(増補版)656E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年9月)

題:(増補版)656E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・あくまでも、正しいことを教えてあげねばな
  らない!
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民主化の達成できない国=中国・・
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1896年8月、日本郵船が、北米航路を開設した。
  明治維新の直後に、日本を導く国として三菱グループ
 の最初の会社として誕生した・・世界の既得権益を堅持
 しようとする海運会社を相手に闘いを挑んだ日本のリー
 ディングカンパニー。
  度重なる困難に打ち勝ちながら、世界有数の総合物流
 企業として成長して来た。
  開国当初の日本海運は、外国船に太刀打ちできず、イ
 ギリスやアメリカの船会社に日本近海はもとより独占さ
 れ尽くしている状況だった。
  岩崎弥太郎は、藩の廻漕業・九十九商会を継承して、
 1874年、本拠を東京に移した。
  数々の業績で、大久保利通大隈重信らの信用を得て、
 政府より海運を一任された。
  1875年、政府の命を受け、日本初の外国航路となる横
 浜~上海定期航路を開設した。
  この時、航路を独占していたアメリカのパシフィック
 メール社は、三菱商会(当時の社名)を潰しにかかり、
 9か月におよぶ運賃切り下げを行ない、競争状態に入る。
  結局、日本沿岸より撤退する。
  また、イギリスのP&O社も航路を開設して、対抗し
 て来た。
  政府の支援も得て、結局、この社も半年後に航路を閉
 じた。
  しかし、熾烈な戦いに勝ち、順風満帆の時ばかりでは
 なかった・・1881年、政界の地図が変わり逆風も吹き始
 める・・官民の風当たりが強くなる。
  1882年、半官半民の共同運輸会社が設立された。
  この会社との熾烈を極める競争が始まる・・会社の体
 力は両社とも極めて消耗する・・世論は理解を示さず、
 味方をしなかった・・
  日本海運の危機が生まれた・・消滅の危機・・この危
 機を救ったのが西郷隆盛の弟・西郷従道農商務卿だった。
  1885年、交渉が実を結び、郵便汽船三菱会社と共同運
 輸は合併する・・日本郵船会社の誕生となる。
  だからと言って、順風満帆の船出ではなかった。
  日本の発展はすさまじく、陸路の運搬も急速に発展し、
 その競争もし烈だった・・また、地方船主も生まれてい
 た。
  ここで、日本郵船は海外に活路を見い出した。
  1893年、日本初の遠洋航路であるボンベイ航路を開設。
  日本の輸出産業の花形である紡績産業の発展とともに、
 日本郵船は、欧米の船会社との競争にも打ち勝ち、日本
 の輸出拡大に貢献して行った。
  1894年の日清戦争後、日本政府は、海外航路拡充の法
 律を次々と制定した・・さらに、日本の海運も大きく進
 展して行った・・そこで・・
  1896年、日本郵船は、アメリカ、ヨーロッパ、オース
 トラリアへの三大遠洋定期航路を開設して行く。
  この決断は功を奏した・・この快挙は、日本の国際的
 な名声も高めた・・日本郵船は、世界の船会社としての
 地位を固めた・・そして、海運国日本が築かれて行く・・
  (参照:日本郵船ホームページ)
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1896年9月1日、東海道線の新橋駅~神戸駅間に、急行列車
 が登場した。
  所要時間は、17時間22分だった。
  尚、急行料金は不要だった。
  この急行列車の開設は、2年前の1894年に、当時、私鉄
 だった山陽鉄道(現在の山陽本線を運営していた)が、
 急行列車を運行し始めたから、その刺激を受けた結果だ
 った。
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1896年9月5日、「鉄道略則第13条列記物品〔貴重品〕及牛
 馬獣類ヲ旅客列車便ニテ運送スル場合ニ仕払フヘキ増賃
 金割合」を改正した(逓信省告示第167号)
  25マイル(40.2㎞)未満の輸送では、価格100円につき
 10銭、
  25マイル以上50マイル未満は同20銭、
  50マイル以上は同30銭、
  価格100円未満は100円に切上げ計算する。
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1896年9月7日、大阪市に汽車製造合資会社(後の、汽車製造
 株式会社)が創業した。
  鉄道車両の製造会社で、1972年、川崎重工業に吸収合
 併された。
  日本の鉄道行政の黎明期を牽引した井上勝が・・、
  1893年3月に設立した・・日本初の民間機関車メーカー。
  1899年7月、井上は鉄道庁長官を務めたが、長官を辞す
 るに際して、その機に、長州藩の先輩である井上馨や、
 黒田長成、前田利嗣、毛利五郎らの旧諸侯や、岩崎久弥、
 住友吉左衛門渋沢栄一安田善次郎らの実業界の有力
 者らが出資し、1899年7月、大阪市西区川北大字島屋(現:
 此花区島屋)に開業した。
  メーカーとしての出発は、外国製の機関車などの模倣
 から始まり、日本の独自の改善を施して行くという発展
 を果たした・・
  日本人の優秀さが、どのジャンルにおいても、この様
 な抜群の吸収力・応用力から発した。
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1896年9月9日、平瀬作五郎がイチョウ精子を発見した。
  「花粉管端より躍然精虫の遊動して活発に転々突進す
 る状況を目撃」・・小石川植物園の平瀬作五郎が、世界
 で初めてイチョウの泳ぐ精子を発見した模様を表現した
 言葉だった(1894年説あり)
  平瀬作五郎(1856年~1925年、植物学者)安政3年1月
 7日、越前国福井市)に生まれる。
  1872年(16歳)福井藩中学校(藩校)に入学、卒業後、
   図画術教授補助に任命される。
  1873年(17歳)東京に出て油絵を学ぶ。
  1875年(19歳)帰郷し、岐阜中学の図画教師となる。
   かたわら「小学用器画法」(1888年)ほか図画教科
   書を著した。
  1888年(32歳)帝国大学理科大学(現:東京大学理学
   部)植物学教室へ画工となる。
  1890年(34歳)技手となる。植物学に興味を抱く。
  1893年(37歳)助手となり、矢田部良吉教授の植物図
   を描く。イチョウの研究を始める。
  1894年(38歳)池野成一郎(この後、東京大学教授と
   なる。ソテツの精子の発見者)の助言で、イチョウ
   の花粉管内に精子を発見した・・
    裸子植物に初めて精子を発見・・受精過程を追跡
   した(イチョウの受胎および胚の発生研究)
  1896年(40歳)イチョウ精子発見を発表した。
   ソテツの発見と共に、これらの発見は、植物分類学
   細胞学・進化学上の一大事件であった・・
    海外の学者にも称賛された。
   平瀬作五郎は、当時、助教授だった池野成一郎に、
   精子を発見した時、寄生虫だと思って見せた・・そ
   れを見るなり池野は「精子だ」と直感したという。
  1896年9月9日、「花粉管端より躍然精虫の遊動して活
   発に転々突進する状況を目撃」・・となる。
  1896年10月、「いてふノ精虫に就テ」という論文を発
   表する(裸子植物の世界初の精子の発見)・・なお・・
   1894年1月、最初の論文「ぎんなんノ受胎期二就テ」
   を「植物学雑誌」に発表という史料もある。
   そして、1896年に、イチョウ精子を世界初でプレ
   パラート上で確認したの史料もある。
  1897年(41歳)東京大学を退職し、彦根中学へ転出、
   一時、研究も断念する不幸の時期があった。
  1912年(56歳)池野と共に学士院恩賜賞を受ける。
   初めは、平瀬作五郎の授与は予定されていなかった
   と言われている・・が、しかし、池野成一郎が、「
   平瀬が貰わないならば、私も断らせて戴く」と言い、
   二人の同時受賞となったという。
   後半生は、平野は、花園中学校で教鞭をとる。
  1918年(62歳)クロマツの受精に関する報告をする。
  1924年(68歳)肝硬変で花園中学校を退職する。
  1925年1月4日、京都市右京区御室の自宅で永眠された。
  尚、平瀬作五郎の精子発見のイチョウの木は、今でも、
 東京都文京区白山東京大学理学部付属植物園に保存さ
 れている。
  1956年、その記念のイチョウの木の下に記念碑が建立
   された。
   「精子発見六十週年」と刻まれた。
  1996年9月9日、「イチョウ精子発見百周年記念市民国
   際フォーラム」が、東京大学安田講堂で開催され、
   広瀬作五郎の功績が讃えられた。
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1896年9月14日、豊州鉄道の伊田駅~添田駅間の建設に際し、
 田川郡大任村、および、同郡伊田村の両地区の500戸の住
 民から、良田の11町余がつぶされて悲境に陥ると、線路
 の迂回要求の請願書が出された。
  (1899年9月16日、川崎駅~添田駅間、および、伊田
 ~伊加利駅間の建設出願と同時に、伊田駅~添田駅間の
 線路敷設権の取消願を提出して、翌年3月13日に認可され
 た)
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1896年9月18日、第2次松方正義内閣が成立した。
  進歩党の大隈重信は、内閣連帯性、言論・集会・出版
 の自由、民間人登用の3条件を提出し、大蔵大臣に就任
 した。
  第6代第2次松方内閣が成立した(~1898年1月12日)
  第1次松方内閣のトキの帝国議会対策での失敗もあり、
 組閣は順調とは言えなかった。
  松方自身が率いる薩摩藩からも反対論が出る状況だった。
  種々の妥協からこの内閣を「松隈内閣(しょうわいな
 いかく)」とも呼ばれる。
  特筆すべきは、政党の本格的な政権参加が実現した。
  また、1897年3月26年に、金本位制の貨幣法が公布され
 た(「大隅財政」「松方財政」は悲願としていた)
 松方内閣第十議会(氷川清話)
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1896年9月21日、奈良鉄道と連絡運輸を開始した。
  京都と奈良の2つの古都を結ぶ鉄道は、鉄道省国鉄
 の運営する奈良線が、1896年に開通していただけで・・、
  そして、蒸気運転でもあって速度は低く、列車本数も、
 1日12往復と少なく、都市間交通としては不便という問題
 点があった。
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1896年9月25日、明治座で歌舞伎役者の初世・市川左団次
 座が興行した。
  (参考)初世:しょせい、初代に同じ。
  25日間の全部を売り切った。
  近所のそば屋の印を押した切手(売り切りそば券)を
 袋に入れて、頭取が配った・・大入袋のはじまり
  これが大評判となり、25日間の興業切符の全部が売り
 切りとなった・・
  明治座は、1893年に新築され・・市川左団次(初代)
 は、座元(劇場所有者兼興行総責任者)として近代的な
 劇場経営を行った。
  新作物中心の興行を推進した。
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  (今日の言葉)
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  題:中国の南太平洋への影響力拡大に警戒が必要・・
   また、中国・人民元は、世界の通貨覇権を狙っている。
   アメリカ・ドルへの挑戦をし始めた。
   そして、電磁パルスで、皆が皆、世界中の人々が、公平に死に至ることを、
   習近平金正恩、そして、文在寅プーチンへ教えてやれ!
   地下に隠れたって駄目!
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2世紀末、ローマ帝国内にキリスト教が広まった。
  キリスト教は、2世紀末には、ローマ帝国全土に教線を
 拡大していた。
  ディオクレティアヌス帝の退位(305年)後に起こった
 内戦を収拾して、そして、その後に、単独の皇帝となる
 コンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝:306年~、
 正帝324年~337年)は、当時の東帝リキニウスと共同で、
 313年に、ミラノ勅令を公布し、キリスト教を公認した。
  その後も、キリスト教の影響力は増大を続け、ユリア
 ヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったが・・
  後のテオドシウス1世(在位:379年~395年)の時に、
 国教に定められた・・
  そして、キリスト教の教義どおり、異教が禁止された
 (392年)
  394年には、かつてローマの永続と安定の象徴とされ、
 フォロ・ロマーノにありローマの建国期より火を絶やす
 ことのなかったウェスタ神殿のウェスタの聖なる炎も消
 されるに至った・・異教だから消せ・・と・・
  ローマ時代のキリスト教徒は、特に、「終末」の意識
 が高かった。
  中世は、「イエスが時間を支配し、世界を支配する」
 と考える意識を強く持たされた・・
  そして、キリスト教会は、復活祭表の改定の必要性か
 ら・・「イエス紀元」が、525年に、考案された。
  考案したのは、スキタイ人キリスト教修道士(デオ
 ニシウス・エクシグウス)だった。
  彼は、「復活祭を、ディオクレティアヌス暦でやって
 いるのは、不信心な迫害者の記憶に結びつけることにな
 り、気に入らないから」と、その理由を書いた。
  それまでは、アレクサンドリアの司祭の復活祭を決め
 る表を使っていた。
  また、ディオクレティアヌスは、キリスト教の迫害を
 していた。
  ちなみに、ギリシャ人は、紀元前776年を紀元とする
 「オリンピック紀元」を使っていた。
  また、「ローマ人は、紀元前753年を起源とする、「ロ
 ーマ建国紀元」を使っていた。
  また、紀元前284年のディオクレテゥヌス帝の即位を紀
 元とする年号は、ローマ帝国内で、広く使用されていた
 が、この「ディオクレテヌス暦」は、ローマ帝国を越え
 て使用を強制できなかった。
  今・現在、キリスト教のイエス生誕に関連する西洋暦
 を使っているが、キリスト教が迫害されて、気に入らな
 かったため、キリスト教修道士が計算し作り出したのだ
 った・・しかし、ちなみに、イエスの生誕日は不明なの
 である。
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354年11月13日、キリスト教の教父と言われるアウグスティ
 ヌスが生まれた(~430年8月28日)
  彼が有名になるのは、キリスト教ローマ帝国に公認
 され、国教とされた時期と重なるグッド・タイミングも
 あった。
  彼は、後のキリスト教へ多大な影響を与えた。
  衰退しかけたキリスト教を復興し、中世のキリスト教
 が栄える時代へとつなげた。
  ただ、悲しいかな、また、当然のことであるが、彼は、
 現代の様な科学知識が無いため、色々な間違いをし、ま
 た、発言もしている。
  そして、アウグスティヌスの最大の発明品と言われる
 「死んだ後の救済」をキリスト教の教理とした。
  ここに、救済の「神の国が出現する」とした。
  人々は信じ、現世では夢は叶えられない「終末と最後
 の審判の後に実現する『神の国の実現』に救済される」
 とした。
  人々は、その彼の発明品によって、また、キリスト教
 聖職者が説く『殉教』を美しく感じさせられた。
  結果、自分の命を軽く扱い、捨てるという行為が安易
 になされた。
  この様な若者が多く出る状況となった。
  また、幼い子供の頃の絵本「フランダースの犬」も、
 この様なストーリーで、幼児がマインド・コントロール
 される状況となっている。
  神の前で死んで行く主人公を美しく感じさせられ、マ
 インド・コントロールしている・・その様な幼い頃より
 の洗脳する絵本・・
  それが、「永遠の至福なのだ」と洗脳し・・青年期の
 自殺へとつながる。
     ・
     ・
15世紀、ヨーロッパ中世末の15世紀・・悪魔と契約してキ
 リスト教社会の破壊をたくらむ者という「魔女」の概念
 が、「キリスト教会によって作られた」。
  男尊女卑のキリスト教の如く・・女性が悪者にされた。
  そして、最初の大規模な魔女裁判がおこった。
  そしてまた、16世紀後半~17世紀には「魔女熱狂」と
 言われる多くの女性が焚刑(ふんけい、焼き殺す刑罰)
 となる大迫害時代となった。
  その中心は、キリスト教会内にあるキリスト教裁判所
 で行われた・・
  そして、その裁判長は、キリスト教聖職者がなった。
  魔女でも何でもない女性が裁かれ焼かれた。
  目的は、大きくなりたい、権威が欲しいとするキリス
 ト教の資金集めが目的だった・・また当時、権威のあっ
 た助産婦(家庭医でもあった)がターゲットだった(権
 威者の消滅)・・夜、薬草を煎じる姿を魔女としたりし
 た・・また、資産家の女性が狙われた・・
  社会は、燃え盛る「キリスト教魔女狩り」の社会と
 なった。
  魔女にされた無実の女性は、キリスト教会内にあるキ
 リスト教裁判所で、必死に無実を訴えた。
  それでも、キリスト教聖職者のキリスト教裁判所の裁
 判長は、色々な拷問を続けて無実の女性を痛めつけた。
  助かる者はいないという状態だった・・
  長い陰湿な拷問が続いた。
  キリスト教聖職者の性的ストレス解消もなされるとい
 う軽蔑的行為もなされた。
  最後は、女性方は、皆、魔女とされ焚刑となった。
  燃え盛るキリスト教魔女狩りの嵐の前に、なすすべ
 もなかった。
  そして、見せしめの「市中引き回し」が行われ、キリ
 スト教聖職者がその先頭を歩いた。
  そして、町の広場で、顔見知りの方々の見守る中で焼
 かれた。
  卑劣なキリスト教の考える、そして、その行為だった。
  燃え盛るキリスト教の迷信宗教の中で、女性は、真実
 を訴えながら焼かれた。
  女性の財産は、キリスト教会に奪われた。
  キリスト教は、これが目的だった。
  キリスト教会は、女性を焼いた薪代(まきだい)まで
 請求した。
  この様に、初めから終わりまで、キリスト教が仕組ん
 でいるこのことが明らかな事柄に対し、最近になって、
 「すべては民間の世俗が行なったこと」と、被害者側に
 ある市民の行為だと、キリスト教は「なすりつける行為」
 を言い始めている・・恥の上塗り・・
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1816年、キリスト教聖職者のロバート・フィンリーは、黒
  人の方々をアフリカに送還するための「アメリカ植民
 協会」を結成した。
  この真の意味は、奴隷解放ではなく、黒人は、たとえ
 「自由人」であっても、白人社会の中で白人と一緒に生
 活する事は出来ないという白人優越=黒人蔑視の人種的
 偏見に根ざしていた・・古来から、キリスト教はこの考
 え方をした・・アウグスチヌスもアフリカのエチオピア
 の方々を迫害した・・
  また、その政策は、黒人の方々を「隔離」し「追放」
 することだった。
  そして、その3年後の1819年、アフリカのフランス領の
 象牙海岸の隣接地に4万平方キロメートルの地域が、植民・
 棄民のための場所として用意された。
  そして、まもなく、入植が行なわれ、首都は、ジェー
 ムズ・モンロー大統領の名前にちなんで「モンロビア
 と名付けた。
  現在のリベリア共和国である。
  しかし、入植した人数は、極めて少なかった。
  皮肉なことに、アフリカ最初の独立国となった。
  エイブラハム・リンカーン大統領は、この棄民政策
 推進した。
  自由黒人の進歩派の方々は、この政策の真意を見抜き
 反対した。
  そして、その戦いの先頭に立った。
  やがて、この自由黒人の奴隷制廃止主義者の方々も加
 わった。
  卑劣なキリスト教聖職者から始まったこの行動・行為
 も、この様な経過を辿(たど)った。
  そして、黒人の方々は、1830年に、アメリカ自由黒人
 協会を結成した。
  黒人の方々による最初の政治結社だった。
  集会運動を通して、アフリカ送還の棄民政策に反対し
 た。
  また、当然、黒人奴隷制度に反対し、逃亡奴隷に手を
 差し伸べ、黒人の方々の市民としての権利(選挙権や教
 育や仕事など)を要求し、平等を要求し、肌の色による
 差別行為に抵抗した。
  アメリカには、このような差別が根強く残った・・今、
 国連がSDGsをしているが、男女平等も大切だが、『
 まず第一に、人権の尊重と平等を掲げよ』・・
.
1911年、日本へ軍事技術を教える事に対しての警戒感が明
 確となった。
  日露戦争で、日本海軍が、あまりにも見事に、ロシア
 海軍を殲滅(せんめつ)したことが、世界に大きく衝撃
 を与えた。
  この事により、これ以降、日本は、海外の諸外国の先
 進国から、特に、海軍関係の知識を教える事に対し、警
 戒されるようになった。
  日本の留学生が、イギリスの海軍兵学校へ行くが、日
 英同盟があっても、1911年の時点であっても、英国海軍
 省からの指示で、「砲術の授業に日本人は入れるな」と
 された。
  また、第一次世界大戦の時点でも、日本とイギリスは、
 一緒になって、ドイツに対して戦った同盟国であったが、
 軍事技術の供与は、大きく制限された。
  アメリカもこの時期、この様な警戒を日本に対してし
 始め、イギリスと同様な動きとなった。
  今・現在の現時点において、中国が、「太平洋を半分
 づつにしよう」と、アメリカに言っているが、この言葉
 に代表される様に、また、習近平の言葉の様に、「世界
 覇権を得る」「2049年に、中国は軍事と経済で世界を制
 する」という目標を掲げる中国には「最大限の警戒を要
 する」。
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1942年2月15日、シンガポールが陥落した。
  シンガポールの戦いが、1942年2月7日から、イギリス
 の海峡植民地のシンガポールで、日本とイギリスの間で
 行われた・・そして、イギリスのシンガポールは、2月15
 日に陥落した。
  2倍以上の兵力を誇ったイギリス・・そのイギリスとの
 戦い・・また、難攻不落と言われていたシンガポール
 要塞。
  ここを、10日足らずで攻略した日本・・
  この結果、イギリスは、率いる軍として、歴史上最大
 規模の将兵が降伏し、捕虜となった。
  この時、イギリスのチャーチル首相は言った・・
 「イギリス軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏だ」
 と・・
  日本の緒戦(しょせん)の勝利は、東南アジアやイン
 ドの方々に「独立への夢と勇気」を育(はぐく)んだ。
  東南アジアにおける日本軍の目ざましいの進撃は、現
 地のかた々の協力なしには、なし得なかった・・
  協力があってこそなし得た。
  イギリス軍に居たインド軍兵士の中からインド国民軍
 が結成された。
  日本軍と協力して、インドへ向けて進撃を始めた。
  インドネシアビルマでも、軍隊が作られた・・
  そして、日本軍は指導した。
  マレーシアの独立運動家で、元上院議員のラジャー・
 ダト・ノンチック氏は書いた・・
  「日本軍は、長い間、アジア各国を植民地として支配
 していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てな
 いと諦(あきら)めていたアジアの民族に、驚異の感動
 と自信とを与えてくれた。
  長い間、眠っていた「自分たちの祖国を、自分たちの
 国にしよう」という心を目覚めさせてくれた。
  私たちは、マレー半島を進撃して行く日本軍に、歓呼
 の声を上げました。
  敗れて逃げてゆくイギリス軍を見た時に、今まで感じ
 たことのない興奮を覚えました」・・と・・
  (追伸)アジアの各地から日本軍が撤退した後、これ
     等のアジアの国々は、ほぼ十数年の間に次々と
     自力で独立を達成した。
      日本軍の兵士の中には、現地に残って独立戦
     争に参加する日本兵士も多かった。
      インドネシアでは、その戦士たちは、英雄戦
     士の墓に眠っている。
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1945年12月1日、サイパンで、最後まで戦い抜いた日本軍が
 山を下りた。
  サイパン島に残ったわずかな日本軍地上部隊は、ゲリ
 ラ化して、遊撃戦に移行していた。
  そして、各個で戦闘を継続した。
  日本のポツダム宣言受諾後も、その事実を知らない陸
 海軍の将兵らは、遊撃戦を継続していた・・
  ・・が、ポツダム宣言受諾の事実を知り順次投降した。
  タッポーチョ山を拠点としていた歩兵第18連隊衛生隊
 の大場栄陸軍大尉以下47名の部隊は、1945年11月27日(
 発令は25日)に、独立混成第9連隊長の天羽馬八陸軍少将
 (陸士第23期卒)の正式の命を受け・・
  1945年12月1日、軍歌(彼らの部隊の隊歌と「歩兵の本
 領」)を歌って戦没者の霊に弔意を示しながら山を降り、
  そして、投降した。
  栄光ある軍事行動に従事していた彼らは、大本営のサ
 イパン放棄を知らず、必ず友軍がサイパンを奪還に来る
 と信じていた。
  大規模な投降としては・・最後のものとなった。
  なお、歩兵第18連隊主力は、1944年5月に、グアムに移
 駐したが、衛生隊ほかは移駐が間に合わず、サイパン
 戦いに加わることになった。
.
2019年、題名:キリスト教性悪説では子供は伸びない・・
  また、その性悪説の精神的圧迫は、自殺の危険を招く・・
  テレビの司会者などで、キリスト教の考え方の「性悪
 説が優れている」と、自分のキリスト教信仰を『巧妙に
 伝道している者』が居るが・・
  そして、また、仏教の性善説を貶(おとし)める発言
 を・・自分の立場を利用して行なう者がいる・・
  これは「放送法の違反行為となる」・・公平な報道で
 はない・・
  特に、キリスト教に偏するNHKに、この行為は多い。
  科学的には、「子供は、前向きに性善説的に褒(ほ)
 め、育てる方が良い」と結論されている。
  例えば、子供にキリスト教の様な「性悪説的な精神的
 圧迫」を加えた場合、そこから「トラウマが発生する」。
  その精神的トラウマが、身体的トラウマにもなり・・
  キリスト教の若者に自殺が多いが、常に与えられ続け
 る性悪の圧迫は、蓄積すると爆発する・・怖いのである。
  その内、希望まで無くなってしまう・・
  常に、性悪説的に発想し、思考展開し・・そして、そ
 れらが行動・行為に、反映してくる・・
  そしてまた、その精神的圧迫が身体的に影響してくる。
  性悪説の危機的な状況を察知すると、脳は、ストレス
 ホルモン系と自律神経系とを動員して、それを回避しよ
 うとする・・本能がそうさせる。
  それが、常に、与えられ続けると、逃げ場の無い状態
 となる。
  体や本能が、その対応をとることが出来なくなる。
  その結果、身体は、体内でその警報を、ずっと鳴り続
 けさせる。
  トラウマ状態になって行く。
  危機的状況から本能や体が対応できなく、思うように
 守れなくなると、自分の体の主導権が奪われた状態に陥
 (おちい)る。
  トラウマとなると、自分の体が感じているはずの事を
 正確に感じることが出来なくなる・・想像することが破
 壊される。
  常に、身体は緊張状態となっている。
  自分の感覚から受け取った情報を正確に処理できなく
 なって・・
  自分の内部で起こる感情の変化を自覚することが出来
 なって・・
  緊張しっぱなしの体が悲鳴を上げる・・
  薬物療法で緩和しても、根本的な解決とはならない。
  この様な展開が、恐ろしい結果を生む・・
  マイナスの圧迫、その常時の圧迫の怖さである。
  人間は、性善説的に、前向きに明るく思考展開した方
 が良い・・科学的にも証明されている・・
.
2019年、電磁パルスによる殺傷が起きる。
  広島や長崎の原爆は、地上500メートルで爆発した。
  それによって、超高温で焼かれ蒸発し、殺され、死ん
 だ。
  人間は蒸発して行った。
  石造建物の石に、「ここに人がいたんだな」と思わせ
 る影の黒い痕跡だけを残して、人間は跡形もなく居なく
 なって、蒸発していた。
  母を探しに行ったら、台所に母の指輪だけが落ちてい
 たという話も聞く。
  原爆の超強烈なエネルギーは、その様なエネルギー・・
  広島・長崎は、山に囲まれているから、被害はその山
 に囲まれた地域内だけになった・・
  東京に投下されたら、関東平野は広いから、その広大
 な面積が焼かれ、蒸発させられることになる・・
  それに、今は広島・長崎の時の原爆より、けた違いに
 巨大になっている。
  ここで知っておきたいことは・・爆発高さが広島・長
 崎の時が500メートルだったが、この高さが高くなると
 どうなるか?・・ということである。
  日本は、地上数十キロメートルで爆発されると、日本
 全土が、原爆の熱によっては死なないが、原爆の爆発に
 よって発生する「電磁パルス」によって、結局、死に至
 ることになる。
  (参考)高高度核爆発:
      高高度における核爆発・・
      強力な電磁パルス(EMP)を攻撃手段として利
     用し、広範囲での電力インフラストラクチャー
     や通信、情報機器の機能停止を狙う。
      爆発高度によって分類されるものであり、核
     兵器の種類や爆発規模などは問わない。
      高度数十km以上の高層大気圏における核爆発
     においては、大気が非常に希薄であり、核爆発
     の効果に関して、高度が上がるにつれ爆風は減
     少していく。
      核爆発のエネルギーは電磁放射線が多くを占
     めることとなる。
      核爆発により核分裂後10ps(10~11秒)以内
     に発生したガンマ線X線)が大気層の高度20km
     ~40km付近の希薄な空気分子に衝突し、電子を
     叩き出し(コンプトン効果)、叩き出された電
     子が地球磁場の磁力線に沿って螺旋状に跳び、
     10nsほどの急峻な立ち上がりで強力な電磁パル
     ス (EMP) を発生させる。
      大気が希薄であることからガンマ線は遠方ま
     で届き、発生した電磁パルスの影響範囲は水平
     距離で100km~1,000km程度にまで達する場合が
     ある。
  電気・水道・ガスをはじめ、金融システムはじめ現代
 社会は、コンピューター・システムによって生きている。
  原爆の高高度のこの炸裂で、この電磁パルスによって、
 やられる。
  人間は死なないだろうが・・社会基盤を失う。
  この失われた社会基盤の普及は、数年を要する。
  結局、人類は生きて行けないで・・死に至る・・
  衛生状態も良好に保てない状況の中で・・死滅する・・
  核弾頭ミサイルを撃墜し、大気圏、再突入できないと
 しても、この位置で炸裂したら、この電磁パルスで、遅
 かれ早かれ、死に至る・・
  日本全土がこの憂き目にあう。
  例えば、この逆、北朝鮮の上空で、この状態と同じこ
 とが起きれば、当然、同じことが起きる。
  北朝鮮上空と言ったが、隣国の中国へも被害が及ぶ。
  北京にも被害が及ぶ。
  即死は無いが、結局は、広い範囲が死に至る。
  大気圏の核爆発というのはその様なもの・・
  核爆発による攻撃のボタンを押した者が、自分たちだ
 けが生き残れると思っているのは・・『妄想だ』。
  皆、一緒に死ぬ羽目に陥(おちい)る・・
  人工衛星も、駄目となる・・近代の機器は壊滅する・・
  電磁パルスで、皆が皆、世界中の人々が、公平に死に
 至ることを、習近平金正恩文在寅、そして、プーチ
 ンへ教えてやれ!
  地下に隠れたって駄目!
.
2019年、韓国政府は、慰安婦問題の虚偽がはっきりした現
 在・・その様々な虚偽発言で「傷ついた日本国民」へ
 謝罪せよ!
  韓国政府は、今まで、日本政府へ主張して来た「慰安
 婦」について、それが、虚偽であったことがはっきりし
 た・・その様な今、韓国大統領名で、謝罪文を書き、発
 表すべきだ。
  朝日新聞が、虚偽だと明確に認め、謝罪している様に、
 同じ様に行動すべきである。
  また、この件で、長い間の虚偽行動で、日本国民の心
 が非常に傷ついた、この事に対して、韓国政府は基金
 設けて、その修復に努めよ!
.
2019年9月24日、中国の南太平洋への影響力拡大に警戒が
 必要という読売新聞の社説が掲載された・・
  以下、その抜粋・・
  経済援助と引き換えに台湾との断交を迫り、影響力を
 拡大する。
  南太平洋での中国の動向には警戒が欠かせない。
  南太平洋の島嶼国、ソロモン諸島キリバスが相次い
 で台湾と断行し、中国と国交を樹立することを決めた。
  これで、台湾が外交関係を持つ国は、世界で15カ国だ
 けになった。
  中国が、台湾を国際的に孤立させようと、攻勢を強め
 ているのは明らかだ。
  南太平洋はかつて、中国と台湾が熾烈(しれつ)な援
 助外交を展開したが、近年は、中国が経済力を背景に存
 在感を増している。
  オーストラリアの調査機関によると、中国は、2006年
 からの10年間で、南太平洋の国々に17億8000万ドル(約
 1920億円)を援助した。
  今や豪米両国国に次ぐ主要な援助国となった。
  この地域の秩序を主導する米豪に対抗する戦略だろう。
  懸念されるのは、中国の南太平洋への進出によって、
 地域の緊張が高まる事態だ。
  「海洋強国」を国家目標とする中国は、太平洋やイン
 ド洋など遠海へと活動範囲を広げている。
  国際ルールに反した一方的な海洋進出や、相手国の財
 政状況を無視した融資が批判されてきた。
  中国の習近平国家主席南シナ海について「軍事拠点
 化しない」と約束した。
  にもかかわらず、岩礁を埋め立てた人工島にレーダー
 やミサイルを設置し、「航行の自由」を脅かしている。
  インド洋の島国スリランカは、中国への債務返済が出
 来なくなり、南アジア最大級のハンバントタ港の権益を
 事実上、譲渡した。
  南太平洋で同様の問題が起きないとは言いきれない。
  島嶼国の多くが中国への経済的な依存度を高めている。
  バヌアツでは、中国が港湾整備を進め、軍事利用する
 との見方が出ている。
  南太平洋は、アジアと米大陸をつなぐシーレーン(海
 上交通路)にあたる。
  米軍がアジア太平洋の戦略拠点として基地を置くハワ
 イやグアムに近い。
  日米豪などが共有する「自由で開かれたインド太平洋」
 構想でも大切な地域だ。
  中国が島嶼国を拠点に軍事活動を強化し、地域の安定
 を揺るがす事態を防ぐため、米豪や日本が、南太平洋諸
 国への関与を強めることが求められる。
  経済援助に加え、安全保障協力が重要である。
  米豪は、パプアニューギニア・マヌス島の海軍基地を
 拡充し、周辺での軍事演習も強化している。
  島嶼国の防衛力向上に資する支援を積み重ねたい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  中国・人民元は、世界の通貨覇権を狙っている。
  アメリカ・ドルへの挑戦をし始めた。
  しかし、実態はただの紙切れの人民元・・
  その裏付けを保証するものは何もない。
  それは、実体のない通貨=人民元の身分不相応な振る
 舞い。
  何故? こんな大間違いが起きたのか?
  その中国・人民元の振る舞いの初めには、ウォール街
 の行なった間違いがあった。
  ウォール街は、中国を一時的に大いに助け、そして、
 援助し、そして、ウォールは大いに儲けた。
  アメリカの歴代政権も、「それはウィンウィンだ」と
 勘違いして、大いに進めさせた。
  そして、アジア・・
  アジアで大きな経済的影響力を持つ華僑・・
  この華僑と中国を刺戟させて心身を興奮させないよう
 にという政策がとられた・・これに固執し、続けられた。
  しかし、今、この間違いが、とんでもないことになる
 という事態が発生している・・、
  この様な事態は看過できない、見過ごせないと、何と
 かしなければという行動が・・とられ始めた。
  トランプ・アメリカ大統領は、中国・習近平のアキレ
 ス腱を撞く(つく)行動をとり始めた。
  その目標は、当然、「紙きれの中国・人民元に通貨覇
 権を絶対に握らせない」というところにある。
  高関税に始まり、金融戦争が始まる。
  例え、通商が犠牲になっても「国家の安全保障が大切
 だ」という理念がある。
  中国を甘やかせた最大のポイントは、人民元が変動相
 場制が通常なのに、その状態になっていないことにある。
  中国・人民元は変動相場制に移行させるべきだ・・そ
 れが当然だ・・
  (日本は、堂々と、変動相場制に移行した)・・
  この図体ばかりが大きい中国は、変動相場制が恐怖で、
 逃げ回ってばかりいる・・
  アメリカの保護下に居た・・しかし、そのアメリカを、
 身分不相応に食い始めた。
  今、中国は、ドルが枯渇している・・
  外貨準備も激減している・・
  資金が中国から逃げ、ますます、余計に、中国・人民
 元の裏付けが無くなっている・・
  それに、不動産バブルが崩壊し・・空室ばかり・・株
 安も起きるという災禍・わざわいの中国となっている。
  直接投資が激減している・・貿易も、事実上、赤字と
 なっている・・もう中国の時代は終わった・・明らかに
 ASEANへ移行している。
  異常な二桁の軍拡で作られた景気・・そして、人民元
 札の増発で、景気を煽るという嘘が「ばれ始めた」・・
  知的財産権無視で次世代技術を盗取し、軍事などへ転
 用して来た。
  アメリカのトランプ政権は、ファーウェイやZTEを
 阻止し、スパイ摘発をしている・・
  また、企業買収を止めさせ、拠点買収を阻止している。
  もう中国は、変動相場制へ移行させねばならない・・
  そんな最恵国待遇の特待席には、いつまでも置いてお
 けない。
  有頂天でやっている「一帯一路」は、当然、しぼんで
 行く・・
  世界の工場と言われた中国の生産拠点も「存在意義が
 無くなった」・・獅子身中の虫に成り下がった。
  中国の政治形態が変わり、真からの自由な経済社会に
 ならないのなら・・消えゆくのみ・・
  中国が生き残る道は、真からの自由経済社会と民主主
 義国家への道・・
  AIの熾烈な戦いが繰り広げられる戦国時代の後に、
 その様な社会が来る。
  少数の者が牛耳る監視社会が、多くの奴隷的農民層を
 使うという一時代前の形態の中国社会が生き残れるはず
 はない・・
  (追伸)
  NHKは、CCTVへ映像を何十年も前から映像資料
 を渡している。
  例えば、一例として、国会の委員会の審議状況の映像
 のすべてを渡している
  CCTVは中国中央電視台で、中国(中華人民共和国
 の国営放送のテレビ局。
  国営通信の新華社とともに「メディア」と言うより、
 中国共産党のための宣伝機関とされている。
  これはスパイ行為である。

(増補版)655E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)

題:(増補版)655E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
.
1896年8月26日、関西鉄道会社が、城河鉄道の免許路線(四
 条畷駅~木津駅間、および、大住駅八幡駅間)を、自社
 の延長線として建設を申請した。
  1897年1月20日、免許状下付、
  1897年2月26日、城河鉄道会社が解散した。
  発起人の異なる城河鉄道の免許が下り、それを、関西
 鉄道が自社の鉄道として建設した。
  関西鉄道は、設立当初から大阪進出を目指していた。
  そして、城河鉄道を買収し、四条畷駅~木津駅間の建
 設と合わせて名阪を結ぶ路線を手に入れた。
.
1896年8月26日、関西鉄道会社が、浪速鉄道全線を自社の延
 長線とすることを申請した。
  1897年1月20日、認可、
  1897年2月9日、引渡しが完了して、浪速鉄道会社が解
 散した。
.
