 久に確保せむことを欲し此の目的を達せむか為には韓国
 を日本帝国に併合するに如かさることを確信し茲に両国
 間に併合条約を締結することに決し之か為日本国皇帝
 下は統監子爵寺内正毅を韓国皇帝陛下は内閣総理大臣
 完用を各其の全権委員に任命せり因て右全権委員は合同
 協議の上左の諸条を協定せり
  第1条:韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権
    を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す
  第2条:日本国皇帝陛下は前条に掲けたる譲与を受諾し
    且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す
  第3条:日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太
    子殿下並其の后妃及後裔をして各其の地位に応し
    相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持
    するに十分なる歳費を供給すへきことを約す
  第4条:日本国皇帝陛下は前条以外の韓国皇族及其の後
    裔に対し各相当の名誉及待遇を享有せしめ且之を
    維持するに必要なる資金を供与することを約す
  第5条:日本国皇帝陛下は勲功ある韓人にして特に表彰
    を為すを適当なりと認めたる者に対し栄爵を授け
    且恩金を与ふへし
  第6条:日本国政府は前記併合の結果として全然韓国の
    施設を担任し同地に施行する法規を遵守する韓人
    の身体及財産に対し十分なる保護を与へ且其の福
    利の増進を図るへし
  第7条:日本国政府は誠意忠実に新制度を尊重する韓人
    にして相当の資格ある者を事情の許す限り韓国に
    於ける帝国官吏に登用すへし
  第8条:本条約は日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可
    を経たるものにして公布の日より之を施行す
  右証拠として両全権委員は本条約に記名調印するもの
 なり
  明治43年8月22日 統監子爵    寺内正毅
  隆煕4年8月22日  内閣総理大臣  李完用
.
1943年頃、アメリカは、この頃から、国際法違反と知りな
 がら日本に対する戦争の戦術を変えた。
  国際法違反の「じゅうたん爆撃という爆弾を大量にば
 らまく戦術」・・一般市民の非戦闘員が、大勢、死ぬと
 分かっていても、この戦術を取るようになった。
  また、「集中砲火という弾幕を張るという戦術を取る
 ようになった・・
  それまでは、銃弾の命中率を上げるというやり方をし
 ていたが、それを放棄した。
  誰が死のうが構わないという戦術を取るようになった。
  また同様に、「火焔放射器という何もかもを焼き尽く
 すという戦術を取るようになった・・
  自分以外は何でもよいから焼き払ってしまえという戦
 術を採用した。
  スペインが、南米などで「人ではない」とキリスト教
 のローマ法王教皇)に言われて先住民のインディオ
 有色人種の方々を殲滅し全滅した考え方とまったく同じ
 考え方の方法だった。
  アメリカは、この様な挙げ句に「原爆を投下した」。
  当然、すべてが、何もかもが、蒸発して無くなった。
.
1943年、日本の努力・貢献で、大韓帝国(朝鮮王朝)の平
 均寿命が倍増した・・また、人口も倍増(2.6倍)した・・
  朝鮮・韓国の種々の事々が、目覚ましく改善した・・
  小学校数は、何と860倍となった・・
  NHKは、日本を貶(おとし)めてばかりいるが・・
  NHKは、日本が朝鮮・韓国を植民地支配したと放送
 をする・・これは大間違い。
  植民地支配は、英語で「コロナイゼーション」
 (colonization)と言い、文明の劣ったところへ行って
 収奪・搾取(さくしゅ)すること。
  ここには、現地を繁栄させるという考え方は、まった
 くない。
  日本が、朝鮮・韓国でしたことは「アネクゼーション」
 (annexation)であり、併合で、合併の意思があったが、
 当時の朝鮮・韓国の国力が劣り過ぎていて、この合併の
 形がとれず、この国力のあまりに違うことから併合とい
 う形となった。
  これは、植民地の形とはまったく違う。
  併合された地域と人々が繁栄する様にして、一つの国
 として運営された。
  ヨーロッパやアメリカが、アジアやアフリカでやって
 いたことは「コロナイゼーション(colonization)」で
 あり植民地支配で、植民地の人を使役して、搾取した。
  日本は、世界で唯一、『植民地支配しない国』であり、
 朝鮮や台湾で植民地支配をしていない。
  現地を繁栄させようとした日本だった。
  その結果、経済が発展し、また、教育や人口なども飛
 躍的に大きく発展した。
  日本は、日本の資金を持ち出し、必死に、資本を赤字
 覚悟で投下した。
  朝鮮・韓国の人口が、980万人から2500万人にびっくり
 するほど増加している(2.55倍)
  また、平均寿命は、24歳から48歳と倍に伸び、日本人
 並みになった(2倍)
  また、経済も年平均4%の経済成長率を記録した。
  また、日本は、教育熱心な国であり、分け隔てなく学
 校・教育へ投資した。
  併合時は、たった5校に過ぎない朝鮮・韓国の小学校数