1896年8月27日、イギリス・ザンジバル戦争
  イギリスの国益獲得の目的の戦争。
  ザンジバル島は、アフリカ東部のインド洋上の島
  タンザニア沖にある・・マダガスカル島の北方である。
  この島は、1890年からイギリスの保護領であったが、
 1963年にやっと独立できた。
  1896年8月27日、イギリスとザンジバル保護国の間で、
 軍事衝突が発生した。
  この衝突は38分から45分で終了し、史上最短の戦争と
 言われている。
  衝突の原因は、この2日前に亡くなったスルタンの跡継
 ぎ問題だった・・
  ハリド・ビン・バルガシュが後を継いだが、イギリス
 が、別の、イギリスに都合の良い、イギリスの国益が得
 られる者をスルタンにしたいとしたことから衝突が起き
 た。
  イギリスが武力行使を始めた。
  被害数:
  イギリス・・負傷1名
  ザンジバル保護国・・戦死・負傷者500名、グラスゴー
   沈没、ランチ2隻沈没、沿岸砲1門破壊
  ザンジバルの略歴は・・
  10世紀頃から、アフリカ大陸の内陸との交易の基地と
   して繁栄した・・特に、白人が行なう卑劣な奴隷貿
   易の奴隷の積出港であった。
   今でも奴隷市場の跡がある。
   ザンジバルは、ペルシア語で「黒人の海岸」を意味
   する。
  16世紀に、ポルトガル人が侵略しようとしたが、島民
   とペルシャ湾沿岸地域から移住して来たアラブ人に
   よって撃退された。
   その後、アラブ人の影響が強まって・・
  1840年オマーンのスルタン(君主)であったセイド・
   サイードが、ザンジバルに都を移し、東アフリカ地
   域の貿易を支配した。
  1858年に、ザンジバルのブーサイード朝からの独立を
   宣言・・イギリスが承認していた・・フランスも触
   手を伸ばすという複雑の状況にあった。
  『イギリス・ザンジバル戦争』は、武力差の大きい状
 態の弱小相手を牛耳るという卑劣さで「世界記憶遺産に
 するべきである」。
.
1896年8月30日、北海道鉄道敷設部技術長・田辺朔郎が道内
 鉄道敷設部長に復命した。
  北海道庁長官・原保太郎が、この復命書に基づき、北
 海道における鉄道の第1期・第2期線の区分・工費等を作
 成し、拓殖務大臣に上申し、政府が一部を訂正ののち、
 第10回帝国議会に提出し、協賛を得た。
  田辺朔郎(たなべさくろう)は、土木技術者、琵琶湖
 疎水や日本初の水力発電の建設、関門海底トンネルの提
 言などを行なった日本の近代土木工学の礎を築いた人。
  北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発
 に着手した。
  狩勝峠の名付け親。
  1861年12月2日、幕臣の田辺孫次郎(忠篤)の長男とし
   て東京市の根津愛染町に生まれた。
   生後、9ヶ月の時、父が病死・・家督を継ぐ。
  1873(12歳)岩倉遣欧使節団の一等書記官として洋行
   していた伯父が帰国し、横浜港へ迎えに行った際に
   外国汽船ゴールデンエイジ号の機関室で蒸気エンジ
   ンを見たことで工学に興味をもち、科学者を志した。
  1875年(14歳)工学寮付属小学校へ転校。
  1877年(16歳)工部大学校(工学寮より改称)に進み
   土木工学を専攻した。
  1883年(22歳)卒業と同時に、京都府の御用掛に採用
   され、弱冠22歳で大工事である琵琶湖疎水の担当と
   なった。
  1890年(29歳)第一疎水完成後、帝国大学工科大学(
   工部大学校より改称)の教授に任命されて帰京。
   同年、榎本武揚の媒酌で北垣の長女静子と結婚。
   北海道庁長官に就任した北垣の要請で、北海道全道
   に1000マイル(約1600km)の幹線鉄道敷設計画の調
   査に着手し、計画・建設に携わる。
.
1896年8月31日、第2次伊藤内閣が総辞職した。
  第5代第2次伊藤博文内閣(~1896年8月31日)
  伊藤博文の単独辞任により黒田清隆が臨時兼任となる
 (1896年8月31日~1896年9月18日)
  この第二次伊藤内閣は波乱含みで、予算と不平等条約
 改正を論題として政争が繰り広げられた。
  冊封体制朝鮮半島を自由にしていた中国・清に代わ
 りロシアが進出し、ロシアの属国の様な状況となった。
  (1896年2月11日の露館播遷は、ロシアの朝鮮王の軟禁
 行為・・ここでロシアは利権を色々と収奪した)
  朝鮮半島のこの様な状況で、1896年3月28日まで開かれ
 た第9議会では、陸海軍の更なる拡張や増税など大幅に拡
 充した予算案が、少ない削減だけで済んで通過した。
  また、造船奨励法、航海奨励法、民法など重要法案も
 次々と成立した・・が・・
  しかし、1895年8月には、前首相で大蔵大臣の松方正義
 と伊藤が対立し、松方が辞任していた。
  また、1896年5月には、陸奥も外相を辞任していた。
  また、1896年8月には、松方の後を引き受けた渡辺も、
 財政問題の行き詰まりから辞表を提出した。
.
1896年8月31日、陸羽地震が発生した。
  209名の死者出る
  秋田県岩手県の県境山間部での大地震
  揺れは広範囲で観測されるが、強い揺れは山間部の極
 狭い範囲に集中した。
  死者209人、負傷者779人、全壊5792軒、半壊3045軒、
 山崩れ9899ヶ所。
  梅ノ湯温泉などで温泉の量と温度に変化が出る。
 (日本被害地震総覧)
.
1896年8月31日、郡司成忠(ぐんじしげただ)らが、再び、
 千島列島の最北の占守島(しゅむしゅとう)に上陸した。
 (1896年9月説あり)
  (参考)郡司成忠:日本海軍軍人、探検家、開拓者。
     1860年12月28日~1924年8月15日、
      開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の
     探検・開発に尽力した。
      小説家の幸田露伴は弟。
  1892年、郡司の千島への夢は堅かった。
  郡司は、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人とし
 て千島を目指すことにした。
  横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、
 これで千島へ向かうことにした。
  1893年2月22日、後に「千島拓殖演説」と呼ばれる講演
 を行なった。
  この翌々日には、土方久元宮内大臣から拓殖隊に「報
 效義会」という名が与えられた。
  これらが、新聞などのメディアで報じられると、その
 反響は大きく、1892年、シベリア横断を実行した福島安
 正とともに国民の人気を集めるようになった。
  これらの世論の高まりによって、岩崎弥太郎黒田清
 隆、谷干城といった面々を始めとして、寄付金は当初の
 予定額を超えるほどに集まり、また、入会希望者も続々
 と増えた。
  そして、東京朝日新聞社の横川勇次(後の横川省三)
 が特派記者として同行することも決まった。
  日本中、注目は郡司に集まりすぎるほど集まっていた。
  そして、1893年3月20日、郡司以下、約80人の報效義会
 員は5隻のボートで千島へ向かった。
  当初、郡司は、航海日数33日、気象などのために航行
 不能の日が33日、それに余裕の10日を加えた計76日もあ
 れば目的地へ到達できると想定していた。
  しかし、実際には、この予定通りにはまったく行かな
 かった。
  1893年5月10日、一行は、全行程の約1/6の地点である
 釜石港付近にいた・・
  ・・が、当初の予定であればこの日には、全行程の約
 2/3の地点に当たる択捉島に着いているはずだった。
  当初の予定から、これほどの遅れを出していた。
  理由は、例年以上の荒天続きで、しかも向かい風であ
 る北風の吹く日が多く・・小さなボートのため接岸航海
 が必至だった。
  また、国民的な人気となっていたため、寄港した各地
 で歓迎会なども開かれた・・これが、時間を浪費した。
  しかし、悪影響のみではなく、気仙沼では、地元の篤
 志家から帆船「鼎浦丸」の寄贈を受けた。
  このような中、1893年5月22日、郡司一行にとって大き
 な事件が起きた。
  この日、八戸の鮫港を出航した郡司たちは、下北郡
 通村白糠の沖で暴風雨に会ってしまった。
  ボートのうち1隻が遭難し、乗組員の10人が全員死亡し
 てしまった。
  さらに、1893年5月27日、別行程で千島へ向かっていた
 鼎浦丸が暴風雨により、鮫村(現:八戸市)大久喜沖で
 遭難した・・これでも、乗組員9人が全員死亡した。
  その上、1893年5月28日には、郡司が負傷し、八戸病院
 に入院することとなった。
  郡司の自殺未遂説もあるが、詳細は不明・・暴風雨で
 の隊員の死亡が原因か?
  この一連の事件のため、それまでの計画の完全見直し
 が行われた。
  軍艦・磐城に曳航され、当初の予定では占守島に着い
 ているはずの1893年6月5日に、函館へ入港した。
  ここで、白瀬矗らの陸行組と合流する・・、
  地元の富豪・平出喜三郎の好意で、その持船に便乗さ
 せてもらい、1893年6月17日、択捉島の紗那に到着した。
  郡司は、一旦、ここに報效義会の本部を設立すること
 にした。
  1893年7月3日、郡司の実父である幸田成延をはじめと
 した会員の家族も到着した。
  1893年7月20日、硫黄採掘のため捨子古丹島(しゃすこ
 たんとう)に向かうという泰洋丸という帆船が紗那に入
 港した。
  郡司が、便乗を依頼したところ、泰洋丸船主・馬場禎
 四郎の返事は、「捨子古丹島には、硫黄採掘のため20日
 ほど滞在するから、その間に、占守島まで送っても良い、
 ただし、全員は乗せられないので15人程度にしてほしい」
 というものだった。
  こうして、郡司は、自分や白瀬、横川勇次、高橋伝五
 郎など18人の先遣隊を選抜して、泰洋丸に乗り込んだ。
  1893年7月31日、泰洋丸は、捨子古丹島に到着した。
  しかし、ここで、馬場は、占守島への回航を拒否した。
  帰還途中に新知島(しんしるとう)に寄るのはどうか
 という代案を出してきた。
  馬場の推測される理由は・・、
  採掘に手一杯で、泰洋丸を占守島へ回航させる人員が
 確保できないこと・・千島が荒天気に入る時期であるこ
 と・・占守島へ回航させる間に不慮の事故が起きる心配・・
 硫黄を持ち帰れなくなる可能性・・など
  便乗者である郡司は、これに抗議することもできなか
 った。
  新知島のブロウトン湾の岩礁を爆破し、同湾を天然の
 良港に改造しようという計画を建て、その提案を了解し
 た。
  泰洋丸のメンバーが硫黄採掘をしている時に、郡司は、
 白瀬と共に島内一周の探検を実行した。
  郡司は、捨子古丹島での越年は可能と判断した。
  そして、先遣隊18人のうち高橋伝五郎など9人を残留さ
 せることにした。
  しかし、郡司は、占守島を全力で開拓することを目的
 としていた。
  (郡司は、その著書『千島国占守島探険誌』の中でこ
 の選択について「実ニ忍ビザル所アリ」と記している)
  捨子古丹島残留メンバーと別れた後、泰洋丸で新知島
 へ向かっていたが、その途中で、偶然、八戸から函館ま
 で郡司らを運んだ軍艦・磐城と再会した。
  軍艦・磐城は、測量のため、占守島へ向かうところで
 あり、郡司は、便乗させてもらうことを請願したところ、
 これが許可された。
  ただし、捨子古丹島に残留した9人については、任務の
 関係上、捨子古丹島への寄港が無理であり、回収はでき
 なかった。
  そして、1893年8月31日、郡司は、紆余曲折の末に占守
 島へ到着した。
  占守島における郡司らの越冬は、特に問題もなく過ぎ
 た。
  心配されていた脚気に罹る者もおらず、また、サケや
 マスが無尽蔵に獲れたことなどもあって食料にも困らな
 かった。
  春が訪れて島の雪が溶けだした頃には、島を精力的に
 探険する余裕さえあった。
  しかし、他の島における越冬は、郡司らのように順調
 には行っていなかった。
  1894年5月10日、島の周囲の流氷が流れ去ったため、郡
 司たちは、和田の安否を確認しようと艀(はしけ)で幌
 筵島(ほろむしろとう)へと渡った。
  しかし、和田は、小屋の中で死体となっていた。
  残された日記から、和田は、脚気に罹って、4月上旬ご
 ろに衰弱死したことが判明した。
  (参考)脚気:かっけ、ビタミンB1が不足することで
     発症する。
      初期には疲れやすい、食欲不振、倦怠感など
     の症状から始まり、次に、主に神経や心臓に関
     連した症状が現れる可能性がある。
      心拍数が増加することから、動悸や下肢のむ
     くみが生じることがあり、病状が進行すると、
     心不全を発症する。
  そして、1894年6月28日、再び、磐城が占守島に現れた。
  ここで、郡司は、衝撃的な事実を知らされた。
  捨子古丹島で越冬していた9人が、全員死亡・行方不明
 となっているというのだった。
  まず、9人のうち、高橋ら4人は、小屋の中で全員死体
 になっていたという。
  磐城の軍医によれば、死因は明らかに窒息死であり、
 寒気を防ごうと密閉した小屋の中で焚火をしたための一
 酸化炭素中毒であろうとのことだった。
  小屋に残されていた日記には、彼らが脚気に罹って衰
 弱していたことが記されていた。
  また、高橋の死体が、戸口の方に這っていった痕跡が
 あったことから、体の自由がきかず逃げ出すことができ
 なかったと推測された。
  そして、この日記から、残る5人が10月に食料補充のた
 め越渇磨島(えかるまとう)に出漁し、そのまま帰還し
 なかったということも判明した。
  (参考)越渇磨島(えかるまとう)は、1700年(元禄
     13年)、元禄国絵図のため、松前藩が幕府に呈
     上した松前島郷帳に、「ゑかるまし」の名が記
     載されている。
  白瀬は、後に、艀が流されて越渇磨島から帰還できな
 くなり餓死したか、帰航の途中で船が沈んだのだろうと
 推測している。
  磐城が告げたもう一つの衝撃的な事は・・、
  日清間に緊張が走っており、戦争になるかもしれない
 ということだった・・占守島にいた7人は、全員が予備役
 とはいえ軍人であり、戦争となれば召集される可能性が
 あった。
  郡司は、軍人としての使命と、千島の拓殖(たくしょ
 く、未開の地を切り開いて、そこに住みつくこと)とい
 う使命があった。
  磐城艦長の柏原長繁の強い説得もあって、占守島を引
 き揚げることを決意した。
  この時、郡司は、当初、全員を引き揚げさせる予定で
 あった。
  それに対して、択捉島から報效義会員5人を引き連れて
 磐城に便乗していた郡司の実父・幸田成延が・・、
  占守島の拓殖を完全に途切れさせるべきではないとし
 て、連れてきた会員5人と自分が、島に残留すると主張し
 た。
  郡司は、若者であっても生きていくのが厳しい極寒の
 地に老父(この時、60歳前後であったと推測されている)
 を残留させることは到底できなかった。
  また、新たにやってきた5人の会員は、越冬の経験も浅
 く、もし彼らを残留させるのであれば、経験の豊かな人
 間による統率がなければ捨子古丹島の二の舞になるのは
 目に見えていた。
  しかし、成延の「占守島の拓殖維持」という意志は固
 く、最終的に郡司は、白瀬に5人を率いての残留を頼みこ
 むことになる。
  最終的に、白瀬も、郡司の頼みを受け入れた。
  島に残った白瀬らであったが、彼らの越冬は凄惨なも
 のとなった。
  6人中3人は脚気のため死亡し、白瀬を含む生き残った
 3人も愛犬を射殺してその肉を食べ、かろうじて命をつな
 いだ。
  この様な危機に追い込まれた。
  白瀬らは、1895年8月になって、北海道庁長官の命令で
 差し向けられたラッコ猟漁船に救助された。
  この千島から帰還で、報效義会の第一次千島拓殖は終
 わった・・
  そして、第二次千島拓殖へと続く・・
  千島から帰還した郡司は、召集された。
  水雷敷設隊の分隊長などとして、日清戦争に参加した。
  防材破壊に使用する爆薬の不足に悩んでいた鈴木貫太
 郎に爆薬を提供したのが郡司だった。
  (参考)防材:ぼうざい、船舶の運航を遮断するため、
     鉄鎖などでつないで水路に敷設する大きな材木。
      敵の艦船の侵入を防ぐため、河口や港湾の入
     口などに敷設する木材類。
  戦争終結後、郡司は、報效義会の再生を図って来た千
 島の重要性を説く演説などを続けた。
  こうして、1896年の初夏ごろ、会員数57人の第二次報
 效義会を結成した。
  この第二次報效義会は、参加者の中に郡司の妻など女
 性も14人含まれていた。
  探険的要素が強かった前回とは違って、拓殖のみがそ
 の目的だった。
  また、谷干城らの尽力によって、「報效義会保護案」
 が議会で成立した。
  3年間、補助金が政府から出ることも決定した。
  1896年9月、占守島に、再び、渡った第二次報效義会
 は、前準備がしっかりしていたこともあり、今度は着実
 に成果を上げて行った。
  開拓本部に、魚肉の缶詰工場や、鍛(たん、金属をた
 たいて上質なものにする)工場が建設され、幌延島には
 分村が作られた。
  会員も増加して行き、1903年には、占守島の定住者は
 170人(男100人、女70人)にまで膨らんだ。
  この日本の領土の占守島が、ロシア(旧ソ連)に奪われ
 ている・・
  第二次世界大戦が終わっているのに、武力をもって不
 法占拠された・・
  しかも、日本の守備隊が戦いに勝っているにもかかわ
 らず・・
.
  (今日の言葉)
.
  題:それまで、韓国・朝鮮には、小学校は5校しかなかった・・
   ・・が、日本は、一生懸命、小学校を建てて、その数は、4271校にもなった。
.
紀元前2世紀、「スイス」のラテン語表記の源となったヘル
 ウェティイ族はケルト人の部族だった・・この頃の最初
 の記録が残されている。
  (参考)ヘルウェティイ族:現在のスイスから南ドイ
     ツにかけて居住していたガリア人の部族。
      スイスの古名であるヘルヴェティアは、この
     部族に由来する。
  (参考)ケルト人:中央アジアの草原から馬と車輪付
     きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパ
     に渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派
     の言語を用いていた民族。
      古代ローマ人からは、ガリア人とも呼ばれて
     いた。
  (参考)ガリア人:ケルト語派を話すいわゆるケルト
     人のうち、ガリア地域に居住してガリア語ある
     いはゴール語を話した諸部族の人々を指す。
      古代ローマ人は、ローマ側による呼称「ガリ
     ア人」と「ケルト人」をおおむね同義として扱
     った。
      しかし、いわゆるケルト人の中でも、小アジ
     アに移住したケルト人(ガラティア人)やブリ
     テン島の諸部族に対するガリア人は明らかに区
     別される。
  ヘルウェティイ族に関する最初の記録は、紀元前2世紀
 に遡(さかのぼ)る。
  紀元前1世紀に、現在のスイス中部平原とドイツ南西部
 に移り住んだ。
  現在のスイス東部には、ラエティア人が住んでいた。
  ラエティア人は、紀元前8世紀からイタリア半島で都市
 国家を築いたエトルリア人が起源になっていると考える
 学説もある。
  (参考)ラエティア:ローマ帝国の属州・・その領域
     は、現在のスイス東部および中央部(ライン川
     上流やボーデン湖を含む)、ドイツのバイエル
     ン州南部やドナウ川上流部、オーストリアのフ
     ォアアールベルク州、オーストリアとイタリア
     にまたがるチロル地方の大部分、および、イタ
     リアのロンバルディア州の一部からなる。
      ローマ帝国時代のラエティアは、西はヘルウ
     ェティイ族の国に接し、東はノリクム、北はウ
     ィンデリキア、南はガリア・キサルピナに接し
     た。
      北側の国境線は、リーメス(ドイツから続く
     長城)の一部によってドナウ川沿いに166kmにわ
     たって守られていた。
      ラエティアとイタリアとの間は、アルプス山
     脈をレッチェン峠(レージア峠)で越えるクラ
     ウディア・アウグスタ街道によって結ばれた。
     ・
     ・
     ・
13世紀半ば~14世紀初頭、アイヌは、ユーラシア大陸のア
 ムール川流域に居たが・・中国の『元』に追われて北方
 から、13世紀半ばから14世紀初頭に、日本に来た。
  これを、「北の元寇」と言い・・また、「北からの蒙
 古襲来」「モンゴルの樺太侵攻」「もうひとつの蒙古襲
 来」とも呼ばれている。
  この様に、アイヌは、北方(アムール川流域、そして、
 樺太)に住んでいた。
  日本へは、紀元前に既に、南方から日本に来たり、朝
 鮮半島から来たり、太平洋を渡って来たり、紀元前とい
 う遠い昔に、あらゆる方向から日本に来て、アフリカか
 らの人類移動の大きなうねりの様に北海道も含めて日本
 中を歩きまわり移動し、日本人が形成された・・この人
 たちが日本人の先住民であって・・アイヌは先住民では
 ない。
  人類の起源のホモ・サピエンス(新人)が、アフリカ
 に登場したのが紀元前20万年。
  ホモ・サピエンスが、全地球的な拡散を始めたのが紀
 元前5万年前(紀元前5~6万年説や紀元前6~7万年説や
 紀元前10万年説もある)
  そして、岩手県遠野市の金取遺跡の人類の足跡は、紀
 元前8~9万年・・この頃の人類の足跡は日本の各所で数
 千ヶ所ある。
  そして、ホモ・サピエンスが東アジアにまで到着した
 のが紀元前5~6万年。
  そして、紀元前4万年に、日本に、旧石器時代の遺跡が
 急に増えることから、研究者の多くが、現代の日本人に
 つながる人々が、少なくともこの頃に日本で暮らしてい
 たとしている(この頃には、アイヌは居ない)
  日本列島には、あらゆる方向から日本人の祖先となる
 人々が来たのが紀元前6万~紀元前4万年で・・アイヌ
 13世紀~14世紀。
  因みに、ホモ・サピエンスの前にアフリカを出たデニ
 ソワ人が、紀元前12万年に、日本には居た(島根県の砂
 原遺跡)
     ・
     ・
1492年10月12日、コロンブスが、アメリカ大陸の島を発見
 して、上陸した。
  大航海時代・・
  この時代に、ヨーロッパ人が持っていた世界観は・・
  「三つの大陸からなる平版状の世界で・・世界の果て
 は、奈落になっていて・・南方では、海が沸騰していて、
 その先には進むことが出来ない」
  大航海時代に、この世界観が崩れた。
  コロンブスが、1492年10月12日、アメリカの島を発見
 し、上陸し、そこが、インドの東端であると思った。
  また、出会った先住民をインディオと名付けて、呼ん
 だ。
  このコロンブスは、「大陸は三つだ」という世界の世
 界観の中で航海した。
  続いて、1503年、アメリゴ・ベスプッチが、アメリ
 に到達し、この大陸を「新大陸」と呼んだ。
  (インドではなく、新大陸だと認識した)
  1519年~1522年、マゼランが、世界一周の航海をした。
  1569年、オランダの地図学者であるゲラルドゥス・メ
 ルカトルが、南北のアメリカ大陸の入った(アジアとは
 別だと認識して)世界地図を描いた。
  この頃(16世紀)は、まだ、太平洋が不明で、ベーリ
 ング海峡の存在も不明であった。
  このベーリング海峡は、1728年に、発見される。
  この様にして、ヨーロッパ人は、「球体の大地」と「
 四つの大陸」の世界の概念を構築して行った。
  この様な経過の中で、「キリスト教普遍史の世界観は
 否定され・・崩れ去った」。
  ヨーロッパ人が、「空論の想像で出来たキリスト教
 念」から解放されて行った・・
.
15世紀半ば~17世紀半ば
  大航海時代の罪作りなところは・・
  (参考)大航海時代(だいこうかいじだい)とは、ヨ
     ーロッパ人が、アフリカ・アジア・アメリカ大
     陸への大規模な航海を行い、発見した土地で略
     奪や搾取の限りを尽くした時代。
      15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポ
     ルトガルとスペインにより行われた(wikipedia
     より)
  大航海が行なわれたこの時代にあった「罪作りな所」・・
  それを形成したのが、キリスト教概念・・
  そのキリスト教概念は・・
  「世界には、アダムの子孫の怪物がいる(アウグステ
 ィヌス)」とされ、洗脳されていた・・
  ヨーロッパ人たちは、航海技術を得て、世界へ出て行
 くと、出会ったのは「怪物では無くて、人間だった」。
  その人間が、キリスト教で「蔑視観を植え付けられた
 有色人種たちだった」。
  キリスト教徒のスペイン人とキリスト教聖職者たちは、
 長い年月に渡って「この人たちに対し、殺戮のし放題を
 した」。
  この行為が始まる最初に関わったのが、キリスト教
 バチカンローマ法王教皇)だった。
  スペイン人とキリスト教聖職者たちは、このバチカン
 のローマ法王に、この現地人について問うと「人間では
 ない」という返事があった。
  キリスト教徒のスペイン人やポルトガル人たちは、こ
 れを契機に、先住民の「インディオの方々への殺戮」を
 開始した。
  「インドやアジアには怪物が居る」と説かれ、洗脳さ
 れて(この頃には、まだ、アメリカは発見されていなか
 った)・・この様なキリスト教概念を持って航海に出て・・
  アメリカへ行ったコロンブスは、第一回の航海の帰り・・
  その航海で記した・・
  「私は、多くの皆さんが考えているような怪物には出
 会っておりません」・・と・・
.
1697年4月24日(元禄10年3月4日)、賀茂真淵が生まれた
 (~1769年)
  (参考)賀茂真淵:江戸中期の国学者歌人
      遠江(とおとうみ)浜松の禰宜(ねぎ)の子・・
      浜松の脇本陣梅谷家に入婿後、上洛し、荷田
     春満(かだのあずままろ)門下となり学び・・春
     満没後、江戸へ出る・・村田春海,加藤千蔭ら
     を門下とする。
      1746年(49歳)田安宗武に仕ええたが、辞し、
      1760年(63歳)隠居。
      1763年(66歳)松阪で本居宣長が入門。
      浜町県居に住して、幾多の著述を完成する(
     広く古典を研究し、復古主義を唱える)
      近世国学国学の基礎を築く)、及び、和歌
     史上大きな足跡を残し、国学の四大人の一人と
     される。
      著「万葉考」「にひまなび」「祝詞考」「冠
     辞考」「歌意考」「国意考」「賀茂翁家集」な
     ど・・
  日本には数多(アマタ)の識者がいる。
  賀茂真淵も、その日本の識者の一人。
  賀茂真淵は、国学者万葉集を研究した。
  賀茂真淵は、静岡県浜松市に生まれた。
  賀茂真淵は、41歳の時に江戸に出た。
  弟子に優秀な学者の本居信長など多くの門人が居る。
  平賀源内も、賀茂真淵の弟子である。
  賀茂真淵が、名を成し、故郷・浜松の生家に帰った時、
 その長歌が残されている。
  それを、口語訳で記すと・・
  「江戸に暮らしていて、毎年、毎年、お慕い申してい
 るので、父と母は、故郷で健在でいらっしゃるかのよう
 に、いつもは、その様に思っていたのだけれども(中略)
  この度、唐突に帰って来て、出会った故郷の人々に尋
 ねてみると、父はもうこの世にはおられず、また、母も、
 この世にはいらっしゃらないけれども、私の妹が、白髪
 の目立つ頭で、家の門から出て来るのを見ると、ああ、
 母上は健在でいらっしゃたと見誤ってしまい(中略)
  妹の方は、父上が来られたと不思議そうに思っている
 のであった。
  しばらくは、互いに問いかける事もなく、玉のような
 涙をこぼして向かい合い、昔をしのぶ数々の言葉を交わ
 したことである」。
.
1830年代以降、アメリカのバッファローの大量殺戮
  アメリカの先住民であるアメリカ・インディアンの方々
 は、バッファローを食用とし、
  また、バッファローの毛皮は、服・靴・テントなど、
 骨は矢じりに利用し、バッファローは、生活に無くては
 ならないものだった。
  1830年代以降、アメリカは、そのバッファローを大量
 殺戮する様になる。
  また、大陸横断鉄道が敷設された1860年代以降は、ま
 たそれ以上、より多くの殺戮が行われた。
  1870年代の写真には、バッファローアメリカ・バイ
 ソン)を肥料にするために乱獲したとするそのバッファ
 ローの頭骨の山の頂(いただき)に立つ白人の写真があ
 る。
  アメリカは、バッファローを1400万頭も殺戮した。
  あきらかに、その目的は、アメリカ・インディアンの
 方々の食糧が、バッファローだったから、アメリカ・イ
 ンディアンの方々を絶滅させる目的で、アメリカは、バ
 ッファローを絶滅させた・・アメリカ政府の飢餓作戦だ
 った・・多くのバッファローが、利用もされずに放置さ
 れていた(肥料にするのだとされた)
  アメリカ・インディアンの方々は、食糧だけでなく、
 生活の手段もすべて失って、絶滅寸前になってしまった。
  カナダも、同様な事をした。
  カナダのインディアンの方々は、絶滅してしまった。
  この様な民族の排除行為は、ドイツのナチスと変わら
 ない卑劣な行為となって歴史に残った・・
.
1939年10月21日、アメリカで、原子爆弾の開発に関する最
 初の会合が行われた。
  ナチス・ドイツが、先に、核兵器保有することを恐
 れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらは・・
  1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名
 を借りてルーズベルト大統領に信書を送った。
  アメリカ政府は、核開発への動きを始めた。
  すでに、1939年6月には、原子爆弾に関する画期的な研
 究が行われていた。
  イギリスのバーミンガム大学ユダヤ系物理学学者オ
 ットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン
 235の臨界質量に関して画期的な発見をしていた。
  計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10
 kgで十分だと見積もられていた。
  また、オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルス
 は、「ガンバレル方式」と呼ばれる単純な兵器の機構と、
 ドイツが核兵器を開発しつつあることに対する警告のレ
 ポートを書いて、バーミンガム大学物理学科主任のマー
 ク・オリファントを通じて、イギリス防空科学調査委員
 会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティ
 ザードへ送っていた。
  学術的に、すでに、原子爆弾は出来上がっていた。
  (参考)ガンバレル方式:核兵器の構造の種類の一つ
     で、ヒロシマ型とも呼ばれる。
      核分裂反応の連鎖反応を引き起こす臨界状態
     を達成するために、砲身状の構造を用いる。
      臨界量に達する核物質を分割したうえで砲身
     状の構造の両端に置き、火薬により一方の物質
     をもう片方へと衝突させ、臨界を達成、核爆発
     を発生させる。
  ルーズベルトは、国立標準局長官のリーマン・ブリッ
 グズに命じて「S-1ウラン委員会」を設け、シラードから
 提案された問題を検討した。
  1939年10月21日に、ブリッグズは、シラード、ユージ
 ン・ウィグナーとエドワード・テラーと、初めての会合
 を開いた。
  1939年11月1日、諮問委員会は、大統領宛の報告書を作
 成し、潜水艦の動力源として核分裂反応の調査を開始す
 ることを報告した。
  しかし、「もしその(ウランの)反応が爆発性のもの
 ならば、既知のどんなものと比べてもはるかに大きな破
 壊力をもった爆弾になる」とも書いた。
  原子爆弾を投下される日本は・・
  1945年、日本は、原爆を落とされる前から、戦争を終
 結させようと活動していた。
  しかし、アメリカは、日本を降伏させなかった。
  その間、アメリカは、何をしていたのか?というと「
 原子爆弾が出来上がるのを待っていた」。
  アメリカは原爆を落としたかった・・その原爆威力を
 ソ連という次なる対決相手になる状況にあったソ連に見
 せ付けたかった・・
  そして、その原爆投下の行為によって・・
  鉄やガラスも蒸発するほどの高熱に晒された。
  その強烈な熱線によって、屋外にいた広島・長崎の人々
 は、全身の皮膚が炭化した・・
  そして、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発して行
 った。
  その経過において、苦悶の姿態の形状を示す「水気の
 無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。
  アメリカは、原爆の投下の前から、反撃力が皆無とな
 った日本に・・「まったく反撃のできない日本」に対し
 て、アメリカの勝ちが確定していたこの時に、アメリ
 は、この様な非人道的な人非人行為を行った。
  アメリカは、また、戦争の終わった後のことを考えて
 都市爆撃をしていた。
  日本が居なくなった後に、すでに、ソ連が、新たな敵
 となることが見えていたので「世界で、唯一、アメリ
 が原子爆弾を持った。その威力は絶大・・広島・長崎に
 原爆を投下して、その絶大な威力、悲惨な状況を見せつ
 け、その上、都市爆撃のじゅうたん爆撃さえした」・・
  また、アメリカは、戦争終結後、進駐する用地の確保
 のための卑劣な爆撃さえした。
  戦後、アメリカは、最初の大部隊を横浜に進駐したが、
 その兵舎を立てる広大な用地の確保がしたいため・・
  アメリカは、横浜の南区を爆撃し、まったくの住宅地
 で、戦争の「セ」の字もない「まったく関係のない住宅
 地」を、広く爆撃してさえしていた。
  無益な殺生、卑劣、この上ない行為をしていた。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下される。
  原爆に遭(あ)った女性が、「言い残したい」と語る
 話・・
  「忘れられない話の一つです」と語る・・
  広島で、原爆に遭ったその方が、その原爆投下された
 広島の道を歩いていると、小さな子供の手を引いて、向
 こうから歩いてくる若い女性に出会った。
  原爆投下後に、小さな子の手を引いた女性・・
  その女性は、背中にも赤ちゃんを背負っていた。
  そして、その女性に尋ねられた。
  「背中に背負っている子供は大丈夫でしょうか?」と。
  その女性は、背中をのぞくと、その赤ちゃんは、こと
 切れて、亡くなっていた。
  しかし、その女性は、そのことが告げられなくて、「
 大丈夫ですよ」と言った。
  それから・・そのまま、その若い女性は小さな子供の
 手を引いて歩いて行ったが・・
  この子供の手を引いて、背中にもう一人の子供を背負
 って、どこに行こうとしていたのだろうか?
  そして、この後、この3人は、どうなったのだろうか?
  もしかすると、さっきまで、原爆の落ちる前までは、
 手を引いた小さな子と、両親との所へ楽しい話をしなが
 ら行くところだったのかもしれない・・
  子供たちを(孫を)親に見せに行く、そして、「楽し
 い話をしていた」のかもしれない。
  「おじいちゃんとおばあちゃんに会えるんだ」と話し
 ていたのかもしれない。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された後の情景・・
  こと切れた母の乳を吸う子は、今も無事(ぶじ)で、
 育っていたのだろうか?
  広島で原爆に遭(あ)い、倒れた母は、1本の木にもた
 れかかり、子供へ乳を与えた。
  この情景を証言する方は、この若い母は、この方が見
 た時には、亡くなられていたと・・
  だが、この抱かれた子は、懸命に、母の乳を吸ってい
 た・・と言う。
  母は、「最期の乳」を、我が子へ、必死になってあげ
 たのだろう・・
  我が子の「生」を祈って・・
  乳をあげながら、生を祈って、こと切れたのだろう・・
  シャローム・・キリスト教の教義。
  シャローム・・それは、キリスト教の教える平和の教
 義。
  キリスト教は、すべてを破壊しつくしての後に、平和
 が来ると教える。
  アメリカのキリスト教を強く信仰しているルーズベル
 ト大統領は、これを、広島・長崎に実行した。
  すべてを破壊しようと、広島・長崎に原爆を落とさせ
 た。
  それが、愚かな行為だと、まったく気づいていなかっ
 た。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された後の情景・・
  そう・・そうなんだよ・・と、その方は言った。
  知人のその方は、原爆の投下時は、少し離れた所(学
 校)へ行っていたので、原爆の直撃は免れた・・
  しかし、自宅は、直撃を受けているのではないか?・・
 と・・その少年は、母が心配になる・・投下直後の自宅
 へ戻った・・まったく、灰だけになった町・・自宅を探
 すのも大変となってしまった生まれ育った見慣れた町の
 変貌ぶりだった・・その様相は、まったく違っていた・・
 やっと、自分の家を探し当て・・母の存在の痕跡はまっ
 たく感じさせなかった・・が・・家のコンクリートの基
 礎の形で、ここが台所だったなと思えるところに、母の
 「指輪だけ」が落ちていた・・と・・その方は言った。
  私が、本当にすべてが蒸発してしまうのですねと言っ
 たら・・冒頭の言葉・・「そう、そうなんです」と、上
 記の話をしてくれた・・この方が、原爆を受けている方
 とは知らずに言った言葉だった・・
  そして、どうも、その時、お客様が来ていたようだっ
 た・・応接間に、お役様用の茶碗と母の茶碗があったか
 らとも・・言った・・
  そのお客様も、その方のお母さんも、まったく蒸発し
 て・・痕跡も残していなかった・・と・・骨さえも残っ
 ていなかった・・と・・
  その方は・・友達仲間の中で・・一番早く亡くなられ
 てしまった・・原爆が影響していたのか・・?
.
2019年8月12日、中国に媚(こび)を売る事ばかりをするNHK、
  中国への媚(こび)売り番組の放送局のNHK、
  また、中国に利することばかりをするNHK、
  このNHK出身者の池上彰が、まったくNHKがやる
 ことと同じことをやっている。
  何もしないで平和なら、誰もがこれが一番なのは、当
 たり前。
  その様にあってもらいたいと思う・・が・・
  しかし、世の中、その様に行かない。
  日本の都市のすべてに、核爆弾を積んだミサイルの照
 準を合わせている中国。
  いざとなったら日本の都市のすべてを広島や長崎の様
 にしてしまうと言う中国。
  日本は、この様な中国に屈してしまう状況に今ある。
  このような時、池上彰は、この様な中国を支援するよ
 うな事をテレビでやっている。
  中国のやっていることを隠している・・
  そして、中国隠しで、放送の媒体を自由に使っている。
  日本国民を脅(おど)してばかりいる。
  中国に利する様な論理を展開する。
  日本が、中国の脅威から「自分を守ろうとすることは
 駄目だ」という偏った放送をする。
  元NHKの局員だという面目が躍如の放送をする池上彰
  一生懸命に国を守る国防をすると悲劇が起きると洗脳
 的に言う池上彰の偏した論理が放送されている。
  2019年8月12日、テレビ東京、20:00~21:54、「池上
 彰の戦争を考える」
.
2019年、NHKは、不公正な放送局である。
  NHKは、日本を貶(おとし)めてばかりいる。
  NHKのその様な一つが以下である・・
  NHKは、日本の側ばかりを見せて、日本が好んで戦
 争を選択して行った様に「編集して作った番組」で、視
 聴者を錯覚させ、日本を貶めて放送した。
  NHKは、この様な番組の作り方を良くしていて・・
 そして、日本を貶めている。
  第二次世界大戦の場合も、日本側のみを編集して、番
 組を作るというマインド・コントロール番組を放送した。
  例えば、お化け屋敷において・・脅している方を映さ
 ないで、脅されている方ばかりを映して放送した場合、
 視聴者は全体像を把握できないで、その脅されている人
 を異常な状態と見えてしまう。
  お化け屋敷に入った人の状況のみの映像を放送したな
 らば、異常に怖がってばかりしているその人の印象しか
 残らない。
  その異常さが印象づけされ、印象操作されてしまう。
  この様な場合は、当然、脅している方も映し、また、
 それに反応している脅される方を映すのが当たり前であ
 るが、NHKはこの様なやり方をしない・・
  まったく異常状態の番組の作り方をして放送し、視聴
 者を繰っている。
  視聴者が、正しい状況把握が出来ない状態にして、印
 象操作している。
  このNHKが放送した第二次世界大戦の放送の場合も、
 日本側のみを放送して、日本が、だんだん、一方的に強
 硬な策を採用して、日本の悪い状況が作り出されてしま
 うという結果をNHKは作っている。
  お化け屋敷の脅す方が見えない状況と同じで、印象が
 日本が悪いという状況が作り出されてしまう。
  アメリカが、日本を戦争に追い込んでいく状況は、ま
 ったく見えない状況となっている。
  まったくNHKは、卑劣なやり方で、日本を貶めてば
 かりいる。
  「NHKスペシャル」「歴史秘話ヒストリア」などが、
 よくこの手を使う。
.
2019年、NHKやヤ池上彰は、朝鮮・韓国を日本が植民地
 にしたと貶(おとし)めるが、これは間違い、「併合し
 たのである」。
  植民地という用語は、元々は「開拓地」や「入植地」
 などと同様に、正否の価値判断を含まない一般術語であ
 り、近代植民地法制学においても、社会科学の講学上の
 概念にすぎない。
  ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの
 感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。
  忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり・・
  外地を植民地と呼称することは回避され・・
  「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切
 加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」ことが事実上の
 慣例となった。
  この様な歴史を知っているのか?いないのか?NHK
 や池上彰は「日本は朝鮮を植民地にした」と放送し続け
 た。
  日本は、「朝鮮」と言い、また、「外地」と言ってい
 た。
  法的に「外地」と言っていた。
  多様な議員の中には、日本を貶めるため、「植民地支
 配」と表現する日本の議員も存在する。
  韓国は、反日教育の為、この併合が韓国・朝鮮の近代
 化に寄与している面をまったく隠している。
  そして、韓国は、韓国の方が、日本のおかげで近代化
 したと事実を言うと徹底的に弾圧されるという社会とな
 っている。
  逮捕され投獄される例さえある(言論弾圧
  日本は、朝鮮・韓国を、日本と併合した同等の国とし
 て考え、自分の国の様に思って韓国・朝鮮の国づくりを
 した。
  日露戦争の兵隊を運ぶために鉄道を敷いたのだと韓国
 は言うが、それなら北へ行く1本の鉄道だけで済む。
  しかし、日本は、その様な目的ではないから、遅れて
 いる韓国・朝鮮に鉄道を敷いてあげようと、韓国・朝鮮
 の国のあらゆる所、韓国・朝鮮の国じゅうに鉄道を敷い
 た。
  また、教育が重要で大切だから、韓国・朝鮮の国じゅ
 うに小学校や中学校、大学まで国じゅうに造ってあげた。
  日本の大学以上に立派な大学さえある。
  それまで、韓国・朝鮮には、小学校は5校しかなかった
 が、日本は、一生懸命、小学校を建てて、その数は、4271
 校にもなった。
  無いに等しかった韓国・朝鮮の初等教育を作ったのは
 日本だった。
  勿論、中学校や大学までも作ってあげて、日本は、韓
 国・朝鮮の教育を作り上げた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  アイヌの人々は、日本の先住民ではありません。
  日本の先住民は、アフリカ由来の日本人です。
  アメリカの先住民が、アフリカ由来のアメリカ・イン
 ディアンの方々であるのと同じです。
  アイヌの人々は、13世紀に、蒙古に追われて日本に来
 ました(モンゴルの樺太侵攻、1264年の樺太アイヌへの攻
 撃など)
  2019年4月16日に、衆議院参議院で成立した(菅官房
 長官の主導でなされたという)「アイヌの人々の誇りが
 尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法
 律(俗称:アイヌ新法)」は、科学的にも、また、歴史
 的にもまったく正しくありません・・間違った記述があ
 ります・・また、日本人がアイヌの人々を虐げてもいな
 いのに、さも、虐げ行為をしている様な法案名となって
 いる・・日本人が虐げられている法案名となっている。
  この法律の間違った記述を「正しく改正する」声を上
 げましょう。
  また、日本人の遺伝子・DNAを持った何千年も前の
 紀元前の縄文人が、北海道の縄文遺跡から出た縄文人
 歯の遺伝子分析から科学的に立証されています。
  日本人が先住民族なのです・・そのような痕跡もない
 アイヌの人々を先住民だとしてしまいました。

(増補版)654E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)

題:(増補版)654E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
.
1896年8月7日、日本における初めての私鉄である日本鉄道
 が、株主総会で、田端駅から目白駅間の鉄道建設(複線予
 定)を決定した。
  そして、この日、仮免許を出願した。
  1897年5月19日、仮免許状を受けた。
  1899年5月9日に、免許状が下付された。
  因みに、これまでの経緯を記せば・・
  1872年5月、高島嘉右衛門が、東京から青森に至る鉄道
 を建設して・・北海道の開拓を支える鉄道建設を政府に
 建言したことから、日本鉄道の歴史は始まる。
  さらに、高島は、政府の要人である岩倉具視を説いて、
 鍋島直大らをして、明治天皇陛下および政府へ、「華族
 と士族が家財を以って会社を建て、東京と青森、あるい
 は、東京と越後新潟に鉄路を敷いて、蒸気機関車を走ら
 せることを補す」ことを建言させた。
  1881年8月、会社の創立が決定した。
  1881年11月、設立特許条約書が下付され、会社が設立
 された。
  政府の財政難から民間資金の導入の動きが出た・・
  1882年、川口駅~熊谷駅間から建設が開始された・・
  1883年7月、上野駅~熊谷駅が開業し・・そして、延伸
 されて行った。
  1891年9月には、上野駅青森駅東北本線)の全線が
 開業するに至る。
.
1896年8月17日、文部省が、満6歳未満の就学を禁止した。
  この就学について、国内で激論が交わされた・・
  1872年に、日本に学制が布(し)かれたが・・
  1890年代末には、就学年齢について、満6歳と満7歳の
 いずれが妥当かという議論が激しく展開され・・
  この様な経緯の中で、日本の義務教育制度は確立して
 行った・・
  そして、6歳就学に決着して行った。
  この決定において、大きく影響を与えたのが三島道良
 (みしまみちよし、小児科医)の「6歳修学論」だった。
  氏は、「学校衛生学の父」と言われ、活躍していた。
  そして、氏は、小児科学を専門とする医学者の立場か
 ら、小学校・幼稚園の身体発育調査を実施し、ドイツ医
 学者らの知見と比較検討を行った。
  そして、それを根拠に、6歳就学を擁護する議論を展開
 した。
  氏は、満6歳という年齢の是非のみを問題とするのでは
 なく、
  家庭から学校への段差に、十分配慮すべきだという学
 術上の知見(身体発育論など)から、適切か否か判断の
 有意義な視点を提起した。
  学校教育や家庭の現実を見ながら、就学年齢・就学課
 題を考察し、論じている重要性があった。
  また、就学年齢を検討するには、身体発育、教育上の
 成績、財政状況など、多方面の要素を加えるべきだとい
 う議論も登場していた。
  「教科目を減らす必要がある」など、幅広い議論が行
 われていた。
.
1896年8月17日、クロンダイク・ゴールドラッシュの幕開け
  カナダ・ユーコン準州クロンダイク地方で金脈が発見
 された。
  このゴールドラッシュは1899年まで続いた。
  このニュースが、アメリカのサンフランシスコやシア
 トルに伝わると、一獲千金を狙う者どもが、大挙して殺
 到した。
  ゴールドラッシュで出来たドーソン・シティーは、一
 時、人口が3万人以上となった。
  クロンダイクを目指したのは10万人以上いたが、厳し
 い寒さや地形の険しさから、到達できたのは3万~4万人
 で・・実際に、金を採掘できた者は4000人程度だった。
  アラスカ州のノームで、1899年に、金鉱が発見される
 と、クロンダイクの騒ぎも終焉した。
.
1896年8月20日李氏朝鮮の高宗が軟禁されたロシア公使館
 の機械厰で雇われたロシア技士の雇傭契約で、高額の金
 が支払われていた。
  身分:機械士官
  名前と俸給:Remnev(ベルト)に每年銀貨200元
.
1896年8月23日、独立を目指すフィリピン革命
  この年・1896年から始まるフィリピンの独立と、社会
 改革を求める革命運動。
  この運動に対して、1902年まで、弾圧のアメリカ統治
 が行なわれた。
  初め、フィリピンは、スペインに植民されていて卑劣
 な状況にあった。
  1896年、その様なスペインから独立したいと「独立戦
 争が開始された」。
  しかし、いったん、鎮圧されてしまったが・・
  米西戦争が始まると、この戦争に乗じて、共和国独立
 の宣言をした。
  しかし、米西戦争に勝利したアメリカは、その独立を
 認めず・・再度、また、フィリピンのアメリカからの独
 立戦争が始まったのだった・・当然、強いアメリカが勝
 った・・その結果・・
  1902年、フィリピンは敗れ、アメリカの統治を受けた。
  アメリカの植民地となってしまった。
  以上が経緯であるが・・
  19世紀の後半に、スペインからの独立運動が活発とな
 った時、この最初のフィリピン独立運動に、その組織者
 であるホセ=リサールがあらわれた。
  彼は、1892年、逮捕されてしまった・・
  しかし、同士のアンドレアス=ボニファシオが革命を
 組織した。
  その組織「カティプーナン(人民の子らの最も尊敬す
 べき至高の協会)」が、1896年8月、決起した。
  フィリピン革命が始まった。
  しかし、銃と山刀(ボロ)で武装しただけの革命軍は、
 内部連絡に原因もあって、スペイン軍に押されどおしだ
 った。
  そして、残念なことに、ホセ=リサールも1896年12月
 30日、銃殺されてしまった。
  カティプーナンは革命政府をつくり、アギナルドを臨
 時大統領とした。
  しかし、彼は、穏健路線をとって、対立するボニファ
 シオらを処刑し、内部分裂が発生した。
  アギナルドは、その後、山中でのゲリラ戦を続けた。
  そして、スペイン総督と取引をし、1897年、降服し、
 香港へ向かった。
  その翌年・1898年、米西戦争が勃発する。
  この機会をとらえて、アギナルドは、戦争後の独立の
 約束を得て、アメリカに協力することにした。
  (しかし、アメリカに裏切られる結果になる・・)
  アギナルドは、約束通り、フィリピン軍を率いてスペ
 イン軍と戦った・・そして・・
  1898年6月12日、アギナルドは、フィリピン共和国の独
 立を宣言した、
  マロロスで議会を開催し、初代大統領に就任した。
  (第1次フィリピン共和国=マロロス共和国)
  しかし、アメリカの裏切りが発生する・・
  1898年8月、米西戦争後のパリ講和会議で、フィリピン
 が、2000万ドルでスペインからアメリカへ売り渡される
 ことになった・・この様な茶番劇が行なわれた。
  この茶番劇の結果をたてにして、アメリカは、フィリ
 ピンの独立を認めないという行為を始めた。
  そして、フィリピンを、強引にアメリカの軍政下に置
 いた。
  しかし、フィリピンには、「フィリピンとアメリカの
 間で交わした約束があった」・・その正義があった。
  その様なフィリピンは、1899年2月、正義の戦争(フィ
 リピン=アメリカ戦争)に立ち上がった。
  アギナルドらのフィリピン革命軍は、アメリカのアー
 サー・マッカーサー将軍(日本の厚木に降り立ったダグ
 ラス・マッカーザーの父)らの指揮するアメリカ軍と戦
 った・・
  しかし、フィリピン独立革命軍は、アメリカに敗北す
 る・・
  フィリピン大統領は、アメリカに抑えつけられてしま
 った・・事実上のアメリカの植民地となった・・
  そして、アメリカの好き勝手を行なわれた・・フィリ
 ピン言語も英語化されるなどの「卑劣な占領下統治」が
 行われた。
  この様な結果になってしまったフィリピンの独立行動
 の最初には・・
  1896年のフィリピン革命に、ミンダナオのムスリム
 対して、民族的な情熱を沸き立たせる契機があった。
  スペイン支配下には、どうしても拭う事の出来なかっ
 た「キリスト教徒対ムスリム」の対立があった・・、
  この革命行動によって、一時的であったが解消もした。
  キリスト教徒とムスリムの混成部隊が、スペインと戦
 うこともあった。
  スペイン支配のシンボルであったフォート・ピラーが、
 これによって陥落した。
  (参考)フォート・ピラー:フォートは城塞の意味、
     ピラール砦は、 フィリピンの サンボアンガ市
     にあるスペイン植民地政府によって建設された
     17世紀の軍事要塞。
      現在は、フィリピン国立博物館となっている。
  アルバレス将軍は、革命政府のサンボアンガ知事に任
 命された。
  しかし、1899年に、アメリカ軍が、フィリピンにやっ
 て来ると、キリスト教徒とムスリムは、再び、対立に変
 えられた。
  アメリカ軍は、ジョン・べーツ将軍をホロ島のスルタ
 ン・キムラ2世と会談させ、
  1899年8月、アメリカの主権を認めるべーツ協定が成立
 したが、ムスリムは、これを拒否した。
  ムスリムの民族独立戦争は、今度は、アメリカに対し
 て続いた。
  アメリカは、無慈悲に強力な武器で弾圧した。
  特に、初めの10年間は、特に卑劣だった。
  アメリカは、殺傷力の強いダムダム弾や、強力な最新
 兵器を使って殺戮した。
  また、ムスリムの反抗に、神経質に、即時、徹底的に
 武力で弾圧し、鎮圧した。
  また、最悪な事に、1906年には、徴税に反対したブド・
 ダホの女性の方々や、子供たちの600人を、アメリカ軍は
 虐殺した。
  この行為は、アメリカ軍は800人で行った。
  しかし、情報管制がなされているため、詳細が不明で、
 闇の中に、葬り去られようとしている。
.
1896年、日清戦争が、1894年に起きたが、この当時、日本
 の馬は、体形や体力ともに貧弱なうえ、調教も不十分で、
 砲の移動や補給業務も人力に頼らざるを得なかった。
  陸軍は、1896年に、軍馬補充部を設置し、支部を全国
 に展開した。
  特に、過酷な大陸の自然環境を馬に体感させられると
 して、北海道には4支部が置かれた。
  標津町には、1908年に、川上支部が設置されて、町の
 繁栄につながった。
  ここの支部では、馬を2歳から5歳まで育成し、戦地に
 送ったのは1945年までの37年間で約4万頭だった。
  冬も放牧していた。
  雪原で夜を過ごし、雪の下のササを探してはむような
 生存能力を鍛えるためだった。
  「日本釧路種」が開発された。
  これは、「日本唯一の馬の公認品種」・・しかし、既
 に、絶滅している
  この種は、日本馬の性格の良さを持ち、また、粘り強
 さも持っていた・・小型であったが力があった。
.
1896年、ロシアと清の秘密同盟
  日清戦争が、日本の勝利で終わった翌年・1896年に、
 清国(中国)は、秘密裏にロシアと同盟条約を結んだ。
  清国は、日本への日清戦争の「復讐戦争」を企画して
 いた。
  この秘密条約は、「李鴻章・ロバノフ条約」と言い、
 ロシアか、または、清国のいずれかが、日本と戦争にな
 った場合、他方が軍事援助をするという「日本敵視の秘
 密攻守同盟」だった。
  これは、日露戦争の伏線となった。
  つまり、日露戦争は、ロシアだけと戦争をしたと思わ
 れているが、そうではなく、この秘密条約で、清国とも
 日本は戦っていた。
  日本は、日露戦争で、満州でロシアと戦ったが、その
 時、この秘密条約の清国の中国とも、満州で戦っていた。
  日本は、その様な「ロシア・清国の同盟軍」と戦い、
 満州へ進軍した。
  第二次世界大戦で、アメリカが戦勝して沖縄へ軍事進
 出したのと同じで、日本の満州での戦いも、同様な状況
 で、当然、侵略とは程遠く、侵略ではない。
  「中露同盟軍」と戦い、戦勝しての満州地域の戦いと
 なった訳で、日本が侵略などと言われるいわれはない。
  これが侵略なら、アメリカも日本への侵略となる。
  国際法に則(のっと)った行為を日本はした。
  1896年、教科書にも載ってない、ロシアと中国(清国)
 の同盟条約・・「露清秘密同盟(李鴻章ロバノフ条約)」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:2016年2月17日、慰安婦問題で、韓国が主張していたことは虚偽であるということがはっきりした。
    この日付での産経ニュースがある。
    また、国というものは簡単に消えるのだ・・北海道がその端緒でなければよいが・・
    また、一党独裁で、民の権利を認めない「非民主国家」を自由諸国圏に入れたのが「間違いだった」。
.
紀元前2000年頃、インド・ヨーロッパ語族のラテン人が、
 イタリア半島に南下した。
  ここから、イタリア半島の歴史は始まる。
  因みに、紀元前771年、ロムルスが、ローマを建設した
 とされている・・
  ロムルスは、「伝説上」の王政ローマの初代王。
  レムスと共に双子の兄弟だったという。
  ラテン人の貴族の子で、紀元前717年7月5日に死去した
 という(ローマ神話)(紀元前753年説がある)
   ・
   ・
紀元前814年、「カルタゴが建国された」と言われている。
  紀元前820年説などもある。
  カルタゴは、現在のチュニジアにあった古代都市国家
 で、地中海貿易を広大に行なって、栄えていた。
  初め、農耕を営む者と、海で生活する者との長い闘争
 の歴史にあったが、海運の有力者たちが、都市の統治権
 を握って行った。
  船隊を組んで、北アフリカや南部スペインの銀のほか、
 果物、家具、象牙などの貿易を行なった。
  この貿易で勢力を蓄えた。
  紀元前720年頃、地中海に進出したフェニキア人が、貿
 易都市を建設したのが始まりという説もある。
  カルタゴは「新しい都市」を意味するが、ギリシャ
 はカルケドンと呼び・・また、ローマ人は、フェニキア
 人を「ポエニ人の町」と呼んだ。
  そして、紀元前6世紀頃、カルタゴは、地中海西部の覇
 者となって行く・・
  そして、シチリアの領有をめぐって、ギリシャの諸都
 市との争いが生じた・・(紀元前4世紀頃に至るまで、こ
 のシチリア戦争は続いた)
  また、カルタゴは、マルカスという指導者のもと、ア
 フリカ内陸と沿岸一帯を領土として・・拡大した。
  紀元前540年、ギリシャとの海戦を勝利する。
  紀元前480年、カルタゴの大規模な軍事行動が開始され
 る。
  この始まりは、ギリシャに支援されたシラクサのゲロ
 ンが島を統一しようとしたことから始まった・・本格的
 なギリシャとの戦争の始まりだった。
  紀元前5世紀、カルタゴは、この地域の商業の中心地と
 なる。
  カルタゴは、強力な海軍力を有し・・ギリシャとの対
 立が増大する。
  紀元前3世紀頃より、シチリアにおける領土と、チレニ
 ア海の制海権をめぐって3回に渡ってポエニ戦争をローマ
 と戦う。
  カルタゴハミルカル・バルカスは、30万の大軍を集
 めたと言われている。
  軍略を駆使して、ハンニバルらの将軍は、ローマと果
 敢に戦った。
  カルタゴの戦いの歴史が展開される。
  カルタゴは、ローマの名将軍スキピオ・アフリカヌス
 に敗れ(第2次ポエニ戦争)、カルタゴは凋落して行く。
  紀元前146年、カルタゴの復興を恐れたローマは、この
 年、徹底的な打撃を与え、全滅させた、
  略奪に放火・・町は廃墟となった(第3次ポエニ戦争
  畑には塩が撒かれ、二度と作物が作れない様にもされ
 たという。
.
紀元前753年、ローマが、王政時代に入る(〜紀元前509)、
  そして、紀元前509年から共和政時代に入る。
.
紀元前700年頃、ギリシャノ詩人ヘシオドスは、歴史の見方
 を・・黄金の時代から銀の時代、銅の時代、英雄の時代
 を経て、今は鉄の時代だと述べた。
  この様な没落史観を持っていた。
.
紀元前509年、ローマが共和政時代に入るが、貴族の政権
 独占で出発したローマだった。
  貴族と農民は、激しい闘争を行ない、共和政治の組織
 が完成し、ローマは、イタリア半島の統一を完了した。
  そして、紀元前287年に至る。
.
紀元前384年、アリストテレスが生まれた(~紀元前322年
 3月7日)
  古代ギリシャの哲学者のアリストテレスの言葉・・
  「人間は、自然に(本性上)国的動物であり、また、
 偶然によってではなく、自然によって、国を為(な)さ
 ぬものは劣悪な人間であるか、あるいは人間より優れた
 ものであるのかのいずれかである」。
  アリストテレスが言っているこの「人間より優れたも
 の」は、「神々を指している」。
  故に、アリストテレスが言いたかったことは・・
  人間は、自然に(本性上)国的動物なのだ・・そうで
 なければ劣悪な人間だ・・
.
紀元前287年、イタリア半島が統一され、共和政治体制の時
 代は次の段階に入る。
  この紀元前146年までの時代、ローマは、カルダゴとの
 間で三度のポエニ戦争をする。
  その戦争のすべてに勝利する。
  また、ローマは、東方へも進出する。
  そして、ローマは、紀元前146年に、「地中海世界の覇
 者となった」。
.
紀元前146年、ローマが、地中海世界を制覇した。
  ポエニ戦争で、カルタゴを壊滅させ、滅亡させた。
  この年、地中海世界の覇者になった「ローマ」は、こ
 の覇権確立の反動でローマ社会は乱れて行く・・
  ローマ社会の伝統は崩れ、秩序も崩れ、次第に、強大
 な軍隊をに握った個人へ権力が集中し、権力を持って行
 く。
  カエサルが勝ち残った第一回三頭政治を経て、オクタ
 ビアヌスが第二回三頭政治を勝ち残り、帝政を開いて行
 く(〜紀元前27年)
.
紀元前27年、オクタビアヌスによる帝政と「5賢帝」に依る
 帝政の時代(〜紀元後180年)
.
70年、ローマ帝国が、エルサレムを完全に破壊した。
.
144年~166年頃、カニシカ王の統治。
.
180年〜284年、ローマ社会の秩序が、この頃、大きく崩れ
 た。
.
284年〜476年、ローマ社会の崩壊を、ディオクレティアヌ
 ス帝の専制君主制の樹立で食い止めた。
  しかし、ゲルマン民族の大移動でローマは分裂し、西
 ローマ帝国の滅亡に至る時代。
   ・
   ・
11世紀〜13世紀、中世と言われる中世中期の最盛期。
  社会を支えていたのは、農民の農奴の立場の人々だっ
 た。
  その農民を支配した者は、荘園を所有していた領主た
 ちで、主従の関係で結ばれていた。
  そして、騎士・・、
  そして、頂点のローマに居るローマ皇帝まで・・ピラ
 ミッド型の封建制度で築き上げられていた。
  それと、キリスト教教皇ローマ法王)を頂点とし
 た、キリスト教イデオロギーで、世俗社会に根を張った
 キリスト教カトリック組織が存在した。
  この頃、発生した都市には、ゴチック様式のキリスト
 教会が建ち・・
  また、この頃出来た大学・・キリスト教は、権威を得
 たいと、また、組織を大きくしたいと「この大学とくっ
 ついた」。
  そして、キリスト教は、組織の強大化のための金と、
 権威を得ることに執着し、世俗の権力を凌駕して行った。
  そして、その権力を得たキリスト教の圧迫から解放さ
 れたいと「12世紀ルネッサンス」と呼ばれる「人間性
 復活を主張する運動」が花開いて行った。
  最終的に、キリスト教権力は、皇帝を凌駕し、アジア
 へ無謀なキリスト教十字軍を何度も派遣した。
     ・
     ・
1909年12月4日、朝鮮・韓国の最大の政党が「日韓合邦を要
 求する声明書」を提出した。
  朝鮮・韓国内は、日本と併合したいという意見に満ち
 ていた。
  その声明書の中には・・
  「我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、
 朝鮮人も、日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政
 府と社会を発展させようではないか」と書かれていた。
.
1910年8月29日、日韓併合がなされた。
  そして、第二次大戦後は、アメリカ(アメリカ軍政庁)
 が、朝鮮半島南部(現:韓国の地域)の統治を開始した。
  そして、1948年8月15日に至り、アメリカ(アメリ
 軍政庁)からの独立を宣言し、韓国(大韓民国第一共和
 国)の建国に至った。
  日韓併合がなされる前の李氏朝鮮という時代・・日本
 との日韓併合がなされる前の時代は、清朝・中国の冊封
 下の従属国、属国状態にあった。
  清朝・中国へ、日本は「朝鮮は独立の国だ」と主張し
 た・・その如くの状態だった・・この問題で、日本と中
 国に対立関係が生まれた。
  日本は説明した・・「朝鮮国は、自主の邦にして日本
 国と平等の権を保有せり」と・・
  中国は、朝鮮を属邦と考えていたため対立関係が生じ・・
  李氏朝鮮の王の高宗も「朝鮮は中国の属邦である」と
 言うくらいの、国の元首が言うくらいの「属邦根性の異
 常状況」だった。
  日本の国内には、「朝鮮に国力がつくまで保護国とす
 るべきだ」との意見もあった(伊藤博文
  朝鮮・韓国というお荷物状態の国を背負わないで、状
 況の経過を見るという「この考え方が良かったのではな
 いか」と言える。
  桂太郎首相や小村寿太郎外相は、政府内で、「韓国の
 現状に照らして将来を考量(こうりょう、物事をいろい
 ろ考え合わせて考え判断する)するに、韓国を併合する
 より外に他策なかるべき」と演説した。
  伊藤博文も、「協同的に進み、進んで一家たらんをせ
 ん」と言った。
  韓国内も「日韓併合大歓迎」で、韓国の最大の政党の
 「一進会」は「日韓併合をして戴きたい」と「併合の推
 進運動」をした・・そして・・
  1909年12月4日、「日韓合邦を要求する声明書」を提出
 するという状況だった。
  その声明書の中には・・
  「我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、
 朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受したい」と
 書かれていた。
  しかし、2019年の今、この様な歴史の事実をまったく
 (知ってか知らずか)非礼で、無視する韓国となってい
 る・・
  この様な状況であるので、可哀想ではあるが、本当の
 ことを言わなければならないので、以下の様な事を記す。
  韓国・朝鮮は貧しい国だった・・本当に貧しい国だっ
 た・・。
  李氏朝鮮は、悪い政権だった、良くない政権だった。
  それも長く続いた政権だった。
  「何の国づくりもしない」最悪の政権だった。
  道路は、畑のあぜ道のような状態のままだし・・
  学校も、5校という程度で、「ほとんどない」という
 状態で、「教育がなされていない」という国の状態だっ
 た。
  また、鉄道も、1本もないという状況だった。
  朝鮮・韓国社会には、リャンバン(両班)という特権
 階級が存在していて、一般庶民の方々を虐(しいた)げ
 ていた。
  農民や一般庶民の方々は、金銭を取り上げられ、また、
 労働も取り上げられ・・貧困に喘(あえ)いでいた。
  農民の方々は、生活に困って娘を売ったりした。
  韓国・朝鮮にはゼゲン(女衒、뚜 장이)というその様
 な娘を買う商売人たちが居た。
  (語彙)女衒(뚜 장이):女衒は、主に若い女性を買
     い付け、遊廓などで性風俗関係の仕事を強制的
     にさせる人身売買の仲介業であり、人買の一種。
  町に、この様な女性が居る韓国・朝鮮を、日本は救っ
 た。
  最悪状態だった朝鮮・韓国を救った。
  1910年に、日韓併合がなされ、韓国・朝鮮の方々は、
 皆、大喜びだった。
  日本のこの時のことを「良かったよ」と言う韓国の老
 人の方々が、大勢、居た。
  しかし、時が過ぎ、その様な老人の方々も亡くなって
 居なくなった。
  そして、韓国は、昔のことを忘れたのか?
  反日教育がなされ・・その様な教育で「反日を刷り込
 まれた若者が、まだ、日韓併合時の事を知っている老人
 の方々が居る頃は、反日教育を刷り込まれた若者が、日
 韓併合時の事を聞くと、「良かったよ」という返事を聞
 き、予想に反した返事に・・学校の反日教育との違いに、
 その返事にびっくりすることも起きていた・・
  しかし・・その様な老人の方々も少なくなって、居な
 くなると・・真実を教えてくれる人々も居なくなると・・
  現政権は、反日に、韓国の方々を煽っている。
  嘘の慰安婦像を建てることまでして、洗脳している。
  それも、世界中に立てるという行為を辱(はずかし)
 くもなく行っている。
  世界の方々が、この後、だんだん本当のことを知る様
 になって来たら・・その像が、逆に、韓国が軽蔑される
 像になることを、韓国は知らない。
  この様な嘘の低次元の事ばかりしている「現在の韓国
 政権」の状況となっている・・
  地続きの中国に虐げられ、冊封されて来て、韓国は、
 この様な態度を取る「ひねくれた性癖の国」になってし
 まった。
  この問題の根底には、長い中国の冊封支配がある。
  韓国・朝鮮は、この植民地支配下に、長い期間あった。
  海を隔てた日本は、この逆で、海の隔たりも幸いし、
 独立が守られ、豊かな文化の中で育(はぐく)まれた。
  日清戦争で、強烈にぶつかり合う時もあったが・・日
 本文化は豊かに育まれた。
  中国という国自体も、色々な民族が奪い合う「戦いの
 歴史の中にあった」。
.
1910年、日韓併合によってできた官庁の朝鮮統監府は(設
 置は1909年)、新たに、戸籍制度を朝鮮に導入した。
  そして、李氏朝鮮時代には、「人間とは見なされず」、
 姓を持つことも許されていなかった朝鮮・韓国の奴婢や
 白丁などの人々(賤民)へも、姓を名乗って良いとした。
  そして、その戸籍には、身分を記載する必要などない
 として、皆を平等に登録するようにした。
  それまでの朝鮮・韓国の非人道的な行為を廃して、人
 道的な行動を行なった。
  また、当然、その身分が開放された方々(賤民とされ
 た人々)の子弟も、日本が作った学校へ通えるようにし
 た。
  この様な状況に、身分解放に、反発する旧来の朝鮮・
 韓国の「特権階級に居た朝鮮の両班(リャンバン)」は、
 激しい抗議デモを繰り広げた。
  身分にかかわらず、機会均等に、教育機会を与えるべ
 きと考える日本政府によって、その反対行動は治められ
 退けられた。
  因みに、日本は、1918年のパリ講和会議においても、
 盛んに、「人種的差別の撤廃」を世界最初に訴(うった)
 え、主張した。
  (1918年11月13日、外交調査会において、「人種的偏
 見の除去」を主張している)
  1919年1月14日、パリに到着した日本全権団は、人種差
 別撤廃提案のため、各国との交渉を開始した。
  各国の賛同を得られたが・・結局、アメリカの策動の
 ため、この条項は採択されず、削除された。
  アメリカは、「内政干渉だ」と強い批判をした。
  アメリカは、「人種差別国だった」ので後ろめたかっ
 た。
  イギリスやカナダも、このアメリカに引きずられた。
.
1910年、困窮している朝鮮の方々を救うため、日韓併合
 出来た朝鮮総督府は、土地調査事業を行ない、土地の所
 有権をはっきりさせて・・
  その所有者不明の土地を、朝鮮の農民の方たちへ安い
 価格で払い下げた。
  しかし、韓国は、この土地調査事業を土地の収奪の為
 だったと、ひねくれた言い方をしている・・韓国は、こ
 の様な言い方ばかりしている。
  日本は、李氏朝鮮時代の農地は荒廃していて、また、
 高い小作料から離村する人が多かった・・この改善のた
 め、この様な施策を行なったのだった。
  それでなくても、朝鮮民衆は、官吏や両班や高利貸し
 から苦しい圧迫を受け、収奪されていた。
  日本が指導した朝鮮総督府は、しっかりした農業経営
 が出来る様に、さらに、この朝鮮の農地の水防工事を行
 い、また、水利工事を行い、朝鮮の農業を育てようとし
 た。
  また、農業を伸ばそうと、水利組合を結成させたり、
 金融組合を結成させ、安い金利で融資を受けて、農業を
 大きく伸ばそうとした。
  日本を貶(おとし)める事ばかりをしているNHKや
 元NHK職員の池上彰は、「日本は朝鮮を植民地にした」
 と、日本を貶める印象操作の放送ばかりしている。
.
1940年10月、アメリカで、「マッカラム覚書」が作成され
 た。
  その中に、「日本を追い詰めて行く行動を行う計画が
 書かれていた」。
  そして、追い詰めて、日本を窮地に陥(おちい)らせ
 て、どうしようもない状態にすることが書かれていた。
  これは、はっきりとした「日本を暴発させようという
 策略の覚書だった」。
  全面的に禁輸にするのだと・・
  アメリカにある日本の資産を、資産としての活用をさ
 せないで、凍結して、経済的に締め上げるのだと・・
  生産活動や生活する上で重要な、そして、必ず必要な
 石油を、一切渡さないで・・禁輸にするのだと・・など
 などが書かれていた・・
  貴方の食事が、あなたの前に、一切、出て来なかった
 ら・・貴方はどうしますか?・・
  ご飯を食べないで、我慢が出来ますか?
  電車や車や、船も動かず・・
  「取り上げられたままの様な状態」になったら・・貴
 方はどうしますか?
  「大切な電気も来ない」という状況・・その様な生活
 となったら・・貴方は、どうしますか?
  この時、アメリカは、『まったく非常識な』、この様
 な事を、日本に対してやり始めた・・
  この様な計画を立てた。
  このアメリカの行為は、日本に対して戦いを始めたの
 と同じ行為だった・・
  『事実上の宣戦布告』だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、日本に対して「宣
 戦布告と同様なこと」を始めた。
  この覚書を作成したアメリカ海軍情報将校のアーサー・
 マッカラム少佐は、日本が暴発せざるを得ない状態にす
 る行動を書いた。
  ルーズベルトは、これを、着々と実施し、行なった。
  日本を追い込んで行った。
  戦争が起きる原因を、「完全にアメリカが」作ってい
 た。
  日本が、アメリカの最大の攻撃戦力の艦隊が、ハワイ
 の真珠湾に居る事を知っているのと同じように・・
  アメリカも、日本の艦隊の動きのすべてを知っていた。
  日本の艦隊の無線電信も「完全に把握していた」。
  アメリカは、日本を戦争に誘い込む道を「真空の海」
 と呼んでいた。
  だから、ハワイへ進む日本艦隊のすべてを知りながら、
 手出しをしないで、誘い込みをしていた。
  だから、総べてを知るルーズベルトは、つい、「明日、
 日本が攻めて来る」と、親しい人へ、事前に、言ってし
 まっていた。
  そして、真珠湾攻撃が起きると、「戦争を作った」と
 言って喜んだ。
  また、イギリスのチャーチルへ電話をかけ、戦争(第
 二次世界大戦)が始まったことを喜び合った。
  (すでに始まっていたイギリスのドイツとの戦いに、
 アメリカが参戦して、イギリスを助けに来てくれると・・)
  日本の無線電信で、アメリカは、日本の攻撃目標が、
 ハワイの真珠湾だと知っていたが、ハワイのアメリカ海
 軍司令部へ、そのことを連絡をせず、「日本の奇襲とい
 う形をでっち上げる行為をしていた」。
.
1941年1月20日フランクリン・ルーズベルトが第39代アメ
 リカ大統領に就任した(~1945年1月20日
  ルーズベルトの言葉・・
  (大統領に就任する直前・2ヶ月前の言葉)
  「私の先祖は、中国貿易に従事した事がある。
  だから、いつも中国人には親しみがある。
  そんな私が、『日本をやっつけよう』と言うスティム
 ソンに、同意しないわけがないではないか」。
  ルーズベルトは、中国を支援して、隠密に、秘密裏に、
 命令書を書き、アメリカ軍の正規兵や武器や資金を中国
 へ投入した。
  真珠湾攻撃以前から、秘密裏に、中国で、アメリカは
 参戦していた・・そして、日本を攻撃していた。
  卑怯な事に、ルーズベルトは、真珠湾攻撃を「日本の
 奇襲攻撃だと仕立てた」。
  そして、また、このフランクり・ルーズベルトの祖先
 の中国貿易と言ったって「麻薬貿易」だった。
  ルーズベルトの母方の家系であるデラノ家の祖父や伯
 父が、香港を根城・中心地にして、アヘン貿易で大儲け
 していた。
  その人非人の稼業で、巨万の富を築いた。
  大統領選挙の時に、この金が動いたのだろう。
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃
  アメリカのルーズベルト大統領は、アメリカ議会で、
 「日本にだまし討ちにあった」と嘘の演説をした。
  ルーズベルトは、アメリカの議員の方々を騙した。
  ルーズベルト大統領に騙されたアメリカ議員の方々は、
 日本を「討ち負かせ」と、「日本に対して宣戦布告の戦
 争開始の議決をした」。
  ルーズベルト大統領の嘘の演説に、「完全に騙されて
 いた」。
  まったく、ルーズベルト大統領の策謀に嵌(はま)っ
 てしまったアメリカ議会だった。
  そして、事もあろうに、総べては、ルーズベルトが仕
 組んでいるのに、ルーズベルトは、策謀で、「ハワイの
 キンメル太平洋艦隊司令長官に、情報を伝えなかった・・
 にもかかわらず・・キンメル司令長官を悪者に仕立てて・・
  「キンメルが、真珠湾の対策を怠ったから悪いのだ」
 として、キンメルに罪を着せて、キンメルに責任をとら
 せた・・解任してしまった。
  戦後になって、これ等の「ルーズベルトの策謀が明ら
 かになる」と・・キンメルの親族や友人や支持者たちが、
 「キンメルの名誉回復のために起ちあがった」。
  アメリカ国民の方々は、ルーズベルトに騙されていた
 と真実を知るようになった。
  「日本の奇襲だ」なんて言う話は、完全に、ルーズベ
 ルトのデッチ上ゲだと分かったアメリカ国民の方々だっ
 た。
  「日本の暗号を、アメリカは、完全に解読していて、
 日本の行動の一部始終を、アメリカは完全に知っていて・・
 『日本の奇襲』なんて完全に嘘のデッチ上ゲであって、
 そんな事は言えないと・・「本当のことを知ることとな
 った」。
  また、アメリカは、卑劣にも、日本の攻撃によってア
 メリカの一般市民の方が亡くなったと嘘を言った・・
  しかし、日本の機動部隊は、ハワイの「軍事施設のみ」
 を攻撃目標にしており、日本は、一人のアメリカ市民の
 方々を標的にしていない。
  逆に、アメリカは、広島・長崎の原爆や、東京・大阪
 などの日本のあらゆる都市の一般市民を標的にして、「
 無差別爆撃のじゅうたん爆撃」をしており、国際法違反
 の行為をしている。
  この点においても、日本は非人道的な行為を、アメリ
 カの様にしていない。
  日本は、この点でも、アメリカを上回った行動にいる。
  日本の潜水艦に搭載した飛行機で、アメリカ本土爆撃
 をした時でさえ、日本の爆撃は、アメリカ市民を攻撃目
 標にしていない・・
  アメリカ市民の方々の命を狙うような爆撃を避けてい
 て、戦後、この飛行士が、アメリカの方々から表彰され
 ているくらいだった。
  この様な点でも、「日本は、完全にアメリカを上回っ
 ている」。
  アメリカは、戦争に勝ったとはいえ、愚かな卑劣な歴
 史を残している。
  今後、永久に、「このアメリカの汚点は歴史に刻み続
 けられる」。
  不名誉な事をしてでも勝ちたいという「アメリカの卑
 怯な愚かさが・・歴史に永久に残された」。
.