 は、1943年には、約4300校の860倍という驚くべき増加ぶ
 りを示した・・
  すべての朝鮮・韓国の村々に、小学校を建設して差し
 上げた。
  また、兵役への志願状況を見ると、1938年に、朝鮮の
 志願兵制度が導入されたが、この年は、志願者が3000人
 に対して、合格者は406人で7倍の競争率だった。
  1944年の徴兵制施行の前年の志願者は、約30万人、合
 格者は6300人と50倍という高い競争率だった。
  この徴兵制度で徴兵された朝鮮の兵士は、ほとんど実
 戦の経験をすることなく終戦となった。
  尚、靖国神社には3万柱の朝鮮兵士が祀られている。
  日本と朝鮮は、同等の立場で一体となって戦った・・
 それを、卑劣にも戦後になって、韓国政府は「戦勝国だ」
 と何度もしつこく主張した。
  しかし、この主張は、アメリカに、その度ごとに何度
 も退けられた・・当然である。
  韓国という国は、この様に明らかに筋が通らないこと
 (嘘を)を言う国である。
  この様に、嘘を言うことを恥ずかしいと思わない国で
 ある。
  3・1に戦争反対・朝鮮独立のデモがあったとされる
 が・・デモを許す日本の公平さ・自由さもあったのだろ
 うが・・
  あまりにも針小棒大に誇張して、韓国政府が音頭を取
 って誤認混同させている。
  大多数のほとんどは、朝鮮・韓国の兵士の志願者数の
 データーを見る如く・・
  朝鮮・韓国は大挙して日本と一体となって戦っていた
 状況であった。
  何しろ、日本は、誠実に、何事も分け隔てなく朝鮮・
 韓国の国づくりをしていて、日本は、何処の国も植民地
 支配など微塵もしていない国である。
  NHKが、日本が植民地支配をしたと放送するのは、
 日本を貶める行為となっている。
  NHKは、この様な放送の仕方で日本を貶め、世界を
 繰っている。
.
1971年10月25日、国連の中国代表権は、中華民国政府(台
 湾)が有していた・・
  しかし、国連総会で中華人民共和国の中国代表権が認
 められ、台湾は追放されてしまった(アルバニア決議)
  1971年10月、国連総会で、アルバニアが提案した中華
 人民共和国の中国代表権を認め、中華民国政府(台湾=
 国民政府)を追放する決議が採択された。
  これによって中華人民共和国は、国連の常任理事国
 して国際社会に登場することとなった。
  1949年、中華人民共和国が成立すると国連の代表権が
 問題となり始めた。
  安全保障理事会常任理事国という重要な地位に、わ
 ずかに台湾だけを支配するにすぎない中華民国政府がつ
 いているという事態が問題とされた・・戦勝の歴史があ
 る台湾・国民政府がないがしろにされた・・戦勝国と敗
 戦国の理念で出来ている国連の根幹が無視された・・大
 きいとか小さいとかの問題ではない。
  ソ連は、中国代表権をただちに新政権に変更すべきで
 あると安保理で主張した、
  それに対して、アメリカは、強硬に台湾支持を続けた。
  ソ連は、安保理をボイコットする戦術をとったがその
 間に朝鮮戦争が勃発した。
  1953年の停戦後も、ソ連は代表権変更、台湾追放を主
 張した。
  1950年代の東西冷戦の深刻化した中で、中国代表権問
 題が激しい対立点となった。
  1956年、平和共存の状況となり、日本その他の諸国が
 国連に加盟した。
  加盟問題は安保理の事項であるが、代表権の変更であ
 るので、舞台は総会に移されることとなった。
  アメリカは、日本などと結んで総会で重要議案(議決
 に3分の2以上が必要)に指定し、台湾追放を阻止しよ
 うとした。
  しかし、1960年代に、新たに独立したアフリカ諸国な
 どの加盟によって、アメリカ・日本は少数派に転落した。
  カナダなどの諸国の寝返りの中国承認が続き・・
  ついに・・1971年の総会で代表権変更、台湾追放が採
 決された。
  こうして中華人民共和国は、安保理常任理事国とな
 り、世界の大国の一つと位置づけられることとなった。
  国連の中で、アメリカとそれに同調する日本などのグ
 ループが少数派になった・・その様な転換の中にあった。
  このような時、アメリカの外交戦略を練っていたキッ
 シンジャーは、その状況を予測し、日本には同意を得ず
 に(日本の頭越しに)米中の関係改善をはかった。
  同年・1971年、北京を訪問し、さらに
  翌・1972年、ニクソンの訪中が実現して・・中国を一
 つの国家と認めてしまった。
  そして、今、中国は、国際司法裁判所が否定しても南
 シナ海を占領し、軍事基地化はしないと表明していても、
 結局は、その言葉を嘘として、「しっかりした中国軍の
 基地としてしまった」。
  アメリカ軍も近づけない領域としようとしている。
  そして、1971年に、安保理常任理事国から中華民国
 (台湾)が外された時をもって、第二次世界大戦後の国連
 という『そもそもの理念が消えた』・・
  そして、この時から別の国連が始まった・・
  もはや、戦後ではなくなったのだった・・
  ならば、国連も、戦後ではないという国連にならねば
 ならない・・
  化石のように存在する「敵国条項」を廃棄せよ!・・
  日本やドイツを「敵国とする条項は陳腐化している」。
  むしろ、覇権主義の中国や北朝鮮敵国条項に入るべ
 き様相となっている。
  この不合理が解決しないならば、日本は、国連分担金
 の支払いを再考せよ・・もしくは、停止せよ!