1941年12月8日、第二次世界大戦を、日本には、まったく
 アメリカと戦う必要性など完全になかった。
  日本には、アメリカと戦争をするつもりもなかった。
  しかし、アメリカの挑発によって、戦争に引きずり込
 まれて行った。
.
1950年代、中国には、400以上の民族が居ると言われている。
  実態は、よく分からない状態。
  中国は、色々な民族が、中央政府を取り合ってきた歴
 史の中にある。
  この多民族国家の中国、1950年代から、中国政府は、
 言語学者民族学者に調査をさせ、民族認定をさせた。
  1979年に、順々に民族認定をして来て、この年、ジノ
 ー族が56番目の民族として確認された。
  しかし、これが最後となり、調査が終わってしまった。
  貴州省黄平県のグォージアレン《革(人偏)家人》民
 族は、民族とされなかった。
  今、57番目の民族として認めてもらいたいと「活動を
 している」。
  一時は、別の民族と一緒にされそうになった。
  その様な動きを拒絶し、押し返すことが出来た。
  今、中国には、未識別者が居る。
  その数は64万人と言われているが、不確(ふたし)か
 である。
  因みに、中国の総人口でさえ、はっきりした数が分か
 っていない状態。
  日本の様に、しっかり把握されていると思ったら大間
 違いである。
  中国のデーターで、確かなものは、「まったくない」
 と言ってもよい状態。
  中国は、今、漢民族の言葉に統一しようとしている。
  オロチョン族の人は、「自分たちの言語や伝統や文化
 が、無くなるとは思っても居なかった」と言う。
  習近平は、2020年までに「全国に標準語(漢民族語)
 を普及させる」としている。
  それを、「漢民族とその他の民族(55民族と言ってい
 る)を包括する『中華民族』にとって、共同体意識を強
 固にする」と、自分たちの漢民族に都合の良い理屈を言
 っている。
  そして、標準語(漢民族語)を修得すれば、仕事が得
 られるということを言ったりもしている。
  「漢民族化への圧力」が増している。
  中国は、超長期にわたって領土を拡大して来ている。
  中国は、57番目の民族として日本民族を狙っている。
  チベットウイグル内モンゴルは、すでに、その被
 害を受けている。
  「満州族の地は、すでに無くなってしまった」。
  満州族の方々も居なくなった。
  どこへ行ったのか? 今は、まったく不明状態。
  地名は「中国東北部」となった。
  その実態は、「中国東北侵略部」。
  そして、今、中国は、その先のシベリヤのロシア領へ
 浸透を続けている。
  「太平洋を半分くれ」という事も「表明している」。
  南シナ海は、「すでに、占領を完了した」。
  今、太平洋の南の島々へ工作の手を広げている。
  一党独裁で、民の権利を認めない「非民主国家」を自
 由諸国圏に入れたのが「間違いだった」。
.
1965年、日韓基本条約が締結された。
  この条約によって「過去のわだかまりの一切が解決し
 た」と合意した。
  日本の首相は佐藤栄作首相、韓国は朴正罷(パクチョ
 ンヒ)大統領だった。
  日本は、この時、最大限の誠意を示した。
  この頃、日本は、まだ、裕福ではなく、外貨準備高も
 わずかで18億ドルしか無かった。
  しかし、日本は、その中から5億ドルも韓国に支払い、
 そして、与えた。
  外貨準備高の3割近い28%も、身を切って与え、支払っ
 た(無償3億ドル、有償2億ドルの賠償金とした)。
  日本は、大きな負担を背負ったのだった。
  精いっぱいの誠意を見せたのだった。
  これによって韓国経済は飛躍的に伸びた。
  「漢江の奇跡(はんがんのきせき)」と呼ばれるほど
 の発展をした。
  韓国は、この時、「個人補償は、国がやるから、総べ
 てを国家に支払ってもらいたい」と言い、「国家賠償に
 してくれ」と言った。
  これは、韓国政府の決定事項だった。
  しかし、後になって、今頃になって、個人補償が終わ
 ってないと言い出した。
  約束では国に払ってくれ、韓国の国に払ってくれれば、
 韓国の国から韓国の個人に支払うからと言われ、そして、
 約束し、だから、日本は韓国の国へ支払ったのに、終わ
 っていないと言い出した。
  いつもの韓国のやり方で、「約束を放り出して、ごね
 だした」。
  そして、要求をどんどん「せり上げて行った」。
.
1976年2月24日、ユバル・ノア・ハラリ(ヘブライ大学歴史
 学部教授)の言葉:・・
  「人間は、長い時間の中で、目の前にあるものが現実
 なのか、それとも誰かが創ったストーリーなのか、区別
 する能力を失った。
  結果、多くの人が、神や国家や会社という想像上のも
 のに自分を捧(ささ)げて戦争に行き、何百万人という
 人を殺戮した」。
  だから、「目の前にあるものが、現実か虚構なのかを
 区別し、その上で利用する方法を考えよ」。
  そして、「虚構の奴隷になるな、虚構を利用せよ」。
  (参考)1976年2月24日、生まれ。イスラエル人。
      著書「サピエンス全史、文明の構造と人類の
     幸福」「ホモ・デウステクノロジーとサピエン
     スの未来」
      2000年、オックスフォード在住中にヴィパッ
     サナー瞑想を開始し、それが「人生を変えた」
     と語っている。
  (参考)ビパッサナー瞑想:ナーマ(こころのはたら
     き、名〔みょう〕)とルーパ(物質、色〔しき〕)
     を観察することによって、仏教において真理と
     される無常・苦・無我を洞察する瞑想。
.
2016年2月17日、慰安婦問題で、韓国が主張していたことは
 虚偽であると言うことがはっきりした。
  この日付での産経ニュースがある・・以下その抜粋・・
  杉山外務審議官の発言要旨:慰安婦強制連行に関する
 国連女子差別撤廃委員会
  日本政府は、日韓間で慰安婦問題が政治外交問題化し
 た1990年代初頭以降、慰安婦問題に関する本格的な事実
 関係調査を行った。
  日本政府が発見した資料には、軍や官憲によるいわゆ
 る強制連行を確認できるものはなかった。
  慰安婦が強制連行されたという見方が広く流布された
 原因は、昭和58年(1983年)、吉田清治氏(故人)が「
 私の戦争犯罪」という刊行物の中で、自らが日本軍の命
 令で、韓国の済州島で大勢の女性狩りをしたという事実
 を捏造(ねつぞう)して発表したためだった。
  この内容は、朝日新聞社により、事実であるかのよう
 に大きく報道され、日本と韓国の世論のみならず国際社
 会にも大きな影響を与えた。
  しかし、この書物の内容は、複数の研究者により完全
 に想像の産物だったことが、すでに証明されている。
  朝日新聞も平成26年8月5、6日を含め累次にわた
 り記事を掲載し、事実関係の誤りを認め、正式に読者に
 謝罪した。
  20万人という数字も具体的な裏付けがない。
  朝日新聞は26年8月5日付の記事で、通常の戦時労
 働に動員された女子挺身(ていしん)隊と慰安婦を誤っ
 て混同したと自ら認めている。
  なお、「性奴隷」といった表現は事実に反する。
  日韓両政府は、昨年12月28日、ソウルで日韓外相
 会談を行い、慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決さ
 れることを確認した。
  両首脳も同日、電話会談を行い、合意を確認し、評価
 した。
  今後、韓国政府が元慰安婦の支援を目的とした財団を
 設立し、日本政府は10億円程度の資金を一括で拠出す
 る。
  現在、両政府はそれぞれ合意内容を誠実に実行に移す
 べく取り組んでいる。
  国際社会は日韓両国の合意を歓迎している。
  先の大戦にかかわる賠償や請求権の問題は、サンフラ
 ンシスコ平和条約、日韓請求権経済協力協定や日中の処
 理の仕方も含むその他の2国間の条約などによって誠実
 に対応してきている。
  条約の当事者間では、個人の請求権の問題を含めて法
 的に解決済みというのは、日本政府の一貫した立場。
.
2019年4月19日、アイヌ新法と言われる「アイヌの人々の誇
 りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関す
 る法律案」が成立した。
  そして、この法律の第一条に・・
  「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であ
 るアイヌの人々の・・」・・と、北海道の先住民族とし
 ている。
  これは、科学的に間違っている。
  北海道には、すでに、日本人の祖先である縄文人が住
 んでいた・・アイヌの人々が北海道に来る以前からであ
 る・・
  アイヌの人々は、13世紀に北海道に渡って来た。
  この歴史的史実は、立証されている。
  そして、日本人の祖先である縄文人は、そのアイヌ
 人々が北海道に来た時よりズーッと以前の「紀元前」か
 ら北海道に住んでいた。
  何故、科学的に間違った法律を成立させたのか?
  大いに疑問が残る・・
  この行動について・・
  「チェチェ思想(主体思想)を信奉している人たちが
 行なっていて、この後、自分たちの国を北海道に作る」
 と説明する人たちが居る・・
  その根拠は・・その事が明確にチェチェ思想の本に、
 そのことが、その様に書いてあるという。
  (参考)チェチェ思想:朝鮮労働党および北朝鮮の指
     導指針とされる思想。
  現在、「中国東北部」と呼ばれる地は、中国の漢民族
 とはまったく関係が無かった。
  この地には、満州人の方々が多く居て、日本は、「満
 州国の建国を助けた」・・しかし、戦後、この地は「中
 国東北部」という名で呼ばされ、中国の地とされてしま
 った。
  そして、気になるのは、今、満州人の方々が、まった
 く居なくなっていて・・(追い払われたのか?殺された
 のか?)・・満州人の方々の影も形も無くなっていると
 いう。
  今、中国の地だとされている「ウイグルの方々の地」
 でも、300万人ものウイグル民族の方々が、強制収容所
 入れられている」・・
  中国は、テロ対策だと言っているが・・この様な人権
 無視の行為がなされている。
  国が簡単に消えるのだ・・北海道がその端緒でなけれ
 ばよいが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)653E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年8月)

題:(増補版)653E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
 される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆J・ロックの言葉:議論こそは真理を広める唯一の正
  しい方法だ。
 ☆歴史を知って、アイデンティティが形成される。
.
1896年7月24日、名古屋に株式会社鉄道車両製造所(現:日
 本車両製造株式会社)が創業した。
  1896年9月に鉄道車両の製造販売を目的として設立との
 説明もある。
  別説:1896年7月26日、日本車輌製造株式会社設立。
  企業家・奥田正香ら中京財界人により創立。
  鉄道庁・鉄道関係者以外の民間人による車両会社設立
 は前例がなかった。
  この頃、車両だけでなく大八車も製作した。
  笹島仮工場にて操業開始。
  1896年8月18日、農商務省指令、第10399号
  「明治29年7月30日付申請、日本車輌製造株式会社設立
 の件、免許す」 農商務省大臣、子爵、榎本武揚
         申請者:奥田正香、他拾名
  1897年、熱田工場が稼働した。
.
1896年7月、上川線の空知太駅~旭川駅間の建設工事が着工
 された。
.
1896年7月、加能鉄道会社が、社名を七尾鉄道株式会社と改
 称した。
 沿革・・
  1894年5月、第4回鉄道会議の中で加能鉄道認可に関す
   る審議がなされた。
   鉄道会議とは、「鉄道会議規則」に基づき鉄道担当
   官庁が1892年に設置した諮問会議で、渋沢栄一は第1
   回より臨時議員として出席していた。
   加賀の津幡町から能登半島の七尾町に至る加能鉄道
   について「半島の突先に鉄道を架ける必要はない」
   などの意見があり、それに対して渋沢栄一は、突先
   であっても七尾港は良港であり、津幡から七尾への
   連絡線は地域のためにおおいに利益ある路線と反論
   した。
    また、地域の繁盛になることだから許可を希望す
   ると意見を述べた。
    審議の結果、過半数の賛成を得て加能鉄道への仮
   免状下付は可決された。
    この決定を受けて、加能鉄道会社には同年9月に仮
   免許が、1896年4月に本免許が下付された。
    同社は、七尾鉄道と社名を変更して工事に着手、
   七尾・津幡間の工事は1898年4月に竣工した。
.
1896年7月、関西鉄道会社と浪速鉄道(大阪片町・四条畷
 営業)が譲受の契約を締結した。
  関西鉄道は、官設鉄道の経路から外れた東海道沿いの
 滋賀、三重県下の都市を東海道線に結ぶ目的で設立され
 た。
  しかし、大阪進出の意図はあった。
  そして、また、名古屋と大阪の間に出願した大阪鉄道
  (初代)との間で調整も行なわれていた。
  その後、路線を奈良へ向けて西へ延長し、片町~四条
 畷を開業していた浪速鉄道、および、四条畷から木津方
 面の路線免許を持つ(未開業の)城河鉄道を合併して現
 在の片町線経由で名古屋・大阪間を開通した。
  そして、1898年に大阪片町にターミナルを入手した。
  しかし、敷地の拡張が困難なため網島に起点を移設し、
 さらに湊町から奈良に路線網を持つ大阪鉄道 (初代)を合
 併し現在の関西本線を全通させ、湊町にターミナルを、
 再度、移転させた。
.
1896年7月、フランスが、朝鮮半島の鉄道敷設権を取得した。
  この年、ソウルと現在北朝鮮の新義を結ぶ京義線(き
 ょんうぃせん)の敷設権を取得した。
  結局、この後、この路線も日本が建設を行なう・・そ
 して、朝鮮半島・韓国の社会資本の充実の貢献を行なう。
  日本は、朝鮮半島のあらゆる地方の鉄道敷設を行ない
 朝鮮半島の物流の改善に貢献しており、朝鮮・韓国経済
 などの発展の元を築いた。
  韓国は、この様な日本の行為を、まったくと言って良
 いほど感謝の意を示していない。
  それまでは、畑のあぜ道の様な状況の道路に物流を頼
 っていた朝鮮・韓国・・この改善が第一に必要とした日
 本は、朝鮮・韓国の鉄道敷設に多くの日本の資本を提供
 し、実施した。
  また、これ等に従事した日本の技術者の汗の結晶に、
 韓国は感謝の意を示していない。
  また、これ等の多くの工事に従事し、亡くなった工事
 関係者の多くの方々への慰霊の意も示していない。
  韓国は、これは、日露戦争の兵士を送るために作った
 のだと、感謝どころか批判をしている。
  多くの朝鮮・韓国の人々が、汽車や列車に乗って生活
 を享受している姿を、その様に表現している。
  その便利さに笑顔でいる朝鮮の方々の顔を見ていない
 で、その様な言い方をしている。
  何をしてあげても、この国は感謝をしない国・・逆に、
 恩を仇で返す国。
  誠実に対処して来た日本の「ことごとくの好意」に、
 韓国は、意地の悪い言い方を続けている。
.
1896年7月、朝鮮で改革派が、独立協会を組織した。
  軍事、財政、人事権にまで干渉するロシアを排除する
 ため、市民を動員して万民共同会が開催された。
  多くの成果が上げられた。
  李商在、徐載弼、尹致昊、李完用らを中心に結成され
 た組織だった。
  これらの人々は、日本の好意を理解している人々だっ
 た。
  協会は、機関誌「独立協会報」を発行、また、ハング
 ル専用の「独立新聞」の発行した。
  因みに、このハングル文字も、それまで使われていな
 かったこの朝鮮文字の良さを発見し、使用する様に提案
 したのは、慶應義塾大学を創立した日本の福沢諭吉氏だ
 った。
  独立建設活動などにより一般大衆の支持を受け、わず
 か3ヵ月で会員約1万名に達した。
  この様にして、この協会は、民衆への啓蒙団体から、
 政治団体へ変化して行った。
  1898年10月に至り、協会は、官民合同によって官民共
 同会議を開催した。
  そして、国政を改善するための6ヵ条を決議した。
  しかし、政府は、決議案を空文化させ・・反対行動を
 とる様になる・・
  協会の幹部に対して懐柔行為がなされたり、果ては、
 強硬手段の逮捕など・・あらゆる手段を用いて弾圧する
 様になった。
  1899年、政府が、皇国協会を示唆し扇動して流血事件
 を引き起させた・・
  独立協会は、やむなく解散した。
  朝鮮の改革派の有志が、軍事、財政、人事権にまで干
 渉し、朝鮮の独立を崩壊させるロシアに対して立ち上が
 ったが、そして、市民も参加して大きな行動となったが、
 結局、弾圧を受けて崩壊して行く・・
  この様な所にも、日本が、ロシアに対して立ち上がっ
 た遠因があった・・
.
1896年8月1日、釧路鉄道の標茶駅~跡佐登駅間の営業が休
 止された。
  釧路鉄道(くしろてつどう)は、北海道東部の硫黄山
 で産出される硫黄の輸送を目的として建設された。
  硫黄輸送の専用鉄道で、鉄道事業者安田財閥
  安田財閥は、この事業で基盤が築かれたと言われてい
 る。
  しかし、鉱山保有する山田銀行への貸し付け分の回収
 が関係し、硫黄の採掘が中止され、開通から10年足らず
 で廃止となった。
  しかし、この鉄道によって釧路地域の開発が進展した。
  安田善次郎氏は、1921年に、釧路の発展の功績によっ
 て釧路区(現:釧路市)から表彰された。
  因みに、1872年、佐野孫右衛門が硫黄山の採掘を始め
 た・・
  1886年北海道開拓使の方針に基づいて、採掘が開始
 された。
  佐野孫右衛門は、凾館の山田銀行に譲渡していた。
  1887年、山田銀行へ融資していた安田善次郎へ譲渡さ
 れた。
  この鉄道によって、当時、馬によって運び、標茶から
 船で運ぶという大変な運送が改善され改革された。

1896年8月6日、フランスが、マダガスカルを「植民地だ」
 と宣言した。
  フランスは、その強大な武力を背景に、アフリカ大陸
 の西側、インド洋上にある島々を侵略し・・また、イン
 ド、および、東南アジアを侵略して領有した。
  フランスは、広大な地を植民地とした。
  ヨーロッパ列強の一つのメンバーであるフランスの行
 為だけでも、この様な横暴を世界にしていた。
  マダガスカルは、4世紀から5世紀の頃、東南アジアか
 らオーストロネシア語系の人びとや、マライ系の人びと
 が、インド洋を渡ってやって来ていた。
  そして、アフリカ東岸に住みついて、社会が形成され
 た・・
  10世紀頃には、マダガスカル島に移住して来た人々が
 いるとされている。
  現在でも、マダガスカル島は、インドネシアや、マレ
 ーシアの人々との近親性があり、稲作農耕も行われてい
 る。
  15世紀以降、イスラーム化した・・アラブ系住民も増
 加した。
  イスラーム国家も存在した・・、
  19世紀後半、ヨーロッパ諸国の帝国主義の列強諸国に
 よるアフリカ分割の悪夢の時代に、フランスが侵入して
 来た。
  1880年代~1890年代、フランスは、優れた自分たちの
 武器による武力をもって、抵抗を排除して、領有権を奪
 った。
  マダガスカルの方々は抵抗した・・たびたびの反フラ
 ンスの抵抗運動は起きた・・しかし、その度に、武力で
 押さえつけられた。
  独立は、20世紀に至るまで果たせなかった・・
  1960年に至って、やっと独立が果たせた。
  マダガスカルの19世紀初めは、アンドゥリアナムプイ
 ニメリナ王の息子であるラダマ1世がメリナ王国を引き継
 いでいた。
  彼は、先進的な考え方の持ち主で、国民の教育レベル
 を引き上げようとした。
  ヨーロッパの知識を取り入れなければ、ヨーロッパに
 植民地にされたままになってしまうという危機感を持っ
 た。
  それに対し、今・現代の日本は、中国が、沖縄や北海
 道などを狙っている中にあるが、まったくその様な状況
 についての危機感は無いという状況になっている。
  植民地化の危惧を抱いていたラダマ1世は、モーリシャ
 スの『イギリス総督』であったファーカーの援助を受け、
 軍隊をイギリス流に訓練した。
  さらに、奴隷貿易の廃止運動を行ない・・また、学校
 の設立、アルファベットによるマダガスカル語表記の導
 入など、近代化=西欧化政策を進めた。
  日本が、学校を一生懸命に建設して、朝鮮・韓国の教
 育を一生懸命にしたのと同じ・・
  しかし、1828年、志なかばでラダマ1世は死去した。
  ラダマ1世の第一夫人が、ラナヴァルナ1世として即位
 した。
  彼女は、植民地行為がありありのヨーロッパ諸国に対
 し、敵視政策に切り替えた。
  まず、植民地行為の尖兵であったキリスト教を、1835
 年に、布教の禁止を行なった・・しかし・・
  1861年、ラナヴァルナI世は死去する。
  その息子が、ラダマ2世として即位した。
  ラダマ2世は、再び、ヨーロッパ化を推し進める苦悩の
 政策へと変更した。
  しかし、その政策が急であったため、欧化反対派によ
 って、1863年に、暗殺された。
  ラダマ2世の後継は、その妃であったラスヘリナが即位
 した。
  1868年、このラスヘリナも没する・・暗殺か?
  やむなく、従妹がラナヴァルナ2世として即位した。
  彼女は、行政改革に努めるが、メリナ王国は衰退して
 行く。
  メリナ王国が衰退を続けると、ハイエナの様なイギリ
 スは、王国の衰退を察して、植民地化の野心を向け始め
 た。
  これを察したフランスは、それに先んじるため、1883
 年に、タマタブ(マダガスカル東部の都市トゥアマシナ
 の旧称)を占領した。
  1883年、ラナヴァルナ2世が没する。
  その従妹が、ラナヴァルナ3世として即位した。
  1890年、メリナ王国の保護権をフランスに認めざるを
 得なかった。
  一方、イギリスに接近し、軍隊の再整備を進めた。
  1894年、フランスは最後通牒を突きつけた。
  1895年、メリナの王宮の置かれていたアンタナナリヴ
 (マダガスカルの首都)を占領する。
  1897年、フランスは、ラナヴァルナ3世を拘束し、レユ
 ニオン島に流した。
  そして、メリナ王国を滅ぼした。
  1896年8月6日、フランス政府は、マダガスカルを植民
 地としたことを宣言した・・フランスは、この宣言を正
 式だと称した。
  この様な歴史は、日本を貶める事ばかりを放送するN
 HKは、まったく放送しない。
  フランスがマダガスカルを植民地化した(1896年8月6
 日)・・
  この解放は、第二次世界大戦後の日本の戦いの後とな
 る。
.
  (今日の言葉)
.
  題:彦星(ひこぼし)と、織姫(たなばたつめ)と、今夜(こよい)逢(あ)ふ、
   天(あま)の川門(かわと)に、波(なみ)立(た)つなこめ
.
698年、遠い昔からジェンダー平等(男女平等)だった日本・・
  また、身分の上下ない社会だった。
  今(2019年)、盛んに国連はSDGsをして「ジェン
 ダー平等を啓蒙している」が・・
  世界は、日本をお手本とするべきである・・
  万葉集に・・
  「彦星(ひこぼし)と、織姫(たなばたつめ)と、今
 夜(こよい)逢(あ)ふ、天(あま)の川門(かわと)
 に、波(なみ)立(た)つなこめ」(詠み人知らず)・・
 がある・・
  (訳)彦星と織姫が逢う今夜なのです・・
  天の川の渡し場に、波よ、決して荒く立ってくれない
 でください・・
  今から1300年以上も前の日本人の優しい心が伝わって
 来る。
  彦星(牽牛星)と織女(織女星)の逢瀬が、年に一度
 だけ許されるという七夕(たなばた)の和歌です・・
  この伝説は、持統天皇が在位していた698年代頃、中国
 から日本に伝来したと言われているが・・
  この話は、それまで、それ以前から日本各地にあった
 「棚機津女(たなばたつめ)伝説」と融合した。
  それは、年に一度、7月に訪れる神への捧げものとして
 処女が水辺の棚で神衣(しんい)を織ったという話・・
  これと融合して庶民の間にも広まり、人々の想像力を
 掻き立てたのだった・・
  万葉集には、130余首も七夕歌が収録されている。
  その多くが庶民の歌で「詠み人知らず」となっている。
  身分の上下、貴賤もない社会の日本だった・・
  日本は、遠い昔から庶民の一般市民と隔たりない処遇
 をしていた優しい平等な国だった。
  遠いこの昔から、女性方々も尊重されていた。
.
9世紀~10世紀、神聖ローマ帝国が出来た(~1806年)
  神聖ローマ帝国は、代々のドイツ王が、ローマ教皇
 ら冠を授けられて、皇帝となった。
  神聖ローマ帝国は、実質的にはドイツ帝国・・
  神聖ローマ帝国は、巨大な領域を持つ。
  最盛期の版図は、現在のドイツ、オーストリア、イタ
 リア、フランス、チェコ、スイス、オランダ、ベルギー、
 ポーランドリヒテンシュタインルクセンブルク、モ
 ナコ、クロアチアサンマリノスロバキアなど現在の
 EUの領土とほぼ同じ・・
  巨大だが、国家とか連邦という性格は・・ほとんど無
 い。
  帝国全体を総括する行政機関も無かった。
  多くの領域の緩い集合体の様なものだった。
  軍も借りものが集まったもので、帝国全域を包括する
 ナショナリズム持った。
  この様なこの領域は、独立を保つ実力も無かったが、
 権威を犯すなと存続した。
  しかし、1806年、ナポレオンの台頭で幕を閉じた。
  しかし、ドイツ人の武力によるリベンジは素早かった。
  1870年、普仏戦争でフランスを負かし、
  翌年の1871年には、鉄の宰相ビスマルクが活躍して、
 ドイツ帝国が起こった。
  そして、第一次世界大戦の敗北で、そのドイツ帝国
 消滅すると、今度は、ヒトラーが台頭した・・そして、
 再再度、ヨーロッパ制覇を目論んだ。
  ヒトラー政権は、神聖ローマ帝国、後のビスマルク
 ドイツ帝国に続く第三帝国と呼ばれた。
  そして、その第三帝国は、無残に滅び、消滅した。
  そして、二度と立ち直れないと思われたが、西ドイツ
 は、1990年、東ドイツを飲み込み、一体となりヨーロッ
 パで第一の大きな国となった。
  そして、今(2017年)、EUに君臨した。
  一番の影響力のある国となっている。
  そして、その軍事力でも強大になって行くと予測され
 ている。
.
1158年、キリスト教聖職者のオットーが死んだ。
  キリスト教の「教父」と言われたアウグスティヌス
 354年~430年)は、その生存した古代の時代なりの考え
 方をしていた。
  その様な古代の遅れた認識で、その存在が古代ゆえに
 やむを得ない面があるが・・問題は、その彼の遅れた論
 理が、今・現在もなお、現在に至るまで、多大にキリス
 ト教へ影響を与え、延々とキリスト教に引き継がれ、キ
 リスト教の遅れた状況を作り出す原因となっている
  その様なことの一つが、「キリスト教普遍史」である。
  彼=アウグスティヌスは、「ローマ帝国が終われば、
 人類が終わる」と考えた。
  そして、キリスト教の教義である「人類の終末に訪れ
 る最後の審判」となり、その審判を恐れた。
  悲しいかな、まったく無用な恐怖なのであるが、キリ
 スト教は、この恐怖を抱えていた・・今・現在も・・
  しかし、そのローマ帝国が滅び、年月を経ても、「何
 も起こらなかった」。
  びくびくして・・年月だけが過ぎた。
  当然の事だった。
  しかし、年を経て、その整合性を問う話が沸き出て来
 た・・そのことを考えた者が現れた。
  ドイツのキリスト教聖職者のオットーだった。
  彼は、中世的普遍史の完成者と言われている・・そし
 て、彼は「年代記」を書いてアウグスティヌスを訂正し
 た・・。
  彼は、ローマ帝国まではアウグスティヌスを踏襲した。
  問題はその後にあった。
  キリスト教が色々な面で、辻褄(つじつま)合わせを
 色々、苦労してやっているが、オットーもこの辻褄合わ
 せに苦渋した。
  そして、考え出したのが「帝権移動」の屁理屈論理だ
 った。
  何を意味するのか?・・まったくのこじつけ論理なの
 だが・・「ローマの帝権は移動し、そして、続いている」
 とこじつけた。
  だから、キリスト教が説く「終末は来なかったのだ」、
 また、「最後の審判」も無かったのだとした。
  彼の帝権移動論を細かく書くのも馬鹿々々しいが、そ
 の抜粋・概要を以下に書くと・・
  ローマ帝国は、ラテン人のローマ帝国だった。
  しかし、ローマ帝国の滅亡後、数世紀を経過しても、
 なお、世界は終末を迎えることなく存続していた。
  カール大帝が皇帝に即位した。
  ローマ建設から1552年、カールは、ローマ教皇によっ
 てパトロキウスの称号を与えられ、アウグストゥス以後
 第69代の皇帝かつアウグストゥスと呼ばれた。(中略)
  コンスタンティヌス帝から以後この時まで、首都にコ
 ンスタンティノーブルに中心が置かれていたローマ人の
 統治権は、こうしてフランク人に移された・・
  ・・意味不明な事を延々と書き・・
  はっきりしているのは、「ローマ帝国は滅亡してない、
 引き継がれた」・・だった。
  まだまだこの他にも「おひれはひれ」が付いているが
 割愛(かつあい、はぶく)する。
  何しろ、現在も、コンスタンティノーブルが存在して
 いるが、ならば、「現在も、ローマ帝国は存在している
 のか?」と、キリスト教に言いたいところだ。
  キリスト教は終末が来ること、その時に演じられる「
 最後の審判」におびえている・・
  この様に、遠い昔の古代から「いつ来るか?」「いつ
 来るか?」と怯えている。
  このキリスト教の終末論理には「色々な怪物も登場し
 たり、色々な華やかな話も展開する」。
  教父のアウグスティヌスは、「怪物たちもアダムの子
 孫だ」と言う様な人だった。
  そして、また、アウグスティヌスは、「この怪物と胎
 児」について「理性的で死すべき生き物」として、自分
 勝手な論理展開をした。
  そして、この定義に当てはまるので「すべて起き上が
 り、生きるか死ぬかを求められるべきだ」と言った。
  これらは、「インドは世界の果てだ」という言葉と共
 に語られる・・
  キリスト教において、「意味が分からなくても、心配
 してはならない世界の話」。
  ちなみに、オットーの生涯は1111年?~1158年。
.
17世紀~18世紀、ヨーロッパの啓蒙時代
  「啓蒙時代」とは、17世紀~18世紀に、ヨーロッパで
 広まった、キリスト教神学に代表される旧来の伝統や権
 威を『理性のもとに批判』し、民衆を啓蒙し、目覚めさ
 せようとした時代だった。
  中世のヨーロッパは、キリスト教の考え方によって日
 常が歪(ゆが)められていた。
  しかし、科学知識が、革命的に得られて来た事によっ
 て、その知識を得た啓蒙主義者たちは、その歪んだキリ
 スト教の観念に立ち向かって行った。
  その一つが、「キリスト教普遍史」に立ち向かった知
 識人たちであった。
  彼らは、厳しく「キリスト教普遍史」を批判し、キリ
 スト教の「時間観念」に立ち向かった。
  そして、彼らは、キリスト教普遍史とまったく異なっ
 た「時間観念の下で過去を見直した」。
  キリスト教から見れば「異端的考え方をする者たち」
 だった。
  それまでの常識とされて来た「キリスト教から洗脳さ
 れた歴史の時間」からは「かけ離れた長大な時間だった」。
  「地球が巨大な火の玉だった」という事は、キリスト
 教観念からは・・まったく考えられなかった。
  その様な科学知識などを知った知識人たちには、キリ
 スト教観念に沿って説明することは「苦痛だった」。
  それでも、地球の誕生は7万5000年前と、また、人類の
 誕生は6000年~8000年前と、キリスト教の時間観念に妥
 協をした。
  でも、キリスト教普遍史の時間スケールからは「大き
 くはみ出していた」。
  すべてがはみ出していた。
  太陽系の他の惑星が同時に誕生したこと、地球の誕生
 前の「物質の創造」「光と闇の分離」など、どうしても
 キリスト教聖書に沿って説明が出来ない面が「多々あっ
 た」。
  キリスト教は、彼らを脅(おど)した。
  しかし、彼らは、そのキリスト教の脅しには屈しなか
 った。
  彼らは、また、一般人に配慮した。
  キリスト教に洗脳されていた一般人、この一般人から
 理解が得られる説明に心がけた。
  人類の誕生は、キリスト教聖書の記述に合わせたりし
 た。
  日常生活が、キリスト教観念によって影響されている
 一般人、その人々に配慮した。
  間違った観念の下で生きている問題に対し、正しい観
 念を「必ずしも与え得なかった」。
  間違った観念の下で暮らす怖さを取り除いてあげられ
 なかった・・そのもどかしさの中に科学者たち・知識人
 たちは居た。。
.
1883年、アメリカで、黒人の方々に対し、大変卑劣な差別
 判決が出た。
  合衆国最高裁判所が、「アメリカ国民に与えられた色々
 な特権(公民権)は、そもそも州の市民にそなわるもの
 であるから、これ等は黒人の市民権付与を規定した憲法
 修正第十四条の適用は受けない」として、「1875年の公
 民権法を否定した」。
  この判決によって、アメリカでは、堂々と黒人の方々
 への「差別」が、一層さらに、行われる事態となった。
  交通機関、学校、レストラン、教会、映画館などなど
 において人種差別行為が行なわれ、また、隔離も行なわ
 れた。
  また、州法や市条例やその他によって、法制化して確
 実化した・・そして、縛(しば)った。
  1896年5月18日には、さらに、最高裁判所が、「列車で
 黒人隔離をしても、平等だ」という、「隔離しても平等
 という屁理屈判決」を出した。
  これが、また、差別行為を正当化して、アメリカ差別
 社会は、一層その卑劣さを増した。
  軽蔑を通り越すアメリカの黒人の方々に対する差別に
 憤りが湧く。
.
19世紀末、スペインのバルセロナ地方に独立したいという
 動きがある・・差別が原因・・
  これは、19世紀の末頃から、常にあった。
  スペイン中央政府カタルーニャ民族を軽視する行動
 が原因だった。
  また、カタルーニャは裕福な州で、中央政府のカタル
 ーニャへの支出金があまりに少なく・・
  カタルーニャ州が税金として支出する金額と隔たりが
 大きい・・還元される金額が少ないという状況もあり、
 独立運動と結び付いて行った。
  2010年代、特に、盛んになった。
  また、イギリスのグリーンランド地方でも独立したい
 という動きがある。
  理解できる活動である。
  今、帰属しているスペインやイギリスは、他国民の多
 くを殺戮して来た、本当に多くの人々を殺戮して来た。
  これを思うと、帰属している国と、我々は違う民族な
 のだと、それを主張したいとなるのだった。
  アメリカも、本当に、多くの他民族をキリスト教観で
 乱暴な対処をして来た。
  バルセロナ・・スペイン北東部のカタルニャ自治州で、
 バルセロナ県の県都である。
  伝承であるが、フェニキア人によって建てられた。
  バルセロナの名は、カルタゴの名家のバルカスによる
 とされている。
  ローマ人、そして、西ゴート人の支配を受け、そして、
  717年頃、イスラムの統治下に置かれた・・しかし・・
  801年、カロリング朝フランク王国のルイ1世によって
 征服された。
  9世紀末に、バルセロナ伯領の首都となった。
  中世を通じて、ゼノアやベネチアと並ぶ地中海岸の商
 業の中心地として発展した。
  カタルニャ王国の首都として、アラゴン王権に対抗し、
 商人層を中心とする民主的な自治を行なった。
  独立の気運は「常に高くあった」。
  内乱時には、人民戦線政府の最後の拠点となった。
  このカタルニャには「自治運動があった」。
  この地方は、スペイン中央部とは経済的にも文化的に
 も異なっていて・・
  19世紀末頃から自治運動が絶えなかった。
  1923年、再び自治運動が高まり・・
  1931年4月、地方選挙後、カタルニャ自治政府の樹立を
   宣言をした。
   この時、スペイン全土でも共和派が大勝し、国王は
   亡命した。
  1931年、共和憲法によって地方自治が承認された。
  1932年9月、カタルニャ自治法によって自治州と認めら
   れた・・しかし・・
  1934年10月、耕作法をめぐって中央政府と対立し、カ
   タルニャは独立を宣言したが、すぐに軍隊によって
   武力で鎮圧された・・そして、自治法は停止された。
   スペイン内乱中もカタルニャと中央政府との対立が
   続き「内戦中の内戦」が展開された。
  1939年、 F.フランコの勝利で自治運動も不可能となる。
   しかし・・
  1975年、フランコ総統が死に・・その後・・
  1977年、中央政府の了解のもとに臨時自治政府が成立
   した。
  1978年、新憲法によって正式に自治が認められた。
   中心都市はバルセロナ
  1980年、第1回自治州議会選挙以来、穏健派連合が過半
   数を制してきた。
  1992年3月、自治州議会選挙では独立を標榜するカタル
   ニャ共和左翼党が野党第2党に進出した・・しかし、
   穏健派連合優位の構図に大きな変化はない。
  日本でも、中国が陰で働きかけるアイヌや沖縄を独立
 させようという工作や運動が水面下でなされている・・
.
1933年1月30日、ヒトラーが、ドイツ首相に就任した。
  ナチス(単数形のナチ)は・・
  1919年、K.ハラーによってミュンヘンで結成された「
   ドイツ労働党」を、ヒトラー民族主義社会主義
   を巧みに接合させた・・
  1920年、「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名した。
  1921年ヒトラーが党首となったが・・
  1923年、ヒトラーは、ミュンヘン一揆を企てて投獄さ
   れた。
   党は解散したが、ヒトラーの出獄とともに大衆政党
   として再出発した。
  1925年、党員数はわずか2万7000人にすぎなかった・・
   しかし、その後、群小右翼団体を吸収して膨張した。
  1929年、党員数17万6000人・・
  1930年9月、総選挙で 18.3%を獲得して第2党となり・・
  1931年、党員数80万6000人・・
  1932年7月、総選挙で37.4%を得て第1党に躍進した。
  1933年1月、軍部や財界と取引を行なって、この時、政
   権を獲得した・・
   党員数は390万人とふくれあがった。
  そして、破滅的な第2次世界大戦への道をとった。
  このヒトラー時代のドイツは、自国に有利になる様に
 「女性を道具として卑劣に使った」。
  まことに卑劣な話であるが、この時のドイツは、外国
 から来た者へ、自国女性に性的な対応をする様にさせた
  (ハニートラップ)
  朝鮮・韓国が、中国に冊封されている時、国の施設を
 持って、この様な事を行なっていたが(これは、史実と
 して明確に確定している)・・ドイツも、この様な状況
 であった。
  また、ドイツは、「現地妻」を制度的に用いていた。
  外国からの者へ「現地妻」を提供していた。
  また、冷戦中には、ソ連KGBも、この様な事を行
 なった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変アメリカに支援された中
 国軍が攻めて来た。
  上海事件・・この戦いが、本格的な中国との戦いにな
 ったきっかけだった・・
  この戦いは、陰で、アメリカが、中国を支援をしてい
 た。
  これが、最大の悲惨な状況を作り出す不幸だった。
  ベトナムアメリカの戦争と同じだった。
  アメリカが、陰だとはいえ、間接的に参戦することに
 よって、中国での戦いは「悲惨な戦争となった」。
  大量の武器などの物量を中国へ与え、戦いを大きくし、
 また、戦いへ仕向けていっていたアメリカだった。
  歴史教科書にはこのような事は書かれていないが・・
  ただ日中の戦いだったら・・早期に「決着はついてい
 て、終わっていた」。
  戦う当事国同士なら、早期に戦いは決着し、悲惨な結
 果にもならずに済んだ戦いだった。
  アメリカという第三国による一方の中国への支援が、
 この様な形での「間接的な、アメリカの戦争への参戦」
 が、戦いを長引かせ、また、より悲惨な状況とした。
  ベトナムでの戦いも、ベトナムとフランスとの戦いで、
 すでに、決着し、終わっていた。
  しかし、アメリカが乗り出した・・より強力な武器を
 使って・・また、非人道的な武器や行為を行なって・・
  そして、結局、最後は、陰に隠れてい居られなくなっ
 たアメリカは表に出て来た。
  アメリカ軍それ自体が表で参戦するという、卑劣で破
 廉恥な戦争行為となった。
  そして、表面立ってのベトナムアメリカの戦いが新
 たに生まれた。
  ベトナムアメリカ戦に変わった。
  戦いは、また続いた・・戦いは長いものとなり、また、
 筆舌に尽くせぬ卑劣な手を使ってでもアメリカは勝とう
 とし(枯葉作戦など)、しかし、アメリカは勝つことが
 出来なかった。
  ただ、戦争と何ら関係ないベトナムの一般の方々が、
 女性の方々が・・そして、小さな子供たちが・・大勢、
 死んだだけだった・・多くの奇形児も生まれた・・
  日中の戦争も・・泥沼となった・・
.
1945年9月10日、GHQが「新聞報道取締方針」(SCAPIN-16)
 を発令し、検閲を開始した。
  アメリカは、あらゆる面で、日本をコントロールし始
 めた・・卑劣だった・・(戦争に勝ったら、そんなこと
 が出来るのか?)
  日本には誇るべき平安京の時代がある・・女性は尊重
 されていた。
  当然、その様な社会環境から・・女性も高い教養を身
 に付けていた。
  その様な社会環境から、「人類最初の長編小説」が、
 日本のこの時代に書かれた。
  アメリカは影も形もないこの時代・・1200年以上も前
 に書かれていて、そして、生まれていた・・
  日本の女性の手によって書かれていた。
  こんな遠い昔でも、日本は、アメリカの様な奴隷制
 の欠片(かけら)もない平等な社会だった・・そして、
 女性の人格も尊重される社会だった。
  まったく卑劣極まるレベルのアメリカの奴隷社会とは、
 まったく隔絶されて違う・・品位ある社会だった。
  日本は遠い昔から、奴隷社会などという遅れた社会か
 ら隔絶していて・・戦争もなく、兵役もなく、宗教の自
 由があり、言論の自由もあった。
  アメリカが、第二次世界大戦後、その様なことを「日
 本に教えるのだ」と言ったのは間違いだった・・逆に、
 日本から学ぶべきだった。
  アメリカの自国の歴史をもって、「日本もそうなのだ
 ろう」と思うことは、「おこがましい(出過ぎている。
 さしでがましい)」・・反省してもらいたい。
  日本人のプライドを奪うことを、この後、戦後に、ア
 メリカは、まだまだ行った・・まったく卑劣である。
  そんなことは、どこの国もやらなかった。
  だから、その点について、イギリスのチャーチルは、
 さすがに言った。
  そんなことをしたら、「タルタル人の様だと」と・・
  タルタル人と同じではないかと・・
  「タルタル人の時代に戻ってしまうではないか」と・・
  アメリカは、戦争に勝ったかもしれないが、それでは、
 タルタル人と同等ではないか・・と・・
  チャーチルは、数日間、抵抗した。
  しかし、アメリカに押し切られた。
  歴史に裏打ちされた品格を持つ日本は、この点で勝利
 していた・・人間として大事なこの点で、日本はアメリ
 カに勝ち、アメリカは敗けていた。
  (参考)タルタル人:タタール(Tatar)は、北アジア
     のモンゴル高原とシベリアとカザフステップ
     ら東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い
     地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、
     ツングース系およびサモエード系とフィン=ウ
     ゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々
     な人々によって用いられてきた民族総称。
      日本では、韃靼(だったん)という表記も用
     いた。
.
1994年、今(2019年)から25年前、アメリカと北朝鮮は、
 かなり危機的な状態となった。
  クリントン大統領の時である。
  アメリカに「やる」という話が出た。
  アメリカ海軍は、「トマホーク」を使えば、北朝鮮
 原子燃料施設を破壊できるという考えだった。
  アメリカ兵の犠牲も出ない。
  金もかからない・・と・・
  「やる寸前」まで行った。
  しかし、北朝鮮アメリカを脅した・・
  「もし、アメリカ軍がトマホーク攻撃を仕掛けてきた
 ら、地上戦でソウルを火の海にしてやる」と言った。
  また、作戦の実行に、アメリカ陸軍が反対した。
  韓国に、アメリカ軍3万人に加えて、その家族が3万5000
 人が居た。
  将兵家族の引き上げの問題である。
  そして、クリントン政権のペリー国防長官が、クリン
 トン大統領へ「全面戦争になったら、100万人の死者が出
 る」と・・言った。
  また、「アメリカ人も、8万人~10万人死亡する。
  そして、我が国が負担する軍事費用は、1000億ドル(
 11兆円)に上る」と報告した。
  クリントン大統領は・・屈した。
  この時が、北朝鮮の核施設を無くすチャンスだったと
 言われている。
  この時、日本は何をするべきだったのか?
  その考え方が、「まとまっていなかった」。
  この時、日米で共同作戦を取っていれば、「日米安保
 体制も、ゆるぎないものになっていた」という・・
  日本には、「自国の安全保障に対して何をなすべきか?」
 の「一本、筋の通った論理」が無かった。
  「何も考えないで、アメリカに、頼り切っている状態
 の日本があった」。
  日本の安全保障であるのに、それを真剣に突き詰めて
 いたのか・・?・・これは、今でも続いている・・
  ただただ、戦争は嫌だと言っているだけで良いのか?
  それで済むなら誰だってそれでよいとする・・
  NHKや池上彰は、「徴兵制は怖い」などと脅す事だ
 けをしている・・本質の解説は「逃げている」・・
  北朝鮮は、必死に生き残りをかけてやっていて・・北
 朝鮮は、核とミサイルで自国民を守った。
  アメリカは、最後まで責任をとってくれるのか・・?
  今日の香港・・明日の東京・・そして、ニューヨーク・・
  周りに核に囲まれた日本・・銃を持った者たちによっ
 て、あなたの愛する妻や子が囲まれた時、あなたは何を
 するのですか?・・
  今日も銃の乱射で多くの人が亡くなったアメリカの報
 道が新聞にあるが・・

.
1995年、クリントン政権ジョセフ・ナイ国防次官補が「
 アメリカのアジアに対する『深い関与』戦略」という論
 文を発表した。
  それは、「アメリカは、ヨーロッパから軍隊を引き揚
 げても、東アジアからは撤退しない、『深い関与』を続
 ける」というものだった。
  アメリカ軍が、駐留を続けることによって「東アジア
 地域での軍備競争を抑える」だった。
  また、ペリー国防長官も、似たような主張をした。
  アメリカは、「日本を抑え付けておきたい」と言えな
 いから、この様な言い方をした。
  また、「瓶のふた論」も展開できないから、こんな言
 い方をした。
  「瓶のふた論」は・・もう古い・・
  ペリー国防長官の言い方は、「東アジアを安定させた
 い。軍備競争が起きないようにしたい。それ故に、我々
 は、冷戦が終わっても日本に5万人のアメリカ軍を駐留さ
 せる」と。
  どの様な言い方になっても、結局、「瓶のふた論」の
 思想の行動をアメリカは続けている。
  そして、その「瓶のふた論」をするアメリカへ、「思
 いやり予算」と称して日本国民の血税が支払われている。
  ところが、このペリーという男が、曲者(くせもの)
 で、「中国が、大好きな親中派」・・
  それも、自分さえよければ良いの男だった。
  クリントン政権の前に居たカーター政権で何をやった
 かと言うと、「アメリカの軍事技術を、せっせと中国に
 渡していた」。
  国防次官という身分で、「軍事技術供与」と称して、
 アメリカのノウハウを渡していた。
  そして、この行為は、この後も続いた。
  カーター政権を辞め、スタンフォード大学に戻ってか
 ら、「武器・軍事技術輸出に関するコンサルティング
 社」を作った。
  目当ては、政権にいた時に作った中国。
  中国を最大の客として、重要な軍事技術を中国へ渡し
 た。
  それも、20年以上の期間に渡って。
  中国は、国防予算をうなぎ上りに増やした。
  前代未聞の4年から5年ごとに、倍増・倍増・倍増の超
 軍拡。
  「東アジアに軍拡競争をさせない」というアメリカの
 公言(人前で隠しだてすることなく堂々と言うこと)は、
 「絵に書いた餅」となった。
  アメリカなんて、こんな事が展開する国だった。
  アメリカ企業は、中国をお得意様として、中国に対す
 る軍事技術の輸出をどんどん増やした。
  「自分の懐に、金が転がり込めば、何でもいいのさ」
 の状態だった。
  アメリカ政府は、黙認した。
  北朝鮮も、この時期、せっせと核弾頭の材料である核
 燃料を増産した。
  1994年、アメリカは、北朝鮮と「これ以上プルトニウ
 ムを作らない」合意をした。
  しかし、1996年、北朝鮮は、このアメリカとの合意・
 約束を破って、パキスタンから「ウラニウム濃縮技術」
 を導入した。
  アメリカは、この重大な情報を日本に秘密にした。
  日米同盟なんてチャンチャラおかしいという状態。
  同盟関係なんてありもしないという日米同盟だった。
  裏切り者の卑怯なアメリカだった。
  さらに、アメリカが、卑怯で卑劣なのは、この状態を
 黙認したこと、核弾頭の開発を続ける北朝鮮を野放しに
 したこと・・この様な事を、アメリカはした。
  何の対抗策も取らなかった。
  日本だけには、ガチガチと枠をはめるアメリカだった。
  日本の自主防衛能力の構築だけが、ガチガチに抑え付
 けられていた。
  そして、2017年、北朝鮮は、立派な核保有国となり、
  ICBM(大陸間弾道弾)も保有する国となった。
.
2002年2月18日、アメリカのブッシュ大統領が来日した。
  この時、「小泉首相靖国神社に共同参拝したい」と
 申し入れられていたという。
  日本は、中国を刺戟したくないと、この申し入れを断
 った・・(何を怖がっているのか?)
  その結果、ブッシュ大統領の単独による明治神宮の参
 拝になったという。
  日本は、中国に気を使い過ぎている。
  ウイグルの方々を300万人も拘束している中国、ウイグ
 ルの方々へ「洗脳とか、思想教育とか」をしている・・
  この抗議に対して、中国は「テロ対策だ」という「説
 明にならない説明」をしている中国となっている。
  さらなる抗議に対しては、「内政干渉だ」と突っぱね
 る中国となっている。
  その様な状況に対して、その正反対に、気を使い過ぎ
 る日本となっている。
  明治神宮の共同参拝までしなかった日本・・
  「政教分離にならない」というのも理由だったという。
  アメリカは、大統領の就任式にキリスト教の聖書に手
 を置いて祈り、誓うが、一定の範囲に宗教が関わること
 は正しい、「正義だ」、「許されるのだ」。
  宗教を否定する共産主義の中国とは違うのだ。
  馬鹿々々しいほど律義に行なう日本の方が「おかしい」。
  民の選挙も行なわない・・そして、宗教を否定する中
 国の方が・・「おかしいのだ」。
  日本は、中国の内政干渉には、きっぱり撥ね付ける必
 要がある。
  アメリカは日本に対して言っている、「マッカーサー
 の神道指令」を卒業して、「独自の日本の正義の態度を
 示せ」と・・
  その背景に、「中国に毅然と日本の主張をせよ」との
 思いがある。
  最近のアメリカは、日本に対し、「もっと自分の国に
 誇りを持った歴史観を持つべきだ」というメッセージを
 盛んに発している。
  靖国神社の参拝についても、反対の意見は無い。
  逆に、この類の話の中で、「中国への警戒感や脅威論
 が出る」という状況となっている。
.
2011年、ドイツと中国の間で「二国間政府サミット」が定
 期的に開催されるようになった。
  これは、やはり、狙いは商談・・金儲け・・
  首脳同士、閣僚同士の会談の影で、盛んに産業界の大
 物たちが、政府のサポートを受けながら大型契約の交渉
 に熱中していた。
.
2018年1月14日、スエーデンで、「ジャングルで一番格好の
 良い猿」と言って、黒人の子供の写真を載せる宣伝広告
 がなされた。
  考えられないほどの、「最低の人種差別の宣伝」で、
 世界で、この会社の商品の不買運動を始めよう。
  最悪な卑劣さで、怒りが心頭に達する。
  産経ニュース、2018年1月14日、「ジャングルで最もか
 っこいいサル」…黒人差別の広告に抗議、南アでH&M
 店が襲撃される
  スウェーデンの衣料品大手H&Mが、黒人への差別的
 な広告を使用した問題で、南アフリカ国内にある同社の
 複数の店舗が13日に襲撃され、商品が盗まれるなどの
 被害が出た。
  黒人の権利擁護を訴える野党が、支持者に呼び掛けて
 いた抗議行動が過激化した。
  南アのメディアが報じた。
  地元警察によると、最大都市ヨハネスブルクの店舗で
 は、商品が略奪され警官隊がゴム弾で制圧。
  商品が床にまき散らされた店もあった。
  H&Mによると、客や店員にけがはなかった。
  「ジャングルで最もかっこいいサル」と記したパーカ
 を黒人少年のモデルに着せた写真を、H&Mが広告に使
 っていたことが今月に判明。
  「人種差別だ」と批判が相次いでいた。
  支持者に抗議行動を呼び掛けた野党、経済的解放の闘
 士(EFF)のマレマ党首は「黒人への侮辱は許さない。
  (H&Mは)教訓を学んだだろう」と述べ、襲撃の謝
 罪を拒否した。
.
2019年、存立危機事態(産経新聞の解説文)・・
  自衛隊による集団的自衛権の行使が可能だと日本政府
 が判断する事態の称呼。
  安全保障関連法は、「密接な関係にある他国への武力
 攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自
 由、幸福追求の権利が根底から覆(くつがえ)される明
 白な危険がある事態」と定義している。
  「国民を守るため、他に適当な手段がない」「必要最
 小限度の実力行使にとどまる」と合わせて「武力行使
 新3要件」を満たす場合に、集団的自衛権の行使が認めら
 れる。
  この条文を読んでいるうちに、中国や北朝鮮からの核
 ミサイルは・・着弾するだろう。
.
2019年8月2日、日本は、韓国への「ホワイト国の指定」を
 取り外した。
  これは、韓国が、「軍事上の重大違反」を繰り返すと
 いう重大ミスがあったからだった・・当然の処置だった。
  この韓国へ与えてあげていた「貿易上の優遇処置」の
 取り外しは、特に、「軍事関係の重要品」を不適切国へ
 輸出するという「重大違反を重ねていた」からだった。
  この様な事は、重要な事として韓国も十分知っている
 事だったが、現実に起きることは、韓国の『重大なミス
 が重なる』という状況だった。
  この様な事に対して、韓国は謝罪も説明も一切ない。
  韓国へ与えてあげていた『ホワイト国の優遇処置』を、
 『普通のポジションへ戻した』。
  韓国の輸出不正の多い状態は、「二段階降下が適正で
 あった」が、「普通レベルに留めて」あげた。
  軍事的に重要な戦略物資の不適切な輸出は、非常に神
 経を尖(とが)らせなければならない重要な面であるが、
 故意ではないかと疑われるほど、韓国は「重大ミスが重
 なるという韓国の状況であった」。
  そこで、日本政府になり代わって、韓国政府へ、以下
 の文を書く・・
  日本政府が、韓国のホワイト国(輸出手続き上の最遇
 国)から排除する決定を下した。
  これは、韓国政府が、問題を解決するための外交的努
 力を拒否し、事態を一層悪化させる極めて無謀な行為を
 繰り返していたことに依ることであって、深い遺憾を表
 明する。
  問題を解決するために、膝を突き合せようという日本
 政府の熱意と提案を、韓国政府は、ついに、頑なに自説
 を曲げないで受け入れなかった。
  一定の期限を定め、現状をこれ以上悪化させないよう
 にしながら交渉の時間を持つように促す米国の提案にも、
 韓国政府は応ぜず、解決案にほど遠い自説を曲げなかっ
 た。
  韓国政府は、日本政府と国際社会の外交的解決の努力
 を無視し、状況を悪化させて来た責任を、韓国政府は重
 く反省しなければならない。
  この様な責任が、韓国政府にあるという事が明らかに
 なった以上、これから起きる事態の責任も、全面的に韓
 国政府にあるという点を、はっきりと警告する。
  どの様な理由で言い訳をしようとも、韓国政府の今回
 の行動は、まったく国際社会のルールを踏み外している。
  決着している過去の問題を何度も蒸し返したり、持ち
 出したりして、建設的な前向きな解決をしようとしない
 韓国政府に問題が存在する。
  最も近い隣人であり、友好国であるべき韓国が、この
 様な行為をとって来た事は、実に失望すべき事であり、
 残念なことである。
  この様な不正を押し付ける韓国の姿勢は、国際社会の
 これからの為にも、はっきりと指摘して行かなくてはな
 らない。
  国際社会はお互いが助け合うことが基本であり、ルー
 ルに反することを、自国に有利だからと行なう韓国政府
 の行為は、断固指摘せねばならない立場に日本政府には
 ある。
  日本政府は、韓国のこの様は不当な行動に対し、断固
 として正しい事実に則った態度を取って行く。
  韓国政府が行なう盗人たけだけしく騒ぐ状況を決して
 日本政府は座視しない。
  日本政府は、韓国政府の行なう措置に応じて、対応措
 置を強化して行く。
  そして、今までの、韓国政府の甘えの体質も反省すべ
 きである。
  不正な行動をする韓国政府は、大きな代償があるとい
 うことを認識しなければならない。
  日本政府は、対抗の悪循環を望んではいない。
  止められる方法はただ一つ、韓国政府が、偽りの行動
 を反省し、誠実にそして真実の行動をとることにある。
  日韓両国には、日本が韓国の国づくり、また、社会資
 本づくりなどに貢献して来た歴史があるが、この事につ
 いても一切の感謝の気持ちを韓国は表明していない。
  韓国政府は、この様な事に対する誠実な感謝の気持ち
 を表明すべきである。
  遠い昔から、江戸時代から、韓国政府は、この様な蒸
 し返しの行為を、日本政府に対して繰り返し行なって来
 た歴史がある。
  しかし、日韓政府の正常化に挑戦して行くことに対し、
 日本政府は努力するが、肝心な韓国政府が昔から日本に
 して来たような態度を繰り返すならば、歴史は繰り返さ
 れることとなる。
  共に、日本と延びたいのならば、国際ルールに則り、
 正しい行動の出来る国に韓国政府はならなければならな
 い。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  ロシア(旧ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦
 であったので、ソ連(現ロシア)と合意の上で日本は武
 器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日露の合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島ソ連(現ロシア)は不法に占
 拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。

(増補版)652E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年7月)

題:(増補版)652E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
 される。
.
1896年7月6日、京釜鉄道株式会社の設立発起人総会が東京
 で開催された。
  京城(現:ソウル)と釜山を結ぶ京釜鉄道株式会社を
 日本は設立をして、朝鮮半島の国造りに努力した。
  朝鮮半島を縦貫するこの路線は最重要路線で、現在も、
 大韓民国韓国鉄道公社KORAIL京釜線として継承さ
 れ、経済活動に貢献している。
  この様な日本の誠実な努力に、韓国は感謝しなければ
 ならない。
  朝鮮半島に誠実な国造りをした国は日本しかなく・・
 その他の国は韓国・朝鮮半島の利権ばかりをしゃぶって
 いた。
  19世紀の後半と言えば、朝鮮政府は大変に財政上、逼
 迫(ひっぱく、行き詰って余裕のないこと)していた。
  そこで、朝鮮政府は、多くの鉱山採掘権などの利権を
 外国に売り払い、そして、盗られていた。
  アメリカは、京仁鉄道の敷設権を得ていて、工事を開
 始したが途中で投げ出した。
  因みに、1896年3月、日本銀行は、朝鮮政府へ応援をす
 るため300万円の借款(長期間にわたる資金の融資)を与
 えていた。
  朝鮮という地は、建設を成功させにくい地でもある。
  このアメリカの場合は、労働争議や支払い争議で中止
 された。
  この路線も、日本が引き継いで完成させてあげた。
  1900年7月に全面開通した。
  因みに、1900年2月に、日本の衆議院は、朝鮮半島の鉄
 道が完成し、充実する様に法案まで成立させたりしてい
 た「帝国臣民ノ外国ニ於ケル鉄道敷設ニ関スル法律案」・・
.
1896年7月8日、東京美術学校に西洋画科・図案科の2科が
 新たに設置された。
  この年、西洋画科が新設され、黒田清輝藤島武二
 横山大観らが指導にあたった。
  東京美術学校は・・
 1884年7月、文部省に図画教育改良を目的とする図画調
  査会が置かれ、調査が行われ、官立美術学校を設置す
  ることに決定されたことに始まる。
 1885年12月、文部省学務一局に図画取調掛が置かれ、そ
  して、アーネスト・フェノロサ、岡倉覚三、狩野芳崖
  狩野友信らが委員となって設立準備が進められた。
 1886年2月、図画取調掛の事務所が小石川植物園内に移さ
  れ、岡倉覚三がその主幹となった。
 1886年9月、文部省と宮内省が協議し、フェノロサと岡倉
  を委員とする欧米の美術及び秘術教育視察が行なわれ
  た。
 1887年10月、二人の報告に基づき、勅令によって、図画
  取調掛及び工部大学校内「工部美術部」を統合・改編
  して東京美術学校が設立された。
  また、校則も定められた。
 1887年12月、東京都台東区上野公園の現在地へ移転する。
 1889年2月、開校される。
  5年制の学校として、普通科(2年)、専修科(3年)、
  特別の課程(1年)を置いて、授業を開始した。
  普通科:絵画・造形、専修科:絵画(日本画)・彫刻
  (木彫)、美術工芸(金工・漆工)に分かれていた。
 1890年、岡倉覚三が就任し、事実上の初代校長となる。
  副校長はフェノロサが務めた。
  開校時の教官は、他に、黒川真頼・橋本雅邦、小島憲
  之であり・・
  後に、川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らを
  加えた。
 1892年、鋳金科を設置。
 1893年、第1回卒業式が挙行される。
  横山大観らの卒業生を送り出す。
 1895年、鍛金科を設置。
 1896年、西洋画科と図案科を設置。
  西洋画家の教官には、黒田清輝藤島武二和田英作
  岡田三郎助、
  図案科の教官には、福地復一・横山大観・本多天城ら
  が就任した。
 1898年、美術学校騒動が起きた。
  岡倉覚三の学校運営が問題とされ、岡倉をはじめ、橋
  本、横山、下村観山、菱田春草らの多数の教官が退任
  し、日本美術院を結成した。
 1899年、塑造科を設置。
 1902年、図案科に建築教室を設置。
 1905年、学科を再編成し、日本画、西洋画、図案、彫刻、
  金工、鋳造、漆工の7科とする。
 1907年、図案師範科(3年制)を設置。
 1914年、製版科(3年制)を設置された。
  (図案科が第一部(工芸図按)と第二部(建築装飾)
  に分離の史料もある)
  当時は、年限1年の予科、年限3年~6年の本科(絵画科、
 彫刻科、工芸科、建築科)と師範科、年限2年の研究科か
 らなった。
.
1896年7月10日、基隆駅~新竹駅間の鉄道運輸の営業が開始
 された。
  台湾総督府鉄道の営業開始で、台湾の近代化と地域開
 発の原動力となって行った。
  基隆(きいるん)は台湾北部にあり、新竹(しんちく)
 は台湾北西部にある。
  新竹駅の駅舎は、現在でも日本人建築家の松崎万長が
 設計し、そして、建設・完成された立派な状態で使用さ
 れている・・
  台湾での現存の最古の駅舎となっている。
  1994年から、台湾の学者、複数の有志の方々の呼び掛
 けや保存運動の展開によって・・
  1998年6月23日に、台湾の国定古蹟(台湾の国の文化遺
 産)に指定された。
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1896年7月10日、新聲(声)社(現:新潮社)が創業された。
  佐藤義亮(さとうぎりょう)が新声舎を設立し、雑誌
 「新声」を刊行したが破綻した。
  1904年に新潮社を創立し、文芸雑誌「新潮」を創刊し
 た。
  佐藤(1878年~1951年)は、18歳の時に文学を志して
 上京し、1896年のこの年、新声社を設立したのだった。
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1896年7月15日、北陸線敦賀駅福井駅間が開通した。
  北陸線命名されたのもこの年・・
  そして、この日に、北陸線と各連絡社線との相互荷物
 取扱も開始された。
  この区間の建設において・・特に、敦賀駅~今庄駅間
 は険しい山地であったため、その山地を避け、海側の杉
 津駅経由で建設された(今の北陸トンネルの所)・・
  それでも、急勾配と12か所のトンネル、4か所のスイッ
 チバックが連続するという難所だった。
  難工事で命を落とした方も多かっただろう・・
  誠実な国造りの賜物で開通した・・快適な旅行が出来
 る現在、この様な先人の苦労を偲(しの)び、また、感
 謝しなければならない。
  日本の技術を駆使した朝鮮・韓国は感謝さえしない・・
.
1896年7月21日、日清通商航海条約が調印された。
  下関条約に基づいて結ばれた日本と清国との通商航海
 条約で、北京において、日本と清朝の間に締結された。
  領事裁判権・協定関税・最恵国待遇を含む欧米諸国と
 同一内容の条約。
  日清両国人の共同経営事業についての規定、日本人の
 登録商標著作権保護の規定などを定め、追加条約も締
 結した。
  今・現在の中国の著作権を含む知的財産権を盗む行為
 の様な事が無い様にと約束した。
  これによって、日本と中国との通商の基礎ができた。
  1896年10月20日、批准書交換が行われた。
  1896年10月28日、発効。
  辛亥革命で成立した中華民国にも継続された。
  日本側全権は林董(はやしただす、伯爵、外交官)
  ちなみに、林董は、榎本武揚の軍に加わって箱館戦争
 に参加している。
  1928年に至り、中国は改訂したいとし、日本は応諾し
 て、条約の改定が行なわれた。
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1896年7月21日、信越地方が数日にわたる降雨のため、軽井
 沢駅~直江津駅間の線路は、各所で破壊された。
  御代田付近では、機関車が30尺(9.1m)下に転落した。
  客車・貨車も、脱線転覆した。
  全線が運転中止となった。
  7月23日に一部区間が開通し・・
  全線開通は、8月22日だった。
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1896年7月22日、新潟市から長岡市大洪水
  信濃川の堤防の各所が決壊した。
  被災面積は18000haに及んだ。
  信濃川の洪水としては有史以来の過去最大規模で・・
  破堤地にちなんで「横田切れ」と呼ばれる。
  破堤してから21日後でも、新潟市新通は、まだ浸水し
 ていた。
  長岡市中之島は、浸水が引かないため堤防上に小屋を
 建てて生活する人も居た。
  この「横田切れ」による被害は、死者43名、浸水家屋
 43684戸、浸水耕地58254ヘクタール。
  新潟市から長岡市のほぼ全域が浸水する大水害だった。
  この後、原田貞介が大河津分水工事改良案を提出し・・
  1909年、原田案をもとに、第二期大河津分水路工事が
 建設された。
  難工事で100名以上の殉職者を出しながら、1922年に、
 通水に成功した・・2年後の1922年、皆が待望し悲願した
 完成に至った。
  この分水によって、この後、信濃川本流が破堤するこ
 とはなくなった。
  (史料)大河津水位14尺4寸(4.32m)となる。
      各地の被害は・・木津に破堤あり、亀田郷は
     皆無作となる・・
      白根郷では赤渋字赤池の安中542の上手が破れ、
     新築早々の五幣氏宅は根こそぎ流される。
      横田でも破堤し、泥海となった(大洪水:横
     田切れ)鷲ノ木の煉瓦水門が損傷し漏水。
  初期の1918年~1941年に、千曲川第一期補修工事が進
 められていたが、洪水が、1年おきぐらいにどこかで起き
 るという状況で、苦労させられていた。
  尚、現在も、補修事業は進められている。
.
  (今日の言葉)
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  題:NHKや新聞は、南京へ進軍することを煽った。
    キリスト教に良いことをすれば、あなたにも良いことが起きますよと言われて、
    ローマのコンスタンティヌス帝はキリスト教を国教にしたが、その後、ローマは西ゴート人に侵略された。
    クーベルタンの言葉:「体力の劣る女性が、オリンピックに参加することは、オリンピックの品位を落とす」。
    学校放送の資質に欠けるNHK
    中国に、北海道の土地が、もう1割も買われている。
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紀元前202年、ザマの戦いが起きた。
  北アフリカのザマを戦場として、ハンニバルの率いる
 カルタゴ軍は、スキピオの率いるローマ軍と戦い、敗北
 した。
  その16年前の紀元前218年、イベリア半島を出発したカ
 ルタゴ軍は、アルプスを越えてイタリア半島に侵入した。
  知将のハンニバルは、ローマ軍を蹂躙(じゅうりん)
 し、勢いづいた。
  ローマが、この時、恐れたことは、このハンニバル
 にイベリア半島に残っていたカルタゴ軍が合流すること
 だった。
     ・
     ・
410年8月24日、ローマ略奪(りゃくだつ)
  アラリック1世が率いる西ゴート族が、西ローマ帝国
 ローマへ侵攻し、陥落させ、ローマ市内を略奪した。
  「永遠の都」として象徴的な地位にあったローマに対
 して、恥辱に溢れた略奪が行われた。
  外敵に対する無敵を誇ったローマが略奪されて、陥落
 した。
  このことは、ローマ帝国内外に大きな動揺をもたらし
 た。
  キリスト教聖職者で神学者であるヒエロニムスは、皮
 肉を込めて言った・・
  「全世界を収奪し続けたローマが、外敵から収奪され
 ている」・・と・・
  キリスト教は、ローマ帝国キリスト教を国教とした
 ことを非常に讃美した(これは、今・現代もしている)
  これは、当然で、この事によってキリスト教は大いに
 宣教され、延びた。
  キリスト教になればいいことがありますよという「相
 互授受」を説いた・・この言葉が効いたのだった。
  国教にしたコンスタンティヌス帝は、キリスト教が説
 く「相互授受」、つまり、キリスト教にとって利するこ
 とをすれば、ローマ帝国にとっても良いことが、キリス
 ト教の神によってもたらされる、良いことが起きるとい
 う教義・原理で・・コンスタンティヌス帝も、これを当
 てにしていた・・しかし・・??・・
  キリスト教の神による見返りを期待して、国教とした
 のだった・・が・・
  今・現在も、キリスト教の神からの見返りの奇跡を信
 じて祈っているが・・古代は生贄(いけにえ)さえ捧げ
 て、その犠牲の見返りを求めていた。
  しかし、その後、このコンスタンティヌス帝に起きた
 ことと言えば・・決して、キリスト教が語らぬ酷(ひど)
 いことだった。
  410年、キリスト教が嫌う異民族である「西ゴート族
 が・・その王のアラリック1世が・・侵入し・・これに
 よってローマ帝国は椋略(りょうりゃく)されてしまっ
 た。
  最悪の事が起きてしまった。
  キリスト教を国教にしてあげたのに、その結果は、永
 遠の都のローマが、蛮族の餌食となってしまった・・と・・
  この様な結果を怒ったのが「ローマの人たちだった」。
  キリスト教の神に乗り換えて、ローマの神々を追い出
 したから悪いのだと怒った。
  さらに、ローマの人たちは、キリスト教の神への批判
 を始め、そして、その責任を問う声を上げ、その声が満
 ちた・・ローマ中に沸き起こった。
  唯一神キリスト教の神の災厄(さいやく)だ・・と・・
     ・
     ・
11世紀、ヨーロッパで盛んにつくられた世界図にTO図が
 ある。
  Tはドン川、ナイル川、地中海で、Oはオーケアノス。
  (参考)オーケアノス:ギリシア神話に登場する海神。
      ティーターンの一族に属し、特に、外洋の海
     流を神格化したもの。
  ギリシア神話の世界観では、世界は円盤状になってお
 り、大陸の周りを海が取り囲み、海流=オーケアノスがぐ
 るぐると回っているとされた。
  それ故、神話において、オーケアノスの領域という言
 葉は、しばしば「地の果て」という意味で用いられる。
  TO図は、ここまでは古代の考えを引き継いで、世界
 の中心にエルサレムを置いた。
  そして、東の果ては、アダムとエバが住むとして神聖
 な楽園とした。
  (東の東と言えば極東・・だとすれば、日本になる・・)
  そして、ノアの息子たちの子孫の、アジア人はセム
 アフリカ人はハム、ヨーロッパ人はヤペテの子孫と考え
 ていた。
  7世紀から始まるイスラム世界の発展へも影響を与えた。
     ・
     ・
1896年4月6日、アテネオリンピックが開催された(~1896
 年4月15日)
  この開催は、フランスのピエール・ド・クーベルタン
 男爵の活動・提唱によると言うが・・
  このクーベルタンに次のような言葉がある・・
  「体力の劣る女性が、オリンピックに参加することは、
 オリンピックの品位を落とす」。
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1937年8月13日、第二次上海事変が始まる。
  アメリカに武器・弾薬を援助されて、大部隊で日本を
 攻めて来た蒋介石の中国軍・・
  この第二次上海事変は、約2ヶ月間戦われた(~1937年
 10月26日)
  寝耳に水の上海の日本租界へ、中華民国軍の大部隊が
 攻めて来た。
  1937年7月29日の通州事件で、日本人が230名も虐殺さ
 れるという悲惨な、そして、卑劣な事件があったが・・
  この様な第二次上海事変という様なことがあるとも知
 らない日本は、その上海には、わずかな兵しかいなかっ
 た・・
  しかし、約2ヶ月の激烈な戦いで、日本は中国軍を撤退
 させた。
  この頃、欧米列強の思惑は・・
  フィリピンを橋頭保として中国の利権を得たいとする
 アメリカと・・そして・・
  アヘン戦争以来、広く中国にガン細胞の如くにはびこ
 り、美味しい汁を吸うシステムを構築していたイギリス
 などが・・
  新興のごとく現れた有色人種のアジア人の日本に対し
 「この美味しい利権を断たれるのではないかと恐れた」
 のは・・利権獲得者が「そう思うのも自然だった」。
  この様な行動を・・ロシア・ドイツ・フランスも中国
 で行なっていた。
  中国という広大な大領域の国には、利権漁りのアメリ
 カやヨーロッパ諸国が群がり「巣食っていた」。
  そして、第二次上海事変・・戦争はおさめたものの、
 この突然に攻めて来た中国軍を「追撃するか」どうかに
 日本は迷った・・
  南京まで進軍するかという時に、NHKや新聞などの
 メディアは、「煽って、進軍を肯定した」。
  突然に攻めて来た中国軍の悪さもあったが、この追撃
 するという方向になって行く・・「このままにする」と
 いう不拡大派を押し切って行く。
  日本国民も、このNHKやメディアに影響されて、正
 しい思考を阻(はば)まれ、熱狂した・・
  そして、国の方向を・・メディアの煽りで・・決めて
 行く・・
  NHKなどのメディアの責任は重大だった。
  今・現在も、NHKなどメディアが、不要な日本政権
 批判や、トランプ政権批判を行なっているが・・日本国
 民を洗脳し、繰っている状態になっているが・・
  この第二次上海事変の当時と同じことをやっている。
  お昼の、洗脳の「ニュース・バラエティ番組」も最悪
 である。
  この時の南京進軍も、NHKなどのマス・メディアの
 責任である。
  1932年の第一次上海事変が、華中に多くの利権を持つ
 アメリカやイギリスの圧力で、停戦協定が結ばれたよう
 に・・
  第二次上海事変も、アメリカやイギリスの干渉によっ
 て停戦にしたいと、中国国民政府の蒋介石は、戦争を仕
 掛けておきながら、停戦を希望し、思っていた。
  この時の日本のメディア(NHKや新聞)は、この様
 な中国を「日本を侮(あなど)っている」「暴挙なのは
 支那だ」と煽った。
  強硬論が強くなった時、天皇陛下は、不拡大の御意思
 を示された・・が・・
  不拡大の意見は孤立して行った。
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1941年、アメリカの黒人の方々は、キリスト教会でさえ、
 白人と隔離され、出入りを禁止にされ、差別をされた。
  キリスト教会の「神の祈祷」すら白人と一緒に出来な
 かった。
  アメリカ中がその様な様相で、大都市であっても、汽
 車、電車、バス、映画館、学校、ホテル、レストラン、
 図書館、海水浴場、便所などなど、あらゆるところで、
 アメリカ白人たちは黒人の方々を差別した。
  黒人男性が、白人女性を乱暴したというような噂(う
 わさ)が広がると、「単なる噂であるのに」・・
  また、有罪無罪に関わらず、犠牲と勝手に選んだ黒人
 の方を野外でリンチして、木の枝に吊るして、絞殺をす
 るという残忍な殺し方をした。
  単に、黒人の方々だけではなく、この白人の優越感か
 ら来る残忍さは、全有色人種に向けておよんでいた。
  特に、1930年代後半から、日本人は許せないという「
 理由のない敵愾心」が、大東亜戦争第二次世界大戦
 の原因となった。
  その底には、日本が、アジアのリーダーになりつつあ
 る姿をアメリカは恐れた。
  しかし、結局、戦争は起き、結果はアジアの諸国が独
 立を勝ち得て、欧米列強の「収奪の植民地状態」から脱
 し得た。
  1941年、アメリカ上院議員クロード・ペッパーは言っ
 た・・
  「もし全能であるキリスト教の神が、ジャップ(日本
 に対する蔑称)に東洋を支配させる思(おぼ)し召しが
 あるのなら、必ず、彼らを白人人種におつくりになった
 であろう(キリスト教の神は、彼らを有色人種に作った
 のは、東洋を支配などさせるなとのことだ)」と議会で
 演説をした。
  アメリカには、人種差別感を持たない方々も居られる
 だろうが、戦争が起きようとしているこの時期、この様
 な有色人種蔑視感を丸出しの上院議員が議会演説をする
 という異常なアメリカだった。
.