.
2005年5月、犯罪の多NHK・・NHKの番組制作局の美術
 デザイン職員が自分で制作したコンピューターグラフィ
 ックスを装って制作費約470万円を着服した。
.
2014年9月初め、ウクライナ政府と親露派の間で停戦合意が
 成立したにもかかわらず、東部ウクライナは戦闘が散発
 的に続くという状態にあった。
.
2014年9月、アメリカ(有志連合)による「イスラム国」へ
 の空爆が始まった。
  中東は一挙に戦争状態となった。
.
2017年1月4日、中国での通州事件で、大勢の日本人住民が
 殺されたが、この日の産経新聞が、この事件は中国共産
 党の関わった、中国共産党に先導されて起きたことが判
 明したと報じた。

2019年2月27日、アメリカ国債をせっせと「買ってあげてい
 る日本」。
  アメリカは、国債を売って金を得ないとやって行けな
 い赤字国だ。
  日本が、その国債を買って支えている。
  しかし、このアメリカ国債が始末が悪い。
  値下がりするからである。
  円高ドル安で「どれだけ日本は損をした事か?」。
  逆に、アメリカは得をしている。
  日本に支えてもらっているアメリカとなっている。
  アメリカから買ってあげたアメリカ国債は、大雑把に
 言って『半値以下』になっている。
  そして、2019年2月27日の読売新聞に・・
  トランプ大統領の政策の影響で、アメリカ国債が売ら
 れていて、その金(かね)で金(きん・ゴールド)が買
 われているという・・
  経済アナリストの豊島逸夫氏が、以下の文を書いてい
 る。
  題:国家的「金・ゴールド」保有増に走る中国・ロシア
  中国、ロシア、そして、新興国が、外貨準備の中で、
 金を買い増し、ドル保有を減らしている。
  基軸通貨ドルへの信認が低下しているからだ。
  トランプ大統領の政策の結果、アメリカ国債が増発さ
 れる可能性が強いと考えられている。
  アメリカ国債の格下げのシナリオも語られていて、ロ
 シアや新興国が、ドルに代わるものとして、金を買って
 いる。
  さらに、中国は3兆ドルを超すダントツの世界最大外貨
 準備保有国となっていて、その大半が、対米貿易で稼い
 だドル。
  その結果、中国はアメリカ国債の最大保有国となった。
  そこで、中国人民銀行は金準備を増強させている。
  尚、アメリカ国債は、米中貿易戦争で中国の「武器」
 にもなっている。
  中国が、アメリカ国債ニューヨーク市場で売れば、
 ドル金利は急騰し、マーケットは大混乱に陥る。
  中国側の視点に立てば、金は発行国が無い「無国籍通
 貨」ゆえ、ナショナリズムの臭いがしないので、外貨準
 備として保有するには好都合・・
  大統領の言動で発行国通貨の信認が揺らぐこともない。
  ユーロ危機の時は、欧州国債が売られる中で、国際金
 価格が市場最高値をつけた事例もあった。
  そもそも金本位制は、過去の遺物となったが、各国は、
 下の表のごとく大量の金を外貨準備として保有している。
  アメリカは、「金廃貨(金は通貨にあらず)」を掲げて
 いるのに、外貨準備として8000トン以上の金を依然保有
 している。
  対照的に、外貨準備における金の割合が異常に低い国
 が日本。
  アメリカ国債保有を減らし、「金買い」に走ること
 を控えて来た(誠実な日本・・忠実な日本)
  トランプ大統領は「ドル安」を好んでいるが、アメリ
 カ国債を売られても困る。
  米国に遠慮することなく、金で資産防衛できるのが、
 個人投資家
.
  国別公的金保有量ランキング
.............金準備..外貨準備に占める金の割合
....米国......8133(t).....74.8%
....ドイツ....3369........70.1
....IMF....2814........----
....イタリア..2451........66.3
....フランス..2436........60.2
....ロシア....2113........18.5
....中国......1852.........2.4
....スイス....1040.........5.4
....日本.......765.........2.5
....オランダ...612........65.6
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/