1950年6月25日、韓国・老斤里(のぐんり)における大虐殺。
  この卑劣な事件は、半世紀を経て明るみに出た。
  アメリカ軍が、避難民を約400人を虐殺した。
  老斤里は、忠清北道の永同郡にあり、ソウルから南へ
 160キロの所にある。
  韓国政府は冷たく扱い、この事をタブーとして語らせ
 なかった。
  1944年4月になって、やっと本にして出版できた・・小
 説として「君、われわれの痛みがわかるか」である。
  それまでアメリカ大統領へも陳情の手紙を送ったが、
 なしのつぶて、無回答だった。
  この事件は、朝鮮戦争が始まった直後の1950年6月25日
 から始まった。
  北朝鮮軍がソウルに侵入すると、非難だとして韓国住
 民が集められ、首都がソウルから大田に移されたが、そ
 の太田も7月20日に陥落すると、米軍は避難命令を出した。
  住民は、さらに、避難行動をした。
  他からの避難民も加わり、林渓里には数百人が集まっ
 た。
  7月25日、朝8時、米軍が突然来て、後方に非難するか
 ら集まれと命令した。
  午後11時頃、600人ぐらいを強制的に出発させた。
  深夜になって、米軍は、川辺の野原に這いつくばらさ
 せて、その周囲を銃をもって監視した。
  この日に、7人が撃ち殺された。
  その翌日、戦闘機2機で機銃掃射された。
  逃げた人々へも、米兵が銃撃した。
  この様な事を続けた。
  北朝鮮軍兵士は、この中には居なかった。
  トンネルに逃げ、そのトンネル内にも銃撃した。
  トンネルの双方からも銃撃した。
  29日まで続いた・・この様な虐殺事件だった。
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1988年3月、南シナ海問題・・中国とベトナム間で武力衝突
 が発生し・・ベトナム兵の77名が死亡した。
  1995年、中国が、ミスチーフ礁に建造物を設置した。
   この地の領有権のあるフィリピンが領有を主張し、
   中国とフィリピンが対立した。
   中国は習近平政権下で、軍事進出をする姿勢を強め
   た。
  2014年以降、中国が、南沙群島で人工島や軍事施設な
   どを建設し始めた。
  2016年、フィリピンが、中国を相手に提訴した国際裁
   判で、常設仲裁裁判所は、中国が領有して来たとす
   る南シナ海のほとんどの全域を含む「九段線」の主
   張は根拠がないとし・・中国の主張する歴史的な権
   利は「ない」との判決を下した。
  この様に、世界的な決定がなされている南シナ海は「
 公海」である・・
  この公海を、公海という本来の形にしておくことは、
 「世界の核心的利益である」。
  この海を、中国の資金で、元の海の姿へ戻させなけれ
 ばならない。
  また、この様な行為をする、本例の様な行為をする中
 国が、普通の脅威・リスクのない国に戻ったら、沖縄の
 辺野古の海も元の海へ戻さなくてはならない。
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2008年10月、アメリカが、北朝鮮の「テロ支援国家」の指
 定を解除した。
  今の北朝鮮を作ったのは、アメリカのブッシュ大統領
 の「テロ支援国家」の指定。
  この脅しをきっかけに、北朝鮮は、核とミサイルの開
 発を始めた。
  そして、中国が支援した。
  しかし、アメリカは、テロ支援国家の指定はしたが、
 対応に「中途半端な態度」を取った・・
  2006年10月、北朝鮮が、第一回の核実験の後、アメリ
 カは、手の平を返す・・
  まったく甘い対応に変えた。
  経済制裁も解除した。
  また、北朝鮮核兵器製造施設を査察の対象から外し
 た。
  また、北朝鮮が、核弾頭用のウラニウム濃縮施設を数
 ヶ所を建設して来た事も問題にしない。
  そして、2008年10月、ブッシュ大統領が「テロ支援国
 家」の指定まで解除してしまった。
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2015年、リャルリー・エブト襲撃事件。
  キリスト教による、イスラムの方々への蔑(さげす)
 み行為が事件となった。
  フランスのパリで起きた事件。
  風刺週刊誌を発行している「リャルリー・エブト」の
 本社が襲撃され、編集者など12名が殺害された。
  この週刊誌は、イスラムの方々を蔑む風刺画を一度な
 らず何度も掲載し・・
  また、これだけではなく、イスラム教のムハンマド
 言者を貶(おとし)める行為を絵などでたびたび掲載な
 どを行なっていた。
  「表現の自由がある」と軽薄に無制限に理解し、イス
 ラムの方々の尊重すべきことに全く配慮してなかった。
  イスラムの方々を、ただただ傷つける無配慮な行為を
 続けて来ていた。
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2017年8月30日、残念なことだが、北朝鮮は、ミサイルの大
 気圏再突入時の問題はクリアーした。
  技術的な問題を解決した。
  帯広のNHKの監視カメラの映像が、北朝鮮のミサイ
 ルが明るい光を放ちながら落下していく様子を撮影して
 いた。
  これは、北朝鮮のミサイルが、大気圏再突入をする時
 に、バラバラにならずに、正常に機能し、正常な形で落
 下して行った姿だった。
  また、近い将来、日本のミサイル防衛システムは、ま
 ったく役に立たなくなることが予測されている。
  日本のMDシステム(弾道ミサイルv防衛システム)
 では、北朝鮮の核攻撃を防ぐことが出来ないということ。
  また、北朝鮮は、近い将来、「巡航ミサイル技術を習
 得すると予測されている」。
  北朝鮮と一緒に、ミサイルを開発してきたイランとパ
 キスタンは、すでに巡航ミサイル技術を持っている。
  巡行核ミサイルは、小型の漁船や貨物船からも発射で
 きる小回りのきく核ミサイル。
  また、自由に航路を変えながら低空を飛行するため、
 日本のMDシステムでは、ほとんど北朝鮮の核攻撃を捕
 捉(ほそく)が不可能なので、防ぐことはできない。
  アメリカに命令されて、高価な金を払って買ったシス
 テムも役に立たない。
  中国の勢力圏拡張政策と、それと共生する北朝鮮
  日本は、抜本的な防衛システムの構築をはかれ。
  また、中国・北朝鮮は、「大勢の工作員を、日本に、
 潜り込ませているが、そして、自国に都合の良い方向に、
 日本の内政と外交と世論を誘導しているが・・
  これにも対処せよ」。
  中国・北朝鮮のやりたい放題の活動の場と日本はなっ
 ている・・日本の世論誘導もやっている。
  日本の優秀なビジネスマン、銀行員、学者、ジャーナ
 リストが狙われている、繰られている。
  大量の金も、ばらまかれている。
  こういう静かな戦争が行われている。
  NHKは、日本国民を操作する番組ばかりを放送して
 いる、
  例えば、反日思想の沖縄の彫刻家の番組(この様に偏
 った企画の番組ばかりを放送するNHK)・・反日作家
 を特にクローズアップするNHK・・反日放送局となっ
 ている・・2017年8月30日のメモから・・
.
2017年10月13日、日本とインドの同盟関係
  本当に「同盟」になり始めた日本とインドの関係(日
 経ビジネスを参考にして・・)
  安倍晋三首相は10月8日、インターネットテレビに出演
 して「日本とインドは同盟国といえるぐらいの関係にな
 っている」と明言した。
  その理由として、日印米3か国の海洋共同演習マラバー
 ルを挙げた。
  話の流れでそれ以上の説明はなかったのだが、この発
 言は日印の最新の動向をよく示している。
  日印間には、日米同盟のような深い関係はない。
  それでも過去数年、とくにここ数か月、日印間の防衛
 協力が明らかに進展している。
  最近の動向は、以下に挙げる3つの点で、日本とインド
 が「同盟」状態になりつつあることを示している。
  「同盟」の要諦は危機に臨んだ時の協力
  「同盟」関係にあるか、そうでないかを分ける指標は
 何だろうか。
  最も重要な指標は、条約が結ばれているかどうか、で
 はない・・戦争や危機の時に味方であるかどうかである。
  実際、条約を結んでいても味方とならない場合があり
 得る。
  例えば、イタリアは、第1次世界大戦の時、ドイツやオ
 ーストリアと同盟を約束する条約を結んでいたにもかか
 わらず、オーストリアに宣戦を布告した。
  イタリアは第2次世界大戦でも、途中まではドイツと一
 緒に戦ったが、戦争の最末期、政権が交代すると、連合
 国に加わった(連合国が勝つと分かっている時である)
  戦争や危機に臨んだときの態度は、同盟の最も重要な
 側面である。
  この観点から見た時に、日印「同盟」関係をはっきり
 と示したのが、6月16日から8月28日まで続いた、インド
 と中国の危機に際しての、日本政府の態度だ。
  危機が起きた地域はドグラム高地といい、中国とブー
 タンの双方が領有権を主張している。
  インドにとっては、インド「本土」とインド北東部を
 つなぐ細い鶴の首のような部分に、クサビのように突き
 刺さる地域で、防衛上の要地である。
  そのため、この地域は長年、安全保障上の問題になっ
 てきた。
  そのような敏感な地域で、中国軍は戦車の重量に耐え
 る道路の建設を開始した。
  当初、中国軍による建設を阻止すべくブータン軍が(
 たった8人で)割って入ったが、中国軍に追い返された。
  そこで、ブータンの安全保障を担うインドが軍を派遣
 して道路建設阻止に着手した。
  そこから73日間に及ぶ、にらみ合いの状態に入った。
  インド軍が数百人規模だったのに対し、中国は1万2000
 人、戦車150両、さらに、火砲もそろえた大陣容を派遣し
 た。
  さらに、中国空軍も新型戦闘機による飛行を大幅に増
 やしたほか、周辺のチベット地域では大量の物資を運び
 こんで大規模な軍事演習も実施した。
  中国軍の広報官は1962年に中国がインドを負かしたこ
 とを思い出すよう言及、明確に戦争を示唆した。
  これに対抗してインドも、ドグラム高地周辺の3個軍団
 4万5000人が陣地を構築した。
  さらに、4000㎞に及ぶ印中国境(含:実効支配線)全
 体でも警戒態勢に入ったため、印中が武力衝突する可能
 性が高まった。
  日本は、この対立で存在感を示した。
  戦後の日本の対応としては驚くべきことかもしれない。
  7月に、ヘリ空母「いずも」をインド洋に派遣した。
  インド空母、米空母とともに大規模な海洋共同演習「
 マラバール2017」を実施して、日印米の協力関係の強さ
 を示した。
  この派遣は、印中の危機が起きる前から決まっていた。
  しかし、中国のメディアは、「インドは日米に期待す
 るな」と報じた。
  これは、ヘリ空母「いずも」の存在も気にしている証
 といえる。
  さらに8月18日、日本の平松賢司駐印大使が、「力によ
 る現状変更を非難する」と発言した。
  これは一般論をいったにすぎない。
  しかし、インド政府は、当時、「力による現状変更を
 迫っている」と中国を非難しており、日本大使の発言は、
 その論理を受けたものだった。
  しかも、この発言は絶妙のタイミングで行われた。
  4000㎞の国境でにらみ合いを続ける印中両軍が8月15日、
 カシミールで小競り合いを起こした。
  取っ組み合いを始め、石を投げ合い、負傷者が出た。
  緊張が高まり、インドが不安を高めた瞬間に、日本大
 使が発言したのだ。
  しかも、このドグラム高地の印中対立について、米英
 豪などは中立的な発言しかしていなかった。
  だからインドは、日本が主要国で唯一、インドを無条
 件に支持したものと受け止めた。
  日本の存在感は、ここで終わらなかった。
  緊張が緩和し、印中両軍がにらみ合いの場所から150m
 ずつ後退した8月28日にも、日本の存在感が際立った。
  当時は、中国でBRICS会議が行われる直前で・・
  BRICS会議にインドのナレンドラ・モディ首相が
 出席するかどうか、中国は気にしていた。
  しかし、それだけではない。
  中国が気にしていたことがもう一つあった。
  9月にインドの国防相が訪日し、同月、安倍首相が訪印
 することだった。
  もし対立を続けていたら、日本とインドの対中防衛協
 力が大幅に進展してしまう。
  中国は、その前に危機を終わらせたかったと予想され
 た。
  この様に、実際の危機が起きたときに、日本とインド
 の協力関係が目に見える形で発揮された。
  訪日したインドの国防相も、安倍首相を迎えたモディ
 首相も、日本に感謝を表明した。
  インドの一部では、尖閣諸島で危機が起きたとき、イ
 ンドは日本を支持すべきか、議論が起き始めている。
  実際に条約を結んではいなくても、戦争や危機の時に
 作動する事実上の「同盟」関係は成立しつつある。
  機密情報を共有する仕組みはあるか
  戦争や危機に臨んだ時の関係以外にも、日印の「同盟」
 関係を示す指標がある。
  防衛上の機密情報を交換できる体制ができているか、
 防衛協力する際に使う物品を融通できる体制ができてい
 るか、
  防衛技術協力は進んでいるか・・だ。
  同盟国は共同で軍事作戦を行う。
  その時、何が必要だろうか
  軍事作戦にかかわる秘密情報を交換したり、燃料や弾
 薬といった物品を交換したりする体制が必要だ。
  また、同盟国は、機密性の高い高度な兵器を共同で開
 発をする。
  この点について、日本とインドの体制はどうか・・
  機密情報の交換について、日印は「防衛装備品・技術
 移転協定」「秘密軍事情報保護協定」の二つに2015年12
 月に署名した。
  安倍首相が、9月に訪印した時にモディ首相と発した共
 同声明は、「マラバール」共同演習について「対潜戦(
 対潜水艦戦)」を念頭に置いて協力すると明記している。
  対潜水艦戦は、もっとも機密度の高い情報を扱う分野
 の一つだ。
  次に補給品の融通に関して・・「マラバール2017」に
 おいて、海上自衛隊護衛艦が初めて、インドの補給艦
 から給油を受けた。
  これはインドから燃料を買ったことを意味する。
  こうした協力について、海上安全保障保護協定のよう
 な正式な協定を結ぶべく、両国の間で、交渉が行われて
 いる。
  そして、防衛技術協力・・9月に、インドの国防相が訪
 日したときの共同声明と、同月に安倍首相が訪印したと
 きの共同声明をみると、その両方に防衛技術協力の記述
 がある。
  例えば、安倍首相訪印時の共同声明には「マラバール
 その他の共同訓練、警戒監視及び無人システム技術、防
 衛産業協力等の防衛装備品・技術協力を含む、防衛・安
 全保障協力及び対話を発展させること」と明記している。
  陸上無人車両(UGV)、ロボティクス分野、US2 救難飛
 行艇、デュアルユース技術(軍用にも使える民生用技術
 のこと)など具体的な名前を挙げて協力を進める方針1。
  (参考)外務省「日印共同声明:自由で、開かれ、繁
     栄したインド太平洋に向けて」2017年9月14日、
      インドが求める対パキスタンの協力、さらに、
     日印の「同盟」関係を示すものがあるとすれば、
     外交政策における協力である。
      2つの特徴的な動きがある。
      1つは、インドが日本の対北朝鮮政策に協力す
     ると同時に、日本がインドの対パキスタン政策
     に協力するようになっている。
  モディ首相が、2016年11月に、訪日した際の日印共同
 声明で初めて、「北朝鮮」と「パキスタン」の文言が同
 時に明記された。
  安倍首相が、2017年9月に、訪印した際の共同声明にも
 入っている。
  実は、これは、インド側の認識と関係している。
  インドは、北朝鮮の核開発問題をパキスタンの核開発
 の問題と同種に考える傾向がある。
  真の黒幕は中国で、北朝鮮パキスタンは中国の支援
 を受けて核を開発しているとみる専門家がいる。
  したがって、日本が、対北朝鮮政策でインドとの協力
 を考える場合、インドは対パキスタン政策で協力するよ
 う要求してくる傾向がある。
  特に、インドが現在懸念しているのは、パキスタン
 内にテロリストの拠点があることだ。
  故に、日本が、対北朝鮮政策でインドに協力を求める
 と、インドはパキスタンのテロリストについて日本の協
 力を求める。
  そこで昨年、この点について協議が行われた模様・・
  これまで日印共同声明に「北朝鮮」「パキスタン」の
 記述はなかった。
  しかし、昨年の共同声明には、北朝鮮を非難する声明
 が入った・・そして、「両首脳はまた、パキスタンに対
 し、2008年11月のムンバイにおけるテロ攻撃及び2016年
 のパタンコートにおけるテロ攻撃を含めたテロ攻撃の犯
 人を裁判にかけることを要求した」と明記した。
  パキスタンは、昨年、この共同声明を受け、すぐに懸
 念を表明した。
  しかし、今年の共同声明にも「パキスタン」の国名を
 記述しただけでなく、さらに具体的なテロ組織に言及し
 た記述がある。
  日印関係の変化をよく示している(ちなみに、パキス
 タンに対してより強いテロ対策を求める文言は、インド
 と会談した米国や英国などの声明にも盛り込まれており、
 インドを支持する方向へ態度が変化している)。
  (参考)外務省「日印共同声明」2016年12月12日、お
     よび、外務省「日印共同声明:自由で開かれ、
     繁栄したインド太平洋に向けて」2017年9月14日、
  インフラ開発で協力・・さらに、インフラ建設におけ
 る日印協力が、安全保障の色を帯びている。
  特に、今年9月の日印共同声明に盛り込まれたインド北
 東部におけるインフラ開発は対中政策として重要な影響
 を持つ。
  インド北東部の開発は、インドと東南アジアとの貿易
 を進展させるため、東南アジアにおける中国の影響力を
 押し下げる効果が期待されている。
  また、インド北東部は、印中両軍がにらみ合いをした
 ドグラム高地につながる。
  インド軍は、インド北東部のインフラを利用して、国
 境地域に軍をよりすばやく展開することが可能になる。
  そして興味深いことは、インド北東部は、外国では日
 本だけにインフラ開発の許可が下りている地域・・
  また、日印が進める「アジア・アフリカ成長回廊」構
 想も注目・・
  これまで日本とインドが別々に行ってきたアフリカに
 対する援助を、共同で進める構想・・
  日印はすでに5回もアフリカ政策を協議しており、調整
 が進んでいる。
  日印、日米、米印もアフリカ政策を調整しており、イ
 ンドは米国と一緒にアフリカの軍隊の訓練などにも着手
 している。
  よって、日印の協力は、日印米3か国協力の一環でもあ
 る。
  前述の共同声明でもアフリカについて繰り返し言及した。
  日印にとって、アフリカは、少なくとも3つの視点から
 重要・・中国がアフリカのインド洋沿岸地域に軍事拠点
 を作りつつある。
  第2に、資源が豊富で、これも中国と獲得競争となって
 いる。
  第3に、日印が国連常任理事国入りを目指すに当たって、
 アフリカは50以上の票を持つ。
  日印は、スリランカのトリンコマリー港や、イランの
 チャーバハール港、インドのアンダマン・ニコバル諸島
 などの開発でも協力しており、インド洋における中国の
 影響力拡大を抑える効果が期待されている。
  依然として世界で一定の力を持つ日本と、どんどん世
 界で発言力を高めるインドの「同盟」は、中国の台頭と
 ならんで、世界情勢を変える大きな要因となる。
  しかし、過去に、インド外務省・高官に次の様な言葉
 があったことを思い出す・・、
  「我々は、アメリカと、軍事同盟関係に入りたくない。
  アメリカという国は、他の諸国と本当に平等な同盟関
 係を結ぶことが出来ない国だ。
  アメリカと同盟関係に入った国は皆、独立した外交・
 軍事政策を運営する能力を奪われている。
  インドは、アメリカとの同盟関係に入ることによって、
 日本の様な惨(みじ)めな立場に置かれたくない」。
  一人立ち出来ない日本の防衛が、インドの叡智ある方々
 にはっきり見えていた。
.
2019年1月15日、NHK:学校放送の資質に欠けるNHK・・
  NHKが、高校講座の学校放送で、必死に光エネルギ
 ーは循環しないと教えていた。
  これは間違い。
  光エネルギーの循環サイクルが大きいだけだ。
  循環しないと教えるのは間違い。
  そして、地球上で循環しているエネルギーも存在して
 いるのだ。
  この様な事もNHKは教えていない。
  キリスト教に偏するNHKは、何度も洗脳的にこの「
 循環しない」を「繰り返して」この事を言った。
  これは、キリスト教に偏するNHKが、キリスト教
 嫌う仏教の「輪廻を否定したい」からだった。
  だから、洗脳的なこの様なNHKの放送態度になった
 のだった。
  「天空の冷域との冷輻射の熱のやり取り」をNHKは
 「消えた」と教えた。
  これは間違い。
  アメリカの学校で進化論を否定する教育をしているが、
 このNHKの放送もその類いとなっている。
  アメリカの学校で進化論を認めたくない理由は、「キ
 リスト教の神が猿から人間を造るわけがない」という理
 由だった。
  だから、科学的に立証されているダーウィンの進化論
 を否定したのだった。
  NHKは、この様に宗教的に中立ではない。
  この結果、アメリカの様な「正しくない知識の教え方
 をする」。
  NHKは、学校放送に携わる資質に欠けている。
  NHKには、学校放送をさせないようにしなければな
 らない。
  2019年1月15日、午後2時40分~午後3時00分、NHKE
 テレビ、高校講座、「生物基礎」で現認。
.
2019年、北海道の土地はもう1割が中国に買われている。
  日本の主権を崩そうという種々の活動が行われている。
  チェチェ思想の中に旧民革命論がある。
  沖縄で、北朝鮮や韓国・中国からの旅行者が政治活動
 をしている・・これは法律違反行為であるが行なわれて
 いる。
.
2019年7月17日、MMT(現代貨幣理論)の提唱者が来日し
 た。
  そのインタビュー記事が読売新聞に報じられた・・
  以下はその抜粋・・
  「現代金融理論」(MMT)を提唱する米ニューヨー
 ク州立大のステファニー・ケルトン教授が16日、講演会
 出席のため来日したのを機に、読売新聞のインタビュー
 に応じた。
  日本は、積極的な財政出動で所得や個人消費の拡大を
 目指すべきだと強調した。
  MMT(Modern Monetary Theory)は、独自の通貨を
 持つ国は、通貨を発行すれば借金の返済に充てられるた
 め、物価が急上昇しない限り、赤字が増えても財政は破
 綻しないとする経済理論だ。
  2020年の米大統領選に向けて、米議会野党・民主党
 支持が広がっている。
  インタビューで、ケルトン氏は、「政府予算と家計を
 同じように考えることは大きな間違いだ。
  (急激な)インフレにならない限り、財政赤字は過剰
 支出の証拠でなく、景気を下支えする。
  物価が4%上昇しても、この世の終わりでは無い」と話
 した。
  物価の上昇圧力が高まった場合に、増税や歳出削減を
 行なうべきだとした。
  日本の債務残高は、国内総生産(GDP)の約2.4倍で、
 主要国でも最も大きいが、物価の上昇は鈍い。
  ケルトン氏は、今後も、日本で急激に物価が上がる可
 能性は「限りなくゼロに近い」と述べ・・、
  保育や介護を担う人材の処遇改善などで個人消費を刺
 戟すべきだとした。
  10月に予定される消費税率の10%への引き上げについ
 ては、「国民の消費が過熱して物価が上昇している局面
 で消費増税を行なうことは理解できるが、日本が直面し
 ているのは正反対の問題だ」と指摘し、実施に否定的な
 認識を示した。
  ケルトン氏が出席して都内で行われた講演会には、積
 極財政を支持する元内閣官房参与藤井聡・京大教授ら
 が参加した。
  ケルトン氏は、「政府の赤字は悪でも脅威でもない」
 と強調した。
  MMTに対し、主流派の経済学者などからは批判が相
 次いでいる。
  米連邦準備制度理事会FRB)のパウエル議長は2月、
 MMTを「自国の通貨で借金するのは問題ないという考
 え方は間違っている」と語り・・
  米政府は支出を減らすか、収入を増やすべきだと主張
 した。
  ローレンス・サマーズ元米財務長官も、「極端な物価
 上昇を引き起こす。
  為替レートの崩壊を招くだろう」と指摘する。(以下略)
.
2019年、「隠れキリシタン」は、ウィキペディアでも下記
 のように説明されるが・・これ等は作られた虚構の状況
 である。
  従来からキリスト教徒の研究者によって、多くの研究
 がなされて来て・・
  その結果、キリスト教を美化するように、また、殉教
 とかの讃美などがなされて来て・・真実が曲げられ、公
 表がなされて来た。
  しかし、公平な立場で研究した事例を見ると・・その
 実態はまったく違う結果となる・・
  その例の一つが、中園茂生氏の研究・・
  中園氏は、平戸市生月町博物館の学芸員で・・その研
 究結果であるが・・
  その研究成果を発表した本「かくれキリシタンの起源」
 を見ると・・
  研究成果として従来語られた「迫害を逃れて辺鄙(へ
 んぴ)な離島や半島に住み着き、外部との接触を避け、
 貧しさの中で信仰を守った」というのは事実ではないと、
 作り上げられているとした。
  それを、各地域の生業・経済状況を歴史的にその経過
 をたどり、明らかにした・・と・・
  そして、キリシタン遺物についても、作り上げられて
 いて虚構だと・・検証している。
  また、次のような記述も見られる・・
  現在のキリスト教カトリックとの繋がりを思わせる「
 洗礼」や「オラショ」の祈りを唱える面がみられるが、
 まったく関係を感じさせない要素が多く・・
  また、地域の違いがあったりして、カトリックなら一
 定であるはずが、形態の異なる状況にある。
  また、仏教や神道に明確に帰依した信仰状態にある。
  キリスト教カトリックとは、根本的に違いが現れてい
 る・・と・・
  また、本「異端の歴史」には、ルターやイギリスの国
 教会も異端であって、キリスト教ではないとされている。
  因みに、ウィキペディアには、以下のように説明され
 ている・・
  『日本では、1549年にフランシスコ・ザビエルが来日
 して以降、キリスト教の布教がおこなわれて次第に改宗
 する者(キリシタン)が増えていった。
  しかし、江戸時代には、1614年に徳川家康による禁教
 令によってキリスト教信仰は禁止され、さらに1637年に
 起きた島原の乱の前後からは幕府による徹底したキリス
 ト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。
  当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、
 表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、ま
 た、1644年以降は国内にカトリックの司祭が一人もいな
 い状況ながらも、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々
 伝えていった(潜伏キリシタン)。
  「潜伏キリシタン」は、ごく小さな集落単位で秘密組
 織を作ってひそかに祈祷文「オラショ」を唱えて祈りを
 続け、慈母観音像を聖母マリアに見立てたり(今日、そ
 れらの観音像は「マリア観音」と呼ばれる)、聖像聖画
 やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘
 蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト教伝来当時
 にならったやり方で生まれた子に洗礼を授けるなどして
 信仰を守りつづけた(これらの信仰の形式は地方によっ
 て異なる。
.
2019年、映像分野は、三権分立が確立していない。
  権力が、一か所に集まることを防いだり、行き過ぎを
 止められなくなることを防いだりというシステムが確立
 していない。
  膨大な権力がNHKに集中している・・あたかも専制
 君主の如くになっている。
  NHK内部にあるチェック・システムは「お飾りにな
 っている」・・
  国民・視聴者が、NHKとは別の機関で審査ができる
 システムを作るべきである・・
  現状は、NHKは、好き勝手に、巨大な影響力を持っ
 ている放送媒体となっている・・
  専制君主的に任されているということの自覚も責任感
 もない。
  だから、自由に、NHKにとって都合の良いことが「
 ひたすらに行われている」・・
  それが見える形になっているという一つが、NHK職
 員の給料だ・・一般人の給料の「何と! 4倍となってい
 る」・・お手盛りでこんなことまでやっている。
  NHKに都合の悪いものは、勝手にNHKは廃棄処分
 をしている・・この様な権利まで持っている・・
  また、国会の委員会などの映像を、すべてをNHKは
 撮影して・・NHKの単独判断で、それを中国へ渡して
 いる・・これは、スパイ行為である・・
  また、NHKは、公開放送や講演会などの撮影は、放
 送開始前から、入口から入場する一般人の観覧者・参加
 者の映像を無断で撮影している・・
  個人情報の無視をしている・・
  これを、中国へ無断で提供していないのかが心配にな
 る・・
  この様な無断撮影行為は、NHKセンターの入口の入
 場者の撮影でも行っている・・日本人の顔映像を収集し
 ているのでは?と思える様な状況である・・
  これも、中国へ渡すの?とNHKへ問いたい・・
  NHKへ来た「NHKへのクレーム」は、1年で廃棄処
 分にしている・・置き場がないというのがその理由・・
 都合の悪いのは早く処分したいのだろう・・処分の権利
 がNHKにあるのだと言う・・
  NHKの権力は分散せよ・・
  NHKの放送映像は、国立国会図書館が印刷物媒体を
 保管する様に、NHKの別機関がその映像媒体のすべて
 を保管せよ・・そして、NHKを提訴する時の証拠映像
 も発行し、出せるようにしなさい!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)651E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年6月~1896年7月)

題:(増補版)651E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年6月~1896年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
 される。
.
1896年6月20日、鉄道会議規則を改正した(勅令第257号、同
 会議議員増員)
  鉄道会議は、日本において1892年6月21日から1949年6
 月1日まで、鉄道敷設法16条に定められた「鉄道会議規則」
 (明治25年勅令第51号)に基づいて、鉄道担当官庁(内
 務省→逓信省鉄道省運輸通信省運輸省)に設置さ
 れた諮問会議。
  鉄道敷設法で定められた鉄道建設の順序や鉄道公債の
 発行などについて主管大臣に諮問した。
  ただし、実際には、鉄道政策全体について諮問してい
 る。
  定数は議長1名・議員20名(ただし、臨時議員として複
 数名の追加が認められた)・幹事1名で構成されていた。
  初回会議は、1892年12月13日から20日まで開かれた。
  初代議長には、川上操六陸軍参謀次長が就任した。
.
1896年6月22日、李範晋(イ・ボムジン)が、駐米特命全権
 公使になった。
  李範晋は、1895年10月8日の閔妃暗殺事件(乙未事変
 をロシアと組んで実行していた(高宗王の妃である閔妃
 は殺害された)
  そしてまた、李範晋は、その約1ヶ月半の後、1895年11
 月28日の春生門事件の首謀者だった。
  (総理大臣の金弘集を暗殺しようと企てた事件・・未
 遂に終わった・・失敗の後、ロシア公使館へ逃げ込む・・
 そしてのち、ロシアの指示で忠清道で暴動を起こした)
  閔妃が殺害された後、金弘集内閣は近代化への改革を
 推し進めていた。
  (これは、日本の指導で改革が進められ、小学校の設
 立、郵便網の整備、種痘法の施行、太陽暦の採用、断髪
 令、軍制改革などが行われた)
  この改革に反発した抵抗が起きていた・・
  その様な中、1896年2月11日、高宗王は、虚言で煽られ
 てロシア公使館へ移り、軟禁状態となった(露館播遷)、
 金弘集は殺害され、乙未改革(いつびかいかく)は終わ
 った。
  この日の前日の1896年2月10日に、ロシアは、ソウルに
 水兵107名と大砲を入れるという武力誇示の強行策を行な
 っていた。
  この時も、親露派の李範晋は策動していた・・「ロシ
 ア公使館への逃げ込み(露館播遷)を成功させた中心人物」
 と美化表現がされている・・実際は、嘘と脅(おど)し
 の誘い出しの策謀行為だった・・
  これで、ロシア公使館内の傀儡政権が成立し、ロシア
 はこの後、多くの朝鮮利権を獲得する・・そして、親日
 派の改革派を排除し、粛清し、近代化と逆行をする事を
 始めた(旧守派の行為)・・
  しかし、ソウル以外の地域では、このソウルの政策は
 まったく受け入れられず・・暴徒が蜂起したりしている・・
  ソウルの政令が地方に伝わらない状態(無政府状態
 となっている。
  この様な展開の中、アメリカにも清国の権益の分け前
 を均等に得る権利があると主張するアメリカへ、李範晋
 は駐米特命全権公使となった。
  因みに、李範晋は、露館播遷の時に、法務大臣に就任
 していた。
  李範晋(1853年~1911年)は、大韓帝国の最初で最後
 の常駐ロシア公使(1899年)でもあった。
  日本とロシアが戦争状態になると、ロシア公使の李範
 晋への本国からの送金は途絶え・・生活に困窮した李範
 晋はロシアへ救済を求めた。
  李範晋の最後は、1911年1月13日に自殺をしている。
.
1896年6月25日、函樽鉄道会社の発起人が、東京府知事を通
 じて拓殖務大臣・逓信大臣へ会社創立認可の出願をした。
  1897年4月29日、拓殖務大臣から仮免状が下付された。
  北海道函館区平田文右衛門ほか200人は、函館鉄道を発
 起し、小樽・余市長万部・森・函館間の鉄道建設を請
 願した。
  北海道の開拓は着々と行われた。
  小樽~函館間の鉄道として、1895年発起された北海道
 鉄道は、渋沢栄一らが発起人に加わって、1896年、函樽
 鉄道と改称され、再請願された。
  1900年、認可されて、北海道鉄道と再改称し、設立さ
 れた。
  また、渋沢栄一は、1897年設立の函館馬車鉄道の株主
 にもなっている。
.
1896年7月1日、渋沢栄一、浅野總一郎らにより東洋汽船が
 創立された。
  東洋汽船創立発起人総会は、渋沢栄一が56歳の時、1896
 年4月25日に行われていた。
  栄一、浅野総一郎外三十二名ト共ニ、我邦ト独・米・
 露間ノ三大海外定期航路ヲ開設スルノ目的ヲ以テ、東洋
 汽船株式会社創立ヲ発起シ、是日発起人総会ニ於テ創立
 委員ニ選バレ、後、創立委員長トナル。
  マタ大東汽船ノ合併ニモ与ル。
  この頃、渋沢栄一は、日本郵船の重役でもあり、競合
 企業の設立を支援したことで、栄一を非難する声もあっ
 た・・それに対しての渋沢栄一の言葉・・
  ・・余ノ事業ノ為メニ奔走スルハ一念国家ノ利益ヲ計
 ルニアリ、故ニ成立ノ見込アル事業ナレハ、幾箇ニテモ
 成立セシムルコトニ尽力シ、国家経済ノ発達ヲ助ケント
 ス、銀行業ナリ、紡績業ナリ、其他幾多ノ商工業ニシテ、
 余ノ関係セルモノ皆尽ク然ラサルナシ、但成立ノ見込ナ
 クシテ、徒ニ競争ノミヲ事トスルモノニ至テハ、余ノ取
 ラサル所ナリ [後略]
  関連年表・・
  1908年4月22日、三菱造船所で、わが国初のタービン船
   の天洋丸(東洋汽船)が完成した。
   全長168米、全幅19米、1万3454瓲、平均速力約20.6
   節、船価約4千万円
   建造費は工賃のみを三菱が請け負い、材料は東洋汽
   船が英国から支給・・燃料に初めて重油を使用。
   初めて短波無線送受信装置を採用した。
   客室設備は特別室をはじめ、ロンジ・喫煙室・読書
   室・食堂など豪華を極めた。
   桑港(サンフランシスコ)航路に就航した。
.
1896年7月2日、川上音二郎が、東京神田に川上座を開場し
 た。
  川上音二郎1864年2月8日~1911年11月11日)は、筑
 前黒田藩(福岡藩)出身。
  「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、
 新派劇の創始者
  この新派劇は書生芝居、壮士芝居と言われ、やがて新
 派となり、旧劇(歌舞伎)と人気を競った。
  1895年に、歌舞伎座の舞台で「威海衛陥落」を上演し
 た。
  歌舞伎の殿堂に素人あがりの役者が出るのは異例のこ
 とだった。
  劇通の人々を驚かせ、市川團十郎は、川上が歌舞伎座
 の桧舞台を踏んだことに激怒し、舞台を削り直させたと
 いう。
  1895年末に、泉鏡花の小説を舞台化した「滝の白糸」
 を浅草座で上演した。
  この作品は、新派劇の代表的な演目となった。
  そして、1896年に、東京市神田区に川上座を開場する。
.
1896年7月3日、台湾総督府鉄道局告示第2号で「鉄道規則」
 を制定し、一般運輸営業に適用した。
  運用は台湾鉄道輸送規則。
  台湾鉄道会社を、1896年5月に発起し、南北縦貫鉄道建
 設を請願し、政府もこれを許可した。
  しかし、株式の募集は進展しなかった。
  総督府後藤新平民政長官は、重要事業の鉄道建設は、
 民間会社では不可能と判断した。
  そこで、解決策として公債を募集したりして、積極的
 に政策を進めた。
.
1896年7月5日、東海道線向日町駅吹田駅間が複線で開
 通した・・ますます発展する東海道線だった・・
  この頃の東海道線の動き・・
  1895年10月、神戸駅から西へ伸びる山陽鉄道(現在の
   山陽本線)との直通運転が始まった。
  1896年、新橋駅~神戸駅間の急行列車の運行が開始さ
   れた。
  1900年、寝台車の連結が開始された。
  1901年、食堂車の連結が開始された。
  1906年、最急行が登場した。
  1909年、新橋駅~神戸駅間が12時間50分にまで短縮。
  1912年、最急行が特別急行(特急)に変更され、新橋
   駅~山陽本線下関駅間で運行された。
.
1896年7月5日、日本初の電力会社・東京電灯が営業を開始
 した。
  1896年、東京電灯の浅草発電所で、国産初の発電機を
 使用。
  電気事業取締規則が公布された(逓信省令第5号)
  電気事業の創業当初は、電気工作物に対する保安取締
 りが主たる行政だった。
  電気事業者の監督行政が全国統一化される。
  経緯・・
  1887年、東京電灯が第二電灯局を建設し、日本初の火
   力発電所を誕生させ(出力25kW)、家庭配電(210V
   直流)を開始した。
  1890年、東京電灯に、警視庁が電柱広告を許可し、電
   柱広告が始まる。
  1892年、東京電灯が、電灯1万灯祝典を挙行した。
   (開設当時の電灯数130余灯が5年あまりで1万灯を越
   えた)
  1895年、東京電灯・浅草発電所の操業が開始した。
   このとき使用したドイツ、AEG製の発電機が50ヘ
   ルツであった・・これで東日本標準が50ヘルツとな
   った。
  1896年、東京電灯・浅草発電所で国産初の発電機を使
   用し、電気事業取締規則が制定され、電気事業者の
   監督行政が全国統一化した。
   この頃の電気事業者は、火力発電23カ所、水力発電
   7ヶ所、水・火力併用3ヶ所、電灯数12万余。
.
  (今日の言葉)
.
  題:海洋圧迫戦略・・
    アメリカは、中国の接近阻止・領域拒否(A2/AD)戦略遂行の
   初動である第1列島線への短期高烈度の戦いを跳ね除け、
   中国軍に勝つことを決心した・・
    そして、その対中国戦略と作戦を完結させた。
    また、アメリカのトランプ政権は、日本が攻撃されれば
   アメリカは生命や財産をかけて、いかなる犠牲を払っても
   日本を守るとしている。
.
1815年、イギリスが、英仏戦争のとき、軍票を初めて発行
 した。
  軍票・・どこの国でもやったことに軍票というものが
 ある・・外国の戦地で、その軍票を刷って必要なものを
 調達した。
  今・現代でも、ダムが欲しいなら自国通貨を刷って造
 るという方法がある・・また、道路が欲しなら自国通貨
 を刷ればよいのだ・・自国の企業に、その仕事を発注す
 ればよい。
  わざわざ、裏付けのない中国・人民元を、一帯一路の
 中国に頭を下げて借りに行くことはない・・その様な行
 為は止めた方が良い
  自国の港が、担保で盗られるリスクがある。
  (参考)軍票:ぐんぴょう、軍用手票、戦争時におい
     て、占領地もしくは勢力下にて、軍隊が現地か
     らの物資調達、及び、その他の支払いのために
     発行する紙幣で、政府紙幣の一種と解された(
     こともある)。
      最終的に、その軍隊が所属する政府によって
     軍票所持者に対し債務支払いを行なう必要があ
     る。
.
1905年、クナップは、この年、通貨とは「法による創造物」
 であり、商品によるものではないと論じた・・MMT理
 論の始まり・・
  (参考)クナップ:ゲオルク・フリードリヒ・クナッ
     プ
  クナップは、国家は単なる紙としての通貨を創造する
 ことができ・・「その国家の納税においてこの通貨が受
 け入れられる限り」・・これを法定通貨として商品と交
 換可能な通貨にすることができる・・と論じた・・
  そして、従来の考え方を金属主義と名付けた。
  このクナップらの考え方から、MMT(現代貨幣理論)
 がまとめ上げられた。
  MMT(現代貨幣理論)、あるいは、新表券主義とは、
 現代経済の貨幣が借用書により成立していることを捉え
 て・・
  政府は、税収に制約される必要はなく、任意の自国通
 貨建て国債発行により財政支出量を調整することで、望
 ましいインフレレベルを目指す経済政策を行うことを理
 論の中心とした。
  これまで、一般的に行われて来た理論、また、多くの
 経済理論では、政府の財政赤字が拡大すれば、同時に、
 金利上昇と景気悪化を招くとしていた・・
  それ故に、政府の国債発行の拡大は望ましくないとし
 て来た・・その主眼を財政均衡主義に置いて主張されて
 きた。
  しかし、その一方で、MMTでは、財政赤字拡大で景
 気悪化を招くことはないとしていて・・
  ただ、マネーサプライの増加によるインフレ圧力がか
 かるのみだとした。
  この対立は、多くの議論を呼んで来ていた。
  また、政府は、将来の支払いに対して無制限的な支払
 い能力を有していることから、政府の債務超過による破
 綻は起こりえない・・
  赤字国債発行の限度はインフレ率によって示される・・
 としている。
.
2007年、麻生太郎氏(現:副首相、当時:外務大臣)が、
 「自由と繁栄の弧」という素晴らしい構想を説いた。
  これは、日本から始まって、カンボジアラオス、ベ
 トナムといった東南アジアの国々を通り、
  さらには、中央アジア諸国やグルジア、アゼルバイジ
 ャンといったコーカサス地方の国々を経由して、
  トルコ、中欧、東欧からバルト三国までぐるっと延び
 る月(ムーン)のような形をした一帯を指している。
  これらの国々は、皆、経済がうまく行って、それなり
 に反映している。
  この各国と共通価値観を共有する。
  この共通の価値観で、一緒にやろうと話しかけた。
  麻生大臣は、大成功を収めた。
  この時、『中国やロシアは、この動きに大変脅威に思
 った』。
  軍拡を進める国を、平和の鎖が取り囲んだ形になった
 からだった。
  この様な価値観は、まったく持っていなかったので、
 対抗する価値観を築こうともしなかった。
  これは、ものすごい思想攻勢だった。
  日本の外交の王道は、ここにあった。
  今・現在、中国は、この価値に気付き、この凄さに気
 付き、この素晴らしさに気付き、『「一帯一路」構想を
 ぶち上げた』。
  中国の習近平総書記は、2013年9月7日になって、カザ
 フスタンのナザルバエフ大学で一帯一路構想を初めて演
 説した。
  そして、続けて、その約1ヶ月後、インドネシア国会で、
 アジアインフラ投資銀行(AIIB)を演説した。
  麻生太郎氏が構想を説いてから、5年の後のことだった。
.
2018年、アメリカのトランプ政権は、レパトリ減税を行な
 った。
  これは、『海外の利益や余剰金をアメリカに引き上げ
 る目的』があり・・従来の35パーセントを15.5パーセン
 トに引き下げた。
  中国の経済成長を促してきた「アメリカ資本の対中投
 資を中国から引き揚げさせる」ためでもある。
  通年の数倍の資金がアメリカへ戻った。
  また、今まで海外で発生した利益や余剰金は、翌年に
 繰り越すと課税されなかったが、トランプ政権は、この
 制度を廃止した。
  しかし、日本は、財務省が「プライマリーバランス
 字化目標」という『狂った目標』に固執し、日本はデフ
 レ脱却に『必須の政府支出拡大に踏み出せない』でいる・・
 そして、亡国の道を歩んでいる・・
  そして、減税どころか、消費税増税をしようさえして
 いる。
.
2019年、MMT(現代貨幣理論)という経済理論が脚光を
 浴びている・・
  https://www.youtube.com/watch?v=CMLYpWlQp1E
  注目される理由は・・
  MMTは、「自国通貨建てで財政赤字を拡大させれば
 政府は簡単に経済の長期停滞から脱出できる」としてい
 る・・
  経済学者の重鎮たちは批判をしている・・
  その批判は、財政支出の拡大によって金利が急騰し、
 民間投資が阻害される(クラウディングアウト)という
 もの・・
  また、財政支出を無限に拡大させるとハイパー・イン
 フレになると言っている・・
  これに対し、MMTを主張する人たちは・・
  クラウディングアウト懸念に対して、「中央銀行
 固定(ゼロ)金利政策を採用し、財政赤字をそのままフ
 ァイナンスすれば、財政赤字の増加分、そのまま資金供
 給が増加するので、民間投資が押し出されることはない
 (また、中央銀行が、ゼロ金利政策を長期間維持するこ
 とが予想できれば、将来の政策金利の予想で決まる長期
 金利も低位安定するはずである)と・・
  むしろ、政府が、自らの負債である国債や通貨の発行
 量を増やしてこなかったことが、世の中の金回りを悪く
 して・・
  その結果として、長期的な景気低迷が続いていると・・
  MMT推進派の言い分は・・
  財政再建一辺倒で、消費税などの税金を上げて、消費
 を縮小させ、経済を停滞させるより・・
  政府の負債拡大によって、通貨の流通速度を上げ、民
 間部門にも新たな需要を『積極的に生み出す』ことが良
 いのだ・・と・・
  また、インフレ発生現象は、ある特定の部門の資金需
 要のバランスが崩れることに起こることに限られている
 と・・
  東洋経済ONLINEには以下の記述がある・・
  マネーストックが物価に影響するという考えに基づい
 て、日本だけでなく主要国では政府が国債を発行する際
 に、中央銀行が直接引き受けを行うことは原則として禁
 止されており、市中で消化している。
  これは、政府が国債を発行することでマネーストック
 が増加することを回避するためだ。
  新規に発行される国債を民間金融機関が引き受けると、
 国債発行額分だけ金融機関の日銀当座預金が減少するの
 で、多くの場合、日銀はこれを相殺するような操作を行
 い、金利マネーストックが大きく変動しないようにし
 ている。
  しかし、マネーストックの変化がインフレを引き起こ
 すわけではないと考えているMMTでは、政府が発行す
 る国債中央銀行が直接引き受けてマネーストックが増
 加しても、インフレの原因にはならないと考える。
  ミッチェル教授は、政府の財政赤字を通貨発行で賄う
 (明示的財政ファイナンス)ことが国債発行で賄うより
 もインフレ的だということはない、と述べている。
  インフレが起きるかどうかは支出の規模のみに依存し
 ており、総需要の成長速度が生産力の伸びを超えない限
 りハイパー・インフレーションの危険はないと主張して
 いる。
  日本では、1990年以降に、マネーストックが大幅に増
 加しているにも関わらず、名目GDPはわずかしか増加
 していない。
  古典派のような単純な貨幣数量説が成立していないの
 は明らかだ。
  日本は、ハイパーインフレどころか、前年比2%の消費
 者物価上昇すら視野に入ってこない状況なので、当面は
 財政赤字の継続による政府債務残高の増加が高インフレ
 をもたらすという心配は不要に見える。
  しかし、財政赤字が続くと民間部門、特に、家計の純
 金融資産が増加していくので、いずれ状況は大きく変わ
 るだろう。
  金融資産とは誰かの債務であり、MMTが強調する部
 門別のフローとストックの会計的な関係で分かるように、
 政府が財政赤字を続けると民間部門の金融資産は増加し
 ていく。
  1980年度末から2018年度末までの間に、日本の家計は
 純金融資産の名目GDP比を95.6%から279.5%にまで高
 めてきた。
  家計が金融資産を増やそうとしているときに、誰も債
 務を増やそうとしなければ家計は目的を達することがで
 きないので、さらに消費支出を切り詰めて金融資産を増
 やそうとする。
  このため経済は需要不足となって低迷する。
  だが、政府が減税するなり支出を増やすなりして債務
 を増やせば、GDPが高い水準に戻り均衡する。
  政府が提供する金融資産は通常は国債だが、MMTで
 は政府と中央銀行を一体と考えるので通貨(実際には民
 間銀行が日銀に保有する当座預金)だという違いがある。
  だが、狙っている経済効果には大差がない。
  金融緩和で株価を上昇させて家計金融資産を増やすと
 いうのも、家計の貯蓄意欲を満たすための政策と考えら
 れるだろう。
  こうした政策でしばらくの間は経済はフローの均衡を
 実現することができるが、時間が経てばストックにひず
 みがたまり、どこかで家計や企業の行動が大きく変化す
 る恐れが大きい。
  米国のITバブルや、サブプライムローンによる住宅
 バブルも、金融緩和で株価や住宅価格を上昇させて家計
 資産を増やすことにより、消費の拡大を維持しようとす
 る政策の結果起きたことだ。
  景気はしばらく好調だったが、資産価格の上昇を維持
 できなくなっていずれもバブルが崩壊し、経済が大混乱
 に陥った。
  資産価格を上昇させるのに比べれば、財政赤字を続け
 る方法は家計金融資産の増加が緩やかな分、持続性が高
 いだろう。
  しかし、家計貯蓄が黒字のまま維持されるとは限らな
 い。
  貯蓄を増やすためには消費支出を可処分所得以下に維
 持し続けなくてはならないが、現在積み上げられている
 貯蓄の多くは、将来の老後生活に使うなどの目的で蓄え
 られているものだ。
  団塊世代が完全に引退して、もっと高齢になって医療
 や介護で貯蓄を取り崩すようになると、日本の家計部門
 全体でも、毎年の所得に比べて金融資産が積み上がる状
 態が止まり、取り崩しが進んでいくと考えられる。
  日本の場合には人口の高齢化と減少が進むので、子孫
 のために残す資産は減少し、運用機会を求めて円建て資
 産から外貨建て資産へのシフトが今よりも活発になるだ
 ろう。
  円高のトレンドが弱まり円安に動き出せば、海外への
 資本逃避が加速するおそれもある。
  急速な円安が起こって輸入物価の上昇から消費者物価
 上昇率が大幅に高まっても、政府が増税や歳出削減を行
 うには国会の審議を経なくてはならず、対応が後手に回
 る恐れが大きい。
  単純化すると、MMTでは上図の青い線のようにGD
 Pギャップがプラスであれば物価が上昇し、マイナスで
 あれば物価が下落するという関係を想定していることに
 なる。
  インフレが行きすぎないようにするには、物価上昇率
 が高まったら、政府支出を削減したり増税したりしてG
 DPギャップを縮小すれば、物価上昇率は低下すればよ
 いことになっている。
  しかし、物価の動きはそれほど単純ではない。
  物価上昇率の低下が続いたデフレの状況ではGDPギ
 ャップと物価上昇率との関係は、赤い線のようにGDP
 ギャップがかなり大きなプラス(需要超過)にならない
 と物価上昇率がプラスにならない。
  逆に、過去に物価上昇が続いていたインフレの場合に
 は、黄緑色の線のようにGDPギャップがマイナス(供
 給超過)になっても物価上昇がしばらく続くというよう
 に、過去の物価状況の履歴が残ると考えられている(履
 歴効果)。
  このため、現在の日本のようにデフレ心理が定着して
 いる状況では、GDPギャップをかなり大きなプラスに
 しないと物価上昇率をプラスにできない。
  だが、物価が上昇するようになり、上昇率が高くなり
 すぎた場合、これを適切な水準に引き戻すためには、黄
 緑色のカーブが示すように厳しい財政引き締めが必要に
 なり、低所得層を中心に生活に悪影響が出るだろう。
  世界経済は1970年代から1980年代にかけて、失業率が
 高いにも関わらず物価上昇率が高いというスタグフレー
 ションに悩まされた。
  スタグフレーションでは、GDPギャップがプラスに
 なって実際の需要が経済の供給力を超えるよりも前に、
 物価上昇率が高まってしまう。
  ミッチェルらのマクロ経済学の教科書にもスタグフレ
 ーションの歴史の記述はあるが、どのような政策を行え
 ばよいと考えているのか明確な記述は見当たらなかった。
  状況認知の遅れ、判断の誤り、合意形成の遅れなど、
 最適な政策が最適なタイミングで実施できない可能性は
 歴史を見れば高い。
  経済の動きは、政府が自在に微調整できるというもの
 ではない。
  スタグフレーションへの対処法などわかっていないこ
 とも多いことを考えれば、政府がインフレをうまくコン
 トロールできるというのは、信用しすぎというものでは
 ないか。
  (参考)安倍総理は、国会での質問に答えて、MMT
     (現代金融理論)の提唱する政策を行っている
     わけではない、と述べたと報道されている。
.
2019年、アメリカの通貨発行が怪しいと言う意見・・
  現在の金融危機の根本は、アメリ中央銀行であるF
 RBの強い独立性にある。
  強い独立性というよりも実際はこれは政府機関ではな
 く、民間資本によって運営されている銀行である。
  収支報告もなく、実態は闇の中だ。
  いま中国経済の不安が喧伝されているが、中国金融が
 アメリカと違うところは、中国の中央銀行である中国人
 民銀行は、ちゃんとした中国政府の管理下にあるという
 ことだ。
  歴史的にも、通貨発行権は本来国家のもとにある。
  国家管理を離れ、民間銀行によって恣意的に通貨を発
 行しているのが、アメリカの中央銀行であるFRBであ
 る。
  中国経済を不安視するマスコミは多いが、アメリカ経
 済の金融不安、特に、通貨発行権を疑問視するマスコミ
 は少ない。
  https://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/fbb31a794dd34556ffe301c0147f463b
  (参考意見)米国では政府が直接、通貨を発行するこ
     とのメリットを評価する声はいまなお、根強い。
      政治権力者にとっては、政府が直接、通貨発
     行権を掌握できれば、ウォール街から自由にな
     れる。
      発券銀行である中国人民銀行は、軍と行政府
     同様、党の支配下に置かれている。
      人民銀行から資金供給を受ける国有商業銀行
     も党支配下にある。
      つまり、人民銀行を中心とする金融システム
     全体が党によってコントロールされる。
      通貨の発行と配分権は、党指導者が保有して
     いるのだから、人民元はその本質において、政
     府紙幣である。
      見かけは日米欧のような中央銀行制度をとっ
     ているのだから、人民元はグリーンバックのよ
     うに国際金融資本から憎まれることもない。
      世界の大手金融機関は、人民元業務を新たな
     収益源にしようと躍起になっている。
  (参考情報)中国も国際経済上の要請によって金融改
     革すなわち金融門戸開放を行い、外国銀行が人
     民元口座を扱えるようになった。
      銀行は、銀行であるかぎり顧客の預金を元手
     に『信用創造を行うことができる』。
      外国銀行が人民元を預かるということは、外
     国銀行が人民元信用創造を行うことができる、
     つまり、『人民元という中国の通貨を発行する
     ことができる』ことを意味する。
      一人の中国人がチェース・マンハッタン銀行
     の北京支店に人民元口座を開設し、1万元預け
     たとする。
      チェース・マンハッタン銀行はそれを準備金
     として、中国の企業が人民元を貸してほしいと
     言えば、約100万元まで融資することができる。
      その手続きはいたって簡単。
      その企業の銀行通帳に「1000000RNB」と印
     刷するだけである(信用創造
      「外国の銀行も人民元を発行できる」こと・・
     その額が大きくなれば「通貨主権」そして「金
     融主権」への影響力も大きくなる。
      宋鴻兵氏は、米国ワシントンのアメリカン大
     学で修士号を取得。
      様々な職を経て、2002年から2007年まではフ
     ァニーメイとフレディマックコンサルタント
     を務めた経歴を持つ。
      両者はサブプライム・ローン問題のまさに当
     事者であり、宋氏はそうした米国の金融証券業
     界に潜入し、その悪辣な詐欺的手法をつぶさに
     観察、分析した。
      その後、中国に戻り2008年より環球財経研究
     院院長である。
  http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241276
  (参考意見)仮想通貨は、各国が通貨発行権によって
     コントロールできないお金である。
      すなわち、皆がビットコインで取引をすれば
     通貨の供給をコントロールする事によって景気
     をコントロールする事ができなくなる。
      両替も不要。
      投機的資金流入で乱高下。
      新たなお金になるか、単なる投機商品に留ま
     るか・・
      税金の支払いには利用できない。
      地方自治体がこの仕組みで資金調達が可能か?
  (参考)産経新聞・・抜粋・・
      2010年、中国は、国内総生産(GDP)規模
     で日本を抜き去った。
      人民元資金供給こそは中国の軍拡の原動力。
      リーマンショック後、人民銀行による人民元
     資金供給量がドル換算で1兆ドル増えるごとに、
     軍事費は約500億ドル増えた。
      中国は、米国の量的緩和政策に伴うドル資金
     増加量に見合う分、通貨を膨張させてきた。
      それに合わせて軍事にカネをつぎ込んだ。
      毛沢東は「銃口から権力が生まれる」と言っ
     たが、カネから銃口が生まれた。 
.
2019年7月17日、文政権(韓国)の日本批判は筋違いだ。
  この日の読売新聞が、標記の社説を報じた・・
  以下、その抜粋・概要・・
  「論点をすり替えて、日本非難に終始する韓国政府の
 姿勢は受け入れられない。
  韓国が、自国の輸出管理体制を検証し、見直すことが
 先決だ。
  日本政府が、軍事転用の恐れのある3品目の韓国向け輸
 出を厳格化した(ホワイト国指定を止めた・・優遇する
 ことを止め普通の国並みにした)ことに、韓国が反発し
 ている。
  (参考)ホワイト国とは・・大量破壊兵器等に関する
     条約に加盟し、輸出管理レジームに全て参加し、
     キャッチオール制度を導入している国について
     は、これらの国から大量破壊兵器の拡散が行わ
     れるおそれがないことが明白であり、俗称でホ
     ワイト国と呼んでいる。
  (参考)キャッチオール規制:輸出に当たり、製品、
     材料、技術(設計図、ノウハウなど)が相手国に
     よって大量破壊兵器(WMD)やミサイルの開発、
     生産に利用される可能性がある場合に、貿易管
     理を担当する政府機関(日本は経済産業省)に輸
     出許可の申請を行う制度。
  日本は、手続き簡略化の優遇を受けられる「ホワイト
 国」からも韓国を除外する方針。
  日本が問題にしているのは、韓国の輸出管理の緩さで
 ある。(中略)
  通常兵器にも使われる物資の輸出を制限する「キャッ
 チオール規制」が整っていない。
  日韓当局者の幹部協議は、2017年に文在寅政権が発足
 してから開かれていない。
  不正輸出の懸念が(韓国)にある以上、日本が手続き
 を厳しくするのはやむを得ない。
  文大統領は、日本側に一方的に非があると主張し、「
 日本経済に、より大きな被害が生じることを警告してお
 く」と批判している。
  日本の措置を政治的、経済的な動機と決めつけ、自ら
 事態改善に動こうとしない。
  世界の主要国は、民生品であっても兵器開発に利用さ
 れる可能性がある戦略物資の輸出には目を光らせてきた。
  日本も、2015年以降、経済産業省行政処分を下した
 違法輸出を9件公表している。
  この中には、兵庫県の企業が3500キログラム超の炭素
 繊維を、韓国を経由して中国に無許可で輸出していた案
 件も含まれている。
  また、韓国政府は、2015年~2019年3月に戦略物資の違
 法輸出を156件も摘発したという(多すぎる)。
  北朝鮮の友好国であるイランやシリアに化学物質など
 が輸出されていた。
  韓国政府は、この様な実態なのに輸出管理が適正に行
 われていると言う・・違法輸出も増えている。
  EU(欧州連合)も韓国をホワイト国に指定していな
 い・・韓国向け輸出を、他のアジア諸国向けと同様な扱
 いで・・厳しい審査としている。
  (韓国の実態の緩さから)日本がEUと同じような措
 置をすることが適正だとした・・それを不当だと一方的
 に言うのは理解に苦しむ。(中略)
  日本政府は今回輸出手続きを厳しくした3品目で(韓国
 の)不適切な事案を確認したと発表している。
.
2019年、北朝鮮寄りとなった韓国の現政権であるが・・
  ・・というより、北朝鮮との一体化を目指す韓国の様
 相・・
  事大主義の韓国は、中国の顔色ばかり見ている・・
  その中国に対する・・アメリカの対中国の新戦略は・・
 『日本・アメリカ・台湾の防衛を一体化させる』という
 方針に変わった。
  アメリカは、従来のエアシーバトルに加え、海洋圧迫
 戦略の合体により『アメリカは中国に勝つことを決定し
 た』。
  (参考)統合エア・シー・バトル構想・・
      米国防総省は、2010年2月に議会に提出した
     QDR2010において、現在行われているテロと
     の戦いを最優先課題に位置付ける一方で、「将
     来において最も蓋然性が高く、死活的に重要な
     脅威に備える」ことを戦略目標として明示した。
      統合エア・シー・バトル構想は、その戦略目
     標を達成するための一手段として開発される。
      米国防総省が認識する「将来の脅威」とは・・
      それは、「戦力投射能力及び侵攻に対する抑
     止、並びに同盟国等の救援のための行動に対す
     る潜在的脅威」である。
      これらは、中国やイランなどが身に付けつつ
     ある「アクセス阻止」及び「領域拒否」の能力
     (戦略)によってもたらされる。
     「アクセス阻止」とは、前方展開基地などの固
     定地域や軍事目標への接近(戦域への戦力の展
     開、利用)を阻止することであり、「領域拒否」
     は、特定の地域における行動の自由を制限する
     ことを狙いとし、それらの対象領域は、海、空、
     陸、宇宙及びサイバー空間の全次元にわたる。
      なかでも、米国防総省が脅威の主たる対象と
     みているのは、中国のアクセス阻止/領域拒否
     の能力である。
      米国は、中国を脅威であるとは公言していな
     いが、QDR等の戦略文書や「中国の軍事力」
     報告書等を分析すれば、国防総省が脅威の主対
     象としているのは中国であることが見て取れる。
  (参考)海洋圧迫戦略・・
      米国は、中国の接近阻止・領域拒否(A2/AD)
     戦略遂行の初動である第1列島線への短期高烈
     度の戦いを跳ね除け、中国軍に勝つことを決心
     し、その対中戦略・作戦をほぼ完結させた。
      米国の戦略予算評価局(CSBA)が、2019年5月
     に海洋圧迫戦略(MPS)を発表した。
      MPSは、エアシーバトル(ASB)では曖昧であ
     った部分を補強し、対中国戦略を事実上完結さ
     せたもの・・
      ASBをはじめとするCSBA の考え方は国防省
     戦略そのものになっていることから、間違いな
     く米国の戦略の主要部分となり、これで米国が
     2010年から検討を進めていたASBが10年がかりで、
     ついに完成したことになる。
      従来のASBの海空軍を主体とした「動的戦力」
     と今回のMPS の陸軍・海兵隊を主体とした地上
     発射かつ機動型の、いわゆる「静的戦力」を組
     み合わせ、その上でそれぞれの領域を大胆に跨
     ぎながら、統合作戦で戦うというものである。
      これは、防勢的ではあるものの、自衛隊が2009
     年以来、具体化してきた南西諸島防衛の作戦・
     戦略そのものである。
      わが国では、米国が当初に打ち出したASBに目
     を奪われるあまり、いくら第1列島線に地上発
     射型ミサイルを配置する意義を陸自関係者が説
     いても、軽んじられてきたが、米国からの逆輸
     入によってその重要性が認識され、日本のマル
     チドメイン(領域横断)の戦いが完成するなら、
     望ましい方向への戦略転換として歓迎しなけれ
     ばならない。
      海洋圧迫戦略(説明ー2)
      この戦略の目的は、西太平洋における中国の
     奇襲的侵攻による既成事実化を排除し、軍事侵
     攻の試みは失敗すると中国の指導者に思わせる
     こと(INF条約廃棄に対応)
      この戦略は拒否的抑止力で、第1列島線に沿
     って精密打撃ネットワークを構築するというも
     ので、①海空軍・電子戦などを後ろ盾に、②第
     1列島線沿いに米国、同盟国の対艦・対空・電
     子戦の部隊を配置するとともに、③東シナ海
     どの内部で作戦する潜水艦・無人艇・無人ステ
     ルス爆撃機で構成するInside-Out Defense(イン
     サイドアップ・ディフェンス)作戦構想である。
      中国のA2/AD戦略を逆手に取るもので、
     主として海上目標に対して、地対艦ミサイルを
     発射する陸軍・海兵隊が中心(同盟国・友好国
     と一体化)
      米軍戦略として初めて南・東シナ海と共に台
     湾を明記した。
.
2019年、アメリカのトランプ政権は、日本が攻撃されれば
 アメリカは生命や財産をかけて、いかなる犠牲を払って
 も日本を守るとしている。
  また、日本の生命線の石油を、ホルムズ海峡を通って
 得ているが・・このホルムズ海峡を守っているのもアメ
 リカであり、日本はアメリカに頼り切っている。
  この様な日本の存立にかかわる時、日本は、当然、ア
 メリカの支援に駆け付けるべきだ。
.
2019年、米国国防権限法2019(NDAA2019)
  日本は、中国のわずかな発注の新幹線の仕事をした時、
 この重要な日本の技術は、中国に盗まれた。
  それ以後、中国は、この日本の重要な技術を使って、
 世界の新幹線の仕事を受注している。
  インドネシア新幹線が、日本の受注がほとんど決まっ
 ている時、中国の妨害工事費で受注が出来なかったこと
 などが代表例である。
  また、中国国内に新幹線網を構築して、軍事上の重要
 な措置を構築している。
  今、米国国防権限法2019(NDAA2019)は、これま
 での軍事技術に加え、『重要なインフラや先端技術』も、
 安全保障上の重要な問題だとした。
  また、この次の案であるNDDA2020では、中国軍と
 のかかわりが疑われる人物や企業・団体などと支援を受
 けている人物や企業・団体などリストの作成を指示して
 いる。
  同盟国(日本など)に対しても同調を求めている。
.
2025年、中国は、世界のテクノロジーの最先端国になると
 している。
  「中国聖像2025年」を掲げ、世界経済を支配したい
 としている。
.
2029年、AIが、人間の能力を超越する。
  (参考)AI:人間が持っている、認識や推論などの
     能力をコンピューターでも可能にするための技
     術の総称・・人工知能とも呼ぶ。
      AIを応用したシステムには、専門家の知識
     をデータベース化して問題解決に利用するエキ
     スパートシステムなどの例がある。
      また、人間の知能にできるだけ近い機械を作
     ろうとする研究の他に、人間が知能を使ってす
     ることを機械にさせようという研究の、大きく
     分けて2系統のトレンドが存在する。
      生物の遺伝原理を用いる遺伝アルゴリズム
     専門家の知見を蓄積するエキスパートシステム
     音声認識、画像認識、感性処理、ゲーム、自然
     言語処理、推論、探索、知識表現、データマイ
     ニング、ニューラルネット、そして、ロボット
     など、多彩な研究テーマの総体として疑似知能
     が模索されている。
  アメリカのAI研究者のレイ・カーツワイルは、人工
 知能の飛躍的な発展によって、AIと人間が一体化し「
 ポスト・ヒューマン」が誕生すると言う。
  彼は、2029年には、「AIが、人間の能力を超越する」
 と言い・・
  2045年には、「技術的特異点に至り、ポスト・ヒュー
 マンが誕生する」と言っている。
  しかし、人工知能には、「自分を振り返ることが出来
 ないという欠落点がある」と反論を言う人も居る。
  『人工知能は、自己認識をすることが出来ない』と指
 摘する。
  それは、あくまでも機械に過ぎない・・と言う。
.
2049年、中国の習近平主席は「中国の軍事と経済の世界一」
 達成を、この年を目標に掲げている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  中国・人民元は通貨覇権を狙っている。
  アメリカ・ドルへの挑戦を始めた。
  しかし、実態はただの紙切れ。
  その裏付けを保証するものは何もない。
  それは、実体のない通貨=人民元の身分不相応の振る
 舞い。
  何故? こんな大間違いが起きたのか?
  その中国・人民元の振る舞いの初めには、ウォール街
 の行なった間違いがあった。
  ウォール街は、中国を一時的に大いに助け、そして、
 援助し、そして、ウォールも大いに儲けた。
  アメリカの歴代政権も、「それはウィンウィンだ」と
 勘違いして、大いに進めた。
  そして、アジア・・
  アジアに大きな経済的影響力を持つ華僑・・
  この華僑と中国を刺戟させ、心身を興奮させないよう
 にという政策がとられ、固執し、続けられた。
  しかし、今、この間違いがとんでもないことになると、
 看過できない、見過ごせないと、何とかしなければとい
 う行動が・・とられ始めて来た。
  トランプ・アメリカ大統領は、中国・習近平のアキレ
 ス腱を撞く(つく)行動をとり始めた。
  その目標は、当然、「紙きれの中国・人民元に通貨覇
 権を絶対に握らせない」というところにある。
  高関税に始まり、金融戦争が始まる。
  例え、通商が犠牲になっても「国家の安全保障が大切
 だ」という理念がある。
  中国を甘やかせた最大のポイントは、人民元が変動相
 場制が通常なのに、その状態になっていない。
  中国・人民元は変動相場制に移行させるべき・・
  (日本は、堂々と、変動相場制に移行したが)・・こ
 の図体ばかり大きい中国は、変動相場制が恐怖なので、
 逃げ回ってばかりいた・・
  アメリカの保護下に居た・・そのアメリカを、身分不
 相応に食い始めた。
  今、中国は、ドルが枯渇している・・外貨準備も激減
 している・・資金が中国から逃げ、ますます、余計に、
 中国・人民元の裏付けが無くなっている・・
  それに、不動産バブルが崩壊・・空室ばかり・・株安
 も起きるという災禍・わざわいの中国となっている。
  直接投資が激減するだろう・・貿易も赤字となるだろ
 う・・もう中国の時代は終わった・・ASEANだ。
  異常な二桁の軍拡で作られた景気・・そして、人民元
 増発でも景気を煽るという嘘・・
  知的財産権無視で次世代技術を盗取し、軍事などへ転
 用している。
  アメリカのトランプ政権は、ファーウェイやZTEを
 阻止し、スパイ摘発をしている・・
  また、企業買収を止めさせ、拠点買収を阻止している。
  もう中国は、変動相場制へ移行させねばならない・・
 そんな最恵国待遇の特待席には、いつまでも置いておけない。
  有頂天でやっている「一帯一路」はしぼんで行く。
  世界の工場と言われた中国の生産拠点も「存在意義が
 無くなった」・・獅子身中の虫に成り下がった。
  中国の政治形態が変わり、真からの自由な経済社会に
 ならないのなら・・消えゆくのみ・・
  AIの熾烈な戦いが繰り広げられる戦国時代の後に、
 その様な社会が来る。
  少数の者が牛耳る監視社会が、多くの奴隷的農民層を
 使うという一時代前の形態の中国社会が生き残れるはず
 がない・・

(増補版)650E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年6月~1896年6月)

題:(増補版)650E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年6月~1896年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年6月4日、ヘンリー・フォードが初の四輪自動車の試
 作に成功し、この日に試運転をした。
  紀元前4000年、人類が「ころ」から車輪を発明した。
  1250年、哲学者のR.ベーコンが、「いつの日か、馬な
   どに引かせている車が、自身の力で走る車が可能と
   なろう」と言った。
  15世紀~16世紀、レオナルド・ダ・ビンチの新発明の
   意想図の中に、木をしなわせて力を蓄え、それを歯
   車で取り出し、車輪を回して走る自走車がある。
  1569年、オランダのシモン・ステビンが、2本のマス
   トの帆を動力源とした自走車を作った・・28人を乗
   せて海岸の砂上を時速24キロメートルで走った。
  1648年、ドイツのハンス・ハウチュが、ぜんまいで自
   走する1人乗りの車を作り、時速1.5キロメートルで
   走った。
  1680年、イギリスのニュートンが、ボイラーで作った
   高圧蒸気を、後方の細い管から噴射し、この推力で
   走る車の模型実験に成功した。
   また、この年、オランダのホイヘンスが、火薬を用
   いた内燃機関を提唱した。
  18世紀、蒸気機関を動力源とした自動車が試みられた。
   これが、最初の自動車の製作と言われている。
  1796年、フランスのN.J.キュニョー(ベルギー人?)
   が砲車牽引用の三輪の「蒸気を動力とする自動車」
   を作り、4人を乗せて時速9.5キロメートルで走った・・
   因みに、キュニョーはルイ15世の砲兵大尉だった。
   そして、この三輪車は長さ7.2メートル、幅2.3メー
   トルという巨大な車だった・・しかし、操縦不能
   城壁に激突してしまった。
   以後、蒸気自動車は、アメリカ・イギリスなどで研
   究がなされて行き、実績を上げる。
  1801年、イギリスのトレビシックが、実用的な蒸気自
   動車を完成させた・・時速14キロメートルで走る・・
   運転手の不注意で爆発した。
  1803年、トレビシックが、改良型の蒸気自動車を作る・・
   直径3.2メートルの駆動輪兼用の後輪を持つ四輪車だ
   った。
   交通遮断したロンドン市中を走り、「馬車より速い」
   と言われ、成功した。
   また、この頃、マカダムが発明したタールを用いた
   簡易舗装の道路網が、イギリス全国に建設された。
  19世紀初、蒸気自動車が実用化され、バスやトラック
   などとして使われた。
  1831年、イギリスで、スチーム・コーチ(蒸気馬車、
   20人乗り六輪車)が定期旅客輸送が行われ始めた。
   4か月で3000人を運んだという記録がある(成功)
   同様に、この年、ハンコックが、ロンドン市中と近
   郊を結ぶ路線の定期運行を始めた。
  1840年代、スチーム・コーチの平均時速が25キロメー
   トルに性能向上している。
   ハンコックのオートマトンは32キロメートルを出し
   た。
  1850年代、スチーム・コーチが急速に姿を消す・・効
   率の良い鉄道が発達したため・・
   また、道路を傷めるという理由で、スチーム・コー
   チの道路通行料が12倍も高く設定された。
   また、ロード・ロコモティブは危険ということで、
   車の前を昼間は赤旗、夜間は赤ランプを持って走れ
   という規制や、町中では時速3.2キロメートル以下で
   走れなどの規制が厳しくなった。
   しかし、イギリスでは、蒸気自動車の改良がなされ
   て、使われ続ける(1930年代まで蒸気自動車は作ら
   れた)・・それに対する・・ガソリン自動車のアメ
   リカでの発達を待たねばならない状況だった・・
  19世紀半ば、電気自動車が発明された・・一時、普及
   した・・しかし、ネックは蓄電池の容量の問題だっ
   た。
   しかし、アメリカでは1920年代まで生産された。
  1858年、イタリアのバルサンティとマッテウッチが、
   石炭ガスを燃料とする内燃機関を製作した。
  1860年、フランスのルノアールが、点火装置を持った
   ガスエンジンを作った。
  1862年、フランスのボー・ド・ロシャが、4サイクル・
   エンジンの原理を発見した。
  1863年、フランスのルノアールが、ガソリンで回るエ
   ンジンを木製の四輪車に積み、走った。
  1864年オーストリアマルクスが、ガソリンエンジ
   ンの開発を進め、この年、それによって走る車を試
   作した・・1875年にも試作し、これは、時速8キロメ
   ートルで走ることが、後日、確認された。
  1865年、イタリアのベルナルディが、ガソリンエンジ
   ンを作った。
  1876年、ドイツのN.A.オットーが、実用的な4サイ
   クル・ガスエンジンを製品化し、それをダイムラー
   が改良して高速のガソリンエンジンを作った・・
   1885年には、このエンジンを付けた二輪ガソリン自
   動車を製作した・・
   また、この年、C.F.ベンツも2サイクルエンジン
   付きの三輪自動車を作った・・これらが、現代の自
   動車の原型となった。
   これらの技術が、、広大な土地のアメリカで発展し
   て行く。
  1884年、フランスのドラマール・ドブットビルが、ガ
   ソリン自動車の試作に成功した(この100年後、フラ
   ンスは盛大にこの発明を祝う)
  1886年ダイムラーが、四輪馬車にハンドルを付け、
   また、460㏄のエンジンを付けて四輪自動車を作る。
   また、この年、ベンツが、独力でガソリンエンジン
   を製作し、実用的な三輪自動車を完成させ、後に、
   製造販売を企業化させた。
  1893年アメリカでデュリエ兄弟が、四輪馬車を改造
   したアメリカ初のガソリン自動車を試作し・・後に、
   商業生産に入った・・多くのメーカーがこれに続い
   た。
  1894年、初のモータースポーツ・イベントが、フラン
   スの新聞社の主催で開かれた・・
   パリ~ルーアン間126キロメートで行われた・・1着
   は蒸気自動車で、6時間、平均時速21キロメートル
   (運転手と汽缶士による走行だった)・・
   因みに2位と3位はガソリン車だった・・ガソリン車
   の優位性が脚光を浴びた。
  1896年6月4日、ヘンリー・フォードが、初の四輪自動
   車の試作に成功し、この日に試運転をした。
  1899年、日本初の自動車であるアメリカ製の電気自動
   車が入った。
  1900年、フォードの大量生産方式によって大衆化した
   自動車・・日本への輸入はこの年・・
  1904年、日本で初の自動車製作が行われた(蒸気自動
   車)
  1907年、日本で初のガソリン自動車が製作された(東
   京自動車製作所)・・産業化には至らず。
  1908年、H.フォードが、T型車で単一車種の大量生産
   を始めた・・自動車普及の上で画期的なことだった。
   この年の10月1日に発表された「T型フォード」は、
   ハンドルが左にあり、エンジンとトランスミッショ
   ンの全体がボンネットで覆われ・・エンジンは4気筒、
   サスペンションは2つの半楕円形バネを使い・・運転
   が単純で、修理も容易、そして、安価だった。
  1910年頃、アメリカで、急速に自動車が普及し、個人
   単位の人と物流の速度が飛躍的に高まり、移動距離
   が大幅に伸びた。
.
1896年6月6日、フランス留学から帰国した黒田清輝(せい
 き)らが、洋画・彫刻の美術団体の白馬会を結成した。
  白馬会は、この年、明治美術会を脱会した黒田清輝
 久米桂一郎、山本芳翠らによって設立され、和田英作
 藤島武二、岡田三郎助、小代(しようだい)為重、小林
 万吾、長原孝太郎、彫刻の菊地鋳太郎、佐野昭(あきら)、
 版画の合田清らも参加した・・また、評論家の吉岡芳陵、
 岩村透(とおる)らも参加した。
  会名は、会の同志たちがしばしば白馬(しろうま)(ど
 ぶろく)を飲みつつ談論したことに由来した。
  明治美術会の脱会は、芸術家の自由を標榜し、感覚の
 解放を求めた(フランスの明るい画風の)外光派の人た
 ちにとって、明治美術会の古い体質は耐えがたかった。
  旧派ないし脂派 (やには) と呼ばれた明治美術会の暗
 い作風を不満とし、官僚的組織に対して自由主義を主張
 した。
  外光派的な明るい画風で新派また紫派と呼ばれ、しだ
 いに明治洋風美術の主流となった。
  フランス印象派の手法を伝え、研究所を設けて、和田
 英作・藤島武二などの後進の養成もした。
  1896年10月、岡倉天心の率いる日本絵画協会と合同で
 第1回展を開催し・・1910年の解散まで13回を数えた。
  1910年まで展覧会を続け、洋画の発展に多くの功績を
 残したが、1911年に解散し、中堅作家が光風会を組織し
 た。
.
1896年6月9日、日本とロシア間で、山縣=ロバノフ協定を
 締結した。
  山県有朋、ロシア外相ロバノフと朝鮮に関する議定書
 に調印する。
  李氏朝鮮の宮廷内の親日派と親露派の権力闘争による
 不安定な政治情勢は、日本とロシアの双方に対しても危
 険な状況にさらしていた。
  協定は、サンクトペテルブルク(モスクワ?)におい
 て、山縣有朋全権大使と、ロシア帝国外務大臣A.B.
 ロバノフの間で交わされた。
  公開4条項と秘密2条項からなり、両国政府は必要な場
 合、合意をもって朝鮮に経済援助を与えること、朝鮮の
 独立を保証すること、朝鮮の財政改革を促進すること、
 近代的警察及び軍隊を組織すること、電信線を維持する
 こと、両国が合意をもって軍隊を派遣するときは用兵地
 域を確定すること、両国の駐屯兵因数などが協定された。
  背景は、ロシアの干渉などで、李氏朝鮮の不安定な政
 治情勢が、日露間に種々の軋轢となって存在していた。
  そこで、日露間で協定を結び、互いに朝鮮の独立を確
 認し合い・・
  そして、朝鮮の立場を保証することを約した。
   また、朝鮮財政の悪い状態の改革を促進することを約
  し・・その他・警察・軍事・電信線維持などを約した。
  ロシアのロバノフは、この協定とほぼ同時に、中国・
 清の李鴻章、朝鮮の朴泳煥と、それぞれ密約を結んでい
 た→露清同盟密約。
.
1896年6月12日 ロシア、月尾島西南地段(44,316m2 年銀貨
 361元)租借契約を取得。
  朝鮮の高宗がロシア公使館に軟禁され、ここで政務を
 取り行なった結果、ロシアは種々の利権を獲得した。
  また、欧米列強も同じような朝鮮利権を獲得するに至
 った。
  この様な状況は正規な状況ではなく、自主性は放棄さ
 せられていた。
  この様な状況は、この後の、日露戦争の結果、朝鮮は
 中立が宣言で来る。
  また、1895年11月28日には、ロシア、アメリカ、親露
 派の朝鮮の大臣・李範晋が、総理大臣の金弘集の暗殺を
 を企てた(春生門事件)
  この様に揺れ動く朝鮮内の事で日露は議定書の締結を、
 二度、続けた。
  しかし、この日、ロシアは、月尾島と361元の銀貨の租
 借契約を取得した。
  (参考)月尾島:ウォルミド、仁川広域市中区に属し
     ている島・・しかし、現在は、島と陸地の間が
     埋め立てられている。
      島の形状が半月の尾ひれの様な形から名付け
     られた。
.
1896年6月15日、明治三陸地震で大津波が起き、死者2万名
 を越えた・・
  午後7時32分30秒、震源は釜石町の東方200キロメート
 ルの三陸沖。
  三陸地方に大津波が押し寄せ、死者27,000人、家屋の
 流失・破壊1万戸に達した。
  村落の移転などの対策は進まなかった。
  地震規模はマグニチュード8.2~8.5で巨大地震・・
  観測史上最高の遡上高で、海抜38.2mを記録する津波
 発生・・
  (参考)津波の遡上高:陸を駆け上って到達した高さ。
  各地の震度は2~3程度であり、緩やかな長く続く震動
 であった・・
  誰も気にかけない程度の地震であった・・
  最大は秋田県仙北郡の震度4・・
  地震動による直接的な被害はほとんどなかったが、大
 津波が発生し、甚大な被害が発生した・・
  海溝型地震と推定され・・三陸地震の一つと考えら
 れている・・
  固有地震であるが、震源域は特定されていない・・
  (別史料)
  三陸地方に弱い地震・・およそ40分後に大津波が襲来・・
  9879軒が流出、倒壊1844軒、船6930艘に被害、死者
 26,360人、負傷者4,398人・・
  村落集団移転を行った集落は、1933年の津波で被害は
 軽微だったが、移転しなかった集落は、再度、甚大な被
 害を受けた。
  (注意)この地震は、震度分布に基づいて長らくマグ
     ニチュード7.6とされてきた・・
      しかし、津波の大きさを考慮して数値が改め
     られている「理科年表 平成18年」
  大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7
 分に記録され・・
  遡上高は、気仙郡吉浜村(旧:気仙郡三陸町吉浜、現:
 大船渡市三陸町吉浜)で22.4m・・
  同郡綾里村(旧:気仙郡三陸町綾里、現・大船渡市三
 陸町綾里)で21.9m・・
  綾里湾の奥では、入り組んだ谷状の部分を遡上して、
 日本の本州で観測された津波では、当時、最も高い遡上
 高である海抜38.2mを記録した。
  この時、ハワイへも2.4m~9.14m、カリフォルニアに
 2.90mの津波が到達している。
  ハワイでは、波止場が破壊され、住宅の複数棟が流失
 した(カリフォルニアの被害記録はなし)
.
1896年6月16日、軌制取調委員が、軌間、および、軌条重量
 の調査を終了した。
  1896年に、逓信省に軌制取調委員会が発足し、改軌に
 要する費用と、その利点・欠点などの調査を行った。
  この時まで・・1892年に、鉄道建設ブームが巻き起こ
 り、私設鉄道の規模が官営鉄道をまたたく間に上回る・・
 第2次鉄道建設ブーム・・
  日本各地には規模の小さな鉄道会社が設立された・・
  不安定な経営・・
  鉄道国営化による鉄道整備・輸送力増強促進、運賃の
 低廉化が求められる・・
  この様な中で起きた「改軌論争」・・1910年まで繰り
 広げられた大論争だった・・
  日本は、鉄道導入にあたって「狭軌」を選択した・・
  これは、イギリス(御雇い外国人?)が推薦したとい
 う説と、山岳河川の多い日本で、狭軌の方が有利という
 説・・鉄道整備を早く進められるから判断した説・・
  この「狭軌」を「標準軌」に改良し、輸送力を増強し
 ようとする動きが起きた・・この「改軌論」が日本の鉄
 道界で一大論争となった・・
  結論として・・
  1910年の鉄道会議で東海道本線山陽本線などの主要
 14路線を1911年度からの13ヵ年で標準軌(当時はこれを
 「広軌」と呼んだ)に改築する案が可決された。
  これにより、東京の市街線や東海道山陽本線で新た
 に建造される建造物は、標準軌規格で設計する通達も出
 された。
  この頃建設されていた磐越西線では、実際に平瀬トン
 ネルが一部標準軌の規格で建設されている。
  これに対し、原敬率いる立憲政友会が横槍を入れた。
  政友会の基本方針は、低規格でもいいから全国に路線
 を張り巡らせようとする「建主改従」となっており、後
 藤の提案した「改主建従」と真っ向から対立していた。
  帝国議会で両者がぶつかり合った結果、「改軌」に対
 する予算は出さないことになった。
  1911年4月、より低予算での改軌と、改軌線区の拡大を
 目指すため「広軌鉄道改築準備委員会」が政府内に発足
 し、審議が行われた・・しかし・・
  1911年8月、原敬が、内閣鉄道院総裁(内務大臣兼務)
 に就任したため、広軌計画は中止となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国、ウイグル抑圧拡大・・
    中国の弾圧強化を憂慮する。
    香港デモ、イギリスが中国批判
    ロシア(旧ソ連)よ!
    千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
.
紀元前10~紀元前8世紀、ギリシャ都市国家(ポリス)が
 形成され始めた。
  ギリシャのこの小規模都市国家のポリスは、大小200ほ
 どが存在した・・
  強大な帝国という形ではなかった。
  このポリスの中心部には、アクロポリスという外敵を
 見張ることのできる丘があった。
  その周辺部に人々は集住した。
  ギリシャのこのポリス時代の前は「王国」だった。
  「シキュオン」や「アルゴス」などの王国があった。
  そこでは、スパルタを除いて、王は居らず、貴族政が
 行われた。
  (参考)ポリス:古代ギリシア都市国家・・
      村落集住 (シュノイキスモス) によって、君
     主政に対立する国家形態として生じ・・
      その起源は紀元前10~紀元前8世紀にまでさか
     のぼる。
      自然風土や社会的・宗教的要因によって数多
     くのポリスが分立した。
      その規模は、ほとんどはごく小さく、植民市
      (アポイキア ) として成立したものも多い。
      ポリスは、中心市と農耕周域部から成り、大
     多数は城壁を備え、市内には原ポリスである城
     塞(アクロ・ポリス) 、市場 (アゴラ) が存在し、
     周域部には、市民の所有地、共有地があったが、
     その領域は通常狭い範囲に限られていた。
      ポリスは、自由と自治を理想とし、市民は氏
     族および宗教共同体の一員であるばかりでなく、
     国家共同体の一員としてもっぱら政務、軍務に
     たずさわった。
      完成されたポリスにおいては、そうした市民
     団の枠は在留外人 (メトイコス ) や奴隷などと
     身分的に厳格に区別された。
      このような体制を基盤として市民全体の政治
     参与を実現した民会 (エクレシア ) の存在は古
     典古代の特色的なこと。
      ポリスにはさまざまの型があった。
      最も典型的なのはアテネで、その民主政組織
     はほかのポリスに大きな影響を与えた。
      ポリスは、相互の絶えざる分立抗争と内部の
     党派争いなどによって紀元前4世紀には凋落しは
     じめた。
      続くヘレニズム時代の知的文化的基盤はポリ
     スの伝統に根ざしている。
      また、ポリスにおいては文明の発達とともに、
     さまざまな政治現象が生じ、多くの思想家たち
     は、これに刺激されて政治理論を生み出し、ポ
     リスは政治学の母胎だった。
  (参考)シキュオン:ペロポネソス半島の北部、コリ
     ントの北西に位置する古代ギリシアの都市。
      アルゴスの植民市 (アポイキア) として政治
     的、宗教的に従属していたが、紀元前660年頃、
     オルタゴラスによって僭主政が樹立され、その
     孫のクレイステネスのときに国力は最大となり、
     彼は、第1次神聖戦争でロクリスを破壊した。
      僭主政は、約100年続いたがスパルタによって
     倒され、以後スパルタの同盟市となり、紀元前
     3世紀にはアカイア同盟に参加。
      その後、衰退し、紀元前2世紀には廃虚となっ
     た。
      シキュオンは、アルカイック時代から美術の
     中心地として知られ、紀元前4世紀には、彫刻家
     リュシッポスを生んだ。
  (参考)アルゴスギリシアペロポネソス半島北東
     部のアルゴリス地方の中心都市。
      中期青銅器時代から人が住み、ミケーネ期に
     隆盛をみた。
      紀元前1100~紀元前1000年、ドーリス人が、
     ここを基地に半島へ侵入したと推定されている。
      紀元前8世紀頃からスパルタと抗争・・
      紀元前669年、これを破って半島の度量衡を統
     一したが、スパルタの力が伸びるにつれて、ア
     テネ、コリント、テーベと次々に結んで対抗し
     た。
      テーベが衰えると、マケドニアのフィリッポ
     ス2世の支援を求め、紀元前229年には、アカイ
     ア連盟に加盟した。
      紀元前146年のローマのコリント破壊で相対的
     に重要性を増し、アカイア連盟の中核となった。
      3世紀後半頃、一時ゴート人に占拠されたが、
     ビザンチン時代には繁栄。
      1204年、フランク人のアカイア王国建設でア
     ルゴスは衰退した。
      14~15世紀にトルコ人に侵入され、住民はア
     ルバニア人と入れ替わった。
      19世紀のギリシア独立戦争で最初の自由議会
     がアルゴスに招集された。
  (参考)貴族政:代表的なポリスであるアテネでは、
     ドーリア人の攻撃をはねのけながらポリスを形
     成させる過程で、紀元前8世紀ごろまでに貴族が
     政権を独占するようになった。
      紀元前683年には、貴族の中から選ばれた9人
     のアルコン(執政官)(任期1年)が政務を担
     当する・・貴族共和政の形態となった。
      アルコンの任期を終えた貴族が終身議員とな
     るアレオパゴス会議(元老院)が国政や裁判に
     あたった。
  貴族政は、アテネの場合、僭主政を経て、紀元前5世紀
 初め、民主政に移行し・・
  その民主政が堕落して、アテネソクラテスが処刑さ
 れるような衆愚政の時代となる。
  その後、ギリシャは、マケドニア王のアレクサンドロ
 スの支配下に入る。
  (参考)僭主:せんしゅ、古代ギリシアのポリスで、
     非合法に独裁政を樹立した支配者。
      本来、この語には「暴君」の意は含まれず、
     悪い意味が付加されるようになったのは民主政
     期、特に、紀元前4世紀のプラトン以降・・
      王政と違い、その支配が正統ではないため、
     僭主の地位維持には困難もあり、多くは1代か2
     代で終っている。
      紀元前7世紀~紀元前6世紀の前期僭主と、紀
     元前4世紀~紀元3世紀の後期僭主とに分けられ、
      前者には、コリントのキュプセロス、ペリア
     ンドロス、アテネペイシストラトス、シキュ
     オンのクレイステネスらがおり、多くは貴族の
     出身で、貴族政の動揺期に貴族と平民の対立を
     利用して独裁政を打立て、民主政への過渡期の
     ポリスにおいて、巧みな政策によって民衆の指
     導者の役割を果し、ポリスの発展に貢献した場
     合も多かった。
      後期僭主には、テッサリアのフェライのイア
     ソン、シラクサのアガトクレス、ヒエロン2世ら
     がおり、前期僭主以上に軍事力を背景に独裁権
     を握り、民主政の形式は守ったが、それも市民
     共同体のためであるよりも、自己の支配権保持
     のためであった。
  (参考)僭主政:せんしゅせい、古代ギリシアのポリ
     スにおける僭主支配の政治体制。
      僭主政は、紀元前7世紀半ば頃~紀元前1世紀
     にまでわたるが、僭主の現れなかった紀元前460
     年~紀元前406年を境にして、前期僭主政と後期
     僭主政とに分ける。
      前者は、貴族政の動揺期、まだ独力で貴族を
     倒すだけの力が平民にない段階において、野心
     家の貴族が、重要な官職や祖国防衛戦での功績
     などを利用して平民の人気を集め、彼らの協力
     と、外国の権力者の援助などを得てクーデター
     を起こし、貴族政を打倒して樹立した独裁政で、
     コリントのキプセロスとその子のペリアンドロ
     ス、シキオンのクレイステネスアテネのペイ
     シストラトス、サモスのポリクラテスなどが代
     表的な僭主であった。
      僭主は、市民から武器を取り上げ、自身は親
     衛隊や傭兵部隊を擁し、貴族に対しては処刑、
     追放、財産没収などで弾圧した。
      市民一般に対しても、陰謀を企てる機会を与
     えないために、中心市に出て怠惰に時を過ごす
     ことを禁じたり、財源確保のために租税を取り
     立てたりしたが、平民の支持を保つために小農
     民の保護や商工業の奨励に努め、また主要な官
     職は一族で抑えつつも、従来の官職組織や制度
     習慣はできるだけ維持した。
      さらに、詩人や芸術家を保護して独裁政の飾
     りとし、建築事業や土木工事を起こして、中心
     市を美化し、市民の生活に便宜を供し、有力な
     外国勢力や宗教の中心と友好関係を結んで支持
     者を拡大した。
      最悪の政治体制という古代の多くの政治思想
     家の批判にもかかわらず、かならずしも過酷な
     支配ではなかったが、暴君政に堕したものもあ
     り、また、平民の成長につれて独裁政への反発
     が強まったため、多くは2代で打倒され、もっと
     も長く続いた場合も100年であった。
      その崩壊には、平民より貴族のほうが貢献し、
     外国の武力干渉によった場合もあったので、崩
     壊後ただちに民主政になることは少なかったが、
     前期僭主政は、独裁政の維持を追求しながら平
     民の成長を助け、結局、民主政の成立を促進し
     た。
      後期僭主政は、前期僭主政との共通点も少な
     くなかったが、ポリスと民主政の衰退期に現れ
     たという事情から、平民よりも傭兵に頼る軍事
     独裁者の性格が強く、平民の利益を図る姿勢も
     弱かった。
      シラクサのディオニシオス1世、2世やアガト
     クレス、テッサリアのフェライのイアソンなど
     が主要な僭主であった。
     ・
     ・
1391年、スペインで、ユダヤ人の方々に対する大虐殺が起
 きた。
  スペイン南部、アンダルシア州のセビリヤでユダヤ
 の方々へ対する大虐殺(ポグロム)が起きる。
  これは、その後、各都市に飛び火して行って、悲惨な
 連鎖反応でユダヤの方々は虐殺され、また、キリスト教
 への改宗を強いられた。
  キリスト教による異端審問は、この当時、ヨーロッパ
 の国々で行われ、ローマ教皇庁によって任命された異端
 審問官が巡回して異端審問が行われて、大規模にこの様
 な惨事が起きていた。
  レコンキスタが1492年に完了すると、スペインに統一
 王権が確立した・・そして、同時に権力も手に入れた。
  そこで、この様な惨事が、ローマ教皇庁と一緒になっ
 て発生して行く。
  ユダヤの方々は、人権を奪われ、金融業をやらざるを
 得なかったが(職業の選択の自由を奪われていた)、こ
 のユダヤの方々への多額の債務(借金)を無くそうとい
 う悪計・魂胆もあった。
  また、スペインの王権所持者は、ローマ教皇との親交
 を深める事も考えていた。
  キリスト教の異端審問は、すべてローマ教皇(法王)
 の管轄下で行われていた。
  ローマ教皇側もこの異端審問の権力をスペイン王へは
 渡そうとしなかった。
  (スペイン王は渡してくれと言ったが拒否された・・
 卑劣な権力の取り合いが演じられた)
  異端審問はセビリアから始められていた。
  (参考)ローマ教皇のインノケント三世は、第4回ラ
     テラノ公会議を招集し(1215年)、ユダヤ人を
     キリスト教社会から区別することを決めた。
      そして、排除するため、ユダヤ人であること
     を示す黄色の標識を付けさせると決めた。
      ペストで多くの人々が死ぬと、病原菌で病気
     が起きるという知識のないキリスト教徒たちは、
     ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れたと、ユダヤ
     の方々を弾圧した。
      キリスト教聖職者も、教会の説教壇の上から
     「ユダヤ人はすべてのスペインを奴隷化する」
     と洗脳し、煽った。
      煽られた暴徒はユダヤ人の方々を襲った。
.
1492年、総べてのユダヤ人の「スペインからの追放」・・
  この頃、どこのヨーロッパでも、ユダヤ人を虐(しい
 た)げていた。
  ユダヤ人たちは、特別な服を着せられ、また、特定の
 道や地区(ゲットー)に住まわされた。
  14世紀から、ユダヤ人の方たちは、ローマ・カトリッ
 ク教会から憎悪されていて、敵意に晒(さら)された。
  1878年反ユダヤ主義運動。
  1881年~1914年には、ロシアの組織的大虐殺が起きる。
  これを逃れて200万人のユダヤ人が、アメリカへ渡った。
     ・
     ・
1945年8月18日、占守島(しゅむしゅとう)の戦い
  戦争が終わっているこの時、ソ連(現ロシア)が日本
 領・千島列島の最北端の占守島に奇襲攻撃をして来た。
  完全にポツダム宣言受託によって停戦となっている後
 の「不法なソ連(現ロシア)の攻撃だった」。
  日本軍はポツダム宣言受託に伴って、武装解除中であ
 った・・
  その様な時に攻めて来たのだった。
  日本軍の守備隊と戦闘となり、日本軍は優勢に戦い、
 勝っていた。
  しかし、ポツダム宣言受諾の停戦という軍命によって、
 日本軍は、8月21日に、戦闘行為を止め・・
  日本とソ連は合意の上で「8月21日、ソ連艦の艦上で降
 伏文書を調印している・・
  『日本とソ連は公式に停戦している』のだ・・
  1045年8月23日には、また、日本とソ連は、合意の上で
 武器を置き、武装解除がなされた。
  故に、当然に、この後の日本の領土の千島列島と北方
 四島を略奪行為はやってはいけないのに、その許せない
 行為をソ連は行った。
  この様な不法なソ連(現ロシア)の攻撃と領土掠奪で
 あった・・
  そして、さらに、日本兵と一般人は拉致され、ロシア
 (旧ソ連)へ連れて行かれた。
  因みに、占守島には、日魯漁業の缶詰工場があって、
 多数の日本人の工員(女子工員を含む)が居た・・民間
 人総数2000人。
  そして、この拉致行為のシベリア抑留で、日本の民間
 人も含めて多くの方々が亡くなった・・これから、この
 補償も求めなければならない。
  また、この様な不法行為についての謝罪を求めなけれ
 ばならない・・
  そして、今後このような事が起きないよう、教科書に
 記載し、正しい事実を伝えることを要求しなければなら
 ない。
  そして、さらに卑劣な事は、この様な合意の上での日
 本軍の武器が置かれて、武装解除なされた後に、完全な
 る停戦の後に、ソ連(現ロシア)は、日本領の千島列島
 と北方四島を不法に占拠し続けている。
  そして、恥の上塗り的に、それを「戦いで取ったのだ」
 と嘯(うそぶ)いている。
  (参考)嘯く:ほらを吹く、平然として言う、大きな
     ことを言う・・
  占守島は、日本が負けたのではない。
  日本は勝っていたが、終戦となって、君たち(ソ連
 と合意して、日本は武器を置いたのだ。
  日本との合意の武器を置く式も行なったではないか・・
  ソ連(現ロシア)は、勝って終わったのではない・・
  武器を置いた後の日本領・千島列島と北方四島を君た
 ちは盗ったのだ。
  合意して武器を置いた後に盗ったのだ。
  千島列島を、早く日本へ返還しなさい。
  また、日本の固有の領土の北方領土は論外だ。
  この事を、君たちの子供たちへ教科書に書いて教えな
 さい。
  君たちは、日露戦争もそうだが、占守島(しゅむしゅ
 とう)の戦いでも負けたのだ。
  占守島の戦いの史料・・
  日本:堤不夾貴中将 、戦力:8480名、損害:死者256
    名、負傷者762名、
  ソ連:アレクセイ・グネチコ少将、戦力:8824名、死
    者:516名、行方不明(負傷)など1051名
  (参考)1945年8月15日に、トルーマンアメリカ大統
     領は、ソ連スターリン首相へ通知していて、
     その通知の中には、日本の降伏の受け入れ分担
     が通知されていて、千島列島をソ連の分担地域
     とはしていなかった・・そして、ソ連は、停戦
     がなされたことを知っていたのだ・・
      ソ連樺太の南(北緯50度線以南)のみとさ
     れた・・
      ソ連は、分担域について異議を申し立てる。
      停戦状態になったことについて、異議申し立
     てはしていない・・この点からも停戦は成立し
     ている。
.
1945年8月~9月、ソ連が、日本領の千島列島と北方四島
 不法占拠したが・・北海道新聞が以下を報じた。
  ソ連が、日本の領土の北方四島を占領するとき、アメ
 リカが援助していた。
  極秘に艦船貸与したり、訓練もしたりしていた。
  北海道新聞が探り当てた(2017年12月30日付報道)
  「プロジェクト・フラ」作戦、北海道の根室振興局
 調査
  【根室】1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方
 四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、
 根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果など
 を突き合わせ、明らかにした。
  米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけ
 でなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事
 援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。
  振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列
 島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった
 1945年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった米ソ
 は「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦を
 スタートさせた。
  米国は1945年5~9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、
 護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4~8月
 にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイの基
 地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。
  コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、
 ソ連兵の指導に当たったという。
  訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は樺太南部や千島列島
 の作戦に投入された。
  8月28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦
 には、米の貸与艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各
 島で日本兵武装解除を行い、四島の占領は9月5日まで
 に完了した。
  こうした歴史的史実が判明したのは、根室振興局が2015
 年度から取り組む北方領土遺産発掘・継承事業がきっかけ。
  各国の資料を集める中で、ソ連樺太南部と千島列島
 での作戦に投入した全艦船を調べ上げたイーゴリ・サマ
 リン氏(現ロシア・サハリン州戦勝記念館科学部長)の
 論文「1945年8月のサハリンとクリール諸島上陸作戦に参
 加した軍艦と補助船舶の注釈付きリスト」(2011年3月)
 を入手した。
.
2019年6月5日、中国の弾圧強化を憂慮する。
  天安門事件30年・・
  この日の読売新聞の社説が報じた・・以下、その抜粋・・
  人権や言論の自由を巡る状況は、著しく後退した。
  強権的な監視国家へと変貌しつつある中国の現状を深
 く憂慮する。
  中国の共産党政権が、民主化を求めた学生らを鎮圧し、
 多数の死傷者を出した天安門事件から、4日で30年となっ
 た。
  共産党民主化運動を「反革命暴乱」と断じ、武力に
 よる弾圧を正当化した。
  党はその後、一党支配体制の強化による安定と経済成
 長を最優先し、民主化に背を向けてきた。
  事件に関する情報は隠滅され、事件自体を知らない若
 者も少なくない。
  真相が解明されぬまま、風化が進んでいるのは遺憾で
 ある。
  看過できないのは、習近平政権が反体制派や少数民族
 への締め付けを加速していることだ。
  人権派弁護士や活動家が大量に拘束され、不当な長期
 拘留が続く。
  事件の再評価を昨年求めた大学教授は停職処分となっ
 た。
  中国西武・新疆ウイグル自治区では、イスラム教を信
 仰する少数民族ウイグル族らが「治安維持」などの名
 目で、収容施設に拘束されている。
  米国務省は、3月の報告書で、200万人以上が収容され
 ている可能性を指摘した。
  中国では、ネット空間が政府の情報管理に利用され、
 強権統治を支えている。
  党や政府に批判的な言動が、人工知能(AI)や監視
 カメラで即時に把握され、封じ込められる。
  「国家の安全」を理由に正当化できる措置ではない。
  習氏は「一つのモデルですべての国の問題を解決する
 ことはできない」と述べ、米欧が求める民主化を受け入
 れない意思を示す。
  中国が豊かになれば政治改革に踏み出す、という日本
 や欧米の見通しは甘かったと言わざるを得ない。
  ポンペオ米国務長官は「中国が国際システムに融合さ
 れ、開かれた寛容な社会に変わるという期待は打ち砕か
 れた」と述べた。
  人権や自由などの基本的価値観すら共有できない中国
 が、「平和発展」を唱えても国際的な信頼は得られまい。
  通商や安全保障、ハイテク技術をめぐる米中対立の根
 源には、異質な大国への不信があることを習政権は認識
 すべきだ。
  共産党は、国民の生活水準を向上させ、一党支配への
 不満を抑え込んできた。
  だが、これまでのような高度成長は望めない。
  貧富の格差が広がり、環境汚染などの社会問題も深刻
 化している。
  習政権は、強権的な手法をどこまで拡大し続けるのか。
  国際社会は問題点を粘り強く指摘し、改革を促さねば
 ならない。
.
2019年6月18日、国連のテロ担当がウイグルを視察・・
  「迫害の正当化」の懸念が・・
  この日の読売新聞が伝えた・・以下、抜粋・・
  [北京=中川孝之]国連のテロ対策担当のトップが、中
 国当局によるイスラム教徒への迫害が指摘される新疆ウ
 イグル自治区を視察したことが波紋を呼んでいる。
  中国はテロ対策と称し、少数民族ウイグル族などを
 収容施設に隔離しており、米政府は、この措置を追認す
 る事につながりかねないと懸念している。
  視察したのは、ロシアの外交官出身のポロンコフ国連
 事務次長で、2017年に創設された国連テロ対策局の初代
 局長に任命された人物だ。
  中国外務省によると、中国側の招待で13日~15日に北
 京と新疆ウイグル自治区を訪問した。
  楽王成(ルォーユーチョン)外務次官はポロンコフ氏
 との会談で、「国境をまたいだテロ作戦の脅威」につい
 て意見交換し、「広範な共通認識」に達したという。
  米国務省のサリバン副長官は14日、国連のグテレス事
 務総長との電話会談で「中国は、ウイグル族などへの抑
 圧をテロ対策として正当化し続けている」と指摘し、ポ
 ロンコフ氏の訪中に強い懸念を伝えた。
.
2019年6月29日、中国人権問題、解決訴え・・ウイグル人
  この日の読売新聞が伝えた・・以下、抜粋・・
  中国政府の抑圧的な政策に抗議する少数民族の団体な
 どでつくる組織が28日、主要20カ国・地域(G20)首脳
 会議に合わせ、大阪市内で記者会見し、人権問題の解決
 を訴えた。
  中国・新疆ウイグル自治区出身の亡命ウイグル自治区
 出身の亡命ウイグル人らで作る「自由インド太平洋連盟
 (事務局・日本)のラビア・カーディル会長(72)は「
 ウイグルの様に弾圧、虐殺があった場所は他にどこにも
 ない。
  300万人が強制収容所に入っていると言われている」と
 指摘した。
  その上で、G20首脳会議で議題となることに期待感を
 示した。
  記者会見には、中国からの香港独立を主張する活動家
 の陳浩天氏(28)も出席し、中国本土への犯罪容疑者の
 移送を可能にする逃亡犯条例の改正案について、「香港
 の名声と利益を損ない、中国にしかメリットをもたらさ
 ない」と批判した。
.
2019年7月5日、香港デモ、イギリスが中国批判
  良好関係が一転、非難合戦に
  標記の表題で、この日の読売新聞は伝える・・抜粋
  香港から中国への犯罪容疑者引き渡しが可能にする逃
 亡犯条例改正案の撤回を求める香港の抗議運動を巡り、
 香港の旧宗主国である英国が繰り返し懸念を表明し、中
 国側との非難合戦に発展している。
  経済的な結びつきを優先し良好な英中の関係に、影を
 落としかねない状況。
  英国のハント外相は2日、英BBCで、1984年調印の英
 中共同宣言について触れ、「香港の人々に対する基本的
 な自由を規定した者だ。
  我々は香港の人々を支持している。
  国際的な法的合意が守られなければ深刻な結末を招く」
 と中国側をけん制した。
  また、保守党の党首を争うジョンソン前外相も「香港
 住民を完全に支持する」と中国との対決姿勢を示してい
 る。
  メイ首相も3日、「香港の高度な自治と自由は尊重され
 るべきだ」と述べた。(中略)
  こうした英国要人の発言に対し、中国外務省の副報道
 局長は3日の定例記者会見で、「今だに往年の植民地主義
 者の幻影にひたり、他国の問題に上からの目線で口出し
 する悪習に執着して入るようだ」と猛反発した。
  ロンドンでも、中国・駐英国大使が3日に記者会見し
 「英国政府は暴力的な法律違反者の味方をしている。
  半年が自由について語るのは大間違いだ。
  植民地下の香港には自由も民主主義も全く無かった」
 と批判した。
  英外務省は3日、駐英国の中国大使を呼び出し、「不正
 確で容認できない」と抗議した。
.
2019年7月5日、中国、ウイグル抑圧拡大
  この日の日付で読売新聞が報じた・・抜粋・・
  中国新疆ウイグル自治区で、少数民族ウイグル族と漢
 族が衝突した大規模抗議行動から5日で10年となる。
  中国当局は大規模抗議行動後、ウイグル族の管理を強
 化し、テロ対策を名目に施設に収容するなど強権的な姿
 勢を強めている。
  その対象は、同じくイスラム教を信じる近隣諸国から
 の来訪者にまで広がっている。
  (写真説明)バザールを警戒ずる武装した警官。
      バザール内には至り所に中華風の飾りつけが
      施されていた。
  ウルムチ市内のバザールには4日、銃を持って巡回する
 武装警察の姿があった。
  モスクの入り口には顔認証用ゲートが新設され、入場
 者を制限している様子がうかがえた。
  ウイグル族女性は「ちょっとしたことでも(当局に)
 疑われるような気がして怖い」と小声で不満を漏らした。
.
2019年、今、中国でウイグルの人たちが中国政府によって
 拘束されている。
  その数は、300万人という膨大な人数・・
  そして、中国政府は、「テロ対策だ」と言っている。
  日本人も、昔、戦争後、中国共産党政権によって拘束
 された。
  その全員が、日本へ帰って来たわけではない。
  帰れない人たちが大勢いた。
  多くの人たちが、そのままの状態になった。
  多くの日本人の人々が亡くなった。
  帰って来た人たちが語ったことは、まったく怖ろしい
 「中国共産党政権による洗脳教育だった」。
  帰りたいから、必死に中国共産党政権の言いなりにな
 った。
  身体に自ら染み込ませた。
  生きるか死ぬかの環境の中で、自由になりたいと願い、
 自らの体に言い聞かせ、発狂する者も居た。
  食糧も豊かではない中、中国共産党政権も、中国工作
 員にまで洗脳できそうではない者から排除し、処理する
 ことも行なわれた。
  性格まですっかり変わり、中国の思い通りになった者
 から解放された。
  ・・というより、中国の宣伝分子となって日本へ返さ
 れた(というより、日本へ、中国工作員と変わった者た
 ちから送り込まれた)。
  今、中国共産党政権によって拘束されている300万人の
 ウイグルの方々にも、昔、日本が経験したことと同じこ
 とが、行なわれている。
  結局、中国共産党政権にとって都合のよい者が、中国
 共産党政権の良否判断によって、人が人によって査定さ
 れて、処理されている。
  廃棄処分もそこにはある。
  そこには、ウイグルの方々の人権は「まったく二の次」
 とされている・・無視されている。
  世界は、それを、傍観している・・のか・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
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  (追伸)
  ロシア(旧ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦
 であったので、ソ連(現ロシア)と合意の上で日本は武
 器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日露の合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島ソ連(現ロシア)は不法に占
 拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。